『花束みたいな恋をした』を観た。やっぱり劇場で映画を見るのはいいね。

映画で菅田将暉や有村架純をみるのは初めてで、これは非常に貴重な体験だった。有村架純についていえば、演技をまともに見たのも初めてかもしれない。

大枠としてはラブコメ枠でいいはずで、このジャンルの作品は年間に数多製作、発表されていると思うが、2016 年くらいから映画を鑑賞するようになってからポツポツと摂取している。

そんな個人的な鑑賞体験の範囲で本作を評価すると、この作品には、ごく普通のごく平凡なごく幸せな恋愛体験の始まりと終わりだけがあって、これがかなり奇跡的なことと思われた。

濃い設定やクセの強い主役たちであったり、なんらかの悲劇によって 2 人が引き裂かれたり、といった物語を盛り上げるための装置がほぼなく、どこにでもありそうなほろ苦い人生が描かれるのがよい。

とにかく普通の作品であることがすごい

京王線沿線に暮らす麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、ふとしたことから調布駅で終電を逃し、そこに居合わせた他 2 名と朝まで過ごすことになる。で、他 2 名はどうでもいいが、お互いに文藝ファンであったり、押井守を本人であると認識できたり、といった感じで気が合ったようなので、付き合いを深めていく。

ごくごく普通というか、大学生以降の人間関係は、こういうキッカケでスタートしていくものだよね。本棚のラインナップがメチャクチャ被ってるとか、そういうのを小さな運命の積み重ねみたいに言ってもいいし、少なくとも恋愛してる当人たちは運命性を感じてるものだろうけど、客観的に眺めていると、まぁよくある話だ。

これは悪い意味ではなくて、だからこそ本作が描く物語には普遍性がある、ような気がする。言うなれば、その点の当たり前さが妙に生々しくて、特に私は男性であるからか知らぬが、ところどころ菅田将暉が演じる麦の挙動に、共感性差恥心のような感情が生じて独特の気持ち悪さを感じた。

そういう点も含め、恋愛から結婚への地続き的な思考、あるいはその否定や(これは麦、絹双方だが)、これまたあまりにも典型的なすれ違いの様子などのディテール部分は、少しばかり違和感を感じなくもなかった。とはいえこれも、私個人の体験や感覚との相違から生じるギャップであるとしたら、その根源にある理屈や感情は限りなく私のナマモノであって、なかなか空恐ろしい。

ほにゃららカルチャー的なあれこれ

上述したように、麦も絹は、同じ特定の作家が好きだったり、押井守を判別できたり、音楽の趣味が合ったり、という特性がある。本作の難点というか、実在の固有名詞がバシバシ出てくるので、実際にこれらを知っているか否か、親しみがあるか否かで感触が大分変わりそうだという点があった。

私個人としては、本作に登場する作家やミュージシャン、映画などなどは大体は知っていたのでウワァーという感じで、物語の時系列の先頭にあたる 2015 年から世の中のいろいろはこんな感じだったなと、懐かしいような、やはり恥ずかしいような思いをもって見つめていた。

特に印象的だったのは 2017 年発売のゲーム筐体である Nintendo Switch のロンチタイトルであった『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』で、中高年世代(30 歳代以上くらい)はこのゲームでひさびさにコンシューマーに帰ってきた感があったが、麦と絹は 2 人はサラリーマン生活が徐々に忙しくなっていき、これで遊ぶことがなくなっていく。

あるいは、職場での泊まり込みの寝台では、なんと麦が「パズドラ」に興じているではないか。お前…、そんな、なんでそんな…。いや、いいんですけどね…。

長くなりそうなんで、カルチャー的な話は切り上げるけど、気になったのはレビューなどで本作で挙げられたカルチャー的なあれこれを「サブカル」と括って済ませていた人が多からず、いたことだ。まためんどくさい視点だなと呆れられるだろうけど、本作に登場したさまざまな映画、音楽、文藝などをサブカルと呼ぶ必要があるのか。ないだろうと思うが、どうだろうか。

秒速5cmメートル的な感触が…

ラストシーンの正に映画を見終える瞬間、視点が現代に戻り、麦と絹がそれぞれの新しいパートナーと街へ散っていくとき「あぁ、こりゃ男女双方の視点を補完してキレイに終わらせた大人の秒速5cmセンチメートルじゃん」と勝手に腑に落ちてしまった。

Twitter で検索してみると、同じような感想を述べたツイートは少なくなさそうだ。どういうことなのか。

それでもやっぱり男視点だなとは

つまり、この作品は限りになく平等に視点が描かれているけど、細部をちゃんと押さえると、一応は麦側の視点に重きが置かれている。どういうことかというと、タイトルを振り返ってみればわかりやすい。とりあえず、そのことには深入りしない。

そういえば、ラブコメものをいくつか見てきたと冒頭で言ったが、男性視点が軸に据えられている作品は、実はあんまり見てこなかったことに気がつく。『勝手に震えてろ』(2017)『愛がなんだ』(2018)などがパッと思い浮かぶが、いずれも女性作家の女性視点の作品だった。

であるから、その面で考えれば新海誠の作品が連想されてもさほど不思議ではないのかな。してみると、これは比べようのないことだけれど、作品への感情移入のしやすさのハードルは実は男性の方が低いのかもしれない。どうなんだろうね。

物語自体も、全体的には各イベントを提案するのはほとんど麦で、そういう意味では、古臭い作品ということもできるのか? とも思わなくもない。このポイントが、本作の面白さを左右するとは思わないが、小さな違和感のひとつではあった。

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