なんとなくアクションゲームをプレイしたくて、Switch の新作ゲームを漁って見つけた『タイムスピナー』をプレイした。コンシューマ、特に日本国内の配信では新作だが、PC(Steam)での発売は 2018 年であったようだ。
メトロイドヴァニア系と呼ばれるタイプの作品で、メトロイドシリーズよろしく右上に表示されたマップを探索し、少しずつ武装やスキルを増やして攻略していく。
「時間を織る」と言っていいのかしら、本作には紡績機にみたてたタイムトラベル装置が登場する。この装置は、登場人物たちの超常的なパワーを介して機能するので、 SF やサイバーパンクというよりは、マジカル寄りな設定だ。
いたって普通のアクションゲームだが、装備したオーブの種類によって攻撃パターンに差があり、これらは使い続けることで各々のレベルが上昇して補正がかかるようになっている。こうなると使いづらいオーブを使うのが楽しい。そして苦しい。
ストーリーだが、時間を跳躍する能力を管理する一族と、それを追い求める一族などがゴチャゴチャとやる。主人公はゴチャゴチャをちゃぶ台返ししようと、原因を探し求め、クエストをこなし、暗躍したり、全然隠れずに戦ったりする。
道中で入手可能な各テキストから物語の全体像が伺える仕組みなのだが、ストーリーの芯への理解や感情移入が浅い時点で世界観のオリジナルワードが連発され、かつ日本語フォントが読みづらいのでほぼ飛ばし読みしてしまった。残念である。
とはいえ、話の大方は予想を超えるものではなく、内容もつまらないワケではない。王道こそおもしろい。特定のエンディングについては、ここまでやる? というくらいで、それは好みではないけど清々しい。こういうパターンの類型ってあるかな。
その他、LGBT というか登場人物の性の多様性が割と強めに主張されている面がある。メインストーリーではないが、はっきりと感じ取れるレベルにおいてのことだ。同時に、ところどころで下品なセリフ回しもある。バランスか? どういう?
ただのクリアなら攻略に難しさはなく、ざっくりしたプレイでも十分楽しめるが、一部のマップやアイテムなどは隠されていたり、分かりづらかったりする。以下のサイトにお世話になった。
六本木は森アーツセンターギャラリーで開催されている《おいしい浮世絵展 ~北斎 広重 国芳たちが描いた江戸の味わい~》に行ってきた。リサーチしていたワケでもなかったが、ひさびさに美術館で浮世絵を眺めたいという機運が、Twitterに流れてきた広告に見事に引っかかり、行くことにした。
会期は 4 回に分かれており、少しばかり展示品に入れ替えがある。これは目録 PDF で確認できる。目録は上記リンク先の公式ページの[見どころ]の項からダウンロード可能だ。コロナ対策のためか会場では手に入らなかったので、目録必須の人は気をつけてほしいね。(2021年10月追記:公式ページがもう閉鎖されており目録PDFもないですね)
また、これもコロナ対策だが、日時指定予約が必要となっている。ということは必然的に人が減るのだ。混んでいないというワケではないが、作品をじっくり楽しむには十分な人口密度となっていた。
企画は「第1章 季節の楽しみと食」「第2章 にぎわう江戸の食卓」「第3章 江戸の名店」「第4章 旅と名物」の順となっており、その並びに無理も違和感もほぼなく、ワクワクが優った楽しい構成だった。展示品の制作年代の明記がなかったのは残念だったが、構成上の理由なのか、他に理由があるのかよく分からん。
出品元で目立ったのは「味の素食の文化センター」で、なるほど食文化という観点からは本展にびったしの収蔵元だな。高輪にあるらしいけど、知らなかった。
ほとんどが歌川派の作品で-まぁねぇ-、国貞(三代目豊国)、国芳をあらためて鑑賞できたのは収穫だった。サブタイトルには「広重」「国芳」がピックアップされているが、国貞が居なかったら成立しない企画でしょう。第 4 章の内容に応じて広重も多かったが、これは流石に何度も見てきたので慣れてしまった部分も大きい。
その他、北斎漫画からの出品で葛飾北斎、知っている浮世絵師としては溪斎英泉、勝川春亭、月岡芳年などが展示されていた。東洲斎写楽は、会期 2 と 3 のみとなるらしい。その他、歌川派や知らない方がちらほら。
