2022年の年末に、現時点で最後の作品となっている《ジェイソン・ボーン》を除いて、ボーン・シリーズをまとめて観た。特に格闘シーンを中心にアクション映画の演出に多大な影響を与えたシリーズということだ。が、この映画のおそらく 1 作目の TVCM があまり好みでなく、マッド・デイモンもよくわからず、敬遠していた。まとめての感想となる。
その特徴というのはカット数の多さで、いまではすっかり定着した手法らしいので、あとから見返しても新鮮さはあまり感じない、という話ではあるかもしれない。
ボーン・アイデンティティー
半死体となった主人公:ジェイソン・ボーンが漁船に回収される。記憶を失っており、出自もなにもわからないまま命を狙われる。この狙われ続ける理由だが、ぶっちゃけ最後までよくわからない。理由は分かるけれど、そこまで執拗になることあるんだろうか。
上述の映像手法の話に沿って言えば、むしろなんかビルの外縁を沿うように逃げようとするシーンはカットが少なくて、映画全体のなかではこのシーンの印象が強い。
ボーン・スプレマシー
警官などからの逃亡劇は、ロシアでのシーンがシリーズで 1 番好きかもしれない。ボーンの記憶に封印された彼の苦悩が明らかになっていくが、まぁベタであって、これは別に珍しいわけでもないという感触ではあった。
最後の女の子、冒頭で亡くなったヒロインにちょいとビジュアルを寄せてきてるよなという感触だ。
ボーン・アルティメイタム
新聞記者を連れた空港での逃亡劇とその失敗は、映像としてはすごいんだけども、このシーンである必要があるのかは、よくわからなかった。が、まぁハラハラできたからこれはこれでアリなんだろう。
さすがに、シリーズ全体の作り話の構造の強度が弱まったな、というか話が拡がっていくなかで無理筋じゃない? という疑問がどうしても付きまといやすくなるので、ちょいちょいキツい。
屋上のかけっこのシーンが長くて、上述の 1 作目のシーンと同様、このシリーズとしては新鮮であったが、長すぎやしませんか、なんだこれってなった。
ボーン・レガシー
番外編か別シリーズ的な扱いなのを知らずに見た。この間、大怪我をされたジェレミー・レナーさんが主役じゃないか。全体としては、さすがに敵方の動きがハチャメチャで、やはり視聴はキツかった。
大雑把には楽しめたけれど。なんなら雪中の訓練シーンが1番面白かった気すらする。
ん-、《ジェイソン・ボーン》観るかな?
2022年の年末、《未来惑星ザルドス》を観た。4K リバイバルの予告をみた時点では「ふーん」という程度だったが、時間が合ったのでチケットをとった次第だ。
印象では、かなりぶっ飛んで抽象的な内容かと危ぶんだが、割とまっとうな SF で、拍子抜けというか最後のほうは普通に楽しめた。レイトショーだったのもあってか序盤は眠気が勝ってしまい、危なく熟睡コースだったが、なんとか睡魔も退けられた。
主演のショーン・コネリー、 007 シリーズの引退直後くらいなのかな? 奇妙な映画に出たもんだが、時代的にはこの手のファンタジー映画なんかに名のある俳優が出演するのもおかしくはないのか? というか、バキバキの売れっ子俳優がシリアスな映画にも MCU にも出演する、みたいな状況と感覚的には大差は無いのかもしれない。
英語版の Wikipedia を読んでいたら、当初はバート・レイノルズという役者が予定されていたが彼が降板、ちょうど仕事が空いていたショーン・コネリーがアサインされたという経緯らしい。2 人の写真を比べると、ダンディーな髭面中年男性という雰囲気が似てるので、ちょうどよかったんだろう。ていうか、方向性は、役者ありきではなくて役のイメージを重視したと確認できる。
ちなみに、監督のジョン・ブアマンは今日現在にて存命らしく、降板したバート・レイノルズ、代役のショーン・コネリーと、順に生年は 1936年、30年、33年となっているようなので、彼らはほとんど同年代なんだね。同英語版 Wikipedia の記載によると監督は『ロード・オブ・ザ・リング』の映像化がぽしゃって本作に取り掛かったらしいので、なんともはや。運命とは数奇なものだ。
作品の内容は、ポストアポカリプスというよりは、全体的には人類の進歩の袋小路が主題的で、身も蓋もないけれど、日本版タイトルの「未来惑星」が半ばネタバレしている。おいおいおい。
ざっくり 1970 年代の後半には決定的に有名な SF 映画シリーズが生まれまくってることを考えると 1974 年の本作は、いろいろな事情があるにせよ過渡期的な作品だったのかなという気もするが、実際にはどうなんだろう。小説分野でもの古典的な名作 SF が量産されている時期だろうし……。
しかし、この作品、カルト的な人気があるらしいけれども、テレビ東京の午後のロードショーや BS のどこかの枠でやってそうなくらいの雰囲気はあった(後述)。問題があるとすれば、衣装の奇抜さや、性的なテーマがやや前面に出過ぎているきらいがある点で、バストトップもチラチラ目に入るし。というかそれが本作の人気の限定性の根本的な問題だろうな。
“The gun is good! The penis is evil!”
