正義の味方はいかに生きづらいか|『すばらしき世界』

『すばらしき世界』を観た。原案の小説『身分帳』(1990、佐木隆三)は、未読だ。監督の西川美和の作品を観るのも初めてで、役所広司が主演した映画をちゃんと見るのも初めてだ。

物語の主人公、三上正夫(役所広司)は正当防衛とも思しき殺人を犯し、自己弁護の失敗も重ね、平成 16 年に収監されて平成 29 年に娑婆に戻ってきた。社会生活に 13 年間のブランクがある。彼は「一匹狼」を自称するが、反社会的勢力の部分であったことは確かで、出所後に東京に向かう道すがら「カタギ」として生きると自ら誓う。

冒頭、東京の身元引受人の家にあったテレビ脇のカレンダーは 2 月 20 日を指していた。冬だ。そして物語はおそらく 7~8 月に終わる。よって、本作はおよそ半年程度の出来事を描いている、と思われる。

こう振り返ると、およそ 2 時間の上映時間は濃密だった。彼の生活は、アパートをなんとか借りて生活保護を受けながら職探しを始めるところから始まるが、暮らすことになったのは荒川付近だろう。荒川区か足立区か江東区か、そのへんかな。

前置きが長くなってしまった。

コメディ調に演出される箇所も多く、緊張と緩和のテンポのよさが不気味に心地いい。個人的には中盤の転換点がやや怠く感じたが、その弛んだ感触も長続きせず、結果的には幕引きまでちゃんとジェットコースターに乗って楽しめた。

本作に問題提起があるとすれば

社会派な作品でもあるが、そういう意味での本作の根幹を成す部分はなんだろうか。たとえば『万引き家族』(2018)と比べようとすると難しくて、「どちらのほうが自分にとってより身近な問題に感じるか?」というと、かなり回答に迷う。というか、答えが出ない愚問ではあるか。

よほど整備された世界で生まれ育った、相当に幸福な人間でもない限りは、三上のような、怒りが暴力に直結しやすい人間に、誰でも人生で 1 度以上は遭遇するだろう。暴力やその破壊力の次第ではあるが、居ることはいる。

とはいえ、遭遇したことがあるタイプの人間だから彼に共感しやすいかというと、そうはならない。それは多くの人間にとっては、彼は加害者、もしくは邪魔者、乱暴者であって、決して何かの被害者ではない-少なくとも表面的には。

もちろん、私は本作で描かれた彼の感情の起伏の程度には引いてしまった。大方の反応もそうだろうと感じる。

そういう意味では、「万引き家族」のほうが身近な問題のようにも思えるが、此方にしたって日常的に万引きを実行し、それを生活の基盤とする価値観なんて、なかなか分からない。

視点を変えよう。

あらためて三上の問題の根本は

私が結末付近で得た感想は、本作は『エレファント・マン』(1980)の類型だなという点で、突き詰めれば、これに尽きる。三上の属性がヤクザである、そうであったことに意識が寄りがちだが、ぶっちゃけヤクザとかどうでもいい。本作においては、それは物語の前提、または三上の性質と実績の結果でしかないので。

過去に彼が起こした犯罪、あるいは作中で実行した揉め事(事件化はしていないが悪事だ)を無視すると、三上という人間が社会生活を目指すうえで抱える問題点は「およそ正当な怒りが破壊的な暴力に直結しやすい」という性質にある。

それが「まじめすぎる」あるいは「幼少期の母親との別れ」などといったオブラートや原因探しに包まれて、作中では、まともな協力者達から批判、あるいは諭される。お前は普通じゃないんだからと。

就職が決まったときのパーティーが代表的だが、三上を救おうとする庄司夫妻、松本店長、ケースワーカーの井口、ライターの津乃田に至るまで、あくまでまともな側の人間である彼らは、すごく真っ当なアドバイスをくれる。