あとは、『パリ・イリュストレ』誌の日本特集とやらに掲載されている喜多川歌麿の「台所美人揃」もみられた。これはその構図を国芳が「江戸じまん名物」というシリーズで取り入れている例の側面もあり、目の前でそれらの作品と比較できる。正しくそのままの構図なのであった。いいよね、こういう風にその場で比べられるのは。
登場する食品や食料、調味料には、寿司、天ぷら、果物、蕎麦、うなぎ、餅、豆腐、魚類、醤油、酒などなど。いずれも大衆化への道筋が示されていた点に企画の妙があって、たとえば寿司なら食酢の流通、天ぷらならごま油などの食用油の流通、蕎麦なら醤油や酒、鰹節などからのつけ汁の発達など、それぞれの事情がある。
個人的にもっとも興味深かったのは豆腐で、これはかなりの古来から日本に伝わっていたらしいが、江戸時代に生産が安定したためか庶民で爆発的に流通し、幕府はその量に制限を掛けたほどだという。
以下は気になった作品のメモなど。
『十二月ノ内 水無月 土用干』
第1章の展示作品。梅雨明けに着物を干す図という作品だが、女性らの足元にはキューブ上に切り並べられた西瓜(スイカ)がある。他の作品にも西瓜が描かれていることは少なくないが、本作はちゃんと黒い種、白い種と描かれており、面白い。
女性らの干す着物、纏っている着物の柄のパターンの美しさに国貞のよさが詰まっている。彼の作品で描かれる衣装の柄は決してひとつのパターンに収まらず、必ず 2 種以上を用いてくる。
『春の虹蜺』
第2章の展示作品。歌川国芳による、うなぎに纏わる作品ということでの展示。団扇用に制作されたようだ。以前に上野のなんかしらのイベントで見たような気もしてきた。「手元のうなぎ、空には虹」という図がおもしろいということだが、今回は見事に感化されてしまった。おもしろい。
『東都宮戸川之圖』
これもうなぎに纏わる作品で同じく国芳だが、風景画である。近景の水場の青と遠景の空と山の青が美しいよね。本展、国芳の割とオーソドックスな浮世絵が多かったのはかなり嬉しい。水場にいる漁師はうなぎを捕っている。
宮戸川というのは何処なのかなと思ったが、ググると落語の演目が紹介される。Wikipedia を読むと、現在の隅田川は浅草周辺を指したということらしいが、定かではない。
このほかうなぎ料理屋の厨房の作品もあったが、どの作品だったか失念。映画《居眠り磐音》を観たときに登場したシーンを思い出した。こういう浮世絵作品が参照されているのだなぁと。
『十二月之内 弥生 足利絹手染乃紫』
国貞による海の幸、貝を拾う、潮干狩りの図である。このような潮干狩りの図は、国貞の作品としてはいくつも類作があるようだが、本作は見立絵である点に特徴がある、と思われる。
上記のリンク内の説明に詳しいが、右側の舟に乗ってポーズをとる男が光源氏であるらしい。しかし、本展ではそこは割とどうでもよい。この図でおもしろいのは、蛸や貝集めもそうなのだが、浜辺には蕎麦屋や団子屋の出店が点在しているところで、しかも蕎麦屋においては店主が自分の店の蕎麦を食べてるっぽい。
『名所江戸百景 びくにはし雪中』
これも有名な作品だろうか。広重です。左手前に描かれた「山くじら」という看板、その意味は詰まるところ獣肉だそう。ここいらに有名店があったらしい。原則的には禁止されていた食物ではあるが、冬には重宝されたとか。
隣に展示されていた『両国夕景一ツ目千金』には、擂り鉢で調理される鍋の具材と思しき皿には、どうみても肉っぽい食材が鎮座している。画そのものとしては、左手の看板の配置がエグく、構図が良すぎる。
というなかで上記のリンクを読んでいたら、本作が最初に制作されたタイミング-安政五年(1858)には広重はコレラで亡くなっており、本作は二代目の作品なのではという見当もあるらしい。へぇ。
まとめ
ほかにも何点かいいなと思った作品があったが手元に目録もなかったので記憶だよりに探すのが疲れた。気が向いたら追加するかもしらん。
2018年の韓国映画《はちどり》を鑑賞した。前情報をほとんど仕入れずに観たが、いろいろな映画祭で受賞した作品らしい。原題はハングルで《벌새》と表記する。冒頭、小さくこのタイトルが表示されたときは字幕がなく、意味を読み取れずに困惑したが、何を表すのかを翌朝になって気がついた。アホかね。
