ニュースやフィクションなどで「永田町」や「霞が関」などの地名を耳目にするとき、それは国の政治に関わる内容であることが連想しやすい。永田町には国会と関連施設があり、霞が関には国家機関の庁舎が立ち並んでいるからだ。ただまぁ、知っていればピンと来るという話であって、義務教育か高校の授業でもキーワードとして登場くらいはしたようにも思うが、興味がなければ何のことか分からないという人も少なくはないだろう。

一方、アメリカ合衆国であれば「ホワイトハウス」や「ペンタゴン」などだろうか。実際はもっとあるだろうが、パッと思いつくのはこんなものだ。ロシア連邦であれば「クレムリン」か。極東アジアについて言えば中華人民共和国なら「中南海」、大韓民国であれば「青瓦台」だろうか。他には分からない。

このような政治を象徴する場所や建造物は、政治の単位や地域に限らずいくらでもあるのだろうが、そういった類の情報が集まってはいないのだろうか。

少しだけ調べてみたが、フランスであれば「エリゼ宮」が該当するのだろうか。イギリスでは「ホワイトホール」が行政機関の中心であることを示すことがあるらしい。政治ではないが、金融セクターである「シティ」もあったなぁ。

とまぁ、そんなことを少しだけ考えていた。

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ヒッチコックを観よう 5 作目《逃走迷路》である。これもプロパガンダ映画なんだっけ。その色合いがだいぶ強い。原題が《Saboteur》(サボタージュ:妨害工策)だものな。

この作品のおもしろいところに舞台がサンフランシスコからニューヨークに移るという点がある。色々と移動が多いヒッチコック作品だが、さらに移動距離が大きくなった。また、その手段だが、どうやらトラックや車なので、これもちょっと気になった。モノクロの古い映画のようでいて、きっちり現代映画なんだよなぁ。

しかし、思い返してみるとあまり印象に残らない作品だったなぁ。黒幕と冒頭でばったり出会ってしまっているのは、サッパリしていてよかったが、うーむ、うーん。

結末のキレのよさで後日談を必要とさせないのがヒッチコックだなとは感じるが、本作については少しフォローがほしい。というのも、クライマックスで冒頭の事件の犯人は主人公に対して懺悔を残して亡くなったが、その背後の大きな闇については何も解決しておらず、触れられてもいないのだから。そういう余韻を残すのが本作の目的と言われればそこまでではある。

自由の女神から落ちるシーン、どうやって撮影されたのか、結局のところ詳しいことは明かされていないのか、軽く調べるくらいだと分からないな。

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1981 年制作(フランス、西ドイツ合作)、日本国内での公開は 1988 年だそうだが、シネマカリテで 40 周年記念リマスターということで上映されていた《ポゼッション》を 2020 年の映画初めということで鑑賞した。偉い体験だった。ホラー映画と認識をしていなかったので、そのことが判明するまでは夫婦間の不和を描いた《マリッジ・ストーリー》(私はまだ未見)に連動した企画かなと思っていた。もしかしたら万が一、その狙いはあるのかもしれないが(笑)、それにしてもピーキーな作品であった。

舞台がドイツであることは序盤の壁の描写から分かるが、作中で使用される言語は英語だ。どこかのシーンで “can” が「カン」と聞こえたので英国英語だろうと予測も立った。登場人物は主人公のマルク、妻のアンナ、息子のボブ(?)、妻の友人マージ、妻の浮気相手ハインリッヒ、ハインリッヒの母、その他などである。

どこかの説明にはサイコロジカルホラーとあったが、前述の通りに夫婦の問題、男と女の問題から、善や悪、神や魂などといったコンセプトが放り込まれる。

膚を晒させる

当たり前だが、服を脱いだ人間の姿というのは人間の最小構成だ。登場人物が他人を脱がせるシーンがいくつかあり、たとえばマルクが息子のシャツを、妻のアンナのワンピースを脱がせるが、そのときの彼は相手の脇に手をやり、やるせない表情をとる。これは戸惑いや断絶だろうか。

一方、ハインリッヒはやたらと屈強な上半身を強調したがる。後半の衣装には笑ってしまったが、彼はアメリカかぶれみたいな役どころも与えられているっぽいので、さもありなん。

