《灼熱の魂》のデジタルリマスター版 リバイバル上映を観た。原題の “Incendies” はフランス語 “incendie”の複数形で、火災、あるいは感情の爆発、動乱、戦乱なんかを意味するらしい(ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典)。邦題、いいんじゃないでしょうか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴについては、《メッセージ》からの俄かファンな私だが、なるほどなというテーマだった。

本作も《メッセージ》も、あるいはブレードランナーの続編も、原作と呼ぶべき対象が存在するわけだが、よぅくこういう作品に巡り合えるというか、拾い上げられるものだ。それが努力であり才能なのだろう。テーマのみならず話術、プロットにも近いところを感じる。

物語の舞台もあらすじも知らずに鑑賞に臨んだ結果、姉弟の暮らしている地域がカナダであることも、母の故郷がレバノンであることも、終盤までわからなかった。世界史はちょっとだけ履修したが、現代史はほとんどノータッチなのよね。

あらすじ

ある日、突如として世を捨てたような状態になって入院、そのまま亡くなった母の遺言に従い、双子の姉弟の姉:ジャンヌは母の故郷に居ると思われる父、そして存在すら知らされていなかった兄のあとを、母の足跡とともに追う。

母がたどった過去の情景、それを巡る現代のジャンヌのシーンが微妙にオーバーラップして時間軸が入り乱れる。作品世界に誘い込む手法だろうが、個人的には混乱させられたなという印象が大きい。

若くして離別した息子(姉弟の兄)を失った女の執念、その皮肉な結果に向き合うことになる姉弟が辿りついた真実とは。

レバノンの内戦のような

上述の通り、世界史もとい現代史には疎い。中東戦争、レバノン、ヒズボラというキーワードは耳にした機会はあるが、レバノンで具体的に何が起きたのか。少しでも知る機会ということで、いつものようにインターネットで学んだ。明石書店のエリアスタディーズでも読むといいのだろうが。

レバノン内戦というと、大まかな括りは、アイン・ルンマーネ事件(1975年)に端を発するキリスト教系の宗派住民マロン派とパレスチナ難民勢力の武力的な暴発から始まったらしい。

既存の国内イスラム宗派、シリア、イスラエル、果てはイランまで巻き込んで争いは全土に及んだと。もちろん欧米諸国も絡んでいる。

物語だが、亡くなった母は現地の古くからの、おそらくクリスチャンの家筋で、一方で彼女の恋の相手は別系統の人物であったようだ。この男性は、物語は序盤の回想パートで登場も一瞬、台詞もないような状況で亡くなってしまう。素性がほとんどわからない。

また、つまり、彼は、姉弟の兄の父であるが、姉弟の父ではない。

その後、家から勘当され、ベイルートの大学に通っていた母が遭遇したのは、上述のアイン・ルンマーネ事件だろうか。これを契機に彼女は、南部の孤児院施設に預けられたという情報を頼りに息子を探す旅に出る。

果たして、孤児院はアラブ系の組織に攻撃され、息子は死亡したものと思われた。復讐心に駆られたまま彼女は、組織に参加し、ある政治政党の党首または幹部らしき人物を暗殺に成功する。

この政党がどの派閥だったのか、よくわからない。暗殺対象は右派だったとかのはずなので、キリスト教系の政党だったのかな。

さて、捕らえられた彼女は、南部のファタハ・ランドにある刑務所に収監され、 15 年を過ごす。このファタハ・ランドというのは、パレスチナ難民勢力に与えられた自治地域だ。

史実上、内戦自体は一応、1990 年をもって幕を閉じたという扱いにはなっているようで。作中の彼女はイスラム系勢力の実力者に匿われるカタチでカナダへと渡航し、第 2 または第 3 の人生を歩むことになったと。

プールがいろいろと

母がおかしくなったのは、市民プールのプールサイドであった。季節は晩夏だろうか。母の死後、姉の旅立つタイミングと思われるが、抜栓された水のないプールとその景色を前に佇む彼女が描かれている。

母が教えたからこそ姉弟は水泳を嗜むようだが、母自身についてもレバノン時代にはなかった趣味だろう。母の苛烈な過去に直面するたび、プールでそれに向き合う姉弟の描写は、わかりやすくも本作での象徴的なシーンだ。

レバノンでの 2 つ目のプールのシーンであったと思うが、光の反射の加減で、頭だけが妙に大きくみえる状態の姉弟が抱擁する。このアンバランスさと妙な美しさは、作品内でも随一に思う。

姉弟の出生について

ここからは物語の核心に触れる感じになるので、ネタバレ的な話になる。

序盤から明かされている父の不在について、物語の現代部分がざっくり 2000 年前後くらいとして、後知恵だけれども母のレバノン時代は大体が 70年代中盤からはじまり、 80 ~90年代となるはずだ。

鑑賞中に、次第にあきらかになる事実と時間の経過との関係に少しずつ違和感が大きくなっていったが、その原因がある 1 点に収束していった。いやはや。

当方はフランス語もわからなければ、アラブ系の言語もわからん。姉の名は “Jeanne” ジャンヌで、弟は “Simon” シモンかな。いずれもフランス読みとして間違いなかろうが、中東圏でも割と可換できる名前なのだろうか、或るシーンではそのように呼ばれていた。

このシーンも、またよかった。また、非常にどうでもいいことだが、双子の姉弟の関係性を決めたのは、フランス式なのか、レバノン式なのか。少し気になった。どうでもいいけど。

最後に。

ありきたりというか、ある意味ではアレな言い方だけど、結局、世界史の問題や複雑に絡み合うさまざまな経緯について学ぶにあたって、よほど記憶力やこの系統の学習に適性があれば別だが、このようなコンテンツに補助的にでも理解の一端を任せる、というのは大事だということを思い知らされる。

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