世界の果てを見たか|『興亡の世界史 アレクサンドロスの制服と神話』

『興亡の世界史 アレクサンドロスの制服と神話』(講談社学術文庫版)を読んだ。というわけで、本年は本シリーズを読み進め、記録を残すことをひとつのテーマにしたい。

本書の「はじめに」を読む限り、このようなシリーズで個人を切り出すことも珍しいらしい。古代史においてアレクサンドロスがそれだけ際立った存在だった、ということか。

彼についての言説は、さまざまな伝承や逸話にて善にも悪にも彩られているとのことだが、たとえばローマ時代には当時の皇帝への批難が反映されたなど、その時代や地域性に左右された。啓蒙の時代あるいは所謂ヘーゲル的な発想からは統合や融和の象徴としても扱われたという。

近現代に至っては学問としては「最小限度評価法」という方法論で、個別の事実を取り扱って研究対象とし、研究対象の輪郭を炙り出すらしい。ついて本書は、軍隊や人事、征服地域との関係の取り方などの観点からアレクサンドロスを検証しようという。

とりあえず本感想のメモは、前アレクサンドロス時代、アレクサンドロス時代、後アレクサンドロス時代と分ける。本書についての感想というか、ふつうにアレクサンドロスの時代についてのメモという体裁となった。

前アレクサンドロス

アレクサンドロス登場の前段階として、黒海、エーゲ海を囲む西からエジプト、ギリシア、西アジア地域を含む地域、生活圏および商業圏などなどを見ると、ペルシア戦争の以前からのペルシア側(アカイメネス朝)の強さ、それに翻弄されるギリシア諸都市という構図があったと。

また、歴史的には、当時から自由民を自称するギリシア人は、それ故にと言っていいのか、傭兵団として根無し草の戦力も形成していた点も重要で、一方で同時に、最終的にアレクサンドリアが攻め入った地域のほぼ東端にあたるバクトリア・ソグディアナ地域には、この頃からすでにギリシア貨幣などは部分的にでも及んでいたらしい。

ついで、アレクサンドロスの父:フィリッポス2世の戦略についてだ。古代マケドニアの建国から領土拡張の野心、対ペルシアというお題目の元にギリシアでの支配力を強める深謀遠慮には舌を巻く。一方で、彼の死にまつわる問題や、その経緯がアレクサンドロスの結婚を遅らせたのではという指摘は単純に面白かった。

ちなみに、古代マケドニアはもともと山岳とその麓のエリアに根付いた民族であったようだが、狩猟を重視し、山羊を神聖視していたという。この文化はアジア圏の遊牧民に通ずるものがあり、アレクサンドロスが「アジアの王」を自らに冠したのはこのへんの自負があったのだろうか。

アレクサンドロスの時代

以下、大抵はアレクサンドロスを「大王」と呼ぶ。

大きくは、東方遠征の前後で分けて考えてよさそうだ。まずは前半、フィリッポス二世の死後にマケドニア付近のトラキア、ひいてはバルカン半島、およびギリシア地域で起きた反乱の鎮圧に取り掛かる。割とあっさりと終わる。

そして後半の東方遠征は、大きく 以下のように3 つに分類できる。

  1. ダレイオス3世を追討し、アカイメネス朝を滅亡させる。この時点で、最大版図の西半分が制覇される。
  2. 中央アジア侵攻からインダス川を目指し、そこから反転するまで。
  3. バビロンにてアラビア半島行軍予定直前の死去まで。

ギリシア都市を救え

東方遠征の当初のお題目は、ペルシアからのギリシア都市の奪還だったらしい。これはフィリッポス二世の時代から延々と続いていた小競り合いの延長戦に過ぎなかろう。ところで、大王とギリシアは切っても切れないわけだが、本書の説明によれば、大王はギリシア人をそこまで信用していないとか、重鎮としてはあまり採用しなかったという面もあるようだ。

まぁ、その後、なんやかんやで東方遠征が本格化する。

各地を陥落させる

大雑把にはエジプト方面、続いてバビロン、ペルセポリスというような順で攻略したとのことで。エジプトとバビロンにおいては前者ではマケドニア人の総督を置く、後者は、特に最初のうちはペルシア人に管理を任せたそうな。一方のペルセポリスだが、これは燃やしたらしい。原因は明らかでは無いが、外部からの統治者に最後まで抵抗した現地人に対する計画的な放火ではと。

大王は、エジプト入りの時点でオシリスの息子、ホルスとして、またアモン神の神託を担ぎ出したりと統治者としての正統性づけを欠かさない。これはギリシアにおいても、ヘラクレスやアキレウスを引いてゼウスとの関連性を説いたと同じことをしている。

バビロンでも同じようだが、こちらの場合は神との関連というよりはもっと現実的な征服者の作法であったようだ。詳らかには宮廷儀礼、国家行事、肖像入りの貨幣など「王権の視覚化」に入念であったようだ。こういうテクニックは、どういうふうに継承されるものなのだろうかね。

