《U・ボート ディレクターズ・カット版》を観た。Amazon Prime から無くなる前に。

この映画、観た記憶はないが、その自信もない。地上波で放映されたことがあったなら可能性はある。私が鑑賞したとすれば、2004 年の木曜洋画劇場版に限るようだが(Wikipedia拠)、どうだったか。

まったく面白い映画で、もともとは TV 向けのドラマらしいが、そういう前提にしても話のつなぎなどに無理は感じない。ディレクターズ・カット版は 3 時間を超えるので、調整しやすい面はあるのだろう。鑑賞は長くてツラいが。劇場公開版は 149 分、日本国内上映版は 135 分らしいので(同前)、やはりこれらは省略の多さゆえに感触も異なろう。

つまるところ、潜水艦が沈むか、沈まないかが全体のカタルシスで、潜水艦モノといえばこれに尽きる気がするが、本作については特に、帰港後のクライマックスこそが評価を決定的にしているというか、そういう作品で、ここが決定的に名作足らしめている。のだろう。また、出航前の饗宴との差こそが、実である。戦争は虚しい。

ほとんど登場人物の話をする。

艦長と機関長はかなりの付き合いらしいが、どの程度なのか。機関長と機関兵曹長の見分けが、たまに難しくて、ツラかった。長い航海ののち、みんなの髭が伸びてくると尚更だ。

その機関兵曹長:ヨハンは途中でメンタルブレイクしてしまうが、そのときの彼の表情、その相貌を照らすライティングは本作中でも 1 位かというくらいの狂気を前面化した見事な表現だ。

操舵長はなかなか、いいキャラクターだった。が、ジブラルタル突破作戦で重傷を負い、命半ば。かと思いきや、なんとかかんとか、地味に彼は生き残っており、こういう数奇さの演出も効いている。とはいえ、機銃にやられてアレだけ時間が経ってたら、本当だったら失血死だろう。

艦長、トムゼン大尉と洋上ですれ違って喜んでいたが、邂逅が終わった途端に現実に戻り、周囲にキレ散らかす。リアリティがある。戦友に思わず出くわす奇跡を楽しむことと、その事実が示す不合理な事態に対処すべき態度とはまったく別であって、嫌にドキドキさせられると同時に、面白くもある。

報道官の彼は実質のところ艦長と並ぶ主人公だろう。乗艦上の責務としてはフリーの立場から最終的にはクルーたちと運命を共にする。彼なりの視点から、特に士官以上らとは、ときには橋渡し的な役割を、特に最後のほうでは取ったりもする。皆の最後を見届けるのも彼の役割だった。

艦内、通常は白色灯か暖色の白熱球かで、潜航または浮上時に赤色灯に切り替わる。潜水艦モノの皮切りであろう本作だが、これだけでまず楽しい。ほのかに光る青いライトや、洗面所のライトなんかも印象深い。

食事シーン、割とバリエーションに富んだ料理が並ぶ。美味しそうだとも言いがたいが、魅力的ではある。魚かチーズかに黴が繁殖したシーンが象徴的であったが、それ以外もやはり目に留まる。報道官、たまに食欲がないのがハッキリしていて、これもよかった。

ソナー音でビビる演出も、潜水艦モノだとアルアルで-もちろん実際においても恐怖そのものだろうけれども、本作中においては中盤からの敵駆逐艦との攻防のさなか、この音がふと耳に小さく響く。すると「おいおいおいおい、何だこの音は」という感じになって、不思議な新鮮味があった。

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《劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM》「前編 君の列車は生存戦略」、および「後編 僕は君を愛してる」の 2 作を観た。このメモは、前編を見終えた段階でちょっと書いて、後編を見てから書き足したり、直したりしている。いつもより文章の破綻は酷かろう。

『輪るピングドラム』は、放送当時に見ていた。記憶は断片的で、印象的なバンクシーンは当然として、ラーメン屋での両親の骸だとか、檻の中での冠葉と昌馬のやり取りとか、そういう幾らかのイメージが残っている程度だった。

一方で主題歌 OP、ED の曲は、いまでも、たまに聴く。どちらかというと、エンディングの『Dear future』があまりにも好きで、当時は CD を購入した。1 回だけエンディングで使用された Vo.堀江由衣のバージョン がもっと好きで、こちらもわざわざ収録アルバムを購入した。

今回、後編で TV シリーズを超えた結末に辿り着くという情報は得ていたが、前編の鑑賞中に「そういえば TV シリーズは 2 クールあったよな」と気づく。なかなかハードなボリュームになると思った。前編のクライマックスは TV シリーズの 2 クール目の途中くらいだったろうか?