本作、ヌードと殊更に強調するわけではないが、肌を見せることについてはこだわりがあるのだなという点を強く感じた。

ハインリッヒは走る

屈強な上半身を強調したがるハインリッヒは本作の狂言回し、マクガフィンといったところか、エッジの効いたキャラクターがおもしろい。ドイツでは母と暮らしているが、アメリカにも家族が居るという。アンナの価値観を揺らがせて、本件の惨事を引き出した原因とも言える。彼の母の述懐まで含めると、またいろいろな側面が見えてきそうだ。

彼の撮影したアンナのフィルムをマルクが鑑賞しているシーンは、マルクの背中越しから撮影されており、個人的には、この映画で一番好みのカットでもあるかもしれない。

人物の二面性をみる

ハインリッヒによって引き出されたアンナの善悪の葛藤は、マルクの知らないアンナの像を現出させたわけだが、その二面性はそもそもハインリッヒにも当てはまることだ。

マルクがアンナを諦めるまでにブチ切れる描写がいくつかある。決定的にヒドイのは冒頭で彼が怒りと失望により何日間か寝込んだあとのシーンだ。起床直後のマルクは、異常な人間のようにキレまくる。私はいっときこの人物を似た別人とすら思い込んだ。

逆に、この思い込みがマルクの二重性を連想させたので、アンナの生み出したものについては予想しやすかった。あるいは最終的にマルクがたどり着いた姿が、この序盤で示唆されていたとすれば上手すぎるくらいだなとも感じる。

屋内に異常な広さを感じる

本作、屋外の構図なんかも素晴らしいが、室内が抜群に好みであった。人間の心理や本質の奥深さなどを表しているのかな。しつこいようだが 5 つあげる。

任務から帰京したマルクが 4 人の上役たちと居る会議室。広々とした部屋の角に長卓に並ぶ 4 人。対面するマルク。ぐるりぐるりと部屋を映す。上級の会議室というのは、広さを持っていることがまずステータスであると思うが、マルクの仕事が何かもわからないまま見せられるただ広い部屋は、最初に目につく(うーん、広い部屋だな)。

マルクの家、マンションの高層にある部屋だが、まぁ広い。入り口付近は狭いようで(広く見せないように撮っているだけだと思うが)、台所、息子の寝室、夫婦の寝室、居間、その隣の部屋と覚えているだけでそれだけあり、ひとつひとつがまた広い(広く見せるように撮っている)。

ハインリッヒの家、これも高級そうなマンションの部屋だが、怒りのマルクが訪問し、アンナがいないかと家じゅうを彷徨するシーンがある。これがまた広くて広くて、どんだけ広いんだなる(と感じさせるように撮っている)。

後半には、ハインリッヒの母を訪ねるが、このときは母の居住空間が映される。これもまた広い広い。全体でどんだけ大きいのだとなる(これは完全に狙い通りに誘導されているなと気がつく)。

息子の通う幼稚園の先生の家、これもまた大きい大きい。異常に大きいし、白くて近代的で美しい。あからさますぎて笑っちゃうくらい大きい。なんなら二階分あるやん。なんなんこれ。どんだけ対比したいねん(あからさますぎて笑う)。

最後に、アンナの隠れ家だがこれも広い。徐々に部屋の構成が明らかになっていくが、その大きさがはっきりわかるのはこの部屋が最後に登場したときくらいではないだろうか。基本的にはがらんどうの廃墟であることが、一層、その意味を強めているように思う(この部屋、キライじゃないんだよなぁ)。

なお、その他の喫茶店やバーなどもやたらと広い。なんでこんなに屋内が広いんだ、この映画は。

と、まぁこのような感想を抱いてた。

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2019 年に観た《ブラインドスポッティング》(2018)の記録だ。

カリフォルニア州はオークランドに暮らす黒人青年コリンと幼なじみの白人青年マイルズの物語。演じているのは、ダヴィード・ディグスとラファエル・カザルの 2 人だが、彼らはもともと長年の友人で、2 人して本作の脚本も手掛けているのだそうだ(どこかの解説で読んだが、ソースを見失った)。

