《アネット/Annett》を観た。奇妙なビジュアルの作品であることは認識していたが、そこまで関心を熟成できていなかったのは事実で、フォローしてるひとらが賛辞を送っていたので、観にいった。これは個人的には大ヒットな逸品で、現時点で今年の映画としてはかなり好きだ。
ネタバレと呼べる要素を大いに含むので、もし本作を未鑑賞で、内容は知りたくないという方は、読まないでほしい。
監督と過去の作品は知っていたが、見たことはない。前情報もほとんど無しで臨んだ。ミュージカルいう話だったが、別に歌って踊る感じでもないし、歌うにしてもガッツリ歌うという風でもないので、逆に音楽で感動したいという向きの人には合わない。
個人的に、歌が混じる映画はとっつきづらいが、本作では歌はスパイスというか、ストーリーや全体のギミックに大きく作用する面のほうが強く、そういう意味でも音がヘンに雑音化しないというか、違和感こそなかったし、これはこれでよい。
アネットのパペットたる所以
以下の3つの観点からアネットはほとんどすべてのシーンにおいてパペットでなければならなかった。説明するほどでもないし、野暮ではあるんだけど、自分用にもメモとして残しておく。これで大方、感想の主たる部分も述べたことになる。
- 単純に作劇の合理的な目的
- ヘンリーにとってのアネット
- アンにとってのアネット
ひとつめ。「生まれたとき」「留守番であやされているとき」「立ち歩きできるようになったとき」「歌えるようになったとき」「あるメッセージを訴えるとき」「父と面会したとき」それぞれのシーンで僅かずつ成長するアネットをどうするかという演出上の問題がある。
本物の俳優(子役)を採用する場合、少なくとも 3 回くらい役者を変更しないと、それらしい画作りはできないと思われる。で、それは難しいようねということでパペットが採用されたのだろう。
赤子の役をほぼ人形に背負わせることで、寓話性が高まるというか、突き放して話に入り込めるというか、異化効果と言っていいのか、そういう意図はあったろう。
また、人形はまるっきり CG というワケではなくて実物ベースで撮影されたらしく、日本で作るかみたいな話もあったらしい。最終的にはフランス人の造形師による人形を採用することになったとのことだ。
彼女の存在は、はじめこそ滑稽で不気味にすら見えたが、次第にそれなりの可愛さを生み出し、最後には感情移入までさせられる。これは見事だった。逆説的には、そう感じてしまう自分に対して、何だかなという感覚さえ生じた。
娘を愛すことをいつ覚えたか
ふたつめ。私にはヘンリーを憎めない。作中ではロクなことをしていないが、私にはどうしてもこの男が憎めない。同類への哀れみだろうか。憎めない。この男、娘を愛していたかというとおそらくは、ほとんどノーだが、完全に否定もしづらい。
アネット誕生のシーンで彼の流した汗、この描写は半ばギャグだったろうけれど、あれはヘンリーの感動そのものであって、娘への期待や希望と、そこに同居する不安が入り交じっていた。作中でやたらと汗を拭う男なのも注目したい。
ちょいちょいと挟まれるモノローグから、ヘンリーは、あまりまともな環境では育ってはいないことが予想され、心が重たくなる。アンの死後に一瞬でもシャッキとするのも面白かったが、それもアンの呪いによって逸らされていった。
さて、ヘンリーにとってアネットが人形であった理由だが、まずは正面を向いて愛せていないというのが単純にある。歌えるアネットを聴衆に晒そうとしたという素振りからも、これははっきりと示されている。
で、もうひとつは本当の父親ではなかったからだ。これも単純だ。
ヘンリーはアネットの名を呼ぶが、「娘」とはほとんど呼ばない。この台詞回しはごく自然にそうなっただけとも思えるが、結果的に意味ある形になったといえよう。
かなり微妙な点だが、ヘンリーには実の娘ではないという予感が元々あったようにも思うし、指揮者から明かされてそれを再確認、あるいは自覚したようにも思う。いずれにせよ、アンをあのようなかたちで失った彼に免罪は無いが、アンと指揮者によって不幸の種を事前に積まれていたのが彼ではないか。不幸にしか辿り着かない男が愛おしい。
アンにとってのアネット
みっつめ。初登場時、あるいは舞台俳優として成功後の彼女が送迎車の後部座席で林檎を齧っている。鑑賞後に思い返すまでは何ということもないと思っていたが、ざっくり言って悪魔の誘いを受けてしまった人物としても見れるだろう。
ぶっちゃけ、意味ありげに伴奏者のモノローグが開陳され、加えてアネットがこのようにパペットを利用して描かれた時点で、私には即座にアネットの真実が予想された。アンはヘンリーに負い目があった。そういって過言なかろう。
どの顔をして “We Love Each Other So Much” を歌っていたのか。私にはわからないね。
たとえば彼女は、誰もいない自宅の、さらに寝室を厳重に戸締りし、加えて洗面室に隠れるように入り、窓を開け、ひそかに煙草をふかしていた。このような彼女のことをヘンリーは知らなかったのだろう。彼女の秘密は多い。
言うまでもなくアンとヘンリー、あるいはアネットを含めた彼らの不幸の原因のひとつで、ヘンリーは劇場で死を続ける彼女をこそ知ってはいても、素の状態に近い弱い彼女については実はほとんど知らなった。そうに違いない。
しかし、ヘンリーが抱える闇についても、アンにも同様のことが言えよう。
前話が長くなった。
母親としてのアンが抱くアネットへの愛情に偽りはないだろう。が、作中の展開と作用としては、アンすらもアネットを道具として見立てている。それは決定的には、アンに宿された歌う能力であり、彼女はこれを呪いとまで言う。こんな親があっていいのだろうか。
伴奏者を含めた主要登場人物 3 名は、いずれも決定的な悪人ではないが、それぞれが解消しようのないエゴの問題を持っていた。付け加えておくなら、ヘンリーを主軸にして話が進むためか、個人的にはアンのそれは少し宙に浮いて見えた。
クライマックスに至っては「あなたと一緒に獄中で罰を受けるのは私よ」のような台詞、これは言うまでもなく自分への罰でもある。そこには罪の自覚があった。だからこそ、最期のあとはヘンリーと寄り添おうとしたのかもしれない。