あらすじ。1994年、高度経済成長の最中の韓国はソウル市周辺が舞台とのことだ。集合団地の 10 階に 5 人家族で暮らす中学生の女の子、ウニが主人公だ。彼女は年齢の割には小柄だが、作中世界での登場人物たちの認識としてもそれなりに可愛らしい子として扱われているようだ。とはいえ、家庭内でも学校内でも居心地が悪く、友達も少なく、冴えないながらもクソ冴えないボーイフレンドは居り、そこは思春期の少女らしく、彼女なりに希望に繋がるようなスタイルを暗中模索して苦しんでいる。
ポスターで使われている彼女の顔のアップしか知らなかった段階ではもっと年上の人物の話かと思っていた。
家族
父母と兄姉に彼女という構成だが、とりわけ父は情緒が極端で、端的にそれが原因で家族内の不和は日常的だ。また、韓国、あるいは韓国作品によく描かれる長男信仰が存在し、舞台となる 20 世紀末は現在に比べ、なおさらその気は強かっただろう。ところで、韓国映画ならではの字幕における息子から父への発言の敬語の丁寧さがおもしろい。韓国語が分かれば、実際の具合も分かるのだろうが、どうなのだろう。
また、ウニにとって母は、かなり儚く頼り気がなく、信頼しづらい。夫との関係をはじめ、彼女は人生にいくつかの大きな後悔があるらしい。私は少なくとも 3 つのシーンでそれを感じた。そのうちの真ん中のシーンは、夢か幻か、悪夢のようなシーンで、これは冒頭のリフレインなのだろうが、母親とのコミュニケーションの不能というのは、こんなにも怖いのかとなる。
とはいえ、いずれにせよ、家族愛がたしかにあることはジワジワと、かつそれなりに明確に描写される。だが「家族の情があった、よかった」という情感で締めくくられるワケではなく、かなり繊細なバランスだ。ソファーに隠されたアレはよかった。
死の匂い
作中で登場人物が亡くなるのだが、もうね、予想通りの展開! とは言わないが、登場してからしばらくすると、この人物は亡くなるなと予感させられる。なんだろうね、別に特別にそのような描写があるわけでも、なにかしらヒントがあるわけでもない。「死の匂い」というクサい見出しをつけたが、そういう感じだ。別に本作がテーマとして生死を中心に扱っているわけでもなく、ただ物悲しい。
1 つだけ挙げるとすれば、記憶頼りなので定かではないが、背中からのカットが意識的に多かったかな。
ウニの挙動
ウニは気を許した相手にしか自分の右側-観る側にとってはウニが右側-に置かないようなイメージがあり、確かにそのように演出されていると思われる。記憶の限りでは彼女が気を許した模様のシーンは 4 つだ。自宅の一室で母とソファーに掛けているとき、後輩とカラオケに入っているとき、帰りの寄り道で先生とおしゃべりしているとき、同じく先生とソファーで並んでいるときだ。
右側というのは、ウニが耳裏に違和感を感じた場所であり、重ねて傷を創った場所でもある。こちら側を特定の相手にしか晒さないというのは、分かりやすい。立ち位置に同じくして、ウニの耳の出し方も明確に意識的に操作されているように見えた。
挙動と言えば、地団駄のシーンとそこからの差が印象強くて、好きだね。
何が描かれたか
ウニが成長したかと言われると首肯しかねるが、ラストの景色にはある種の自立や決意、旅立ちが読み取れた。そもそも母親との交わらない点を主にした家族関係の歪み、親友とのすれ違い、ボーイフレンドや後輩との捻じれ、それぞれの人間関係がどれくらい貴重か、あるいはそうでないのかをあらためて考え、確認するキッカケになったのは何だったのか。
そのキッカケはどれくらい実があって、本当に確実なものだったのか。もしかしたら、大したキッカケではなかったかもしれない。結局、そのキッカケがウニに何をもたらしたのか。そういえば、母とウニは第 3 幕にて、かなり独特な視点でようやく交差するのであった。とても皮肉なことではあるが、同じ類の虚無を共有した点で、やっとのことでウニは母を掴んだ、のかもしれない。
あと、私は姉の存在が効いていると思う。姉の彼氏がいいやつだという点で、作中における姉はその時点では幸福だし、それだけにウニに対しても余裕があり、親和できている。そもそも家族内で存在が一番近いという前提はあるが。