物語の主人公、青年コリンは小さな事件を起こして保護観察処分を受けている。11 か月間オークランドの所在郡から抜けられず、門限 23 時の寮生活を強いられている。本作は残り 3 日となった期間に起きる出来事を 90 分で描く。

もともとオークランドは多国籍的な町だそうで、かつては中国人街、日本人街なんかもあったらしい。Wikipedia によると現在の市長も中国系アメリカ人のようだ。同州シアトルの興隆もあって、リッチな技術者やそれに類する思想をもった人らもちょいちょい移ってきたりとしたことで、街の様子も変わりつつある。そのへんの軋轢も描かれている。

白人のマイルズは根っからのオークランドっ子でコリンとは昔なじみの親友であるし、黒人の妻と娘を抱えて暮らしている。彼は喧嘩っぱやいヤンチャな問題児として描かれるが、マイルズのやんちゃさは、白人だから許されているという側面もあるようで、同時にそれゆえの歯がゆさも並立している。

黒人のコリンは基本的に温和な人間だが、処分のきっかけになった事件、そして映画冒頭に目撃した事件によって精神が不安定になる。トラウマとすらなった葛藤はクライマックスで爆発し、クライマックスにして本作最大の見どころであった。

しかし、彼の爆発の対象もまた、コリンやマイルズと同じようにさまざまなトラブルを抱えた小さな人間のひとりであり、また同時に同じオークランドに居を構える仲間なのであった…。渋い。

タイトルの「ブラインドスポッティング」に呼応するシーンだが、コリンとマイルズの画廊での労働中のある一幕が呼応していたように思う。

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《書を捨てよ町へ出よう》を観る機会があった。

寺山修司の映画初監督作品ということだ。同タイトルの評論集から演劇化、映画化された経緯がある、ということで間違ってないと思う。主人公のセリフの訛りが強く、また作品が古いので、何を言っているのか聞き取れないシーンがいくつかあったのは残念ではあった。冒頭にさっそく映画鑑賞のメタ構造を皮肉って観客にメッセージを投げかけるシーンがある。あちゃー、と思ったが、思い返してみると今では当たり前すぎるけれど、そういう感性もあったなと反省もさせられる。

ストーリーだが、一応ある。貧乏家族の長男がハイソな先輩に憧れ、可愛がられつつ、彼なりに家族とその絆を愛して守ってきた。そのつもりだったが、最終的には家族にも先輩からも裏切られるといった内容だ。ところどころに詩が朗読される、青少年の主張のような画面が流れるなどのシーンが挟まれる。案外こちらの方が伝えたいことだったのかもしれない。

また、人力飛行機を飛ばそうとするシーンもいくつか挟まれる。鑑賞後にいくつかの解説や解釈に目を通したが、これは主人公の夢であるらしい。そもそも、寺山修司の映画スタジオが「人力飛行機舎」という号であったらしく、ここにも作家本人のアイデンティティが強く影響しているんだろうか。

本編、ホモソーシャルっぽさ、男性の暴力性、男性の脆弱さも描かれているように見えた。間隙を突くように女性の強さ、またはしたたかさも描かれるが、これは散発的ではあった。雑に分析すると、本作から排除されているのは母性のようなもので、雑に例を示せば、主人公の家庭には母親の居たという証拠や実感がまるでない。人力飛行機の夢の断片の最後のほうに母のような女性が泣いているシーンがあったように思うが、それがなんだったのかは分かりづらい。

挟まれるシーンのいくつかは公道で撮影されていた。おそらく許可を得ていないゲリラ撮影だったのではないか。さらに、その場にいた歩行者を巻き込んでの撮影もあったようで、非常に新鮮だ。現在ではほぼあり得ない演出方法だろうが、あってもいいのではとすら思えた。

主人公の妹、だいたい碌な目に合わないのだが、線路を歩いて行くシーンがあった。おそらく夜中である。すると、反対側から凧を引っ張って駆けてくる女が正面からカメラに迫り、消えていくのだが、まったく意味がわからず、また面白かった。これは詩からの表現なのかなぁ。

