書くという行為はすべて感動と愛に基づいている。

日常的な習慣から読書が脱落しやすい。しばらくまた習慣から離れてしまったので、なにかしら読了しやすい本を求めていた。で、以下の記事を読んで『日記の魔力』にとりかかった。短いし、平素で読みやすい。

Logseq を利用して日常の記録をとることに割と解法のような状態がみつかったような気分もあり、なにかしら参考にしたいという目的も手伝った。参照先の記事でも「古典」と評されているが、2004 年の書籍がもはや古典とされることに違和感はない。いやはや年を取ったもんだ。というワケで読書メモを残しておく。

日記、とるかとらないかで言ったら取ったほうがいい。記録というのは、そういうもんだ。これが前提ではある。

その目的と方法が大きな焦点のひとつと思われるが、ぶっちゃけ日記をとらなくても人生が順風満帆過ぎてその必要性がわからん、とか、無意識に日記をとる行為と同等の性向を備えている人間なら不要と思う。そういうこともあるだろう。あらためて、日記の目的ということだが、本書でも述べられているようには、人生あるいは心身のリバランスにあるようだ。記録を振り返るということはそういうことだ。

方法について。著者は 1990 年代からパソコンを利用しているという。基本的なワープロソフトというので、Wordなりプレーンテキストなりで記述しているんだろう。面白いなと思うのは、それ以前は京大カード式だったとのことで、コンピューターでも似た方法のアプリを試したが、これは諦めたとのことだった。昨今はやはりアプリ上でのカード式を求める方も多いので、時代はあっちこっちするもんだ。

ちなみに、わたしは前述の通り、日記系の記録は Logseq を使いはじめた。見出しレベルに、#log、#idea、#cite などのタグy設けて分類し(PoICを参考にしている)、記録を残している。このタグでアウトラインを切る方法、Workflowy あたりからできた実現できたのだろうが、タグ別の検索結果に以下レベル内の項目がすべて引っかかる。気づいて見れば、こんな単純で便利なことは無くて、もはやこれ以外は考えられない。

あくまで行動を記録する

「着想」と著者の呼ぶ「ある意味での自分の思想史上の進展」を記録する以外は、基本的には「行動記録」に徹せよと述べる。なるべく時刻を記せともいう。著者は執筆時点は翌日の朝に前日の日記をまとめているとしていたが、そのへんの扱いはよくわからない。パソコンを利用しはじめたときは数時間おきにとっていたこともある、のような記述もあった。

まぁ、忘れる前にというのが原則だろう。

時刻についてはあんまり厳密に考えても仕方ないのかなという気はする。話は逸れるが TaskChute ユーザーの方とかは、メチャクチャ厳密に打刻するよね。真似しようとしたことはあるけど、全然無理だった。性格や性質以上に、仕事や生活スタイルでの向き不向きもある気はするし、可能な限りでよいのかなと。

行動の記録という点について、なるほどユニークだなという指摘があって、内省は意味がないという点だ。いくら内省を重ねても人間は変わらないので、やるなら具体的な目標を立てろという話であった。こういうのは身も蓋もないなと感じつつも、いざそうするということも経験を重ねるまでは難しい。

内省自体を、あとから読んだときにコンテンツとして楽しめるならアリだと思うが、毒になることもありそうなので難しいね。

具体的な目標を立てるにあたっては、「具体ということの中心は実は「肯定」することである」という記述があり、これは本当にそう。現実ってのは原則的に肯定でしかできてない。そのためには肯定から始めるしかない。

リバランスのために日記の読み返す

日記で内省するなというワケではなくて、あくまでそれは行動記録との照らし合わせ、それによって喚起される記憶あるいは感情との相互作用であれ、というような話だと読み取った。

著者のバックグラウンドはあまり調べていないが、経済学徒でマルクス研究者、現象学なんかの思想系にも造詣があるようで、ところどころの説明には、感情の動きに配慮した記述が目に留まる。

先の目的についての箇所でも触れたが、外面的にも内面的にも人間には浮き沈みがそれなりにあるもんで、「セルフイメージ」とのズレとの関連性にも言及しつつ、沈みすぎず、浮きすぎないための日記の読み返しを推奨している。著者の執筆時点では基本的には 10 日ほどごとに行っているとのこと。まぁ ひと月じゃ長い気がするので長くても 2 週間程度が区切りな気はする。切羽詰まっているときは、もっと頻繁に読み返すこともあるだろう。

特に「調子がよいときのパターンを見い出すことが大切」という説明も当たり前と捉えがちだが、日記はそれをより明らかに、克明に、シンプルに、あるいはときに詳らかに示すだろう。参考にしたい。

問うことを諦めない

人間、いわゆるライフステージの展開にしたがって興味や関心を持つ範囲、保てる範囲が徐々に移り変わっていく、ということに間違いはないはずだ。

一方、本書で著者がいうように「一生は「問いのレベル」で決まるといってもいい」という問題意識もあって、もちろんどの段階で、どの程度のレベルの問いを立てられるかは人生によりけりだが、しかし最大の問題はそれを維持し続けることでもあり。

著者が行動記録のほかに残すという「着想」は、正にこの類の問題に係るメモであり、もとい日記として記録されることとなる。著者にとってのテーマは、ある種の思想史らしく、具体的な説明はないが、言わずもがな、おそらくは若年のころから直面してきた問題がそこにはある。

この着想の記録だが、必ずしも深刻な内容である必要はなく、取り組んでいるテーマ別だったり、ジャンル別であったり、そういう感じでよさそうだ。

著者の言葉を借りるわけではないが、興味あるところしか意味のある疑問は生まれないだろうという話にも通じる。記録はなんらかの問いを熟成し、その記録が思考を発展させる。

PKM なんかでは、自分なりの知恵や工夫の総体を「第二の脳」なんていうが、なんてことなくて日記であればその記述自体がそもそも其れだという、またごく自然なことを感じるなど。

しかし、なぜタイトルが「魔力」なのかについては説明がなかったな。

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