Obsidianに Heatmap Calendar というコミュニティプラグインがある。

Dataview プラグインをベースに機能するが、つまるところ「ハビットトラッカー」と呼ばれるやつだ。最近はフィジカルの手帳のテンプレートにもあるし、スマートフォンアプリでも数えるほどある。カレンダー状のマップを埋めていって習慣を見える化して定着させていこうというツールだわね。

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旧Opera(現Operaも存在はする)のCEO(の1人?)だったかの方が立ち上げたプロジェクトと思うが、すでに 7 年目の突入した Web ブラウザーである「Vivaldi」の利用を本格的に開始した。すでに10回以上はインストールと削除を繰り返してきた。

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『あしたの少女』を観た。韓国映画である。原題、英題はそれぞれ『다음 소희』『Next Sohee』だそうで、「次のソヒ」という意味だそうだ。原題に忠実な英題が、割と新鮮に思える、どうでもいいことだが。逆にこういうとき、邦題は固有名詞を一般化しがちな気もする。

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中身のない Obsidian の記事がやたらと読まれる。ありがてぇありがてぇ。

実際、普及もますます進んでいるようだ。わたしはゴリゴリの IT エンジニアではないし、ゴリゴリの文字書きでもないし、ゴリゴリなカスタマイズもできないので、はっきりいって活用レベルはゴミだと自覚しているが、読んでもらえるからには情報らしきものは残しておきたい。

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2019年にタスク管理ツールのあれこれという記事を書いて、当時は Todoist に戻ると宣言したが、これも次第に止めた。ToDo 管理なんてのは、いったん方針が固まればあとは回すだけじゃんなんてのは正論ではあるが、もしそれがそのまま通用するようであれば誰も苦労しないのである。こんなに多岐に渡るアプリは開発されないのだ。

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『アステロイド・シティ』(Asteroid City)を観た。ウェス・アンダーソン監督といえば架空の日本を舞台にした『犬ヶ島』(2018)がやたらと評判だったので観て、「なるほどなぁ」という感想ではあったが、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun、2021)は周囲の反応も鈍目でスルーしていた。今作はなんとなくタイミングがあったので、観た。

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『エドワード・ヤンの恋愛時代』4Kレストア版を観る。原題は『獨立時代』、英題は 《A Confucian Confusion》で、英題の「儒教の混乱」(より正確には「儒教者の混乱」だそうだ)という旨の表現は、つまるところ本作でシークエンスごとに表示される説明的な文言を指し、さらには作中の登場人物の制作物(小説)の内容の一部でもあるようだ。よくわかっていないが、おそらくそうだろう。韻を踏んでいるけれど。

登場人物の関係がよくわからないままに進むのだなぁという点、ひさびさに日本語や英語その他の言語の映画を観たら、割と字幕を追うのに大変だったなぁという点、いろいろと学びがある、大したこっちゃないけど。

パンフレットも購入したし(まだ読みこなせていない)、皆さんのあれやこれも狩猟したけれど(大して手間を割いていない)、どうもピンとした情報がないなと思っていたら、過去の監督インタビューがあったので、これは参考にはなりました。ありがとうございます。

そうですね。あの映画のなかで描かれている中国人社会というのはすこぶる順応主義的なものです。つまり皆が皆互いに似ようとし、コピーし合おうとし、同じ顔をもとうとしています。範に習うこと、それが順応主義であり、この映画の英語タイトルにある儒教というものです。

監督はこう述べている。監督本人にしか言えない厳しさがあるように感じるが、彼らは儒教的であるとハッキリ言っている。それでは原題の「獨立」が何を指しているのかというと、来るべき台湾社会を意図してのことと思うが、それが何なのかはぶっちゃけよくわからないし、つきつめると邦題「恋愛時代」もあながち的外れではない気がする。

というのも、まぁ社会が変われば婚姻の仕組みも社会を変えていく若者の家族間も変わるというもので、本作は94年代の映画なので、現代社会のある種の悲惨はとりあえず無視するしかないが、財閥の出自の制約、その柵を蹴破った結果、あるいは芸術家の恋愛のようなもの、小市民的な恋愛を通して、現代(94年)の台湾を映したとはできよう。