あなたは愛せない
この悲劇全体の導火線を用意したのがアン(あるいは同時に伴奏者)だとすれば、それに火をつけて爆発まで処理したのがヘンリーだった。クライマックスにおけるヘンリーとアネットとのやりとり、どういう意味だろうか。明白なのかもしれないが、私にはよくわかっていない。これはアネットからヘンリーへの呪いか。
なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。
「闇を覗くな」というヘンリーからアネットへのメッセージは、いくつか意味があるように思うが、あらためて考えてみると、ヘンリーは彼女の両親のどちらをも手に掛けている。その事実をアネットは実は知っているのか。
そんな人間が、それこそ手をかけた対象の娘を愛す理由はないということか。あるいは、娘自身がそれを拒むだけか。単純に後者では意味がないが……。
なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。
以下、レビューやインタビューなどへのリンクです。
- 【最速レビュー】『Annette』レオス・カラックスがミュージカル映画で切り拓いた新境地|fan’s voice
- [895]スパークスとカラックスが語る『アネット』の共同作業|indie Tokyo
- 「アネット」アダム・ドライバーと古舘寛治の起用理由とは、レオス・カラックスが語る|映画ナタリー
- レオス・カラックス待望の最新作『アネット』──“僕は、僕自身の映画的リアリティを求めたい”|GQ
- 『アネット』レオス・カラックスの人生と深く結びつく「変奏」 ※注!ネタバレ含みます。|CINEMORE
なんだかんだでエンドクレジットが好きです。
《林檎とポラロイド》を観た。ヨルゴス・ランティモスと同じギリシア人監督で、彼の撮影の助手のようなこともしていたらしいクリストス・ニクという新しい方だとかで、興味を持ったワケだが、好みの作品ではあったが、小品というか突き詰めるとなんともいえない味わいだ。
ネタバレを忌避するタイプのひとにはあわない作品とその感想なので、以下の文章は注意です。
英題は “APPLES” で原題の通りだが、ギリシア文字では “ΜΗΛΟ” と書く。ざっくり「ミロ」と読む。イータの大文字の形状がアルファベットの “H” と相似だからビビりますね。ちなみに、キリル文字の “И” はイータを元としているらしいけれど、キリル文字にはこれとは別に “Н” という字がある。もうメチャクチャですね。
さて、突然にひとびとが記憶喪失に陥る社会で、ある男も記憶喪失になったようだ。これらのひとらは病院に送られ、保護されて診断を受け、親族なり友人なりが引き取りにくれば、それに応じる形になるらしい。
で、親族らが見つからないなどの場合は再生プログラム送りになる。
男の本当にやりたかったことは
鑑賞者には中盤のさりげないシーンで種明かしされるが、男:アリスは記憶喪失を装っていただけだ。で、その理由だが、パートナーが亡くなったことに起因している、と思われる。
と、オチだけ書くとなんということはなくて、本作はいったいなんだったのかという気分になる。
再生プログラムの目的は
そもそも、記憶喪失者の発見時に身分証の不携帯が問題になっているようだし、この世界にはスマートフォンなどの機器もないようなので、ていねいに無視されているが、設定にはかなりファンタジーがある。
というワケで自ずと、本作からは寓話的なメッセージ性を読み取りたくもなってしまうというものだ。
記憶喪失者にはアパートの一室と生活資金があてがわれ、謎のプログラムをこなすように指示されるが、およそ生産的な行動ではない。どちらかというと破滅的な行動の指示が多くなっていくようだ。
特に最後の指示は、途中で切断されたものの、不穏な内容であった。
そのひとつ前の指示が、アリスが直面していた事態、あらためて向き合わさせられた事態であり、それがある意味で、ひとを自暴自棄にさせるような状況だとすれば、社会の足かせとなる記憶喪失者たちは、何に使われるのか。
逆説的に、アリスは記憶を取り戻すことを選ぶ。
うーん、でどういうことなのか
「林檎は記憶を維持するために役立つ」というメッセージ、記録を残すために利用されるポラロイド写真。少なくとも本作の舞台設定では、情報を残すための装置は脳とポラロイド写真しかない。
人間の記憶もポラロイド写真も淡い。次第に、あるいは不意に、ときにはあっという間に大切な情報さえ失う。
通信手段のない世界、記憶喪失という現象あるいはその装い、記憶喪失的な、かつ身寄りもロクに見つからなかった人間たちへの扱い、といったあたりを掘り下げると、本作には人情噺というよりは仄暗さがあるように感じるが、ここまでとする。
《ゴッドファーザー》を観た。午前十時の映画祭というやつである。例に漏れず、ほぼ満席だった。コッポラの作品は《地獄の黙示録》の体験以来だが、この映画は断片的に見たことある気もしてきた。が、話の全体像はほとんど知らなかったので、新鮮な体験ではあった。
マフィア映画、このブログで言及しているだけでも《シチリアーノ 裏切りの美学》や《The Untouchables》くらいしか触れてないし、そもそもあんまり観ていないけれど、端的に言って気持ちのいいコンテンツではない。
本作や原作がアメリカン・マフィアの実態をどれだけ精確に描写しているのかは確かめられていない。だが、本作はマフィアとその類縁が苦しむ描写がほとんどで、一般人が苦しむような状況はほぼ直接的には描かれていない。その点は、楽しむ方としては救いなんだろうか。
念のため時代背景についてだが、マイケルが海兵隊で日本軍と戦ったとかの状況から 1940年代後半から 1950 年代の終わりまでが本作の時代背景にあたるらしい。この時代あたりから巨大なファミリーでも麻薬売買に着手しはじめたというのも概ね歴史に則しているようだ。
コルレオーネ・ファミリーの世代交代
