『メトロポリス』《Metropolis》(1926)を観た。ヒッチコックマラソンの次には、スコセッシがフィルムメーカーを目指す若者に勧めたという映画 39 本を走ることとした。以下のブログで紹介されている。その 1 作目が本作だ。

視聴したメディアだが、ニコニコ動画に分割で投稿されているバージョンを観た。パブリックドメイン化されている作品とはいえアウト寄りのグレーゾーンな気はするが、 1972 年に US でリバイバル上映された版の DVD 化されたパッケージがベースらしい。比較的画質がよいという情報を目にしたので、こちらを選んだ。

鑑賞した作品は 100 分程度だが、バリエーションがさまざまあるらしく Wikipedia に記載のドイツでのプレミア公開時のバージョンは 210 分となっている。現行で入手しやすいのは 2010 年だかに発見されたフィルムがベースになった 150 分版らしい。

背景に資本主義 VS 共産主義 という構図を取っているらしい本作は、労働者の思想的支柱:マリアを廻った思惑を軸にして物語が進む。マリアに感化された若者フレーダーは、労働者たち、および支配者階級とそのボスである父:フリーダーセンとの橋渡しになろうと奮闘する。その他、ロボットを開発する発明家トロワングが登場する。

大量のエキストラを動員した労働者たちのシーンもすごいが、地下世界や洪水のシーンなどなどを含めて、どういう規模のスタジオ? ロケーションや美術装置で撮影しているのか、ちょっと分からない。すごい手が込んでいる。お金も相当に費やされたらしい。

ロボットが偽のマリアとして覚醒するシーンは、やたらと技術が盛り込まれており、半端ない。この撮影の裏話みたいなのは記録は残っているのだろうか。

マリア、彼女に扮したロボット役を務めたブリギッテ・ヘルムの演技が白眉で、労働者の支えとしての女性像と、トロワングの指示によって労働者を扇動する魔女としての女性像、両極端のキャラクターを担った演技には惹きつけられる。

また、世界観を映し出す未来都市の遠景画面にはミニチュアによるジオラマが採用されていると思われるが、これも下手な安っぽさを感じさせられず、この時代からすでに、特に映像的な SF のイメージについても、かなり完成していた-現代がそんなに差を生み出せていない-ことがわかる。

フレーダーの父、支配者の頂点に立つフリーダーセンの「ひとはなぜ地下に魅惑されるのだ」(意訳)のような台詞が最も印象的だった。なんとなく考えるには、空に魅せられてもしかし、人間は地下を生み出さざるを得ない構造のものに社会を作っているのではないか。上手いことを言ったつもりだ。

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2018 年かな「書き手と編み手のAdvent Calendar」という企画を知って、それはつまり、編集に携わるひとたちのアドベントカレンダーだったが、ちゃんと読んだことはなかった。こういう企画の記事を読むのにもそれなりに気力が必要であって、ブックマークしたまましばらく放置していた。

あらためて確認すると、2017 年から 2019 年まで催されたようだが、2020 年は開催されていないのかな。よくわからないが、2019 年のカレンダーに登録された記事をようやく読んだので、面白かった記事のメモを残す。

以下が記事についてのメモだ。

企画者の方の記事だ。ま、やっぱりこういう企画をされる方なので-詳細なプロフィールまでは追っていないけれど、IT ジャンルが近い。もともと、昨今のアドベントカレンダーブームもそういうところなんでしょ?

編集というスキルも技術者に近いところがあるのでは、という主張あるいは論点があり、それはおおよそ正しいと思う。Web (大雑把が過ぎる)でも書籍でも雑誌でも新聞でもいいけれど、ブログもなんだかよくわからん時代になった。編集はどこへいく。人間はどこへいく。

技術マンガを描くにあたっての情報がまとめられている。コミックで技術なりを解説する方法は「マンガでわかる」シリーズなどからメジャーになったのかな。しかし、基本は子供向けとはいえ、小学館の学習まんがシリーズの例を考えると、別に新しいことはなくて、歴史のあるフォーマットではあるんだろう。

DTP、コマ割り、情報量、作業分担などのトピックが扱われている。どちらのこともわからない書き手同士での製作は難しかろうという指摘がおもしろくて、まったくその通りだと思うが、たとえば学習まんがシリーズだと学者先生が監修として入っていることが多い。つまるところ、出版社なり編集者なりが間に立つとすれば、そこをマネジメントするのが彼らの仕事だ。

こうなるというまでもなく、どちらもできる-あるいは当てのある編集者が強いということになる。

辞書編集者の方の記事ですね。辞書の編集はね、マジで大変なんだと思う。タイトルとは裏腹に、やはり最後はアナログな仕事が目立つな、みたいに〆られているが、まぁ殊に辞書についてはそうなるよね、と。

辞書っていうのは機械的と思いがちだけれど、大枠と細部にはかなり著者や編集者の方針や人間味がハッキリ出るコンテンツだ。だが膨大な情報量が前提になるので、そういったことは背景になりがちだ。

