いろいろを試しては捨てるということを繰り返しては最適解を探すのが人間、ひいては生物の性というものだが、Discord を個人メモツールに使おうというムーブメントがやってきた。ググると似たような話題が出てくるし、そうしているひとの話を目にして興味を持った次第だ。
Discord というのは、ゲーマー向けのチャットツールという位置づけだ。昔は Skype 一択だったのだろうと思うが、今ではさまざまなツールがある。チャットツールをメモに使うという発想がどれくらいメジャーか分からないが、つぶやき単位でメモが溜まっていくというのは精神衛生上よいように思える。
少し話を戻すと、ラップトップとスマートフォンなどで共有して使えるメモ機能を探している。結局、オンラインで使えるツールを探すことになるわけだが、これがなかなか難しい。求めているのは、カテゴリ分けしやすいツールだ。これがなかなか選択肢を狭める要因で、Evernote ほどの機能は不要だが、Keep や Simplenote などでタグで分別する手間を払いたいのだ。それに後者のアプリたちは 1 メモの存在感が大きい。もっとミニマルなメモツールがいい。
エンジニア向けなど、マークダウン記法に対応した類の情報管理ツールはカテゴリ分けの条件には一致するが、マークダウン機能は不要だし、やっぱりちょっと違う。同じように、ここで何度か話題にあげている Notion もこの目的にはちょっとカロリーオーバーなのだ。
あるいは、Twitter を鍵アカウントにして誰もフォローせずに使うという手もあるが、ホーム画面はすべてのツイートを表示しなくなったので使いづらい。いちいちアカウントのトップを開いていられるかよ。もしくは、Slack を個人で使うという方法もあり、これはかなり実践性が高いのだが、やはり個人的な用途という感じがしないし、複数の workspace に参加している場合、その切り替えが割とめんどくさい。
というわけで、白羽の矢がたったのが Discord なのであった。以下は読む必要もないが、単純な準備手順だ。
サーバをたてる
Discord にアカウントを登録すると、サーバに参加するか、自分のサーバを立ち上げるかを決定することになるが、今回についていえば「サーバ」とは自分のメモのためのホームの名前と思っていい。難しいことはない。適当に名前を付ける。
チャンネルをたてる
いわゆるチャット画面が立ち上がると、左からホームおよび参加サーバ一覧、フレンドDMもしくはサーバ内チャンネルの一覧のカラムが並ぶ。個人用のメモはサーバ内のチャンネル別に記述していくことになる。この時点でサーバを追加することも可能で、つまり 2 階層のメモ入力システムが用意されたことになる。
メモを入力する
チャットの入力画面にメモを入力するだけの話だ。チャンネルは適当に分類すればいい。自分用のメモとしては「ピン留め」「引用」「絵文字でリプライ」あたりの機能は応用ワザとして利用できそう。また、URL は自動的にいわゆるリンクカードを生成してくれるので可読性が高まる。写真の投稿もできるらしいので、写真のメモもよいだろう。
問題点があるとすれば
この使い方が本来の用途と異なるという点は、根本的な問題かもしれない。その他、バックアップやログの抽出が基本機能にはないという点も問題だろう。他にもあるかもしれないが、そもそも Discord の機能を把握していないのが最大の問題だ。
いずれにせよ、 似たような機能性を備えたメモツールが他にあれば喜んで使うさ。
なお、以下の記事などは参考になった。本筋とは関係ないが、以下の 2 つの記事、片方が note での運用で、もう片方が medium での運用なのがおもしろいな。
お一人様Discordはいいぞ!(リンク先、記事もアカウントも削除されてますね)- 自分向けメモとしての Discord サーバ