エンディング後、またメタ視点に戻って演者一同を映したうえで主人公の独白が始まる。「たった2週間の父」「たった2週間の東京生活」というようなメッセージが印象深い。

上記の記事を読んだ。特に内容に思うところはないが、少年はすっかりおじいちゃんになっていた。

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ヒッチコックをできるだけ見ていこうシリーズの 4 作目《海外特派員》である。サスペンス、ロマンス、アクションがふんだんに盛り込まれているが、盛り込まれすぎている。途中でやや飽きる。特にロマンスがよくわからない。時代や習慣への無理解による違和感かもしれぬが、ヒロインと主人公との心の交流がいい加減というか、大雑把というか、適当でないように思えた。「他の作品も似たようなものだろう?」と言えるが、ロマンス描写が多めになっていたからこそ気になる。

とはいえ、おもしろいところも多々ある。

強行犯を追う最初のシーン、路面電車が行きかう狭いスペースでの攻防がおもしろい。こういう狭い空間を生かすのが本当に上手いんだ。これは、誘拐されたヴァン・メアと邂逅する風車小屋の中も同じく、狭い空間の上下や抜け道、裏道を生かしてハラハラドキドキ、ヒヤヒヤさせられる。

また、終盤でヴァン・メアが尋問されているシーン。灯りの向こうの悪人たちや記者をヴァン・メアが逆光のなかで眺めるが、この状況の恐ろしさの表現が見事だ。事の大きさを理解していないような女性や、本当は彼を助けるべき立場にいるはずの記者までが、ヴァン・メアにとっては敵のように映える。記者に限っていえば、ヴァン・メアを助けることが必ずしも彼の目的であるわけではなく、戦争が起きるか起きないかという瀬戸際の状況をメシの種にする人間であり、決してヴァン・メアと同じ側の人間ではないということが暗示されているようでもある。

最終幕の飛行機の墜落シーン、どうしてここまで恐ろしげに描写できるのか。機長と副機長が水面ギリギリまで軟着水を目指す状況が、古い映画でどうしてこんなに緊迫して描けるのか。そこに新古の垣根はないのかもしれないが、それにしても不思議だ。

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ヒッチコックをできるだけ見ていこう特集、3 作目《レベッカ》を観た。この作品にも小説の原作があるらしい。ここまで 2 作を観てきたが、Amazon Prime で見られるイギリス時代の 作品は前回までとなり、本作からアメリカ時代となる。

ここまで鑑賞してきたヒッチコック作品の作品評などを眺めてきて「導入が長い」、という意見をいくつか見てきた。イギリス時代の 2 作についてはそこまで感じなかったが、本作については私もそのように思った。

物語の主人公である「わたし」があまりにも純朴で、良くも悪くも子供らしい、ということを表現するための間であったのかとは思うが、逆に、無知で無能である側面が強くみえてしまい、単純にツラかった。レベッカの幻像と対比されることにもなるので、効果的ではあるのだろうが。

仮面舞踏会で失敗した直後の嵐のシーンから事態は急転し、真相に向かって一直線に話が進んでいく流れはヒッチコックの得意とするところだろう。解決編からエンディングまでの時間が相変わらず短く、シークバーが目に入るとハラハラしてしまう。

最大のハイライトは、やはり西棟のレベッカの部屋をダンヴァース夫人が案内するシーンではないだろうか。ダンヴァース夫人にとって、レベッカというのは太陽のような存在であったことが思い知らされるし、その崇拝は 1 点の曇りも無いものであったように思う。

原作で明示されている設定を含めた詳細はわからないが、ダンヴァース夫人とファヴェルの不仲というのも、軽薄な男をレベッカに近づけたくなかったというのが彼女の望みで、レベッカの奔放さについてダンヴァース夫人ににどこまで自覚があったのか。

エンディングの彼女の放火も、マクシムとわたしの今後の幸せな人生が憎いというよりも、幻像としてのレベッカを象徴する美しい部屋、居間の様子などを自身とともに完璧なまま葬り去りたいというのがダンヴァース夫人の願望であったと捉えたい。

