《無防備都市/Roma città aperta》を観た。1945 年、ロベルト・ロッセリーニ監督による作品だ。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 8 作品目となるが、ドイツ編、フランス編ときてイタリア編となった。

第二次世界大戦で連合側に降伏したイタリアは、降伏直後にドイツに占領された。本作はドイツ占領下のローマ市民とレジスタンスたちの苦難を描いている、という説明していいだろうか。1945 年というと日本はまだ降伏前だが、イタリアはすでにドイツの占領からは解放された後らしい。そのような状況で製作されたこととなる。

本作はあくまでフィクションではあるが、ほんのひと時前までに現実に目前にあった、体験された過酷な状況を、それほどの歳月を経ずに映像化していることになる。それぞれの主要な登場人物と、纏わるエピソードは実在の人物に基づいて構築されているらしい。

このような作品に対して、どう反応すればいいのか難しさがある。半世紀以上前の作品だからと割り切れるものでもない。最近の映画で言えば《ムンバイ》を観たときの感触に近い。もっと一般化すれば、ドキュメンタリーに近いフィクションとの接し方という問題意識になるか。

皮肉なことだが、このような作品を単体で見たとき、面白さも小さければ、それなりの評価で済むんだろう。けれども本作、とても面白いので、どうやって消化していいのか悩む。

ジョルジオ、神父、ピナのそれぞれが迎える結末は、いずれもツラい。でも、それぞれの生きざまが反映されていて、カッコいい。彼らの情熱を否定する材料はほとんどない。受けとめ方はいろいろとあっていいはずだが、作品内での意味付けとしては止めの神父の台詞に集約されるだろう。

悪役、というかドイツ軍側のベルクマンとイングリッドも、よくよくこんな役をこなしているものだ。彼らの世界はほとんど閉じており、鑑賞者からみれば穴だらけなのだけれど、彼らは彼らの信念を生きている。

ベルクマンの執務室、入って右側が拷問部屋、左側が将校クラスのレストルームのような構造になっており、左右の対比があまりにも明確だ。実際の施設が本当にこんな構造だったとは思えないが、ギャップの演出にはもってこいだ。

判断力を鈍らされたマリーナがあまりにも哀れで、どうしようもない。

中盤とクライマックスの描写に明らかと思うが、子供たちの在りようについての気の配り方が絶妙だ。「大人たちが抵抗に敗れても、子供たちが引き継いでいく表れ」のようなコメントも見たが、そういうことなのかね。

イタリア映画だからだろうと雑な括りは許されないだろうけれど、家族関係についての視点が強い。加えて神父は、さまざまな子たちの面倒を見ていたようだので、そういう意味では家族を超えた絆のような面もあるだろう。

同じ視点上だろうか、マルチェロがピナのスカーフをフランチェスコの手渡して別れるシーンが強く印象に残っている。

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《天井桟敷の人々/Les enfants du Paradis》を観た。1945 年のフランス映画で、監督はマルセル・カルネという方らしい。タイトルを辛うじて耳にしたことがあるくらいで、監督名やその他の詳細はまったく知らなかった。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 7 作目かな。Amazon Prime で上下に分けられて配信されているバージョンで鑑賞した。二部映画で 190 分だ。

舞台の年代を同定できなかったのだが、Wikipedia に拠ると 1820 代ということらしい。舞台はパリだ。フレデリックという若手俳優志望が劇団に入ろうとするところから始まる。女たらしだが、演劇に対する情熱は本物で、実力も相応にあるようだ。幼少時は孤児院で育ったことも中盤で示唆される。

彼の入団した劇団にはバチストという青年がおり、バチストの家族はこの劇団のメンバーとして生計を立てている。バチストには無声演劇(作中ではパントマイムという)の才能が有り、それを次第に開花させていく。

彼は前編の或るシーンで「天井桟敷の人々」を笑わせる劇を目指していると告白する。この台詞は正しくタイトルを指すが、それが生きているかは、どうなんだろう。

ところで、ガランスという美女が登場する。彼女を巡ってフレデリックとバチスト、さらには無法者のラスネール、伯爵のモントレーがぐちゃぐちゃとなって物語を推進していく。大局的に見ると、バチストとガランスのラブロマンスのようだが、どうもそういう楽しみ方はできなかった。

舞台、無声、あるいは映画とは

本作にはメタ映画、あるいはメタ舞台的な企てがあるんだろうと思うが、そのほどはどうか。バチストが演じる作中劇《古着屋》は、まぁ作中で見るだけでも面白い。一方、フレデリックが売れっ子になってから上演中に勝手に脚本をいじって演じる作品も、ハチャメチャではあるが観客ウケするのはわかる。

バチストの劇はカメラ自体もほぼ正面からの定点撮りなのだが、一方のフレデリックの劇は、メタ演劇みたいな要素があるのでカメラも視点を変えざるを得ない。それぞれの面白味があることがわかる。