たまに環境音を流したくなる。川のせせらぎだとか雑踏で耳に入るノイズだとか、そういった類だ。そもそもこの類のコンテンツの存在を知ったのは、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』でスネ夫が環境ビデオなるアイテムを自慢するコマであった(コロコロコミック 40巻 「環境スクリーンで勉強バリバリ」)。当時は「贅沢だな」とも「本当に価値があるのか?」とも感じたが、オンラインでの動画鑑賞や高画質の映像の身近さが増すにつれて触れる機会が増えているし、実際に欲っする自分がいる。
環境音については、もっとも触れやすいのはラジオ放送だと NHK の「音の風景」が該当するだろうか(というか、この文脈で言えば『世界の車窓から』なども環境ビデオ型のコンテンツか)。ラジオ以外、スマートフォン登場以前の歴史はあまり知らないが、スマートフォンが登場してからアプリ型で環境音を提供するコンテンツがとても入手しやすくなったというのが個人的な実感だ。
それで、ここまでは完全に余談でした。
先日、あてもなく「環境音」でググろうとしたら、その日は間違えて「環境音楽」とした。こうなると別のジャンルで、この記事を書くにあたって知ったが、いわゆる「環境音楽」はいわゆる「アンビエント」を指し、これはブライアン・イーノの提唱した概念なんだな。といっても、明確に定義されているわけではなさそうだが、大雑把にいって本来的にバックミュージックとして機能するように制作された音楽、あるいはシチュエーションに応じて適当と選曲された楽曲のまとまりとか、そういったものだろう。というわけで、どういうわけか、以下の記事を読んでいた。
私は記事内のすべてのアーティスト、アメリカのアンビエントユニット Visible Cloaks も アーティストの 尾島由郎 も ピアニストの 柴野さつき も知らない。そもそも日本の 20 世紀末のシティポップが海外で再評価、再発見される流れは知っていたが、その流れに日本の環境音楽も乗っていたらしいことも知らなかった。そいで、『serenitatem』というアルバムを聴いてみたが、これが非常に心地いい。
電子音とピアノが交じり合いについて、演奏した柴野さんは、以下のように述べている。
私はピアノを弾いたけど、できあがるにつれて次第に、電子音と生楽器の音の境界線がわからなくなっていった。それがこのアルバムの質感だと思うんですよね。
https://mag.mysound.jp/post/451
まさしくといった感じで、大雑把に昨今の音楽制作やその環境においては、いずれに限ったことではなく認められる傾向ではあるのだろうけど、なんといっても心地いい。ここのところ、Spotify がセットした[Classical Meets Electronica]というプレイリストを聴いているのだが、これも似たような感覚で楽しんでいた。
環境音楽については、動物豆知識bot さんの以下の note 記事に詳しいようだ。深堀していくと楽しそうだが、私はそういう楽しみ方は苦手なのであった。
それで、ここまでは大分余談でした。
いい音楽に新しく出会うと、なるべく、もっといい環境で聴いてみたいと思うのが人情ではないだろうか。できるだけコンパクトに、安価で取り回しのきく環境が欲しいなと思い Bluetooth の スピーカーを探してみたが、外れのなさそうな無難な選択肢は、Anker か JBL 、SONY くらいしかないな。なんならサウンドバーでも検討してみてもいいのかもしれない。
本題は 3 文で終わった。
私が頭脳警察のファンになったのは、20 年ほど前であったか、そのころは解散状態で活動は休止していた。頭脳警察名義のアルバムは 8 枚目の『歓喜の歌』まで出ていた。幸か不幸か、というか幸運だったのだが、近所の中古 CD ショップを歩き回ったらほとんどのアルバムが手に入ったので、大体すべての曲を聴き込んだ。