いつだったかデヴィッド・リンチ監督の《エレファント・マン》を観た。近年の私の好きなコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)で、本作が重要なアイテムだったので気になっていてが、スクリーンで鑑賞する機会が以前にあったので、これ幸いと観たのであった。感想を途中まで書いて放っていたのだが、棚卸する。
いまさら説明は不要と思うが、本作は「重度の奇形病に悩まされた男、通称エレファント・マンことジョゼフ・メリックの半生」を描く。実在の人物は存在するが、それなりに脚色された物語だ。
院長カー・ゴムの変節
『ケンガイ』では、メリックを看護した医師トリーブスの奥さんのセリフを引用して同作の登場人物に投影されていたが、私は院長カー・ゴムの変節に泣いた。あまりに傲慢だが、それゆえに人間的でもあった。
院長は当初、会話もままならないメリックの入院に反対していた。それが一転、メリックが詩編 23 を諳んじられる教養の持ち主であることが判明すると、意見を翻す。トリーブスに「君に彼の半生を想像できるか?」と問い、適当な相槌が返されると「そんなわけない!」と否定する。メリックほどの知性をもった人間が動物と同じかそれ以下の環境で虐げられてきた、想像を絶する辛酸に勝手に共感したのだ。
院長の当初の見解は経営者という視点では正しかろうが、人道や倫理的な視点からは否定される。知性の程度に関わらずメリックは助けられるべきであって、作中ではその役目をトリーブスが果たしたが、院長のような価値観をもった人間もいるわけで、その変節にメリックの知性を持ちだすのが憎い。これは人間の弱さだ。
興行師バイツの偏愛
見世物小屋のエピソードは作劇上の演出が強めのようで、Wikipedia の記述を信頼すれば実際のメリックは時代の変化によって見世物小屋産業が縮小するなか最後の契約を一方的に破棄され財産を奪われたようだが、それまではそれなりに従業員として見世物の仕事を果たしていたようだ。
その点、作中の興行師バイツはメリックの扱いが酷く、殴打してしつけをするような態度で臨むなどする。なぜこういう演出になったかは、メリックに対する差別や偏見など、負の態度をもっとも象徴する人物像が作劇上として必要だったからだろう。
しかし、同時にバイツはメリックを「私のかわいい宝」などとも言う。興行師バイツにとって最も稼ぎのある見世物がメリックであったのかもしれないし、孤独な放浪者であるバイツが頼りにできるのもメリックぐらいしか残らなかった(と彼は信じている)のかもしれない。これも人間の弱さだ。
なによりメリックのこのような半生をスクリーンで鑑賞している私がいるわけで、医師トリーブスの無償の愛も、ゴム院長のみせる条件付きの博愛も、興行師バイツの悲劇または破滅する愛も、それらをすべて享受して鑑賞しているのだから仕方ない。
聖堂のミニチュアをほぼ完成させたメリックは、就寝とともに奇妙な夢をみせておそらく亡くなったわけだが、夢に登場する女性の表情とセリフがまた何とも言えない奇妙な感触を残す。
先日に感想を残した《書を捨てよ町へ出よう》と同時上映であった。こちらのほうが、まとまった作りなので鑑賞しやすいかな。積極的に人に薦められるとも思わないが、おもしろかったさ。
この作品もメタ構造をとっている。もっとも特徴的なのは、登場人物の顔面が例外を除いては白塗りになっている点だ。例外がどのような基準であるかは分からないが、推測するに「作中の作者の意図を越えた(と描写される)登場人物には白塗りがない」のではないか。つまりそれは主人公をそそのかした人妻であり、その彼氏であり、あるいは主人公の貞節を奪った女性であったりする。他は忘れた。
大雑把に話は以下の 4 つがあり、「少年の主人公が田舎を飛び出そうとする話」「子を生んだ女がその子を手放す話」「見世物小屋の空気女が夫に捨てられる話」「青年の主人公が過去の改変を試みる話」がある程度まで並行して進み、結末にかけて徐々にクロスオーバーしていく。いや、見世物小屋の話も関連することはするが、それ以外の 3 つの関連性のほうが強い。