バチストの表現力がスゴイのは画面越しでも伝わってくるし-無声劇であることをどう受け止めても、それこそがバチストの才能なのだが、映画の映像を見ている身としてはフレデリックの劇の方が面白味は伝わりやすい。作中では 2 人は相互に敬意を示しているが、フレデリックとしては演技の方向性こそ違えど、バチストの才能に嫉妬すらしている。何とも言えない皮肉がある。

しかしながら、なにより本作の映画としての醍醐味部分は、バチストが劇を捨てるある瞬間にある気配だ。あそこだけは本作全体においても珍しくカメラがよく動いたと記憶している。酷い雑に言えば、この舞台という要素の重みが本作を名作たらしめているし-まぁそりゃぁね、一方で掴みづらくもしているのではないか、偉そうだけれどもそう感じた。

なんだか妙に台詞がキマっている

これは何なんだろう。この映画、淡々と会話が繰り広げられて、そこに映画特有の跳躍やキレもないのでそういう意味では退屈になりがちではあるのだが、台詞そのものは妙にカッコいい。小説ばりといってよさそうなくらいに。

それでまぁ、脚本のジャック・プレヴェールを引けばわかるのだが-鑑賞後に確認しました-、彼は文学者であり、詩人であり、という人物なのだ。言うまでもなく、台詞回しが評価されているらしい。私は自分の鑑賞眼をそれなりに褒めたい。

しかし、逆に言うと台詞が決まりすぎているように思う。映像があんまり面白くないんだよね-だけどこれはもちろん上述のように舞台を扱っている点にも由来すると思う。群衆のシーンなどは流石と思うのだが、ピンとくるシーンが少ない。

バチストとガランスの鏡に向かっているシーンの対比などはさすがに記憶に残った。あとは、フレデリックの決闘に向かうシーン、無法者のラスネールの最後の覚悟なんかはよかったね。

なんの映画なんだろうか

最初に書いたように、バチストとガランスのラブロマンスに思えない。かといって群像劇という風でもない。このへんが特にこの時期のフランス映画っぽいのかなと思うが-数本見た程度で判断できることではなかろう-、登場人物の係る係争のすべてがすれ違っていく事象自体が描かれてるというか。

バチストの人間性が特に後半はまったくよくわからない。逆に考えれば、ガランスの心理のような面こそが捉えやすいのではないか。ガランスは男を翻弄しているようでいて、よくよく考えると彼らに頼るしかないうえで、それぞれに翻弄されていった結果が彼女の運命のように思える。

クライマックスにおける彼女のとった行動は、彼女を取り巻く愚かな男たちからの決別なんじゃないの、とかね。

文句のような感想になってしまったが、本作を映画館のスクリーンで観て、そこから現実に帰ってきたときは、疑問や納得できない面は抱えつつも、それなりに気持ちのいい体験になっていそうなんだよね。そういう魅力の作品だ。

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《ゲームの規則/LA REGLE DU JEU》を観た。ジャン・ルノワールの作品としては、前回の《大いなる幻影》に続いて 2 作目の鑑賞となる。1939 年の作品だが、完全版となったのは 1959 年らしい-下記のリンク先記事に基づく。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 6 作目となる。本作については、Wikipedia に単独記事が存在せず、人名などは以下の allcinema というサイトの概要を参考にして書かせてもらった。

不倫を扱った作品で発表当時は不評に終わったという前評判を確認して臨んだが、結果としては今回のマラソンでは現時点で、もっとものめり込んだ作品となった。全体的に、特に後半の展開は狂気とユーモアに溢れており、画面にくぎ付けだった。

どうやって感想として切り出そうかな。あらすじから述べる。

ロベールという伯爵がいる。彼には愛人がいるのだが、彼の妻のクリスチーヌにも愛人:英雄パイロットのアンドレがいる。ちなみに、アンドレを紹介したのは彼女の旧来の友人であるオクターヴだ。オクターヴだけちょいと年齢が離れているようだ。

ロベールは彼自身およびクリスチーヌの浮ついた状況を清算する目的も兼ねて、彼の別荘にそれぞれの愛人を含め、貴族クラスの人らを集める。狩りを楽しんだり、仮装劇を楽しんだりして、終いには乱痴気騒ぎへ発展する。

物語全体の後半にて、仮装劇から騒動に移行していくが、直接の発端は別荘の狩猟区域の番人:シュマシエルとその妻:リゼット、元密猟者:マルソーの 3 人が引き起こした痴話喧嘩となっている。広い屋敷内で繰り広げられるかくれんぼと鬼ごっこ、決闘騒ぎ、垂れもせずにうまく撮られている。バカバカしいけど、面白い。

狩りのシーンにどんな重みがあるのかしら

別荘到着の翌日は日中に狩りに出る。この狩りの描写がやたらと丁寧だ。兎は地に転げるし、鳥は墜ちる。割と延々と続く。どんどんと倒れるし、どんどんと落ちる。痛々しさがある。私の少ない映画鑑賞歴から思い出される他の映画の印象的な狩猟のシーンのいずれと比べても、どれよりも強く厳しい。

なんだろう、これを上手く消化できない。まぁ残酷だというのがひとつ。そして、これが貴族たちの遊戯に過ぎないというのがひとつ。そして、後半の騒動への導線であるわけだが、どういう作用があるのか。全体像の享楽性を強調しているのでは、と思えば納得できなくもないが、そうなのかな?

