『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を読んでいた。タイトルが長い。書籍は達人出版会で販売されており、epub 、 PDF で配信される。最初は PDF を Acrobat Reader で読んだが、Google Play ブックスに epub を突っ込んだら割とすんなりと読めることに気がつき、8 月末からツラツラと読んでいた。2 か月半くらい読んでいた計算になる。以下が商品ページになる(URL の命名規則がよくわからん。追記:「情報共有の未来」の続刊という意味か)。
この本のことを知った時期も、経路もよく覚えていない。著者である yomoyomo さんのブログ、YAMDAS現更新履歴 も RSS リーダーに突っ込んではいるがそこまで熱心に読んでいるワケでもない。もう少し言うと、以前から買って読もうかなと何度となく意識していたが、買えていなかった。うろ覚えだが、PayPal 決済が障害になっていたような気がする。ところが、今回はすんなりと購入できたのだった。というか、決済方法にクレジットカードがあるなぁ。それで買えたんだっけ。何も覚えていない。
最初に読んだ解説によれば、本書は「2013年から2016年までのインターネットを巡る思想史の変遷」だという。なるほど、おもしろそうだな。一方で、解説に登場する人物の名前が半分以上わからない。なるほど、不安になるな。結果として、これはどちらも半分ずつ的中という感じで、話題の大半は興味深くておもしろいものの、登場人物や背景についての知識が十分でない場合は、話題をフォローするのが精いっぱいという章も多い。補足するまでもないが、私の知識量などに基づいた話だ。技術的な話題から政治や経済など、扱われている内容は多岐にわたる。
さらに言うと、2013 年から 2016 年という長いようで短い期間であって、短いながらも、その期間にはたくさんの思惑や事件がワーッと起こっている。そのリアルタイムのできごとを扱った記事の集合なワケで、1冊の本の全体像としてまとまっているとも言いがたいところはある(繰り返すが連載記事のまとめだからそりゃね)。個人的な要約としては「CNET や TechCrunch の日本版でたまに掲載される関連記事を追うくらいじゃ足りない、ワールドワイドなインターネットの近況や背景事情、思想の近況を教えてくれる」のが本書かな。
ところで、全部で 50 章にまとめられた本書において、日本国内が中心となる話題といえば、第2章「生成的な場、ユーザ参加型研究がもたらす多様性、そして巨人の肩」、第7章「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」、25章「空がまた暗くなる──鬱と惑いと老害のはざまで」、第33章「思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ」、第35章「ラストスタンド」などであった。漏らしがあるかもしれない。
なぜいきなりドメスティックな点を挙げたかというと、日本におけるインターネット思想とは何じゃろな? と思ったからだ。たとえば、第2章はニコニコ動画から派生したニコニコ学会 β の話題であり、第33章は川上量生の『鈴木さんにも分かるネットの未来』が取り上げられている。同章では、アーキテクチャの話題に敷衍して濱野智史『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか』が紹介されているが、この本だって初出は 2008 年だ(古いから悪いというエクスキューズではない)。第33章では、2015 年に刊行された角川インターネット講座に関連した話題が扱われており、そういえばそんなシリーズもあったなと思い出に浸っていたが、Amazon で確認したら、Kindle 版がセールされているときに買っており、そのまま、まったく目を通していないことに気がついた。
濱野智史 は AKB 関連の新書を出して以来、一般書の舞台には降りてこないから何をやっているのか知らないが、川上量生は実業家と呼ぶのがふさわしいだろうけど、なんかよく分からんことになっている。本書には津田大介もところどころで扱われているが、こちらの方も何かと泥沼だ。なんだ日本のインターネット文化なんて、文化らしい文化が無くなっているんじゃないのという気もしてくる。日本のインターネット文化をけん引するような存在や真面目に思索する方面、そういったムーブメントはあるのか? 今、どこにあるのかしら。