言い換えると「少年の主人公が人妻と田舎を脱出する」までが青年の主人公の制作した「過去の回想作品」だが、これで本当にいいのか? と彼は悩む。そして後半は「実はこうだったのではないか?」という虚現実の入り交じった内容になり、それは「逃避行の失敗」であり、「青年に唆された少年は偶発的にも貞節の喪失」に遭遇し、「ようやく母なるものと折り合いがついた青年がいたのは新宿の雑踏のなか」であった。
ネットに転がる感想を読むと、寺山修司のテーマとされる「母殺し」についてのコメントが多いが(これは原作の詩を意識してのことだろうか)、私は《書を捨てよ町に出よう》にも描かれた「少年の思わぬ貞節の喪失」のほうが気になった。前作以上にその描写は強烈で、なんといっても仏様の眼前での強行である。まさしく神も仏もいないのだ。これも寺山修司自身の自省的な面が強いと考えるのが自然と思うが、どうなのだろうね。
田舎と母の呪縛というメタファーに時計が使われている点もベタではあるがおもしろく、「時計は家族にひとつあればいい、バラバラの時計があってはいけない」という価値観が母を自縛している。そうは言うものの、家の時計は狂っているし、終盤には狂った柱時計がたくさん掛かっている映像も用いられる。
母といえば少年が家出したのち、板間の板をひっくり返して出したスクリーンに恐山の上空から少年を発見するシーンがあった。これはいわゆる特撮なのか、どうやって撮影したのか分からないが、板間の裏が遠隔地を映す装置になっているという発想にはやられた。当時にしても珍しくはないイメージだろうけど、発想元は何かあろうのだろうか。私は『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を連想してしまった。
見世物小屋については、ここでも性的なイメージを喚起させる目的を強く感じるが、あんまり深く考えたくないし、逆に、単体ではここが一番楽しかったかもしれない。よく知らんが、ここの登場人物は天井桟敷の方たちなのかな。
なんだかんだと書いたが、思い出してみれば、人妻の実家の田畑が寂れていく情景が鑑賞中はいちばん心に響いた。田園で死んだのは一体なんだったのかね。
『ボールルームへようこそ』の 10 巻を読む。
月刊少年マガジンで連載中の作品だが、実質は不定期連載のようになっており、突然の終了はないだろうと思うが気が抜けない。また、今回は本巻の Amazon レビューで知ったのだが、2017 年放映のアニメが展開を先行したらしい。昔はこのようなことがよくあったような気がするが、最近でもあるのだなぁ。
そして、先行した展開の内容だが、この 10 巻に収録されている最後の話以降(数話くらい使うかな)で披露されるはずで、さらにそれは 2020 年 2 月号( 1 月発売)以降から掲載予定だったが、さっそく 2 月号で休載となった。楽しみが次号以降に持ち越された形だ。歯がゆいものだ。
というわけで、存在を知ってしまったからには無視して話を続けづらくもなったのでアニメを最終話だけみたが、全体のトーン(ここでは主にキャラクターの感情表現)がアニメ向けにメリハリ付けられているなぁというのがひとつ。しかし、原作の線が割と生かされたデザインだなぁというのも思った。最後に、予想した展開がちょっとばかり違うなというのがある。ただまぁ、これは作者のチェックは通っているのではないかな。
10 巻の話に戻る。ちょうどいい機会だからと 1 巻から読み返していたのだが、本シーズンのライバル釘宮方美だが、彼の若い頃はまさに主人公の富士田多々良に被るのだなぁと認識した。釘宮は幼少期(小学生までかな)はボゥッとした少年で、職員室での先生の注意も上の空で窓の外を眺めていた。これは中学生の富士田が進路指導をやり過ごしていた描写と同じくみえる。
まぁ要点としては、釘宮にしても急成長する富士田と同じ舞台でガチで踊ってたらやっぱりダンス楽しいなぁという原点回帰してくるところだろう。兵藤にせよ、赤城にせよ、富士田を通して同じような契機を得ている。
