IMAX レーザーGTテクノロジー仕様で《地獄の黙示録 ファイナルカット》を鑑賞した。フランシス・コッポラ、作風や周辺の話題が尽きない監督だが、大体が「わからない」と言われている印象がある。いくつか機会を見逃していたが、今回、はじめて味わった。超サイコーじゃないか。賛否両論がある作品のようだが、本作が纏った徹底した矛盾が、独特の魅力を生み出している。
一箇所だけ、キルゴア大佐のけしかける爆撃攻撃シーンでうつらうつらとしてしまった。このシーン、割と人気のようなのだが、状況の読み取りのしづらさに加え、爆音がヘビーすぎて脳の処理が追いつかなかった。ついでにマスクをしながらの鑑賞だったため十分な酸素が回りづらく、ついつい寝落ちた。
クルー
カーツ大佐の居城へ向かうウィラード一行の遡行の旅は、ベトナム戦争のバカバカしさを同行の兵士たちを通して表現する。チーフ、シェフ、ランス、クリーンの 4 名だ。
艇長であるチーフは 1 番まともなキャラクターだが、作戦の目的を知らない彼は、責任感もつきまとい、目的地に近づくほどに頑なになっていく。あげくは現地民の投擲した槍に命を奪われるが、その間際にウィラードを道連れにしようとする。任務の遂行がどうでもよくなっている。死に際で仕方ないとはいえ、狂気に落ちた。直後、他のクルーには作戦を明かされることとなる皮肉もツライ。ついでに言っておくと、ランスに水葬されるチーフのシーン、本作で 1 番好みで、水面の光もよいし、艇にあがるランスの表情もよい。
薬におぼれた機関士、シェフは活躍もほぼなく、一見するとギャグ要員のようだが、ベトナム語とフランス語を喋れるトリリンガルとして非常に優秀だ。ニックネームの通り、もともと料理家を目指していたようで、語学に堪能なのもその流れがあるようだが、こいつがいなかったら話が詰んでる点がユニークだ。チーフの死後、短い間だがまともなキャラクターの地位を引き継ぎ任務をほぼ完遂させたのち、圧巻の最期を迎えるのもよい。ほぼウザいだけだったが、終盤は憎めない。
プロサーファーらしいランスは、まだ少年らしさを残している。補給基地で仕入れたと思しき水上スキーで勝手に遊び出す。フェイスペイントに興じる。自分宛ての郵便に対して「ディズニーランドよりもこっちのほうがよっぽど楽しい」と叫ぶ。ベトナム人の舟から奪った犬を飼いはじめる。カーツの王国には馴染んでしまう。以上のような描写により、ベトナムに、カーツに、順応してしまうタイプの人間として描かれる。これはクリーンとの対比でもある。こんな彼は生き残るのだから世話がない。
最年少の兵士クリーンは、完全に少年だ。彼は本国から離れられない心理を表しており、ラジオから流れてくる「サティスファクション」に合わせて踊ったり、両親からのテープに郷愁を抱いたりとする。すべての人物に関連するテーマだが、クリーンの帰るべき場所は明確で、しかも、割と裕福な家庭の子息であるようだ。そんな彼が脆くも最初に脱落してしまうのは非常に忍びないし、無常であり矛盾でもある-言うまでもない。
作戦の目的
カンボジアへ向かう船中でウィラードはカーツの資料を読み込んでいく。カーツの経歴や実績は見事なもので、軍紀に違反した作戦も、それ単体で評価すれば成果も上がっており、否定しづらいもののようだ。補給所の乱痴気騒ぎや弛んだ同乗のクルーたちを横目にしながら、ウィラードは彼へのシンパシーを深めていく。この同情は作戦の成功には邪魔だろう。ウィラードもカーツの一派に取り込まれる可能性を示され、私はやや動揺したが、果たして結末は。
フランス人との会食
クリーンを失った直後のこと。フランス人の運営するプランテーションに立ち寄り、彼らの歓迎を受ける。一転して日常のような環境に入るが、逆に言えば、ここからが本当の地獄(Apocalypse)の入口になっているわけだ。戦場の真隣にこのような場所があることの不思議でもある。なんとなく《風立ちぬ》の軽井沢での休暇旅行のシーンを思い出してしまった。
会食中のフランス人らは一家であり、男女 6 名ほどいた。彼らは国から見放されかねない状況でもあるが、国を愛しつつ、一方で、この土地にも情があり、家族間の政治的スタンスにもやや隔たりがある。議論がヒートアップするたびに、ひとり、またひとりと席を立っていく。
ロクサーヌとの夜
もうめちゃくちゃ幻想的で、私は嫌いになれない。このシーンは何だろう。ウィラードが自らの心を開いて完全に無防備にされている作中で唯一のシーンでもある。豪奢なあしらいの部屋は、のちに登場するカーツの居城とのうまい対比にもなっているし、カーツの居城で限界状態に晒されて心が無になった彼の状態とも対比できる。
作戦の完了
ウィラードがカーツ暗殺を成功させられたのは何故だろうか。同じ任務を背負ったコルビー大尉はなぜカーツへ恭順してしまったのか。ウィラードとカーツ、またはコルビーとを分けたのは、端的にいえば本国に待ち人がいるか否かであり、カーツは息子が、コルビーには妻が居た。ウィラードはどうか。
ウィラードについては、オープニングで示された通り、とっくに妻から離婚を言い渡されて受理している。本国に帰るべき理由があるひとたちは戦地に留まり、狂気に身を委ねる一方で、ウィラードのような頼りを失った人間が彼らを粛正する。やはりここでも、同乗したクルーと同様に、本人が自覚して本来求めていたはずの立場や居るべき場所が、現実では逆転している。その原因は正常や狂気、あるいは軍務への忠実や誠意、恭順などと白黒つけられるものではないのだろう。