非日常的な状況へ引きずり込むという意図はあるだろうか。うーん。

クリスチーヌの本心はどこにある

仮装劇が終わりに差し掛かったところで、クリスチーヌは上記で紹介した以外の男と乳繰り合うべくかしらぬが、こっそりと裏方へ流れていくのだが、この辺からしてもう異常な光景が連続する。

まず、主要登場人物たちの演技後、髑髏様の衣装を身に纏ったメンバーによる劇が始まる。薄暗くなった会場で、明滅するスポットライトが、並んで鑑賞する主要登場人物たちを照らす。カメラも左から右へ追随する。

この瞬間を縫って、夫でも渦中の愛人でもなく別の男と遊びにいくのかクリスチーヌよ。という想定外の事態と並行し、上述のシュマシエルとリゼット、マルソーの追いかけっこも本格化する。状況を転換させてクライマックスへ雪崩れ込む直前の、このシーンが 1 番好きだね。

ところで、狩猟の終了直前にクリスチーヌは、夫:ロベールと愛人の別れの挨拶を望遠レンズ越しに目撃してしまっている。これは遠目には別れに見えないので、彼女は勘違いを起こしているわけだが、この作品ではこの勘違いが重要な要素とされているようには見えなかった。女の奇妙な連帯のような描写はあったが、これもなんか有耶無耶と泡となっていくし。

何が言いたいかとしては、クリスチーヌの心理が難しくて、そもそもロベールとクリスチーヌの本望が明確でない。ロベールは結婚生活を諦めかけている描写があるもののやり直しもまんざらではなさそう。

だが、クリスチーヌ自身はそもそも問題の深刻さを、さほど表わさない。彼女のそもそもの浮気相手として仕立て上げられたアンドレにしてもほぼ一人相撲だ。階級の問題もあるんだろうけれど、この辺は文脈を読めていないのかな、とも感じた。

礼節あるいは男の友情とは

ロベールは気まぐれに密猟者マルソーを、半ば彼を哀れに思いつつもか靴磨き担当として別荘に雇い入れる。マルソーは身分違いのご主人に対してかなりフランクな態度で接して、ロベールもそれを許す。この関係がおもしろい。

言ってみれば《大いなる幻影》でも階級-身分の差を持ち出しつつも、その融和のような状況を描いてみせていた。監督のテーマなのか、得意とするとところなのか。

アンドレとロベールのクリスチーヌを巡った諍いも、落ち着いてみれば相互を尊重して認め合うような展開になっている。これも笑いどころで、泥酔した女性のケアなどを率先して協力しているあたりがユニークだ。なんというかね、ホモソーシャル的とでも言っていいのかね。

そんななかでシュマシエルだけは哀れなんだよな。これは狩猟というモチーフと結びついている部分があるのか、結婚のあり方についての示唆なんだろうか、彼自身に自業自得的な面があるとはいえ、かなり可哀相ではある。

こんな喜劇はあんまり見たことない

本作について、いくつかの目にした説明や感想で「悲喜劇」というキーワードがあったが、私は本作は完全に喜劇だと思う。もちろん喜劇というのは根底に悲劇があるわけだが、それでも本作における悲劇は完全に道具以下の機能しか果たしておらず、言うなれば不条理ベースのコメディと捉えたほうが見やすい気がする。

やっぱりね、哀れなシュマシエルが何処をとっても狂言回し、かつ道化でしかないのがポイントではないか。そして、そのせいか、たしかにクライマックスに悲劇はあるんだけれど、これも悲劇というよりはギャグの範疇に感じられた。

あるべき終着点が見づらいせいでもある。誰が悪いともいわないが-だからこそ悲劇たる面はあるのだが、いかんせんクリスチーヌがどうしたいのか、ある程度予想された展開ではあったが、最後のそれですら半信半疑にならざるを得ない。実際、起きる事件はそれゆえの結末でもある-直接的にはクリスチーヌのせいではないにせよ。

本作は、どこまでも俗な内容なのだけれど、笑わいどころの魅せ方はなんとなく上品さを装っているというか、そういう面が強い-もともとそのような戯曲が元ネタらしいけれど。

しかし、監督がオクターヴを演じているとは恐れ入った。そりゃないよ笑。

上述したように狩りの情景や仮装劇でのライトとカメラの動き、屋敷の騒動のシーンやクライマックスのカメラワークは特別感というほどは感じなかったけど、決まっていて好かった。植物園を覗きに行くシュマシエルとマルソーのカットも好きだね。