本格的な辞書の索引の制作方法についての話を聞いてみたいな。これこそ最後はかなりアナログな作業になると踏んでいるのだけれど。

マンガや雑誌、書籍の編集者からゲーム制作者になった方の記事かな。いわゆる編集スキルが書籍以外に経験として生かされているという例として見ていけばいいのかなと思うが、おもしろい。ゲーム制作はチューニングを、校正を永遠にやっている感覚が近いという旨を書かれている。おもしろい。逆にひとつ前の記事を引くなら、辞書の編集に近いんじゃないかな。

書くことのスキルについて「短期記憶」と「長期記憶」を織り交ぜることについての言及もなかなか興味深かった。たしかに、文章を書くにあたっての快楽ってそういうところにある気がする。

Zoom を利用した取材の方法についてのメモなのだが、2019 年末の記事なので、ちょうどコロナ騒動を目前にして Zoom が広く知れ渡る直前くらいにあたると思われ、面白いなと思った。未来予知的な話にもなっている。

インプットが多すぎて処理しきれないというのは、確かに難しい。

15 年ほど編集業を出版社で勤めて独立された方なのかな。タイトル通りの記事なのだが、これはなかなか難しい。世のすべての編集者が InDesign を使えないということはないとは思うのだが、本当は編集者が InDesign を使える必要なんてない。

それはデザイン、プロフェッショナリズム、分業制などなどの理由から大雑把に言ってのことだが、もちろん使えることで、完成形への見通しが強くなることも確かだ。

というか、同人で書籍を作っているひとは自分で InDesign を扱うことは珍しくないだろう。そういう意味ではどちらが書籍制作のプロなのだか、もはや分からない。そういう境界線に立つことにした方の記事だ。

偉そうなことを滔々と述べたけれど、InDesign の学習サイトを紹介してくれているのが何気に素晴らしいですね。他の Adobe ソフトに比べてもそうだが、なかなかこういった情報自体が共有されていないように思う。という視点に立てば、本企画の趣旨にもっとも適合した記事だな。

Wantedly のインハウスエディターの方だそうです。ガチ目の論考だ。

大雑把な理解としては、印刷技術、文字の出力技術の発達によって、その末端の作業、ここでは主にタイプライティングが主に女性労働者の役割となったとき、その職業に対する偏見、あるいは情報を紡ぐ主体としての立場がどのように変化してきたかということを論じる。

イントロダクションでは著者とゴーストライター(ブックライター)の関係に言及していたので、最後にはその辺に戻るのかなと思っていたが、そうでもなかった。

本ブログの最近の話題でかこつけていえば、タイプライターが女性の仕事だという観点の歴史は長そうで、ヒッチコックの『マーニー』のヒロインも職場ではタイプライティング作業をさせられていた。また、『ファミリー・プロット』では論考で言及されていた霊媒師も登場する。

というか、ライティングというか文字メディアにかかわらず、巫女という存在を思い起こせば、女性がなにかしらの媒体になって真実を伝えるというフォーマットはライティングの歴史以前、もっと人間の根本的なところにあるのではないか、と釣られて考えてしまった。ここまで。

校閲を仕事にされている方の記事だ。本記事ではあえて校正で統一されている。まぁなんというか、編集なりの校正、校閲なりに関わる人間というのはなんだかんだで文字が好きなんだなという感想だ。

本職の校正者が自分の同人の校正をやるのって大変だなと思うが、別に自分の原稿じゃなければそこまででもないのかな。その辺の感覚の話を聞いてみたい。

同人書籍の制作記録ですが、かなりちゃんとまとまっているので、これだけでかなりの価値のある記事だよね。

特にどうということはない記事だと思うのだが、やはり IT エンジニアの方はアウトラインを作ってまとめるのが上手いんだよね。これはひとつ上のカイ士伝さんの記事もそうだけど。

これも自分が言うまでもないのだけれど、そもそもインターネット文化とは、IT エンジニアの方に支えられる部分が構造的に決まっているので、そういったところから新しくなり続けるはず、という視点は欠かせないんだよね。これも記事とは直接関係のないことだけれど。

面白い。Web における文章の出力媒体とそのメソッドの変遷についての小論考だ。その目的も兼ねて、この記事は敢えて medium で書かれたらしい。ところで、このアドベントカレンダーはやはりと言っていいのか note で書かれた記事が多かった。

個人的には WordPress の記事執筆機能の UI を割と大胆に変革し続けているのが気になっており-その更新の内容自体は平凡だとしても、面白いなと思って見守っている。もとい利用している。

なにか大きな波がまたあるのだろうかね。

気になるのは、medium にせよ note にせよ吐き出される URL が汚いのだよね。特に medium はおそらくタイトルをそのまま出力するから日本語のタイトルの場合はとにかく長い。技術系の編集者やライターでもその辺は割り切っているのかな? といつも疑問に思うのであった。

といった感じで、メモを終える。

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iPad アプリ Cardflow+ についてのメモを残す。いきなりだが、私としてはアイデアのまとめ方としては原理的には梅棹忠夫の情報カードや川喜多二郎の KJ 法のような類の方法がなんだかんだで有効だと信じている。

既存のデータや文献を扱った型に沿った研究、あるいは何らかのフレームワークを利用するのであれば、また別だが、自分なりにプリミティブでもいいから、なるべくゼロから思考を作って進めてまとめていくには、これらの手段がやはり強い。

