誰がどこで爪を切る|『あのこは貴族』

キミは『あのこは貴族』を観たか。

テアトル系の映画館では、年末年始あたりから上映前の案内に登場していた記憶がある。門脇麦、水原希子が主演となれば、見ないわけにはいくまいと決意していた。こうした心づもりで上映開始を迎えたわけだが、決意を翻すことなく、あっさり鑑賞できた。よかった。

本作、すごくよかった。物語自体は、まぁなんというか否定的-のつもりはないのだが率直に言うと、しょーもないというか、一般化すればどこにでもある話で(あまりにも乱暴な物言い)、また、これといった起伏もない。

だが、決して退屈ということもない。何がスゴイと感じたかいうと、ことごとくツボを突いてくる俳優の演技と映像の演出で、みるみると、のめり込んでいった。

登場人物別に感想を残すのがしっくりきそうなので、そうする。そうしてみた結果、無駄に長くなった。けどまぁいいや。

平田里英

山下リオが演じる。主役のひとりである時岡美紀とは地元からの同窓生で、ふたりは富山の高校から慶應義塾大学に入学する。その後、10 年ほど音信不通のような状態になっていたようだが、2017 年の地元の同窓会で再会した後は、都内でもしばしば面会を重ねるようになる。

美紀の転機に寄り添ってくれるという立場の重要性と絶妙な存在感が無視できない一方、ちょいちょい登場するくらいなので紹介が難しい。2 つのシーンをあげたい。

まずは、自転車を引いて歩く美紀と語り合いながら歩くシーン。これはどれだけ演出の意図通りか不明だが、背景となった車道を白い車がややスピードに乗ったまま左折してふたりを追い抜いていく。この情景が、怒られるかもしれないが、本作でもっとも強烈に心に残っている。ある種の緩急を感じ、ちょっとビックリさせられた、とでも言おうか。

このシーンにそのまま続いてだが、内幸町の駅からニケツで美紀の自宅に向かっていく箇所も、本作でも 1、2 を争う名シーンであって、思わず鳥肌が立ってしまった。自転車をうまく生かす作品ってのはそれだけで貴重なんだ。

喫茶店や東京駅のシーンもそれぞれよくて、それぞれの状況で描かれる里英と美紀との連帯は、そこにあるのが何かは明言し難いが、なんなら友情やビジネスパートナーを超えた情愛があるのかもしらん。

青木幸一郎

高良健吾が演じる。慶應の幼稚舎から法学部を出て東大の法科大学院だかを経由して弁護士になり、果ては議員を目指すとか。生活の足元を固めるには結婚が必要というわけで、ちょうどよいところに榛原華子が現れた。彼らはアレヨという間もなく結婚する。

幸一郎さん、パッとした第一印象では、イケイケのリア充だったのでは? と思うが、見ていくと割とそうでもなく、実家を継ぐことのプレッシャーと葛藤、親族との世代ギャップに静かながらに悶々と苦悩している描写が醸されていて、演技も含めて、これはこれは見事だった。

結婚相手も、彼の経歴なら簡単に選べそうなものだが、そうはなっていない。実は、外面だとか社交性だとかの能力は低いのだろう。華子の前ではやたらと誠実だが、美紀が「実はそれほどイヤな奴じゃない」みたいなニュアンスの台詞をこぼすあたりで、察せられるところがある。

設定上はおそらく 32 歳である彼を、幼いと見るか、年相応と見るかは視聴者次第ではあるが、まぁこんなもんかな。とはいえ、ほんまもんのお坊ちゃまエリートの描写としては、やや弱いのかもとも思わなくもない。実態はもっとエグイだろうなと。

なお、「原作ではもっと旧弊な価値観に染まっているので、映画の脚本のキャラクターの方がしっくりきた」という感想も見た。なるほど。

榛原華子

門脇麦が演じる。主役のひとりで、作品全体としては、ほぼ彼女の視点が中心になる。29 歳かな。

父が医院を経営し、松濤暮らしのボンボンの三女ということで、大事に育てられたなりの価値観の基盤の無さ、周囲の意に沿った故の諦念に包まれた人生観を滲ませる。

バカではないものの要所で知恵が抜けている、一方で、お育ちの物腰とピンポイントでの配慮の良さはちゃんと備わっている、これまたアンバランスな人間像が絶妙な演技で表現される。