なお、この感想では触れまいと思ったが、この作品は撮影に難航したという事実があるようで、その最大の問題のひとつがカーツ役の俳優のマーロン・ブランドの肥満にあったという。本作、ラスボスのカーツは、ほぼ陰にいて登場から最期まで全身がほぼ映らない。ここでも苦し紛れの光と影が絶妙なな仕事をして美しく、結果的にその不気味さを強調している。想定外への対処が、魅力を増強させているという皮肉も認めざるを得ないのではないか。
バージョンの違いと受容
本作、いくつかのバージョンがある。私の分かった範囲だと初回公開の時点で限定の 70mm 版と通常公開の 35mm 版があり、この 2 つの大きな違いはエンディングのカーツ居城爆撃シーンの有無だそう。35mm のほうに爆撃シーンがある。また、クレジットも 35mm にしかない。
次いで、2001 年に公開された『特別完全版』は、50 分ほどのシーンが追加されているらしく、序盤の最後に登場したプレイメイト達との再会シーン、およびフランス人のプランテーションのシーンが主とのことだ。
最後の今回の『地獄の黙示録 ファイナル・カット』だが、これは『特別完全版』からプレイメイト達との再会を削いでいる点が大きいようだ。なお、後者 2 つのバージョンには、最後の爆撃シーンはない、ようだ。
いくつかの人の感想や批評に目を通したが、最初に 70mm 版を観た人はこれを最高としていることが多いようだ。特別完全版は冗長に過ぎるようだが、プレイメイト達との再会シーンがなくなったファイナル・カット版は収まりがよいとは思わないかしら。
上述したように、母国に家族を残したカーツ、家族を失っているウィラードという対比に加え、戦争のむなしさ、それをある種克服したカーツの居城を繋ぐフランス人のプランテーションという場違いな日常。それを締めくくったロクサーヌとの夜というのは、異様に美しい。
帰るべき場所があるカーツ、それを失ったウィラード、ロクサーヌがいる。一方、戦争の地でウィラードを魅了するカーツ、あるいはロクサーヌがいる。本作はこの 3 人の構造で私は楽しみたい。ファイナル・カットを観られてよかった。奇妙な作品であることには変わりないが、明確に魅力がある作品であった。
『100日後に死ぬワニ』というコンテンツがあるが、私はファンではないし、どちらかといえば嫌いなのだが、「ある作品」であることには変わりないので、自分がそれをどう捉えるかを自分なりに考えることには関心がある。なお、100 日目に何が起きたかのは知らないままだ。連載もたまに目に入ったときに気が向けば読んだくらいで、おそらく 10 本読んだか読んでいないかくらいだ。
連載は 1 日 1 回の 4 コマ漫画形式で、おそらくそれで 作品内の1 日が経過している。あるいは「100日後に死ぬ」が読者の実時間に対応しているだけなのかもしれないが、考えづらいので退ける。つまり連載の 100 日とワニの 100 日が連動している。新しいものではないかもしれないが、ユニークだ。
タイトルからしてブラックジョークというか、端的にいって不穏さを感じるが、そんなこと言ったら異常なタイトルの作品というのはたくさんある。 私が本作に感じる不快感は、タイトルにある死というモチーフが、さらに連載の実時間に連動している点にあるのではないか、と自問自答している。他に考えられることといえば、作風はあくまでうだつの上がらない感じのワニのほのぼのとした小さな日常が中心で、死に直面する内容ではないからかもしれない。唐突な死を演出するにあたって、100 日はあまりにも長すぎはしないかという心苦しさだ。
結果として、予想した通りというか-ネガティブな意味での批判のような記事が溢れかえった。私は予想されたこの流れまで含めて敬遠していたので、今のところどの記事にも目は通しておらず、あくまで記事の見出しに拠った意見ではある。どのような観点からの批判が多いのだろうか-読まないけど。
ここまでの流れを含めて、連載中は少なくともワニという作品を楽しんでいた人がたくさん居たのも、おそらく事実だし、私は結末は知らないが、完結をみて満足した人もいろいろなことを考えた人も、千差万別居ただろう。結末を迎えて不快になったという人も、もしかしたら居るかもしれない。
それがどの点に言及されたかにかかわらず、論争を生み出したり、話題性を孕んでいる作品というのは、それだけである意味でよい作品だろう。逆にそれがネガティブに反応される結果になったとしてもだ。
これ以上は特に触れることもないが、 『100日後に死ぬワニ』 を読んで楽しんだり、考えたりして、生活にプラスになることが一人でも多くにあるなら幸福なことだね。
というのはウソなんだけど。
Mediumをどうやって使いたいか
Medium というサービスがあって-まぁ誰でも知ってるか、そこそこ収益化に失敗している、というようなニュースを過去に目にしつつ、昨今の動向はよく分からない。少なくとも、日本での事業は縮小したらしいというところまでは覚えている。
ただまぁ、なんかしら魅力があるプラットフォームだとは思っており、なんか使い道ないかなと最近あらためて感じつつ、日本人ユーザーが可視化されづらいなら日本語でつまらない日記でも書こうなぁなどと思ったりしてな。