たとえば『エンジニアの知的生産術』もやはり上記の方法におおよそ近い方法を採用して説明していたと記憶している。本書で紹介している手段としては、やや小さめのポストイットを使用し、アイデアのユニットを書き出したら A4 用紙に付してまとめる。クリアファイルかなにかに収納すれば持ち運びも便利でどこでも思考を進められる、いうようなことだったっけ。

以降、著者の西尾さんの Twitter なりでの状況報告ツイートでは、上記の方法を自分なりにアプリケーションに落とし込んだという経緯を辿っていた気がするが、今回話題にする iPad の「Cardflow+」は似たような操作ができるということだ。最近になってようやく発見した。

日本語化されていない点を無視しても、日本人で利用しているユーザーはあまりいないようで、ブログで紹介している記事も以下の 3 点ほどしか見つからなかった。ただまぁ、ここまでの説明と以下のブログなどで紹介されている以上のことも特にないので、具体的な使い方の話には踏み込まない。ややクセはあるが、それほど使いづらいアプリではない。

使い始めてあらためて思ったことだが、こういう思考方法は習慣化していないとアイデアの書き出しに苦労するね…。

つまり、アイデア出しそのものを習慣化していないと人間は発想ということ自体の方法を忘れていく。いや、当たり前っちゃそうなんだけど、その自覚の機会さえ簡単に失われていく。習慣化されない諸々の行為一般に当て嵌まることだろうだろうけれどもさ。

考えることについてのみいえば、オリジナルの思考を進めるということは、それだけ難しい。

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『ファミリー・プロット』《Family Plot》を観た。1976 年の作品だ。ヒッチコック最後の作品ともなっている。いくつかのレビューで目にしたことだが、たしかに話のスケールが小さくまとまっている。テレビの特別番組枠と言われても納得してしまうかもしれない。こういうストーリーにしたのはどういう戦略だったのだろうか。

ヒントと言うか、前作の『フレンジー』でも感じたことだが、サスペンス要素が身近な関係に落ち着いている。そして主人公たちも悪役も、小市民(小市民とは)だ。多くの鑑賞者にとって感情移入しやすい、とは言わないまでも、自分や知り合いの立場に近かったり、そうでなくても隣近所の人間に似たような境遇の人間がいるかもしれない。

時代背景やら同時代の映画作品、あるいは他メディアのエンターテインメントとの関連比較やら、深入りしていくとおもしろそうだけれど、一旦区切る。

物語は、冴えないカップル 2 組の思惑が交差する。交わるようでなかなか交わらない関係がおもしろい。本作では、男女間の性的な関係が直接的にビジュアルで表現されることはほぼないが、会話劇もとい台詞回しでは過去にないくらい存分に主張されており、これも目立つ点かな。とにかくヒロイン:ブランチは本能が強くてヤバい。

インチキ霊媒師という設定、あるいはクライマックスのアレにどういう比喩が籠められているのか、現時点ではよく分からん。ただのオチではないとは思うのだが。

悪人側の主人公:アダムソンとその相棒:マロニーの 2 人の悪人面もよくできている。雑に言ってキャストがいい。ブランチのパートナーであり、一応の主人公:ジョージも一見して軽薄な男だけど、実はそこそこ頭がよくて思慮もあるという塩梅が絶妙でよい。嫌いになれない。

無視できないキャラクターで今回、私がもっとも好いな、カッコいいなと思ったのは、アダムソンのパートナー:フランだ。冒頭のインパクトの強さ、誘拐強盗とそこから先の犯罪との絶妙かつ奇妙な線引きなど、なんとなく共感しやすいかったね。

というか、鑑賞後にわかることだけれど、フランは現行のパッケージのビジュアルに大きく使われているんだよね。やっぱり、カッコいいよ。

気になったシーンなど

今作もなんだかんだと印象深いシーンやらカットやらが多かった。ひとつずつあげていく。

よそ見運転からフランに切り替わる

冒頭、ブランチが富豪老婆を相手にした仕事帰り、彼女の儲け話に耳を傾けるジョージは運転を疎かにして事故を起こしかける。その相手が道路を横断していたフランだ。

このタイミングでカメラは警備員のいる詰め所に向かうフランを追い始める。いや、まったく意味不明ですが、目はくぎ付けにならざるを得ない。突然、強盗劇が開始されて私用の小型ヘリコプターを駆った人質交換までが済み、誘拐強盗が完成する。

スムーズすぎる。話の展開としては半々くらいは読めるようになっているが、手際が良すぎてもう面白い。

聖堂の階段、最後の階段

ヒッチコックの階段が好きだ。今作では主に 2 箇所のシーンで階段がうまく使われていたなと。ひとつは、司教に会見を臨むジョージが聖堂の大階段を駆け登る俯瞰のシーンだ。なんとなく気味がいい。

もうひとつは、クライマックスのアダムソン邸でのいくつかの階段だが、やっぱり上手いんだよな。ヒッチコックの最後の作品となった本作のエンディングが階段で締めくくられるのとか完璧としか言いようがない。