ヴィトーの偉大さ、襲撃後の老境、そしてそれを引き継ぐことになったマイケル、この関係をやたらと丁寧に描くのが本作だ。それぞれのエピソードは、このテーマを生かすために十分に力を果たしている。語弊を恐れなければ、それ以上の役割はない。
結婚式、配役と種馬、新しい取引の申し出、銃撃、抗争、マイケルの避難生活、兄の死、復活と帰郷、洗礼式といった具合に展開やその関係は、割と明確で、どの状況も丁寧でフラットというか、これといってこのシーンが強烈に演出されているということはない。あえていえば、マイケルの避難生活は異世界感があるか。
洗礼式のさまざま
どこの描写もフラットとは言ったが、やはりクライマックスの洗礼式は欠かせないか。荘厳なカトリック教会で催される誕生した甥の洗礼式、「悪を取り除く」旨の問いに重ねられる粛々とした回答の裏で起こる粛正の数々は、善も悪もないような気分になってくる。爽快感までは感じなかったが、粛正のシーンはどれもよかった。
甲乙つけがたいが、モー・グリーンがマッサージを受けている最中に眼鏡越しに射抜かれるところがいいね。マイケルが食堂でやらかしたのと同じくらいのインパクトがあった。
教会で流れているのは、バッハのパッサカリアとフーガ BWV852 のように聞こえたが、音源として耳にする作品よりもスローテンポだったので確証が持てなかったが、サントラに入っているっぽいので確定か。
これもな、イタリアのカトリックが教会でバッハを洗礼式で流すのかわからないし、気になるのだが、どう調べればいいのかわからないので、単純に楽しんでおくに任せる。どうなんだろう。
要塞化していくゲート
ヴィトーが襲撃された直後だったかな。ファミリーの屋敷の入口は内側から車が横に壁になる形で蓋をされて、来訪者の勝手な侵入を防ぐ体制になったと見えた。それ以前がどうだったかは気づかなかったが。結婚式のシーンなどは同じ門か不明だが、オープンだったよね。
で、次のどこかのシーンでは申し訳程度のチェーンが装着されており、出入りがあるたびに外すなどしている描写があったが、さらに展開が進むと完全にゲートが据え付けられており、終盤に至っては何人もの門番が武装していたな。
ヴィトーの最期のシーンでもゲートが映っていたような気はするが、それがどうなっていたかはよくわからなかった。これも同じ門かすら怪しい。再鑑賞の機会があれば気にしたい。つまるところ抗争が激化していることを端的に表してたのだろうが、面白いなと眺めていた。
ランプ電飾による演出が
《地獄の黙示録》の河川沿いの基地や、中盤あたりの夜中の銃撃戦の現場、フランス租界なんかで電飾がいくつか使われていた印象が残っているが、本作でも結婚式-これは点灯していないが、あるいはクリスマスなんかで、電飾があって、監督のこだわりだろうかとなった。
帳尻合わせとアポロニア
抗争の歯止めが無くならない限りは双方の犠牲者の数や質で帳尻をあわせる暗黙の了解はある気がするが、この計算は話中でどうなっているのかな。
ルカの死をどうカウントするかだが、とりあえずこれはゼロで計算しておく。
まず、ヴィトーが瀕死にさせられる。そして追撃が加わる事態になる。これに対してソニーがタッタリアの次期当主を処分したが、この時点でコルレオーネ側の勘定が +1 だろうか。
さらにマイケルがソロッツォ(警官は無勘定)を処分することで更に +1 になる。
これらに対してようやくタッタリア側の報復が入り、まずはソニーが処分されて -1 、加えてアポロニアが処分されて更に -1 となる。
ここでプラマイゼロになるのか?
遂にはマイケルの決断によって、バルジーニ、モー・グリーン、テシオが処分される(ついでにカルロもだが)。これで +3 だろうか。
さんざん攻撃されつくしたコルレオーネ側が状況を大胆に整理した結果、マイケル、コルレオーネ側が多めに処分して勝利を収めた。なんと言ってもマイケルは、アポロニアを巻き添えにされているのだ。これはどちらかというとソロッツォ側の報復だったのかな。後半もなにかと忙しい為、アポロニアの存在を忘れがちだが、そりゃマイケルは静かにキレてるよな。
うーん、差し引きゼロ! としておくがどうだろうか。裏切ったシチリア時代の護衛君とかもしっかり処分されているのかね。
ケイにせよ、アポロニアにせよ、ヴィトーの配偶者のカルメロとは異なり、マフィアのボスの配偶者としての苦難に直面することになっている。組織の変容を体現しているとすれば単純だろうけれど、どうなんだろうな。
Part 2 の上映には行けなかったので、近いうちに配信なんかで鑑賞したい。
マイケル・ベイ監督作品の《アンビュランス》を観た。監督の作品をそれとして積極的に受容した経験はなかったが、《ザ・ロック》、《アルマゲドン》は見たことあったな。トランスフォーマーとかはまったく見てない。
本作は、デンマークの映画《25ミニッツ》をリメイクした作品らしい、という情報が目に入ったけど、下記のインタビューを読むと印象がやや変わる。
これはリメイクではありません。私は『25ミニッツ』を観たこともなく、脚本も知りませんでした。私は自分の映画を撮ろうというつもりでスタートしたんです。でもこのコンセプトはとても気に入っていて、同じコンセプトだと思うけれど、作品としては別物になります。
『アンビュランス』はリメイク映画ではない? マイケル・ベイ監督が明かす製作の裏側
仔細まで触れられていないが、一応は元ネタとしたものの「リメイクと呼ばれるような作り方ではない」という認識だろうか。「救急車に銀行強盗が乗り込む」というアイディアが先に実現されていたので、原作としてクレジットしたという位置づけだろうか。私の憶測なので詳細な事実関係はわからないけれど。
いつものようにダラダラと書いていく。
救急車と警察車両はカーチェイスできるのか
ものすごいカーチェイスが繰り広げられる本作だが、寸胴な救急車が幾十幾百と追いかけてくるカッコいいパトカーから延々と逃げ続ける。ふと冷静になると奇妙な図で、まぁたしかに救急車も最高時速とかすごい出るんだろうけど、それにしてもと頭が冷静になる瞬間はあった。
そんなことはどうでもいいんだっ!
