『日本沈没2020 劇場編集版-シズマヌキボウ-』を観た。もともと Netflix にてオリジナル配信(全 10 話)されている作品で、Twitter を眺めている限りでは、あまり評判はよくなかったのかなというイメージが付着している。
だが、そもそも Netflix で発表されるオリジナルアニメ作品は現状ではあまり高評価となっていない印象もある。たとえば『攻殻機動隊 SAC_2045』も評価は芳しくないようだった、これも私は好きだが。
個人的な事情といえば、ちょうど Netflix の契約が切れていたタイミングだったので配信中の作品は未見のうえ、湯浅政明監督が劇場向けに編集し直した版というのであれば是非とも見たいと思い、劇場に行けるタイミングもあったのでチケットを取った。
なお、キャッチコピーは「見届けろ。そのとき、希望は沈まない。」だ。
『日本沈没』とはなにか
そもそも『日本沈没』は原作の小説以降、いくつもの映像なりコミックなりで展開されてきた。が、私は正統続編となる小説「第二部」を含めて、最初の映画でさえ、系統作品をどれひとつとしてまともに鑑賞したことがない。原作を読んだだけだ。アンソロジーコミックス『日本ふるさと沈没』は読んだけど。
原作のストーリーといえば、小野寺という海洋学者? と田所という地球物理学者? が主な登場人物で、物語は小野寺を中心に展開する。原作の観点として小松左京は、日本が沈没するという物理的な描写の試み、および日本社会のマクロ的な在りようの思考実験を採用している、とざっくり言っておく。
なお、ここには、戦中に思春期を過ごした作者が生涯をかけて探求した「日本とはなにか」「日本人とはなにか」という問いかけも含まれるはずだ。
『日本沈没2020』とはなにか
本映画は、都内在住の姉弟である武藤歩(あゆむ)、武藤剛(Go)を主人公に話が進む。その他には、両親である父:航一郎、母:マリ、ほかに最初の被災時に側にいた近所のお兄さん(春生)とお姉さん(七海)、途中で合流する仲間としてカリスマ YouTuber (カイト)、おじいさん(国夫)、ダニエル(大道芸人)などがいる。
彼女ら、都内で被災して幸運にも無事に合流できた一家は、西に進んで安全な避難地を目指す。地理的には大阪付近、広島付近などまで進んでいくようだが、姉弟は最終的にはロシアの地に収容される。描写があったか、見逃してしまったか不明だが、ウラジオストックかな。
さて本作、どういう作品か。まず日本が沈む。これが背後で進む事態にして、本作の大前提だ。また、本記事の最後に引用するインタビューで示されていたが、この作品は、主人公の姉弟の立場から離れた光景、およびその他の登場人物たちの行動やバックボーンを語る描写はほぼない。姉弟を中心にして、彼らの視点で話は進んでいく。
どういう類のパニック作品なのか
10 話分が圧縮された一気見バージョンの第一印象は「パニック映画」で、作風としては映画『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)を連想した。細部こそ異なるが、災害、その被災で苦しみ、もがき、なんとか生き抜かんとする人たちがいる。
そんな彼らだが、生存可能なエリアはどんどんと狭まっていき、かつ、どこが安全かは分からない。出た目の運次第、道中では揉め事や敵対者も現れ、仲間も少しずつ散り、減っていく。そういった状況下でのサバイバルだ。
一口にパニック映画とはいっても、たとえば怪獣映画ではあるがそれこそ首都が崩壊する『シン・ゴジラ』は「巨大不明生物特設災害対策本部の奮闘」がテーマだ。このように作品内で具体的に描かれる内容ついてを本作で表現するならば、パニックのなかで「家族や地元を喪失しながらも自らのアイデンティティを見出す姉弟」がテーマだろうか。陳腐だろうか?