そこに少なからずの違和感を感じたのか、同シーンでの津乃田は一瞬だけ揺らいでいた。この点について、説明はなされないが、もどかしさはある。

『エレファント・マン』との比較を利用すると、何においても三上を無辜であるとできないので、彼の立場はエレファント・マンよりも難しい。が、三上を受け入れてやろうというカタギの世界は、そんなにもすばらしいものかね。

すばらしき世界を諦めない

作品のクライマックスに至っては、三上が彼自身の抑えがたい性質を社会に、あくまで「カタギ」として生活していけるレベルで、順応させていけるかという点に希望らしきものが提示される。

が、私にはよく分からない。そんなことが社会性なのか。あるいは、まともな人間性なのか。その分岐点ってどこね?

それでも本作がなんらかの感動を鑑賞者に与えるのは、三上自身がカタギの世界に希望を見い出すことを諦めなかったからなんだろう。あのエンディングをもって美談めいたノーサイドになってしまうのも心苦しいが、これも現実か。

それでもすばらしい世界はあるか

本作で、まっとうな人とはみ出し者の彼岸を、実にピンポイントに、悪びれて照らすのは、ちょい役の吉澤遥(長澤まさみ)くらいだ。なのだが、いかんせん主題めいた内容がボケるだろうから、これもそこまで深入りして描写はされない。

結局、三上がまともな社会に受け入れられ得たか分からない。そこに希望があるかどうかも、私的な感想としては、そこまでポジティブにも思わない。まともになろうという三上がコスモスを手にしたとき、何を思っていたのか。

付言というか、ベタな話ではあるが、「万引き家族」にせよ本作にせよ、前者ではタイトルが示す通りではあるのだが、家族というものの在りようへの問いが根底にはあるような気はするね。

まとまりのない感想になった。

その他

物語とは別に気に留まった点などをメモしておく。

東京タワーと”Love Lost In Heaven”

「カタギ」を諦めかけた三上がアニキ分に連絡し、そこへ向かうシーン。まぁ美しかったね。まずは東京タワーが映る夜景をバックに、横浜方面へ移動していく空撮(これもドローンで撮影できるのかな)を背景に、”Love Lost In Heaven” という、いかにも甘い曲が流れる。

この曲、実際の歌手も実在するようなのだが、本作への書き下ろし、専用のナンバーなのかしら。よくわからん。いい曲です。タイトルがね。

ちなみに、このシーンでのアニキ分との通話は、いかにも肩肘のはらない気の抜けた、彼らなりの愛情のこもった会話だった。福岡に着いてから舎弟の運転する車がほかに車両のいない高速を抜けていくシーンにも現実感がなくて、妙に美しい。三上が過去に生きていた世界がすでに現実離れしていることを予感させられる。

余談というほどでもないが、東京スカイツリーも『万引き家族』以来に映像作品での登場をみた。権利的に映像に登場させるのは相当に難しい建造物であるらしいが、東京タワーを上述のように活用しておいて、こちらを映さないわけにもいくまいな。なんだかんだで時代を象徴するモニュメントになっているね。

光のつぶつぶの効果

上述の東京タワーの情景然りだが、エモいシーンで多用されていたように思う。まるっきり CG ってワケでもなさそうだけど、なんらかの加工を加えないとこういう感じにはなかなかならないだろうね。こういう映し方の技法なりにも名前がありそうだけど、あいにく知らない。

やっぱりシーン全体が幻想的な調子になる効果がある。なんなら、全部が夢物語だったのではとすら思うが、残念ながらそうでもない。

福岡のアニキ分の女将

本作、最後に登場した介護施設の若者たちも好きなのだが、軍配は福岡の女将さんに上がった。夢のような福岡滞在、津乃田からの朗報。ウキウキ気分で釣りから帰宅すると警察との押し問答が発生していた。朗報と女将の説得がストッパーとなり、ふたたびカタギに傾いた三上は、現場から去る。

彼女こそ、まっとうではない側から、三上をまっとうな世界へ背中を押した、本作で唯一の人物なのだ。それはそれでどうなのと思わなくもないが、これこそが救いだと私は感じる。