《シン・仮面ライダー》を観た。

メタ論になりがちな作品ではあって、つまるところウェル・メイドな映画ではなくて、こういう作品に向き合うべく心構えについて思ったことなどを書こうかとも思ったけど、このブログの本義に立ち戻っていつも通りにダラダラ書くことにする。

本当に賛否両論の反応を目にしてきたなか、庵野秀明の最新作はどんなもんかと、ハードルを下げて見に行ったつもりだった。《式日》も《キューティーハニー》も観ておらず、《シン・ゴジラ》からの実写勢ではある。

仮面ライダーの経験もほぼ無く、小さい頃に仮面ライダー名鑑で、アマゾンの設定とビジュアルが好きだったなという程度だ。平成ライダーはジオウが面白いと聞いて、バンダイチャンネルにわざわざ入会して半分くらいまで観た。たしかにめちゃくちゃ面白かったが、これも途中で終わった。長いのである。

特撮といえば 90 年代後半のメタルヒーローシリーズを幾シーズンかぐらいがメインで、レンジャーモノもそんなにハマっていない。

多くの反応をみるに、当たり前だが、往年の仮面ライダーファンの反応も一様ではなくて、温度差というか、受け取り方にギャップがあったように見える。もちろん、原作の石ノ森章太郎作品まで射程にしている人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうし、どの要素がどの方面に向けて表現されているのか、表現されていないのか、誰にどうやって刺さるのかは、わかりようもない。

終わってから押さえておきたい大まかな感触としては、庵野秀明らしさは充満していたけど、それが誰かの感じる面白さとも、誰かの感じるつまらなさとも、言うほど直結してはいないのではないか? とはなった。だので「庵野秀明好き勝手やってる」みたいな雑な感想はどうかなぁ。あいまいなオタク論も同様である。

見始めた最中、すでに指摘も目にしたけれど、出演もしている塚本晋也が監督の《斬、》(2018)っぽい映画だなと、まずは思った。主演が池松壮亮である点が第一に共通するが、ある武力をもった主人公がそれを行使するのを躊躇う、という点で共通しているし、その武力に伴って生み出される凄惨で残虐な状況も近いところがある。

で、庵野秀明と塚本晋也の関係の具体的な事情などは知る由もないけど、言うまでもなく意識しているだろうし、そこにリスペクトがあるわけでしょ、という次第なので、機会があったら見たらいいんじゃないか。おもしろい作品です。

次いで、ボスラッシュのような演出がユニークだった。ハッキリとシーンをそれっぽく繋ぐことをしない。画面に映る情報を特に補足もしない。個人的には直近では《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》が連想され、つまりアニメ的な演出なのか? と安易に考えそうになったが、特撮作品にありがちな場面転換のような気もした。古い作品にありがちといってもいいのかもしれない。

一方で同時に、2人目のオーグとの対決あたりで「退屈な作品か?」という印象が過ったのも事実で、なんやかんで文脈が隠されているということに辟易ともなる。別に文脈を知っていなくてもいいことは結果的には確かだし、気づく必要もないのだが、このノリが続くとツラいなとなったことも言っておく。

ちなみにだが、実はそれって最近の映画界隈でもてはやされる作品と相似する部分があるのではないか。ややレイヤーは異なるが、アカデミー作品賞の作品だってやれ人種だ、ビビットなテーマだ、社会問題だというのが決め手になっているという。あるいは人気の映画シリーズは、本作同様に、或るシリーズの系であること自体が文脈そのものであり、そこで鑑賞者を篩にかける、あるいは高揚させる事実は見逃せない。

なんだかねぇ。

で、そんな感覚とはお構いなしに、銃撃戦で斃れるオーグもいれば、目的は達したいけど言うほど戦いたくないというオーグも出てくる。このへんの塩梅はさすがで、そもそもがデタラメなテーマではあるわけだが、彼らが、それぞれの目的に沿った戦略を謀って、かつ、それぞれにそれなりに味がある。こういった落としどころの作り方の巧さは比類ない気がするというか、磨かれた技という感じがある。

こういう工夫なり技術をオリジナリティといっていいなら、私は最大の賛辞を贈りたいわけよ。

さて、政府機関がさそりオーグを倒すという展開がいわゆる幕間であり、ある種の伏線でもあったが、鑑賞者側もいろいろと分岐点なんじゃないですかね。まぁしょうもない映画ではあるんだ。最終的には家族愛みたいなところがテーマのひとつみたいになるし、みんな泡になって消えてゆくし、このへんで見てる側の切り替えもうまくいかないと置いていかれそうだ。

何かと忙しいし、よい映画っぽい文法からは外れてるでしょ、これ。それで飽きれるひともいるし、怒り出すひともいるという始末よね。

さて、この映画、まともな台詞を持った人間が人間として登場するのは、最初の緑川博士、政府機関の2名、それだけなのよね。ルリ子が唯一、彼女こそもデザインされて生まれた人造人間ではあるので象徴的には人間側の人間ではなく、だが、1号の悩みとは別に、等身大の人間としての心情を抱き、吐露したのが実は彼女だけというのは、また業が深い設定である。薄暗い。