日本語ユーザーが可視化されない大きな理由のひとつは、そういうシステムだからなのだけれど、以下のようなグループもあるらしくて、少ないながらも日本語ユーザーで連帯しようという気概を感じる。よい。
Medium側では以下のページだ。パブリケーションって note でいうところのクリップ? マガジン? みたいなやつかな。どっちもよくわからないけど。
気が向いたら、なんとなく眺めてみたいな。
遅いインターネットとな
Twitter を眺めていたら、以前に触れた濱野智史の名前をひさびさに見かけたので何事かと思ったら、宇野常寛の新しい企画「遅いインターネット」という媒体の対談記事が出てきた。
ははぁ。この企画-というか Web メディア「遅いインターネット」は、本年の 2 月から公表されている。企画自体は「2年と少し前」に思いついたらしい。私は宇野さんの熱心なフォロワーではないので、その考えるところはあまり分からないのだが、いいタイトルの企画だなとは思った。以下の宣言の内容もざっと目を通した限りでは嫌いじゃない-ざっとな。
ただし、この企画のページ、全体の構造や相互のリンクがわかりづらいところがややあって、それが慣れの問題なのか、スマホ最適化の問題なのか、設計思想の問題なのかよくわからない。たとえば、上記の「遅いインターネット宣言2020」へのリンクがどこから辿れるのか、どうやって見つけたのか、自分でもよくわからない。
また、関連ページを眺め終わって、引用しようとした文章もどこかへ行ってしまった。曰く「10年後もGoogle検索に残っているような」という文句について「はぁ、そうなの」と思ったのだが、見当たらない。と困ってたら、あった。note じゃんけ。
このウェブマガジンはタイムラインの潮目を読んで、瞬間最大風速を強くすることだけを考えがちな今日のインターネットメディアとは距離を置いて、5年、10年と読み継がれる記事をグーグルの検索に引っかかりやすいところにおいておく、という一種の「ネットサーフィン復権運動」だ。
https://note.com/wakusei2nduno/n/n0d20f6d6359f
なんとなく思ったことは 2 つあって、いわゆる速いインターネットの象徴のような Google を基準にしてしまっていいのかなという点と、同じようにそもそも「ネットサーフィン」という文化は Google 以前だったのでは、という話だ。
「ネットサーフィン」については私も記事にしようとし、ほったらかしている状態のゴミ原稿があるのだが、この語はリンク集時代の産物なのではないだろうか。なので私は、以前にもここやどこか別のところでも書いたかもだが、ソーシャルブックマークのような存在のもっと個人に寄り添ったバリエーションが欲しいなと思っている。そこにこそ、宇野さんの「遅い」に託されるようなニュアンスを求めている。
話がとっ散らかったので終わりにするが、最近のインターネットに潮目みたいなのを感じる向きはあるよね-ずっとか。
最後に、最近割と面白いなとなったのは、東浩紀のゲンロンも宇野常寛の PLANETS も動画放送(または双方向的ななにか)の媒体としてはニコニコチャンネル(ニコニコ動画)の運営を維持しているんだよね。会員の囲い込みやすさ、字幕動画の有利性なんかの優位が残ったままなんだろうかね。
《1917 命をかけた伝令》を観た。まだいくつかの劇場で上映しているようだが、まぁ感想をあげてしまおう。
ワンカットで撮影された(ようにみえる)作品という話題性が先行していたが、それなりにはおもしろかった。実際にカメラは途切れないようにみえるが、遮蔽物や暗転などを使って状況の切れ目は表現されているので、あまり違和感はなかったものの、どこが切断点なのかはハッキリわかるところもあれば、ここじゃないかと推測できる点も多々あった。
カメラという点では、いくつかの感想にある 1 人称視点のゲーム(FPS)っぽい雰囲気もたしかにあったが、ところどころで主人公らから十分に遠ざかりもするので、同じ場所にいると仮定された人間の視点としては撮りようのないショットもいくつかあり、FPS 的なゲームっぽさはそこまで喚起されなかったかな。
それよりもゲームに近いという意味では、物語の目詰まり感のほうがよほど気になるもので、話を完結させるべく目まぐるしいくらいに色々なイベントが起こる。「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあるくらいなので、ある人間の人生のひと時にはこのような瞬間もあるのかもしれないが、それにしても異様に思えた。そういう違和を残せただけで、本作は成功なのかもしれない。
ひとつだけ。
主人公は壕のなかの爆発で目を傷める。そのときに水筒の水をほぼ使い切ってしまう。少し歩みを進めると、平原に一軒家に放置された乳牛。ふーん、まぁ不自然とはあえては言わぬが、というシチュエーション。搾りたてのまま放置されたミルク。水筒に補給する主人公。まぁな、水分が必要なのはわかるけどいつ腐るかわからないものを入れるか? と思う。まぁいい。
