映画:《わたしは光をにぎっている》

噛みごたえのあるような無いような、割と解釈の余地が大きいというか、そういう意味で結末は開いているような、色々と考えたり思い返したりメモをまとめたりしたが、全体としては「滅び、もしくは変化の話」に思え、それゆえの寂しさをベースとしつつ、滅びそのものをネガティブに断ぜず、あくまで自然でなものあって、しかし希望を見出すには儚い話ではあった。

鑑賞直後は後味の処理に苦しんだが、なんともいえない味わいが頭のなかによく残っていることが思い返すほどに分かる。いい作品なのではないか。どうにもまとまりきらないが、メモを放出しておく。

2 つの水溜まり

野尻湖に突き出した桟橋から物語ははじまる。湖といえば巨大な水溜まりである。本作は水溜まりがキーになる。桟橋にて、主人公とみえる澪と祖母との会話がなされる。「目で見て、耳で聞けば、人生は何とかなる」というような助言が祖母より与えられ、野尻湖の黒い湖面が広がる。美しさと底知れなさが並立している。

入院する祖母と同じタイミングで、澪は追い出されるように上京する。彼女のバックグラウンドは作中でほぼ語られないが、年齢は 20 歳らしい。亡き父の親友であった三沢京介の運営する銭湯「伸光湯」に居候することになる。銭湯とは風呂であり、つまり水溜まりだ。

銭湯の滅びと澪の性質

滅びの話だと言ったが、ざっくり言うと伸光湯と彼らの属する商店街が再開発だか区画整理だかで無くなる。本作の難所と感じるところのひとつは、澪の成長(のようなもの)と新しい居場所の喪失が同時に発生するところにあって、個人的にはそこが捉えづらかった。これが滅び(変化)を意識したうえでの内容なのであれば本作、曲者だなと思う。どうなのだろう。

新しい環境で成長した澪が果たす役割は、地元の仲間たちへのお見送りであった。銭湯で居場所を見つけた澪が輝きだす頃には、描かれる主軸は京介に移ったように思われ、澪はエンディングにおいてはどこへ居るのかもわからない。

澪という人間は、自分本人が生きていても死んでいても構わないといった類の死生観を持っているようにも見え、それは美しくも醜くもなく、やはり自然なだけで、とりあえずは平穏であって、いわばマレビトとして京介と地元の仲間たちを訪れた彼女は、地域の最後の一瞬をきれいに切り取るための役割を果たし、どこかへ消えていく。

入浴の契機と主役の交代劇

本作の入浴シーンだが、3 つ用意されている。別にお色気の話ではない。まずは 1 つ目、伸光湯にはじめて来た日の晩である。照明の落とされた湯船で「あっ」と小さく叫んで反応を見ていた図は、実家の浴場との違いを確かめているようであった。幼さも感じられ、なんとも印象深い。

2 つ目は実家の民宿の浴場だ。これ、今思い返すとなんで朝風呂しているのかよく分からないが、通夜なりの晩に入ることを避けたのだろうか。浴場内で京介との会話があり、後述するが、この時点で澪はもう完全に以前までの人間ではない。言うてしまうと、主人公のバトンタッチはこのシーンだったのではとも思う。

最後の 3 つ目は伸光湯での入浴で、これが閉業前の最後の入浴だ。やはり男湯には京介がおり、彼の嗚咽が聞こえてくる。穿っていえば、お色気ではないと言ったが、このときの京介は文字通りに身も心も素っ裸なわけで、老若男女の趣味、性的嗜好に関わらず、作中最高にエロティックなシーンであったように感じる。お色気の話ではない。

ただし、入浴している京介の姿は、カメラには映らない。誰も見たくないからかね。

デッキブラシと澪の変身

入院前の祖母は作品冒頭、浴場にデッキブラシをかけていた。かつては祖母の日課であったのだろうし、自分の日常への彼女なりの別れの儀式だったとも取れる。澪が伸光湯にて初めて着手した作業もデッキブラシかけで、これには祖母のアドバイスの実践と日常の踏襲がある。そして最後のスクリーンで映し出されるのも彼女のデッキブラシかけで、これは言うまでもなく思い出であり、別れだ。祖母のアドバイスの実践は、澪と祖母がどこかしら同化してくようなところがある。

前述の実家での朝風呂の前夜、祖母の葬儀なりが行われた晩に澪は野尻湖の湖岸に立っていた。田舎の夜中、真っ暗である。彼女は湖岸から歩みを進めて入水し、胸のあたりまで浸かったか。少なくとも夏場ではない季節、危険極まりない。祖母の喪失の大きさが滲む。

パッと風景が変わると、野尻湖を走る水上バスの畳の上での澪と祖母との対話がはじまる。これはもう向こうの世界の話か、血縁パワーによる邂逅か、澪の誇大妄想か、夢の中でのできごとか分からないが、非現実であることには変わりなく、謎の情景を鑑賞することになる。朝か夕か判然としないが、ほんのりと暗い湖面を眺めながら、冒頭と同じようなアドバイスを澪に投げかける祖母である。

上空から湖面を切っていく船が映る。今までの澪はいないし、もはや澪の話は終わった。

現実問題、結末をどうする

本作のロケは葛飾区立石というエリアで行われたらしい。Wikipedia などによれば歴史のある地域である。実際に再開発でこの地域の特定の領域では、現地民の立ち退きが決まっているらしく、そこに関しては本作は、ほぼドキュメンタリーのような様相を呈する。実際に現地の方々を映しているようだが、どうなのだろうか。渡辺大知の演じる緒方銀次は、本作と現実との橋渡し役を担っている。

伸光湯の閉業後だが、上述のように、澪は去っている。もはや興味はそこにはない。代わりにあてられたマンションの一室で過ごす京介が映る。もしゃもしゃと生活しながら、次の糧を探しているらしい。希望のようにも覚えがたい彼の次の人生の開幕の最初の一歩で本作は終わる。

読んだ記事など

上記の記事を読むと、本作を観て感じたことのだいたいは感じた通りだったなということが分かるが、監督の意識は、私が印象を受けたよりも、 無くなる町についての問題意義を強く持っていたようである。

以下のコメントが面白かった。20 歳の人間がこんなにフワフワしていていいのかというくらいの澪の描写であったが、このような構想があったのか。憎たらしいなと思うのは、劇中で一箇所だけ妙に生々しい話題が繰り広げられるシーンがあり、そこでまた人物像がぼやける点だ。いやらしいなぁ。

中川:「少女」ではなくて「子供」ーーつまり、性的ではない存在として演じてほしいということは伝えました。自分の性を意識すると自意識が生まれるから、風景と自意識がぶつかってしまう恐れがあります。子供は風景に用意に馴染むじゃないですか? あれは小さいからではなくて、自意識が少ないからだと思います。

https://realsound.jp/movie/2019/11/post-446280.html

最後に、本作の英題であるが《Mio on the Shore》のようで「岸辺に立つ澪」とでもなるだろうか。あぁ、タイトルとしてはここをフィーチャーさせるのだなぁ。さもありなん。