また、結果的に、1 号が抱いた武力にまつわる問題はこのへんで事実上の決着はついていて、ライダー同士の戦いも含め、ほぼ同じ力を持つ者同士の潰しあいに過ぎないことになる。そりゃ泥仕合にもなるってもんで、そのへんの妙なリアリティってもんが伝わらないひとには伝わらない。それが最終的には、そのへんのしょうもない喧嘩っぽいバウトに着地するのだ。こんなもんは見たくないと言われれば、それまでだが。

また、しかし、である。

この映画の感想を交換した知人が、ライダー1号、2号同士の戦いだけが異様の派手さで描かれて、やや不満と言っていた。なるほど味がある指摘で、最後の0号との戦闘はむしろ上述の理由を含めて画面上は割と穏やかで、0号の戦法(というか武術?)がそれを許しているというこじつけもよく考えられているのだが、1号×2号の戦闘だけはチープさを確保しながらも、本作で別格の超人対決であった。

はじめて本気を出した 1 号と彼を上回る性能の2号との戦いである。ここは派手でなくてはならない。そういうことなんでしょう。メリハリといえばそれまで。また、これも個人の感想に過ぎないが、ここで滅茶苦茶頑張りましたみたいな VFX なり CG なりの演出をしても、大しておもしろい画面にはならないってことなんでしょうね。

最終決戦である。究極のオーグ、蝶(超)オーグである緑川息子も普段はほとんど人間然としているのもユニークで、やはり前提を忘れそうになるが、こいつら人間じゃないからね、ほんとは。森山未來の独特の身体の使い方が画面に与える違和感もそこそこに、あくまで人間側である1号:池松壮亮、孤独をモットーとし、飄々としたとしたキャラクターを維持し続ける2号:柄本佑らとの対比も際立ってくる。

あくまで娯楽作品として、登場するそれぞれのキャラクターの考えや苦悩は、あんまりどれかにフォーカスされたり、特別に強い演出などがなされることなく(そのように見えた)、だが、なんとなく解決されていく。こうもりオーグとK.Kオーグはドンマイだけど、いうてオーグの面々にも苦しみはあったんやなって……。

良い意味で、これは特別な作品じゃないんだなっていうのがあった。

その他のことなど

光学作画とは

クレジットに「光学作画」として、庵野秀明がクレジットされており、こりゃなんだとなったが、ウルトラマン系の円谷作品で光線などの特殊な画面の処理をほどこす役職らしい。

ほとんど、 飯塚定雄氏の仕事ということのようだけれど、VFX や CG が本格的に採用される前の日本映画、特撮映画の加工技術の粋ということなんだろうか。Wikipedia をソースとすると、《シン・ゴジラ》にはこの役職はクレジットされておらず、《シン・ウルトラマン》には飯塚定雄氏がクレジットされており、本作ではこれを庵野秀明が務めたということになる。いろいろと事情があるんだろう。

具体的にはどのへんのシーンのどういう映像加工なのか知りたいもんだが。

轍がないんだよなぁ

これも散々指摘されているが、監督の作風として撮りたい画面が大前提で、そのほかのことは置き去りにさりがちだという。まぁよくわからん指摘とも言えそうなんだけど、矛盾みたいに見えてしまうなら仕方がない。私は別に悪いとも思ってはいない。

今回は、海岸の砂浜で本郷と政府の 2 人が語っているシーンがまず目に留まった。バイクが傍らにあって、ルリ子亡き後の作戦の行く末を語っている彼らだが、ギリギリ彼らの足跡がカメラに映らなかったとして、それは認めよう。

だけど、さすがにバイクがここまで来た痕跡がまったく目に入らないのは可笑しいでしょ笑。風が強かったとしても、まるっきり痕跡がなくなるまで会話を始めないワケもなく。これ、絶対にそういう画作りをしていると思うのだが、そういうリアリティは画面に邪魔っていう配慮なんだろうな。仮に最新のバットマン映画で似たようなシーンを撮るとしたら、向こうの監督はそうするんだろうな、とか。楽しいね。

お前ら、どこに向かうんだよ

政府の2人がちょっとギャグ要員みたいに振る舞う味付けは、されているように思う。で、そのなかでも別にお笑い側ではないのだが目に留まったのは、あるシーンでの彼らの去り際だ。ここも画作りが優先されているなと。

具体的には蝶オーグによってヤラれた政府機関のエージェントの死体袋の列を彼らが去る描写で、広い航空機用の倉庫のようなロケーションだが、彼らが画面外に行くとき、滝は左手前方向へ、立花は右手前方向に、別々に袋のあいだを縫っていく。いやいやいや、さすがに同じ出口に向かうだろうに、なんでそれぞれ別方向になるんだというね笑。

でも、画はかっこいいんだよなぁ。

はい、おもしろかったです

ということで、目に留まるいくつかの不満の原因はわからなくもないが、《シン・ゴジラ》と比して、どっちもおもしろいというくらいには面白かった。なんとなく《シン・ウルトラマン》は彼が直接は指揮しなかったらしい理由もなんとなくはわかった気がする。これくらい作風の振れ幅が必要だったんじゃないかな。

