虚構を相手にそんなにはしゃぐな?|『ルクス・エテルナ 永遠の光』

『ルクス・エテルナ 永遠の光』を観た。なんとなく映画を探していて、まぁ面白いということらしく、チケットを取った。予約のタイミングが早かったのもあって、予約したときはガラガラだったが、劇場についたら思っていたよりも席が埋まっていた。

それにしても監督のギャスパー・ノエもまったく知らず、ワクワクとしながら見始めたんだけど、ぶったまげましたね。うーん…。

考えさせる系の映画、ということで合っていると思うが、どうだろうか。1 回書きたいことを全部載せた感想を書いたが、どうも気持ちがよくないので、止めた。

この作品で描かれているある種の不条理さを笑いに転化するということも個人的には難しくて、煮え切らない。別の場所にも記したのだが、そのことだけ書こうと思う。

本作、ベアトリス、シャルロット、アビーという 3 人の女性の苦悩が分かりやすい。男も登場するが、ほとんどが気持ちが悪い。登場する男たちには、ほとんど台詞と役割があるのだが、まぁ気持ち悪さを引き立てるだけだ。まぁとにかく男は皆、気持ちが悪い。

女性は上記の 3 人の他、下撮り用のシャルロットの代役の女性、シャルロットの誘導係、その他という感じかな。

ベアトリスは、初の監督作品ということで気合が入っているがプロデューサーとも撮影監督とも反りが合わずに、何もかもうまく行かない。実際、指揮能力があるようには見えないので仕方がない。本作のイメージにも使われているが、最後に「なぜ誰もかれもが私を置いていくのか」と嘆いている。

シャルロットは、この愚作に付き合うことになってしまった人気俳優ということだ。ようわからん撮影に巻き込まれている点も不幸だが、問題は娘が身体的な被害にあっているかもしれないという事実が電話で不確かながらも露見した点にある。仕事をぶっちして帰ればいいのだが、タイミングが掴めなかったね…。

メタ的には、彼女の不幸は映画そのものにも、撮影現場にもない、というメッセージに読めるがどうだかねぇ。彼女も本作のイメージに使われており、磔にされて項垂れている。「永遠の光」とはえてして、見えない不幸によって支えられているのだ、とでも言いたげだが、よくわからん。

アビーは、シャルロットと同じく磔にされる。彼女は英語圏から撮影に参加しており、フランス語で進行管理される現場になかなか付いていけない。トラブル続きだし、どうしようもない。クライマックスの磔のシーンでは彼女の存在感が最高潮になる。かわいそうで、たいへんそうだね。

といった感じだが、私はもう 1 人の磔にされた女性が気になった。この女性は 1 回も台詞がなかったのではないかな。問題の磔のシーンでも黙っていた。それでもこの磔からアビーもシャルロットもさておき、1 番に解放されたのが彼女だった。

この映画がベアトリスの嘆きとシャルロッテの諦めという構図で締めくくられるにあたって、アビーももう 1 人の女性も意図的には添え物でしかないはずなのだが、そこに意味を持たせたとき、右側の女性がぽっかりと、誰にとっても都合のよい、本当に非常に淡白で、逆にそれだけ私から見たら奇妙な味付けになった。

私は、彼女のために自分がこの映画を観たと、そう思いたい。