そこまで踏まえて本書を振り返ると、日本に限らず「インターネット文化」なるものは少なくとも従前のイメージから逸脱しつづけていて、それがタイトルともなっている第48章の「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」に繋がってくる、のか? ともなる。それがより具体的にはどういう力学によって齎されているかは本書を読んだら実感されるところであって、私には要約できない。
個人的には、どちらかというとユーザー寄りの立場に近い「第50章 ネットにしか居場所がないということ」が印象に強い(最後にあるのも理由なのだが)。Wikipedia 編集者の愛憎が入り交じったエピソードについての記事だが、どのプラットフォームにおいても所属する参加者たちは、それなりに自分に意味を見出しているわけだ。それを承認欲求の一言で片付けたいとは個人的には思わないのだが、何とも言いがたいよね。同じような事例やそこから発展した事件などは日本国内でもいくらでも起きているわけで、殊更インターネットに限った話とも言いづらいが、インターネットが可能にするコミュニケーションとそこから起こりうる齟齬の大きさの見積もりの難しさというのは、なかなか越えがたい障害なのだなぁ、など。こういったミクロな視点と本書全体がフォローしようとしたマクロな問題群は通底しているのだろうか。考えてみたい(考えないパターンだよこれ)。
ところで、本書で紹介されている重要な書籍の邦訳版など、どうして胡散臭い感じのタイトルや装丁になることが多いんだろうなと思うと、まぁいろいろとツラいよな。
ある本を読み終えたので感想を書いてたら〆の文章が消えてしまって、下書きを放置することにした。このようなケースでは似たような文章を焼き直すか、開き直って今ある部分までで公開するか、などの対処をしてきたが、放っておいて書き直すのが一番だ。そもそも書きたてほやほやだったし。
前回の記事で《天気の子》の感想をあげたら、同作にまつわる話題がチラホラと目につく。なんちゃら効果というやつだろうか。そのなかで、坂上秋成さんがの現代ビジネスに掲載された 8 月の記事をこき下ろしているツイートを見た。言及先の記事は目にした記憶がなく、パラパラと読んだが、まぁ興味はない。リンクも張らない。
社会反映論と言われるような批評は、東浩紀主宰のゼロアカ道場で非常に流行っていたように思う。それが作品や社会に対して、なんらかのポジティブな視点を与えるのならいいのだが、そうでない場合は話にならない。それにしても遠回りでややこしい方法なんだよな。何も言っていないに等しい場合が非常に多い。
そうでない場合は話にならないとは言ったが、これは非常に難しいところで、ネガティブな批評というのは、問題提起や一周回ったところにある希望などを見出さなければならないはずだが、それが単純に褒めるより難しいということも当たり前に分かることではないか。だというのに、有象無象の文章が多いのはなぜか。作品の欠点や難点(に見えるところ)をあげるという行為は必要であるが、それはそこで思考停止するためのものではなく、作品理解への橋頭保であるべきだ。
まぁいいか。
そろそろ TOHO の劇場ですら上映は終了するのではないだろうかという気がしており、いい加減に《天気の子》の感想を書き残そうと思い立つ。鑑賞した直後の勢いにまかせた感想もいいが、時間が経っても残されている記憶と印象で書く感想にもよさはあるはずだ。
カオスの東京、汚い大人たち。
これは最初から感じていたことだが、東京は汚い。これを美麗なアニメーションで美しく再現したことに、おもしろ味がある。狭い道路を行き交う車、うるさい踏切、いつ倒れてもおかしくなさそうな古ぼけたビル、寝泊りできるマンガ喫茶の薄暗い個室、風俗の宣伝広告車、歌舞伎町などの歓楽街と裏通り、ホテル、汚い東京をとことん描く。インタビューや記事にも明言されていたが、これは今までとは少し視線が違う。《君の名は。》で三葉にとってキラキラと光っていた東京ではなく、あくまで、その裏側だ。
汚さは嫌悪の対象のみであるかというと、そうでもないだろう。家出した帆高が都会を目指したこと自体がそうであるが、なんでも飲み込みかねないカオスというのは、ある意味で救いだし、実際にこの汚さのなかで帆高は生活を構築しはじめる。まともな家庭の崩壊した陽菜が生き抜こうとしたのも、この汚さを生み出すカオスに頼ってのことだ。