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ごめんなさい、記事のタイトルは本当にテキトーです。三体Ⅲ『死神永生』を読んだ。過去の 2 作の感想は以下の記事に述べている。第 1 作目の三体Ⅰ『三体』を読むには発売後からしばらく時間を置いたのだが、三体Ⅱと本作については、ほぼ発売直後に読んでいる。まぁ、それだけ三体のことが好きだよ。

といっても、原作は三体Ⅰの初出が 2008 年で、英語版の翻訳が 2015 年らしいので、もちろん日本語で読めるのは嬉しいが、作者がこのシリーズを世に送り出してからは、かなりの時期を経ているとみても間違いとは言えないだろうな。

他の読者のコメントにもあったが、私は絶妙な設定が施された SF としては三体Ⅱとそこに登場する「暗黒森林理論」に魅せられており、これを大変によかった。 三体Ⅲ『死神永生』は宇宙 SF として暗黒森林理論に基づいた顛末の先まで楽しませてくれる。が、べたに言うと、センス・オブ・ワンダーのような驚きは個人的にはそこそこかな。もちろん、スリリングな読書体験には変わりなく、最後まで楽しめた。

なにより好かったのは、三体Ⅱの主人公であった羅輯がそこそこに重要なキャラクターとして存在感を保ったまま、彼自身の行く末をみせてくれたことかな。こういうのは、シリーズ物の醍醐味といえる。積極的に粗探しをしたいわけではなくて、むしろ楽しんだからこそ気になった点を数点だけあげておく。

中性化する人間たちをどう描く

コールドスリープを経て未来に生きる西暦時代の男性が、当世の人間たちには粗野に見える、というような描写が登場する。当世の男性たちは見た目も中性的になり云々という設定である。まぁよくある。

また、西暦人なりの価値観の象徴であり、属性を備えた人物として、また地球人類のある種の希望の一種として登場するウェイドは、西暦人が作品世界に残した特徴を「野生」と表現していた。

女性については特に描写はなかったが、これも中性的になっていると考えるが自然だろう。何が言いたいかというと、それにしては作中においては、男女の役割だとか、その関係性について未来観のある展望は、要所では少なかった。

特にクライマックスでも、この設定が反映されるはずの重要なモーメントがあって、逆に考えれば、既存と思われる価値観こそが不変だと著者は主張するのか、そうでないとするか? は掘り下げる価値のあるトピックではあろう。

主役の程心は何を判断したのか

彼女の判断はことごとく波乱を呼ぶ。これも超長期でみたときには幸いとなるか災いとなるかは判断しづらい。これは SF の醍醐味として楽しんでいいと思う。実際、私自身はまごつきながらも、手のひら返しがあるかないかを楽しんだ。

一方、それにしても程心は、決断は迫られるけれど、それ自体が彼女の意志による行動として発揮されることはあまりない。これは、上記と似たようなことでいて、決定的に別の話であって、彼女の行動のほとんどは流されて辿り着いた結果のうえで展開するしかない。これにはかなりストレスで、なかなかツラかった。

特に、三体Ⅰ『三体』の葉文潔の抱かざるを得なかった苛烈さと比べると、程心の性質は 360 度ほど異なるのではないか。

だが、いずれにしても前述のウェイドのいう野生が、程心の象徴する人間性を否応なく後押しする結果となりつつも、それでも代表者たる彼女の基本的な理念は、「野生」を退けて「人間性」を選び取ったという、まぎれもない事実が残る。即座に結果が伴うことはなくても、その信念が最終的な目的への到達を導くというスタイルは嫌いではない。

限界状態の共同体はどこへ進むのか

三体Ⅰ『三体』のときにもちらりと書いたが、劉慈欣が自国やその制度に対してどのようなスタンスを取っているのかは気になるところであった。付しておくが、これは本作自体のおもしろさとは、ほとんど関係ないとは思う。

本作では、三体人および三体世界はほとんど登場せず、結局のところ彼らと実際に遭遇したと思われるのも地球人類のうちでたったひとりだ。まぁいい。とはいえ、やはり第一作目からの設定を引き継いだうえで、以下のような描写がある。

乱紀という困難に立ち向かうために必要だった全体主義は、科学の発展を阻むものだと判明し、かわって思想の自由が奨励され、個人の価値が尊重された。これらの変化は、遠く離れた三体世界でも、地球のルネサンスに似たイデオロギー変革運動のひきがねを引き、それが科学技術の飛躍的な発展につながったのかもしれない。これはまさに三体文明史における黄金時代だが、

ここでは全体主義をネガティブに書いている。一方で、地球人類が窮地に立たされた段になった箇所では以下のような描写もある。

人口密度の高いこの餓えた大陸において、民主主義は独裁制よりも凶悪であることが判明し、だれもが社会の秩序と強力な政府を切望し、

つまるところ、どちらを良しともせずにいるのではないか。状況によって社会は、それこそ生き残りをかけてそのシステムを求める。それが自然な流れなのか、あるいはどこまでかは誰かの恣意的な判断の下なのか、それは知らない。

