ごめんなさい、記事のタイトルは本当にテキトーです。三体Ⅲ『死神永生』を読んだ。過去の 2 作の感想は以下の記事に述べている。第 1 作目の三体Ⅰ『三体』を読むには発売後からしばらく時間を置いたのだが、三体Ⅱと本作については、ほぼ発売直後に読んでいる。まぁ、それだけ三体のことが好きだよ。

といっても、原作は三体Ⅰの初出が 2008 年で、英語版の翻訳が 2015 年らしいので、もちろん日本語で読めるのは嬉しいが、作者がこのシリーズを世に送り出してからは、かなりの時期を経ているとみても間違いとは言えないだろうな。

他の読者のコメントにもあったが、私は絶妙な設定が施された SF としては三体Ⅱとそこに登場する「暗黒森林理論」に魅せられており、これを大変によかった。 三体Ⅲ『死神永生』は宇宙 SF として暗黒森林理論に基づいた顛末の先まで楽しませてくれる。が、べたに言うと、センス・オブ・ワンダーのような驚きは個人的にはそこそこかな。もちろん、スリリングな読書体験には変わりなく、最後まで楽しめた。

なにより好かったのは、三体Ⅱの主人公であった羅輯がそこそこに重要なキャラクターとして存在感を保ったまま、彼自身の行く末をみせてくれたことかな。こういうのは、シリーズ物の醍醐味といえる。積極的に粗探しをしたいわけではなくて、むしろ楽しんだからこそ気になった点を数点だけあげておく。

中性化する人間たちをどう描く

コールドスリープを経て未来に生きる西暦時代の男性が、当世の人間たちには粗野に見える、というような描写が登場する。当世の男性たちは見た目も中性的になり云々という設定である。まぁよくある。

また、西暦人なりの価値観の象徴であり、属性を備えた人物として、また地球人類のある種の希望の一種として登場するウェイドは、西暦人が作品世界に残した特徴を「野生」と表現していた。

女性については特に描写はなかったが、これも中性的になっていると考えるが自然だろう。何が言いたいかというと、それにしては作中においては、男女の役割だとか、その関係性について未来観のある展望は、要所では少なかった。

特にクライマックスでも、この設定が反映されるはずの重要なモーメントがあって、逆に考えれば、既存と思われる価値観こそが不変だと著者は主張するのか、そうでないとするか? は掘り下げる価値のあるトピックではあろう。

主役の程心は何を判断したのか

彼女の判断はことごとく波乱を呼ぶ。これも超長期でみたときには幸いとなるか災いとなるかは判断しづらい。これは SF の醍醐味として楽しんでいいと思う。実際、私自身はまごつきながらも、手のひら返しがあるかないかを楽しんだ。

一方、それにしても程心は、決断は迫られるけれど、それ自体が彼女の意志による行動として発揮されることはあまりない。これは、上記と似たようなことでいて、決定的に別の話であって、彼女の行動のほとんどは流されて辿り着いた結果のうえで展開するしかない。これにはかなりストレスで、なかなかツラかった。

特に、三体Ⅰ『三体』の葉文潔の抱かざるを得なかった苛烈さと比べると、程心の性質は 360 度ほど異なるのではないか。

だが、いずれにしても前述のウェイドのいう野生が、程心の象徴する人間性を否応なく後押しする結果となりつつも、それでも代表者たる彼女の基本的な理念は、「野生」を退けて「人間性」を選び取ったという、まぎれもない事実が残る。即座に結果が伴うことはなくても、その信念が最終的な目的への到達を導くというスタイルは嫌いではない。

限界状態の共同体はどこへ進むのか

三体Ⅰ『三体』のときにもちらりと書いたが、劉慈欣が自国やその制度に対してどのようなスタンスを取っているのかは気になるところであった。付しておくが、これは本作自体のおもしろさとは、ほとんど関係ないとは思う。

本作では、三体人および三体世界はほとんど登場せず、結局のところ彼らと実際に遭遇したと思われるのも地球人類のうちでたったひとりだ。まぁいい。とはいえ、やはり第一作目からの設定を引き継いだうえで、以下のような描写がある。

乱紀という困難に立ち向かうために必要だった全体主義は、科学の発展を阻むものだと判明し、かわって思想の自由が奨励され、個人の価値が尊重された。これらの変化は、遠く離れた三体世界でも、地球のルネサンスに似たイデオロギー変革運動のひきがねを引き、それが科学技術の飛躍的な発展につながったのかもしれない。これはまさに三体文明史における黄金時代だが、

ここでは全体主義をネガティブに書いている。一方で、地球人類が窮地に立たされた段になった箇所では以下のような描写もある。

人口密度の高いこの餓えた大陸において、民主主義は独裁制よりも凶悪であることが判明し、だれもが社会の秩序と強力な政府を切望し、

つまるところ、どちらを良しともせずにいるのではないか。状況によって社会は、それこそ生き残りをかけてそのシステムを求める。それが自然な流れなのか、あるいはどこまでかは誰かの恣意的な判断の下なのか、それは知らない。

雑に言えば、劉慈欣は現在の中国を後者のような状況と捉えているのかもしれない。あるいは中長期的にはグローバルな社会は局所的にせよ大局的にせよ、このような状況に陥りかねないとみているのかもしれない。つらい。

この作品は何を託すのか

古いタイプの SF が好きなので、と言っていいのか分からないけれど、どうしても作者の主張のようなメッセージのようなモノを読み取りたくなる。「死神永生」というタイトルから読み取れるかと考えても、あまりうまくいかなそうだ。

クライマックスで迎える程心の臨む状況も、決して暗くはないのだが、そこまで明かるようにも見えない。これは本当に見事で、未知の未来でしかない。

となると、というか、本作の視座というのは、繰り返しになるが「暗黒森林理論」のようなシビアさに立脚しているように思われる。現実主義的な中国のひとが描く作品という見方もできるのではないかな。そう考えると、重くのしかかるものがある。そんなような気がした。

でも考えてみれば、これこそ三体人は明言しなかった、あるいは気がつかなかったのかもしれないけれど、暗黒森林を生き抜く方法は、作中で明確に示唆された以外にもあったのではないか。

つまり、最終的には程心は地球人類の代表として生き延びている。また同時に、その他の宇宙文明人たちも最終的には「暗黒森林理論」の及ばない状況での対話を求めたとも読み得るのではないか。希望を見出すとしたら、このへんなのだろうか。

なお、以下のブログの記事は参考になった。

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