という台詞が象徴するような作品を、気軽にお茶の間に流せるものではない。
全体的なビジョンとしてはよくある SF なものの、性愛だけを否定する作用が強く働いているのは印象的で、超未来では人類の性差自体が無くなるような類の作品はいくつか知っているが、性愛だけを強く否定、そのうえで、しかし、鉄砲というような男性的なシンボルを並べて肯定するのが、本作のユニークさというか、よくわからない。フロイト的なものをあえて対立させたみたいな話なんだろうか。なんだったんや。
ところで、クライマックスのシーンには、やはりカルト的な人気を誇るゲーム『リンダキューブ(アゲイン)』のエンディングが連想されたけれど、本作にインスパイアされたということはあるのだろうか。
とかとか。細かいところまで話題は尽きない作品ではあった。
で、下記のレビューを読むと、地上波で放送されることもあったらしい。
昔はこれが地上波で普通に放送されていたのだから精神的に豊かな時代です。
未来惑星ザルドス くそげーまにあさんの映画レビュー|Yahoo!映画
Amazon のレビューを読むと、水曜ロードショーだったとか。こうして情報をみると、なんとなく既視感があった気もするんだけど、何とも言えぬ。
2022年の年末に《奈落のマイホーム》を観た。
韓国の映画で、原題は『싱크홀』であるらしく、意味としては「シンクホール」ということなので、そのまんま「陥没穴」というやつですね。調べてないけれど、英題も “sinkhole” のままなんじゃないですかね。
《パラサイト 半地下の家族》の原題も単純に「寄生」だったと記憶している。英題も “Parasite” だったんだっけな。こう思うと、邦題って凝りがちだなとあらためてなるが、しかし流石に原題そのまんまでもなぁ…。
とも思ったけど、ビートたけしの『花火』とか、観たことないけどこのうえなくシンプルなタイトルだね。タイトル道も険しい。
で、《奈落のマイホーム》だがコメディ半分、ドラマ半分という体の作品で、《エクストリーム・ジョブ》なんかもそうだけど、韓国映画は日本映画よりも、この手のコメディが上手いですね。
実際に起きた事件をアレンジしているようだけれど―数年前はよく報道されていた気もする、そこは映画的な創作感があって、良くも悪くも B 級映画的な部分もあった。
韓国の都心からそう遠くない住宅街に新築のマンションの部屋を買った主人公一家だが、シンクホールの発生によって、なんとマンションごと数百メートルレベルで地中に落下する。主人公らとともに何世帯かが地下に取り残されるなかで脱出を図るパニック映画だ。《ポセイドン・アドベンチャー》などに似た感触である。
最後、どうなるのかなとハラハラとみていたが、なるほど、そうやって帰るんかと納得できたし、クライマックスもドキドキの展開だったので、よかった。話の展開を詳らかにしてまで語りたいこともそこまでない。
韓国映画、日本に近いからか逆に翻訳(字幕)が不思議なことになりやすいのかもしれない。主人公の勤める会社の部下たちも事故に巻き込まれるのだが、女の子が数歳上の上長である男の子を「代理」と呼び続ける。
この「代理」は、「課長」とか「係長」のような役職名らしく、たとえば同じシチュエーションで日本で撮影したら「係長」みたく呼ぶんだろうかと思わなくもなく、そこまで想像すれば違和感もないのだが、慣れないので、なんとも奇妙に見えた。もう少し別の文化圏だと、どう訳するんだろうか。
ということで、クライマックスが特に好きな映画ですね。ちょっとファンタジーっぽさとほろ苦い要素も織り込まれていて、これも悪くない。そんなにすべてが万事上手く行くわけもないので。
エンディングのシーンは、取ってつけたような雰囲気であったが、まぁこれもこれで。無くてもいいけど。
2022年の年末に《すずめの戸締まり》を観た。
新海誠は伝奇が好きなんかなと再確認したが、結論は「やはり SF がやりたいんだな」という認識に至り、最終的にはダイジンのことしか考えられなくなった。
異界に通じる門というモチーフの起源は古く、鳥居もその類だし、本作の終盤でも鳥居を模した描写はあった。逆にというか、過去 2 作ではそれなりに象徴的だった社のような描写は少ない。
また、本作では引き戸も前々作ほどではないが登場したものの、作品を象徴する「門」としては、ほとんどは「開き戸」タイプの扉であった。なので、ひとつだけあった「引き戸」の門が目に留まったが、特に言うこともない気はする。
また、言うまでもなくドラえもんからは「どこでもドア」が思い浮かぶところで、さらに「椅子型ロボット」などという呼称が登場することからも、小さいところでのオマージュというか、気遣いがあった。どこかで目に留まった意見として、かつては藤子・F・不二雄が大長編でテーマとしていたことを、実は割と新海誠が引き継いでいる(どれくらい自覚的かにかかわらず)というのは、考えうるなとは思う。
ところで本作には小説版が上映前から発刊されており、そちらでしか確認できないことも多いらしい。残念ながら読めていないので、これから書くことには明らかな事実誤認も含まれているかもしれない。残念なことではある。
なんか脅威的なものの描写
私としてはミミズのモチーフは、どうみても諸星大二郎のように見えたし、宗像姓のヒロイン:草太からは星野之宣の作品が連想させられ、するってぇと新海誠ってのは、奇っ怪な日本の土着的でドロドロとした物語やモチーフを、自然災害として逆説的に捉え直しつつ、お得意のキラキラとした描写とイケイケのキャラクターデザインで強引なほどにまとめ上げるという剛腕を発揮した、正に令和最新のキメラのような作品を持ってきたなぁ、というのが最初の結論だった。オタク口調である。
一方で、このミミズとその挙動の凡そな描写は、これも私は繰り返して主張しているが、少なくとも「ヱヴァ破」の第8の使徒(TV版では第10使徒サハクィエル? であってる?)の散り際がまず連想され、宮崎駿が《風立ちぬ》は関東大震災の振動における表現もやはり連なって思い起こされる。
まさしく大地を揺るがす大災害として、もう見飽きたくらいの描写だなという感覚にはなる。オブジェクトの妙なうねりと振動、あるいは破裂、雨のような四散、さらにはオマケのキラキラといった流れ、意識されないはずがない。
だが、どうやらインタビューに目を通すとミミズの描写の直引きは村上春樹の短編に由るらしい。
どうして移動先が賑わうのか
鈴芽が宮崎を発ち、定期便で山口、愛媛へ向かう。旅というのは楽しい。なるほど東京か、更にその先へ向かう行程も描かれる。ということは、一種のロードムービーでもあって、震災というモチーフが重複する映画《寝ても覚めても》が連想された。すると抗いようもなく自然に映画《ドライブ・マイ・カー》も脳裏に浮かぶ。
さて、愛媛の小さな民宿で給される夕飯は海の幸が非常に美味しそうで、現地に行ったことのない私としては非常に惹かれるものがあって、訪問してみたいなと思う。そして何故か、彼女の訪問に伴って、民宿はいつもよりも人が多いという状態になる。
次の滞在先は、神戸は場末のキャバレーだが、こちらも彼女らの来訪で「なんかしらんけど普段よりもお客さんが多い」という状況が再現される。どういうことか。
マレビトのようなあり方をそのまま示しているわけでもないだろうし、あまり強調される描写でもなかったが、そもそも廃墟であるところに扉が生まれ、それが開くなり、封印するという行為自体も謎であるのだが、しかし、彼女は場の廃墟化を否定するポテンシャルを持っている、とでもいえるのかもしれない。だからこそ閉じ師としての才覚がある、のかもしれない。
「招き猫」とというキーワードも思い浮かぶが、どうだろうね。
ダイジン……。
椅子の躍動と終末の予感が渋い
本来は四足、しかし、彼は三足で、小さな椅子が駆けて躍動するさまを巨大なスクリーンで眺めるという奇妙なファンタジーに小さな違和感を覚えながらも「とりあえず応援するしかねぇか」みたいな心持ちで画面を眺めていたわけだ。
廃校のガラスの引き戸が「後ろ戸」とやらになるんか、という謎の発見、しかもそれが最後にはパァーンと内側から割れるんだから面白い。この為にガラスの引き戸を選んだのかと思うくらいであった。割れたらアカンやーんという。
でも、ガラスの引き戸から常世にいったら反対側からはどう見えるんだろ?