しかし、結果としては追加された内容自体は最小限で、私はそこまで意味を見い出せなかったし、特に後編が忙しいという感じもしなかった。省略された内容も幾らかあったようだが、違和感もなかったので、これはよい編集だったと言えるんでしょうかね。

「RE:cycle」と冠されているように、使い直しが前提の物語で、ここを気にするとキリがないけれど、語り直し自体がある種のトレンドと言っていいのか、ざっくばらんに言えばコンテンツの再掲示であり、10周年という節目を祝う意味もあるのだろうけれど、終わってみれば、どちらかというと制作者の禊落しみたいのように感じる。

今回の映画は、TV 版のストーリーを直接なぞるわけではなく、群像劇的に、各登場人物の過去と現在を行き来して、そこここに仕込まれえた謎をチラ見せしていく。この展開は、TV シリーズよりも情報を整理したということだが、まったく新しい視聴者が理解しやすいかといえば、やはり相当にややこしい気もする。

逆に、TV シリーズを知っているがゆえに不要な記憶がストレートな鑑賞を邪魔している可能性も考えうる。つまるところ、何にも言えない。

あらためて見ていて思ったのは、記憶よりもずっと少女マンガっぽいなというところで、キャラクターの造形からしてそうなのだが、ところどころ挟まれるギャグとか、特に冠葉の感情まわりとか、そうと断言しづらい時代だが、当初からしてだいぶん女性向けだったのだなと再確認した。

プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの衣装のパージも、絶妙なカットでギリギリで対象年齢を問わずではあるけれど、あらためてスクリーンサイズで目にすると特に、かなり扇情的というか、エロティックで困る。これを見ちゃったから、お兄ちゃんは振り切れちゃったんじゃないか、なんて乾いた笑いも出る。

話の主軸だが、兄妹の三角関係というか、そういう関係性を超えていくところもあったのだろうが、それが眞悧や両親の団体の問題と直接的にリンクするわけでもなく-もちろんそれぞれの関係はあるのだが、結局は別の問題然としたままなのは今となっては物足りない感じもある。解決案も特にないけれど。

個人的には、TV の当時から昌馬と苹果の関係性に注目していたので、あの結末がよかったのか悪かったのかは判断しないけれど、物寂しさはあった。この映画でそれが何かしら希望に変わるのかしらと淡く期待したが、別にそういうこともなく。

しかし「僕は君を愛してる」と副題につけるには、やはりそこは大事であるはずだが、追加されたいつくかのシーンは、ちょっとおもしろくはあったが、最終的には「おにいちゃん」が繰り返されたことがよくわからず、やはりキメは海なんだなということで、いろいろな作品を思い出すことになった。TV シリーズであの海岸を想起させるようなカットがあったなら申し訳ない(記憶にない。

「きっと何者にもなれない」から変奏された新しいキメ台詞もそうだが、お兄ちゃんであることとか、諸々の何に何を説得させようとしているのか、いまいちピンと来ない。まぁ、誰でも YouTuber とかにはなれるか、誰でも。ブレイクするかはしらんけど。

愛してる、あるいは愛されていることの貴重さ、そこが TV 版から続く本作の実のテーマだと言われれば、あぁそうだったのかと気づく面もあるが、それと兄弟の自己犠牲の天秤が心残りになったままで-結局、その煮え切らない心境こそが本作の本懐に感じられてしまう。

昌馬から苹果に伝えらえた愛は、それはどの程度のどういう愛なのか、そんなことばかり考えてしまう。

ところで、桃果本人がプリンセス・オブ・ザ・クリスタルらしいことが明らかになるが、これはこれでどうなのか。TV シリーズでのふわっとした状態の方が都合がよさそうだが、それは避けたようだ。

図書館とその延長として描かれた空間がなんなのか。本作すらすべての物語の部分に過ぎないとして、であれば桃果すらメタ作品的な存在になるけれど、それはそれでどうなんだろうか。

なんか不満ばかり並べたみたいになってしまったね。

運命の至る場所とは

これ、今回あらためて気になったのだが、このセリフで連想するのは到達点のようなところか? 物語の終わるところというか?

というよりは、個人的には運命という場のようなものをイメージした。人びとはその内側でなにかしらを求める。その場を乗り移るのが、桃果の魔法なのかもしれないが、とにかく運命の至る場所というのは、目的地のようではなくて、生活世界で自らが影響を与え、影響される相互関係のような状態じゃないか。

裏を返せば、至る所に運命はある。

というちょっと哲学めいた話にしていくと楽しいけど、本編と絡めながらその考察を楽しく進めるのは、大変そうなので、ここまで。

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ジョーダン・ピール監督の最新作《NOPE》を観た。ホラー映画なのか何なのかよくわからん、というのは前作までと同じか。だが《ゲット・アウト》を観ていない私に本作を語る権利があるのかどうかは疑問ではある。

また聖書の引用から始まる。ズルいのである。まぁ気になる人は、これを使ってなんかやったらいい。

スタジオでチンパンジーが暴走し、誰かが倒れている。カメラの視線は現場の人物を示唆するが、そこでは明らかにはならない。チンパンジーがカメラの視線に気づくと、このシーンはそれで終わる。

主人公:OJの父が死ぬ。頭に金属片が飛び込んできたらしい。コイン様のそれであったが、それがなんだかはよくわからない。牧場は経営難となり、管理する馬を徐々に減らしていく。

ところである晩、逃げた馬が空中で喰われた。どうする。

隣家の韓国系アメリカ人:ジュープが経営する西部劇なテーマパークでは、主人公の牧場から馬を購入している。なんなら彼は牧場ごと買い取りたいという。しかし、売られた馬が、テーマパーク内に居る様子はなかった。

どうして主人公は気づかなかったのか?