ファミリー・プロット

悪人マロニーの葬儀で、避けるマロニー夫人と追うジョージを俯瞰で映すシーンもよい。これはタイトルに象徴されるロケーションなのだよな。葬儀あるいは墓地でひとが動くシーンというのは、なんらかの不思議な気分を醸すね。

ヒッチコック作品でいえば『泥棒成金』も印象的だったが、自分の小さな映画履歴でいえば『芳華‐Youth‐』のラスト付近の墓場のシーンも好きだね。日本の映画だと何かあるかな。パッとは思いつかないな。

ジョージのハンバーガー

ブランチ宅での朝の作戦会議中、ジョージがハンバーグを焼いてバンズに置く。テーブルには野菜とピクルスが盛られた皿があり、ケチャップも目に入る。2 人はテキトーに野菜をのせて、ケチャップをぶっかけて手製のハンバーガーを頬張る。ずるい。

なんかねー、いいんですよ、このさりげないシーンが本当にいい。この作品で 1 番好きだ。美味しそうなのがまず第一に好い。調理担当をジョージが請け負っているのも好いし、時間もないのにおかわりを要求するブランチもよい。本当に欲望に忠実だな、君は。

お手製のハンバーガー、作りたくなるっしょ、これ。そういえば、誘拐された被害者に提供されたフランによる食事も美味しそうなんだよね。そのへんの感覚も、ここ数作品で得られたことなのでちょっと気になる。

というわけで、先日もちょろっと書いたが、もともと射程に入っていなかった初期作品、ついで、いくつかの取りこぼしを残した状態だが、今作の視聴をもって一旦はヒッチコックマラソンを完走とする。ありがとうございました。

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『フレンジー』《Frenzy》を観た。1972 年の作品だ。イギリスとアメリカの合作ということで、ヒッチコックがひさびさに故郷で撮影した作品となる。アメリカの広々としたロケーションに比べ、ロンドンのせせこましい街並みが安心感を生む。というと失礼なようだが、なんというかである。街のせせこましさと同じようにして、物語も非常に小さい人間関係のなかで進展する。

本作もいつもながら巻き込まれ型の主人公:ブレイニーが四苦八苦する展開だが、いつもと違うのは彼がまったくと言っていいほど活躍しない点だ。こういう意味では《間違えられた男》を連想させられる。加えて、真犯人とその犯行シーンをのっけから明かす展開も珍しいのではないか。前例はなにかあったかな。

真犯人:ラスクがどうしようもない犯罪者であることは確かとして、ブレイニーもうだつの上がらない人間だし、もうひとりの主要登場人物であるオックスフォード刑事も冴えない。この作品に登場する男どもは、どいつもこいつもダメなのが印象深い。

対して、女性たちは強い。ブレイニーの元パートナーだったブレンダは事業をそこそこ成功させているようだし、いまの彼女のバーバラもパキッとした意思をもって事件に立ち向かっていた。ちょっと登場した空軍時代の仲間であったジョニーのパートナー:ヘッティのキャラクターも強烈で、ブレイニーが無罪だったとしても一切関わりたくないという態度が一貫していて美学があったね。

極めつけはオックスフォード夫人で、探偵役の家族が直感で真相を言い当ててしまうお約束の展開も面白いが、おいしくもない料理を量産し続ける彼女の根気がすごい。最後にお客の残したマルガリータをマズそうに飲んでいたのも笑えた。

狂気と笑い

ラスクの凶行シーンは過去にないくらい強烈な描写が許されている。女性のバストも何度となく登場するためか、R18 指定すらされている本作だが、最初のラスクの凶行シーン、表情のドアップが印象的だし、事の済んだあとの被害者の表情がどれも強烈に凝っていて、決して見ていたいものではないものの、素晴らしかったね。

2 度目の凶行は直接描写されなかったものの、トラックの荷台で繰り広げられる独り相撲は異常さのなかに笑いを誘われる。芋の山のなかから被害者の脚が伸びてきて、ラスクの顔を蹴とばしたような状態になったり、トラックの動きの反動で顔を突っ込んでしまったり、いい意味でバカバカしい。偏執的な異常者のこだわり症に目を見張らざるを得ない。

過去作との比較でいえば、今作でも一瞬だがラスクの母親が登場する。どうにも母親との関係は良好らしいことが示唆されるが、過去のヒッチコック作品を見てきた限りにおいては、結果的にはメタ的に逆張りとして機能したとも考えられる。

印象的なカットなど

今作はこれはおもしろいなという画面が多かった。

オープニングクレジット

タイトルを含むオープニングクレジット、『北北西に進路をとれ』までは試行錯誤が常に面白く、それ以降はピンとこなかった。今作もそれほどではなかったが、テムズ川を空撮してタワー・ブリッジに接近していく画面はさすがに面白くはあった。カットは変わるがやはり空撮にて、川沿いの路上で環境問題を訴える演説家と聴衆を映す。気合の入りようが伺える。