また、よくある批判についてひとつだけ気になるのは、「「古さ」や「チープさ」を良さとするな」みたいな意見があるんだけど、これがわかんなくて、それが決定的に作品を面白くしていない(とみんなが思うからその意見になるんだろうけど)限りは選択された手法なわけじゃん。

昨今ならあえてモノクロで撮影された映画がシネコンレベルでも 1 つや 2 つは毎年上映されている気がするけど、あれ、なんでモノクロで撮ってんの? って話にはならんのかね。そこを論点に批判的に扱う文章もどこかにはあるんだろうし、ちゃんと分解すれば理解できる批判にもなるんだろうけど、どうも感覚レベルで出てくるその辺のネガティブイメージがよくわからん。映像のインパクトってそれだけ強烈ということの証左でもあるんだろうけどね。

まぁ、究極、最終的には感覚が大事なので、まぁ、ダメって言われるものはダメという総論にはなるんだろう。

最後に、あんまり本作にまつわる文章はまだ読んでない。おもしろい文章をネットで見つけたら、順次追加していきたい。

以下の記事、全体的に言いたいことを言ってくれている感じがある。

以下の記事、90年代なりの宗教観なりその問題性がベースになるという指摘は他に目にしてないので、参考になる。指摘も概ね的を射てそう。浜辺美波がキレイに撮られてないというのもまったく同意で、意図こそ想像できるが、そこはなんとかしろよとは思った。人造とはいえ、人間は不完全なのが其れだから、なんですかね。

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2023年の年頭に《エージェント・マロリー》を観た。

ボーンシリーズをまとめて見た影響のようで、Netflix に薦められるままに鑑賞した。2011 年の映画らしい。某映画 SNS での点数は低めなんだけど、この映画よくないですかね。90 分とコンパクトなのも好きだね。

評価の低い理由としては、話がよくわからん、オチが特にない、という当たりだろう。さもありなん。まずは映画の冒頭、雪中のドライブインに辿り着いた主人公:マロリーは早速、待ち合わせ相手のような男と喧嘩を起こして、市民を誘拐して逃亡劇が始まる。

と思いきや、回想に入る。

おそらく全体の半分以上はこの回想が中心に進み、残りは冒頭の時間軸での決着編となるんだが、この構成は必要だったか? となる。ちょっとしたフックを入れたかったっぽいんだけど、この語り口を選んだことのメリットがあまりよくわからない。

また、ありがちな設定として、所属組織に裏切られたようでいて、裏返すと元請けとの三すくみの関係のなかで、誰がどう裏切ったのか、明確ではない結末もウケていないようだ。これも、あえてこうなっているので仕方ない。

クライアントが利用してエージェント会社、その実働部隊(マロリー)が荷物になりかけたので、適当に理由をつけて処分しようとしたら失敗した。悪いのは誰? って、負けたやつ(エージェント会社)にすべて擦り付けるだけの話なのだ。

で、一見地味だけどなんかリアリティのあるアクションがいいなと思って眺めていたが、マロリー役のジーナ・カラーノという女性、ムエタイ出身の総合格闘家らしく、なんならワイルドスピードシリーズや、『デッドプール』にも出演してるって。後者は見たことあるけど、さすがにわからんかった。

というわけで、硬めのアクションがよい映画です。追ってきた追跡者と警官? を続けざまに相手してのしてしまうシーンが印象深い。

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今年からノート、手帳はシステム手帳フォームにしてみた。昔もどこかのメーカーの新規格のリフィル系ノートを採用して挫折したことあるけれど、年末年始になんのキッカケだったか、ASHFORD のデザインリフィルパッドよくね? と発見して、悩んでいた。触ってみたいとなったのだった。

システム手帳、何が嫌ってリングが邪魔なんだよね。身も蓋もないけど、それが小さい頃から苦手で使うのを避けていた。ダヴィンチとか憧れはあったけども。更には、リフィルをカスタマイズするのが面倒くさくて、楽しさである反面、それなら出来合いの手帳でええやんとなっていたのだった。

で、デザインリフィルパッドだが、プラ製のリングかつシンプルで悪くなさそうじゃんとなった。あんまり邪魔にならないように配慮されている。ということで、スケジュール系のリフィルだとか、メモ用のリフィルだとか最小限度を見繕って、ひさびさに文具文具な時間を過ごした。

で、届いて使い始めたのはいいんだけど、ペラい。それが売りなんだけど、ペラい。雑に持ち運ぶには心許ないケースが私の場合は割とあって―もともとがガサツなので、それなりに文具ラバーで丁寧な使い方をしないといけない、これは難しいと心が折れた。

というわけで、困っていた。

最短の解法 1 は、カバーを替えることだろう。しかし、かつてはダヴィンチに憧れた身であったし、革製品はなんどとなく使ってきてはいるが、なんとなく革のシステム手帳カバーを使うことに戸惑いが生じるお年頃になっていたのである。あと、重いし、高い。