そういう現実、あるいは夢を見せることができるのが東京であって、本作についていえば、強く汚さ、古さがエネルギーを持っている。その魅力とは、なかなか自覚しづらいところがあるように思うがどうだろうか。あるいは汚さのなかに身を置いたとき、汚さを客観的に見ることは非常に難しいのではないか。汚さに身をゆだねる楽しさもあるのではないか。
汚さといえば大人であって、本作の大人というのは、アテにならない。青春やジュブナイル作品などにおいて、アテにならない大人というのは珍しくもないが、チンピラおよび警察官、いわば社会の暴力の陰と陽にたつ人間らがどちらもクソなのが本作で、これは「大人ではない、子供のままでもいられない」という帆高と陽菜らの立場の不安定さをも表しているのではないか。事実、序盤の彼らは陰の暴力の世界に引っ張られつつあった。
何方にも与しない須賀圭介の助力、帆高の機転と陽菜の天恵によって、仮初ながらも安定した生活のバランスを取り戻しつつあったが、今度は陽の暴力がそれを許さない。曰く、家出少年、拳銃の所持。曰く、年齢詐称、未成年者保護などである。もちろん、警察はよいことをしている前提に立って少年らを社会のレールに嵌めこもうとするワケだが、そんなものは望んではいないのである。
天災、リセットされる東京。
人間の事情に構いなく、気まぐれに状況を操作するのが天である、というような発想は古今東西、新旧に関わらずオーソドックスだが、本作は陽菜自身が天の采配となってしまうのがキモであって、彼女の器としての限界は、少年らの抵抗のピークに一致してしまう。かくて天気の子は、彼らを取り巻く環境、葛藤をことごとく洗い流すのであった。
考証記事をいくつか見たが、山手線の東側ほぼ半分は沈んだらしい。上野、東京、品川はなく、千代田区は半壊模様か。新宿駅はほぼ無事らしいが、渋谷駅近辺のエリアは水浸の影響を大きく受けるだろうように思える。都外に目を伸ばすと、神奈川の川崎、横浜はおろか、埼玉は大宮方面まで水没しかねず、千葉は利根川水系がヤバかろう。
東京という、とても狭い世界ではあるが、このカオスの世界をリセットしたことはいかにも爽快ではないか。本当にそうか? 不意とはいえ、東京の半分を洗い流してしまうという愚行、快挙、エネルギーをどう受け止める。彼らのかかえる問題の解決に大人は役に立たなかった。その帰結がこの状況だと思えば、しとしとと降り続ける長雨というのは、何なんだろうな。
少年に負い目がある男。
少年らでもなく、大人でもない、本作で新海監督の立場に近いらしい人物、須賀圭介であるが、こいつぁ実は主役なんじゃないかという疑いが強い。 須賀の行動や願いを媒介しないと物語がうまく進展しないことを思うと、《天空の城ラピュタ》のドーラやムスカの背負った役割に近いとも言える。 彼に焦点をあてた感想をひとつも読めておらず、やや不思議だ。
というのも、陽菜を犠牲にすることで大雨で沈まず済んだ東京を象徴しているのが須賀圭介にほかならず、逆に同時に、これは少年を捨てようとした須賀自身の未練が狭間にあり、そして最終的には少年の希望を許す、まだ選択肢のある帆高に託すことで、彼自身のあきらめが擬似的に克服される。
須賀のあきらめというのも絶妙なところで、それは別に若かった頃の夢などではなく、亡妻および離れ離れになった娘と過ごせるはずだった当たり前の生活を失ったという、取り戻しようのなく自力で解決のしようのない悔恨を抱き続けた点にある。
1人の命で大勢の日常が救えるのなら、といった大人びた欺瞞を盾にしたまま酩酊し、目が覚めたら半地下の自宅から覗ける窓には雨水が押し寄せている。失った家族の思い出が詰まったままになっているリビングの非現実感と、一夜の大雨によってできた水溜まりの非現実感は、不用意に窓が解き放たれたことによって一体となって、結末で東京が水没する前に、まずは彼の思い出の空間が水没することになった。この構図は如何にも見事で、本作のピークはここにあるとも思っている。小栗旬の演技がなによりいい。この感想を残したかった。
補遺
不意にラピュタを持ちだした比較をしてしまったのが悔しい。個人的に、ラピュタにはパズーの意志というのはほとんど無いと思っており、そこが苦手なポイントなのだが、翻って本作はどうか。陽菜の決意に帆高はどれくらい影響を与えたか。失われた楽園、あるいは楽園を失うことの決意という局面で、帆高とパズーが果たした役割にどれくらい印象の違いがあるかなど、おもしろいのではないか。
とりあえず、後で読もうと思って溜め込んでいて、今回読んだインタビューやブロガーの感想などのうち参考になったものを以下にまとめておいた。新聞社などの有料記事は省いている。順不同です。