主人公を思春期の姉弟にした結果か、あるいは本作のアプローチ-しごくパーソナルな小市民にとっての日本沈没-を採用するにあたってか、本作を最もエンターテインメントたらしめる方法がこのような構成、主役たる人物たちの設定だったのだろうか。
これは誰のための物語なのか
姉弟はハーフで、父の航一郎は日本国籍のいわゆる日本人のようだが、母のマリはフィリピン出身のようだ。姉は陸上で日本の代表にも選ばれんという女の子だが、弟の剛はプロゲーマーを目指すインターナショナルな男の子だ。
姉弟で日本に対する思い入れが対照的になっており、この辺も処理しやすい。この辺の家族、親子の設定に煮え切れなさを感じた視聴者も少なくなかったようにも見えたが、ちょうどこの間の NIKE の広告がいかにも問題のように扱われる此の世の中においては、残念ながらというか、人種や国籍というテーマが現代的、かつ正面から向き合わなければならない問題であることに違いはない。やはり「日本人とは」という視点が付きまっている。
うろ覚えだが、原作の『日本沈没』にはこういった視点はなかったかもね。発表が『日本沈没』よりも早かった『継ぐのは誰か』では逆に、部分的には超克した形でその辺の視点も含まれ、描かれているので(そして根本的には解決していない!)、小松左京に当該の問題意識がなかったとは思わないが、少なくとも本作の原作ではオミットされている。まぁいい。
ハーフだろうとなかろうと、姉弟は思春期なりの不満を抱えて、ときにはそれを爆発させつつ、被災を乗り越えていくことになるのだが、最終的に日本は、ある形で希望を残すが、一方で別に日本人とかどうでもよいよね、みたいなエクスキューズも残して物語は終わる。
これは日本を描いた作品なのか
「日本」と言うときに人が思い浮かべるのは、たとえば国土か、文化か、国家か、自分の身の回りのことか、それら諸々の総体といえば便利だが、誰は何を思い浮かべるか。ところで、たとえば、物理的に失われた何かに対して、理屈をとっぱらえばそこには「思い入れ」しか残らないのではないか。
日本が沈没した後の世界を描くシーンでは、失われた日本の記憶として、日本の観光案内に掲載されるような風景を描写したカットが続いた。「鼻白んだ」という感想も見たが-気持ちも分からんではない、上述のような問いかけに対して、日本を知っている日本人、あるいは日本人以外の人たちは、日本の記憶として自らのうちに、あるいは記録として何を残すのか。
本作がもともと Netflix で世界に配信されていることも忘れてはならない。典型的な美しい日本のイメージも、作中で登場した「フィリピン出身のマリを救助しない」と拒絶する偏った思想を持った日本人たちも、どちらも日本の内外の人間が持つ日本と日本人のイメージに含まれている。そうだろう。
本作の没入しづらさはなにか
姉弟の視点からずらさないという制約が、少し軋みを生んでいることは否定しづらい。こういう方針もあるならオムニバスのように描いてもよかったのでは? というような印象もある。これが顕著に感じるのが宗教団体の居住地でのストーリーだ。
宗教団体のストーリーでは、宗教的なテーマの扱いもそうだが、どちらかというと教祖扱いされていた、やや精神的な障害を抱えている模様の子供、彼になにかしらの生きる意義を与えたいと宗教団体を設立、維持させてきたその両親こそが主題だろう。このエピソードだけ例外的に主役が、教祖の少年の母になっている。
また、なぜか身体的な能力を失った小野寺(本作では博士?)もこの宗教の療養施設で養われており、整合性みたいな説明がないのは本作においては個人的にはどうでもいいのだが、これは明らかに「生きづらい立場の人たちをどうする?」というテーマが詰め込まれている。
脚本は、現代的な諸問題をてんこ盛りにして挑戦してきているワケだが、さすがに唐突感というかピントのブレを感じないことは難しい。だが、これも眼前にあることは否定できない。あくまで、問題提示なのだ。なお、配信版では宗教団体にまつわる描写がもう少し厚かったらしい。
その他、個人的には、徒歩でロクに食事も摂れないままであろうに関東から関西、その先までよく歩けたな、などのいわゆるリアリティ周りで気になるところは幾つかあったが、本作においては割と些細な点かなと無視できた。
本作の楽しさはなにか
あらためて、本作の楽しさはなにか。まずは、最初に述べたように単純にエンターテインメントでいいと思う。仲間が減っていくというのが、まず面白くて、これを楽しむというのは倒錯的なのだが、ふいにパーティーの仲間が、ときにほんの小さなアクシデントで、あるいは大決断をして、脱落していく、そのさまが面白い。
人生は儚い。
あるいは、先に書いたように、かつてあった日本を、それを知らない日本人、あるいは日本人以外の人たちに「日本とはこういう場所であった」とどう説明するのか。そういう想像をしてみるのも本作の面白さかな。
そういうシミュレーションってしたことある?