まぁいいか。
冒頭で暗示された鈴芽の過去や「死を恐れない」と言い切る彼女の姿から推察される東日本大震災との関連性の示唆もほどほどに、《ビバリーヒルズ・コップ3》ばりの観覧車アクションが見られて満足したが、同時に椅子となった草太のバッドエンドも暗示されることで、なにかと情報が忙しい。
椅子は犠牲となってしまうのか。
選択させられるのは誰か
その観覧車を眺めながら《雨告げる漂流団地》でも出てきたなぁと思いながら、いわゆるダークツーリズムのような面を考えさせられつつ、そのほうで盛り上がる文章も生産されるんだろうけれど、愛媛にせよ神戸にせよ、モデルとなった廃墟はあるんだろうかと思ったが、とりえあず調べてはいない。
しかし、《天気の子》での貧乏飯といい、新海誠は手作りジャンク飯に何かしらこだわりがあるのか、ポテトサラダ焼きそばという謎の料理で我々の食欲をくすぐるという控えめながらズルい方法を使ってくるもんだ。
というわけで、《天気の子》のようにわかりやすく犠牲の選択を迫る物語が再演されるのかという不安も生まれつつ、東海道新幹線は車中での束の間の日常的なやり取りには、一旦心を落ち着かせられたりもしていた。
東京は通過点のようで
今作の東京は、重要な切り替えポイントではあるけれど、過去 2 作ほど舞台として重きはなく、登場人物らにとっては通過点といえた。有体に言って、新海誠監督としては、このことは割と重要な変更点だったのではないかとすら思う。
要石のことが記載された古文書の図は『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』に登場した 「古史羅ノ図」を連想してしまい、少し笑う。
しかし、宗像のおじいさんの病室がよくわからなくて、あそこに積み上げられた古書の類は、おじいさんが何かしら調べごとを重ねていたと推測するのが筋だろうが、であれば、それはなにか? 東の要石の位置とかですか?
しかし、東の要石の神様とは顔見知りではあったようだし、よく分からない。東の要石の霊体みたいなのが浮いて出てたんかね。東の要石は解除されてないもんね? おそらく。よくわからないことが多い。
また、もし東日本大震災の発生を軸に考えれば、そのときにおじいちゃんが何かしら動いていた可能性は高い。この面を考察する文章も捗るのだろうか。
北へ
朋也の再登場から東北に向かう行程は、前述のように他の映画も思い起こされたが、個人的に首都高、東北自動車道のルートには思い入れがあり、それだけでワクワクしてしまうね。荒川あたりを渡っていくのは堀切ジャンクション付近と思うが、あのへん特に好きです。
車中のバカバカしいやり取りも好い。
環さんのブチ切れシーン、ここがもっとも、やはり《君の名は。》以降の新海誠映画っぽいなと感じさせられるところで、つまるところ子供の勝手さ、大人たちも相互に処理しきれない感情や関係性の妙など、それを結果的には大人側があられもなく、みっともなく吐露する。いいですね。
一応、物語の背景としては東の要石の誘導によって環さんが爆発したようで、それは何のためにやったことなのか、それはよくわからんままである。なんだったんだ笑。
なんやかんやで超時空や
ミミズが暴れまわる常世の様子というのは、災害のイメージが付与されていることは当然として、不謹慎ながら私に連想されたのは《コンスタンティン》だった。しかし、それって地獄であって、正に大災害の状況というのは地獄のようなのだ。
一方で、要石となった草太の佇む先に広がっているような海というのは、ワダツミのような感じなのかなと思いつつ、あの情景の意味の不明さにも、もどかしさはあった。どういう描写なんだろうね。
結果として「死ぬのは恐い」という、ごく当たり前の心境をようやく口にできた鈴芽の呼びかけに応えるように草太は甦るが、ダイジンのことを鑑みても、凍結中の彼の自意識は、なんらかの状態では保存されているんだろうから、大変だな。
状況としては、ミミズとみずから戦闘を繰り広げていたサダイジン、役目に帰ったダイジンをあらためて味方につけた主役 2 人のダブルアタックでミミズは制され、ふたたびの悲劇はとりあえずは回避された。ここ、ミミズの散りゆく際の煙のようなのが、構図として鳥居のようになっていたね。
地球の地殻エネルギー的なそれは、どうなってんのかね、しかし。
そういう意味では SF っぽくはないんだが。
しかしである。ラストシーンだよ。
常世にて、最終的に幼い鈴芽に椅子を授けた、幼い鈴芽が椅子を受け取った経緯が明らかになるが、椅子が完全に超時空を行き来する謎の物体化しており、これもおもしろい。いや、てかこれ、要するには《インターステラー》じゃね? となるよね。
もちろん、いくらでも似たことをやっている作品はある。
ダイジン、あるいはサダイジン
要石の猫、もともとは人間だったんじゃないかという読みもあるようだが、どうだろうか。式神様のような雰囲気もあるけれど。
ここまでチラチラと書いたように、西の要石とやらがあんな場所にあったこと自体が問題のような気がするが、ダイジンとサダイジンの体格の差というのは、正にそれというか。
つまり、人の多いところでは神格を保っていられるけれど、そうでない場合は瘦せ細っていったように見受けられる。信仰されない神が権能を失っていくというモチーフも、類作を並べても珍しくもない設定だし、そういうもんだろう。ダイジンは鈴芽に認識され、受け入れられたことで活性化したんだろうという話でもあって。
繰り返しになるが、閉じ師としてのセンス(後天的であれ)か、あるいは閉じ師として経験値が豊かな人物がか、あるいはダイジンのような存在そのものが、人を招くことができる、ということなのか、なんなのか。
選択の問題はあったのか
人がおよそ直面せざるをえない問題があるとき、そして前作の《天気の子》から何かを選び取るとテーマとしてみたとき、本作が前作から、前へ進んだのか、それとも後退したのか。そういうことを考える必要があるか? これがよくわからない。
自らの意思の介在も定かではないダイジンのような存在が、みんなを守るために身を犠牲にしていいのか、神様ってのいうのは、そういうことの為に居るんじゃないのか? でも、神様だって仕事を止めたいときはあるよな? そしたらどうすんの? という謎の悩みに向き合う暇が君にあるか?