さらばバーバラ

バーバラがラスクに匿ってもらう展開になる。ラスク宅の扉が閉まると、カメラは 2 人が昇ってきた階段をそのままソロリソロリと降っていく。向きは変えずにバックしていく。ホラー映画などではたまによく見る映し方のような気がするが、ねっとりと遠ざかっていき、ラスクの部屋の窓が映るほどにまで遠ざかっていくシーンは、いいね。上手いんだよな。

オックスフォード夫妻の食卓

夫人が謎の魚煮込みスープを出す。刑事は夫人の目を盗んでスープを鍋に戻す。この攻防は、キッチンを中央奥の入り口向こうにして、手前のテーブル右に刑事を配置して映し出される。さらにテーブルには燭台に火が灯っており、2 本の蝋燭が左右に揺らめいている。

夫人の移動とともにやや右寄りだったカメラが正対するように中央に移動すると、キッチンへの入り口と燭台、蝋燭が見事に並んで重なり、また左右に座ったオックスフォード夫妻がシンメトリー様になる。小津安二郎ばりのこだわりの画面か。これは何だろうね。話中ではアンバランスのように演出されているが、実際にはこの家庭はバランスが取れているとでも言いたいのか。謎である(笑)。

遠見のヘッティ

ジョニーと再会するシーンで、ジョニー宅を示唆させながらヘッティが彼らをベランダ? バルコニーから睨みつけているシーンがあるが、なんなら私は本作でこのカットがもっとも印象に残ったかもしれない。

先ほども書いたが、この作品では女性の方が本質的には強いように描かれているように思う。同時代の作品に同じような傾向がどれくらいあったのかも分からないし、今日となってはそういった前提が描かれた作品など珍しくもないが、ヒッチコック作品という枠についていえば、珍しいように思う。『三十九夜』や『逃走迷路』あたりのヒロインは主人公よりも知的な感じがあった気がしなくもないが、ここまで完璧なこだわり様はなかったのではないか。

物語の背後のこととしては、そこらの配慮が気になった。

ちなみに、恥ずかしながらタイトルの英単語 “frenzy” の意味を知らなかったのだが「逆上」だとか「狂乱」だとかが、本作に相応しいのかな。前者であればブレイニーに該当するだろうし、後者であればラスクに該当しそうだ。その辺がネイティブでもダブルミーニングになりうるのかは分からないが、どうだろうか、端的ながら味のあるタイトルな気がする。

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『トパーズ』《Topaz》を観た。1969 年の作品だ。前作は東ドイツだったが、本作は対ソ連ということで、共産主義の本丸を相手どった冷戦ネタの作品だ。珍しくというか、群像劇と言うほどではないものの、主人公一辺倒の構成ではなく、ハッキリと幕が分かれていることを意識させられる。ここでは大雑把に以下の 5 幕として感想を並べる。

  1. ソ連高官クセノフ一家の亡命劇
  2. フランス大使館でデベロウ登場
  3. ニューヨークでの機密情報奪取
  4. キューバへの潜入と失敗
  5. フランスでの黒幕と真相の究明

また、日本語でググっても簡単には情報が見つからなかったが、オープニングクレジットのソ連軍の行進のシーン、キューバのカストロらしき人物の演説のシーンは創作ではなくて実際の映像が利用されているのではないかな。ちょっと確認できていない。

ソ連高官クセノフ一家の亡命劇

発端だ。タイトルの通りの内容だ。コペンハーゲンのソ連大使館からアメリカへロシア人高官:クセノフの家族が脱出する。ほぼ無言で緊迫した状況が演出されるのは、いつも通りながら見事な手腕である。ここが 1 番好きって言われても全然違和感がない。

季節は秋から冬なのかな。アメリカ到着後にワシントンから車を走らせて亡命先の隠れ家に向かうシーンで森の中の屋敷に到着するが、少し木々が黄茶色のようになっている。なんとなく『ハリーの災難』(1955)を思い出したが、映像は向こうの方がキレイだったな。

屋敷で秘密会議が開かれるが、隣室で娘がピアノを奏でているシーンは印象深いね。

フランス大使館でデベロウ登場

冷戦下ではあるがフランス-パリはあくまで中立を貫くというフランス大使館でのシーンに切り替わる。そこに主人公:デベロウが登場する。フランスのエージェントである彼は、アメリカ側の組織とも仲が良い。

デベロウの自宅では、パートナーのニコールは彼の仕事を危惧しており、パリに帰りたいと促す。まぁ、そりゃそうだ。彼らには結婚した娘が本国に居り、娘夫婦がニューヨークに遊びに来るという導線が引かれる。

アメリカ側のエージェント:ジョンかな? が来訪するが、その際の会話もなかなか面白かった。

ニューヨークでの機密情報奪取

国連会議に来訪しているキューバの高官から機密書類を盗みたいが、アメリカのエージェントでは接近すら難しい。デベロウに白羽の矢が立つ。フランスとは関係のない仕事だが、彼は了承する。家族旅行の最中である。

デベロウはニューヨークで花屋を営みつつスパイ活動に従事するパートナーを使って機密情報に接触しようとする。ほとんど、 パートナーの彼の活躍が描かれる。キューバのスタッフが滞在しているホテルは半分無法状態のようだし、街路には共産主義の応援者のようや人たちが集っているし、これは当時の似たような状況を再現したのだろうけれど、なかなか画面が強い。