雑に言えば、劉慈欣は現在の中国を後者のような状況と捉えているのかもしれない。あるいは中長期的にはグローバルな社会は局所的にせよ大局的にせよ、このような状況に陥りかねないとみているのかもしれない。つらい。

この作品は何を託すのか

古いタイプの SF が好きなので、と言っていいのか分からないけれど、どうしても作者の主張のようなメッセージのようなモノを読み取りたくなる。「死神永生」というタイトルから読み取れるかと考えても、あまりうまくいかなそうだ。

クライマックスで迎える程心の臨む状況も、決して暗くはないのだが、そこまで明かるようにも見えない。これは本当に見事で、未知の未来でしかない。

となると、というか、本作の視座というのは、繰り返しになるが「暗黒森林理論」のようなシビアさに立脚しているように思われる。現実主義的な中国のひとが描く作品という見方もできるのではないかな。そう考えると、重くのしかかるものがある。そんなような気がした。

でも考えてみれば、これこそ三体人は明言しなかった、あるいは気がつかなかったのかもしれないけれど、暗黒森林を生き抜く方法は、作中で明確に示唆された以外にもあったのではないか。

つまり、最終的には程心は地球人類の代表として生き延びている。また同時に、その他の宇宙文明人たちも最終的には「暗黒森林理論」の及ばない状況での対話を求めたとも読み得るのではないか。希望を見出すとしたら、このへんなのだろうか。

なお、以下のブログの記事は参考になった。

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《大いなる幻影/La Grande Illusion》を観た。1937 年の作品だ。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 5 作目となる。監督は、ジャン・ルノワールで、ここからは 1930 年代のフランス映画となる。

導入はあっさりしていて、展開にしても起伏が掴みづらいので丁寧に楽しまないと味わいを損ねかねない作品ではないか。なお、自分が丁寧に楽しめたとは思わない。

第 1 次大戦中のドイツ領域内での捕虜を扱っている。

冒頭、フランス軍の大尉ポワルデュが気になる地点があるので戦闘機を飛ばせと指示する。「手配します」と空軍兵士が返答したのち、画面は切り替わる。ドイツ軍の前線基地で、フランス軍の偵察機を撃墜したと騒いでいる。この時点で、ポワルデュと空軍の中尉マレシャルは捕虜となっていた。

三幕構成といっていいのかな。最初の捕虜収容所での脱走計画を中心にしたやり取り、次の収容所でマレシャルと同じく中尉のユダヤ人:ローゼンタールが脱走を実行するまで、最後にマレシャルとローゼンタールがスイス国境で戦争未亡人に救われた顛末まで、となる。

階級かあるいは連帯か

ふたつ目の幕の収容所の所長であるラウフェンシュタイン大尉はポワルデュ大尉に好意的、というか同族意識を持っている。彼らは元来が貴族階級で、戦前から間接的には縁がある。ラウフェンシュタイン大尉は、時代の移り変わりとともに無くなっていく貴族階級への郷愁をポワルデュと共有したい。

一方、マレシャル中尉は捕虜期間中をポワルデュとずっと共に過ごしてきた。別の捕虜仲間に愚痴をこぼすには、ポワルデュはそもそも身分が違う。どこかで壁がある。いい人間だとは思うが、疲れてしまうときがある。というような旨を述べる。

ポワルデュが軸になっている。

マレシャルもポワルデュも脱走する気は満々なのだが、どういう次第か、ついにポワルデュは自分が囮になることを決意する。「私は逃げない」とは伝えるが、そのことはマレシャルには伝えない。

マレシャルは「なんであんたはいつも一定の壁を作るんだ」とポワルデュに食って掛かるが、彼は「これが私だ。母に対しても妻に対してもこうだ」のように返答する。

私は本作のハイライトはここだと思うんだよね。屈折的には収容所所長がポワルデュに仲間意識を抱いており、そこに注目しやすい。しかし、当たり前のことだが、身分や階位の差こそあれど、ポワルデュはマレシャルやローゼンタールの同胞なのだ。さらに所属こそ違えど、ポワルデュのほうが階位が高く、少なくともそこに、ポワルデュは何らかの責任感を抱えているのでは。

ポワルデュ本人の描写だが、登場当初こそいけ好かない人物かと思わせておいて、他の階級の兵士たちとも差しさわりのない範囲でフランクに接するし、めちゃくちゃ情と責任感に厚い人間だったのだ。ポワルデュは彼を気にかける所長からの友情、脱走して故郷に帰りたい気持ち、マレシャルたちとの連帯のなかで彼なりに悩みぬいて出した答えがアレだったんだよ…。ポワルデュ最高!

