『エドワード・ヤンの恋愛時代』4Kレストア版を観る。原題は『獨立時代』、英題は 《A Confucian Confusion》で、英題の「儒教の混乱」(より正確には「儒教者の混乱」だそうだ)という旨の表現は、つまるところ本作でシークエンスごとに表示される説明的な文言を指し、さらには作中の登場人物の制作物(小説)の内容の一部でもあるようだ。よくわかっていないが、おそらくそうだろう。韻を踏んでいるけれど。

登場人物の関係がよくわからないままに進むのだなぁという点、ひさびさに日本語や英語その他の言語の映画を観たら、割と字幕を追うのに大変だったなぁという点、いろいろと学びがある、大したこっちゃないけど。

パンフレットも購入したし(まだ読みこなせていない)、皆さんのあれやこれも狩猟したけれど(大して手間を割いていない)、どうもピンとした情報がないなと思っていたら、過去の監督インタビューがあったので、これは参考にはなりました。ありがとうございます。

そうですね。あの映画のなかで描かれている中国人社会というのはすこぶる順応主義的なものです。つまり皆が皆互いに似ようとし、コピーし合おうとし、同じ顔をもとうとしています。範に習うこと、それが順応主義であり、この映画の英語タイトルにある儒教というものです。

監督はこう述べている。監督本人にしか言えない厳しさがあるように感じるが、彼らは儒教的であるとハッキリ言っている。それでは原題の「獨立」が何を指しているのかというと、来るべき台湾社会を意図してのことと思うが、それが何なのかはぶっちゃけよくわからないし、つきつめると邦題「恋愛時代」もあながち的外れではない気がする。

というのも、まぁ社会が変われば婚姻の仕組みも社会を変えていく若者の家族間も変わるというもので、本作は94年代の映画なので、現代社会のある種の悲惨はとりあえず無視するしかないが、財閥の出自の制約、その柵を蹴破った結果、あるいは芸術家の恋愛のようなもの、小市民的な恋愛を通して、現代(94年)の台湾を映したとはできよう。

男性陣の在り方はわりと作品のためにある

本作、いわゆる男性陣は道化的というか、ろくな人物像で描かれた人間がほとんどいないが、かろうじてチチの恋人であるミンがまともだなという程度だが、詳らかには書かないが、それでもこの程度なのである。等身大ということだろう。

どうしようもないほど情けない男であることを画面上で隠されないアキンは、序盤こそ制約のなかでモーリーとの関係に前向きなのかと思わさせられたが、中盤からは自由恋愛への憧れや所詮は世間の体裁のためのポーズであったことを晒していく。彼のことは嫌いになれない、というよりは徐々に愛嬌が増していくキャラクターではあった。クズだけど誠実だね。

バーディ、モーリーの義兄は両方ともいわゆる芸術家であって、アキンの芸術への憧憬を含めると、ミンとラリー以外は大半が芸術気取りの男たちで構成されているのも振り返ってみれば本作のバカバカしさ(良い意味で)に拍車をかけているなぁと。

ミンの職場での扱われ方についても判じかねるところはあるのだが、アレは結局は同僚は決定的に上司に嫌われており、ミンは上手く利用されただけであったということなんだろうか。

女性陣は新しい在り方に順応しようとする

強烈な個性で作品のエンジンになっていたモーリーだが、ぶっちゃけ彼女のやりたいことはよくわからない、というか明示されない。ひとつ言えるのは勝手に出ていった姉に対する気持ちと、その結果として放り込まれることになった自分の境遇に対するストレスである。彼女は激情家ではあるけれど馬鹿ではない。でも行動指針がない。言ってみれば彼女にはチチしかいない。

一方のチチだが、彼女は本来的な気質が順応者であって、あるいはそれは他人からは揶揄されることもあるが、多くのひとを救っていることも事実であると思われ、作中で起こるいくつかの事件のなかで彼女も自身の在り方について葛藤することになるが、最後には自分を信じることに還っていく。それこそは順応ではない。

フォンという少女(成人ではあるがおそらく作中の主要人物では最年少)はラリーとのコンビとしてヒールに徹するが、およそ厳しい世を生き抜くためのポテンシャルは作中随一とみられ、いろいろと抜け目がない。実のところ、モーリーの義兄を除けば、主要男性陣はみんな彼女の魅力に一瞬であっても落ちている、落ちかけている。よくできてんなー、脚本。

どのように人に希望を与えるか

ある自由恋愛の失敗の成果として、抽象的な諍いを繰り広げることになったモーリーの姉と義兄だが、このシーン、義兄の首からうえが陰に入ってまったく映り込まない状態がかなり続いた。フォンをミンが見送るシーンの序盤でも感じたが、影を使った画作りが圧倒的に巧い。ヤバい。

モーリーの姉と義兄は、義兄のロマンス小説家時代の大恋愛を通して結婚し、そののち彼女は結婚 TV ショーのような番組で成功したようだが、義兄の小説はロマンスを止めて儒教者の糾弾に走り、2人の関係は冷え切ったという理解でよかろう。

要するに、聴衆にどのように希望を与えるかという点で2人に相違が生まれたとのことだが、財閥の娘であり、ロマンスを与える立場を取りつづける姉が、義兄を精神的に圧倒的に追い詰めていくシーンである。

義兄がまるで死人であるかのようなカットともに容赦ない文句で彼を責め立てる権利が彼女にあるのかは知らぬが、まさしく彼を制御しようとし、自分の望む姿に順応させようとしている悪魔のような姿勢が見て取れた。怖いんだよ、マジで。

チチは幸せになるか

本作、コメディ的に楽しめるが、とはいっても気になる部分は残るわけで、たとえばチチとモーリーの関係だが、やはり今までと同じようにはいかないだろう。いわゆる青春とその残滓の終わりを見せられているような部分もあって、切ない。

また上記のリンク先のインタビューではインタビュアーが「ハッピー・エンディング」と言ったし、監督も以下のように返している。

つまり不幸を招いた原因について互いに相手を非難し合うかわりに、まず我が身をふりかえるのです。そして身をもって体験してみるのです。もしそれができれば、われわれはさまざまな困難を解決できるのです。それがわたしなりの人生観です。わたしはあのエンディングをそういう風に考えています。ですからあのハッピー・エンディングは、かならずしも御都合主義的な約束事としてやってきたのではないと思います。いったい人はいつもっとも美しく、もっとも愛らしく、そしてもっとも気持ちのよい人間になるのでしょうか。それは彼が自信を抱いたときです。

いやね、腐すわけではないのだが、人間的な意味でのモーリーのよさもチチのよさも、あるいはバーディやアキンの弱さもわかる。ひとの情愛って本作で描かれたようなものだろうという話に終わるのかもしれないが、であればタイトルの意図にそぐわない面も当然のようにあるだろうし、なにより私にはミンの抱えているものの大きさの評価ができなかった。根本的には父へのコンプレックスであるだろうし、儒教的な視点を含めれば、色々と穿つこともできるだろうけど。

ということで、最後のあの展開は、チチのむやみな器の大きさというか、ミンの一見して無軌道にしかみえない動きの結果としか見えず、あるいは上記の監督の応答が多分にリップサービスを含んでいたとしても、なかなか問題提起的だなと考える。

いや、単に私が理想的に過ぎるのかもしれないが。もう少し言うと、チチは幸せにはならないと思う。独立時代としては。

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