本作、ダイジンはなんなんだ。どうしてダイジンに、そんな重荷を担わせる必要があるのか。人間椅子が要石でいいじゃねぇか。そこに何の差がある。鈴芽はダイジンのことを思い返す日が来るのかは謎であるが、彼女は目の前の恋に夢中なのであった。
なんか後味悪くなってきたな、これ。話の着地点というか、こまごまな描写で拾えるものはもうちょっとあったのでは? という気もするけれど、まぁ、次回作に期待ということでひとつ。
リンク集
自分の目に留まった範囲でのメディアの取材なり、感想記事などをリストにしておく。不誠実ながら、この文章を書いた段階ですべては読めていないので、特にインタビューなんかと記事の内容が整合しない可能性もあるけれど、多分直さない。悪しからず。
皇居的なモチーフに絡めて、近現代の天皇制を問うような文章、みんなこれ本当にテーマだとか面白いとか思って書いてんのかね、と個人的には思うのである。
しかし、あれですね、ダイジンの犠牲というか、そこを気にして文字化するまで書いている人はあんまりいないのかね。むしろこっちのほうが超絶スーパー重大トピックなんですが、私的には。
- 災厄との闘い、映像に希望込め 「すずめの戸締まり」新海監督に聞く|朝日新聞
- 「結局、僕はずっと震災のことを考えてきた」 新海誠監督、新作公開|朝日新聞デジタル
- Interview:新海誠 震災を直接描く好機 アニメ映画「すずめの戸締まり」|毎日新聞
- 『すずめの戸締まり』は日本の『ノーカントリー』? 絶望を見据える新海誠監督の視線|RealSound|リアルサウンド映画部
- 愛にできることはまだあるかー『すずめの戸締まり』をめぐって«SOULforSALE
- 新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム(評:茂木謙之介)|TokyoArtBeat
- 『すずめの戸締まり』|おなじみ要素が満載なれど、力強いメッセージに感動しました@ロードショウ:キネマのマ~りゃんひさ映画の部屋~
- 人生行き詰まっているおっさんも『すずめの戸締まり』に涙する|関内関外日記
- 「すずめの戸締まり」フィクションと現実、そしてクイズ|挑戦者ストロング
- 今、映画『すずめの戸締まり』を作る理由監督・新海誠インタビュー①|Febri
- 『すずめの戸締まり』、新海誠監督ロングインタビュー。“たどり着いたのは、旅をしながら土地を悼む物語”|PenOnline
- 「すずめの戸締まり」新海誠監督 「反響に当てられ」寝込んだ理由|毎日新聞
- 映画『すずめの戸締まり』はなぜ若者から中高年まで広い世代に刺さるのか描かれた「地方の荒廃」、世代を超える「地方への後ろめたさ」、改革への視座(1/5)|JBpress(ジェイビープレス)
- ポスト震災映画『すずめの戸締まり』感想文(やさしい内容解説付き)|映画にわか
- 『すずめの戸締まり』|サメとゾンビと空伏空人
- 新海誠×(男女逆+脱思春期)-劇中歌=?(小原篤のアニマゲ丼)|朝日新聞デジタル
- 新海誠はカノジョを救ってセカイを変えた(小原篤のアニマゲ丼)|朝日新聞デジタル
- 新海誠が国民的アニメ監督になった七つの理由(小原篤のアニマゲ丼)|朝日新聞デジタル
- もし「すずめの戸締まり」が「日本沈没」だったら(小原篤のアニマゲ丼)|朝日新聞デジタル
2022年の年末《MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない》を観た。うーん、タイトルが長い。
しかし、おもしろい。おもしろかった。この気持ちを、もっと早く伝えたかった。映画を観てからだいぶ時間が経っているのと、手元のメモも少ないので、おぼろげな記憶に頼りつつ感想を残しておく。
どこかで機会があったら、絶対見てくれよな。
大枠はコメディだが、ドラマもおよそ丁寧で、諸々どれもよかった。ところどころの演出は好みが別れそうだけど、そんなことはどうでもいいのだ。
この映画のユニークさとして、まずタイムループが冒頭から、というか、タイトルで明らかだ。そういう前提で見て、おもしろい作品になる、という狙いがある。
また、タイムループの原因が会社の部長にあることも、あらすじの説明や広報などで明記されており、作中で巻き込まれた主人公らは、皆が割と早めにそれを確信し、これも間違いではなかった。これも新鮮さを感じる。巧い。
冒頭、第一幕といってもいいが、主人公がタイムループしている事実を認識、納得するまでの過程がしっかり描かれており、逆にネタを知ってる身としては、じれったい。とはいえ、外堀を埋めていくようにループが証明されていく過程はおもしろかった。ある特定のキー行動で、ループを再認識する設定もユニークだった。
先にループを認識した部下たちから主人公へ、そこから上長らへとタイムループを説得する方法も変化していくが、それぞれの方法も一様ではなく、最後の砦となる部長へのプレゼンに至っては流石にベテランスタッフの説明は違うな(笑)という圧巻のプレゼンテーション方式で、これも笑わせてくれた。最高だったね。
おもしろいといえば、作中で主人公らの務める広告会社(あるいは制作下請けデザイン会社)がプロモーションする予定の商品もバカバカしくて、炭酸お味噌汁だっけ? ありえそうであり得ないパッケージだが、この売れそうもない商品をどれくらい魅力的にさせるかが問われるデザイナーの仕事も大変だなって……。
商品コピーの発案や外注先の選定など、ループを経るごとに手法や内容がどんどん洗練されていくのも愉快であった。