何本も網の目のように円柱が並んだエリアを、それこそゲームのように潜り抜けていくシーンなんか、否が応でも面白くなってまう。ドライバーを務める人物が超絶ドライビングテクニックを持ってるっぽいけれど、そこも別に細かい設定が明かされたり、示唆する描写があったりするわけではない。『D-LIVE!!』をハリウッドで映像化してくれないかなと思ったりしたけど。
まぁとにかく勢いが勝利する
ドローンなんかも大活用されてて、画面酔いしかねないシーンも数えるほどあるので、劇場の大スクリーンで楽しむのがオススメである一方、やっぱり、この手の B 級超大作はぜひとも TV の画面で見たいなという贅沢さもある。
それぞれのキャラクターの個々の設定も悪くは無いが、あくまでアクション映画の根幹的な設定の補助線以上のことはなくて、突き詰めようがない。良くも悪くも画面で起きていることがすべて。
とにかく犯罪者の逃避行も、あり得ないような車中手術も、地元ヤクザのアホみたいな作戦も、とにかく大笑いで、ハラハラと楽しんだ。
全体的には情緒もへったくれもないが、いろいろな面で情緒が醸し出される設定にはなっており、妙なエモさがある。これこそが 超 B 級である証かもしれないし、ひとによっては敬遠する理由にもなりそう。
破壊されずに残ったものの映るシーンが全体的には印象深かった。
なんか上映館がどんどん減ったみたいで、そろそろ映画館では見られなくなりそうではある。
《ブラインドスポッティング》を観よう
主役 2 名の関係だが、《ブラインドスポッティング/Blindspotting》(2018)を連想する。義兄弟あるいは本物の兄弟然とした白人と黒人のコンビが、そのバックグラウンドに苦味を抱えつつ、やりくりしていく。
《アンビュランス》では苦味が強かったが、《ブラインドスポッティング》はギリギリで踏みとどまっている。興味を持たれたら是非みてほしいなという作品だ。と思ったら、感想をここに残していた。
あるいは作品の話題の拡がり方について述べる。
『チェンソーマン』(第一部とされる)は楽しかったが、個人的には『ファイアパンチ』のほうが面白かったと感じる読者である私だが、『ルックバック』と『さよなら絵梨』を比べると『さよなら絵梨』のほうが好みではあるが、トントンというくらいだ。藤本タツキの短編を読んだことないが、テクニカルな描き方に誤魔化されているものの、扱うテーマは割とシンプルというか一貫しているというか。
爆発はわかりやすい
最新の『さよなら絵梨』については、最初にプロジェクターに映されて登場する映画のカットが《ファイト・クラブ》と推察されているが、今作の或る状況と 2022年 1 月に報じされた以下のニュースは無関係ではなかろう。現時点でどれくらいのひとが言及しているか知らんけど。
単純に時事ネタを引こうとしただけか、この問題を正面から扱いたかったかは考えを控えるけれど、結論としては「爆発したほうがいい」には違いない。「ファンタジーをひとつまみ」だっけか、作中のどちらの映画も、爆発さえなければ、ほぼドキュメンタリーだろう。あるいは、製作者側の用意した繊細なファンタジー要素なんて、鑑賞者からしたらほぼ無視されうる要素に過ぎなかろう。
という文脈でメタ的に捉えれば、結末は読者への苦いメッセージとも言えるか。
あだち充の後継者たりうるか
短編を読んだことないのでアレなのだが、近親者あるいは想い人の類の死にこれだけ縛られた売れっ子王道の少年マンガ作家、という立て付けの作家は他にいるだろうか。という意味で、藤本タツキはあだち充の後継者ではないだろうか。
というのは半分くらいは冗談だが、今後もこういう内容なのかね。描き方も変わらないで、それでも話題になり続けるとしたらスゴイことには違いないだろう。これは断言できる。これらをまったく扱うことがなくなって、それでも話題になるなら、これももちろんスゴイことだが。
テーマやモチーフの話、もう少し書きたいのだが、そうすると、多くの作家、マンガ家の作風とかテーマとか作品数とかを紐解かないといけないので止めておく。
いずれにせよ、作品の軸をうまく変えるのも難しいし、維持しつつ作品をたくさん生み出すのも難しいことに変わりないだろうから、この視点からも今後とも楽しみだ。
どうやって話題をさらうのか
ほぼ愚痴というかもどかしさがある。
『ルックバック』と『さよなら絵梨』の話題を強く伝播したのは はてブ と Twitter 、そこから派生して諸々のブログ記事であるように思う。『ルックバック』においては特定の表現がアレしたというのもあるけれど。
で、詳しく調べたわけでもなくて単なる印象なのだが、特に はてブ が気になっている。どうしてジャンプ作品がよく はてブ にあがるようになったのか、という話だ。
「そんな事実はない」で終わればいいし、藤本タツキの作品が「語りたくなる」「批評性がある」点に変わりはないのも確かだろうが、であれば、もっといろいろな作品が注目されてもよいだろうけれど、単純にそういう話でもないのだろう。
なんだかなぁ。
ところで昨今、コミックが爆発的に売れるにはアニメ化や映画化が前提になりそうだが、『チェンソーマン』はアニメ化は決まっているが放映時期はまだ決まっていないのかしら。
さて、藤本タツキは映画は好きだろうけど、アニメはどうなんだろうね。売れっ子マンガ家は大変だ。
ポチタ(のようなキャラクター)が楽しそうにしてるマンガを読ませてほしいっす。
アピチャッポン・ウィーラセタクンの《メモリア/MEMORIA》を観た。映画好きの知り合いが愛好している監督で、批評家なり同系統の映画ファンから圧倒的な支持を得ている監督、というイメージがある。
2018 年に《光りの墓》(2015)を見たけど、まぁ寝てしまったよね。今回も例にもれず眠りに誘われたが、そのまま寝落ちしてしまってもいいくらいの心地よさだったが、なんとか落ちることなく楽しい鑑賞とできた。
いつもはテキトーに見出しをつけて破綻した文章を誤魔化すが、今回はダラダラと書くことにした。いつも通り、段落は短めにしていくけど。
さて、物語がだいぶん進むまでわからなかったが、舞台は南米だそうで、のちのち調べてみるとコロンビアだった。主人公:ジェシカはコロンビア北西の都市メテジンで生花業を営んでいるらしく、首都ボゴダと行ったり来たりする。ちなみに、どちらも大都市だ。
このジェシカだが、ボゴダでの滞在初日の早朝、妙な音で目覚める。その正体を突き止めたかった彼女は、音響技師だかのエリナンに協力してもらう。で、それらしい音は再現できたが、だから何ということもなく、話は進んでいく。
話は進むと言ったが、特に進まない。妹から聞かされた妙なエピソード、病院で知り合った考古学者との友情らしきコミュニケーション、川沿いで遭遇した変なオッサンとの交流を経て、結末らしいエンディングにたどり着く。ははぁ。
が、やはり全体像はハッキリしないので、もっと明確なストーリーを求めるような場合、この作品を楽しかったとするのは難しいだろう。静止したシーンの多さや、この状態での間の長さは、鑑賞者にその情景と一体化することを求めてくる、と言っていいのか。
あるタイミングで、音楽学校なのか関連施設か、おそらく何度目かのエリナン訪問時となるが、無人の階段と廊下がフッと映された。この瞬間が、もっとも印象的で、その後の展開を予期したカットのようにも思うし、この話全体のある種の無機質さを表しているようにも思えた。
直後の状況こそが、ジェシカ自身が遭遇する違和を受け入れざるを得なくなった最大の契機であったろうが、さらに挟まれる子気味のいい演奏によって、鑑賞した私も、あるいはジェシカも、束の間とはいえ、そのことをさり気なく忘れさせられる。
ところで、なぜ、エリナンは東京を話題に挙げたのか。コロンビアから地球の反対側がちょうど東京かな? と思ったが、コロンビアの対蹠地はインドネシアらしい。遠くはないので、似たようなものかとも思ったが、いや、やっぱりよくわからない。
トンネル工事のシーン、よくこんなロケーションに出会えたなという驚きがまずあった。これがセットということは無かろう。さすがに発掘シーンは映画美術だろうが、ウソ臭さはそこそこに、なんかまぁ、土中から取り出される骨があった。
そういえば雨が降るシーンは、3つだったかな。4 つとも言えるかもしれない。この雨天が、物語にどういう意味を与えるか。鑑賞者の想像に委ねられているか、そうでもないか。確信がないので明記しないけれど、諸々を流す作用があるといえば其れまでで、であれば、特に後半の 2 つの雨はどう作用しているか?