釘宮の話をしておいてなんだが、10 巻の最大のハイライトは富士田と緋山の平衡(カウンターバランス)がとうとう成立をみせる描写だ。富士田を本当の意味での額縁たらしめた緋山が、彼女自身も富士田自身からパートナーとして花開いていくという状況をあのように描かれると降参するしかない。よいものだ。
西洋美術館の常設展示室での小展《内藤コレクション展 ゴシック写本の小宇宙》に出かけた。《ハプスブルグ展》と同日程となっており、最終日の行列に並ぶ。常設展の窓口を別にできないかと常々思うのだが、それはそれで難しいのだろう。
内藤コレクションというのは、医師、内藤裕史氏からおよそ 150 点、 2016 年に西洋美術館に寄贈された写本のコレクションであり、これに加えて藝大の持っている 4 点の写本(ファクシミリ版だったかな)も同時に展示されていた。内容は、主に13 世紀のイギリスやフランスで作成された聖書に連なる写本の「零葉」が主であった。零葉というのは、書籍から残った1ページだけのことを指すらしい。知らなかった。
これらの写本の特徴は、まず羊皮紙製であること。正確に引かれた罫線に従ってラテン語、ものによってはフランス語などで記述される。
さらに「ドロップキャップ(イニシャルキャップ)」と言っていいのか、各ページの主要な箇所の頭文字を大きくあしらう。これは罫線の外の余白に書かれることもあれば、罫線内の複数行に大きく書かれることもある。この大きな文字が生み出した空きスペースに、本文の内容のイラストを配することも特徴として挙げられる。
レイアウトは 2 段組みになることが多いようだが、外枠や中央の罫にはアラベスクのような植物や、螺旋か渦のようなオブジェクトが描かれることも多いようで、美しいは美しいが、グロテスクであったり不気味な様子がある。組み合わせて、人や動物、ドラゴン(だったかな)などがモチーフとなったイラストが多く載るが、よく考えるとドラゴン(だったかな)はよく分からないな。聖書にドラゴン関係あるっけ。
行内の余った領域にも埋草として模様が入っており、これには執念じみたものを感じたが、実用的には抜け漏れを防ぐ目的などがあったのだろうか。黙読するときの行移動で下の行の目安を付けやすいということもあるかもしれない。
展示作品のうち何点かは、灰や黄緑、オレンジ様の色も使われていたが、当時の彩色方法としては不透明水彩の赤と青が使いやすかったらしく、そこに金箔を加えた3色によるカラーが多かった。これがなかなか色彩豊か(と言っていいのか)な印象を与えられるもので、赤と青と金と黒だけでこんなに楽し気な紙面を作れるのだなぁという感動もある。
で、どうしてこういう装飾が施されたのかということなんだけど、なぜなんだろうか。美しい紙面にするということはそれだけ写本の価値をあげるということかもしれないが、そういうことだろうか。ぶっちゃけて言うと、読みやすさや検索しやすさを上げるためだろうかと思うのだが、どうなのだろうか。目的の内容のイニシャル、イメージが頭に浮かんでいれば、ペラペラとページをめくったときに該当する箇所を見つけやすくなる。そういうことではないのか。そういう実用性の面の話はなかった。
余談だが、本展は常設展のスペース内の展示(西洋美術館の収蔵品)なので基本的には撮影が可能になっている。私と同じようにブログに感想を残している方々を探すと、撮影された写本がたくさん出てくるので楽しい。
それはいいのだが、スマートフォンのシャッター音がうるさすぎる。そこかしこでカシャカシャと鳴らされると落ち着いて見ていられない。なんとかならんかね。
特に記憶に残っているのは以下の 2 点だ。
「栄ある天国の扉」
題字は間違っているかもしれない。「D」だったと思うが、段落全体を囲むように描かれており、そのなかに本文が挿入されているという異色のレイアウトだ。これはおそらくこのタイトルの通り、扉なり門なりがイメージされてこのようになったのだと思う。