作品全体からは、主人公が転職希望先に出向いたときのシーンも忘れがたい。作中、ループ中では、社内での皆の行動にいろいろな変化はあるが、社外での行動が描かれるのは、このパートくらいで、ちょっと異色である部分だ。
電話口でさんざん無理難題を吹っかけてきたクライアントの男が眼前にあらわれ、キツいことを繰り返す印象の割に実物の物腰は柔らかなのが妙にリアリティを感じさせ、なんなら彼なりの中間管理職としての弱さまで見せられてしまう。
さらには、主人公が理想と仰いだきたデザイナーの個性の強さが、また面白くて、理想と現実のギャップみたいなところも明らかになる。
しかし、この理想のデザイナーの女性、やたらと咳をしており、映画としてどういうニュアンスだったのか、それが実は 1 番気になっている。
以下、核心に触れるので、ネタバレになる。
ループするほどカルマを背負う、あるいは負いきれない
ループの原因は、漫画家を目指していたころの部長の、漫画の編集者に渡せなかった未完成の漫画原稿であった。
この漫画作品に登場する女の子、何度目かのループを経た後にも漫画作中の主人公のもとに戻ってきてくれて「なんでかな?」 と疑問になったが、そりゃループするたびに彼女に出会って、手助けしてたんだな、主人公は、と納得はしたが……。
この漫画の主人公もループを繰り返すわけだが、たとえループしたとて、改善を試みれる物事、面倒を見れる物事の範囲ってのは限られているので、取捨選択が必要になってくる。自分の意思で選びうるものこそを、選ぶ必要がある。いい話だなー。
そう。ここからは個人的な妄想の話だ。
この漫画に登場する重要キャラクターとして、漫画内のループの原因ともいえる狐がいた。
そう。一方、映画の主人公の憧れのデザイナー、部長の同窓である彼女の特徴といえば、その咳であった。「コンッ! コンッ!」と……。つまり彼女は、部長の漫画における狐とパラレルな存在だったのでは!? という妄想に到達したのである。
あまりにも強引だけど。
映画の主人公が目指した未来、あるいは才能にあふれた若手時代の部長にとってありえた未来というのは、奇しくも憧れのデザイナーの彼女の人生のような社会的な成功であったが、それは反面、場合によっては狐につままれたような、理想といいうるかあやふやな身分でもあって……。
主人公にとって目の前にいたのは、やはり狐のような存在なのだというメタファーかもしれん。などなど……。
まぁしかし実は、漫画の女の子がどうして彼に寄り添ってくれたかというのも、上の理由とは別に説明のつく苦いポイントもちょっと隠されていたりして……。なかなか一枚岩の解釈を許さない手強さも感じている。が、そのほうが面白いから、くらいの仕掛けかもしれない。
どこかで機会があったら、絶対見てくれよな。
2022年の年末、《3つの鍵》を観た。
イタリアの映画で、舞台もイタリアの何処かローマからそう遠くないエリアのようだが、製作にはフランスもクレジットされている。原題は “Tre piani” で英題が “Three floors” なので、原題に沿えば安直には「3階建て」だろうし、日本の劇場でこのまま邦題にするはずがないので「3つの鍵」となった、という経緯と思う。
つまるところ 3 階建てのアパートが本作の舞台で、物語はそこに暮らす 4 つの家庭が織りなす 10 年を描くが、そう考えると「”3つの鍵”ってなんやねん、鍵は 4 つやろ」と毒づきたくもなる。冒頭から「鍵」にどういう意味があるのか注意しながら見ていたが、これはミスリードされてしまったなと、途中で気づいたのだった。
群像劇っぽい出来合いの作品なので、登場人物別に感想を述べると楽だ。
家族がテーマであることは疑いようがなく、それぞれの家庭は世代の分布が絶妙に分かれている。夫に痴呆が見えはじめた老人夫婦、成人したばかりの息子がいる裁判官(?)夫婦、幼い娘のいる夫婦、赤子を抱えた夫婦(夫は建築関連でたまにしか帰らない)の 4 家族が描かれる。
映画全体は、大きくは 5 年ごとに 3 つのチャプターで構成され、変化とともに死ぬ人がいたり、子供は大きくなったり、つまるところ人間関係のこじれが明らかになったり、解消されたりする。成人したばかりの息子がいる夫婦の婦人:ドーラと、幼い娘を抱えた夫婦の夫:ルーチョ、この2人はほぼ絡まないが、作品全体の話の軸が彼らだというのは疑いない。
ドーラ夫婦と息子の不和の原因は、夫の頑迷さと息子の幼さ、それらに挟まれて身動きを取らなかったドーラ自身の関係から成っている。息子が飲酒運転による轢殺を起こしたことから家庭の不和が限界に達し、5年後の出所と離別、10年後の夫の死と息子との対面という段を踏む。
息子が家を発つとき、夫からは「俺を選ぶか、息子を選ぶかせよ」と宣言されるが、彼女はそこで息子を選べなかった。選ばなかった。
どちらが正しいという話ではない。
この家族の関係は、その主体が完全に夫の意思のみによって支配されている部分は認められるので、それですべてが決まる。仕方なかったといえばそうだろうが、息子がその状況に納得するわけではない。もちろん、息子の甘えもある。
夫の死後、ふたたび息子と向き合おうとするドーラだが、都合の良いムーブをするなという息子の主張も確かで、それでも支配者の枷を外された彼女は、もともとは聡明なんだろうし、ようやく自分の頭で彼との関係を模索し、行動し始めた。最終的には和解の兆しのようなものは描かれていた。
並行してルーチョだ。