PANTA 個人としても表立った音楽活動は最小限に抑えられていた時期だろうと思う。『CACA』(2006)や前後あたりではじめてリアルタイムで、彼の音楽に触れた。そこから『俺たちに明日はない』が頭脳警察名義の 9 枚目のアルバムとして発売されたが、これも 2009 年のことか。時間の経過はあまりに早い。
どうしてもPANTA寄りの話になってしまいがちだが、彼は映画の出演も増えており、メディアへの露出がここ数年で本当に増えたと思う。ということで、新聞などにも取り上げられており、世代違いのファンではあるが、なんというか隔世の感がある。
ここのところライブ活動も盛んなようだし、50 周年ということでドキュメンタリー映画が放映されるらしいが、どうだろうな。今の私のテンションだと観に行く気にはならない。
以下、メディアの記事へのリンクをメモ代わりに張っておく。
午前中にふと、ある本のことが思い出された。ところがその本のタイトルを覚えていない。おぼろげなキーワードで検索するものの目的の書籍はヒットしなかった。10 年ほど前に発行された書籍であること、一部のブロガー界隈で話題になっていたことは覚えていたので、当時よく閲覧していたブログを辿ってみて、ようやく見つけた。
正しく 10 年前の書籍であったが、まだたった 10 年前なのかと実感する。書籍はとっくに絶版になっていたが、Kindle 版は存在するようであるし、なんなら Unlimited に登録していれば読めるようであった。今月、たまたま同サービスの無料体験を使っており、つまりほぼコストを意識せずに読むことができる。
ところで本書は、話題になった当時に購入して読んだのであったが、手元の記録には何も残っていないのである。というか、記録がない。記録っていうのはつくづく大事なものだなぁと思う。
読むかもしれないし、読まないかもしれない。
アカデミー賞 2020 作品賞を受賞した《パラサイト 半地下の家族》を鑑賞したのは、本年の1月のことであった。原題の《기생충》はまさしく「寄生」で、同じく英題は《Parasite》、「半地下の家族」を副題として添えたのは配給会社だかの判断だろうか。取っつきやすさを感じるので個人的にはよいのではと。
本作、とりあえず社会派サスペンスという括りでいいだろうか。笑える要素やお得意の猟奇的な描写も豊富で味わい深く、おいしい。あらすじといえば、半地下のアパートに暮らす一家が息子、キム・ギウのバイト先である高級住宅地に住まう一家に寄生する。その顛末を描く。
私は、不幸な顛末になることが確実に予想される状況で登場人物が調子にのっている描写や展開が苦手で、前半の流れを面白おかしく楽しめた一方、徐々に胸が締め付けられてツラかった。そのピークは、泊まりで外出する家主家族の入れ替わりに、寄生の家族がリビングで晩酌するシーンで、心の中は地獄と化していた。今後の展開が怖すぎる。
ところで、本作のキーポイントである「匂い」あるいは「臭さ」は、そのままに読み取れば半地下で暮らす人間たちのシケっぽさがイメージしやすい。生乾きの衣類が醸す臭さは、あるいは学校で使う雑巾にも似ていて、それが日々の生活に浸透してくるとしたら耐え難い。そういう耐えがたさと同居し、慣れ切っていたのが、半地下の家族だ。
後半の地獄絵図が、その内容に反して美しい。丘の上の豪邸エリアから流れ落ちる雨水はそのまま半地下の世界にまで侵入していく。同じように転落してく親子は、濁流とともに世界を下っていく。その姿には愛おしさすらある。小高いエリアから大嵐の中を下へ下へ、ずんずんと降りていく。どこまで降りていくのか。この図は現実か虚構か、そういった絵作りがなされており、非常に楽しくもあった。
直前まで戦々恐々とスクリーンを眺めていた自分が、すでにワクワクしているという事実を自覚するのも痛快な体験である。沈みかけている半地下の家で感電する危険をいとわず家財を運び出す父子、便座の蓋に座って逆流する排水を抑えながらタバコを燻らす娘、圧巻の光景に笑わずにはいられない。
カラリと晴れた、あまりにも明るい空の下で展開される第3幕は、丘の上の陽の世界と半地下の世界、さらに背後の世界を巻き込んで、予想もつかない結末として混乱の中に終わった。思い返せば、家政婦であるムングァン(イ・ジョンウン)の怪演は、確実に本作を面白くしていたな。