消えたのではないか。
「俺は記憶装置でお前はアンテナだ」と言うけれど、およそ現代的でない暮らしをしている君でも、そういうのは知ってるんだな。まぁアンテナはいいとして、記憶装置ってテレビも映画も見ないっちゅう割には、という感じだ。
その君が鱗を剥いで加工していた魚だが、あれは川魚なんだろうかね。村を出たことがないらしいが、村の商店なりで購入した魚だろうかね。背後には乾燥させている状態のもあったけれど、近所で獲れるようにも思えない。この村の所在地が分からないが、コロンビアで川魚が捕れる地域もあるにはあるようだが、近所なのかな。
完結した世界、生活には娯楽も藝術も必要ないとするとき、また、まさに記憶装置然として生きる人間にとって生きる意味を外部から問うこと自体が無意味であるなら、そこはもはや現実ではないといっても過言無かろう。そこにどうして彼女が来たのか。
ミキシングルームで、トラックボールを操る 2 人の距離は、彼女の再現したい音を介しつつ、つかず離れずの状態であったワケだが、さいごの居室では、ようやくの接触となった。外をみるとき、窓の格子が目に焼き付いたが、これってどこかで見たことがある気がした。そうだよな。
そしたら、飛んでったな。
雨です。
《THE BATMAN-ザ・バットマン-》を観てきた。過去のいくつかの作品は TV で放送されたときに見たりした。《ダークナイト》に代表されるノーラン監督作品は、どうにも感触が合わず、完走できていない。そういう感じだ。
で、今回だけど、まあ、よかった。よかったと感じた場所だけ挙げておく。今回、ドルビーシネマで観たのだけれど、それがまたよかった。
追悼式
最高だった。画面がキマッてて、そして漆黒ですよ。喪服がどれも美しかった。言わずもがな、誰もかれもが黒を着ているワケですから、この映画の本懐はここだと言っちゃいたいくらい。主人公の出で立ちもよかったし、とにかく黒かった。
このシーンだけ何度でも見たい、まである。
無精髭
主役のウェイン(マット・リーヴス)は髭がそこそこに濃い。マスク装着時も素顔のときも、この無精ひげを隠さないんだよね。映像として完全に生かそうとしている。実際、深剃りするなりメイクで加工するなりすれば、もっと髭は隠せるでしょ、これ。
この無精髭こそが平時と戦闘時の彼を繋ぐんだよな、青臭さも含めて。続編があるとしたら、この髭がどうなっているかは気にしたい。
カーチェイス
爆笑ですよ。カーチェイスの前に戦闘シーンがあるが、そのシークエンスからカーチェイスに移る理屈がねぇ、無いんだよ。なんかダメージを受けたはずのバットマンが消えたと思ったらエンジン噴かしてるし、怯えた敵役はなぜか車で逃亡を決め込む。
なんでやねーん。
全貌は明かされなかったが、バットマンのマシンは割とクラシックカーぽいフォルム? だったのかしら。車も詳しくないのでよくわからないが、リアにジェットみたいなブースターを引っさげてる。バカバカしさが満開ですよ。
で、このブースター部分をやたらと映すんだ。これみよがしに。めっちゃ笑ったね。
アクション映画をそこまで見ないんだけど、なんとなく《TENET》を思い出させられるカーチェイスだった。
その他のことなど
ゴッサムシティの闇というか、ウェイン自身も否応なくそこに含まれており、抜け出せない構図というのが、良い塩梅で示されていて良かった。特に彼の財産管理の杜撰さはという点が響いた。なんだかんだで執事はポンコツなのでは疑惑は残るが。
バットマンがコスプレ野郎でしかない、という違和感とどう向き合うか。目にした感想でこの違和感が拭えなかったというのをよく見た。今更ではあるが、探偵っぽく事件現場に居合わせるシーンも多かった今作では、たしかに意識せざるを得ないタイミングも多いのかもしれない。
なんですかね、自分はそこはもうこの作品世界の世界観として受け入れられてしまったというか、ひとが感じるリアリティなんてなかなか一般化できないね、とだけ。
東京国立博物館で展示中の《空也上人と六波羅蜜寺》へ出掛けた。2022 年 5 月 8 日まで開催されている。大河ドラマと関連する企画なのかよくわからんが、老若男女さまざまな顔ぶれが参観していた。
京都は六波羅蜜寺にある空也上人像、同じく仏像 14 点および資料が東京にやってきた。50 ほど年ぶりらしい。トーハクに仏像が来るときは大抵は本館の正面玄関から直の特別 5 室が使われる気がするが、いつも暗いというか、とりあえず明るくはない。それはいいんだけど、今回は特に空也上人像の前面の明暗が良くは思わなかった。
入口を迎えたのは 地蔵菩薩立像 で、ガラスケースに入っている。接触を避けるためというよりは、転倒防止が主目的なのかな。大きい。11 世紀のものだそうだ。後ろの背光かな、右下の部分だけポッキリ欠けていたが、それ以外はキレイなもので、それはそれは美しかった。
地蔵菩薩像はもう 1 体あって、運慶作とされる 地蔵菩薩坐像 であった。お地蔵様の坐像ってあんまり見ない気がするもんだけど、流石運慶と言っていいのかしらぬが、凛々しい顔つきが見事なものだった。
入口の地蔵菩薩のうしろには、閻魔王坐像 と 十王図 (3点)が並べて展示されていた。どちらも 13 世紀ほどのものらしいが、後者は中国からの舶来品のようだ。で、そもそも六波羅蜜寺だが、京都の五条通を東に、中央から鴨川を渡ってすぐのエリアにある。この辺はかつては生きた人間のエリアではなく、死者に繋がるとされた地域だったらしい。墓地とかか。閻魔王坐像や十王図があるのは、この関連らしい。
十王図 の隣には 地蔵菩薩霊験記絵巻断簡 も展示されていた。これ、よくわからんが、下記のリンク先の絵巻と同一のネタ元だろうか。展示されていた六波羅蜜寺所有の断片は、地蔵像が草鞋を履いて歩いたというエピソードらしい。また、下記のリンク先の説明によれば、東京国立博物館にも所蔵品としてあるらしいが、それは今回は展示がなかったように思う。
