マークが完璧すぎて言うことがない|『マーニー』《Marnie》

『マーニー』《Marnie》を観た。1964 年の作品だ。前作に続いてヒロインはティッピ・ヘドレン、パートナーの役としてはショーン・コネリーが演じる。

冒頭、駅のプラットホームに立つ主人公:マーニーが映し出される。奥行きのあるカットが印象的だが、似たような構図は序盤で彼女の滞在するホテル、または彼女の母の暮らす波止場の住宅街を映すときに使われている。そこまで深い意味はなさそうだけれど、どうだろうな。

マーニーがどういう人間で、どういうことをやって来たのか、それをマークが突き止めて対処を決断するまでに 45 分ほど、マークがマーニーの問題を解決しようと四苦八苦する過程が 45 分ほど、そして最後の 30 分がここまでのドタバタの解決編となる。クライマックスまでの展開、先が見えなくてなかなかキツい。

作品周辺の話から入ると、日本では「赤い恐怖」という副題をつけてパッケージ化されたこともあるらしい。Amazon Prime での作品情報としてのタイトルもこのようになっている。言うまでもなく『白い恐怖』(1945)を意識してのことだ。

「登場人物が特定の色に強い拒否反応を示す」「その人物の記憶に隠されたトラウマ的な事件がある」の 2 点が共通している。

また、本作は前作までの 3 作と比べると、母と息子ではなく、母と娘の関係がやや歪んでいる。

マーニーは武装を解除しない、マーニーは本当の自分を明かさない。というか、ある意味で彼女自身も本当の自分を見失っている。唯一の生きがいは母への送金と愛馬を駆った乗馬だ。馬は人間と違い美しいと彼女は言う。乗馬をしているときだけ、彼女は素に戻れるようだ。

彼女が本当の自分を見失った原因は何か。これは序盤から示唆されているので意外性は小さいが、特に今作では性的な表現がさらに露骨に描写されるようになった点に驚く-どちらかといえば映画製作とその描写を取り巻く環境についての話だが。

という状況の中、クライマックスに発生する事件のショックから逃れるべく、皮肉ではあるがマーニーはようやく人間らしい、装いのない態度を見せる。限界状態なのでただただ恐ろしいだけだけれど、90 分ほど溜めこまれたエネルギーが四方八方に放たれる。凄い。これを見せるために本作はあったんや、という興奮に包まれた。

映像としては金庫破りと清掃員から逃れるまで、クライマックスの乗馬、ラストの回想あたりのシーンがおもしろかった。最後の乗馬のシーンはどうやって撮影したのか気になる。

また、母の暮らす波止場の住宅街、リアルなのかセットなのかよく分からなかった。奥に停泊している客船のような大型の舟、本物というよりはイラストによるフェイクに見えるのだが、最後だけは本物のように見えた。答えは探せば見つかるだろうか。

ショーン・コネリーについてだが、映画俳優としては初期のキャリアにあたる作品なのかな。若い。記憶の中の彼と比すと、目元くらいしか面影がない。しかし、いままでの男性側の主人公像とちょっと趣が異なり、面白味があった。