男性陣の在り方はわりと作品のためにある

本作、いわゆる男性陣は道化的というか、ろくな人物像で描かれた人間がほとんどいないが、かろうじてチチの恋人であるミンがまともだなという程度だが、詳らかには書かないが、それでもこの程度なのである。等身大ということだろう。

どうしようもないほど情けない男であることを画面上で隠されないアキンは、序盤こそ制約のなかでモーリーとの関係に前向きなのかと思わさせられたが、中盤からは自由恋愛への憧れや所詮は世間の体裁のためのポーズであったことを晒していく。彼のことは嫌いになれない、というよりは徐々に愛嬌が増していくキャラクターではあった。クズだけど誠実だね。

バーディ、モーリーの義兄は両方ともいわゆる芸術家であって、アキンの芸術への憧憬を含めると、ミンとラリー以外は大半が芸術気取りの男たちで構成されているのも振り返ってみれば本作のバカバカしさ(良い意味で)に拍車をかけているなぁと。

ミンの職場での扱われ方についても判じかねるところはあるのだが、アレは結局は同僚は決定的に上司に嫌われており、ミンは上手く利用されただけであったということなんだろうか。

女性陣は新しい在り方に順応しようとする

強烈な個性で作品のエンジンになっていたモーリーだが、ぶっちゃけ彼女のやりたいことはよくわからない、というか明示されない。ひとつ言えるのは勝手に出ていった姉に対する気持ちと、その結果として放り込まれることになった自分の境遇に対するストレスである。彼女は激情家ではあるけれど馬鹿ではない。でも行動指針がない。言ってみれば彼女にはチチしかいない。

一方のチチだが、彼女は本来的な気質が順応者であって、あるいはそれは他人からは揶揄されることもあるが、多くのひとを救っていることも事実であると思われ、作中で起こるいくつかの事件のなかで彼女も自身の在り方について葛藤することになるが、最後には自分を信じることに還っていく。それこそは順応ではない。

フォンという少女(成人ではあるがおそらく作中の主要人物では最年少)はラリーとのコンビとしてヒールに徹するが、およそ厳しい世を生き抜くためのポテンシャルは作中随一とみられ、いろいろと抜け目がない。実のところ、モーリーの義兄を除けば、主要男性陣はみんな彼女の魅力に一瞬であっても落ちている、落ちかけている。よくできてんなー、脚本。

どのように人に希望を与えるか

ある自由恋愛の失敗の成果として、抽象的な諍いを繰り広げることになったモーリーの姉と義兄だが、このシーン、義兄の首からうえが陰に入ってまったく映り込まない状態がかなり続いた。フォンをミンが見送るシーンの序盤でも感じたが、影を使った画作りが圧倒的に巧い。ヤバい。

モーリーの姉と義兄は、義兄のロマンス小説家時代の大恋愛を通して結婚し、そののち彼女は結婚 TV ショーのような番組で成功したようだが、義兄の小説はロマンスを止めて儒教者の糾弾に走り、2人の関係は冷え切ったという理解でよかろう。

要するに、聴衆にどのように希望を与えるかという点で2人に相違が生まれたとのことだが、財閥の娘であり、ロマンスを与える立場を取りつづける姉が、義兄を精神的に圧倒的に追い詰めていくシーンである。

義兄がまるで死人であるかのようなカットともに容赦ない文句で彼を責め立てる権利が彼女にあるのかは知らぬが、まさしく彼を制御しようとし、自分の望む姿に順応させようとしている悪魔のような姿勢が見て取れた。怖いんだよ、マジで。

チチは幸せになるか

本作、コメディ的に楽しめるが、とはいっても気になる部分は残るわけで、たとえばチチとモーリーの関係だが、やはり今までと同じようにはいかないだろう。いわゆる青春とその残滓の終わりを見せられているような部分もあって、切ない。

また上記のリンク先のインタビューではインタビュアーが「ハッピー・エンディング」と言ったし、監督も以下のように返している。

つまり不幸を招いた原因について互いに相手を非難し合うかわりに、まず我が身をふりかえるのです。そして身をもって体験してみるのです。もしそれができれば、われわれはさまざまな困難を解決できるのです。それがわたしなりの人生観です。わたしはあのエンディングをそういう風に考えています。ですからあのハッピー・エンディングは、かならずしも御都合主義的な約束事としてやってきたのではないと思います。いったい人はいつもっとも美しく、もっとも愛らしく、そしてもっとも気持ちのよい人間になるのでしょうか。それは彼が自信を抱いたときです。