レベッカの部屋で最も不気味だったのは、彼女の真の姿である淫らさと対立するように美しいベッド周りで、彼女の寝間着や下着類をどうしてかダンヴァース夫人があそこまで執拗に見せびらかしたのか、演出上の意図がおもしろい。

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噛みごたえのあるような無いような、割と解釈の余地が大きいというか、そういう意味で結末は開いているような、色々と考えたり思い返したりメモをまとめたりしたが、全体としては「滅び、もしくは変化の話」に思え、それゆえの寂しさをベースとしつつ、滅びそのものをネガティブに断ぜず、あくまで自然でなものあって、しかし希望を見出すには儚い話ではあった。

鑑賞直後は後味の処理に苦しんだが、なんともいえない味わいが頭のなかによく残っていることが思い返すほどに分かる。いい作品なのではないか。どうにもまとまりきらないが、メモを放出しておく。

2 つの水溜まり

野尻湖に突き出した桟橋から物語ははじまる。湖といえば巨大な水溜まりである。本作は水溜まりがキーになる。桟橋にて、主人公とみえる澪と祖母との会話がなされる。「目で見て、耳で聞けば、人生は何とかなる」というような助言が祖母より与えられ、野尻湖の黒い湖面が広がる。美しさと底知れなさが並立している。

入院する祖母と同じタイミングで、澪は追い出されるように上京する。彼女のバックグラウンドは作中でほぼ語られないが、年齢は 20 歳らしい。亡き父の親友であった三沢京介の運営する銭湯「伸光湯」に居候することになる。銭湯とは風呂であり、つまり水溜まりだ。

銭湯の滅びと澪の性質

滅びの話だと言ったが、ざっくり言うと伸光湯と彼らの属する商店街が再開発だか区画整理だかで無くなる。本作の難所と感じるところのひとつは、澪の成長(のようなもの)と新しい居場所の喪失が同時に発生するところにあって、個人的にはそこが捉えづらかった。これが滅び(変化)を意識したうえでの内容なのであれば本作、曲者だなと思う。どうなのだろう。

新しい環境で成長した澪が果たす役割は、地元の仲間たちへのお見送りであった。銭湯で居場所を見つけた澪が輝きだす頃には、描かれる主軸は京介に移ったように思われ、澪はエンディングにおいてはどこへ居るのかもわからない。

澪という人間は、自分本人が生きていても死んでいても構わないといった類の死生観を持っているようにも見え、それは美しくも醜くもなく、やはり自然なだけで、とりあえずは平穏であって、いわばマレビトとして京介と地元の仲間たちを訪れた彼女は、地域の最後の一瞬をきれいに切り取るための役割を果たし、どこかへ消えていく。

入浴の契機と主役の交代劇

本作の入浴シーンだが、3 つ用意されている。別にお色気の話ではない。まずは 1 つ目、伸光湯にはじめて来た日の晩である。照明の落とされた湯船で「あっ」と小さく叫んで反応を見ていた図は、実家の浴場との違いを確かめているようであった。幼さも感じられ、なんとも印象深い。

2 つ目は実家の民宿の浴場だ。これ、今思い返すとなんで朝風呂しているのかよく分からないが、通夜なりの晩に入ることを避けたのだろうか。浴場内で京介との会話があり、後述するが、この時点で澪はもう完全に以前までの人間ではない。言うてしまうと、主人公のバトンタッチはこのシーンだったのではとも思う。

最後の 3 つ目は伸光湯での入浴で、これが閉業前の最後の入浴だ。やはり男湯には京介がおり、彼の嗚咽が聞こえてくる。穿っていえば、お色気ではないと言ったが、このときの京介は文字通りに身も心も素っ裸なわけで、老若男女の趣味、性的嗜好に関わらず、作中最高にエロティックなシーンであったように感じる。お色気の話ではない。

ただし、入浴している京介の姿は、カメラには映らない。誰も見たくないからかね。

デッキブラシと澪の変身

入院前の祖母は作品冒頭、浴場にデッキブラシをかけていた。かつては祖母の日課であったのだろうし、自分の日常への彼女なりの別れの儀式だったとも取れる。澪が伸光湯にて初めて着手した作業もデッキブラシかけで、これには祖母のアドバイスの実践と日常の踏襲がある。そして最後のスクリーンで映し出されるのも彼女のデッキブラシかけで、これは言うまでもなく思い出であり、別れだ。祖母のアドバイスの実践は、澪と祖母がどこかしら同化してくようなところがある。