山水景石
息子、ギウの友人ミニョクが土産に置いていった「山水景石」というアイテム、幸運をもたらすという触れ込みだったが、まったくそうはなっていない。要所要所で象徴的で、解釈の余地も大きい。そもそも事件のきっかけをもたらした当友人の采配が奇妙であることを持ち出すと、理解は面倒くさくなるような…。
物語の大方は父であるギテクを中心に展開するが、全体は山水景石を携えたギウの冒頭と終盤によってサンドされている。山水景石については、ググればそれなりにまとまった解釈がいくつか出てくるので参照されたい。
さて、父と息子の物語だというと雑に過ぎるが、ギテクの無計画という計画の果てが、明確な夢や目的を見い出せずに生きていたギウになんらかの道筋を与えることになったのは、それが贖罪のようなほの暗いものであっても、いくらかの救いを感じる、そんなまやかしがある。ということで、冒頭では社会派サスペンスではといったが、ベースはエンターテインメントなんだよね。
『三体Ⅱ 黒暗森林』を上下巻ともに読み終えた。読むまでにもう少し期間が空くかなとイメージしていたが、先週中にふと購入して週末までに何ページか読み進めてしまい、日曜日の昼に上巻を読み終え、そのまま勢いで下巻もあっさりと読み終わってしまった。
何故か? 電子版で読んだので実際には分からないが、店頭で見た限りではそこそこのページ数だと思われたし(その事実として上下巻に分かれているわけだが)、あまり時間がかからなかったのは熱中したためだろうか、読みやすかったためだろうか。
ところで、最初からずーっと「暗黒森林」だと思っていたが、読み終わって気がついてみたらようやく「黒暗森林」であることに気がついた。恥ずかしい。
大雑把にいうと『三体』よりも面白かった。前作は、ゲーム内世界で再現される三体世界の様子と彼らの社会の発展、地球文明との邂逅が、作品における描写や展開のキモであったように記憶しているが、本作は三体世界との対峙が描かれている。その分だけ、単純に物語にスリリングさが増している。ゲーム内の奇妙な世界がオマケ程度にしか登場しなくなったのは寂しいが。
主人公である羅輯のキャラクターも嫌いではなかったが、前作の主人公-と言っていいのか判断しづらい葉文潔、羅輯の役割というのが彼女の構想の範疇を出ていなかったのではないか、という歯痒さはある。これは解説でも指摘されていた。
また、キーポイントとなる概念の要素が冒頭から明かされているが、これについては勘の悪い私でもおおよその流れは読むことができた。だからといって本作の面白さや読書体験が損なわれるものでもなかったが、的中した嬉しさ半分、物足りなさ半分といった心持もなくはない。
話はめちゃくちゃ面白いのだが、登場人物がイヤにみんな素直に思えてしまうのは何故なのだろうか。人類 VS 三体世界 という構図とそこで展開される戦略は魅力的で、重ねて「人類の敵は所詮人類だ」という命題もサブテーマ的に描かれるのだが、その人類の敵というのは、愚かで、かつ絶望しきった民衆ということに尽きるのでは。三体世界へ宗教的な恭順を示す地球三体組織、通称 ETO も時の流れには勝てずに消えていったということだが(続編では定かではない)、このへんも割とアッサリしていた。そもそも…、まぁいいや。
袋小路の人類
本作のもう1人のキーパーソン的な人物である章北海と、彼の辿る結末が最もよく分からない。この人物が担った思想的な役割と、描かれる展開にはなんらかの史実的なメタファーがあるようにも思えるが、パッと分かるものでもなかった。
章北海の信念のバックボーンは最期の最後まで明かされない。自らの信念に基づいて行動する彼は、読み進める限りにおいては、一見すると、面壁者テイラーがある意味で求めたような軍人のイメージに近いようにも思える。盲信あるいは諦念、信仰あるいは憎しみを抱いて、自らの命を省みずに最後まで戦い続ける、というようなタイプの戦士、軍人だ。
表面的にはそれは間違っていないだろうが、彼の信念と行動を支えた、バックボーンと思考は、根本的には盲信の類とは正反対、と言ってよさそうで、この信念は限りなく感情的ではなく、思考や理由が担保された、少なくともそのように整えられていたはずだった、のか?