シーンとしては姉弟が漂流しているところが好きだった。漂流という描写は何かしら幻想的になるものだ。周囲には何もない。力も徐々に尽きてくる。もともと姉弟の触れ合いがあまり描かれてこなかった本作では、この半ば絶望的な状況に至ってようやく彼らの落ち着いたコミュニケーションが描かれた。
やたらとカットが多く、プツプツと切れては漂流が続くので、このままバッドエンディングで終わるのではないかとすら疑った。あるいは覚めない悪夢か、心地よい悪夢か、すべてが夢落ちであったらどんなによかったか。そういう趣があった。
その他
劇場編集版に向け、アニメージュに以下のインタビューが掲載されていたので、こちらも参照したい。
上記のリンクを読めばネガティブな評価の中心となったポイントに対しては、大体がレスポンスされているのではないか。また、それとは別に、監督には既存の関連作品とは異なるアプローチを目指したこともハッキリする。これは、当たり前といえばそうだろうけれども。一応、以下の部分だけ引用しておく。
多くの人がもう戦争経験もなく、生まれた時から何となく「日本人」としていろいろなものを享受して、時には適当に文句も言いつつ「日本(人)は偉い、すごい」と思ったりもする。一方で、自分が日本人として何をなすべきかという芯のようなものが掴み難い。そんなぼんやりした時代に、「日本が沈没する=なくなる」という極限状況の中で、人は自分の立場をどう考えていくのだろうという「思考」の有り様を考えてみたい。そして、観た人それぞれに考えてもらえたらいいなと思いました。
https://animageplus.jp/articles/detail/34009
その他に目に入った感想では『東京マグニチュード8.0』との比較が多かったが、これってノイタミナ枠の 2 作目だったのか。そりゃアニメファンにはこちらが引っかかるか。私は残念ながら見たことがないのだよなぁ。
望月峯太郎の傑作『ドラゴンヘッド』も類作だが、もはや古い作品だし、若い人は物好きであったり、キッカケがないと手に取らないだろうしなぁ。その他、かわぐちかいじ『太陽の黙示録』は欲張りセットだし、ちょっとおススメしづらい。
追記(20220307)
ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。多数の作品を並行して進めていたから制作が困難になったエピソードはファンとしてはおもしろい。音響がよかったから劇場編集版の見通しがたったというのも嬉しい話だ。
ヒッチコックを観るシリーズ『私は告白する』《I Confess》の感想です。邦題だけ読むと、またようわからんロマンスかな? となるが、原題によって宗教的な、懺悔の類であることがわかる。
冒頭で教会を大きく映したカットが出てきて、なるほどともなったが、あまりにもその通りだった。そして、本作はとても面白かった。なお、割と無軌道に鑑賞しているため、ヒッチコックの作品としては『山羊座のもとに』後、本作の前の『舞台恐怖症』と『見知らぬ乗客』はまだ未見だ。
はい、あらすじ。ドイツから亡命したある教会の下男を務める男:オットーが殺人を犯し、若い神父:ローガンに懺悔する。この懺悔は男と神父との間でのみ共有される。ところが事件の解決に向けては神父が容疑者として浮上することになり…、といったプロットだ。
まぁね、もう最高に面白かったので個人的な思い入れから話すけど、オットーの妻であるアルマが抜群によかった。あまり俳優さんの話をするつもりはないのだが、彼女は、ドロシー・クララ・ルイーズ・ドリー・ハース(Dorothy Clara Louise “Dolly” Haas)という名前で、ドイツ系のアメリカ人なのだとか。本作に出演した時点では 43 歳くらいか。役柄もあって作中では素朴で質素な印象だが、どうにも美しさを隠しきれない。私のなかでは主演ヒロインのルースを完全に喰っていた。
オットーはアルマにも犯罪を告白しており、それを隠し通すために証拠品の偽装にアルマを協力させている。アルマと夫との愛情、あるいは連帯もたしかにあるようだが、どうにも彼女のスタンスがしっくりこない-それは身内に犯罪者が生まれてしまったという状況ゆえに当然なのだが。
なんなら私は、 “I Confess” というタイトルは彼女:アルマのためにあるように思うのだ。クライマックスで機転を生むのは彼女の愛なんだよね-神父への愛というのではなくて、神への愛の類と言ってよいだろうか。彼女は動転して狂ったオットーの凶弾に倒れるのだが、その最期も実に素晴らしい。
『三十九夜』の感想で述べたが、『三十九夜』では、ほんの数シーンにしか登場しなかった田舎の若妻マーガレットが、逃亡中の主人公を逃がしてくれたシーンが最も印象に残っている。本作ではアルマもほぼ同じ役割を与えられており、「主人公の無罪を知っている」、いわば天使なのだ。そして彼を救うのだ。なんともよい。
手放しに誉めている。
映像としてよかったのは、クライマックスの入りのあたりか。裁判に入る手前あたりの状況、教会でローガンとヒロインのルースが秘密話をしており、そこに懺悔の少年が来る。ローガンは懺悔室に入る。すると、オットーが新しい花をもって教会に入ってきて、去り際のルースとぶつかる。