出口付近には、夜叉神立像が 2 体あった。これらもガラスケースに入っていた。彼らは、作られた当時は山門の脇に立たされたらしく、傷みもそれなりにある。処分されずに置かれていた状態が今日まで続いたようだ。つまりこれらは消耗品だったと思うが、そう思うと切ない。あんまり造形にこだわりも無いようだし、なんなんだろうね。でも、可愛かった。言ってはなんだが、トーテムポールのような印象もある。
空也上人像、あるいは運慶、湛慶、清盛
メインディッシュの空也上人像、圧巻ですね。ガラスケースはいいのだが、ところどころ汚れているというか、部屋の暗さと相まって、ディテールがよくわからない部分があった。そうはいっても、スゴイ。
まず姿勢がスゴイ。歩き疲れているんでしょう。へっぴり腰のようになっている。前傾姿勢だ。纏った衣装も草臥れているようだけど、それでいてしっかりした材質のようにも見える。仏像なり四天王像なりの衣は美しいか、凛々しいか、雄々しいかといった具合だが、空也上人の衣は風雨に耐えて、使い古された感触がある。
また、二の腕の筋に血管があった、ように見えた。木像でこういう表現が出来るんだなと驚く。足の脹脛あたりから踝までの表現も絶品で、空也上人の行脚の苦労と大変さが滲む気すらしてくる。
口から仏様がポワッと浮いているのはユニークだが、距離と大きさの関係でいまいち分かりづらく、仕方がない。拡大鏡を持っているひとが居たけど、ああいうのが無いとダメだね。
伝運慶、伝湛慶、伝平清盛とされた坐像が 3 点並んでいた。これも好かった。というか伝運慶、伝湛慶の坐像が好かった。最近は誰某とされるポートレートにおいては、よほど確定とされない場合は「伝」と付けることが多いらしいが、此れはどうなんだろう。ほとんど彼ら自身とみて問題パターンなのではー平清盛は別ですけど。
彼らは、おそらく極端には美化されておらず、当代の彼らの姿が像となっているようで、老いて、痩せ細って、それでいて静謐さを感じさせる佇まいで会った。現代アートでも木像ってあるし、仏像なんかもほとんど木像だけど、今回の空也上人像と伝運慶、伝湛慶のように、それなりの生々しさを体感させられる造形はあんまり記憶になく、新鮮だ。
その他、薬師如来坐像、四天王像があった。
ところで、六波羅蜜寺の本尊は十一面観音菩薩だそうで、これは国宝らしい。ちなみに、特別展の出口を出て、常設のエリアに向かってすぐに左折すると、トーハクに収蔵されている十一面観音菩薩像が目に入る。具合がいい。
展示場で手に入る目録、表面加工が入っている紙だったのかな。上質感があったね。空也上人像を 6 面から映した状態の挿絵が入っているのもよかった。この目録は現時点では、トーハクの公式案内から PDF が手に入るので、よい。
///
本館の常設展では「博物館でお花見を」という企画で、桜をモチーフにした作品にマークがついていた。面白いですね。硯箱、化粧箱などの桜の文様は絶品でしたね。
季節的に、雛人形の展示もあった。これ、毎年のこの時期に展示されているようだから、以前も見たかもしれない。江戸時代の豪商:三谷家から寄贈された品々がほとんどだが、今回は「紫宸殿」の精巧さに驚いてしまった。
下記のリンク先に詳しい。
平成館で開催されているポンペイ展を横目に、東洋館にサッと寄って帰路についた。
《映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021》を観た。もともとの公開予定は 2021 年だった経緯でタイトルは「2021」だが、公開は 2022 年なので「2022」と間違えかねないですね。
いわゆる大長編シリーズのリメイクとしては「日本誕生」以来らしい。ほぉー。2018 年の《のび太の宝島》から映画ドラえもんの鑑賞に復帰した私だが、シリーズものを追い続ける楽しみをシミジミと感じるね、出来の良し悪しを含めて。
監督の山口晋、脚本の佐藤大を特別に知らなかったけど、調べてみるとキャリアは 2 人とも十分すぎるほど十分という感じで、そういう意味では盤石な布陣だったのだろう。監督は、このシリーズの映画監督を務めるために計画的にステップアップを重ねたらしい。頼もしい。
主題歌は Official髭男dism「Universe」だそうで、挿入歌は ビリー・バンバン「ココロありがとう」となっている。ビリー・バンバンが歌っているのは公開直前くらいに知ったが、プロデュース側の要望で入ったらしい。ちょっとモヤっとするが、ファン目線ではふつうによかった。ビリー・バンバンは最近こういうアプローチが多くて、なんなんだろうね。
実はコミックを読んだだけなので、過去の映画との比較はできないのだが、鑑賞中の第一印象としては終始に忙しいなと。どんどんと一本調子で話が進むというか。間の変化があまりない。個人的には「テンポがいい」というレベルで楽しめたが、付いていけないという感想はありそう。
もともとミニチュアであることがコンセプトの本作だが、今回はそれについて特撮という要素も重視したらしい。オープニングからして顕著でしたね。主には、ピリカ星の様子にそれは反映されていて、つまりミニチュアっぽさが強いワケだが、そのこだわりの反面として、イマイチ軽いかなぁ、という感じもしてしまった。
それでいいのかもしれないけれど。なんならそのこだわりは、たとえば、しずかちゃんのドールハウスにも見たかったな。可能かは知らんけど。
エクスキューズから入ったが、もとからあった作品から練られた脚本の工夫も、挟まれるギャグも個人的にはクリーンヒットが多く、大いに楽しませてもらった。
その他、気になった点などを挙げておく。
パピの離脱タイミングが絶妙でした
最大の変更点といってもいいのではないか。パピは小惑星基地までは同行する。これが何を意味するのか。ドラえもんチームとパピとの友情がもっとそれらしくなった。
映画ドラえもんでいわゆる味方側のゲストキャラクターが深く絡むパターンだと、その関わり方が難しい。今回はパピが仲間たちと一緒に過ごす時間がそれなりに濃い。
冒険に後ずさりしているスネ夫に対し、謝罪と感謝をパピが述べるシーンはなにより良いし、その後に聞き耳を立てていたみんなが転がり込んできて、皆で笑うシーン、本作でも白眉でしょ。