して、解法 2 はケースに収納するという提案がされる。使う際の手間は増えるが、同封できる武具(クリップなり、補充用フィルなり)が増えるというメリットもあるので一長一短である。問題は、どのケースを使うか。

なるべくシンプルで軽いケースを探すが、それなら手帳カバーを替えればええやんという話になりかねず、ASHFORD 謹製のデザインリフィルパッド用ケースもバリエーションで販売されているが、どうにも触手が動かず。

無印良品の文具ケースが割といい、という情報を得れば現地で触ってみたが、こんなんすぐに使わなくなるやんという見通しがたったので断念し、途方に暮れていた。デニムのブックカバーのようなのがあればいいなとイメージはあった。

暫くあきらめ気味で、思い出したようにググってはを繰り返していたら、ファイロファックス (Filofax)というメーカーのクリップブック(clipbook)なる製品の情報が入ってきた。一見するとおしゃれさが勝る。解法 1 の解決案だ。セールスポイントはいくつかあるようだ。

  • 軽い(販売店の商品案内には「合皮」とあるがファブリック感のある素材)
  • パタンと開ける(背が柔らかく大きい。おそらく最大の工夫点)
  • リフィルが割と多めに格納できる(上記の工夫で生じる利点2だろう)
  • ペンをホールドできる(上記で生まれる空間がちょうどホルダーになる利点3)

で、手元で使ってみることにした。

個人的には軽さとペンのホールドの便利さがほぼ目的通りで、これで元を取ったような気分でいる。パタンと開ける機能は便利ではあるが、そこまでパタンという感じではないし、ユースケース的に自分にはあまり当てはまりそうにない。

デザインリフィルパッドからの変更点として気をつけたいのは、リングの金属がむき出しなので、PC とかそういった製品と一緒に扱うときに傷つける危険があるということで、実はこれが割と危惧している最大の懸念ごとだ。

リングの邪魔さ加減は、そんなでもないというか。幼き頃、若き頃あれだけ気になっていたのを無視できるようになった。ペンの使い方なのか、手の使い方なのか、鈍感になっただけなのかわからん。ちょっと寂しい。

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2023年の年頭に《怒り》を観た。公開当時、それなりに話題になっていたように思うが、見ていなかった。ちょいとあとだが、同じ時期の《愚行録》は劇場で鑑賞して、こっちは面白かった割に話題になっていないかったので、なにかと不公平だと勝手に感じていた。何者かに一家が惨殺されるという事件がキッカケになっている部分が地味に重なっているのだよ。

で、《怒り》だが、映画としてのまとめ方が非常に巧い。3か所でそれぞれ進行するストーリーが、逃亡した殺人犯との関連性という 1 点のみで緊張感が保たれるわけで、これ下手な演出だったら B 級っぽくなるだろうし、あるいは意味がわからなくなりそう。3 つのそれぞれの話に意味があって、それがいずれも過不足ない。あくまで映画の中の話ではあるが、嘘くささも強くない。

画面も飽きない美しさが続くし、なんだこれ天才か。

で、一方のストーリーは、ぶっちゃけよくわからん。彼が「怒り」と記したそれは彼にとっての正義だった、程度の話なんだろうけど、それにしちゃその狂気は、役者の演技は与えられた範囲のなかでは十分ではあったろうが、なんか満足できない。それくらいのバランスを狙ったのかとも思うが、原作から乖離しているわけでもないようなので、原作のパワーがここまでだったのかな。

または、事件はストーリーのキッカケで、いろんな怒りの描写のひとつに過ぎず、作者がこれと思った「怒り」の事象を群像劇的に描いたのが本作なのかもしれない。

さまざまな怒り

なんか怒り

他人を見下すことでしか自分を保てない本性は普段は形を潜めていて、なんか都合のよいシーンでそれが爆発するということなんかね。あるいは自分の無力さを無意識では気づいていて、それをうまく解消できない?

まっとうな怒り

事件、悲惨である。彼女の怒りと彼の怒りは、どう解決のしようもない。ていうか、母が気づかないはずはないと思うんだが、その辺は、汚いようでいてキレイに胡麻化され、隠されている。

あとこの出来事は、社会的な問題でもあるので、他人事とは言えない。以前よりはこのケースは減っているようではあるが。

分かり合えない怒り

この 2 人の関係は、まったく美しく、墓前の 2 人のシーンはまったくよかった。何かの記事でたまたま読んだが、わざわざホテルで同棲してまで役作りしたらしい。この映画をみて良かったなってところだ。やっぱ、妻夫木よ。

冒頭、割とこの 2 人の関係が強めの印象になるので面食らった。これも苛立ちの部類と思うが、反転して怒りになっちゃう人はいるんだろうか。詳らかには書かないが。

信じられない弱さへの怒り

キャスト上、主演は渡辺謙ということになっているらしいが、この関係の話がもっともフラットで、印象が薄いということも無いが、特別感もない。それが悪いわけでもない。ただ、彼を責めるわけではないが、あまりにもナイーブすぎるよな、冷静になると。まぁ、反社は怖いから仕方ないな。