「疑似家族」というキーワードが《万引き家族》への言及とともに紹介されている。あぁそう言われればそうだねという。
上のインタビューの後編。上映直後にセカイ系で賑わった反応あたりへの言及は一応押さえておきたい。個人的には興味はない。以下は引用。
コアなファンに向けて美少女ゲーム的な文脈をどうつくるかとか、そういうことは全く考えていないです。結果的にそういう文脈でも楽しめるものになったのなら嬉しい
僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。
感想では触れなかったが、気になる視点ではある。銃の所持については結論めいたところを書いてほしかった。
上記と似た視点だが、こちらは逃走にのみ注目している。おもしろい。
この記事はよくできていると感じていて、いろいろと気になる点をまとめてくれている。 この記事では須賀に焦点をあてた内容も多い。参考になる。
過去の作品を通した監督評としてまとまっている。
ちゃんとしたメディアの記事だなぁという。他のインタビュー記事で言及されていたが「貧困」というポイントをしっかり取り上げている記事や感想というのはあまりないようで、そういう意味で貴重だ。
伝奇的なアプローチもできるんだが、あまり試みてる評は少ないように思う。まぁ、そこまで真剣に探していないけども。これは、メディアがそれをやったということで、まぁ。
英題は少し凝ってるなというか、ネタバレ気味やなというか、ダブルミーニング上手いなという感じだったねぇ。触れようと思ったけど、以下のブログ記事が大体言いたいことを言ってくれていた。以下は冒頭部分の引用。
「英単語のWeatherには動詞として「(嵐や困難を)乗り越える」という意味があります。つまり Weathering With You とは、「貴方とともに困難を乗り越える」といった意味になります。」
見出しがすべてといったところだが、メモ。
煮え切らない感想だけども、よい。
水没問題でググると本日現在でトップに表示される記事。丁寧ですね、ありがとうございました。
小栗旬の発信を見てみたくて読んだ記事。参考まで。
追記:2020.1.8
1 月 3 日の朝日新聞に新海誠監督の長インタビューが掲載されていた。《天気の子》のラストについては、ほぼ解説的な解釈(解説だ)が披露されているので興味深くはある。また、以下の引用の箇所はなかなか面白い。
他者のことを徹底的に想像するというのは、愛に結びつくと思うんですよね。他者のことを想像すればするほど、世の中には愛が増えるはずだ、とは、僕は自分の職業的にも思っています。
https://digital.asahi.com/articles/ASMDR559LMDRUCVL02B.html
いろいろな事件の公判やら取り調べ、書類送検やらが立て続き、どれくらい関係あるのか知らないが、なんとなく年末のようなものの整理の始まりを感じていたが、同じくして、いろんな事件の発生を立て続けに知らされるという週末であった。理不尽だ。あるいは台風の被災やいくつかの未解決事件、いつの間にか解決していた事件など、忘れてはふとしたきっかけで思い出され、そうしては、たちまち忘れていく。
土曜日にシャガールの絵画を観る機会があった。2016 年に東京都美術館で開催された《ポンピドゥー・センター傑作展》で目にした《ワイングラスを掲げる2人の肖像》以来だったのだが、シャガールの絵が喚起する懐かしさとはなんだろうなあぁと耽っていた。まとめて観る機会はないだろうかと気になって調べてみたら、ポーラ銀座ビルでつい先日までやっていたようだ。悲しいが、こういうすれ違いはよくある。あるいは現在 、 三菱一号館美術館で開催されている展覧会でもいくつか出ているようなので、そちらに期待してもよいかもしれない。
年末に向けて疲れが溜っていることを実感しているが、日常の忙しさに負けているというよりは、天災などを諸々含んだ季節の変化のほうに心身が追いついていないといったほうが的確なように思える。
最近、どうにも幾つかの漢字の使用について躊躇うことがあって、たとえば「乗る」という言葉を使うときに「乗」という字を用いることを避けたがる。理由はよくわかっていないのだが、動作と状態との繋がりを個人的にうまく処理できていないからではないかと感じる。つまり「乗降」というのは動作であるが「乗客」というのは状態であると思うのだが、「乗る」というように訓読みで使う場合、これは状態で使うことのほうがおそらく多いのだが、どうもそこに「乗る」という読みが気持ちよくない。まぁいい。