前述の実家での朝風呂の前夜、祖母の葬儀なりが行われた晩に澪は野尻湖の湖岸に立っていた。田舎の夜中、真っ暗である。彼女は湖岸から歩みを進めて入水し、胸のあたりまで浸かったか。少なくとも夏場ではない季節、危険極まりない。祖母の喪失の大きさが滲む。

パッと風景が変わると、野尻湖を走る水上バスの畳の上での澪と祖母との対話がはじまる。これはもう向こうの世界の話か、血縁パワーによる邂逅か、澪の誇大妄想か、夢の中でのできごとか分からないが、非現実であることには変わりなく、謎の情景を鑑賞することになる。朝か夕か判然としないが、ほんのりと暗い湖面を眺めながら、冒頭と同じようなアドバイスを澪に投げかける祖母である。

上空から湖面を切っていく船が映る。今までの澪はいないし、もはや澪の話は終わった。

現実問題、結末をどうする

本作のロケは葛飾区立石というエリアで行われたらしい。Wikipedia などによれば歴史のある地域である。実際に再開発でこの地域の特定の領域では、現地民の立ち退きが決まっているらしく、そこに関しては本作は、ほぼドキュメンタリーのような様相を呈する。実際に現地の方々を映しているようだが、どうなのだろうか。渡辺大知の演じる緒方銀次は、本作と現実との橋渡し役を担っている。

伸光湯の閉業後だが、上述のように、澪は去っている。もはや興味はそこにはない。代わりにあてられたマンションの一室で過ごす京介が映る。もしゃもしゃと生活しながら、次の糧を探しているらしい。希望のようにも覚えがたい彼の次の人生の開幕の最初の一歩で本作は終わる。

読んだ記事など

上記の記事を読むと、本作を観て感じたことのだいたいは感じた通りだったなということが分かるが、監督の意識は、私が印象を受けたよりも、 無くなる町についての問題意義を強く持っていたようである。

以下のコメントが面白かった。20 歳の人間がこんなにフワフワしていていいのかというくらいの澪の描写であったが、このような構想があったのか。憎たらしいなと思うのは、劇中で一箇所だけ妙に生々しい話題が繰り広げられるシーンがあり、そこでまた人物像がぼやける点だ。いやらしいなぁ。

中川:「少女」ではなくて「子供」ーーつまり、性的ではない存在として演じてほしいということは伝えました。自分の性を意識すると自意識が生まれるから、風景と自意識がぶつかってしまう恐れがあります。子供は風景に用意に馴染むじゃないですか? あれは小さいからではなくて、自意識が少ないからだと思います。

https://realsound.jp/movie/2019/11/post-446280.html

最後に、本作の英題であるが《Mio on the Shore》のようで「岸辺に立つ澪」とでもなるだろうか。あぁ、タイトルとしてはここをフィーチャーさせるのだなぁ。さもありなん。

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《砂の器》(1974)を観た。この作品を皮切りに何度も映像化されているが、ほとんど見た記憶はなく、2004 年放送のドラマ版だけは見たことがあるような、ないような、朧げにあらすじを覚えているのは何故なのか、よく分からない。

丹波哲郎(今西刑事)の演技をちゃんと見たのも初めてで、眼力がある、というか虚空を睨みつけているのが空恐ろしい。作中終盤の会議で森田健作 (吉村刑事) にも似たような演技があった。情緒というか余白を生み出す意図なんだろうか。

いくつかのシーンが印象に残っている。

事件の膠着後、最初のひねりをみせる居酒屋でのシーン、今西と吉村の両刑事が座敷に座っているが、座敷の構造上あり得ない方向から撮られているのがおもしろかった。つまり衝立の奥側から撮っているように思われるシーンで、実際には他のシーンでは確かにある衝立をどかして撮ったと推察するが、奇妙であった。