ポロポロと花を落とすオットー。懺悔室から出てきたローガンを彼は追い、警察に自分を売るのでは、自らの保身のために、とローガンを捲くし立てる。2 人は教会の中央の廊下から祭壇の正面、奥を横切り、裏方へと移動していく。このやり取りが始まって終わりまでの一連のシークエンスがよかった。
オットーのローガンを責める文句は完全に破綻してるのだが、勢いはよい。ローガンは懺悔を他言しないという戒律を死守しつつ、オットーの傲慢な主張を聞き入れるのみだ。このときのローガンの表情が絶品で、アルマの最期とよい対比にすらなっているのではないか。
ローガンは自分の保身のためにオットーの懺悔を社会の日のもとに曝すくらいなら身をくらませた方がよいくらいまで考え、街を彷徨ったが、最終的にはそのまま法廷に立つことを選んだ。この逡巡もよかった。そしてアルマの最期に繋がる。
ローガンとオットーの関係性に触れておくと、ひさびさに戦後というテーマが採用されている。ローガンは復員兵であり、オットーは亡命者である。2 人とも戦争で傷を負った、人生を狂わされたバックボーンを持っている。オットーは最期のほうはもうよく分からない状態まで錯乱、興奮していたが、彼は身勝手ながらもローガンに対してなにかしらのシンパシーを持っていた(おそらくローガンからオットーに対しても)ので、逆に、こういう悲劇になったとも言える。
その結果と言えば、まったく同じではないが、ローガンは恋人を失い、オットーは妻を失ったのだ。となると、クライマックスで、ルースが夫を連れて帰ろう去っていくのが無常でまたよい。オットーとローガンのやり取りに彼女は何を感じたのか。あまりにも断絶が大きい。
なんならば、人間は皆が皆、あまりにも身勝手だ。
ヒッチコック『山羊座のもとに』《Under Capricorn》を観た。いつものように Wikipedia の情報に頼るが、原案となる戯曲、その小説化、第一脚本などを経て最終的な脚本に至ったらしい。
19世紀のオーストラリアが舞台という意外さというか、これは小説での設定なのだろうなと思うが、ヒッチコックの経歴に従って鑑賞しているとややビックリする。当時は本国のイギリスで犯罪者となった者たちの流刑地として、ひいては新しい大陸の開拓者として人々が送り込まれていた。
主人公は総督の甥であるチャールズ、ヒロインは主人公の姉の友人であったヘンリエッタ、その夫のフラスキー、夫婦の邸を管理する女中頭ミリーなどが主な登場人物となる。
オーストラリア到着直後、当地の有力者であるフラスキーと知り合ったチャールズは誘われた晩餐でヘンリエッタに再会する。が、彼女のメンタルはヘランコリーしていた。その理由とは…。
オチをばっさりと述べてしまうと、彼女を狂わせていった原因のひとつは女中頭ミリーの存在であり、もうひとつは夫フラスキーへの罪悪感であった。
三角関係と評するには、どちらかというとミリーを含めたフラスキー家の状況で、チャールズは英国紳士然とヘンリエッタを快復させようとしていたに過ぎないように見えた。最後まで見れば言うまでもないのだが、チャールズはちょっとしたマレビトなのだな、となる。
サスペンス味としては、ミリーのフラスキーへの愛の描写が異常であれば見どころもありそうなんだけど、ヘンリエッタを徐々に狂わせようとしている以外は(内容としては十分に異常なんだけれど)、演出はそんなにスリリングでもないんだよな。ラストはちょっと魅せたけど。
つまり、あまり見どころがない。逆に、ところどころコメディっぽくて、邸の汚い女中たち(なんとなくディズニー作品を思い出してしまった)の作った食べられる代物ではないハムエッグのシーン、ヘンリエッタの美貌に総督がすっかり変節してしまうシーンなどは笑えて、よかった。
ヒロインを演じたバーグマンは本作においては、あまり良くなかったと評されているらしいが、過去にフラスキーを犯罪者としてしまった事件の真相を独白するシーンは流石の迫力があってよかったな。
あとヒッチコックに限った話じゃないのだろうけど、螺旋階段が好きよね。撮って画になりやすいんだろうな。よく使われているので、やや食傷気味だよ。
後はアレだ、チャールズが乗馬が下手くそだったと回想されていた設定が、ちゃんと回収されているあたりは、一見すると平板な作品ではあるが、整っているところは整然としているねと勉強にはなった。
ヒッチコック作品初のカラー作品、『ロープ』《Rope》を観た。ショッキングなオープニングから始まる本作は、サスペンスらしさ満載でワクワクさせられるスタートだ。物語はアパートの一室で完結するし、結末の見せ方も舞台っぽいなと思ったらやはり舞台作品の翻案らしい(Wikipedia情報)。
また、舞台、本作の基には実在の「レオポルドとローブ事件」があり、どのような事件かといえば、超人思想にかぶれた若者 2 人のバカげた虚栄心で殺人事件を起こす。
情報によれば「ニーチェの超人思想がうんぬん」となっていたが、ニーチェの超人思想というか、その曲解だろう。実在の事件を起こした若者らはユダヤ系だったというのは、文字通り、皮肉な点で、元の事件は 1920 年ということだが、戦争も一段落してこういう題材が映画で取り上げられる余裕も出たみたいな向きもあるのかな?
