生存戦略こそがすべて、ではなかったか|《劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM》

《劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM》「前編 君の列車は生存戦略」、および「後編 僕は君を愛してる」の 2 作を観た。このメモは、前編を見終えた段階でちょっと書いて、後編を見てから書き足したり、直したりしている。いつもより文章の破綻は酷かろう。

『輪るピングドラム』は、放送当時に見ていた。記憶は断片的で、印象的なバンクシーンは当然として、ラーメン屋での両親の骸だとか、檻の中での冠葉と昌馬のやり取りとか、そういう幾らかのイメージが残っている程度だった。

一方で主題歌 OP、ED の曲は、いまでも、たまに聴く。どちらかというと、エンディングの『Dear future』があまりにも好きで、当時は CD を購入した。1 回だけエンディングで使用された Vo.堀江由衣のバージョン がもっと好きで、こちらもわざわざ収録アルバムを購入した。

今回、後編で TV シリーズを超えた結末に辿り着くという情報は得ていたが、前編の鑑賞中に「そういえば TV シリーズは 2 クールあったよな」と気づく。なかなかハードなボリュームになると思った。前編のクライマックスは TV シリーズの 2 クール目の途中くらいだったろうか?

しかし、結果としては追加された内容自体は最小限で、私はそこまで意味を見い出せなかったし、特に後編が忙しいという感じもしなかった。省略された内容も幾らかあったようだが、違和感もなかったので、これはよい編集だったと言えるんでしょうかね。

「RE:cycle」と冠されているように、使い直しが前提の物語で、ここを気にするとキリがないけれど、語り直し自体がある種のトレンドと言っていいのか、ざっくばらんに言えばコンテンツの再掲示であり、10周年という節目を祝う意味もあるのだろうけれど、終わってみれば、どちらかというと制作者の禊落しみたいのように感じる。

今回の映画は、TV 版のストーリーを直接なぞるわけではなく、群像劇的に、各登場人物の過去と現在を行き来して、そこここに仕込まれえた謎をチラ見せしていく。この展開は、TV シリーズよりも情報を整理したということだが、まったく新しい視聴者が理解しやすいかといえば、やはり相当にややこしい気もする。

逆に、TV シリーズを知っているがゆえに不要な記憶がストレートな鑑賞を邪魔している可能性も考えうる。つまるところ、何にも言えない。

あらためて見ていて思ったのは、記憶よりもずっと少女マンガっぽいなというところで、キャラクターの造形からしてそうなのだが、ところどころ挟まれるギャグとか、特に冠葉の感情まわりとか、そうと断言しづらい時代だが、当初からしてだいぶん女性向けだったのだなと再確認した。

プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの衣装のパージも、絶妙なカットでギリギリで対象年齢を問わずではあるけれど、あらためてスクリーンサイズで目にすると特に、かなり扇情的というか、エロティックで困る。これを見ちゃったから、お兄ちゃんは振り切れちゃったんじゃないか、なんて乾いた笑いも出る。

話の主軸だが、兄妹の三角関係というか、そういう関係性を超えていくところもあったのだろうが、それが眞悧や両親の団体の問題と直接的にリンクするわけでもなく-もちろんそれぞれの関係はあるのだが、結局は別の問題然としたままなのは今となっては物足りない感じもある。解決案も特にないけれど。

個人的には、TV の当時から昌馬と苹果の関係性に注目していたので、あの結末がよかったのか悪かったのかは判断しないけれど、物寂しさはあった。この映画でそれが何かしら希望に変わるのかしらと淡く期待したが、別にそういうこともなく。

しかし「僕は君を愛してる」と副題につけるには、やはりそこは大事であるはずだが、追加されたいつくかのシーンは、ちょっとおもしろくはあったが、最終的には「おにいちゃん」が繰り返されたことがよくわからず、やはりキメは海なんだなということで、いろいろな作品を思い出すことになった。TV シリーズであの海岸を想起させるようなカットがあったなら申し訳ない(記憶にない。

「きっと何者にもなれない」から変奏された新しいキメ台詞もそうだが、お兄ちゃんであることとか、諸々の何に何を説得させようとしているのか、いまいちピンと来ない。まぁ、誰でも YouTuber とかにはなれるか、誰でも。ブレイクするかはしらんけど。

愛してる、あるいは愛されていることの貴重さ、そこが TV 版から続く本作の実のテーマだと言われれば、あぁそうだったのかと気づく面もあるが、それと兄弟の自己犠牲の天秤が心残りになったままで-結局、その煮え切らない心境こそが本作の本懐に感じられてしまう。

昌馬から苹果に伝えらえた愛は、それはどの程度のどういう愛なのか、そんなことばかり考えてしまう。

ところで、桃果本人がプリンセス・オブ・ザ・クリスタルらしいことが明らかになるが、これはこれでどうなのか。TV シリーズでのふわっとした状態の方が都合がよさそうだが、それは避けたようだ。

図書館とその延長として描かれた空間がなんなのか。本作すらすべての物語の部分に過ぎないとして、であれば桃果すらメタ作品的な存在になるけれど、それはそれでどうなんだろうか。

なんか不満ばかり並べたみたいになってしまったね。

運命の至る場所とは

これ、今回あらためて気になったのだが、このセリフで連想するのは到達点のようなところか? 物語の終わるところというか?

というよりは、個人的には運命という場のようなものをイメージした。人びとはその内側でなにかしらを求める。その場を乗り移るのが、桃果の魔法なのかもしれないが、とにかく運命の至る場所というのは、目的地のようではなくて、生活世界で自らが影響を与え、影響される相互関係のような状態じゃないか。

裏を返せば、至る所に運命はある。

というちょっと哲学めいた話にしていくと楽しいけど、本編と絡めながらその考察を楽しく進めるのは、大変そうなので、ここまで。