「天にいる神に祈る水中のダビデ王」
「S」の上部の余白に天の神、下の余白に水浴するダビデ王が描かれている。どの文書に対応した箇所なのか記憶しておけばよかったが、どうなのだろう。本写本には楽譜(のようなもの)が載っているのもおもしろい。
昨年末に iPad を購入しようか迷っているというようなこと書いたが、結局のところ 2020 年の初売りで iPad Pro 11 を Smart Keyboard Folio とともに購入した。そこそこの出費である。Apple Pencil も活用できる端末ではあるが、これはとりあえず保留とした。12 inch でも良かったのかもだが、ふと持ちだしたいときには大きすぎるように思ったので、11 inch とした。
iPad を購入したことでひさびさに Apple 製品のある生活に戻ってきたが、過去に有効だった操作が最新の iPadOS で無効になっているなどがあり、戸惑う。新しいデバイスに出会うときに同じことがよく起こるが、こういう感覚は大事にしたいものだ。とはいえ、概ね慣れてきた。
キーボードの装着感も打鍵感も嫌いではない。ペチペチといった感じだが不思議と打ちづらさはない。11 inch サイズのキーボードに自分が耐えられることは Chromebook で確認済みであったので、サイズについての苦痛はまったく無い。ただ、タブレット様に使うときはカバーが邪魔だな。いちいち装着/脱着するのもめんどくさい。しかし、US キーボードを手軽に選択できることが Apple 製品の強みであることだと再認識する。
しかし、タブレットの大きさと快適さにあらためて感動している。まぁ、スマートフォンも大画面化が進んだし、そのせいか町中や電車内でタブレットを使っている人間は減ったようにも思うが、やはりそれでも便利は便利なのだ。
また今回、手元で腐らせていた App Store のカードを活用できたのが、地味にうれしい。ちょっとした手違いで諭吉分のカードを以前に購入し、そのときには Apple 関連で消費したいサービスなどがなく、使い道がなかった。譲渡することも億劫でかなり長い期間も寝かせていたのだが、これを登録した。大物買いをしなければ、しばらくこれで試せることも増えるだろう。
ニュースやフィクションなどで「永田町」や「霞が関」などの地名を耳目にするとき、それは国の政治に関わる内容であることが連想しやすい。永田町には国会と関連施設があり、霞が関には国家機関の庁舎が立ち並んでいるからだ。ただまぁ、知っていればピンと来るという話であって、義務教育か高校の授業でもキーワードとして登場くらいはしたようにも思うが、興味がなければ何のことか分からないという人も少なくはないだろう。
一方、アメリカ合衆国であれば「ホワイトハウス」や「ペンタゴン」などだろうか。実際はもっとあるだろうが、パッと思いつくのはこんなものだ。ロシア連邦であれば「クレムリン」か。極東アジアについて言えば中華人民共和国なら「中南海」、大韓民国であれば「青瓦台」だろうか。他には分からない。
このような政治を象徴する場所や建造物は、政治の単位や地域に限らずいくらでもあるのだろうが、そういった類の情報が集まってはいないのだろうか。
少しだけ調べてみたが、フランスであれば「エリゼ宮」が該当するのだろうか。イギリスでは「ホワイトホール」が行政機関の中心であることを示すことがあるらしい。政治ではないが、金融セクターである「シティ」もあったなぁ。
とまぁ、そんなことを少しだけ考えていた。
ヒッチコックを観よう 5 作目《逃走迷路》である。これもプロパガンダ映画なんだっけ。その色合いがだいぶ強い。原題が《Saboteur》(サボタージュ:妨害工策)だものな。
この作品のおもしろいところに舞台がサンフランシスコからニューヨークに移るという点がある。色々と移動が多いヒッチコック作品だが、さらに移動距離が大きくなった。また、その手段だが、どうやらトラックや車なので、これもちょっと気になった。モノクロの古い映画のようでいて、きっちり現代映画なんだよなぁ。