しばらく経ち(3 ~ 5 時間程度だろうか)、目的地付近の町に着く。町は何が燃えているのか分からないくらいの異様な炎に包まれている。劇中でもっとも幻想的なのはこのシーンではないか。敵兵に追われた主人公は空き家に逃げ込む。あぁ、女性が出てくるシーンだなと思ったら、本当に出てきた。逃げ遅れた女性と置き去りにされた乳児が居た。マジか、このフラグを回収するためにお前はミルクを入手していたのか、となる。
まぁ、こんな作品だ。
個人的に気になったのは、この家屋を去るとき、主人公が扉をきちんと閉じなかった点で、状況の臨場感のためか、あるいは彼の心理状態までを反映したうえでの演出か、なかなか判断しづらいのだが、私はきちんと扉を閉めてほしかった。そこは、カメラを先行させる、別ルートから移動させるという手段をもってしても、そうしてほしかった。
いろいろとストレスフルなことが続く年度末で、しばらくは世界中の多くの人々の記憶に残るであろうこの瞬間に何かしらここに文章みたいなものを残しておきたいと思うもののイメージが定まらない。本当にダラダラと書くことにした。
アニメを2本見ている。『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』は舞城王太郎が脚本を担当しており、これはもう舞城王太郎以外の何物でもない秀逸なメタミステリだ。舞城王太郎、コミックの原作などではたまに目にするが小説はとんと読んでいない。といっても長編は『ビッチマグネット』までは読んでいる。短編はよくわからないが、あまり発表もしていないようにも見える。作者特有の言葉遊びと符号の設定などがひさびさで心地よい。Wikipediaからの情報だが、5年前から始動してる企画のようだ。残り数話だがうまく着地するだろうか。
Netflixで『ドロヘドロ』を見ている。非常によくできていると思う。どこまでアニメ化するのか分からないが、現時点で原作の半分にやや届かないくらいだろうか。ところどころで話の構成をシンプルにしているような気もするが、あまり定かではない。2クール分くらいやって後半を丸めるとかするのかしら。しかし、いろいろと歪んだ作品だことだ。
三連休に少し旅行をしようという計画がある。気が進まないということもないのだが、わいわいと楽しみたいという気分でもない。人間関係の調整のようなものも発生しており、やや怠い。
繁華街、人が少ないのはそうだが、そのなかでも妙なうねりというか多少の人の流れの波は目に入る。日本などは平和なものだろう。なぜこんなに平和なんだろうね。危機対応の問題なのか、地理や気候の問題なのか、切り口はさまざまにあるように思うが、明確な説明は見当たらず、最後までよく分からないままだろうか。
小松左京の『復活の日』がよく取り上げられるようになっている。私はハルキ文庫版の本作のカバーイラストが好印象で小松左京を読み始めたので(今書いていて思い出した)、本作は私にとっての記念碑的な作品だ。ファンとしては言うまでもなく面白いのだが、小松左京独特のアクの強さは読者を選ぶのではないか。そもそもタイトル詐欺というか、復活の日はあまりにも遠いのだ。しかし、このタイトルこそが小松左京的な情念をよく表しているとも言えなくはないだろう。
小松左京の全作品レビューみたいなこともやりたいのだが、その気持ちを取ったまま大分立っている。大体、読んでいない作品だっていくつかある。
超長尺の映画《サタン・タンゴ》で有名な監督タル・ベーラの《ニーチェの馬》を早稲田松竹で観た。同時上映されていた《サタン・タンゴ》こそ見ろという話だが、こちらは都合もあって見れなかった。描かれている世界への理解が徐々に固まっていくタイプの作品だと思うので、もう一度観たいものだが、いつか見られるだろうか(作品自体は記事投稿時現在、配信サイトにもあり、アクセスしやすい)。
感想を述べようにも内容解説のようになりがちで、この記事の半分はそうなった。
冒頭、哲学者ニーチェの最期のエピソードが説明される。曰く、散歩か郵便かなにかで出掛けようとしたニーチェは、路上で御者の言うことを聞こうとしない強情な馬を目にし、それに抱き着きながら絶望し、摩耗した精神を使い果たした。そのまま病床に戻り、母に懺悔の言葉を残して亡くなる。
本編がはじまる。馬車を引く巨大な馬が延々と映される。カメラは馬に最接近してみたり、藪の中に突っ込んだりしながら馬車を撮り続ける。この馬がタイトルのいうニーチェの馬らしい。そういうイメージが前提された馬だ。丘に囲まれた荒野にぽつんと在る馬小屋に着くと女性が迎え入れ、馬を小屋に戻す。とにかく風が吹いている。
馬車に乗っていた男と女は家に入り、男の着替えが始まる。女が着替えを手伝うが、どうやら男の右手が不自由だと分かる。この 2 人の関係がよくわからない。というか、何もわからない。男がどこから戻り、家がどこに在るのかも、馬小屋との位置関係も、広さや間取りも分からない。
女は鍋で芋を茹で始める。男と女は茹でた芋を手づかみで食べるが、男は左手しか使えないので所作が雑になる。汚らしい。塩を適当にかけて食べるが半分くらいで食事を終える。女も似たようなもので、平らげることをしない。芋は廃棄された。もったいない。てかフォーク類はないのか? 彼らは就寝する。このときに、男と女が親子だとわかったような気がする。