しかし、ひさびさに宮崎あおいをみたけど、やっぱり替えの利きづらい俳優だな、彼女は。

と、テキトーに書き散らしたけど、原作を読んでみないことには本作の勘所はわからないだろうかねぇ。読むことも無さそうだけど。

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2023年の年頭に《ジャック・リーチャー NEVER GO BACK》を観た。終わってから《アウトロー》の続編であり、原作小説を持つシリーズだと知ったが、2つの作品に関連性はほぼないようで、別の作品として鑑賞できる。今作のトム・クルーズの役は圧倒的に強い印象がある。

2 作だが、どっちもどっちかな。《アウトロー》をあんまり覚えていないけど、こちらのほうがまとまりはあったような。「NEVER GO BACK」は、ラストの密輸の実態が明かされるあたりから完全に蛇足感が出てしまっており、最後の格闘もなんのためにやってるのかわからん状態になっていたのが少し残念だったね。

ジャック・リーチャーの日本語 Wikipedia 、ジャックリーチャーの能力や彼のモットーがリストで記述されている。英語版を眺めると、同じような記載はなさそうなので、日本語の熱心な編集者がわざわざ書いたのか、どこからかの転記何だろうかと思うが、なんとなくライトノベル染みている印象がある。

言うて、原作がそういうテイストなのだろうなとも感じた。というくらいで、時間を潰すには流石のトム・クルーズだが、それ以上でも以下でもないか。

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2023年の年始に《ナイブズ・アウト:グラス・オニオン》を観た。Netflix で配信された新作ということでシリーズ2作目だ。先だって、1作目も見た

新型コロナが蔓延するなかでの出来事というエッセンスを、孤島の事件というインシデントに絡めているが、どうだろう。一応、劇中で登場するアイテムの存在には、この設定が寄与してはいるが。あるいは、数年後にみたときに、時代性を浮かび上がらせることはできるだろうから、それが狙いなのかな。

いろいろと魅力的な秘密に溢れた作品と思うが、自力でそれらを解き明かす手間をかけるほどでもない。もとから精通していれば、どう切り取っても楽しめる作品でもあるのだろう。一応、へぇーってなったブログ記事へのリンクは最後に張っておく。

舞台となる孤島、007 かなにかアクション映画で使われたのと同じロケーションな気がするが、巨大なグラスオニオンとか諸々の設備とか、どこまでリアルで、どこからがセットで、あるいは CG なりによる映像処理なのか、全然わかりませんね。

事件の謎と展開は前作よりも伏せられた情報が多いように見え、どういうことなのかを考える時間は増えた。一方で、そもそも何が起きているのかは前作よりもわかりづらい気はする。

たとえば、人間関係だが、アントレプレナーからのスケールアップとか、インフルエンサーの文化とか、エネルギー問題がどうとか、それぞれの文化なり構造なりを把握できてないと、そもそも何が争いの原因で、登場人物がどういう人間で、何が滑稽なのか、わかりづらそう。まぁそういうターゲット向けというわけだ。

お笑いポイントも多いと思うのだが、それだけ自分の気づいていないポイントも多いと思われ、そこは悲しい。個人的には、血液に見立てた激辛ソースが……、という直截なギャグに笑ったけれど、オチ部分が省かれていたのがスマートですね。

というわけで今作は前作に引き続き「探偵もの」ではあるんだけど、風刺や不条理な笑い部分の扱いのほうがトピックなんじゃないですかね。

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2022年末に《東京物語》(1953)を観た。

実はこの作品、スコセッシおすすめ外国映画選マラソンのラインナップでもあり、なんやかんや 2020 年からスタートしてダラダラと 4 年目に入るマラソンだが、この映画でストップして暫く経っていた。

あらすじを知っていただけに視聴パワーが追い付いてこず、珍しくも人と観ることで乗り切った。ちなみに小津監督作品は《秋刀魚の味》を見たことはある。

小津安二郎は、この映画で「高度経済成長の日本社会で変容する家庭を描きたかった」ということらしい。別に出典とかは知りませんが、まぁそういうことなんでしょう。東京のロケ地は皇居脇を走るバスだったり、おそらくは荒川河川敷あたりの工場群と煙突が映されていたり、つまるところ生活圏としては上野周辺なのかなと予測するが、下記のサイトの情報によると、足立区が中心らしい。

ちょっと意表を突かれたのは大阪で働く三男坊がいるという設定で、老夫婦は 3 男 2 女を儲けたということだった。次男は大阪で働いていたのね。小津安二郎というと、独特の構図というかショットが特徴らしいが、今作では大阪の三男の部屋の構図が 1 番に印象的だった。尾道の実家の通り沿いの窓のレイアウトとかどうなってんの? とか、実家を出てすぐの陰のある通りのカットとかも好きだけども。

しかして、冒頭とクライマックスにちょっとだけしか出演しない次女の京子の存在こそが、どちらかというとネガティブに、変わっていく中で変わらない存在であった。

教員という職こそあれ、老いた両親とともに田舎で暮らし、彼らの老後を見つめている彼女の存在は、東京だか大阪だか、高度成長だかしらないが、たしかに彼女の生活は実家のそこにあって、ともすれば兄姉らには忘れられている。それでいいのか?