いやね、腐すわけではないのだが、人間的な意味でのモーリーのよさもチチのよさも、あるいはバーディやアキンの弱さもわかる。ひとの情愛って本作で描かれたようなものだろうという話に終わるのかもしれないが、であればタイトルの意図にそぐわない面も当然のようにあるだろうし、なにより私にはミンの抱えているものの大きさの評価ができなかった。根本的には父へのコンプレックスであるだろうし、儒教的な視点を含めれば、色々と穿つこともできるだろうけど。

ということで、最後のあの展開は、チチのむやみな器の大きさというか、ミンの一見して無軌道にしかみえない動きの結果としか見えず、あるいは上記の監督の応答が多分にリップサービスを含んでいたとしても、なかなか問題提起的だなと考える。

いや、単に私が理想的に過ぎるのかもしれないが。もう少し言うと、チチは幸せにはならないと思う。独立時代としては。

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スタジオジブリ、宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか。』を観てきた。観てからだいぶ経つ。21時過ぎの上映の TOHO 日比谷 TCX のスクリーンはほぼ満席で、ほとんどがカップルのように見えたが、ちょいちょい、お一人様がいるような状況だった。まあ、そういう感じに見えたということだ。

この感想を書きながらいくつもの感想や批評めいた文章を読んだけど、気を付けたいなと思ったのは、メタ宮崎駿、メタジブリ的な語りの多いことで、そりゃ自由にやったらいいんだけど、それってやっぱり言うほど面白くないよなと、私としては、ね。

そもそも君らがどれだけ宮崎駿やスタジオ・ジブリに詳しいのかと。言い始めたらキリがなく、実際に詳しい人も山のように居るのだろう。また、彼やスタジオにリスペクトを持てとは言わないが、どうにもネット社会というか、今の世の中には、そこに在る存在やその歴史を手前勝手に料理して軽んじる傾向があるのではないか。気をつけたい。

というわけで、夢想のような感想を以下に残しておくけど、的を絞ってないパターンの文章のままで放出するので読みづらいだろう。

冒頭。また戦争ものか…、と思いきや、物語の舞台は疎開先の田舎の屋敷での悪夢であった。継母との確執めいた関係がテーマになるのかなと思いきや、いや、中盤ほどの状況ではあながち外れな予想でもなかったが、それ以上に奇妙な展開と内容で、どこにボーダーラインを引いていたか自覚はないが、それでも期待していたよりもよかったなという作品だった。

田舎の学校への初登校後、現地の子らとケンカして傷ついたシーン、最近の宮崎駿は靑たんこぶとか作らせないのか? と訝しがっていたら、流石にちゃんとした意図がありましたね、おみそれしました。

母の死、彼女の名は「ひみ」という名らしいが、炎に消えていく女の姿という意味では古今東西の作品を連想させられ、「えぇー、『火の鳥』みたいなことにはならんよな」と抱いた疑問は半分は正解で、半分は外れた。大当たりでなくてよかったけど。「ひみ」という名を漢字で如何に書くかはわからないが、「火」に関連しているという以上には象徴的な名ではあるなと思う。まぁ深入りはしない。

鳥の姿を借りたキャラクターに異界に誘われる展開は『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』を彷彿とさせられ、実際に本作の展開は夢であったというような解釈もできるだろうから、ますますドラえもんのそれと近い。「夢幻三剣士」も怪作というか、大枠でいうと失敗作だと思うが、こういう系統の作品はそうなるのが運命なのかね。

話は飛ぶが、終盤に出てきた執務室の画、宮崎駿のラフ風のタッチというか絵コンテそのまんまみたいな感じというか、映画「ナウシカ」の王蟲の幼虫の回想シーンを思い起こさせられる雰囲気だが、この画風を出してきた作品って他には幾つくらいあったっけな。あんまりないよね、多分。

眞人が託された世界は、あくまで大叔父の作り上げた世界だ、という点が、この物語の責任性のような部分をあくまでファンタジーに抑え込んだという点は評価しやすいかもしれない。「セカイ系」があえて取らなかった手法なのかもしれないが、大抵、お話というものはこれでいい。これくらいでいい。なんなら、この話も割とどうでもいい。