2 日目。やはり暴風だ。娘の朝の日課は、家の前の井戸からその日の水を汲むことから始まるようだ。井戸を蓋しているトタン板を剥がすが、これが飛んでいかないのが不思議である。とにかく風が強い。また、娘はバケツをもって家を出るとき、扉を明け放したままにしているようだ。これで父は目を覚ますことが常となっているようだが、これは一体どういうことか。
朝食が済んだのちだろうか、父は馬を出そうとするが馬は動かない。娘はムリだと言い、父はあきらめて家に戻り、屋内で薪割をはじめる。そもそも、なんのために何処へ馬を出そうとしたのか。ドンドンと玄関が叩かれ、隣人様の眼鏡男がパーリンカ(酒)を分けてけろと言う。父はなぜ町に買いに出掛けないのかと問う。
眼鏡男は「町は風で滅びた」という。世界も終わりだという。私がちょろっと目を通した解説や感想には、この男の狂言がいわゆるニーチェ的だというが、本当にそうだったかは定かではない。父はこの話を戯言だと一蹴し、眼鏡男は暴風のなかを帰っていく。家屋の窓から去る男が映されるが、それがカメラの視点なのか、あるいは父娘の視点なのか。この辺から窓を通した視線が意識されだしてきた。
3 日目。相変わらず芋を 2 人とも残す。うまくないんだろうけど、もったいない。馬は飼い葉も食べなければ水も飲まない。強情なのである。人間はまだ生きようとしているが、馬は既に何かを諦めたような雰囲気になっている。不穏である。どういう意味があるのか。
おそらく昼、2 頭の白馬が引く馬車に乗った流民が家の井戸を使いだした。娘、父という順に出ていき彼らを追い出す。彼らのセリフに「若い女性」や「アメリカに行く」などというキーワードが出た。あぁ、娘はそれなりに若いんだとなる。そしてこの世界にはアメリカという概念があるんだということがわかる。
4 日目。暴風の中、井戸が枯れる。なかなか解釈が難しく、3 日目の流民の影響なのか、それとも彼らに関係のない必然なのか、それが分かりづらい。どっちでもいい。水のストックがなくなれば、芋を茹でること能わず。水分はもはや酒しか残っていない。
家に戻り、革製品の修理をしていた父は、いきなり家を引き払うという。家財道具をまとめて荷車に乗せる。馬は荷馬車を引かないので、引き連れて歩く。どういう状況だろうか。よく分からないが何処かに向かう。これがエンディングだろうかと、丘の向こうに消えた彼らを思いながら揺れる木陰を眺めていたら、なんか戻ってきた。
町は滅び、世界は滅びていたのだろう、アメリカがどうなったかは知らないけど。みんな元通りになってしまった。家を引き払うには遅すぎたのかもしれないが、これもただの必然だったのかもしれない。娘は母の写真を大事そうに抱えていた。どういうことだろうか。
5 日目。どうも生の芋を食べてるっぽいんだが、そんなもん食べられないよね。爪で生皮を剥いでいるのが見ていてツライ。そのまま噛り付き始めるじゃん。というか、気が付けばナイフの部類もないということなんだな。鉈はあっても包丁はない。どういうことだろうか。
なんか夜に嵐がようやく止むのだが、それと同時に灯りが落ちる。父はキレるが、油は入ったままで炎が切れる道理がない。種火を持ち出してあーだこーだやるが、これも消える。もう常識が通用しない領域に踏み込んでいる。
6 日目。暗い。机と芋と 2 人だけ。芋食うやん。終わりやん。
この作品がニーチェであること
ニーチェは数冊しか読んだことがないし、彼の考えていることをそこまで咀嚼できたつもりもないが、タイトルを無視するわけにもいかない。ニーチェといえば古代ギリシアの研究にはじまるわけだが、そこで私が本作で注目したいのは、火だね。
説明するまでもないが、火は神であるプロメテウスが人間に与えた。火こそが人間文明のキッカケであり、これが絶えるということは、端的にその終わりを指示している。まぁ今となってはギリシア神話を持ち出すまでもなく共有されているイメージでもある。
あるいは酒については、ニーチェがデュオニソスを肯定的に捉えている点から読み解きができそうか。ある発展に相反する破壊的な側面を軽視しない態度を本作の酒に見いだせるか。無理じゃないか。徐々に父の飲酒シーンが増え、最後には娘も酒を口にしているが、それは実は絶望ではないのかもしれない。そういう捉え方はできるか。そうすると、前述の火の消失はどう捉えるのがよいか。
この作品がニーチェの馬であること
タイトルにキャラクターの名称なりが出たら、それはもうその作品の主役はそのキャラクターだという相場があるんですよ。というわけで、実は本作は親子の芋とか井戸とか、そういうのは影であって、本意はあくまで納屋で餌も水も摂取しようとしない彼だったと考える道もあるかもしれない。
まずは冒頭。父は彼をどこに遣って帰ってきたのか。町か。積み荷は何もないので実行したとすれば納品だが、何を納品したのか。芋か。芋畑を運営している描写もないので、思いを巡らせるしかない。薪か。こっちのほうがまだ考えられるか。仮に納品によって金銭を得たとしても、それをそのまま持って帰ってきたのか。パンなり肉なり買ってこいよ。父は何をしたのか。何もしていないのではないか。
上述したように、馬の彼はもう諦念の域に達している。従って、2日目以降は動かない。また、人間から逃げようとするチャンスもあったが、これも採用しない。ただ納屋に留まっている。素直に捉えれば、それは死に直結するので、希望を見出すようなものではない。死が希望という作品でもなかろう。