《空の青さを知る人よ》を観た。どうせ憂鬱さ半ばのエンディングを体験するのだろうと倦厭していたが、結果としてはその気はそこまでもなく、というか見てよかった。たいへん良かった。今年は鑑賞したアニメ映画に外れが少ない。ファンタジー様の設定やアニメらしい描写などもあったが、どちらかというとやはりストーリーに重きのある作品ではあるかな。
高校生の相生あおい(若山詩音)の視点を中心に語られているが、キャスト&キャラクターは「しんの」こと金室慎之介(吉沢亮)がメインとして扱われている。また、キャストは次に姉の相沢あかね(吉岡里穂)となっている。このことを鑑みると、結果論的ではあるが、なるほどそういう話なのだと分かる。まぁキャストの知名度的な配慮もあったりするのだろうか。
本作も、青年期を迎えようとするオジサンを応援するようなところがある。《天気の子》の須賀にも似たところはあったので連想されたが、彼は帆高との対比という位置づけで、いずれにせよ少年時代との折り合いという点で相似だ。この点で何が気になるかというと本作のターゲットであって、女性的な視点(慎之介のパートナーという意味で)の相沢あかねがどうしても対立してくるわけだが、彼女の強さは青年期を迎えるオジサン、またはオバサンにとって劇中でどれだけ説得的だったかどうか、個人的にはあまり自信がない。
相生あかねは、高卒から就職して小学生だった妹を育ててきたわけで、その逞しさったら何のその、劇中でも弱みを見せることはほぼなく、過去に苦労したエピソードも断片的で、そこらへんがおもしろい。個人的に最も印象的だったのは、彼女のドライビングシーンだ。妹を車で送り迎えしたり、もちろん職場にも車で通勤したりしているのだが、おそらく高校卒業前に急いで自動車教習所に通ったのだろう。舞台の秩父に「秩父自動車学校」があることは調べればわかるが、相沢家がどこに立地しているかは不明で、だがおそらく教習所に通うだけでも大変で、面倒だ。泣きそうになる。
という感じで、彼女の運転は淀みないのだが、終盤に向けて一箇所だけドキッとするシーンがある。うまい演出だなぁ。
相生あおいを中心にした話に移りたいが、そこまで語ることもないか。慎之介に起きたマジックに翻弄されるあおい、彼女の若者らしい態度には岡田麿里らしさを感じた。高校生らしい無鉄砲さというのはあって、悪くいうと幼稚さが強調される。小学生の中村正嗣(大地葉)のほうがよっぽど大人びているという仕組みで、なかなか酷な立ち位置ではある。
彼女の感情表現、それを表現するための手法には少しばかり違和感があって、一方でその違和感が意図的に採用されている部分もあるだろうから始末が悪く、太眉がかわいいくらいの感想にしか落ち着かない。彼女に対して、大人となった慎之介らの葛藤には、それほど岡田麿里らしさを感じず、かなり地に足が着いた、抑制のきいた表現にとどまっていたのではないか。それ自体が年を取ることにも繋がっている。それが鑑賞後のやるせなさの薄さにも繋がっている。諦念でもある。
いや、エンディングに映されるスナップショット、いまどき現像するか? という疑問を挟みつつ、物語後の状況がいくつか提示される。賛否両論あるみたいだが、あったほうがいいでしょう、わかりやすくていい。自宅の駐車場で車の前に立つあかね、そこに人影、のカットが1番印象的で、まぁ、まぁいい。
本作を高校生くらいの子らが観たとき、おっさんおばさんの葛藤は理屈では分かるだろうが体感されるものではないだろう。そういう意味では、本作を観た若者が、幾年か経ってからもう一度摂取したら、だいぶん印象が変わったりもするのだろう。
作品内で、年齢の差に起因するギャップを生かす手法だが、思えば岡田麿里は《あの花~》でも《さよならの~》でも《凪のあすから》でも似たようなギャップを用いているんだなぁ。
台風 19 号が過ぎた。すでに南洋で新しい熱帯低気圧が生成されつつあるというニュースの見出しを横目にした。言うまでもなく来てほしくはないが、こればかりは動向を見守るしかない。関東南部については、数百年来の治水対策が功を奏したと言っていいのだろう、大きな被害がある地域はあるとはいえ、数字で提出される死者、負傷者数から見るかぎりでは、そこまで被害は多くないようだ。とはいえ、神奈川県の死者数は現時点で2桁になってしまったようだし、東京を除く各県で数名の死者が出てしまっている。