さらには、クライマックスでの周吉と紀子とのやりとり、また紀子と京子のやりとりも展開、ここに極まれりというか、戦争未亡人の紀子がどのように生きていくのか、彼女の視点からみた京子の存在はどう映るのか。気になるところばかりだね。

また、しかし、とみが「一度は必ず尾道にいらしてね」と紀子に、東京滞在で最高の体験となった紀子の部屋での思い出を残しつつ、それが奇しくも実現するという悲しい結果も何とも言えない味わいがあった。東京で結婚し、夫が生きてさえいれば何度となく尾道を訪れることがあったのかなという紀子なので、なおさら。

気になったことなど

東京駅での待ち合わせがおもしろい。携帯電話もない時代だから合流も大変だろうなという定番の予想が外れた。長距離移動する深夜列車なんて、東京駅の特定の時間のプラットフォームしかないわけで、別に誰も迷わないのである。そこにいけばおのずと皆が集まる。

とみと長男の下の子が土手で遊んでいるのを遠くから映したカットもよかった。ざっと眺めていると、ロケ地も大体は同定されているようだが、なんか聖地巡礼でもないけど、風景の味わいを少しでも体験したくもなる。

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2023年の年始、《ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密》を観た。

Netflix で 2 作目が配信されたということで、じゃあ 1 作目を、という流れだ。言わずとしれた現時点で最新、そして完結した 007 シリーズの主役であるところのダニエル・クレイグが探偵役をするミステリー作品である。

お話はシンプルだ。ミステリー小説の大家である祖父をはじめとした4世帯?くらいの一家と、祖父の看護師がいる。ある晩のパーティー後に祖父が執筆室で亡くなっていた。犯人は誰か?

この手の、事件の真相は半分が明かされた状態で進行するパターンを「倒叙ミステリー」と呼ぶらしい。刑事コロンボや古畑任三郎タイプの作風、あるいはその亜流というかバリエーションかな。

そんなもんだから、次第に判明していく残りの真相も割と想像しやすい。何より消去法で「コイツしかいない」が本作では割と簡単に起きる。これはちょっと勿体ない感じだ。

また、このタイプの場合の探偵は飄々というか、劇中での彼の行動にはあまりフォーカスされない。どちらかというと犯人とされる主人公の行動に主眼が置かれる。そして探偵は、いつのまにか事件の真相にほとんど近づいている。

面白くなくはないのだが、作品そのものの話にならないな……。

舞台は北米、マサチューセッツ州ということらしいが、撮り方の工夫か、そういう土地柄を選んだのか、私が無知なだけか、アメリカっぽい雰囲気を画面からはあんまり感じない。

無念だけど、とりあえずはここまで。探偵もので面白い映画ってどういうのがあるっけなという振り返りにはなった。

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《映画ドラえもん のび太と空の理想郷》を観た。

メモです。ほやほやの映画ですが、ネタバレは含みます。

劇場のドラえもん鑑賞勢に復帰してから 5 作目かな? 「宝島」や「新恐竜」よりは総合的にまとまっているように見えたが、作品として嘘のつき方の巧拙やスケール感などからは「月面探査記」ほどではないなという印象に留まった。但し、スケール感については、巧みさを感じた面もある。

野暮な感想としては、まずそんな感じだ。

OP の映像をみていると「お? 宮崎駿に挑戦か?」みたいな気もしたけど、まぁ勘違いだった。のび太たちの操る飛空艇っぽい乗機と飛行船型のタイムマシンの他は、それらしい航空機は出てこず、雰囲気詐欺ではないけれど、当初のイメージからは肩透かしを食らった。本筋に絡まなくても、少しでも掘り下げてくれれば、印象も変わった気もするが。

監督の堂山卓見、見知ってる作品へのクレジットが多い。ドラえもんには 2017-2020 の期間に参加していたらしい。長編映画は初監督ということだった。

キャラクターデザイン、小林麻衣子は、Wikipedia の記述に従えば、シンエイ動画の動画から原画までいろいろやって今回はキャラクターデザインとしてはじめてクレジットされている。

ついては、素人目にみた感覚で甚だ的外れだと申し訳ないのだが、今作、ところどころ最新のドラ作品、というか本作の本道のデザイン? から外れたような描画の個所があった? ように見えた。

特に目に留まったのが、のび太のママで、特にパパと夕飯を食べているシーンの 2 人、およびパラダピアの真相が明かされるのび太とドラえもんの起立しているような箇所など、タッチというか頭身の感覚というか、「いやこれ旧ドラっぽくない? 下手したら原作後期テイスト強め?」という。狙ってるなら恐れ入るが、なんだったんだろう。気のせいではないとは思うのだが。

脚本の古沢良太、今作によって名前を覚えるに至るだろうけど、ヒットドラマめちゃくちゃある人なんですね。2015年の《GAMBA ガンバと仲間たち》でも脚本されたらしいけど、今回はどうやって口説いたんやろか。というか、こういうアレでいいんか、ドラえもん映画は? もっと攻める人選も難しいのだろうか?