引かれていくことには従順で、荷車に付いていくことはした。無目的なのだろうか。食事を摂らないのであれば、彼は納屋から断固として動かないという選択肢もあったはずだ。あるとすれば、親子と最期を迎えたいという意思かもしれない。ちょっと強情な感じが滲んで、よいかもしれない。
主の言うことのなかで、かつ自分の裁量のなかで不合理と判断したことはしないが、自らが主の下にいるべき存在であるという意思はある。そういうことだろうか。それが狂ったニーチェが捉えたこの馬の個性として、それが表現された本作だろうか。
手で芋を食べること
まことに原始的で文明的ではない。最低限の調理具と食器具しかないのは何を表すのか。食卓には塩のような調味料が用意されているようだが、父が数度だけ手を伸ばしただけだ。芋のみ在庫があるという設定がそもそも奇妙だし、彼らはそれも半分も食べていない。
彼らは本当は食事など必要ないのかもしれない。そこにあるのは食事をとったという事実だけ必要で、父と娘は人間じゃないのかもしれない。『ヨコハマ買い出し紀行』のような世界観を連想させられる。
嵐がなぜ止まないか、なぜ止んだか
嵐が止んだら火が消えたので、これも素直に捉えれば人間の文明めいたものに区切りがついたことの証左になる。ここから何を読み取るかだが、まぁ、遊んでみたい。隣人がいる、馬車で移動する流民がいる、ということは親子のほかにも人間がいる。
人間がいる、隣人は世界は滅びたというが、流民はアメリカへ行く。文明はその時点にはあって、まだその文明を続けるという見込みはあった。親子の行動は生活に必要最低限の水が(あるいは芋も)あればよかった。逆に言えば、彼らは嵐という文明を拒んでいたとも捉えられる。
であれば、いったん捨てた家に舞い戻ったことも理解しやすいな。彼らは嵐、つまり文明社会には水があろうと馴染めなかった。あるいは、彼らの意思がやはり文明を拒んだのだ。
文明を拒んだというと退潮主義というか、いわゆるニヒリズムっぽくなってしまうが、あまりそのような理解を私はイメージしていない。なんなら親子は 7 日目には生芋食いに慣れているような気もするし、いっそのこと食事を破棄しても不思議はないように思うのだ。
まぁ、なんだかよくわからない作品である。困った。この作品、カメラが 1 日中ノーカットで回り続けるのだが、それもそもそも何のためなのかと思っていたが、もしかしたらこれは家の視点であり、さらにいえば亡くなったと思われる女の視点なのではないかなどと思ってみたり。いまのところ根拠はないので、何も言うことはないが。
毎日新聞で記事になった野田秀樹さんの意見書が少しばかり話題になった。スポーツを引き合いにした表現と受け取り側の齟齬に過ぎないが、スポーツ陣営と演劇陣営でしょうもない諍いになっており、非常におもしろくない。
結局のところ、プロスポーツで無観客試合が現状で成立しうるのは、一時しのぎが利く段階であるからに過ぎず、その体力も野球やサッカー、あるいは相撲などに限られた話であろうし、シーズンが本格化する前だからというだけだ。各々のスポーツ、チーム、選手の熱心なファンは、現地で試合を見たいというのが心情だろう。
ところで、無観客というキーワードを引き合いに出すと、先日はナンバーガールが無観客ライブを配信していて話題になっていた。
あるいは、もっと直近の例だとこのような事例もあるようだ。取り上げられている投げ銭の額などの真偽については慎重に見るべきだと思うが、内容を真に受ける限りでは成功だろう。
昨晩のニュースだが、以下のような試みもあるようだ。
いろいろな態度や試みがあるようだが、どのあたりが興味深いかね。野田さんの意見書に反映される根本的な思想はわからないが、スポーツ、音楽ライブ、演劇、オペラにかかわらず、現場、臨場でしか体感できない感覚は各々にあるはずでそれは人間がなにかを表現するということが基本にあるはずだ。
ところで、スポーツが他と異なる文脈を持ちうるとすれば、1 番に挙げやすいのはリーグ制という点で、1 回の試合ですべてが終わるわけではないというところだろうか。ただそれも所詮は外野の意見に過ぎないようにも思える。たとえば、無観客で行われたプロ野球の試合が、引退前の先発投手の達成した完全試合になる可能性もあるわけで、それはとても再現性も低ければ、並一通りの試合とは呼びづらくなるだろう。
そういえば映画館は、途中の 30 分ほどまで流しても座席が空いたままだった場合は上映を取りやめるらしい。なるほどなぁ。
「衝撃の問題作!」という気分で鑑賞に望んだが、趣は藝術映画の類で、さらに言えばやや退屈だった。撮影の工夫なのか、映しづらい対象が多いためか知らないが、 人体の接写が眠たくなるほどに多い。また、揺れが大きいタイプの画面が多いので、これも眠気を誘う。眠い。序盤、ややうつらうつらとしてしまった。
主人公のジャックは建築家だか技師だかのシリアルキラーで、藝術家を気どっている。また、強迫性障害だと自白している。アメリカのどこだか分からぬが、田舎の広大な土地を所有しているようで、その一角に家を建てる計画を実行中だ。あとで調べたら、彼は技師らしく、自らのコンセプトの家を建てることで建築家(藝術家)と昇華されることを望んでいた節もあるようだ。