ノラ猫はなぜ協力したのか
これも改変で、人質交換においてパピは猫を使役した。原作(おそらく元の劇場版でも)では、超能力染みた演出で猫を懐柔していた。今作では、意思疎通するための道具を食べさせていた。
つまり交渉して協力してもらったんだろう。無理やり従わせるよりは理屈も通ってるし、これはこれでよかった。けれども、欲を言えばそれであれば、猫の処遇というか、その後の姿についてせめてもうワンカットというか、何かが欲しかった。
輪郭の白い光沢はなんなのか
作画最大の鬼門とも思えるスネ夫の髪型だが、フサフサとしていた。揺れる髪型のいわゆる枠のあたりに光が入っている。これ、スネ夫だけかと思ったが、ドラえもんの頭の輪郭なんかも光っていて、ほかのキャラクターの輪郭も照っていた。
どういう効果を見込んだデザインなり描写なんだろうか。背景から浮き出させるというのはあるんだろうけど、そういう理解でいいのかな。
ロコロコが可愛いじゃないか
ロコロコね、基本的にアクが強くて鬱陶しさも強いキャラクターだと思ってたんですよ。少なくともコミックを読んだ感触においては。ところが、本作では「お喋りが長い」という特性もほとんど影を潜めて最後にだけ開陳されるだけだった。これも賛否両論ありそうだけど、個人的にはアリかなと。可愛かったもん。
声もよかったんだけど、ロコロコが喋りはじめるときに流れるテーマソング? のようなのがよかった。テンテケチャカチャカみたいな電子音のような音楽なのだが、楽しい。もっと聴きたかった。
パピの演説は沁みた
クライマックスで披露されるパピノ演説、おそらく原作よりも身振り手振りも追加され、迫力のある内容になっていたのではないか。今回の作品、手の描写も個人的にはいいなと思う箇所が多かったが、このシーンのパピの動きは最高だった。
あまり声優さん云々で話したくもないのだが、朴璐美が演じるパピのスピーチはいろいろとオーバーラップさせられるものがあり、圧倒されてしまったよね。
以下、監督のインタビューなど、目についた記事のリンクだけ張っておく。
『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』(講談社学術文庫版)を読んだ。というわけで、本年は本シリーズを読み進め、記録を残すことをひとつのテーマにしたい。
本書の「はじめに」を読む限り、このようなシリーズで個人を切り出すことも珍しいらしい。古代史においてアレクサンドロスがそれだけ際立った存在だった、ということか。
彼についての言説は、さまざまな伝承や逸話にて善にも悪にも彩られているとのことだが、たとえばローマ時代には当時の皇帝への批難が反映されたなど、その時代や地域性に左右された。啓蒙の時代あるいは所謂ヘーゲル的な発想からは統合や融和の象徴としても扱われたという。
近現代に至っては学問としては「最小限度評価法」という方法論で、個別の事実を取り扱って研究対象とし、研究対象の輪郭を炙り出すらしい。ついて本書は、軍隊や人事、征服地域との関係の取り方などの観点からアレクサンドロスを検証しようという。
とりあえず本感想のメモは、前アレクサンドロス時代、アレクサンドロス時代、後アレクサンドロス時代と分ける。本書についての感想というか、ふつうにアレクサンドロスの時代についてのメモという体裁となった。
前アレクサンドロス
アレクサンドロス登場の前段階として、黒海、エーゲ海を囲む西からエジプト、ギリシア、西アジア地域を含む地域、生活圏および商業圏などなどを見ると、ペルシア戦争の以前からのペルシア側(アカイメネス朝)の強さ、それに翻弄されるギリシア諸都市という構図があったと。
また、歴史的には、当時から自由民を自称するギリシア人は、それ故にと言っていいのか、傭兵団として根無し草の戦力も形成していた点も重要で、一方で同時に、最終的にアレクサンドリアが攻め入った地域のほぼ東端にあたるバクトリア・ソグディアナ地域には、この頃からすでにギリシア貨幣などは部分的にでも及んでいたらしい。
ついで、アレクサンドロスの父:フィリッポス2世の戦略についてだ。古代マケドニアの建国から領土拡張の野心、対ペルシアというお題目の元にギリシアでの支配力を強める深謀遠慮には舌を巻く。一方で、彼の死にまつわる問題や、その経緯がアレクサンドロスの結婚を遅らせたのではという指摘は単純に面白かった。
ちなみに、古代マケドニアはもともと山岳とその麓のエリアに根付いた民族であったようだが、狩猟を重視し、山羊を神聖視していたという。この文化はアジア圏の遊牧民に通ずるものがあり、アレクサンドロスが「アジアの王」を自らに冠したのはこのへんの自負があったのだろうか。
アレクサンドロスの時代
以下、大抵はアレクサンドロスを「大王」と呼ぶ。
大きくは、東方遠征の前後で分けて考えてよさそうだ。まずは前半、フィリッポス二世の死後にマケドニア付近のトラキア、ひいてはバルカン半島、およびギリシア地域で起きた反乱の鎮圧に取り掛かる。割とあっさりと終わる。
そして後半の東方遠征は、大きく 以下のように3 つに分類できる。
- ダレイオス3世を追討し、アカイメネス朝を滅亡させる。この時点で、最大版図の西半分が制覇される。
- 中央アジア侵攻からインダス川を目指し、そこから反転するまで。
- バビロンにてアラビア半島行軍予定直前の死去まで。
ギリシア都市を救え
東方遠征の当初のお題目は、ペルシアからのギリシア都市の奪還だったらしい。これはフィリッポス二世の時代から延々と続いていた小競り合いの延長戦に過ぎなかろう。ところで、大王とギリシアは切っても切れないわけだが、本書の説明によれば、大王はギリシア人をそこまで信用していないとか、重鎮としてはあまり採用しなかったという面もあるようだ。
まぁ、その後、なんやかんやで東方遠征が本格化する。
各地を陥落させる