もうひとつ、終盤の回想で英良(秀夫)が村の少年たちにいじめられるシーン、桜の幹を左手前に配置して中景を映していたが、構図が歌川広重のようで印象深い。

英良(秀夫)といえば、冒頭と終盤の回想で砂の器を作っているシーンがあるが、砂の器が何を示すのか分かりづらい。原作ではフォローされているのだろうか。冒頭は海だったように思うが、後半は出雲の田舎だ。各地で暇をみてはあの遊びをしていた、という解釈でよいのだろうか。

また、回想の終盤で鉄道の線路をひた走るが、少年というのは線路を走ったり、歩いたりすることが義務付けられているのだろうか、ちょっと笑ってしまった。

過去の回想と重ねて描写される「宿命」の演奏、英良(秀夫)の代役となりカメラに映るピアニストの指があきらかに女性なので、どうにも気が散ってしまった。プロの男性ピアニストをアサインできなかったのだろうか。ところで、彼が自宅で作曲のために演奏しているシーンは、指先からピアノにカメラが移動し、そのまま彼の表情まで映すシーンがあった。あれはどうやって撮影しているんだろう。

要所要所でスクリーンに白文字で場所の案内やナレーションなどが挿入される構成、昔から珍しかったのか、今になって少なくなったのか知らないが、最近だと《祈りの幕が下りる時》で見たね(あれは場所の説明だけだったかな)。文字での説明やナレーションなど無いほうが映像として洗練されていると言える気もするが、あると何というかフィクションへの没入感のクッションにはなるなぁ。

物語、原作に難ありという評をいくつか見た。そもそもプロットにかなり変化があるらしいが、未読である。

英良(秀夫)の犯行の動機についても意見がいろいろ交わされているようだが、少なくとも幼少時の英良(秀夫) が三木謙一に対して抱く感情は、ほとんど明るいものではなかっただろうと思うし、そのように演技、演出されていたのではないか。

今西刑事のセリフだったか、彼は「宿命」という曲のなかで自分の父親と会っていた、というような表現があったが、これは良いものだ。理恵子への拒絶も分かりやすい(しっかりしとけというツッコミどころではあるが)。

こう何度も映像化されている作品だと、どれかひとつくらいはキチンと鑑賞しておきたいなという気持ちになるもので、今回はそれが最初の作品で達せられたという満足感もある。単純に、1970 年代の日本各地の様子がカメラに収まっているのも興味深いよなぁ。

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《バルカン超特急》(原題: “The Lady Vanishes” )を観た。まぁ、ヒッチコックを手軽にみられる作品だけでもキチンと見ようという企画の 2 作目だ。

原題は直截で、内容が想像される。こちらも《The 39 Steps》と同様に原作があり、『The Wheel Spins』という作品らしい。小説原題と邦題では列車の話と想像しやすいが、映画原題はそうでもないのが面白い。原作小説がどれだけ売れていたかも関連しそうだが、どうなのだろう。《The 39 Steps》でも列車のシーンはちょろりと出てきたが、本作はほぼ全編が列車内での出来事だ。

展開はほぼ予想内だったが、冒頭の事件が何に関連していたのか具体的なところを読み切れなかったのが微妙に悔しい。

高速で移動している車中の出来事とあって、ところどころで車外からの風景が映ったり、風だの蒸気だのの演出が入る。

いくつかミニチュアっぽいなというシーンがあったが、やはりミニチュアであったらしい。ギルバートが車外から隣室へ移るシーンは、スクリーン・プロセスなる技法が使われてるのではないかという記事をみた。はぁ、そういう方法があるんだっけ。まぁ色々と手が込んでいるというワケ。

個人的におもしろかったのは、行方不明になったはずのフロイさんが残した証拠が消えていく過程で、車窓に書かれた「フロイ」の文字がトンネルに入ったときの外気温の変化(だろうと思う)で消え去るシーンと、彼女の使った茶葉のラベルが車窓から車外に捨てられたとき、一瞬だけ窓に張りつくが、すぐに飛んで消えてしまうシーンがよかった。列車というシチュエーションが存分に生かされている。

手軽に見られるヒッチコックシリーズ、イギリス時代編はこれで終わりになりそうだ。次回は《海外特派員》かな。

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