このジュープこそが冒頭の視線の主で、暴走するチンパンジーと最期に心を通わせる可能性のあった人物であり、そのこと自体が彼の心を壊している皮肉がある。ところでチンパンジーの暴走当時に最大の被害に遭ったと思しき女性が、彼の開催するショーに来訪していた。なぜだ?

部分的に皮下組織が剥き出しのままのようにみえた彼女だが、賠償金かなにかで隠遁生活を送っているのだろうか。どういう誘いに惹かれて、ジュープのショーを見にきたのか。これがわからない。まぁいいか。

ところで、チンパンジーが暴走した理由だが、そんなものを探しても仕方がない。だが、描写として、彼の誕生日だったらしく、子役のジュープと少女はプレゼントを用意していた。女性のプレゼントは大きな箱に入った、たくさんの風船だった。これにはチンパンジーとはいえ、TV ショーの演出とはいえキレるでしょ、という気はする。風船て。

まぁ、しかし、チンパンジーが暴走するエピソードは、空中で人間らを捕食する生物と人間らの関係、あるいはジュープ本人との関係、はては黒人、黄色人らの立場などを反映しているようではあるが、このエピソード自体が浮いて見えることも確かで、煮え切らない。

やはりプレゼントが風船であったことに問題提起があるのではないか。しかし、そのたくさんの風船、そして荒野に広がるバルーン式のトーテム、あるいは国旗が彩られたロープというアイテムが、それぞれ微妙にシンクロしているのは流石だなと感じる。

で、その捕食者を撮影するということで、ホームセンター従業員:エンジェルや謎の撮影者:ホルストとかと協力することになる。ホルストの編集している映像、《吸血鬼ノスフェラトゥ》でチラチラと入っていたカットに似ていた。

捕食者の特性を生かして、撮影を試みる。途中で撮影に成功しているように思えるが、少なくともホルストは満足していない。しかし、みんな混乱したのか、最終的には、なんかグチャグチャになる。結局は OJ の妹:Mが撃退と撮影に成功する。

ちなみに捕食者が最期になったのも、やはりバルーンなんであった。

捕食者の本体のフォルムも終盤で大方明らかになるが、ぶっちゃけエヴァンゲリオンの使徒のようで、AKIRAのオマージュといい、笑うしかない。

だが、捕食といってもそれが食事なのかもわからないし、捕食者が生物として成体であるかもわからない。あるいは、チンパンジーのように、なんらかの理由で暴走しているだけだったのかもしれない。

さて、作品が暗示してること、暗示したいことは沢山あるようだったが、何が起きて何が解決したかといえば、それも何もわからない。まぁ、そういうもんか。そういう存在の相手をした、そういう記録ということだ。

しばし考えたが、「本当の主人公はジュープ」説を拡げると、それなりに面白いのではないか。OJにとっては馬をおとりにした悪い奴だし、メインキャストの割にはしょうもない結末を迎える彼だが、彼の試みは本当にショーの見世物として捕食者を晒すことだけだったのか?

チンパンジーとのラストシーンを思い返すとそうとも言えない可能性も言及することくらいはできそうかなとは思う。

ところで、撮影だが、実際にロサンゼルスを北に抜ける地点にある砂漠が舞台のようだ。冒頭、ハリウッドからの帰路で看板にあったが “Agua Dulce” という地名にあたる地域だ。仮名読みだと「アグア・ダルシー」や「アグア・ドゥルセ」などか。

小耳に挟んだので報道をちょっと探してみたけれど、夜景のシーンは実は昼中に撮影されたらしい。赤外線を通すことでカメラのなかでは暗い空間が演出されるとか。以下の記事でそれについてだけ説明されていた。

あとは以下の記事の一連なんかを読むと、いろいろとわかりやすかった。まぁ、流し用味程度の読解力だけど。

本作、《未知との遭遇》や《ジョーズ》の類似性を指摘されるようだが、個人的にはヒッチコックの《鳥》が思い出される。あの映画ほど不条理な作品もなかろうてな。

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Netflixが製作に関わり、Netflixで公開されている《ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い》を観た。ウクライナ侵攻にかかるロシアまたはウクライナ周りの作品、ドキュメンタリーなどをいくつか見たが、最初にこれを見ておけよ、という内容で遠回りしたな、というのがひとつあった。

ユーロマイダン運動、あるいは革命ってのはなんだ、という話だが、2013 年 11 月からヤヌコーヴィチ政権への抵抗により開始されたマイダン(独立)広場での集会、もとい抵抗運動であって、 2014 年 2 月はヤヌコーヴィチのキーウ離脱までの経過が記録されているのが本作だ。