娘が痴呆の老人と行方不明になったという展開まではぎりぎり許すとして、その後の娘の憔悴について結果的には要らぬ心配を爆発させ、同階の老夫婦との関係を破綻させ、この事件に、または更なる原因をどこかに求めるにせよ、老夫婦の孫娘と関係を持つに至る。
どうしてこういうプロットを組んだんでしょうね。笑ってしまう。巧いんだけども。
ルーチョの家庭は、どうにもルーチョ本人よりもパートナーのサラほうが、高給取りそうな仕事をしており、彼女も独立した経済的主体だ。これは、ドーラと対照的ですらある。世代性を反映している面もありそうだが、彼女は、粗相をしたルーチョをまったく許さないということはなく寧ろ寛大で公平すぎるくらいに扱っている。強いのである。
ルーチョにまつわる事件は、ドーラのそれと比して、10年の歳月によって、それぞれの人物たちの老成、あるいは成長、あるいは取りうる進路などの別によって、過去のわだかまりをあくまで過去にしていく。その過程がさりげなくだが、たしかに描かれている。
で、実はしかし、最大の問題は、赤子を抱えた家庭だった。
夫が現場仕事のために偶にしか戻ってこないモニカである。長女を生み、長男を生み、不安と隣り合わせではありつつも、彼女なりの生活を築きつつあった。
彼女の問題は表面的には極個人的で、ドーラやルーチョに比べると抽象的だ。それは「母は私を生んでからおかしくなった」という強迫観念からも判ぜられるが、事実関係は語られない。
また、この問題は彼女の眼前には黒のカラスとして現れ、象徴される。カラスが問いかけるでもあるかのように、いつの間にか彼女の目の前にいるのだ。お前はそれでいいのかと。
夫の兄との邂逅もキッカケか原因のひとつだろうし、彼女が無事に失踪生活を送っているとして、もしかしたら何かしらのタイミングで、夫の兄と合流した可能性もあるのかもしれない。
どういうことか? いや、わからないんだけど。
2 人の幼子を残された仕事中心の生活の男は、それでも子供を養う必要がある。いずれは勤務地に子供たちを連れまわすのである。これも新しい家族の形なのだろうけれど、この奇妙な彼女の顛末こそが、やはり結果的には、ドーラ、サラ、モニカ、あるいは老夫婦の婦人といった女性らの多様性にこそ描かれている気すらしてきた。
本作のシーンのひとつ、クライマックス付近だが、彼らのアパートの前を街頭パレードのダンスが通り過ぎていくのがある。半ば幻想的ともいえる光景は、そこに居合わせた住民たちを少しばかりでも日常から解放したんだろうか。
よいシーンではあった。
個人的には、ルーチョが事務所に使っていたらしき自室の壁をガラスで修復したあとのシーンが好みだった。彼が決定的な間違いを犯す瞬間のちょうど前で、作中でのドーラとルーチョの接点といえば、彼女の息子が壊したこの壁くらいなもので、つまりそれはアパート全体の変化、あるいは破滅の合図であったわけだが、半透明のガラス(アクリルかもしらん)によってそれが修復されたことのニュアンスは…、なにか求められるだろうか。
あるいは、4つの家庭(老夫婦を除くと 3 つの家庭)の変化だが、ちょっと無理やりに図式化すると、ドーラは親子の関係、ルーチョは父としての問題、ではモニカの問題はなにかというとテーマ的なものが浮かび上がってくる気がする―もちろん、不在がちなパートナーと幼子 2 人という負担の大きさは前提される。
しかし、最終的に、クライマックスで不幸ぶっているひとが居ないことが、なにより本作のメッセージ然としているのかなとは。イタリア映画はいつも家族を扱う。
門脇麦が出演するというので、2022年の年末に《天間壮の三姉妹》を観た。
この映画に原作のマンガがあること、「スカイハイ」シリーズであること、題材が東日本大震災であることもしらなかった。あるいは原作のことは、すっかり忘れており、まず面食らったのであった。
物語の冒頭、生死の境がどうのこうのという話が明るみになる以前に、海沿いの町、宮城のナンバーのタクシーという本当に最初のシーンの情報から内容とテーマはそれなりに判ぜられたが、そうきたか、その手の作品だったか、となってしまった。
しかし、鑑賞後に確認すると、作品サイトには注意書きがあったが、館内および作品の冒頭などでも題材についての注意喚起はなく、このあとに観た《すずめの戸締り》とのギャップを感じた。作中での表現を鑑みても、もちろん、やはりまだ入場の直前でも注意されるべきだろうので、少しモヤモヤするものだ。あるいは劇場によっては配慮があったのかもしれない。私の環境では無かった。
また、憶測だが、2011 年から 10 年ほどが経つ節目として、2021 年前後を機にいろいろな企画が動いたのだろう。新型コロナの流行でスケジュールが前後した企画も少なくないだろうが。しかし、原作の連載こそ 2013 年から 2014 年だったようだが、映像化は慎重にならざるを得ないという面はあったろうな。いつ頃から企画が進んだんだろう。
類例といえば、アニメ作品だが、『岬のマヨイガ』(原作アリ)や『フラ・フラダンス』などは 2021年の作品だものな。実写映画として東日本大震災を扱った作品、どれくらいあるんだろう。二宮和也主演の《浅田家!》とかだろう。ちなみに、Wikipedia にはリスト化されている。
本作の鑑賞後、原作の冒頭の数話を読んでみたが、過去に序盤ばかりは読んだかもしれない気もする。映画では設定の細部に少し相違があるようだが、おそらく基本線は変わっていない。映画では次女は旅館の外で働いていたりと、後半の生かされ方を考えると(原作は読了できていないが)、アレンジが巧いとは感じた。
演じる俳優のあれこれのような話