しかし、思い返してみるとあまり印象に残らない作品だったなぁ。黒幕と冒頭でばったり出会ってしまっているのは、サッパリしていてよかったが、うーむ、うーん。
結末のキレのよさで後日談を必要とさせないのがヒッチコックだなとは感じるが、本作については少しフォローがほしい。というのも、クライマックスで冒頭の事件の犯人は主人公に対して懺悔を残して亡くなったが、その背後の大きな闇については何も解決しておらず、触れられてもいないのだから。そういう余韻を残すのが本作の目的と言われればそこまでではある。
自由の女神から落ちるシーン、どうやって撮影されたのか、結局のところ詳しいことは明かされていないのか、軽く調べるくらいだと分からないな。
1981 年制作(フランス、西ドイツ合作)、日本国内での公開は 1988 年だそうだが、シネマカリテで 40 周年記念リマスターということで上映されていた《ポゼッション》を 2020 年の映画初めということで鑑賞した。偉い体験だった。ホラー映画と認識をしていなかったので、そのことが判明するまでは夫婦間の不和を描いた《マリッジ・ストーリー》(私はまだ未見)に連動した企画かなと思っていた。もしかしたら万が一、その狙いはあるのかもしれないが(笑)、それにしてもピーキーな作品であった。
舞台がドイツであることは序盤の壁の描写から分かるが、作中で使用される言語は英語だ。どこかのシーンで “can” が「カン」と聞こえたので英国英語だろうと予測も立った。登場人物は主人公のマルク、妻のアンナ、息子のボブ(?)、妻の友人マージ、妻の浮気相手ハインリッヒ、ハインリッヒの母、その他などである。
どこかの説明にはサイコロジカルホラーとあったが、前述の通りに夫婦の問題、男と女の問題から、善や悪、神や魂などといったコンセプトが放り込まれる。
膚を晒させる
当たり前だが、服を脱いだ人間の姿というのは人間の最小構成だ。登場人物が他人を脱がせるシーンがいくつかあり、たとえばマルクが息子のシャツを、妻のアンナのワンピースを脱がせるが、そのときの彼は相手の脇に手をやり、やるせない表情をとる。これは戸惑いや断絶だろうか。
一方、ハインリッヒはやたらと屈強な上半身を強調したがる。後半の衣装には笑ってしまったが、彼はアメリカかぶれみたいな役どころも与えられているっぽいので、さもありなん。
本作、ヌードと殊更に強調するわけではないが、肌を見せることについてはこだわりがあるのだなという点を強く感じた。
ハインリッヒは走る
屈強な上半身を強調したがるハインリッヒは本作の狂言回し、マクガフィンといったところか、エッジの効いたキャラクターがおもしろい。ドイツでは母と暮らしているが、アメリカにも家族が居るという。アンナの価値観を揺らがせて、本件の惨事を引き出した原因とも言える。彼の母の述懐まで含めると、またいろいろな側面が見えてきそうだ。
彼の撮影したアンナのフィルムをマルクが鑑賞しているシーンは、マルクの背中越しから撮影されており、個人的には、この映画で一番好みのカットでもあるかもしれない。
人物の二面性をみる
ハインリッヒによって引き出されたアンナの善悪の葛藤は、マルクの知らないアンナの像を現出させたわけだが、その二面性はそもそもハインリッヒにも当てはまることだ。
マルクがアンナを諦めるまでにブチ切れる描写がいくつかある。決定的にヒドイのは冒頭で彼が怒りと失望により何日間か寝込んだあとのシーンだ。起床直後のマルクは、異常な人間のようにキレまくる。私はいっときこの人物を似た別人とすら思い込んだ。
逆に、この思い込みがマルクの二重性を連想させたので、アンナの生み出したものについては予想しやすかった。あるいは最終的にマルクがたどり着いた姿が、この序盤で示唆されていたとすれば上手すぎるくらいだなとも感じる。
屋内に異常な広さを感じる