この映像がどのタイミングで映像作品として企画化したかは不明だが、当初は参加者のスマートフォンによる映像と思われたそれが、途中から撮影班が撮ったとハッキリわかる映像になる。

こういうことが気になったな、というくらいしか言うこともないが、以下のようにメモしておく。

  • 予備役の軍人や退役軍人で市民側についたひとのインタビューがあった。後者はまだわかるが、前者はどうなんだろうか。個人の自由みたいな感じなのかな。ウクライナ軍自体は、運動の最後のほうに最後衛あたりには出張っていたのかなという印象だったけど、よくわからない。
  • インタビューにたびたび登場した少年、彼はマイダン広場に住んでいたと明言していたけど、ストリートチルドレンの類なのだろうか。めちゃくちゃ活躍していたように見えるし、なんらかのシンボル的な立ち位置も獲得してしまっていたのかしら。子供を巻き込むなという話ではあるが、単純ではないね。
  • デモ隊と対峙していた特殊部隊(名前忘れた)の人たちがデモ参加者に非難されていて、それはそれとして仕方がないだろうけれど、どういうアレなのかね。香港では地方から呼ばれた人らがデモ鎮圧隊とされていたというから似たような事情の人たちが集められたのか。ツラい話だ。

最近の報道で、2007 年の EU 加盟の構想開始時点でプーチン政権はかなり神経を尖らせていたという情報を目にした。ウクライナ独立まで遡るとどうなるのかはしらんけど、つまるところ、ウクライナへの侵攻シナリオなんていうのは実現性とは別に構想自体はあったんだろう。

ついてはユーロマイダン革命ののち、クリミア地域の併合もあっさりと進んでしまい、似たように親露派がある程度は形成されている地域であれば同じように事が進むという目安はあった、という感じなのだろうか。実際、同時期からウクライナ東部地域では抗争が始まっていたということで、それが現在に至ると。

しかし、前回見た《ウクライナから平和を叫ぶ Peace to You All》と比べると、首都と地域で市民性がまったく異なるというか、それぞれの事情は相互にはそこまで伝わってはいないのだろうなという感じはする。

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《ウクライナから平和を叫ぶ Peace to You All》を観た。

スロバキアの写真家:ユライ・ムラヴェツが 2015 年前後あたりからウクライナ東部に出入りして撮影したドキュメンタリーらしい。

彼自身、当初は半ばライフテーマのようにロシア連邦の撮影旅行に勤しむつもりだったと冒頭に説明されていて、それが 2010 年頃のこととか。

もちろん当人:ムラヴェツが監督・撮影としてクレジットされているが、同行者が 1 人くらいいたんだろうか? たまに彼自身が映る。あとは現地のドライバーも雇っていたようだから、行軍は 3 人ほどと思われる。

どういう名目で乗り込んだのかは不明だが、本作中で通過する検問ではスロバキアの TV 局員のような身分を名乗っていたのでが、そういう契約もあったのかもしれない。

しかし、途中では西側プロパガンダのリストに掲載されているとも検問員から確認されていた。なるほど、しっかりした情報網じゃねーの。

映像としては、映像の合い間に、たまにモノクロの写真が挟まる体裁になっている。景色であったり、インタビュー対象のポートレートであったりする。そこは本業が写真家の画なだけあって、静止画のカットの決まりが非常にいい。作品然としている。人物もいいが、風景がよい。

全体感としては、田舎、神、そして犬という 3 つが印象的だった。

まずは田舎だ

映像となっていた地域、特に村なんかの名前はほとんど記憶できなかったが、なにせ前線のほとんどは荒野かあるいは農作地であって、そこに点在する村落がポイントになる。でまぁ、田舎も田舎だ。インフラも最低限度に思われる。そんな村がことごとく破壊されている。世界の終わりだ。

こういう村落などは壊すだけ壊したら、ほとんど見捨てられたも同然になるようだ。それらを結ぶ要衝、幹線などを押さえることが支配下争いそのものなのだろうか。そういうことを意識させられる。

神様がいます

田舎っぷりは、土地や設備などだけではなくて、その心性にも感じ取られた。これは言い方が完全に悪いが、現地の人らの神に対する態度というのは、 21 世紀に生きる日本人としての私からしたら、かなりの信心っぷりに驚く。

登場人物らが多少は高齢であるという点を差し引いても、ここまでかと思う。教会に通い、家にはイコンが飾られ、平和を神に祈る。それが生活の一部というのならそうだろうが、すがる対象はあくまで神なのだ。

あるいはプーチンか。

ちなみに本作、西側メディアに数えられる方が撮影しているので、基本的にはウクライナ側の立場のインタビューが多いが、後述のようにシニアの方には明確に親ロシアを表明する回答もあった。あるいは分離派か。親ロシア派のそれらしさは、《ドンバス》でも描かれていたが地域性やリアル、フィクションの差はあるのだろう。