情報を盗み出すまでのやり取りも緊張感はそこそこにコミカルさを挟みつつ、楽しめる画作りになっていた。特定のシーンについて言えば、貴重っぽい文書をハンバーガーの包みにしており、油まみれにしているところが面白かった。

キューバへの潜入と失敗

ここから全体の尺としては後半に入る。機密文書にてソ連とキューバの繋がりのヤバ味を実感したデベロウは、単独の判断でキューバに飛ぶ。ミッションの重要性もあるが、協力者であるファニタの身を案じた面もあるだろう。

デベロウとファニタのラブロマンスのシーン、ますますドキリとさせられる表現になっていた。話は飛ぶが、拷問シーンもだいぶ精確というか直接的に描かれていた。痛々しさがよく伝わる。これらも規制の対象であったりするだろうから、時代の流れとしてこれくらいの表現ができるようになったのだろうか。スパイしていた夫婦が正気を失っていたが、妻の方の演技がよかったね。

足がついたファニタたちは粛正されていくわけだが、リコ・パラがファニタを処分するシーンも、またよい。どちらかというと彼は、ファニタを女性としてと言うよりも尊敬する英雄のパートナーとして敬愛していた、とみるほうが情に篤い。だからこそあの最期に繋がった。

彼がドアを開けて去り、エントランス中央にファニタの亡骸が残されたシーン、中南米らしい明るさ、デザインを含めて、ホドロフスキーのような美的な感覚を見た。

フランスでの黒幕と真相の究明

紆余曲折の末、デベロウは更迭される結果となるが、彼のもたらした情報によってか亡命ロシア人:クセノフが「トパーズ」の秘密を開陳した。キューバの犠牲になったメンバーの犠牲も少しは報われたろうか。

最後のパリ編では、フランス政府内の不穏分子を炙り出すための踊りがはじまる。そこまで大掛かりな話でもないが、ここで、まさかこういう風にデベロウの妻:ニコールが、まさかまさかこんなムーブを見せるとは。いや、これは酷い。酷いけど最高だ。

ニコールの動き、単純にサスペンスを楽しみたいという向きにおいてはノイズといっても差し支えなさそうなくらいで、まさかのオチをこんな、このような不貞なアスペクトに委ねるのかと思ってしまうよ。

言うなれば、キューバとフランス、本作の物語における彼らを取り巻く構図がニコールとファニタの関係に見立てられる。どうなのかね、これ。自分は面白くみたけど。

直近の緊迫した世界情勢を描いたという意味では、第二次世界大戦中の作品よりもよっぽどテーマに切り込んでいるし、これはこれで特異な作品だ。エンディングに亡くなっていった登場人物たちを思い出させる構造といい、メッセージ性も強い。

好きですね。

余談というか、後期作品になるほど日本語で浚える情報が減ってくる。今回の感想は、以下のブログの記事で登場人物の関係とあらすじ確認しながら書かせてもらったのでリンクしておく。

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『引き裂かれたカーテン』《Torn Curtain》を観た。1966 年の作品だ。船旅のシーンから始まる。カップルが客室でいちゃついている。ロマンスシーンは時代を経るごとにさらに露骨になっている。2人は本作の主人公カップルである。

船はコペンハーゲンに到着し、よくわからないままに主人公:アームストロング博士は東ドイツに亡命することになる。よくわからない。よくわからないままに助手兼フィアンセ:サラは彼を尾行して付いていく。よくわからない。本当によくわからない。

サラの行動もなかなか迷惑だが、言うまでもなくアームストロングの行動がよくわからない。なんで、こんな杜撰なムーブでサラを巻き込んだのか。仮にもフィアンセやろ。男が単なる亡命目的ではなく、なんらかの使命を背負って東ドイツに潜り込んだことは、鑑賞者であれば誰だってわかるが、それにしたってお粗末じゃないか。

農場での格闘

東ドイツへの到着翌日、エージェントと町はずれの農場で会って会話する。会話の内容に意味があるとも思えず、ただの挨拶のためだけに尾行を巻くような危険な行為をするのかね。そこが敢えてオミットされているにしても、やっぱりよくわからないな。

さて、案の定と言っていいのか尾行を巻くことには失敗しており、監視者:グロメクが彼に追いついた。

展開の次第で、農場付きの家屋でグロメクを殺める結果に至る。この格闘シーンが 1 番面白かった。エージェントの協力者である女性もおり、なんなら最初に手を出したのは彼女であった。2 対 1 でグロメクを無力化しようと死闘を繰り広げるが、この攻防が手に汗握る。最後はガスオーブンを活用して息の根を止めるのだが、緊迫感があった。

この事態の終結に当たって、女性がアームストロングに血塗れの手を洗うように促すシーンが好きだ。共犯関係のなかに、ちょっとしたエロチズムがある。

脱出劇

なんやかんやとミッションを進め、東ドイツから脱出しようという段になるが、この辺は個人的にはさほど面白みを感じなかった。序盤から付き添っていたカールが大した役割も果たさずにフェードアウトしていったのも気になった。