フワフワと考えていると、結局のところ彼がなにを実現したかったのか、掴み損ねるのかもしれない。彼が、その信念を燃やし尽くしたと思われる瞬間には何が起きていたか、なぜそれで彼は満足したのか、考えてみると、おもしろそうではある。
人類 VS 三体世界 という終末戦争が、実感とリアリティの薄い現実であった時点まで、ときには人類は恐怖し、あるいはそれを忘れて日常を取り戻し、大なり小なりのいざこざを抱えつつも地球文明を持続させていた。羅輯や章北海の抵抗が、一過的なものであったり、そもそも行き詰まりしか見いだせない類のものであったり、というときに実は本作は読んでいるときの印象以上に、ただただ影のみが濃い作品なのではないか、とかね。
完結作の邦訳は順調に進めば、来春ということらしいので、楽しみだ。今度は発売と同時に読みたいという気分になっている。
追記:以下が「三体Ⅰ」「三体Ⅲ」の感想となる。
また私は Web ブラウザーの話をするのか。たいしたことじゃないけど、なかなかおもしろいなと思ったので備忘録がてらに。
2015年、Windows 10 に搭載された新しいブラウザを “Edge” と呼んだ。2014 年に開発されていた段階では “Spartan” というコードネームだったそうだが、この名称に込められた意味とはなんだったのか。
“Edge” にせよ意味はよく分からない。だが “Internet Explorer” の “E” との整合をとる-同じようなアイコンにしたい-という目的は多少にかかわらず有ったようだ。
その “Edge” も 2020年には Chromium 製となり、アイコンの “e” も抽象的になっている。 Firefox のアイコンと類似したイメージを与えられるのは皮肉のようにも思える。もはや Internet Explorer から引き継いでいるのはアイコンだけだろうに。
ところで “Explorer” は Windows のファイルマネージャーの名称でもあるが「探検者」とか「冒険者」などという意味が本義である。インターネットを切り開くアプリというニュアンスが与えられていたのだろう。
そもそも Internet Explorer が安定して使われるようになる前までの標準的なアプリであったのは “Netscape Navigator” と思われるが、これも愚直に訳すと「ネット風景の案内人」みたいな感じになるだろう。
そしてそして、私は OS X 以前の Mac には明るくないのだが、2003年の Mac OS 10.3 からは “Safari” が搭載されて Mac は独自の Web ブラウザーを得た。これもググれば出てくるが、語源はスワヒリ語にあるらしく、「狩猟旅行」だとか「長い旅」だとかと意味するらしい。
ここまで並べてしまうと、もう話はほとんど終わったようなものなのだが、インターネットが未知であり、案内人が必要なほどのアドベンチャーであった時代が終わったことは、Web ブラウザーのネーミングの変遷からも察せられる。そういう意味では Safari には頑張ってほしいナという気持ちにもなる。
前回の雑記に書いた Kindle のフォント問題だが、書籍データの同期の不完全が原因だったようで、しばーらく同期の完了を待ったのちに実行したらほどなく完了した。身も蓋もない結果であった。
『暗黒森林』の上巻をパラパラと-スマホの画面で読んでいてこの擬音語もおかしいか-読み進めている。おもしろいっちゃおもしろいが、なんとも表現が淡々としているように思える。まだ序盤だからだろうか。『三体』のときの感触は忘れているので比較もしづらいのだが、こんなもんだったか。
そもそも前作までの展開はほぼ記憶しているものの、登場人物をあまり覚えていないのであった。が、そのへんは雰囲気で読んでいる。話は変わるが先日、《推理小説の読み方がわからない(追記有)》という記事があった。推理小説の楽しみ方として、きちんと推理に参加する楽しみ方を扱った内容だ。
私もさすがに「ノックスの十戒」や「ヴァンダインの二十則」は知っているが、推理小説は推理に参加せずに楽しむタイプだ。考える過程を楽しむ前に物語そのものの展開に熱中してしまう。同じタイプの人間としては、上記で引用した記事の執筆者の葛藤も分かる。だが、いまさら推理作法を身につける気にもならない。
似たような話としていいかわからないが、長編のロシア文学作品では登場人物の氏名があやふやになることがある。これも本来は都度に同定したほうがよかろうが、雰囲気で読み進めてしまうことが多い。いずれかの段で前の展開と交錯したとき、「あぁこの人物だったね」となる。
これは乱読の類だろうな。