犬様がいます

犬がたくさん映る。「あぁ、これは犬の映画だな」とすら思った。とにかく犬が多い。愛玩というよりは番犬またはパートナーといった存在のようだが、今回は野良犬化した子らも多そうだ。

本当にどこにでも居るし、どこででも吠えている。やはり、田舎なのである。一応、猫も少しだけ居た。

以下、インタビュー対象についてのメモ的な感想を残す。

ドライバーのおじさん

作品冒頭に登場した。ウクライナ側から親ロシア側に接近するときにドライバーとして雇われた方らしい。やはり自宅の近所に爆発が起き、周辺の住民が亡くなったりしたとか。息子さんはキーウにいるとか言っていたかな。

娘がドネツクの大学にいる女性

ドネツク(だっけ)まで 90 ロ地点の村落の女性だ。娘と電話すると、大学の奨学金が出るか出ないかで少し揉めているらしい。娘の大学の地域はすでにウクライナからの独立を謳っている。

対ナチスの老女

「プーチンにはやく助けてほしい」と零す。父はナチスと戦ってソ連から勲章を貰っている。村全体がかなり壊滅している地域のお婆さん。この方は完全に親ロシア派というか、心性はロシア人なんだろうか。ロシア側の主張の通りにウクライナの中枢がナチズムに侵食されているという視点を信じており、その旨に沿った意見を繰り返していた。

分離派とされて収監された息子

上記のお婆さんの息子かな。鉱山労働者である。細かい事情はわからないが、鉱山労働者には実際に親露派が多数いたらしく、彼はそういったカドでウクライナ側により捕まり、しばらくどこかに収監されていたらしい。彼自身は親露派ではないというし、インタビューに応えてもいるから、まぁ完全にどちら側という視点はないのかもしれない。

ピアノの伴奏の子と、それにあわせて踊る子。

おじさんかお婆さんかくらいしか映らない本作で、たまに登場した若者たちのひとつ。幕間という感じのカットだったがそれなりに印象的であった。

老女と猫

「ウクライナに住んでいるけど、私たちはロシア人」のような。明言はしていなかったようだが、やはり心理的にはロシア寄りのようだった。おそらく親露派の軍人からパンを貰えたらしく、それで生きながらえているといっていた。この家には猫がいた。

学校が壊された

地域の小学校が破壊されたと説明する女性がいた。分離派は壊さないようにしていたが、ウクライナ側が壊したという説明をする。彼女は分離派寄りなのだろうか。まぁ、そういうことばかり考えても仕方ない気もしてきた。

年金をもらう老女

定年している。年金をウクライナで受け取って、ただし彼女の生活圏ではウクライナ通貨のフリヴニャは使えないので、その場でルーブルに換金するらしい。レート(取材当時)は1:3だとかで、割がいいと彼女は小さく笑っていた。強い。

スクーターをこの世でもっとも愛してる女

60 代ほどだろうか。比較的、安全地帯なのかな。たまたま手に入れたスクーターが大のお気に入りで街中をかっ飛ばしているそうで、彼女の視点から撮影された映像も映されていた。束の間の平和か、あるいはここは平和か。平和だったのか。

ロシアン・スパニエルと男性

これは明確に飼われていた犬だった。乗用車のトランクにいた。このインタビューも比較的安全であった地域で行われたようだ。ロシアン・スパニエルという犬種、調べてみたら現地以外ではレア種らしいけれど、可愛らしかった。

ホームレスの男性

ソ連時代のスターリンだかの像が撤去された市庁舎だかの前でのホームレスの男性へのインタビューがあった。「こんなもの(ソ連を讃えるオブジェクト)はもう必要ないんだ、へへっ」みたいな半ば自嘲染みた雰囲気を憶えている。

誰も歴史を学んでいないという軍曹

ウクライナ側の軍曹だったかな、の青年。「歴史を誰も学んでいない。こんなことはすぐに終わるはず」と言っていた。彼はまだ前線で戦っているだろうか。

神に祈る人々。アル中のおじさん。

教会、讃美歌、たくさんの老女。1 人だけアルコール中毒症らしい男性が混ざっており、神様に祈っている。ある女性が諭すように励ますが、うまくいかない。戦争とは関係のなさそうな日常的なシーンではあった。

マリウポリで空襲から逃げた少女

唯一の若者へのインタビューで、10代中盤くらいだろうか、父とミサイルから逃げたという話を泣きながら語ってくれていた。この少女も、もはや成人しているくらいだろうか。

現在では検索すれば破壊しつくされた瓦礫の山だが、まだ当時は被害もほどもわからない程度のようだった。

おつむが良かったら戦争なんかしない

やはりどこかの衝突地帯の村の女性、とっくに逃げ出した他人の家屋で生活している模様だ。自宅はとうに破壊されたと。

全インタビュー対象のなかで語り口がもっとも理知的というか、包み込むものがあった。次に出てきたキーウのインタビュー対象をやや例外的とすると、この女性をドキュメンタリーの最後に配した理由もわかる。インタビュアー(監督だろう)は最後に「こんな質問してごめん」といってハグしていた。