登場する三姉妹は長女:のぞみ、次女:かなえ、三女:たまえで構成され、それぞれ大島優子、門脇麦、のん(能年玲奈)が演じる。年齢順は実年齢に沿った配役なっているっぽいが、特にのんは実年齢に比して、やや若目の役ではあった。
大島優子は、よう知らぬが AKB 系の出身だと女優としてはもっとも安定したキャリアを積んでいるようだが、もともと子役でもタレントしてたんだっけ。しっかりしつつも、やや頼りなさげな面も見せる長女役であった。女将姿のときの髪型の分け目がステキだったね。
なんだかんだで冒頭の彼女が笑顔を作るところから旅館の玄関までを進んでいくシーンが1番印象的ではあった。次点では、次女の彼氏が海へ旅立つところかな。
門脇麦は《あのこは貴族》で目にして以来だが、やっぱり不思議な役者だ。それほど作品をみてるわけでもないが、ファンである。いままで見てきた役のなかでは割と普通なほうの人物像ではあったと思うが、やはり要所でエッジが効いていて、そういう起用だったのかなとも。本作では、口紅のメイクアップが印象的であった。
主演ののん(能年玲奈)だが、彼女のことはよくわからない。ちゃんと演技している作品をはじめて見たレベルだ。彼女の魅力は演技の巧拙でもなくて、個性というとそれまでだが、たとえば諸々アンバラスで普通なら画面が持たなそうなシーンでも、彼女がいれば許される気がしてしまう。幼さとも言い切れず、妙に浮世離れした感覚というか、この作品世界内では、諦念に似た彼女の眼差しをギリギリのバランスでこなそうとはしていた。
姉妹の母を演じた寺島しのぶ、あまり得意ではないのだが、やっぱりいい演技をする。この映画のすぐあとくらいに上映が開始された《あちらにいる鬼》のほうが注目されているようだが、今作の演技もいいですね。
次女の恋人役で登場する高良健吾は《あちらにいる鬼》で寺島しのぶと共演しているらしいが、個人的には《あの子は貴族》での門脇麦との共演が印象に残っている。どういう経緯でこのキャスティングが成立するんだろうね。
原作者とか監督とか作風のあれこれのような
原作者:髙橋ツトムは講談社でも集英社でも小学館でも作品を連載している。案外というか、秋田書店はないんだな。多作だよね。あんまりちゃんと読んだことはないのだけれど。
そもそも TV ドラマのスカイハイの監督も、今作と同じ北村龍平が務めていたようだ。また、原作時点で、主役はのんを意識してアテガキしていたというトピックも目にした。いつ頃から映画化の企画を温めていたのかは、気になるところではあるが、上述の通り、10年の節目を狙った面はあったろう。
原作と映画を比して、ひとつだけ、解釈の問題が浮かんだ。原作の連載時(2013)であれば三姉妹の年齢差もそこまで気にならなかったと思われるが、これを 2022 年の映画としてみると、彼女らの年齢差をどのように考えればいいのか、ちょっと怪しい気がする。作っている側が気づかないはずはないので、原作のように震災から幾年と経ていないというスタンスなのだろうか。そのへんは分からないままだ。
どういうことを読み取ろうかなと
たった 1 人の肉親にも見限られて生きることに絶望していた少女(何歳設定なのか微妙にわからんのだ)が、家族や人たちとの交流の楽しさを心から体験できたのが、天間壮とその地域の住人たちであったというのは、いい。
それが「本来ならば居るべき場所ではない」というのも、まぁ、わかる。
亡くなった方たちがあの空間に留まるということの意味はよくわからなくて、ざっくり見ると、究極的には彼の地の住民らの多くは自分自身の死に自覚的でなかったとのことのようだが、そういうセッティングでいいのかは、かなり疑問だ。原作からの問題だけれど。
とはいえ、生きている、生き残れた、生き残ってしまった側の人間こそ、ギリギリまでは変わらぬ日常を共に過ごして亡くなった彼らの姿を記憶しており、本作の舞台のような、いわば彼らと共に過ごした日常を想いながら魂の安寧のようなものを願うんだろうから(もちろんそうでない場合もあるだろう)、こういった表現がそれなりに適当というか、穏当というのも一理あるのだろうとも思う。
主人公やほかに生き残る人たちが、近しい人たちの死をどうやって受容するのかという話が、究極的には、これに類する作品の肝であり、テーマであり、目的でありといったところだろう。
本作では、現地のイルカのショーでトレーナーとなり、再興した水族館にて、摩訶不思議なメッセージを携えた主人公の姿によってそれが提示される。異常な空間の演出こそがまさに映画的であったなと思う。
彼女のファンタジーな体験が、たとえ気休め程度にしかならなくても、そのメッセージを伝えられた相手らはそれなりに彼女の伝えた伝言を受容するだろうし、それを視聴していた私も、これはそれなりにそういうもんだなと感動した。
もう少し抽象的には、或る理想的とは言いづらいステータスにずっと居続けることの虚しさ、その克服、というのは言えるのだろうから、そういうところだろうかね。
《岬のマヨイガ》と《フラ・フラダンス》の鑑賞を宿題としたい。あと、年末年始に《護られなかった者たちへ》も観たけど、これも奇妙な作品だったな。
そういえば三田佳子も重要な役柄で出ており、ひさびさに拝見したなという感じだったが、存在感はあった。彼女のブログ記事を読むと、撮影についての情報が細切れにアップされているが、海岸のシーンのロケは北海道だったらしいと、いろいろと発見がある。
2023年になってひと月と 1 週間が経過した。ちょっと遅いけれど、本年もやっていきましょう。
「2023」って素数でしたっけ?