実際、ポワルデュが笛でおどけながら収容所内を逃走して時間稼ぎするシーンは見ごたえがある。

大いなる幻影とはいったい

Wikiepdia の記載をみると、本作のタイトルはかなり難産の末に苦し紛れに決定したらしい。「幻影」のニュアンスについては、クライマックス直前でマルシャンとローゼンタールの会話で少しばかり明かされる。とはいえ、分かりやすいものではない。

幻影が何を指すのかは分かりづらいが、少なくとも本作で扱われているのは、戦争を背景にして交じり合う身分や階級、国境や人種、戦士と市民、男と女…。言おうと思えばなんでも言えるのでは? とも思うが、実際にそういう作品なのだから仕方がない。

個別の人間の関係のなかにこそ、人間の普遍性やその美しさ、矜持を見出せる。

ところで最初の幕で、骨折して自分の世話もままならないマレシャルの足を拭いてくれる仲間がいたのだが、その仲間の男はもともと測量士として働いていたらしい。それに対するマレシャルの返答もなかなかおもしろくて-演出の意図は掴みかねているのだが、だけどやっぱり本作に通底する部分だと思うんだよな。

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《ナポレオン/ Napoléon》 を観た。こちらは元々は 1927 年、フランスはアベル・ガンス監督の作品だ。このマラソン企画の範囲でいえば《メトロポリス》(1927)と同時期の作品ということになる。前回の《ドクトル・マブゼ》(1922)も見やすい状態だったことを振り返ると、ちゃんとしたディスクなら《メトロポリス》もかなり綺麗な状態で鑑賞できるのかしら。余談です。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 4 作目です。

Wikipedia の説明によると監督は、第一次大戦中からはプロパガンダ映画の製作に携わったらしい。本作もナポレオンを軸にした国威掲揚作品とはいえそうだけれど、プロパガンダ映画とは言えるのだろうか。どうなんだろう。

今回は、膨大な原作フィルム(散逸した状態からかき集められた)をフランシス・コッポラが再編集して 1982 年に公開した版(240 分)を DVD で鑑賞した。公開当時は日本にも特別上映が来たらしく、その際は生演奏で劇版がついたとのことだ。

前置きが長くなった。話としては、ナポレオンの少年期くらいの雪合戦のエピソード、1792 年頃に実家のあるコルシカ島からの脱出と翌年におけるトゥーロン攻囲戦-ここまでが第一部、第二部は彼の恋愛模様と 1976 年頃のイタリア遠征が物語の軸といえる。ちょいちょい当時のフランス史が分からんと少しばかり付いていきづらい気はするが、致命的ではなかった。というわけで、大筋についてはこれくらいだ。

フィルムの色味で攻めていけ

映写時のライトなのかフィルムそのものの色味なのかよく分からないが、いわゆるモノクロ(白黒)の画面はほとんどなくて、青みがかっていたり、赤だったり、ピンクだったりする。緑はあったかな。つまり、そうすることで場面に違いを生み出している。言われてみればな手法ではある。

たとえば室内でのシーンはほとんど暖色の橙の映り方になる。議会などの激情的なシーンだと、ここに赤みが増す。パーティーなどの色気のあるシーンでは、ピンクになっていた。一方の屋外は、青色系が多い。これは時間帯であったり、海に対応していることが多いようだ。早朝だったら空気は青っぽいし、そもそも海は青い。ついでに、寒いシーンも青っぽい。

上記以外は、いわゆるモノクロなシーンとなる。白昼とかが多いのかな。

三台のカメラ、映写機を酷使する

第二部:物語の終盤に駆使される超絶撮影テクニックがあった。あんまり説明するのも野暮なので簡潔にしたいが、つまり疑似的にパノラマを作り出す。ものすごい根性で、監督の映像へのこだわりが身に染みる。イタリアに進軍する軍隊と指揮するナポレオンを描くが、遠景で部隊全軍の動きと岩山、その先にある肥沃な大地を見せたいわけだ。これは初見ではあっけにとられる。

つまり 3 台のカメラを使うのだが、そのうち中央だけをナポレオンのクローズアップにするということもやってのける。私個人の体験としては、小休憩を挟みつつではあるが 3 時間以上も画面を眺めてきた最後にこの映像を見せられると、疲れのなか生じる達成感が半端ではなかった。

なお、ここでもフィルムの色味を使ったトリックも登場する。伊達ではない。

ところで、このシーンの遠景の撮り方なんかは私が言うまでもないのだけれど、さまざまな撮影者に影響を与えているのではないかな。パノラマへの挑戦が先に見えてしまうので見落としそうになったけど、遠景の映し方がとてもきれい。

コルシカ島から脱出せよ

本作でもっとも楽しかったエピソードとして触れたい。実家のあるコルシカ島が、フランスその他のどの国家に属すべきかで騒動になったらしい。そいで、ナポレオンは目の上のたんこぶっぽい存在だので消されそうになり、這々の体で島から離脱する。