あとやっぱり、犬がいたね。

分離派の手榴弾に手足を吹っ飛ばされた男

キーウのマンションにて取材に応える。男性、義手をみせる。脚も片方がないらしい。病院で入院中に知り合った女性と乾坤したのか、ともに暮らしている。

傷病軍人手当みたいなのが出てるのか、暮らしにはそこまで困ってなさそうで、この上ない幸せということもないだろうが、今回のインタビューをみていると、なんというか、戦後の空間をイメージさせられるものがあったような。そんなラストだった。

結局のところ、そんなことはまったく無い状態が続いている。

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公開は 2016 年ということで、すでに 6 年前の映画だ。当時からウクライナとロシアの国境線では小競り合いが起きており、それを現在まで引き延ばして考えると、ジワジワとロシアの侵攻が遂行されていたという事実がより確かに伝わる。

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《カメラを止めるな!》のフランス版リメイク《キャメラを止めるな!》を観た。

言い方が不適切かもしれないが、捉えどころのない作品で、監督も脚本も原作のおもしろさを掴みかねてたんじゃないのかという節がある。

あるいは、原作の要素を皮肉的に再現しているのではないかという複雑な予感というか。両手を挙げて面白いとはいえない作品ではあった。

そんなピーキーな完成度ではあったが、要所ではやはり、それなりに面白さはあって、クライマックスの謎の感動はそれなりに再現されていた。

つまり、それだけ親子愛や創作愛-その完成を目指すという意味で-というテーマそのものの強さを実感させられたとも言える。

「ロケーション選びが原作に比して駄目だ」という意見を目にしたが、私は逆で、なぜか半透明でカラフルな仕切りで区切られた、林中にある目的不明の打ち捨てられた構造体が、低予算でゾンビ映画を撮影するという前提にはあっていたように思う。

そこを監督が駆け回るバカバカしさは、もしかしたら原作を超えていた。次第に建築物の構造が明らかになっていくのも楽しかった。まぁどうでもいいか。

気になった点として、フランス語題《Coupez!》だが、これって「切る!」みたいな意味なのかな。原題とは逆の意味だわね。英題も “Final Cut” となっているようだ。やっぱり意図的な捻じれがあるのか、そのように感じてしまう。

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《あなたの顔の前に》を観た。観たには見たが、それなりの時間を夢半ばで過ごしたのも事実で、空ろな部分は今回については補完し難い。

韓国映画だ。ホン・サンス監督は強い人気があるようだが、今回ははじめての鑑賞となった。

といっても、夏の休日は暑い日照りのなかを睡眠不足のなかで臨んだので、結論からいうとほとんど眠気との戦いに敗れつづけた。ここまでが前提だ。

カメラをほとんど動かさず、同じ画面に映るのはほと 2 人か多くても 3 人ほどで、そこでは繊細そうな会話劇が繰り広げられる。

映画作家の文脈はあまりわからないが、映画映像の美学としてはアピチャッポンなんかと近いのだろうか。こういう映画が好きなひとには効くのだろうな。眠気にも効く。

鑑賞したひとたちからの反応は、クライマックスの自称? 映画監督からの電話に対する反応がよかった! というのが目に留まりやすかった。

そこはなんとか、起きていたのだが、あまりピンとこない。

個人的には眠りに誘われはじめる直前、小川を渡る橋の下で煙草をふかすシーンがよかった。

姉はアメリカ帰りで、向こうではそれなりに生活していれば、屋外で煙草をふかすということもなさそうだが、韓国社会ってどんなもんなんでしょうね。

あ、でも夢半ばだったけれど、喫煙シーンはまだほかにもあったかもしれない。喫煙というのはある種の逃避だろうので、そういうことを喚起させるチカラがあるでしょう。

しかし、こういう映画、もちろん映画でしかできない描写もあると言えるだろうけれど、逆に漫画や小説などの別のメディアで昇華しやすいだろう部分も感じるというか、鑑賞者はそういうところを楽しく想像するのかなとも思う。

というわけで、いつものような感想というにはちょっと足らないが、機会があればまた向き合いたいなという逃げ口上だけ残しておく。

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アニメ映画《神々の山巓》を観た。予告で事前情報は知っていたというか、日本などを除く各国では Netflix ですでに配信されているらしい。国内では劇場にて初のお披露目となったワケだ。

原作は夢枕獏による小説で、今作は谷口ジローによる漫画版の映像化となる。原作は数年前に文庫版を読んでいるが、漫画版は未読という状況で、日本の実写映画版は存在だけ知っている-キャストはよさそうだけどね……。

フランスでの谷口ジロー人気は確固たるものがあって、そういう流れでの本作ということだろうけれど、それにしても 90 分程度の作品にすることに対する小さな驚きというか、感動というか、そういうのがある。

フランスのスタジオらしい描き方は細かくは目に留まるが、原作はおそらくほぼ再現され、十分に生かされており、言われなければ何処の国のスタッフらが製作したかなどは気にもならない。