というわけで、ポジティブな感想というよりは目に留まった気になった点が中心になってしまうが、いくつかトピック別にダラダラと。

ユートピアとその描写とか

トマス・モアの『ユートピア』がキーになって話は進むが、出木杉君はこれを「小説」と言っていなかったか? これは割と疑問で、そういう理解は一般的ではなさそうな。「作り話だよ」とでもしてくれればよかったのに。そのほうが出木杉っぽい。

また、「パラダピア」とは、「パラダイス」と「ユートピア」の合成語だと直ぐにわかるけど、「パラダイス」単体ではひと言も作中では出てこないと思われ、この単語を知らない子供がいれば「なんかよくわからん」となりかねないのでは。子供に丁寧なのか、そうでもないのか、アンバランスではないか。

架空の政体なりコミュニティなり国家なりを設定するにあたって、クライマックスにおけるその存続への配慮って難しいよね。これは大長編時代からの論点にもなりうるだろうが、鑑賞者ですら全体を見渡せると実感してしまうサイズ感の場合、その人たちのことが気になっちゃう。今作はそこはそれなりに対処していたが、これはこれで不要な要素ではあるんだよな。こっちの我儘みたいになっちゃうけど。

のび太の変な葛藤は続く

「新恐竜」などでもあったが、のび太の情緒というか考えがよくわからん。

今回は「パーフェクト小学生」になるという希望と、パラダピアの矛盾、うすうす気づいているのび太だけれど、直面すると意思表示が反転する。隠された事実に気づきたくない、そういう葛藤、この時点でのび太が抱くのか?

違和感や疑念を確信したくないって、対象を妄信しているケースということだけど、のび太はそこには至ってなくない? というか、そもそも……。こういうリアクションの変化、子供向け作品として、必ず用意するように頼まれでもしてるのかね。

また、原作からすれば、のび太も根本的に抜け目なく、(ズル)賢い面もあるが、最近の作品ではおそらく、より少なく、より子供らしくなっている。結果としてといっていいのか、それが展開や感情のジャンプアップ台として体よく、そしてややバランスを欠きながら使われている感が強い。

また、やや逸れるが本作、「ユートピア」思想そのものが、生活者などの思想を統制したり、コントロールしたりして社会を構築する悪しき思想みたいなイメージを植えつけかねない出来になっている気もする。どうですかね。

その人らしさ、お手伝いロボットらしさ

道なりの展開には疑問は無くて、みんながおんなじ感じになってしまうくらいなら、そのままであってよいって、当たり前だ。クライマックスの展開についていえば、ドラえもん以外のすべてのメインキャラクターが自我を失うという状況は割と目新しい気がしてワクワクした。何かの作品であったかな?

また、のび太が特殊個体というのは百歩譲って「なるほどな」となるにしても、その彼の説得で皆が復活するのも不思議ではある。が、これも半世紀くらいの友情パワーがあるからな。認めよう。おもしろかった。

ネコ型ロボットを絡めたあたりの展開や結末にも文句は無くて、このテーマも擦りつづけて已に焼け焦げた感はあるけれど、ドラマチックな演出にブレは感じず、これも好きでした。あわやドラえもんが、という危機の回収、うまくて面白くはあるけれど、おーん、そこまでインパクトは無かったな。

故郷を守る

今風だなと思った。パラダピアのスケール感の小ささに比して、この計画がのび太たちの故郷をターゲットしたというのは一般的にはベタだろうが、ドラえもんの新作としては上手くて、そういえばな、という。むしろ敵の目論見を1回成功させてしまうような展開もおもしろそうだけど。

街を守るという描写は端的でしかなかったが、それなりに鬼気が迫った面もあって、身近さが強まったかなというのは面白い。特に、川べりの草野球の背後に断片が落下してくるシーンは、戦争や地震のニュースがより頻繁な昨今にしてかなりインパクトがある。

あるいは、いろんな映画が思い浮かぶので、そういう関連でひとつ文章化するなら、この映画はこの舞台の選定が大きなキモなんじゃないかな。なお、故郷が直接被害に遭うという面では、やや見せ方は異なるが、ドラえもんだと「雲の王国」なんかは近いだろうか。「パラレル西遊記」でもいいけど。

気になったシーンとか

アクションシーンはどうか

力が入ってるシーンだと感じたのは、マリンバが暴れるところの前半で、よく動いていた。逆に、言うてそれくらいだったのかなともなる。本作にアクションは求めてないけど、この映画、振り返ってみるとアクションに限らず、動きの激しいシーンってあんまりない気もする。

ソーニャから逃げるシーンもそこそこ単調だし、故郷が舞台となるクライマックスのシーンも舞台設定こそ緊張感に貢献しているけれど、画面を取り出すと、特にハラハラさせられたというわけでもなく。

ポリ袋がポップコーンみたいになっていたのは笑えたけれど……。

パラダピアのバリア変形機構がすごい

パラダピア内部の構造体は割とありがちな古き良き SF のアーキテクチャ感が強かったが、強力なバリアを起動、構築してなんか変な風になるときの動きがすごかった。めっちゃ力が入っていた。スタッフのどういう意図やイメージがあの描写を作り出しのか、気になりますね。なんなら本作で 1 番おもしろい箇所だったかもしれない。

変わらなくていいワケはないけど

よくわかんないんだけど、のび太は今のままでいいのか?