大雑把にはエジプト方面、続いてバビロン、ペルセポリスというような順で攻略したとのことで。エジプトとバビロンにおいては前者ではマケドニア人の総督を置く、後者は、特に最初のうちはペルシア人に管理を任せたそうな。一方のペルセポリスだが、これは燃やしたらしい。原因は明らかでは無いが、外部からの統治者に最後まで抵抗した現地人に対する計画的な放火ではと。
大王は、エジプト入りの時点でオシリスの息子、ホルスとして、またアモン神の神託を担ぎ出したりと統治者としての正統性づけを欠かさない。これはギリシアにおいても、ヘラクレスやアキレウスを引いてゼウスとの関連性を説いたと同じことをしている。
バビロンでも同じようだが、こちらの場合は神との関連というよりはもっと現実的な征服者の作法であったようだ。詳らかには宮廷儀礼、国家行事、肖像入りの貨幣など「王権の視覚化」に入念であったようだ。こういうテクニックは、どういうふうに継承されるものなのだろうかね。
インドから反転
とにかく東進した。あらためて地図を見ても、こんなところまで進んだのかよ、となる。B.C.327 にはバクトリア、ソグディアナ地方で戦闘し、そのまま現地の豪族の娘:ロクサネと結婚している。結婚が非常に遅かったことが大王の早逝と併せて、マケドニアの未来を決めるわけだが、さんざん遅らせた結婚という切り札をここで使うのもユニークだ。それだけツラい戦闘だったのか、そこに後継の血筋を見出したのか。
東進を止めた大王は南進してガンジス川の支流であるヒュダスペス川を下りつつ、現地民との戦闘を繰り返したらしい。この帰郷するための行軍では割とエグい虐殺レベルの戦闘が繰り返されたとのことで、本隊はもう狂気半分だったのではないのかな、という見立てもあるらしい。
南進後に西進し、砂漠を突っ切ってスーサに向かい、やはり軍隊は疲れ切っていたとのことだが、そりゃそうだろう。根本的に東進の最終目標すら明瞭ではないようだが、兵士たちは何をしてか大王に付き従ったのかね。
大王の死
自領に戻る。スーサでは有名な集団結婚式を開いたり、といったエピソードがあるが、その後はバビロンに戻り、統治体制を整えつつ、南進してアラビア半島に出掛けようとしていたが、そこで亡くなる。
東西の融和
最初のバビロン制圧から徐々にペルシアとの融和を進めていた大王は、上記の集団結婚を含めてさらに宥和政策を進めた。が、集団結婚もそうだが、どの政策も満足に完遂し得なかった。
お出掛けし過ぎた大王がペルシア人らに本当に尊敬を集めた雰囲気も無いようだし、それは本国であったマケドニア、あるいはギリシア人にとっても同様だったようで、統治者というよりは台風のような存在だったのではないか。
側近や兵士たち
大王の側近集団を「ヘタイロス」と呼んだそうだが、これは更に小数先鋭の「側近」と新規参入組の「朋友」に分かれていたらしく、後者が次第にランクアップしていく仕組みだったとのこと。
兵士たちは、マケドニア人、ギリシア人たちが主だった時代から、東方遠征後はペルシア人たちが増えてゆく。バクトリア、ソグディアナ地方でも現地の若者をリクルートしたらしい。
最後の遠征地にてバクトリア、ソグディアナ地方に残された万人規模のギリシア人兵士たちの戻るべき場所については、大王の死の前後で問題になったらしく、これも大王死後のゴタゴタに影響を与えている。結果的には、いわゆるバクトリア王国の独立にも繋がっていく原因のひとつか。
アレクサンドロス後
本書では、アレクサンドロス自身の直接の遺産は小さいという。理由としては「大王が早逝である」「最後期の政策が初っ端だった」「正統と呼べる後継が(育ちきって)いなかった」などが挙げられた。同時に、むしろその遺産としての功績は、側近たちが後継を争ってアレクサンドロスを模倣しつつ、群雄割拠したことに当てられるようだ。
いわゆるディアドコイ戦争が 40 年くらい続いたみたいだが結果としては、ざっくりはまず、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝ペルシアが残った。で、そのうちのアンティゴノスが最後に戦死して、プトレマイオス朝とセレウコス朝が残る。これをもって、ディアドコイ戦争の終末となる。
上述のように後継者たちが王権を主張するにあたっては、血筋ではなくて只々に強さが求められた。あるいは王としての事業の計画や、立ち振る舞いが求められた。当世の当地域では支配者の在り方のフォーマットがひとつ共有されたとでも言おうか。ひいては時代が変わったと言える。この「君主崇拝」といった作法は、もともとギリシア、ペルシアなどにはあったようだが、ローマは地中海地方に進出後に発見したということであった。
バクトリアのヘレニズム
バクトリア王国だが、当地に残されたギリシア人たちがセレウコス朝の支配下において分離した形であり、ここでもいわばミニ版のディアドゴイ戦争が起きており、そういう意味でアレクサンドロスの遺産を継承していると言えるわけだ。
その主要都市であったアイ・ハヌムの建築は技術的にはギリシア的だがグラウンドデザインは現地的であったという説明があり、まさしく個別で具体的なヘレニズムの結実を示している。
本書の説明では、このアイ・ハヌムはB.C.145-6くらいに遊牧民によって滅ぼされたとのことだが、同年にカルタゴがローマによって滅ぼされている。あえてこの年を区切りとすると、フィリッポス二世の死からおよそ 190 年ほどか。そのうち、アレクサンドロスが生きたのはたったの 30 年ほどであるワケだが、逆説的に彼の影響の大きさが実感される。
まとめというか余韻というか
大王としてのアレキサンドロスがギリシア的であったか、ペルシア的であったかといえば当然に前者だろうし、東進するという行為と文化の波及自体もギリシア的な要素を前提にせねば説明が成立しないが、根本的なところでの謎は残ったままななのがアレキサンドロスの魅力ではあるな。
征服による武功や名誉、それらがギリシア的だとすると、ギリシア的な自由や探求心というのは底が知れないというか、いわばフロンティアスピリッツだろうけれど、それはやはり今の場所では居る場所の無いひと達が生み出した流れのように思える。アレキサンドロスも例に洩れず、そうであったのではないか。