とは言うものの、彼に迫られる選択や大叔父の過去の選択、大叔父からの助言、終局までの諸々の展開を突き詰めれば、それは私たち、鑑賞者たちの世界を示唆しているには決まっており、このことが鑑賞者にとってどれくらい明らかなのか、そう意識する必要があるか否かは、どうでしょうね。つまり、タイトル回収ってことですけど。

皆さんのおっしゃるように、宮崎駿監督の過去作のセルフオマージュのようなところは多々見受けられたが、一方で、愚直にテーマを受け取るとすれば、それはたしかに漫画版『風の谷のナウシカ』のようでもあったが、それはそれとしてどうだ。監督の問題意識は当時から一貫しているのでは、とは言えようか(言い訳しておくと、メタ宮崎駿という話というよりは、あくまでそれぞれの作品とのテーマ的な関連性という意味で)。

ところで、アオサギである。現実に帰ったアオサキが只の鳥に戻るとも思えないが、まるっきり人間というワケでもなさそうで、あれ、彼はなんだったんだっけ。どうなったんだっけか? そもそもなんであんな気持ち悪いビジュアルだったんでしょうね、慣れると可愛いげもあるけども。

しかしである、男子版『千と千尋の神隠し』という評もチラホラ見た。が、これは雑過ぎるだろう。さまざまなエリアを旅しながら変化を受け入れる構造こそ似てはいるし、本作が「冒険活劇」であることは否定しないが、決定的に違うのは、主人公の「成長譚」ではないよな(『千と千尋の神隠し』がそうだと断定して言うけれど)。

眞人と千尋の決定的な差はそこに思える。別に眞人くん、彼の年齢なりに母との死別に苦しんで、新しい母を正面からは受け入れられていなかった点の他はむしろ、超人の域に達している身体能力(いつものこと)、意志力(いつものこと)である。つまり、安易に「千と千尋」を持ちだすのは難しい。少なくとも千尋はそうは描かれていなかったよな。

そういえば、煉獄住まいのキリコさんによって「眞人」という名は「死の匂いに溢れてる」のような指摘があった。これは誠にアレなご指摘というか種明かしが早いなというアレで、皆さんも彼の名を目にしたとき、「重たい」「やりすぎじゃね?」って思ったでしょ。私は思いました。

監督も原作のファンであるらしいところの「ゲド戦記」を引くまでもなく、監督自身も登場人物の名前を操作するのが大好きなのは、やはり漫画「ナウシカ」の時代から変わらないようで(これも別にメタ宮崎駿的な勘繰りではない)、身も蓋もないとはいえ、大叔父から世界を任される運命にあったことは、彼の名からして確定している。真の人がいるとすれば、そりゃ神だものな。

でもあれですね、お母さんが少女に時代にあの世界に誘われた理屈はよくわかっていなくて、そのへんは謎だ。当時からアオサギがいたとしても、彼が相手は人間だったら誰でもリクルートしていた、なんてワケでもなさそうだし。お母さんがあの世界を継ぐっちゅーことになっていたのか、ヒミは大叔父の世界にとってなんだったのか、どういう可能性だったのか、整合性とか面倒くさいし、わからんことだらけだけど。

お母さんといえば、継母の産屋のモチーフについてグダグダ解釈をしそうなひとを見かけたが、あれもモチーフってだけで充分だろうな。ひとめで趣味が悪いなとは思ったし、このような感じでお産をフューチャーするのかとも思ったが、なんか別にどうでもいいよな。彼女の顔芸はおもしろかったけど。

ちなみにあのシーン、眞人にとっては前門の新母、後門の元母ということで、お母さんバインドである。業が深い。これは実は手塚治虫も富野由悠季も実現していない業の深さなのではないか。

母屋について、趣味が悪いとはいったが、「石」であることは一貫していた。煉獄の石室、産屋の岩屋、なんかの意思の石、どれもこれも石だ。ダジャレかな。気になるのは「我を学ぶものは死す」という墓の門のメッセージで、これなんだろうね。

「我を学ぶものは死す」だが、インターネットは便利なもので、絵手紙作家:小池邦夫さんの師匠と親しんだ方の残された言葉らしい。もともと中国の古典にも似たような言葉があるとかないとか。まぁメッセージは「最終的には自分で道を切り開け」みたいなことのようだが、それは二の次として、あそこに誰が埋葬されているかなんだよね。

抽象的な想像で終わるけど、あそこには大叔父の悪意(だっけ?)が埋葬されていたのではないか、と僕は思う。仮に眞人が悪意のない後継者として選ばれ得たとして、大叔父はどうだったのか。ありていに言って、この世には無垢なおっさんなんて居らんので、大叔父は彼の純粋な世界を構築するにあたって、自身の悪意をどうにかする必要があった。それがあの墓なのです! 本当か?