さて作品の内容に触れる。
舞台設定が少しばかり想像に委ねられている個所がある。犯人らと被害者はハイスクールかカレッジの同窓生のようだが、被害者は理不尽な恨みを 2 人から買っていたようで、それが犯行に繋がった。理不尽な恨みを正当化するための超人思想ではあるようだが、まぁ甘っちょろくて子供っぽい。
犯人の 1 人、ブラントンはややもすれば高慢な人間で、犯行直後に同室で開催したパーティーで場を支配し切ろうとする。この強がりが破綻気味なのは傍から見ていれば、つまり観客側からは明らかなのだが、それはつまり演技のさじ加減が上手いのだと思う。彼の演技は好きだね。ちょっとブラット・ピットの雰囲気が被った。
もう 1 人の犯人フィリップは対照的に、犯行を後悔し、怯え切っている。これは作劇の妙だが、ブラントンの方は動機が透けて見える気がするのに、フィリップはよく分からんのだ。だが、犯行時にロープを力強く引いていたのはフィリップなんだ。結論は示されないが、想像力がかき立てられる。うまい。
被害者の人間性も、パーティー参加者の証言でしかわからないので、彼は本当はちょっとくらいでもイヤ味のある人間だったのか分からんし、彼は本当に実に好青年で、犯人らの勝手な嫉妬が本当に勝手に燃え上がっただけなのかも分からん。
ちょっと、ヒッチコックの監督作品の一般論みたいな話を挟む。
ここまで観てきた作品の多くにおいて、犯行がばれずに犯人側が万歳! とはならないのが前提で、かつ犯行なり物語の真実が本当に露見するのは本当にクライマックスであることも定番であった。
事件の発生とクライマックスを繋ぐ、そのあいだの劇、物語、会話について、事件を直接解決するための描写はどちらかといえば最小限だ。ではいったい、どうやって 1 時間以上の作品を娯楽として埋めているのか、成立させているのか。
元に戻るが、あらためて考えるとロープの場合、上述のような仄めかされる人間関係を推察するのが、本編を眺めているときの大きな楽しさなのかな。犯人 2 人を除いたパーティー参加者のユニークさは、探偵役であるルパート以外はあんまりなかったかな。家政婦? の方はちょっとおもしろかったか。
撮影方法としては疑似ワンカットというやつで、カメラがブラントンの後姿のジャケットにズームしていって暗転し、のような箇所がいくつかあり、前後はそのまま続いているように演出している。そして、作中では上映時間の 80 分がそのまま過ぎていく。
舞台を翻案した作品であることを意識付けたかったか、あるいは脚本をヘンに映画向けに操作する必要も感じず、このような手法を取ったのか、といったところだろうが、ワンカット風をワンカット風として価値づける理由ってなんなんだろうな。それは 1 本の作品の長さや、フィルムというツールの都合もありそうだけれど…。
ワンカットであることとは関係はないが、居間からエントランスを通って逆側のダイニングへとカメラが移動し、ブラントンがキッチンの扉を開く。キッチンの扉はいわゆるスイングドアで、勢いよく開いたものだから、ユラユラと揺れる。
揺れるドアの向こうでブラントンが犯行に使ったロープを引き出しに隠すが、すぐ隣のダイニングには家政婦がいる。ブラントンがスリルを楽しむようにしているが、これはフィリップに見せているわけではないので、見るとしたら当然私たちだ。
ロープを隠す作業をするお道化たブラントンが見え隠れするのは、犯行が露見するのか隠し通せるのかを暗示しているわけだが(もちろん露見する!)、それを揺れるドアでの見え隠れで表現するなんて、いかにもオシャレなカットだ。今作で 1 番好きなシーンだね。
居間の背景もすばらしかったと言及しておく。背後の壁はほぼガラス張りで、向こうの遠景には摩天楼が広がっており、 冒頭からラストまでの 80 分間で青空の昼間、オレンジの夕刻の差しかかり、紺色の混じる夜の差しかかりと色合いが変わっていく。なんとも美しくて、ついつい役者たちを忘れて背景を眺めてしまうくらいだった。
ヒッチコックの『汚名』《Notorious》の感想となる。元ナチスのスパイであった父、その娘であったアリシアは FBI に協力するために南米はブラジルに移動して、現地の元ナチス達と交流し、あまつさえターゲットの妻となるに至った。
本当は彼女は、FBI のエージェントと恋をしている、というのがロマンス部分のミソで、サスペンス要素は彼女のスパイ活動にある。ヒッチコック流のマクガフィンということで言えば、秘密を握るは謎のワインボトル、そこに仕込まれていたウラン鉱石、その出所は何処か、というのがポイントか。
だが個人的には本作は、ロマンス要素のほうが大きい。2 人の恋はどう見ても明らかだが、ターゲットを騙すという職務上の目的のうえでエージェントの男は本心を明かさない。そのうえでアリシアは彼のために、あるいはアメリカ国民の義務として、スパイ活動に従事する。自分の気持ちも都度、彼に伝えているが男は応えない。そんな男に惚れる必要ある?