反体制組織とのバス移動のシーン、なんというか手弁当な感じのサスペンスだが、流石に上手い。臨時便を偽装して走行する逃走用のバスに対し、背後から本来のバス便が迫っているので緊張感が生まれるという仕組みだ。「本当にそれって緊張するの?」って書いていて自分でも思うが、そこはうまく演出されていて、そこそこの緊張感がある。

バスと別れ、謎のスウェーデン人のマダムに遭遇し、郵便局で一悶着あって、という流れもよくわからない。このマダムを登場させることの意味が、おそらく当時にはあったのだろうけれど、十分に解読できず残念である。それにしても、この一連のシーンも郵便局であえて目立つ動きをする必要がないんだよな。決死の逃避行としては温い。

クライマックスに至るシーン、劇場にて観劇しながら逃亡の時間を待っている。そこにふと奇妙なカットが現れた-ここはとてもヒッチコックらしい仕掛けだった。だが、これも序盤での妙なシーンの理由が判明したくらいで、特にこれといって意外性もなかった。

その後、主人公が「火事だ」と英語で叫んで観客たちが動揺し、騒動になるシーンも如何にもな演出だが、本作では、さまざまなシーンで言葉が通じないことが生かされてきたので、逆に違和感を感じた。流石にそれくらいの英語なら皆わかると前提されるのだろうか。設定の粗のように感じてしまった。

まとめ

ダラダラと書いたが、重ねて述べておくと、農場でのシーンが1番面白かった。あの農場の家屋と女性、『三十九夜』で主人公が逃亡中に匿われた若い嫁のことを連想させられた。そういう意味では本作でも、ヒロインよりも道中でちょっとだけ手助けしてくれる女性キャラクターの方が強烈な印象を残してくれた。

なお、本作と次作『トパーズ』(1969)は冷戦構造が物語の主軸に横たわっている。タイトルの「カーテン」もそのことを意味しているハズだ。

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『マーニー』《Marnie》を観た。1964 年の作品だ。前作に続いてヒロインはティッピ・ヘドレン、パートナーの役としてはショーン・コネリーが演じる。

冒頭、駅のプラットホームに立つ主人公:マーニーが映し出される。奥行きのあるカットが印象的だが、似たような構図は序盤で彼女の滞在するホテル、または彼女の母の暮らす波止場の住宅街を映すときに使われている。そこまで深い意味はなさそうだけれど、どうだろうな。

マーニーがどういう人間で、どういうことをやって来たのか、それをマークが突き止めて対処を決断するまでに 45 分ほど、マークがマーニーの問題を解決しようと四苦八苦する過程が 45 分ほど、そして最後の 30 分がここまでのドタバタの解決編となる。クライマックスまでの展開、先が見えなくてなかなかキツい。

作品周辺の話から入ると、日本では「赤い恐怖」という副題をつけてパッケージ化されたこともあるらしい。Amazon Prime での作品情報としてのタイトルもこのようになっている。言うまでもなく『白い恐怖』(1945)を意識してのことだ。

「登場人物が特定の色に強い拒否反応を示す」「その人物の記憶に隠されたトラウマ的な事件がある」の 2 点が共通している。

また、本作は前作までの 3 作と比べると、母と息子ではなく、母と娘の関係がやや歪んでいる。

マーニーは武装を解除しない、マーニーは本当の自分を明かさない。というか、ある意味で彼女自身も本当の自分を見失っている。唯一の生きがいは母への送金と愛馬を駆った乗馬だ。馬は人間と違い美しいと彼女は言う。乗馬をしているときだけ、彼女は素に戻れるようだ。

彼女が本当の自分を見失った原因は何か。これは序盤から示唆されているので意外性は小さいが、特に今作では性的な表現がさらに露骨に描写されるようになった点に驚く-どちらかといえば映画製作とその描写を取り巻く環境についての話だが。

という状況の中、クライマックスに発生する事件のショックから逃れるべく、皮肉ではあるがマーニーはようやく人間らしい、装いのない態度を見せる。限界状態なのでただただ恐ろしいだけだけれど、90 分ほど溜めこまれたエネルギーが四方八方に放たれる。凄い。これを見せるために本作はあったんや、という興奮に包まれた。

映像としては金庫破りと清掃員から逃れるまで、クライマックスの乗馬、ラストの回想あたりのシーンがおもしろかった。最後の乗馬のシーンはどうやって撮影したのか気になる。

また、母の暮らす波止場の住宅街、リアルなのかセットなのかよく分からなかった。奥に停泊している客船のような大型の舟、本物というよりはイラストによるフェイクに見えるのだが、最後だけは本物のように見えた。答えは探せば見つかるだろうか。

ショーン・コネリーについてだが、映画俳優としては初期のキャリアにあたる作品なのかな。若い。記憶の中の彼と比すと、目元くらいしか面影がない。しかし、いままでの男性側の主人公像とちょっと趣が異なり、面白味があった。

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ヒッチコックマラソンもあと少しで終わりそうだ。一応、Wikipedia に記載されているヒッチコックの「主な作品」リストに従って、Amazon Prime (レンタルを含む)で視聴できる作品を年代順に見てきた。そのつもりだったが、先ほど確認したら『暗殺者の家』(1934)『間諜最後の日』(1936)『第3逃亡者』(1937)『疑惑の影』(1943)の 4 作品をを見逃していたようだ。