12日の昼時点で、静岡の被害がすでに甚大なものになっていたように思う。栃木は日光の被害や長野や山梨の警報発令などもあわせて、東京(を含む関東圏)よりも地方のほうがよっぽど大事故になるなと思っていたが、そのようになってしまった。当初はあまり気が向いていなかったが、福島と宮城の被害も大きい。喉元を過ぎればなんとやら。死者数の総計は、3桁に到達してしまうのか、否か、といったくらいかなと思っているが、どうなっていくのだろうか。これも事態を見守るしかない。とりあえずどこかしらに少額ながら募金をしようかな。
Twitter では喧しく、ダム、路上生活者(ホームレス)などの話題で満載となっており、なるべく巻き込まれたくないものの、やはり多くのひとの気が立っているという空気感がある。とはいえ、静岡以西の方々らはほぼ日常であり、彼らのツイートなどを眺めていると、そのへんには個人的なズレも感じ、自らの感情の処理もまた難しいことを知る。とりあえず私自身と近縁者、身近な友人らの大きな被害はまだ耳にしていないのが幸いではあるが、被災した方々のことを思うと、何も考えられない。
マンガ家に焦点を当てた作品の走りは手塚治虫の自伝だろうか。藤子不二雄Aの『まんが道』が皮きりとなったのだろうか。他にもあったろうか。ジャンプで大ブレイクした『バクマン。』などは、20代後半~30代くらのマンガ読者連想しやすいだろうか。直近だと、最近までコージィ城倉が描いていた『チェイサー』もおもしろかったが、『ブラックエンジェルズ』の平松伸二が自伝作品『そしてボクは外道マンになる』も何気におもしろい。パッと思いつくだけでこれくらいだが、もっとたくさんあるだろう。
で、本題のアニメ制作だが、アニメーション制作会社を題材にしたアニメ『SHIROBAKO』がまず思いつく。
で、マンガについてだが、アニメーターを主役にしたマンガというのは幾つかあって2017年に作者の花村ヤソが Twitter で呼びかけて盛り上がった作品が『アニメタ!』だ。連載は2015年から始まっており、既刊は4巻だ。連載終了の危機が何度かあったそうだが、上述の盛り上がりによって、ペースを掴んだ。と思われた矢先に著者の妊娠出産により休載中となっている。おめでとうございます、連載再開を祈ってます。
並行して読んでいたのが『西荻窪ランスルー』で、こちらは全4巻となっている。最終巻をそうと知らずに読んでいたら、話を折りたたむ方向に進展していたので完結してしまってビックリした記憶がある。制作の外側の人間関係まで描写していたのが本作の特長だったと思うが、それが逆に作品の焦点をコントロールしづらくしていたのかなという印象も残った。
最後に、宇仁田ゆみである。『うさぎドロップ』は言うまでもなくおもしろいが、この人の作品は大体おもしろく思っていて『ゼッタイドンカン』が最も好きなのだが、それは置いておいて『パラパラデイズ』である。1巻が2017年発売だということで、本作のことをすっかり忘れていた。少し調べると不定期連載ということらしい。本年の6月に2巻が発売されていたようで、先日ひさびさに宇仁田ゆみで検索をかけていたら引っかかったので思い出して読んだ。まぁおもしろい。本作、ここまでで紹介した作品のなかで始めて、主役が男性の作画監督なのだ。主人公はすでに画が描ける人。エネルギッシュな新人女子に引っ張りまわされていくというのは、作者の典型的なパターンでもあるが、鉄板でよい。
他にもアニメ制作のマンガはあったような気がするが、単に私が知らないだけか、おそらくどれも続刊が出ていないなどの状況だと思う。ところで、ドラえもんにもアニメ制作するエピソードがあった記憶があるが、タイトルが思い出せない。こういうときにどうやって調べるか。マンガの各話タイトルの一覧を漁り、そこから見つけるか。関連キーワードでググるか。前者は怠いし、後者はノイズが多すぎる。ふと思い出したのがスネ夫の存在で 、 本話もスネ夫に対抗してのび太がアニメ制作に着手するという話であったはずだ。ここから「スネ夫スタジオ」というキーワードを連想することでタイトルが見つかった。「アニメ制作なんてわけないよ」(てんとう虫コミックス第24巻)である。のび太の作画によるネズミから逃げるドラえもんがかわいい。
以下のブログに詳しい。
追記:
あー、『映像研には手を出すな!』のことをすっかり失念していた。なんなら1番に勢いのある作品じゃないか。
《ファントムスレッド》(Phantom Thread、2017)の感想を残しておく。当時、映画館で本作の予告をボーッと見ていたときはドキュメント映画なのかなと勘違いしていたが、全然そんなことはなかった。主演のダニエル・デイ=ルイスの演技の賜物か、撮影の技術か、編集の妙か、私がアホすぎるだけか、どれだったのだろう。