一方で、ターゲットはアリシアに惚れ込んでいて、出会って 5 秒(誇張表現です)で結婚を申し込む。アリシアはスパイの任務として、それを受け入れるのである。そんなヒロイン居る!? 居るよなぁ。まぁ、本場のスパイ活動でもこれくらいのことはするんだろうけど、なかなかダイナミックな展開だ。
ついては、これも個人的な見解ではあるが、ヒロインに惚れ込んだターゲットが不憫でならず、展開を見守るのが心苦しかった。ではあるが、彼女がスパイであることが露見すると、ママに頼って方針転換するあたりはサッパリしすぎていて、笑っちゃうくらいだけどね。愛する女のために何をどうするってことは、自分たちの立場を守る以上には、この男にはない。
映像的には、最後にエージェントの男が彼女を救出するシーンがよく出来ているというくらいだろうか。ターゲットの男の情けなさとエージェントの男の最後に見せた誠実さが対比され、階段を下りてくる彼らを階下の広間で怪しく見守る元ナチスの悪党たちの立ち振る舞いが、いかにも恐ろしげであった。この作品はこのシーンのためにあるといてもいいくらいでは。
南米にナチスの残党が、という話は知っていたが、戦後直後からこういう題材になるのだなというのが 1 点と、アメリカ合衆国、あるいは欧州人にとって南米って、良くも悪くもこういう避難地であることが、この時代から変わらないのだなというのが 1 点、それぞれ勉強になった。
まぁしかし、日本からも 19 世紀から 20 世紀にかけてブラジルに移民が少なからず渡ってもいるし、文字通りの新天地でもあったわけだ。モノクロなので感得しづらいが、屋外の南米の陽気な様子、室内の陰気な様子みたいな対比もあったのかな、などとも思われた。
あとは、ヒロインの人間像に酒浸りという属性が付与されており、これも気になる。次々回の監督作である『山羊座のもとに』のヒロインもそういった設定があった(細部は異なるが)ので、これも何かしら時世に合わせたところがあるのだろうか。
ヒッチコックマラソンです。『白い恐怖』《Spellbound》の感想となる。
『断崖』の感想でも述べたが、ヒロインは学識のある女性で、ロマンスとは無縁の人生を過ごしてきました、というような設定で、ひとつの典型かな。また、近視であるようで資料を読むたびに眼鏡を探して掛ける動作が印象深い。
退屈な作品かなと思ったら、ググッと引き込まれる。新任の医院長として赴任してきた男は、記憶喪失の別人だった。果たして真相は…。リアリティとしてはムチャクチャなのだが、とっても気になる流石の演出術。だが、精神分析というテーマが現代的にはちょっとばかり白々しい。作中でも精神分析を腐す人物やシーンはあり、当時でも半信半疑だったのかねぇ。扱いがよくわからないが、まぁいい。
男女の逃避行という観点としては『三十九夜』を連想させられた。共通点としては、巻き込まれ型の事件であること、主人公とヒロインが各地を転々と移動することなどが挙げられる。パートナーを連れまわす立場が男女で逆転している点は、本作の面白いところではあった。頼りにならない男というのは、『断崖』と同じか。
本作を観ていて、キスシーンやロマンス色が過去作よりもたっぷりだなとあらためて感じたが、『断崖』や『救命艇』などでも似たような印象はあったので、徐々にそういった描写を増やしたかった、それが叶うようになってきた時代ということなのだろうな。続く監督作の『汚名』では、キスシーンをごまかして長くしたということなので、よくやったもんだ。
劇伴がとてもいいように思うのだが、どうだろうか。クレジットされているのはミクロス・ロージャという人物で、私はいままで知らなかったが、ハンガリー作家の音楽家ということで映画音楽、芸術音楽でも実績を残している人物であった。そうだろう、この作品は劇伴がとてもいい。
記憶喪失の男の記憶を辿る夢の世界の描写がおもしろい。まるっきりダリの世界だなと思ったが、そのまんまで、実際にダリが協力しているらしい。このような舞台美術は、あまり詳しくないが、ホドロフスキーを連想させられた(影響があるとすれば当然のこと順は逆だが)。
結末、サスペンスとしては結末を決定づける証拠があいまいなのだが、本作はそんなことどうでもいいくらい素晴らしいラストであった。確信はあるが決定性に欠ける状況のまま、ヒロインが真犯人に詰め寄る。「おいおい、他の助けも呼ばずに乗り込んでいって大丈夫か?」と誰しも思うと考えるが、ヒロインは、圧倒的にクールに真犯人を論破するんですね。かっこいい。真犯人の浅はかで矮小な心理を彼女は決定的に叩き潰す。いや、すばらしかった。
というわけで、本作は割と好きです。原題の “Spellbound” は「魔法で縛られた」というニュアンスだが、「魅了された」という意味も含むようだ。男の記憶喪失を指しているのか、ロマンス成分の意味合いも含むのか、どうだろう。しかし、この作品の男の記憶喪失にも戦争体験が絡んでいる。他の作品でもそうだが、戦争の傷というのが現前とある(あった)ことがよく分かるね。
なお、設定的には背後に追いやられているが、記憶喪失の男のもともとの先生というのが学会界隈で嫌われていたというか、少し風変わりな人間として扱われていたというような設定が潜んでいるようで、このあたりの匙加減の巧さというか、奥行きも気になったね。
ヒッチコックを見るシリーズです。今回は『救命艇』《Lifeboat》を観た。戦中の作品ということでプロパガンダ映画、ということでいいのだと思うが、定義がよくわからないので、なんとも言えない。