ほとんど主体的な意見を表明せずに、のらりくらいと周囲の欲望を最小ダメージで躱してきた彼女だが、とはいえ、彼女自身の意思や感情をそれなりに発した箇所はいくつかあるはずで、私は 2 つのシーンで気になった。

作中で彼女が本当の意味でひとりになれるのは、タクシーを駆って都内を縦横無尽に移動する車中だったりして。感情の機微もここで発露されることが多い。別に彼女自身にとっては、タクシーはただの移動手段にすぎない。

タクシーと決別した彼女を、そしてその選んだルートを誰が否定できようか。エンディングに解釈の余地があるのか否かは両論あろうけれど、自分勝手さが極端に振れたことを除いて、華子本人の意思決定を作品全体が肯定するとすれば、あの終わり方はどこまでも前向きだ、と個人的には考える。

相良逸子

石橋静河が演じる。華子の同窓生である彼女は、バイオリニストとしてドイツと日本を中心に活動する。良家のお嬢様然としつつ、現代社会なりの新しげな、しかし彼女自身の価値観に沿って生きる道を選んでいる。

雑に括れば、美紀に対する里英、華子に対する逸子といった構図となり、そういう意味では説明するまでもなく、逸子は華子の助けになっている。

単純に私が石橋静河のファンなだけなのだが、窮屈な世界をそれでも自分なりに伸び伸びと生きようとしている逸子は、とてもカッコイイのであった。

本作での仕掛けとしては、彼女は右手の薬指だかに指輪をしており、どこかの会話のシーンでも示唆されていたが、恋人のようなパートナーがいるのか否かは明らかではない。ノイズと思わなくもないが、フックとしての機能はあるのだろう。

時岡美紀

水原希子が演じる。甲乙つけがたいというか、出演者はみんな好きなんだけど、本作で誰に敬意を示したいかといえば彼女になる。本当によくやった。里英の説明で触れたように、主役のひとりである。

富山の高校から上京して大学生になったのち、紆余曲折あってイベント会社のコーディネーターのような仕事をしていると思われるが、学生時代の縁から幸一郎とたまに時間を過ごす仲になっている。

彼女は貴族ではないので、タイトルの視点はあえて特定するとすれば、時岡美紀の視点がもっとも近いとは言えるだろう。

でもね、別にタイトルの「あのこは貴族」というようなニュアンスは、作中ではあからさまに表現されることはなかった。そう言ってもいいと思う。

本作において華子と美紀の交錯点というのは、思いのほか小さい。

それでありながらも、物語は全体として美紀と華子を取り巻いた、行き当たりばったりを強いられるような生活と環境、彼女らの生活は対比ではなくて、それぞれの喜びも悲しみも、等しくそれぞれに訪れるだけで、実際には縁があるのかないのかも定かではない華子と美紀が、見事に重ねられている。

攻めと受けの八方美人の在りかた

そんな彼女らについて、あえて対比をして見てみると、華子が防御力をあげて世界と対峙してきた一方、美紀はそれなりに攻撃力をあげて世界と対峙する必要があった。

大学入学を喜ぶ美紀、年末年始に草臥れて富山の実家で過ごす美紀、同窓会でひとり酒を煽る美紀、年明けのパーティーで逸子に挨拶する美紀、突然に逸子に謎の会合に呼び出される美紀、その他、その他、その他…。

彼女の見せなければならない表情が多いこと多いこと。

同時にして逆に、華子は、最小限の表情の変化で、それぞれの状況で彼女自身の感情のゆらめきを表している。

これらの演技、演出を振り返ると、あらためて驚かされるが、とにかく主演の彼女らの演技には惚れ惚れする。

女性たちによる世界観なのか

本作、監督・脚本が岨手由貴子、原作が山内マリコということで、制作人の主要メンバーも内容、テーマ的にもほぼほぼ女性が中心になっている。

珍しいことはなくて、これは潮流なのだろうけれど『燃える女の肖像』しかり、『はちどり』しかり、そういうところがあった。

そこにどこまで意味を見い出すかは鑑賞者次第といっていいとは思うが、特に本作においては単純に旧世代側の人間か否か、でいいのかなと。逸子が美紀に対して「旧来の女性」が強いられていた生き方を論じるシーンがあったが、少なくとも「旧来の生き方」を強いられているのは、高良健吾なのだよな、本作は。

古い価値観から逃れていく人たちと、そうでない人たち、そういったギャップの観点としては、まぁティピカルだったかな。些細なことではあるけれど。