第2次世界大戦後のイギリスが舞台で美術はもちろん、音楽、画面は時代設定に沿った古さを醸している。クラシック調の音楽が多い作品だが、担当は Radiohead のジョニー・グリーンウッドだそう。彼はバンド活動を始める以前に、幼少時はクラシック音楽の素養を養っていたそうな。ついでに《ノルウェイの森》(2010)の音楽も担当していたらしいということを知ったので、ビックリした。
いくつかの食事のシーン
食事のシーンは何度か描かれるが、いずれもエキサイティングで、そのことを中心に記す。登場人物らの不和と融和がすべて食卓で表現されているといっても過言ではないのが本作だ。
冒頭。冷めきった食事シーン。まだ作品の成り行きが分からない状態で見せられる。女性が男性に対していろいろと愛想を振りまくが、男性はまったく意に介していない。この女性はすぐに舞台から退場することとなる。この男性こそ主人公のレイノルズである。
ヒロイン、アルマがレイノルズに食事を振る舞おうとするシーンがある。冒頭に引き続き、レイノルズは楽しい食事など望んでおらず、果てはケンカになる。正面から向き合いたいアルマは正しいのだが、レイノルズが極度の変人であるということをまだ理解していない。
決意したアルマは、レイノルズにある仕掛けを施す。もちろん食卓でのことだ。変人に対応するには狂人になるしかない。このあたりで、人物のイメージの様相も変動しはじめる。アルマは魔女だった、そうなると決意した。男を射止めるためだったら、後悔しない。その甲斐あって、レイノルズは陥落する。しかし、所詮は魔女の魔法に魅せられているだけで、その関係は非常に不安定なのであった。
2人は入籍後、新年の休暇を山奥のリゾート地で過ごす。どうしてこういう状況を作ったのか、寒々としたテラスで食事をするするシーンがあるが、アルマの食事のマナーは成っていない。美しくないものは、どう取り繕っても美しくない。晩餐でも、ゲームの席でも、アルマの立ち振る舞いは端的に言って粗野で野蛮。そのことにあらためて気がついたレイノルズ、目が覚めかける。
ここからアルマは再度、魔法を使う。結末として、レイノルズは完璧に墜ちる。私として徐々に破局、つまりレイノルズの目覚めを期待していたので、この展開にビビり、非常に悲しかった。だが、アルマの魔法の調理が非常に魅力的に記憶に残っているのも事実で、おぼろげ乍らも覚えている、ラストの調理シーンから食卓でのやり取りまでが、いまだに笑える。どうして君は手玉に取られてしまうんだ、レイノルズ! なぜなら魔法が掛けられているからだよ。
エンディング、アルマが主人公レイノルズの顔、頭をやさしくひざ上で支えているカット、これにはヨハネとサロメを彷彿とさせられたが、今思うとピエタでもあったのかもしれない。いや、2人が幸せならそれでいいのだが、個人的には、レイノルズのファッションデザイナーとしての天才性はアルマとの関係を深めていくにしたがって欠けていったのではないかと思われ、そのあたりの感触は人に依るのかもしれぬが、歯がゆい。
香港映画の黄金時代というのがよく分からないが、《さらば、わが愛/覇王別姫》を観た。1993年の映画だ。上映が開始され、タイトルまでのやり取りとカットだけで名作だと確信させられる貫禄。とにかくすべてが淡々としているのだが、飽きずに最後まで鑑賞できるのは何故でしょう。
程蝶衣(小豆子)という人物について
遊女のもとに生まれた小豆子は、これ以上は育てられずと京劇(中国の古典舞踊)の少年団に連れられる。6本指の小豆子は入団を許可されなかったが、母がその指を落とすことで許可されるに至った。彼は母と指とを同時に失うのだ。この強烈な印象から物語は始まるわけだが、この多指症が何を暗示したのかはよく分からない。
少年へ成長した小豆子は、本作のタイトルでもある「覇王別姫」をはじめとする京劇の女形を演ぜられるように育成される。だが彼は、「女として生まれ」という台詞が覚えられない。本当に覚えられないのか、彼が意図的にそれをやっているのかはよく分からないままだが、幼いころから慕っていた石頭の施しによって、弱点を克服して演じることができるようになった。
この石頭によって小豆子に与えられる施しだが、冷静に見ると異様なまでにあからさまな表現で、思い出すとゾッとする。まぁ意味がわからない(わかる)。
女形をものにした小豆子は、成年して程蝶衣を名乗る。同じく成長した段小楼(石頭)と 2 人で抱えた一座を盛り立てるわけだが、ここに日本との戦争、共産化革命などが絡み、彼の運命が翻弄されていく。
段小楼(石頭)の口上とその変遷