脚本の原作としてスタインベックの作品があるらしいのだが、軽くググった程度では作品名が出てこない。なので、どれくらいベースになっていると言えるのかもわからない。
物語としては、アメリカ合衆国とイギリスを行き来する民間船が、Uボートに沈められた。沈まずにすんだ救命ボートには、身分や立場も様々な人間達と、Uボートの乗組員であるドイツ人が乗り込んだ。彼は個人として信用に足る人物なのか、というような疑念がストーリーの半分くらいを駆動させている。もう半分は、漂流そのもののスリリングさだろうか。
ボート上では無情にも落命する人が出たり、小さなロマンスが生まれたり、疑念と焦燥が相互に諍いを起こしたりと、内容は盛り沢山なのだが、いかんせん、漂流している船上での話なので景色が代り映えしない。嵐の描写などはおもしろくはあるのだが、本作の飽きポイントはここが大きいかな。
オチもそこまで面白みもないように思うが、一旦でもドイツ人を信じしまった時点で、ボートは支配されていたという状況は、穿って言えば、状況が許してしまえば割と簡単にいわば民主的、いわば多数決的な決定能力を人々は失って、独裁あるいはそこから始まる非支配的な心理状況、思考能力の低下に陥るのではないかという示唆ではあったか。
だが逆に、1 人のケガ人をあえて死に追いやったことは弁護しづらいものの、冷酷とはいえドイツ人の判断が、同乗した乗員を救おうとしていた点に嘘はないかもしれない、という考え方もできる。実際にドイツ側の補給艦を目指したほうが生存確率が上がるというのであればなおさらだ。
そしてその判断をできるものが他に誰 1 人としていないという状況だったのだから…。こうなると、ドイツ人を追い落とした集団の狂気とも解釈できなくはない気もする。この考え方に気がつくと、なんだか本作は不気味に感じた。
久々にヒッチコックを鑑賞した。今回、鑑賞したのは『断崖』《Suspicion》(1941)である。3 連休にまとめて数本見たので、しばらくヒッチコックの感想マラソンが続く。
思い切りよく結婚した相手が、無一文のお調子者であった。資金繰りに困ったうえに怪しい動きを取る夫への疑惑は深まる一方で、結末はどうなる? という話だ。原題は “Suspicion” ということで「疑い」などの類だが、これは「断崖」として割と面白い邦題ではないかな。
夫への疑惑はどのように解決されるのかという点のみが焦点だが、なんというかオチはごくパーソナルというか夫婦愛だぞ! みたいな着地点だったので、この尺が必要だったのかしらとなった。
面白くなかったわけではない。夫が自分を殺そうとしているのではないかと疑わしいシーンにおける夫の挙動の怪しさ、その撮り方はやはり魅力的ではあった。しかし、それくらいかな。
そもそも夫は、本当にクズ男で、これはそれだけ愛情の深さを逆説的に表現していると受け取る以外は難しいが、それくらいダメ男なので、当時の人たちに共感されたかも訝しい。しかし、映画で描かれるダメ男というのはひとつのモデルなのだものな。
クズ男を演じるのはケーリー・グラントで、本作以後にもヒッチコック作品では『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』でも主演なのかな。最後の鬼気迫るシーンでの表情はとっても良かったな。
ヒロインの設定のハイミス(今日では死語、あるいは使ってはいけない類の言葉)は、なんだか逆に目新しいなとも思ったが、ヒッチコック作品としては割と典型的なヒロイン像でもあるなと思い返した。
『ザ・ハント』《The Hunt》を観た。確認すると本作は 90 分程度ということで短めな作品だ。そう言われればそうだね、短かった。とはいえ、ボリュームがないわけではなくて、満足感でお腹いっぱいだよ。R15+指定ということで、残虐な表現を含んだ作品です。
本作の制作背景などはまったく知らないが、いわゆる「人間狩り」ゲームで物語は進行する。ありがちやな、という第一印象は、序盤のグロテスクでスプラッターな描写によって吹き飛ばされる…、ってことはなくて単純に目の毒であるだけなのだが、ただのスプラッター映画ではなさそうな本作の正体は、しばらく分からない…。
ハンター側の老夫婦が待ち構えるスタンド脇の雑貨店の様子、狩られる側との攻防、老夫婦のやりとり、オチの描写まででようやく前提がわかる。狩られる側は、主にネットでフェイクニュースを生産、拡散、盲信してしまうような人びとのステロタイプたちで、一方の狩る側は、そのフェイクニュース(とも言い切れない)の被害者側たちなのだ。
本作の制作側などからの発信、あるいは批評筋の説明がどうなっているかは不明だが、これを具体的な政治的なカテゴリーにあてはめるのは最終的には悪手だとは思う。とはいえ、大雑把にはハンター側は、リベラル主義者のような思想を武装しており、富裕者たちだ。
対して狩られる側は、一括りにはできないが、上述のようなタイプの人たちだ。彼らをどのように括るべきかは難しい。現実的な意味でもそうだと私は考えるし、作品中でもそのように描かれる。つまり、狩られる側のバックグラウンドはほぼ語られていないし、そもそも一定しない(ステロタイプとは言っているが)。
重ねて言うが、狩られる側は上述のステロタイプのようには設定されており、もちろんそういう人物たちの問題、そういう人物たちが問題であるようにも提示されているが、それはあくまでハンター側の立場からの描写においてのみだ。
