『長江 愛の詩』の記録をようやくまとめた。原題は「長江圖」となっており「長江の図」の意味か。英題は “Crosscurrent” で「逆流」「遡行」などか。作中で何が起きたかは英題が端的に表しているように思える。邦題はエモくて、実に日本らしい。けど、詩をピックアップしたのは良いと思う。

本作について監督は構想から数えて 10 年以上を費やしたとどこかで読んだインタビューで明かされていたが、シナリオの制作が進むたびに内容は複雑になっていったらしい。ということで、本作は非常に分かりづらい。

発表は 2016年 で日本国内では 2018年 にシネマート系(テアトルグループかな)で主に上映された、と思う。

2019年 には岐阜の映画祭で扱われたらしい。2020 年には仙台で上映されたらしい。私は 2018 年に劇場で鑑賞して非常に感動して、 DVD まで購入した。撮影は 35mm フィルムカメラを使ったらしく、恵比寿ガーデンシネマでの上映は 4K だったそうだが、残念ながら相応に画質が保証されたパッケージは、少なくとも日本国内では販売されていない。

ちょっとあまりに多面的に書きたいことが多く、メモを書き連ねて残して置いたら 3 年くらい経っていた。修正や補筆をして出そう。

あらすじ

主人公のガオ・チュンは、死んだ父を継いで長江で運航する貨物船の船長となった。操舵をはじめとした貨物船の従事者としての能力は低く、ベテランのホンウェイ、若手のウー・シェンに頼りきりだ。やくざ絡みの積み荷を上海から遡行して運んでいくことになったが、積み荷の正体がどうも怪しい。ほぼ同時期、エンジンルームで長江の地図、亡父の作と思われる詩が添えられている-を発見した。積み荷を運ぶにあたって長江を遡りつつ、印の土地に沿って停泊していたら、そのたびに謎の女性アン・ルーと邂逅することになった。

ざっくりした感想

本作は、解こうとしても解けないメタファーが折り重なっている。アン・ルーはいうなれば長江そのものであり、その歴史であり、ガオ・チュンがなぜか惹かれる対象であり、おそらくまた父の愛した人でもある-これがガオ・チュンの母であるとも考えられるし、まったく別の存在であるとも考えられる。

あまり行儀のよい解釈とも思わないが、父の船に乗った息子が、彼らにとって母なる河ともいえる長江の源流に向かっていく図として見たとき、やや艶めかしいというか「父殺し」の亜流にも読み替えられるような気がする。

だが、本作の場合に殺されるのは、父という以上に、長江で育まれた文化、民衆そのものですらあり得る-これは本編終了後のカットで表されている。

この作品で描かれるのは、実は登場人物のパーソナルな愛やその問題ではなく、長江そのものへの愛であり、鑑賞者はその体験に付き合わされたのだと自覚してしまって唖然した。

監督、脚本のヤン・チャオの自伝的な側面もなくはないという話だった気がするが、ちょうど「シン・エヴァ」を見た直後だから言うけれども、失われた父、あるいは母に対して煮え切らない思いと態度を抱えつつ、彼らの深奥を探っていかざるを得ないという構造が割と似ている。そういう気がした。

なにより、そういうところに惹かれたのかもしれない。

アン・ルー

ガオ・チュンは都合 10 回ほど、彼女に遭遇する。遭遇することのできない係留所もあったが、そこにも彼女の痕跡は残っている。長江を遡るほどに彼女は若返っていく(ように描写される)が、これは話が逆で、彼女の歴史あるいは長江の歴史をガオ・チュンと私たちが逆に辿っている。

いずれにしても彼と彼女の邂逅はどれも現実的ではなく、描写自体は幻想であることをなるべく避けるようにしながらも、現実には不可能な状況を見せつけてくる。ラスト方向から感想を並べていく。回数とシチュエーションは、精確に記録したわけではないので、子細にはミスがあるだろう。