少なくともそうではない、とは思うけれど、じゃぁパラダピアの目指すところと、のび太の目指したところの齟齬や埋め合わせってどこなんだろうと。それは誰にも当たり前なのか? のび太が何のためにユートピアを目指したのか、パーフェクト小学生になるには何が必要だったのか?

やっぱり、これがよくわからん。次作も楽しみです。

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2022年の末に《楢山節考》(1983)を観たのであった。

今村昌平の作品の初鑑賞と、さきほど亡くなったあき竹城がこの作品から芸能界をステップアップしたということで興味を大きくなったのが切欠だ。

というか、《戦場のメリークリスマス》を観たときに、実は本作こそがカンヌで受賞したというエピソードを目にしていたが、そのときはまだ気にしていなかった。今になると、ざっくり言って、本作のほうが日本の映画らしさはあるので、そのへんが買われたんだろうな。

いわゆる姥捨て山にまつわる話だということは理解していたつもりだったが、別に爺も捨てるのに、なんで姥捨て山なのかなとも思うが、おそらくは古くから特に生き残りやすいのは圧倒的に女性なんだろうなと、どうでもいい想像を巡らす。

姥捨てというか、人口調整というか、口減らしというか、間引きというか、直近だと『まほり』なんかも同じような題材ではあった。ちゃんとした資料が残っていることがほとんどないらしい、という点も似ている。

そういえば、2022年の《PLAN75》という映画が似たような題材だということで、その主演は倍賞千恵子だが、今作にはその姉の倍賞美津子が出演しているのだよな。

ついでにメモしておくと、なんか成田祐輔という経済学者が「高齢者の自決」を促すような発言をしたとかで怒られていた。しかし、まぁよくわからんな。

ここはどこの山奥じゃ

作品は、辺鄙な田舎の山奥の農村での習わしを扱っており、それなりに重たい。それでも暗くなりきらないバランスは、主人公の弟(彼らは彼らで悲惨なわけだが)の能天気さやエネルギー、あるいは主人公の息子の能天気さがある程度まで勝っているからだろう。

よく調べていないが、時代背景としては江戸の終わりから明治初期を扱っているハズという情報は見た。なるほどと思うが、どうなんだろう。撮影自体は長野の廃村を使ったらしい。部分部分は「妙に立派な家屋(設備)じゃね?」というようなオブジェクトが目に入ったので、なるほど。

印象的なのは、冬は冬眠中の蛇がネズミの餌になっているが、平時はもちろん蛇のほうが強く、時とともに立場が逆転する図が示されていたことで、蝉やらなにやら人間やら、春から夏にかけては勢力が盛んになり、生を謳歌する。動物や虫の描写は、ムルナウの《吸血鬼ノスフェラトゥ》なんかを連想しますな。最近だと《NOPE》でもあったけど。

地元の神様の祭壇みたいなのはあるが、仏教的な様子も無くて、これも面白いが、そもそも楢山信仰みたいなのがあるらしいという設定なので、本当に山奥の田舎って感じなんだろうな、とか。

主人公の弟、また村の各家系の次男坊らは基本的には家を継げず、子を成せず、独立ということも無さそうな状況らしく、彼ら自身は労働力ではあるけれど、ごくつぶしな面もあるという事実も重たい。

現在ではあまり意識されることはない気はするが、田舎の次男坊というのはそれだけ立場が弱いということは、少し前までは当たり前のことであったと思う。

というか、あれだ、タイムリーなネタとしては英王室のハリー王子なんていうのは、正しく歴史的な次男としての立場の究極系なんだろうな。話が逸れるようだけれど。

好きなシーンとか

やはりどうしても母を背にして楢山さまの奥深くまで入っていく箇所が強い。

握り飯のやりとりは渋く好くて、息子は母に最後の食事をまっとうしてほしいし、母は自分の最後に作った食事を息子に食べてほしいと願うでしょう。そりゃあさぁ。

わらべ歌の通りに雪が降ったという描写も、それを喜んで母に伝えに行くという息子の素朴さがよい。てか、メッチャ往復が長くなったろ。足もケガしてるのに大変だ。

解釈が分かれるのかな? という箇所、もっとも面白いなと思うのは、途中で母が姿を消すシーンであった。

あれは幻影だったのか、幻覚だったのか、息子が休憩中に母もちょっと用を足していたとかなのか、不思議である。なんならあそこで完結かとすら思った。これ、原作に同じ展開はあるのかね? つまるところ、息子の戸惑いを強調する役目のシーンなんだろうけれど、よく表現した。

最初に「口減らし」と書いたが、死にゆく老人、親ら親族らのその姿を間近で世話したり、観察したりという実務的な手間、あるいは感傷的な状況を避けるという目的もあるのかなとは思った。足を引っ張る爺も描かれてはいたが。

生命は尊いに違いないが、その終わり様というのは尊いのだろうか。尊くあれとするのが人間だろうか。

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