離脱の最中、市場のようなエリアで「オラが郷はスペインだ、やれイタリアだ、イギリスだ」と皆が思い思いに騒ぐなかで隠密行動中だったはずのナポレオンは「フランスやがっ!」と叫んで姿を顕すと、みんながびっくり仰天する。ところが直後に彼は場を支配してしまうのであった。

その場にいた民衆のうち、特に女性たちはおそらく出自別に衣装やら化粧やらが区別されているのだが、どの女性たちもそれは美してくて、笑ってしまう。いや、美しいからいいのだけれど。まぁ、おもしろい。

次の段となるイギリス方の偉い人たちから馬で逃げる逃走と追跡の劇は、これもまた遠景は見事だし、騎馬の撮影も半端ないですね。ヒッチコックの《マーニー》や黒澤明の《七人の侍》の類いよりもよっぽどエキサイティングにすら思えるシーンも少なくない。後半も似たようなシーンがあったが、これはすごい。

最終的には、ある浜から小舟に乗り換えてフランス本土を目指すナポレオンだが、この航海もやたらとすごい。こんなん 1920 年代に作れるのかぁ。最後のほうで漂流っぽくなるシーンがあるのだが、波高い海を漂う小舟を、こんなんどれだけ狙って撮れるのかという見事なカットで、とにかく海が美しい。必見とすらいいたい。

享楽的なピンクのシーンがある

ロベスピエールを代表とした極端な恐怖政治が終わり、ナポレオンが政府に見出されたあたりで、粛清の犠牲者たちの近縁者が集うパーティーが描かれる。

ナポレオンは、このパーティーの乱痴気騒ぎをを堕落と断じてキレる。彼の性格を描写する狙いというか、笑いどころでもあるのだが、このパーティーのその享楽的な空気の演出ががすごい。

先ほど述べたが、このシーンはフィルムがピンク様になる。踊り子たちの衣装もかなり際どい。なんならクルクルと踊り回るシーンではバストが転げている。フランス映画っぽいなというのは、そうなのだけれども、この如何にもなシーンも必見だ。はっちゃけている。もうね、何でも映したるでという監督の情熱が画面越しに伝わってくる。

しかしそれに比べて、ナポレオン自身が恋しているシーンは、子供たちと遊びに興じている箇所を除いては、ほとんど面白味を感じなかったのも興味深い。なんだか申し訳ないけれど。

その他

土砂降りのなかで展開されるトゥーロン攻囲戦の描写の周辺には特に《七人の侍》が目指した表現があった気がする。敵味方の乱れた戦場、泥臭い格闘、 積み上がる亡骸たち、第一部の後半を占めるこの戦闘-悪く言えば何が起きているのかほぼ不明なのだが、見応えがありすぎる。

ところで、あまり調べられていないが、黒澤明がアベル・ガンスを敬愛していたという話はチラリと目にしたのだが、特に本作は 1920 年代当時、ごくごく小さい範囲でしか日本では鑑賞できなかったらしいし、その後はほとんど鑑賞できなかったようだ。黒澤明がいつ鑑賞できたのか、何か資料はあるのだろうか。まぁいいや。

本記事では、以下の記事などが参考になった。

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滅多に購入しない CD を自宅の PC で再生しようという段になって、スピーカーを用意しようかなと気が向いた。いままでは、ディスプレイ内蔵のスピーカーを使っていて不満はなかったが、気持ちの問題である。

予算は 5,000 円前後くらいを狙っていた。調べると色々と出てくるが、予定の価格帯の商品は案外少ないようだ。サンワやエレコム、ロジクール系の安価な商品であれば 2,000 円以内になってくる-ロジクールは狙い目の価格帯もあればハイエンドなタイプも用意しているようだが、どうにもしっくりこなかった。何かと縁のないメーカーである。

JBL の JBL Pebbles という製品が高評価で、本製品がすんなり手に入るなら、深入りせずにこちらしていたかもしれない。だが、製品サイトに行くと販売中のように見えるが、量販店だと Amazon ですら取り寄せになっている。いかんせん 2013 年の製品でやや古い。もともとは現在のネットショップの価格帯よりも半値くらいだったような情報も目に入ってくるので、遠のく。

で、最安の価格帯でもいいかなとなっていたときに Creative の Pebble の情報が目に留まった。おそらく 2 代目のレビューを目にした段階では、悪くはないけどどうだろうな? と引き気味だったのだが、おそらく 3 代目にあたる Creative Pebble V3 はピンときた。よさそうだ。

使ってみた。給電は Type-A または C の USB 接続(Type-Aへの変換コネクタが付属)で、音も USB を経由して通じる。USB の給電能力によって 8W ほどの出力をカバーするらしい。

私はコネクタで Type-A を給電元としているが、3.0 対応の端子なのでそこそこの馬力は出ているのかな。よく分からないが、音が小さいということはなくて、十分なボリュームになっている。

音質についてどうこう言う能力はないが、少なくとも低価格帯とは比べられないクオリティは当然のことながら保たれている。

また、本製品の魅力のひとつとしては、スイッチングこそ必要だが、Bluetooth接続も用意されており、すぐに切り替えできる。ただの電源に接続した場合は勝手に切り替わるので気軽だ。

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《ドクトル・マブゼ/Dr Mabuse: Gambler》を観た。1922 年の作品だ。フリッツ・ラングの作品鑑賞としては《メトロポリス》に続いて 2 作目だが、こちらの方が 5 年以上も古い作品らしい。というか1922年というとほぼ100年前の映画じゃないか。大丈夫かと不安になる。何がだ?