そういえば煉獄にいる笑う胞子? が現実で人間になるというのは流石に説明しきれない気がするので、アレはキリコのファンタジーじゃないのかな。もしかの世界でそれが事実だとすれば世界の崩壊ないしは、背後の理屈からの覆しだもんな。

大叔父の世界が曲がりなりにも階層構造のような状態というのは正しかろう。これもベタだが。問題は、作品世界の現実との関係だが、まぁ答えはないね。君だけの新しい宇宙を作ろうというネタは、藤子・F・不二雄はドラえもんでも短編でも擦ったネタではあるが、この作品では塔のなかの謎空間である必要があったらしい。

あるいは、ざっくり言って、あの最上階の執務室から先のイメージは、どう見ても、何度でも言及してしまうが、漫画ナウシカの「庭」に連なる。大叔父のやってることは漫画ナウシカでいうところの旧人類の目的とかなり近いところがあって、なんだ、まるで揃っているデータは昔のままじゃないか。あきれたなぁ。みたいな意見もありうる。

そうじゃないだろう、つまり監督の根本的な問題意識は変わってないし、だけど、まだそれを解決してやろうという気概があるんだよ、解決しようがなくたってさ。お前らもそういう問題意識というか、気概をひとつくらい抱けと、そういうメッセージだったんじゃないの。

最後に。映像的には、煉獄のバルコニーのお手洗いから出てきて空を見上げたかっとが抜群に美しかったのと、最後のわちゃわちゃでインコがどさくさに紛れて一刀両断したシーンなんかがおもしろかった。

田舎の大きな屋敷を建もの探訪のように練り歩くシーンも個人的に好きだし、同じように謎の大広間の外廊下も美しかったね。

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クリアまでに『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』についての散文が8つになったので、せっかくなのでまとめた。ゲーム全体の衝撃あるいはインプレッションでいえば前作のほうが強かったが、個々の要素の衝撃でいえば本作のが圧倒的に優っている。このような比較が私自身のなかではとはいえ、成立すること自体がおもしろい。

しかし、前作、今作と含めて、ゼルダという主人公が立ち向かうことになった運命をどう考えればいいのかということについて、私はまだあんまり結論みたいな点に到達できていない。

ということで、以下は各記事とそれについてのひと言メモだ。

前作をほぼ踏襲したマップを遊ぶことについて考えた。もともと「同じマップで新鮮味が無くてツマらない」というネガな反応への勝手なアンサーというか、そのこと自体が贅沢という視点を立ててみてはどうかという話を組み立ててみたかった。

今作の発明はいくつかあると思うが、爆弾花について感心したということを主張したかった。いまのところ同じ話をしている人はあまりいないというか、誰も関心がない? のかな。悲しいです。

読み返すと、ウルトラハンドとスクラビルドを混同している部分があるような気がするけど、まぁいいか。とにかく本作のクラフト要素は別ゲーなんだよと。なんなら Nintendo Labo 的な実験性すら感じさせられる。そして一応、ゲーム全体は破綻していない。何を考えてこういうことになった。

リンクが喋らないことについて内容もない話を述べている。どちらかというとムービーシーンを退屈と感じる側の人間として、このシリーズのムービーはミニマムに抑えられていていいよね、という話をしたかったのかも。

ブレワイでさんざん話題のタネになっていた太眉ゼルダのデザインだが、本作でももちろんそれなりに踏襲されていたね、でももう話題にならないね、という話であった。ゼルダが編み込みのショートヘアみたいな髪型にした点も大きかったと思う。しかし、下世話な話に限らないが、彼女のビビットさとその必要性という意味で、この描写は重要だなという話はできそう。