家といっても理念的なモデルをそのまま現実にしようというような体で、作中ではブロック作りからはじまり、木造の木組みへ切り替え、これも何度か試して組んでは放棄し、最終的にはコンクリートかモルタルかしらぬが、そういった構造物が一応完成したものとして提示される。だが貧弱である。後述する。
ジャックだが、初登場時は爺さんかと思わせられるような風貌で、ひとびとの命を奪うたびに若返っていく。まぁ分かりやすい。また、そのたびに強迫性障害が軽くなっていったと自白もしている。これらの表現をどう捉えればいいのか。そういったことを考える必要があるのか。時間の無駄ではないか。
作劇としては 5 つの幕とエピローグに分かれており、メインで進む物語の傍らでジャックとウェルギを名乗る老人との対話が差し込まれる。ウェルギが何者なのかは大体察しがつき、透けてみえる。人類社会の善と悪、あるいは藝術とは、というようなテーマをジャックに仮託して語っている風だが、本当にそうか。あるいはこのテーマはどれくらい斬新なのか。そういったことを考える必要があるのか。
個人的には第 3 幕の序盤の映像がおもしろかった。この映画がやりたいことの意味が分かったような気がしたからだ。振り返ってみれば、第 1 幕は衝動的、第 2 幕ははじめて自覚を持った段階、目的はまだ自分でもよく分かってない。第 3 幕は、家族と狩りをテーマにしており、言い方はなんだが視野が拡がっていく。翻って、内省も進んで第 4 幕は家族よりもパーソナルな愛と本人が嘯く。〆としての第 5 幕は大量殺人だ。
こういった経緯を辿る主人公の独白は、どのように言い繕っても陳腐にならざるを得ない。少なくとも私には目新しさはなかった。一方で、人間の歴史、藝術の歴史において命を奪うことにどのような意味があったのか、表現されてきたか。いかに肯定、否定されてきたのかという問いに対し、誰もうまく答えられないというジレンマは観客も解消しきれないわけで、愚直に考えようとすれば本作の生命線はそこにしかない。そういったことを考える必要があるのか。
本作、ハラハラドキドキするように作られているわけでもなければ、特別に胃のムカつきとか胸糞悪さとかも起きないようになっている(もともとこういったジャンルが苦手だったり、嫌悪している人物は別にして)。それは凄いのかもしれない。人体の接写が眠たいのも、その目的があるのかもしれない。殺人を扱い、それを肯定も否定もしないということであれば、そのような表現、つまり美しくもなければ特別汚らしくもなく、それらをただ映しているだけであるべきかもしれない。ただ、物語の展開については、中盤以降ちょっとだけドキドキしてしまった自分が悔しい。
最終的にジャックの建てる家が、どういうものなのか。これも中盤くらいから大方予想がついたので、何を今さら感があった。これを藝術というのならそれが何に繋がるのかという解釈も、観たままのものだったら、やっぱりおもしろいとはいえないと思う。そういったことを考える必要があるのか。
ところで、エピローグの最後の最後は悪い方に予想が外れたというか、ジャックも結局のところ人間だったことが分かり、やはり私には本作全体がなんだったのかが不明瞭になった。そういったことを考える必要があるのか。
監督のラース・フォン・トリアーって、いつもこういう作風なのだな。テーマの扱い方としては他の作品にも興味がないわけではないが、画面自体はそこまで惹かれるものもないかな。ってか《ダンサー・イン・ザ・ダーク》の監督かぁ。
2018 年制作の韓国映画だが、本国では 2019 年始、日本では 2020 年の年始から上映された(Wikipedia 情報)。刑事もののコメディ、これはまぎれもない正真正銘のコメディ映画といってよく、大笑いしながら楽しんだ。韓国はどこかの地域の警察署に所属する麻薬捜査班 5 名が主人公で、このヘボヘボのチームが解散の危機に瀕している。起死回生の結果を残すために奮闘するが…、という仕立てだ。
もう少し内容に踏み込むと、張り込み捜査のために表向きでチキン屋を経営する羽目になった彼らだが、そのお店が大ヒットしてしまい、てんやわんやの大騒ぎとなる。不出来とはいえ志をもって警官になった彼らにも葛藤なりがあるわけだが、謹慎中で収入もないところ、流行る店をみすみす手放すわけにもいかずに走らせていたら、ふとしたキッカケから大捕り物に発展する。
クライマックスでは彼らの 5 名の能力は実は格闘寄りであることが、やっと明かされる。最後の乱闘が始まる前に横に並ぶ彼らのアップが画面上で 5 つのカラムに分割してキメになるシーンがあり、戦隊モノっぽいなと思ったが、西部劇なんかにもあったかななどとも思う。どうだろう。
リーダーのコ班長の最後の格闘シーンが大爆笑もので、笑いどころとしても、物語のクライマックスとしてもベストだ。エンディングでは警官としてキャリアを進めた情景が描かれていたが、楽しませてもらった身としては、チキン屋がどうにかならなかったのかは気になった。あと、チキン食べたくなるので、いわゆる飯テロという部類の作品でもあった。
昨年に鑑賞した《帰れない二人》の上映が早稲田松竹であったが、併せて同監督の《青の稲妻》と本作が流されていた。《青の稲妻》は時間が合わず、《長江に生きる 秉愛の物語》は観られた。発展が著しい中国は、国の変化を描く映画が盛んで、これらの作品もその流れのうえにある。《長江に生きる 秉愛の物語》は、完全なドキュメンタリー作品となっている。