インドから反転

とにかく東進した。あらためて地図を見ても、こんなところまで進んだのかよ、となる。B.C.327 にはバクトリア、ソグディアナ地方で戦闘し、そのまま現地の豪族の娘:ロクサネと結婚している。結婚が非常に遅かったことが大王の早逝と併せて、マケドニアの未来を決めるわけだが、さんざん遅らせた結婚という切り札をここで使うのもユニークだ。それだけツラい戦闘だったのか、そこに後継の血筋を見出したのか。

東進を止めた大王は南進してガンジス川の支流であるヒュダスペス川を下りつつ、現地民との戦闘を繰り返したらしい。この帰郷するための行軍では割とエグい虐殺レベルの戦闘が繰り返されたとのことで、本隊はもう狂気半分だったのではないのかな、という見立てもあるらしい。

南進後に西進し、砂漠を突っ切ってスーサに向かい、やはり軍隊は疲れ切っていたとのことだが、そりゃそうだろう。根本的に東進の最終目標すら明瞭ではないようだが、兵士たちは何をしてか大王に付き従ったのかね。

大王の死

自領に戻る。スーサでは有名な集団結婚式を開いたり、といったエピソードがあるが、その後はバビロンに戻り、統治体制を整えつつ、南進してアラビア半島に出掛けようとしていたが、そこで亡くなる。

東西の融和

最初のバビロン制圧から徐々にペルシアとの融和を進めていた大王は、上記の集団結婚を含めてさらに宥和政策を進めた。が、集団結婚もそうだが、どの政策も満足に完遂し得なかった。

お出掛けし過ぎた大王がペルシア人らに本当に尊敬を集めた雰囲気も無いようだし、それは本国であったマケドニア、あるいはギリシア人にとっても同様だったようで、統治者というよりは台風のような存在だったのではないか。

側近や兵士たち

大王の側近集団を「ヘタイロス」と呼んだそうだが、これは更に小数先鋭の「側近」と新規参入組の「朋友」に分かれていたらしく、後者が次第にランクアップしていく仕組みだったとのこと。

兵士たちは、マケドニア人、ギリシア人たちが主だった時代から、東方遠征後はペルシア人たちが増えてゆく。バクトリア、ソグディアナ地方でも現地の若者をリクルートしたらしい。

最後の遠征地にてバクトリア、ソグディアナ地方に残された万人規模のギリシア人兵士たちの戻るべき場所については、大王の死の前後で問題になったらしく、これも大王死後のゴタゴタに影響を与えている。結果的には、いわゆるバクトリア王国の独立にも繋がっていく原因のひとつか。

アレクサンドロス後

本書では、アレクサンドロス自身の直接の遺産は小さいという。理由としては「大王が早逝である」「最後期の政策が初っ端だった」「正統と呼べる後継が(育ちきって)いなかった」などが挙げられた。同時に、むしろその遺産としての功績は、側近たちが後継を争ってアレクサンドロスを模倣しつつ、群雄割拠したことに当てられるようだ。

いわゆるディアドコイ戦争が 40 年くらい続いたみたいだが結果としては、ざっくりはまず、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝ペルシアが残った。で、そのうちのアンティゴノスが最後に戦死して、プトレマイオス朝とセレウコス朝が残る。これをもって、ディアドコイ戦争の終末となる。

上述のように後継者たちが王権を主張するにあたっては、血筋ではなくて只々に強さが求められた。あるいは王としての事業の計画や、立ち振る舞いが求められた。当世の当地域では支配者の在り方のフォーマットがひとつ共有されたとでも言おうか。ひいては時代が変わったと言える。この「君主崇拝」といった作法は、もともとギリシア、ペルシアなどにはあったようだが、ローマは地中海地方に進出後に発見したということであった。

バクトリアのヘレニズム

バクトリア王国だが、当地に残されたギリシア人たちがセレウコス朝の支配下において分離した形であり、ここでもいわばミニ版のディアドゴイ戦争が起きており、そういう意味でアレクサンドロスの遺産を継承していると言えるわけだ。

その主要都市であったアイ・ハヌムの建築は技術的にはギリシア的だがグラウンドデザインは現地的であったという説明があり、まさしく個別で具体的なヘレニズムの結実を示している。

本書の説明では、このアイ・ハヌムはB.C.145-6くらいに遊牧民によって滅ぼされたとのことだが、同年にカルタゴがローマによって滅ぼされている。あえてこの年を区切りとすると、フィリッポス二世の死からおよそ 190 年ほどか。そのうち、アレクサンドロスが生きたのはたったの 30 年ほどであるワケだが、逆説的に彼の影響の大きさが実感される。

まとめというか余韻というか

大王としてのアレキサンドロスがギリシア的であったか、ペルシア的であったかといえば当然に前者だろうし、東進するという行為と文化の波及自体もギリシア的な要素を前提にせねば説明が成立しないが、根本的なところでの謎は残ったままななのがアレキサンドロスの魅力ではあるな。

征服による武功や名誉、それらがギリシア的だとすると、ギリシア的な自由や探求心というのは底が知れないというか、いわばフロンティアスピリッツだろうけれど、それはやはり今の場所では居る場所の無いひと達が生み出した流れのように思える。アレキサンドロスも例に洩れず、そうであったのではないか。