雑に考えると、おそらく 1 桁目の 3 が鍵で、乗算して 1 桁目が 3 となるのが 7×9 だろうことは直ぐに思い当たる。ということで、2023 を 7 で割ると 289 が導かれるので、素数でないことは判ずる。
さらに 289 が分解できるかどうかが気になるが、これは 17 の平方数であるらしく、つまり 2023 を素因数分解すると、 2023=7×17×17 となる。 7 が並ぶのでラッキーセブンの雰囲気がある。めでたい。
ちょっと調べると、2~19 までの素数とその平方を意識しておくことで、素数か否かは割と判断しやすいらしい。というわけで、去年を振り返りつつ、今年を生きている。
人付き合いのあれこれ
2022年の目標として、人付き合いの範囲を減らしたいとしたが、割と成功した。ちょっとでも後悔とか、怠くなりそうな輪の広げ方はできるだけ止めた。もちろん、新型コロナの影響に助けられた部分もある。
だが一方、距離を誤ったケースが 2、3 あって、これは完全に失敗だった。苦い経験ではあるが、対策というか気を付けることを学んだ(学べていなかった)ので、今年も此処は入念に気をつけたい。
インターネットでの人付き合いだが、ごく僅か、気持ちの問題レベルではあるが、ちょっとだけ増えた。これくらいでいいと思う。ということで、これもこれで、概ね満足というか、こんなもんだわ。
読書とか映像とかの体験のあれこれ
読書は、少し習慣が戻ってきた。昨年に徐に開始した講談社の興亡の世界史シリーズを読む企画、1/3くらいは読み進めたが、依然として半分以上が残っているし、読書メモもまとまっていないので、継続したい。言うまでもないが「人間は本を読まないと駄目」ていうか「勉強しないとダメ」だわ。当たり前だわ。
という感じで、フィクションの読書も少し増やしたいのだが、古典のちょっと簡単というか、そういうラインナップをちょっと読んでいきたい。
映像というとほとんど映画だが、これは近年は大体は同じペースで進んでいる。古典の掘り下げにも戻りたいけど、マイペースに続けます。年末年始に《楢山節考》(1983)と《東京物語》を見れたのはよかった。
インターネットとかあれこれ
大きめのトピックとしては、Twitter なり SNS 社会の変化みたいなのは注目している。自分のこのブログを土台に考えるなら、Twitter がどうなろうと半ばどうでもいいのだが、どちらかというと長期的にはイーロン・マスクが(おそらく)やろうとしていることには同意したいので、そのへんは推移を見守りたい。
さすがにこのブログだけでインターネットにいるという気分にもなれないし、いやはや。
また、インターネットに限った範囲ではないが、従来メディアの疲弊について、これは単純に情報の非対称性が強まるだけだと思うが、そのへん鈍感というか、敢えて無視している層が多いのかわからないけれど、どうなっちゃうのかね。明るいインターネットはあるのかしらという思いばかりが募る。何か貢献できることはないかね。金も頭もないけれど。
気候変動とかなんかそういう話
年末に鑑賞した《サイレント・ナイト》という映画、デキとしては70点もあればいい方という完成度だったが、個人的には刺さるところが大きかった。社会派作品に対する鑑賞の態度みたいなのを論ずるつもりはないが(論じるものでもない)、ちょっと無責任になれないなというところがあるという話だ。
1990年代、藤子・F・不二雄からの影響でいえば「雲の王国」などをはじめ、「温暖化」というトピックに心を悩ませたが、ある段階で、かなり自覚的に開き直っていた。ところで最近の世界の状況を見ていると、《サイレント・ナイト》とともに、藤子・FのSF短編『大予言』も連想され、幼いころに開き直った自分を反省するわけではないが、どうしたもんかとなっている。
健康とかそっち方面の話
体重を減らすというか体脂肪をちょっと減らそう。あらためて数字をみると、コロナ以降で目に見えて身体が肥えている。いまさら!
半年で 2~3 キログラムくらいの計画で徐々に落とそう。月に 500g 前後ということで、無理はなかろう。まずは食事の量、そこに質、適度に運動できれば文句無しってところだろう。こんなんでうまくいくのか知らんけど。
日本社会をとりまくなんかの話
新型コロナからの騒動からの離脱、ウクライナとロシアの紛争の膠着、台湾有事を叫ぶ声、上記の気候変動、少子化、なんかいろいろあって大変って感じだけど、なんだかな。なにもしないうちに、なるようになっていそうだけど。とりあえずリストアップだけしておく。
学ぶことや仕事のあれこれとか
上述の読書に限った話ではないが、区切りを設けつつなんかやりたい。このブログで扱うことはないかもしれないが。後者については、なんかフォーマットを整えていくことをあらためて取り組む必要がありそうだね。
KPM というか身辺的なあれこれ
Obsidian にお世話になっているという記事は 2 つほど書いたけれど、ツールに触っている時間としては Logseq のほうが多くなってきた。利用を統合するとすれば後者になりそうだが、とりあえずは並行して使っていく。個別に固定化され、分量の多い情報ほど Obsidian のほうが操作や連携が強まりそうで、Logseq はまさにログに適しているという見解ではある。
RSS リーダーを Feedly から Inoreader に変更してみた。これはかなり久々の英断で、感触としては悪くないけれど、もう少し工夫を加えていきたい。
新年の手書きのスケジュール帳、さっそく存亡の危機に陥っているので 2 月からまた安定させたい。なんというか開かなくなるのだよな、駄目だとはわかっちゃいるが。このへんでもう半ば諦めかけているんだけど。
通知を減らす
身も蓋もないが、スマートフォンの通知を減らすように努めたい。ていうか、スマートフォンを捨てたいという気持ちにもなるのだが、さすがに難しく、せめて通知を減らそうという気分なのだ。LINEも使うの止めたいというのが本音だけどね。
非日常を取り戻す
全体的な抽象的な目標として「非日常を取り戻す」という項目を掲げたい。
ここまで列記した諸々、なんというか結局、長いスパンで日々の生活に馴染んでいって向き合うことを忘れがちになる事象ってのがあるわけだが、それらを非日常として、意識できるようにしておきたい。
日常をコンパクトにしたいですね。
あとどうでもいいけど、このブログのテーマをやっぱり新調したいですね。
発信できるネタは、いつもの映画ばかりとなるが、いくつか仕込んではいるが、なんか載せるような体裁にならないので放っておくことにして、いくつかある考えごとも書いて載せてもいいんだけど、今一歩のところで実現しない。
ということで、しばらくインプットに努めることにした。あんまりこういうこと、さして分量のない文章を記事にしたくもないけど、偶にはいいか。
《グレイマン》を Netflix で鑑賞したことを思い出したので、残っている記憶のぶんだけメモを残しておく。本作の目指す方向性がよくわからんというのが大きな意見としてあって、続編の構想も浮かんだという話だが、これをどう続けるのというか。
大まかなアラスジだが、CIA に雇われた元囚人、裏ミッション用のプロフェッショナルとして暗躍するエージェントが、CIA 内の抗争に巻き込まれるかたちで、彼らとの対立を前面化していく。というか、1 対多だけど。
最終的には、欧州のどっかの王城のような屋敷を借り切った(あるいは所有物か知らんけど)CIA の基地で正面切って戦うというバカバカしさがあって、それはそれとして楽しいけれど、え? これで続編やるの? というか、どうとでも設定できそうだけれども、敵役も煎じ詰めれば小物ばかりというか。
アクション映画としては、このうえなく楽しい類だった。いくら主人公補正があるいといっても、広場の真ん中のベンチに拘束されて、あれだけ部隊が送り込まれ銃弾の雨あられを浴びたのに、ほぼ一発も当たらないというギャグ感もそこそこに、このシーンの前後から路面電車が脱線、崩壊するまでのアクションは最高とすら言えるのではないでしょうか。
いや、あのアクションシーンだけでも見る価値はあった。話はてんでわからなかったが。ライアン・ゴズリングは《ラ・ラ・ランド》から 4 作目くらいだけれど、いろいろ試している感じなんだろうか。