とりあえず、上記の漏れを除いて『三十九夜』(1935)から 28 作品を観てきた。1930 年代後半から 1970 年代に入るところまでだ。

ヒッチコックのイギリス時代とアメリカ時代は第二次世界大戦を境にしている。私は無声映画時代のヒッチコックは見れていないので、映画製作という観点からの転機について言えば、『ロープ』(1948)の初のフルカラー作品であった点が唯一か。細かく言えば、いろいろとあるけれど。その直後の作品『山羊座のもとに』(1949)も、おそらくは唯一の時代物ということで印象深くはある。

第二次世界大戦が関連した作品という意味では『海外特派員』(1940)『救命艇』(1943)が主だっているが、戦後にかけて兵役あがりのキャラクターを主軸に据えられた物語が少なくないことも押さえておきたい。そういう意味では『私は告白する』(1953)が個人的にはツボである。

また、詳細は確認していないが、実は原作モノが多く、オリジナル脚本の作品は思ったほどは多くないようだ。これも発見と言えば発見だった。とはいえ、どれくらい脚本で物語に変更がされているかも分からないので、何とも言い難いところはある。

ところで、監督には「サスペンスの神様」という異名があるようだが-出典も知らないけれど、この「サスペンス」と言うのは作中に仕掛けられたハラハラさせる要素の巧妙さくらいのニュアンスで、決してジャンル的な意味ではないと理解した。

どの作品にも男女関係の縺れのようなもの、またはロマンスが絡んでいるのは明らかで、それらが前面になっているときもある。『ハリーの災難』(1955)のような不条理なコメディ作品もあれば、『めまい』(1958)のように幻想的な(それを装った)作品もあるし、『泥棒成金』(1955)や『北北西に進路を取れ』(1959)のようにエンターテインメントに振り切った作品もある。

ヒッチコックマラソンが終わる前になんでこんなことを書いたかと言うと、取りこぼしこそあれど、残り 3 作となって何となく飽きてきたからだ。途中で 2 度だか中断を挟んだので、また中断すればいいのだけれど、残り少ないのでこのまま走り切りたい。決意表明したかったわけでもないけれど、そんなところだ。

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『鳥』《The Birds》を観た。1963 年の作品だ。ちょっと惰性っぽくなっているヒッチコックマラソン、そろそろ区切りをつけたい。本作は、私の世代でも TV で放送されているのを何度か見ている。今回、観ようかどうか迷ったけれど、あらためて見たら、内容はほとんど記憶に残っていなかったので、見てよかったかな。

冒頭、前回の『サイコ』の感想で述べたが、さっそく階段をうまく使ったシーンが出てくる。これ見よがしに、とも言いたくもなる。この階段があるペットショップだが、これは実際の建築物ではなくてスタジオセットかな。であれば、割と大掛かりとはなるけれど、それでも『裏窓』ほどではないか。

のっけから主人公:メラニーの行動原理がわからないが、気にしても仕方なかろう。不躾な嫌味を投げかけてきたミッチへの善行による意趣返しという面が大きいのかな。メラニーは、大新聞社の令嬢として社会貢献的な振る舞いを心がけようとしている節がある。これが明かされるのは中盤ほどのことだ。

メラニーが鳥の襲撃を連れてきたというような側面も強いが、それを否定する材料も用意されている。どっちでもいいけれど。メラニー来訪が何を脅かすかといえば、それはミッチを囲んだ環境だろう。けれど、これは視点を変えれば上述のようにミッチにとっては因果応報ともいえるだろう。なぜなら、メラニーを取り巻く噂は、父のライバル社がばら撒くデタラメのようだからだ。

さて、ミッチの環境とはいうが、ざっくりと言えば、彼の母親だ。ミッチの母:リディアは、過去 2 作から継続されてきたトピックである母子のやや屈折した関係を担っている。本作では、この状況は彼女の唯一の寄りどころであった夫の死に因るところが大きいようではある。

で、いきなりクライマックスの話をするけれど、最後にとうとうリディアは、息子でも娘でもない第三者として新たに、リディア本人を頼ってくれるひとを獲得した、たとえそれがその場限りのものであってもだ。

ざっくり言って、本作の人間関係におけるテーマこそリディアが背負っているようにしか思えない。鳥の襲来という出来事を別に置いたとき、一番メンタルがアッチャコッチャしていたのも彼女でしょう。メラニーは一貫して強いし、アニーは残念ながら脱落するし、他にめぼしい登場人物はいない。

そういえば、メラニーとともにボガデ・ベイに来た存在が他にいた。二羽の愛の鳥である。野暮な考察となりそうだが、鳥たちが襲おう、あるいは救おうとしたのが、この駕籠に入った愛の鳥であった、と考えてはどうだろうか。

愛の鳥は駕籠に囚われたままボガデ・ベイを去ることになったのか、それとも何かしら救いを得て、あるいは人間らに救いをもたらしたのか。意味付けはありそうだけれど、なんだろうね。

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