私としては原作小説の内容は半分も覚えていなかったので、漫画版がどれだけ原作小説から改変したのか、果ては今回の映画が漫画版をどれだけ省略改変しているかは、わからない。

しかし、羽生がネパールの山村で少年だか少女だかを養っているとか、マロリーのカメラの秘密にもう少し複雑なプロットがあったとか、その辺はなんとなく覚えていたが、これらはオミットされていたね。あと、羽生との登山中に亡くなった人物の設定周りにも変更があったようだが、あとから調べて思い出した。記憶になかった。

へぇとなった点

  • 劇伴がエレクトロニックというか、重低音がカッコよくてバリバリだなとなった。直近だと《パリ13区》を連想させられる。《アネット/Annett》も遠からずという感じがある。つまり、どちらもフランス映画ってことだけど。
  • とはいえ、劇判については音が鳴りっぱなしに過ぎる感じがして、静寂な山というか、そういう地域での空気感を感じるシーンはほとんどなかった。雪崩のシーンは流石に現場の音が強調されていたが。
  • もっとも好きなシーン。怪我から治って社会復帰した羽生が山岳ショップから退勤して雨の夜の街に消えていくシーンだが、道々やビル街、小物などが徐々に消えていって、ただ彼と空気だけが描かれる。原作からの援用かしらぬが、西洋絵画の趣があった。『マロナの幻想的な物語り』なんかも思い出す。
  • キャラクターのデザイン、原作(漫画)に寄せているということで、本当にほとんど違和感はなかった。とはいえ画面に映り込むモブ達や亡くなった少年のお姉さんなんかは目つきが細くて、これは欧州人の見たアジア人だなと。
  • 東京の街の遠景も省略のしかたが西洋絵画っぽかというか。太い幹道がひたすらまっすぐに奥に伸びていく。日本の作品が日本の都会を、ああいう感じには描けないのではないかな。

ふむとなった点

  • 日本ぽくないなというのがもう1点あって、少年時代の羽生と思うが、田園を駆けて山を登頂し、山頂からの景色に浸る描写があった。ここ、田園は麦畑のようだったし、登山中の背景はスイスはアルプスのようだったね。いろいろな日本ぽくなさが詰まっていて、微笑んでしまった。
  • 深町も山狂いの男なんだが、そのへんは羽生とのギャップを生み出すためか、ややニュアンスが弱かった。原作の記憶はあまりないが、その辺は日本社会との繋がりようでバランスされていたような気がする。しかし、山岳写真家という存在は 狂気×狂気 みたいなもんで、単純に登るよりもツラいことをやってのけているハズだが、役割的に背景になってしまうのよね。
  • 原作の読書時に気づいたが、私は原作を読む前にマロリーの遺体が見つかったニュースを記憶していた。やはり読んだ文庫版のあとがきには、作品の前後で歴史の事実関係によって影響があった旨がコメントされていた(作品に書き換えは生じていないと記憶しているけれど)。これが本作にはなかった。それはそれでいいけど、それでいいのか? とも。
  • どこかで目に留まった指摘だったが、「郵便ポストから現金投函はできないよね」というのがあったのでメモだけしておく。漫画版ではどうだったのだろうか。演出上の嘘だと割り切ってやったのかとは思う。

まぁ、面白い作品だった。ところで、フランス語のタイトル “Le Sommet des Dieux”、または英題の “The Summit of the Gods” だけれども、これタイトルだけで山の話だとわかるんだろうか。 “Sommet(Summit)” というと日本では特に「首脳会談」というような文脈で使われがちだよね。

追記:20220905

漫画版を読んだ。なるほど、いろいろと腑に落ちた。このアニメ映画版、かなり手が入っているのね、そうか。作品を 90 分ほどに収めることが前提だろうけれど、かなり輪郭が切り取られている。一方、この記事で書いたような、この映画独特の表現だなという箇所は、原作では省略されていた箇所が相当していることが多く、試み自体はおもしろいなと。

また、深町の山男としての狂気がなんか薄味だなという感覚もそりゃそうで、そういえば原作はああいう結末を辿ったのだなと、記憶がよみがえった。

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『まほり』を読んだ。高田大介という方の作品らしい。人に薦められた。この記事のタイトルは、ただの連想遊びで、本題とは、まったく関係がないです。ネタバレ味はしますので、読んだ人は読んでね、という感じの感想文になります。

民俗学的という触れ込みで読みはじめたが、たしかにそうで、史料批判のような内容にそれなりにボリュームが割かれている。ので、資料を照らし合わせて事実らしきものの解明に向かう、といった内容に不慣れであったり、興味が無かったりすると、ツラい読書になりそうではある。

文献学ってこういうジャンルだっけ??