場所は長江は沿岸の村「桂林」と朧げに覚えているが、あの有名なスポットではない。三峡ダムが完成した暁にはダム湖面下となる村から立ち退けという政府に抗う女性:秉愛(ビン・アイ)が取り上げられる。村の立ち退き事業自体は 1996 年から開始され、2002 年には一応の完了をとったらしい。監督は 7 年間もの間、彼女を追ったようだ。彼女はどうなったのか。
彼女の実家は、もっと山間部にあったようだが、父の決めた夫と結婚した。そこに愛はなく、かつて恋仲だった男とは別れた。そこから、夫とは一男一女を儲け、田舎の農民として生計を立ててきた。夫は脚に障害を抱えており、収入のよい重労働ができない。愛はあとから育まれた。そして彼女は大黒柱となった。
1996 年、第 1 次移住者たちが村から去る。家屋を破壊して建材を確保し、新しい土地で家を再建し、生活を歩み始めるとのことだ。まだ村は集落として機能しており、たくさんの人がいる。家財道具を載せた船が川下に消えていくのをまだ残っている人たちが見送っている。
時は飛んで 2002 年、隣近所が居なくなった彼女の一家は、その家だけを残した村の跡地に暮らしていた。高校生になった息子は町で寮生活をしている。娘はこれから高校受験だ。先に立ち退いた友人たちから引き受けた畑は、かなりの広さをもっており、そこを耕しては家族を養う収入を得ているらしい。
一方で、立ち退き事業は進行しているわけで、村を含めた比較的広い同地域での寄合では喧々囂々、みんな好き勝手に言いたいことを喚きたてている。ぽつぽつと残っているひとたちが集まればまだそれなりに人はいるようだ。多数決で物事を決めるとうそぶいてはいるが、国家や役人の敷いたレールに沿ってしか話は進まない。
彼女は、現在の自らの畑を維持できる距離での引越しを目論むが、そうはならない。中国では国民は土地を所有できない。決められた土地に行けと役所の人間が説得にくるが意見は平行線のままだ。とうとう指定された候補地にまで呼び出されてしまう。役人と秉愛夫妻とのやり取りは、本作のハイライトといえそう。耳慣れない言語での口論が延々と続くので、ちょっと眠くなったけど。
さて、彼女が今の生活と暮らす土地に懸ける思いが尋常でないことはわかるし、政府の命令が一方的であることもわかるのだが、彼女なりの論理がどれだけの正当性を持つのかは、私には判断できなかった。
最終的には一時的に引越しに合意するも、結局のところ彼女は、政府の一方的な主張に迎合する引越しはしないと決意を改め、少なくとも撮影期間の 2003 年までは意志を貫いた、とのことだ(元の家は水没し、なんやかんやで近所の小屋を買い取った、とのエピソードが字幕で流れるのみであった)。
冒頭、寄合後、最後の 3 つのシーンで彼女はインタビューらしいインタビューに答えている。いずれの独白でも、恋は父に敗れ、でもそれを恨んでいるわけでもなく、自らは家族を助け、そうやってみんなの記憶に刻まれたいということを淡々と述べる。
2002 年の苦しい時期、よく祖母と母の夢を見るとカメラに向かって彼女は言った。故郷の夢だ。だが、夫が夢に出てくることはないとも言った。「身体は簡単に動くけれど、心は思ったよりもはやくは動かない」とも言った。どういうことだろうか。
非常に印象に残った言葉だったが、だが、そうであればなぜ彼女は、嫁いできたこの村に身体が縛られているのだろうか。まして、心も縛られているのか。逆に問えば、心をこの村に残すために、身体を無理やりにでも留めているのではないだろうか。
また、彼女の学業は、文化大革命の終わりに翻弄され、教師が権威を失い、学校では終始に渡り農作業をやったという。これがどのような政策や活動にあたるのかはよく分からないが、とにかく自分は勉強する機会が失われ、勉強できなかったという気持ちが、強く残っているのであった。
父や国に翻弄されつくしたうえの人生で、とうとう自分の世界を築きつつあったが、今度はそこを破棄されることになった。こういうことだろうか。
その他の情報など
ポレポレ東中野の作品解説に情報が充実していた(リンク切れ)が、以下の 2 つの記事も参考になった。気になった箇所の引用とともにメモとして残しておく。
そんなフォン・イェン監督が結果的にビンアイを主役に据えた本作を完成させたのは、フォン・イェン監督がビンアイの生きザマにホレ込んだため。プレスシートによれば、フォン・イェン監督は4人の女性に絞って撮影を続けており、ビンアイはその中の1人だったが、次第にその「特殊な存在」としての価値が高まり、結果的に彼女が唯1人の主人公となるドキュメンタリーになったらしい。
http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-09-27tyoukouniikiru.htm
フォン・イェンも「三峡ダムによる移住」をテーマに撮影を進めていた。そして出会った1人が断固として移住を拒否する秉愛だったのである。補償金をもらい移住する人が多い中、流されず、「自分の置かれた立場、将来、心、魂について自分なりに考えている」ビンアイの姿に「農民の意識の目覚め」を見出したと監督は述べている。農業経済学専攻の監督らしい視点がうかがえる。
https://wan.or.jp/article/show/2961