映画:《砂の器》(1974)

《砂の器》(1974)を観た。この作品を皮切りに何度も映像化されているが、ほとんど見た記憶はなく、2004 年放送のドラマ版だけは見たことがあるような、ないような、朧げにあらすじを覚えているのは何故なのか、よく分からない。

丹波哲郎(今西刑事)の演技をちゃんと見たのも初めてで、眼力がある、というか虚空を睨みつけているのが空恐ろしい。作中終盤の会議で森田健作 (吉村刑事) にも似たような演技があった。情緒というか余白を生み出す意図なんだろうか。

いくつかのシーンが印象に残っている。

事件の膠着後、最初のひねりをみせる居酒屋でのシーン、今西と吉村の両刑事が座敷に座っているが、座敷の構造上あり得ない方向から撮られているのがおもしろかった。つまり衝立の奥側から撮っているように思われるシーンで、実際には他のシーンでは確かにある衝立をどかして撮ったと推察するが、奇妙であった。

もうひとつ、終盤の回想で英良(秀夫)が村の少年たちにいじめられるシーン、桜の幹を左手前に配置して中景を映していたが、構図が歌川広重のようで印象深い。

英良(秀夫)といえば、冒頭と終盤の回想で砂の器を作っているシーンがあるが、砂の器が何を示すのか分かりづらい。原作ではフォローされているのだろうか。冒頭は海だったように思うが、後半は出雲の田舎だ。各地で暇をみてはあの遊びをしていた、という解釈でよいのだろうか。

また、回想の終盤で鉄道の線路をひた走るが、少年というのは線路を走ったり、歩いたりすることが義務付けられているのだろうか、ちょっと笑ってしまった。

過去の回想と重ねて描写される「宿命」の演奏、英良(秀夫)の代役となりカメラに映るピアニストの指があきらかに女性なので、どうにも気が散ってしまった。プロの男性ピアニストをアサインできなかったのだろうか。ところで、彼が自宅で作曲のために演奏しているシーンは、指先からピアノにカメラが移動し、そのまま彼の表情まで映すシーンがあった。あれはどうやって撮影しているんだろう。

要所要所でスクリーンに白文字で場所の案内やナレーションなどが挿入される構成、昔から珍しかったのか、今になって少なくなったのか知らないが、最近だと《祈りの幕が下りる時》で見たね(あれは場所の説明だけだったかな)。文字での説明やナレーションなど無いほうが映像として洗練されていると言える気もするが、あると何というかフィクションへの没入感のクッションにはなるなぁ。

物語、原作に難ありという評をいくつか見た。そもそもプロットにかなり変化があるらしいが、未読である。

英良(秀夫)の犯行の動機についても意見がいろいろ交わされているようだが、少なくとも幼少時の英良(秀夫) が三木謙一に対して抱く感情は、ほとんど明るいものではなかっただろうと思うし、そのように演技、演出されていたのではないか。

今西刑事のセリフだったか、彼は「宿命」という曲のなかで自分の父親と会っていた、というような表現があったが、これは良いものだ。理恵子への拒絶も分かりやすい(しっかりしとけというツッコミどころではあるが)。

こう何度も映像化されている作品だと、どれかひとつくらいはキチンと鑑賞しておきたいなという気持ちになるもので、今回はそれが最初の作品で達せられたという満足感もある。単純に、1970 年代の日本各地の様子がカメラに収まっているのも興味深いよなぁ。