最終的に、本作の物語の起点かつオチは、ここに集約されているのだが「被害者ぶって、そこから生じた敵意を周囲にまき散らしたら事故るぞ」という教訓譚じみた話になっている。
残虐なカットがウリの作品でもあるので、このシーンがよかったみたいなのはあまり(言いたくも)ないのだが、最後の、悪く言うと間延びしたような印象も否めないインファイトも好きだし、淡々と処理されていく人間たちの描写は割り切りがあってよいね。
ポスターに鎮座してモチーフとなっている豚ちゃんは、設定上はハンター側のペットのようだが、なんで放し飼いにしているのか皆目不明という代物ではあったが、雑にか丁寧にか『動物農場』を絡めた風刺にはなっている模様で、そのアイコンなのかなぁ。
『動物農場』を持ち出すということは、愚直に受け取れば、本作は根底的には全体主義批判も合意している…のかもしらんが、構図は全体主義を志向する輩が登場するわけでもないから単なる小道具のひとつでしかないような気もする。
ついては、彼女が彼女をスノーボールと名づけたというメタファーもよくわからないが、彼女は自身をナポレオンと自負していたのか? とも思えない。いや、一方の彼女とやらが自称していたという「全体の正義」(正確な字幕は忘れた)というネーミングを逆手にとったのがスノーボールという渾名なのかな。
タイトルについても少し気になる。あまりにも捻りがない。この言葉をそのまま「狩り」と受け取ってしまうのは、本作の主張を真に受ければ、あまりにも単純に過ぎないか。どうだろう。
最後にひとつだけ言うとすれば、敵か味方かも判別することすらできずに散っていった彼こそが象徴的だったのかもしれない。社会に余裕があれば、コウモリを見逃す余裕も、あるいはコウモリの意見を聴取する余裕もあるかもしれないが、極限の状況ではそもそも彼がコウモリであるのか否かを判断する猶予すら与えられない。
時制的にもプロット的にも、その描写にも、総合的に見て好意的に受け入れづらい作品とは思うが、こういうエッジがきいている作品は好きだな。
2019 年のアニメ『ケムリクサ』を暇つぶしがてらに視聴しはじめたら、一晩で最後まで観てしまった。2012 年頃に制作された同人作品のほうは皆目知らなかったが、それがリメイク、拡張されたのが本作と言っていいのかな。
あらすじだが、あかぎり(赤霧)というモヤに包まれた大小の島々が幾つかの壁に隔てられている。主人公である「りん」の姉妹は、闖入者にしてもう 1 人の主人公である「わかば」とともに、水源を求めて危険な島へと移動することを決意する。
さて、監督の前回監督作品も似たような設定でポストアポカリプス様の世界だったが、いわゆるまともな人間は存在しない。「ケムリクサ」という能力をまとった草のようなアイテムと、それを行使できる姉妹がいる。そこに わかば という人物が合流した、という具合だ。
ここまで書いて思ったが、この作品を魅力的にしているバランスってすごい繊細なのかな。まぁ、世に出される作品というのは、ヒットするにせよ否にせよ、そういうものか…。これがおもしろいんですって言いづらいけど、ついつい先が気になってしまう。そういう作品ではある。
本作についていえば、「世界の謎と物語の結末が気になる」といえばそうなのだけれど、ではそれを魅力的にしている材料はなんだ? ケムリクサの存在や設定の見せ方の巧妙さか? 姉妹の可愛さや格好よさが魅力か?
とは言ってもやっぱり「砂漠でオアシスを探す」というのが大きな魅力だな。類作としては『BLAME!』などが思い当たるが、命かながらに旅を続け何と出会うのか、目的の成果が見つかるのか、途中で断念するのか、不幸にて断絶するのか、別の結果に至るのか、などなどである。
オチについてだが、彼らが現実から別の層にあるメタ(あるいはデータ的な)存在であり、そこでの消滅が更なるデータの海への一体化なのだと解釈すれば、ネタを明かされたうえでひっくり返してみれば、時間はとてもかかるが事実上はずっとコンテニューできるゲームのようにも見えた。
これをどう捉えるのかは、なかなか難しいような…。
とりあえず置いておく。
ところで本作、閉じた世界観と植物というモチーフがそこそこの抽象度で設定されているので、話を拡げるには割とフックが少ない。が、個人的には「ケムリクサ」というネーミングがよく分からず、気になっている。漢字にすれば「煙草」なんだろうけど、これではタバコになっちゃう。意図はあるのか?
こじつけるなら-と言うほどのつもりもないが、姉妹が求める生存条件としての水を元として「あかぎり」は水から生成されて、「ケムリクサ」は水をエネルギーとして機能している。
つまり“霧”と“煙”はさまざまな意味で相反しているわけだが、一般に“霧”や“煙”は視界を遮るように、空気中を漂って拡がる存在である点については同様だ。
これらの醸すイメージというのは、一般に幻想性とかだと思うのだが、まぁつまりそういう所与があって「ケムリクサ」という名前になったのかな、とか。結論めいたものはないけれど…。
アニメーション自体には特に述べたいこともないが、姉妹のキャラクターの個性の出し方、伴って ED のビジュアルがカッコよかった。さて、ざっと見る限りでは、タツキ監督(尾本達紀)は 2020 年は発表された作品には名前を出していないようだけど、次は何をしてくれるんだろうか。楽しみが尽きない。