程蝶衣と対になるのが段小楼こと石頭で、彼はさまざまなシーンで口上を述べさせられる。冒頭、少年団が広場で演舞しているのだが、それを良しとしないグループに絡まれる。騒ぎは大きくなる一方だったが、石頭が煉瓦を頭突きで割るという一発芸を披露したことで場が収まる。師匠らは下らない芸を披露した彼を叱るが、その蛮勇が劇団を救ったことも確かであった。
成人した段小楼は、遊郭遊びを覚えて菊仙に惚れる。前後して程蝶衣にプライベート(現実)と仕事であるフィクション(京劇)を一緒にするなと諭していたが、割と難しいところがある。遊郭で菊仙を救えたのは、どうみても彼が京劇で培ったハッタリ能力に因る処が大きい。このへんが物語の折り返し地点のようにも思える。
文革後、取り調べ、市中での晒し首のシーンでは、段小楼もとい京劇の魔力も地に墜ちる。革命後に作られた堅い煉瓦は、彼の頭突きではもう割れない。勇ましかった男が、程蝶衣を売るような発言をして保身に走るありさま、そして妻である菊仙を失うという末路、情けない限りだ。最初から最後まで狂言回しとして描かれる段小楼の哀れをどう処理したらいいのか。
菊仙の役割。 段小楼を慕う男と女の対比
菊仙というキャラクターはなかなか特殊だ。序盤はネガティブなイメージを纏っている。それはそうで、彼女は京劇で舞う段小楼を好ましく思っていない。この心理もかなり捻じれており、「まっとうな家庭」を望む彼女の願望とまとめれば済むが、そんな彼女の望みを叶えることはそもそも無理なのでした。
身籠った子を落とすことになったのも、演出上はかなり自業自得だが、物語上の都合として彼女は遠回しに、だが直接に程蝶衣に罪を被せる。程蝶衣が厄を運んでくるという旨の発言もしているが、観客としては別にそんなことないので、異常なヒステリーを感じる。だがこの辺りは、段小楼を軸に程蝶衣と対立するように描かれるので、こうなるのは必然なのだ。
転機はいったん段小楼が京劇を降りたのち、文革前後に訪れる。端的に言葉にまとめると、結局のところ菊仙にとっても程蝶衣は、弟のような存在であった。それでよかったはずだった。アヘン中毒から治療中の彼を見舞う彼女、舞台から蹴落とされた彼にそっと衣を掛ける彼女、そのやり取り、火中に捨てられた宝剣を彼に届ける彼女、どれも見事すぎるくらいで、そのやり取り、和解のような関係が成立しそうでしないまま終わる関係が美しい。
小癩や小四など、それぞれの激情
少年団時代、小豆子と脱走した小癩という少年がいた。町の舞台で覇王別姫をみた彼らは感動のあまり劇団に戻るが、体罰を受ける小豆子を見ていた小癩は、屋台で買ったサンザシを頬張ってから自ら命を絶つ。何故か。いや、よく分からない。
「どんな罰にも耐える」と述べたばかりであった彼は、口の中を甘い菓子で満たして絶望していった。本作では、人が命を絶つシーンが3つほどあるように思うが、それが「ある種の幻想の終わり」を意味しているとすれば、小癩の死はどのような幻想の終わりを象徴していたのか。人を感激させる劇の裏にある理不尽な世界、夢から現へ、醒めた小癩の虚ろな決断だった。
青年時代、少年団の解散に程蝶衣が引き取った小四という少年がいた。彼は内弟子のような立場として程蝶衣を支えるが、一方で文革思想に染まっていく。歯がゆいものがある。といっても彼に与えられた大きな役割はこのくらいであった。 結局のところ、程蝶衣を引きずり下ろしたものの、革命のエネルギーは京劇自体を悪しきものとしてしまった。小四自身も、よくわからない謎のシーンではあったが、体制によって処理されてしまう。
ただし、私が本作で1番いいなぁと思ったのは、実は彼のある表情で、市中で引き摺りまわされる段小楼と程蝶衣を群衆のひとりとして後ろのほうで眺めている姿だ。彼が段小楼と程蝶衣を見つめている表情の、笑顔とも苦痛とも読み取れないうごめきは本作一であったように見えたし、なんなら本作の象徴するすべてを代表していたような気がした。
結末に解釈が必要かどうかは不明だが、程蝶衣が亡くなったことは確かだ。また、彼が引いたのは模造刀ではなく実剣で、それは件の宝剣だったのだろう。程蝶衣が舞台の上で死を選んだというのはもちろんだが、それがあくまで段小楼との稽古のなかであったという点も見逃しがたい。そこは限りなくプライベートと京劇の狭間であったというワケだ。
また、最期のやり取りは、程蝶衣が女形に目覚めた際の事件の反復でもある。おそらくもなにも、このことが最も重要で、最後のカットで段小楼が「小豆」と声をかける。程蝶衣の幼名だ。段小楼の最後の笑顔には、色々な意味が込められているだろうが、私は小さな人間のやるせなさを見た気分のままでいる。