本作のノリだが、マンガで言えば、それなりに現実的な結末を用意したパターンの宗像教授シリーズ(星野之宣)のような雰囲気で、諸星大二郎ほど怪異寄りでもない。というよりも、山口譲司『村祀り』のような怪奇モノだとか小川幸辰の『みくまりの谷深』を連想したが、『村祀り』がそれっぽいかもしらん。

小説だとどうだろうか、と思うが、このタイプの小説はほとんど読まないので、あまり具体的な例は挙げられない。伝奇SF だが半村良の作品を読んでいるときの興奮には近いかなぁ。

いずれにせよ、本作はミステリー分類のようだが、個人的には伝奇モノに近いなという感触で楽しんだのだった。

あれやこれや

主人公は小学生と大学生と 2 人に大別できて、どちらの動きもよかった。「ひと夏の冒険」といった調子のちょっとしたジュブナイル小説のような雰囲気もある。

冒頭から主人公が切り替わるとき、時代が飛ぶようなトリックがあるのかと勘ぐってしまったが、これは別に無かった。気のせいだった。普通に同じ時間軸だった。

しかし、ミステリーの感想なんてあまり書かないのでアレだけど、ネタバレへのケアが他のジャンルとは違うなやっぱり。下手なことが書けない。いや、読み返してみると、書いてる気がしてきたけど、もうどうでもいいや。

風習あるいは伝承の手段と目的(結果?)が転倒したという事実に迫っていく描写はスリリングで面白く、これは実際に起こりえることなのだろうが、事実として、起こりえることなのだが、覆すのが難しいのだろうなぁ。

この覆しがたさは、日本人特有の性質なのだろうか、あるいはある程度まで条件が整ってしまえば人間の集合体がどうしようもなく背負う業なのか、気になるところではある。いや、後者は前者を内包しているけれど。

間引きという旧時代の習慣とその規模感の恐ろしさというのは、本書の醍醐味のひとつであって、この問題はハッキリ言って直視し難く、厄介なテーマでもあるが、良くも悪くもエンターテインメントというフィルターを通して向き合えたことは単純に好機ではあった。

日本に限らなければ、現在進行形で世界の至る所での問題であることは確かであるし、日本にしたって中絶も広義の間引きであるし、似たような問題として赤ちゃんポストの問題をどう見るかという話に敷衍しうる。というふうにすると、本作の問題は、別に過去の恐ろしい話というだけのことでもなさそうだ。

だが、そこまでいくと感想文としては話が逸れるか。

大学生の主人公の出自については、ある程度の段階で目星がついたが、それはそれとして、その事実があるいは不幸の末に辿り着いた幸福であったのか、絶望の産物でしかなかったのか。そういうところは気になる。そういう後味はあった。しかし、なれば実はショートカットできるルートがあったのでは? という疑問も生まれる。

ほかに、気になった点といえば、宜しくない風習に利用されていた建物というのが、ひっそりと忘れ去られたようにどこかに残っている、というような事例は過去か現在にあるのだろうかと気になった。が、そりゃ忘れ去られてりゃ残ってても知らんよなという、まさに本作の探るところと一致する問題があるね。しかし、なんらか事例はあるのかね。パッとは思いつかないけれど。

最後に、主人公の台詞に「猖獗を極める」って、2 度ほど使われていて、たまに目にする表現だけれども、口語で使う子がいる-という設定が、面白いなってなりました。

まる。

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自室。室内の空気をどうにかして気分転換したいなと常々思っていた。臭い物に蓋をする、というと極端だけれど、生活臭を自室からひと時でも追いやって、いわゆる癒しの間をとりたいという願望だ。

アロマオイルでもいいが、今回は線香を焚きたかった。振り返ってみると、かなり以前のことだが、爽健美茶がペットボトルのおまけにアロマ線香セットを付けていた。子供時分にそれを買い集めて、自室で香りを楽しんでいたが、そういう下地があることを思い出した。

しかし、ここで小さな問題があって、線香を焚くステージがない。いわゆる香台というたぐいのアイテムになるが、いくらか調べても、しっくりする製品がない。最近は、波佐見焼きのシンプルさがお気に入りで、その系統で製品がないか調べていたが、なかなか出会えなかった。

あった。

よくわからないが、丸広百貨店のオンラインショップが波佐見焼きの商品展開をしている。そのうちの BARBAR というブランドの「C.O.I」というカテゴリに「C.O.I O」という商品があって、アロマオイルや線香に対応した製品となっている。

製品は円柱状で、片面の円が窪んでおり中央に小さな穴がある。窪みにオイルを垂らすでもいいらしいが、線香は小さな穴に挿すことになる。

ところで、これを製品の意図通りに利用しようとすると、別売の「C.O.I C」という台があるとよいらしい。わかりづらいねん。こちらは中空の半円柱となっており、「C.O.I O」が横にピッタリと収まる仕掛けになっている。この半円柱は円の曲面が部分的に少し平らになっているのかしらぬが、あまり揺れたりしない。

で、線香がようやく焚けたというワケだ。

ひとつ小さな問題があって、「C.O.I O」の小さな穴が少し小さい。小さい。用意した線香を挿そうとしたら線香が折れた。それなりに慎重に挿せば大丈夫なのだが、少し気を遣う。

本当に少しだ。

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