10 回目:最後の邂逅は山道を川上に向かって歩くアン・ルーをガオ・チュンの船がサーチライトで照らす。全体の筋として本来はアン・ルーは川下に向かっていくと思われるが、これは演出上の都合だろうか。ガオ・チュンがいくら彼女を呼んでも、彼女は歩くことに夢中な様子で彼には気がつかない。

この直後、とうとう現実と幻想の結節点が現れる。いや、切断面かな。このへんの描写や演出や、最高に好き。

9 回目:アン・ルーはどこかの寺院の壁画の清掃と岸壁に残されれた詩文かなにかの収集、版画作成の仕事をしている。ガオ・チュンと居合わせて、墨で顔を黒く染める。軽く交流するだけだ。可愛らしい。

8 回目:しばらく 2 人は邂逅していない。このシーンでは、アン・ルーは仏寺で修業中のようだ。また、夫と見られる男性が布団を運んで来ていた。まったく分からない。

7 回目:アン・ルーは海女のような作業をしており、河中の浮島に建てられた屋敷に居を構えている。ガオ・チュンは彼女に会えず、付近を通り過ぎる。彼女の佇む部屋の窓から、その姿が視聴者には垣間見える。視点は定かではない。

6 回目:仏塔(だろうか)に入ったガオ・チュンはアン・ルーと僧侶の問答を耳にする。彼は構内を上下して彼女を探すが見つからずじまいである。

5 回目:浜辺に立つアン、ルーは沖を行く船に向かって「私に会わずに置いていくのか」と叫ぶ。船はもちろんガオ・チュンのそれだ。だが、ガオ・チュンに話しかけているのかは定かではない。砂浜には詩が書かれている。これはガオ・チュンの父が残した詩だろうか。

4 回目:洪水なり浸水なりで家屋がどんどん駄目になっていく地区にアン・ルーは暮らしている。滞在期間、ガオ・チュンとアン・ルーは夫婦のように時間を過ごした。そのようにみえた。

ところが、アン・ルーはそこに夫が居たようである。最初の晩の次の夜、ガオ・チュンは家を再訪し、男女の諍いを目撃する。その後、なぜか男はベッド上で死んでいる。劇場と DVD で字幕に違いがあるだろうか、劇場では口論の内容が字幕された気がしたが、DVD ではなかった。

この辺、本作でもっとも分からない箇所のひとつで、当該地区が水没していくのは河川事業の一環なのだろうが、そもそも夫も 8 回目に夫らしかった人物と同一人物でもなさそうな気がした。

3 回目:深夜、路上で眠るアンルー、少し遠くでは高層ビルに花火が舞っている。これは上海なのかな。

2 回目:防波堤沿いのバラックに暮らしているアン・ルー。かつては母とここで暮らしていたという。アン・ルーとガオ・チュンはここで初めて身体を重ねた。というか、直接的に描写されるのはここだけだ。アン・ルーという存在にだけ着目すれば、あきらかにここから現実離れしはじめる。

1 回目:仕事を受けるために発船準備を進めるガオ・チュンはそばに停泊している小舟に乗った女性に妙に惹かれる。彼女こそがアン・ルーだが、船上生活でもしているようだ。解説などによると、船上で身売りをしているらしい。疲れ切った様子がある。

その他のことなど

物語の背景には長江の開発、代表される三峡ダムの存在、それに伴って変化していく流域の人々の生活、河川の環境が変化し、絶滅したとされるヨウスコウカワイルカの存在、などなどさまざまなファクターが入り混じっている。

クライマックス付近で三峡ダムを利用して、上流へ向かうシーンがあったが、劇場でこのシーンを観ることはすごい体験で、ダム施設内では船を係留するのだが、水位が上昇していくなかで響き渡る係留索の奏でる摩擦音が、長江の泣き声のようにしか聞こえなかった。

いや、まぁ、とにかくいいんだ。

以下、だいぶん前にググったときに解釈などの参考にした記事などだ。

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