本作、屋外の構図なんかも素晴らしいが、室内が抜群に好みであった。人間の心理や本質の奥深さなどを表しているのかな。しつこいようだが 5 つあげる。
任務から帰京したマルクが 4 人の上役たちと居る会議室。広々とした部屋の角に長卓に並ぶ 4 人。対面するマルク。ぐるりぐるりと部屋を映す。上級の会議室というのは、広さを持っていることがまずステータスであると思うが、マルクの仕事が何かもわからないまま見せられるただ広い部屋は、最初に目につく(うーん、広い部屋だな)。
マルクの家、マンションの高層にある部屋だが、まぁ広い。入り口付近は狭いようで(広く見せないように撮っているだけだと思うが)、台所、息子の寝室、夫婦の寝室、居間、その隣の部屋と覚えているだけでそれだけあり、ひとつひとつがまた広い(広く見せるように撮っている)。
ハインリッヒの家、これも高級そうなマンションの部屋だが、怒りのマルクが訪問し、アンナがいないかと家じゅうを彷徨するシーンがある。これがまた広くて広くて、どんだけ広いんだなる(と感じさせるように撮っている)。
後半には、ハインリッヒの母を訪ねるが、このときは母の居住空間が映される。これもまた広い広い。全体でどんだけ大きいのだとなる(これは完全に狙い通りに誘導されているなと気がつく)。
息子の通う幼稚園の先生の家、これもまた大きい大きい。異常に大きいし、白くて近代的で美しい。あからさますぎて笑っちゃうくらい大きい。なんなら二階分あるやん。なんなんこれ。どんだけ対比したいねん(あからさますぎて笑う)。
最後に、アンナの隠れ家だがこれも広い。徐々に部屋の構成が明らかになっていくが、その大きさがはっきりわかるのはこの部屋が最後に登場したときくらいではないだろうか。基本的にはがらんどうの廃墟であることが、一層、その意味を強めているように思う(この部屋、キライじゃないんだよなぁ)。
なお、その他の喫茶店やバーなどもやたらと広い。なんでこんなに屋内が広いんだ、この映画は。
と、まぁこのような感想を抱いてた。
2019 年に観た《ブラインドスポッティング》(2018)の記録だ。
カリフォルニア州はオークランドに暮らす黒人青年コリンと幼なじみの白人青年マイルズの物語。演じているのは、ダヴィード・ディグスとラファエル・カザルの 2 人だが、彼らはもともと長年の友人で、2 人して本作の脚本も手掛けているのだそうだ(どこかの解説で読んだが、ソースを見失った)。
物語の主人公、青年コリンは小さな事件を起こして保護観察処分を受けている。11 か月間オークランドの所在郡から抜けられず、門限 23 時の寮生活を強いられている。本作は残り 3 日となった期間に起きる出来事を 90 分で描く。
もともとオークランドは多国籍的な町だそうで、かつては中国人街、日本人街なんかもあったらしい。Wikipedia によると現在の市長も中国系アメリカ人のようだ。同州シアトルの興隆もあって、リッチな技術者やそれに類する思想をもった人らもちょいちょい移ってきたりとしたことで、街の様子も変わりつつある。そのへんの軋轢も描かれている。
白人のマイルズは根っからのオークランドっ子でコリンとは昔なじみの親友であるし、黒人の妻と娘を抱えて暮らしている。彼は喧嘩っぱやいヤンチャな問題児として描かれるが、マイルズのやんちゃさは、白人だから許されているという側面もあるようで、同時にそれゆえの歯がゆさも並立している。
黒人のコリンは基本的に温和な人間だが、処分のきっかけになった事件、そして映画冒頭に目撃した事件によって精神が不安定になる。トラウマとすらなった葛藤はクライマックスで爆発し、クライマックスにして本作最大の見どころであった。
しかし、彼の爆発の対象もまた、コリンやマイルズと同じようにさまざまなトラブルを抱えた小さな人間のひとりであり、また同時に同じオークランドに居を構える仲間なのであった…。渋い。
タイトルの「ブラインドスポッティング」に呼応するシーンだが、コリンとマイルズの画廊での労働中のある一幕が呼応していたように思う。