2DマップのRPG的なゲームと比較したとき、マップから与えられる快楽は3Dゲームではどう考えうるのかという風呂敷を広げてみたく書いた。つまるところ、既プレイ者ならわかるけれど、あのごちゃごちゃのマップが完成する。これくらいないと、2Dマップに近いワクワクは得られないのではないか。

このゲームの話というか、「空島」にまつわる話をしたかった。考えてみれば、2023年のドラえもん映画も似たようなモチーフを扱っていたな。結論としては、ガリヴァー旅行記が目ぼしいのではという模様だが、ちゃんと探せばもっとしっかりしたルーツ辿りができそう。

とりあえずクリアした感想。いつものように記事タイトルには本文中ではほとんど触れてない。各種ギミックやアイテムなど、冷静になると異常なゲーム体験と思うけれど、そこだけではない。ストーリー、それを盛り上げる演出など諸々、そして清々しいエンディングがあった。絶対の信頼、という美しいフィクションに泣く。

ということで、了となります。

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以前に Pocket を長く愛用してきたと書いたことがあったが、完全撤退を狙っている。もし、この記事を読むひとがいれば、Pocket が Firefox アカウントに統合されることになったことも既知と思うが、そういうことらしい。これはどうでもいい。

問題は昨今の調整で、どうも私のデータの保持が上手くいっていないようで、無料アカウントで利用している身なので文句を言う筋合いも小さいのだが、スマートフォンからは閲覧できる Read later のリストが Web だと読み込みエラーでリストは空になり読めない。問題がしばらく解消されない。

エラーメッセージから軽く解決方法を探したが、どうもうまくいかず、考えうる手段はめんどくさく無い範囲でとった。もう諦めており、スマートフォン側からアクセスなりサルベージなりするしかない。

で、ここまではPocketへの愚痴(応援)と今回の経緯の発端だ。

もうひとつ、最近Glaspというサービスをちょっと触っていて、Webで読んだ記事をハイライトするのが割と有意義だなと再確認したのであった。で、さらにこのハイライトをローカル、つまるところObsidianでカバーできれば便利やろと思ったのだ。

だが、Glasp側ではObsidianとの連携を特にサポートしておらず、技術に疎い人間としてはスマートな術がない。で、自然に Omnivore が選択肢に上がった。これが移行の切り札になった。

Omnivore、オープンソースで開発されているらしいが、アカウントさえ作成すれば雑魚でも利用できるサービスとなっている。2年前くらいから存在は知っていたと覚えているが、当時はノータッチだった。開発をスタートした方からして Read Later に取りつかれており、Pocket の利用についても言及している。これは信頼できる。

また、Pocketでは、特に日本語サイトの読み込みで信頼できずにいたサービス内のリーディング機能も(直近では機能することもあるのかも?)、Omnivore では利用している。というのも、ハイライトがここからしか付けられないので利用するしかないが、割合、困ることは少なく、機能する限りでは便利であるとも気づく。

なお、Obsidian単体でWeb Clipper的な挙動を実現することは素人設定でも実現できそうだが、Webサービス内で完結できるなら、そこはそこで済ませたいという意識が私のなかにはあり、現状ではそうしている(技術も拙いし)。

また、記事からハイライトのみの同期という選択肢が地味に重要とも捉えている身としては都合がいい。無駄となりうる分量の情報は、とりあえずはいらない。

そう、幸いなことに、Omnivore は PKM なりの昨今のサービスとの連携も重視しており、Obsidian も対応している。公式で提供されているコミュニティプラグインをインストールし、適当に設定すればブックマークをファイルとして同期(実行されているのはダウンロードだろうけど)できる。

同期はブックマークすべて、ハイライトした記事のみなどと設定できるようだが、上述の理由で、私はハイライトした記事のみとしている。同期のタイミングだが、気づいたときに、たまにOmnivoreのプラグインのボタンをクリックすると、サクッと完了するという程度だ。

タグの設定などをいじるともっと実用性が増しそうだが、Obsidianのタグ運用も微妙に揺らいでいるので、おいおい手を付けたい。

まぁ、というわけで、感謝しきれないくらいありがとう Pocket。そしてOmnivoreを使いはじめたよという話でした。

話が逸れるが、もともとEvernoteのClipper機能にもハイライトは存在したと覚えているが、あのときはハイライトに興味がなかった。サービスとの関係は難しい。そして人生は空しい。

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