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 3 作目となる。

犯罪映画だ。ピカレクスロマンとも言っていいのかな? ちょっと趣が違うか? 表向きは精神分析家あるいは精神科医のような確立した身分を持つ主人公:マブゼ博士が実はさまざまな犯罪に手を染めている。大悪党なのか小悪党なのかは判断しづらい。といったところで、ドタバタして最後には小さな綻びから破滅する。

本作は2部構成となっており、第一部は「ギャンブラー」(150 分程度)、第二部は「インフェルノ」(120 分程度)と副題つきで構成されている。また、各部で6幕ほどか話はほぼ連続して展開するが、明確な区切りが設けられている。

日本国内でも時折ミニシアターで上映があるようだが、ディスクは 2008 年の紀伊国屋書店による「フリッツ・ラング コレクション/クリティカル・エディション ドクトル・マブゼ」が最新の状態のようだ(本記事執筆現在)。ただし、この盤はすでに廃盤で中古価格が高騰している。

私は今回、どうやって観ようか困って TSUTAYA も真剣に検討したが、どうせ無声映画だし、それくらいの英語字幕ならなんとかなるだろうと判断した。US 版の Blu-ray が Amazon Japan でも転がっていたので、こちらを購入した。どうしても日本語字幕で見たい場合を除いては、この方法をオススメしたい。購入した版には、特典映像として劇伴、原作、マブゼの元イメージについての解説がついている。いいね。

以下、感想となる。

ギャンブル、人間の運命を賭ける

作中で 2 度ほどかな。マブゼ博士が台詞にするが、彼は賭け事が好きだという。それはお金もそうだが、「人間の運命を賭ける」ことに強調していた。ほぼ第一次世界大戦直後の時代背景とはいえ、まともに生活していれば安定した生活を過ごせるだろうマブゼ博士が、なぜわざわざ犯罪に走るのか。しかも、義賊というわけでもないただの悪人だ。あるいは戦時中に彼の価値観を揺るがす事件があったのか。

とにかく博士は狂っている。でも、画面中では悪役なりにカッコいいんよね。それが犯罪映画のキモといえばそうだろうが、とにかくキレがいい。葛藤も何もない。とにかく悪い。善性のカケラもない。純粋悪だ。純粋悪とは!?

第一部:ギャンブラー

国家間の秘密書類を抜いてトレード額を操作し、株でボロ儲けするシーンが Act.1 であった。ユニークだなと見ていたのは株式市場の時計で、大きな 24 時間時計が中央の間に据えられていた-通常の 6 の位置に 13 が配置される。また、他シーンのホテルのフロントに掛けられた時計は、12 時間時計ではあったが、13~24時までも文字盤に刻印されていた。ドイツらしいと言っていいのかな。あまりみないデザインだ。

Act.2 からは一貫して富豪:ハルをカモにするマブゼ一味、並行して悪のギャンブラーを追跡する当局:ヴェンクとの対決が描かれる。精神分析家らしいマブゼ博士は催眠術のようなトリックも駆使して相手を操る。

Act.4 の裏賭場で対峙したヴェンクを陥れるシーンは作中でも屈指のひとつだろう。ワイワイガヤガヤとひとがひしめく中で、朦朧とした意識の中、変装したマブゼ博士を凝視するヴェンクの意識は遠のいていく。

すると、マブゼ博士の周囲は黒くなっていく。カメラが絞られる「アイリスアウト」という技法の延長なのかな-アイリスアウト自体は頻繁に使われている。ブラックアウトしていく画面は、マブゼ博士の輪郭を上手に包む。どうってことない演出のようにも思えるが、主演の存在感の強さもあいまって強烈なシーンだ。ただただ不気味なマブゼ博士の顔が怖い。

Act 5 で登場する裏賭場の仕組みもおもしろい。円形のテーブル中央に鎮座したディーラーは、円の縁に座ったプレイヤーとやりとりする。カメラはディーラーを回りながら映す。この賭場のキモは緊急時には上から踊り子の舞台セットが降りてきて場を隠蔽できる仕組みということで、その大掛かりさがいいね!

第二部:インフェルノ

まずは、前編でヒルとは別にマブセの悪意の標的となったトルド伯爵について触れたい。普段はやらないギャンブルをなぜかプレイしてしまい、しかもそこでインチキが露見してしまう。パーティーの客は退散してしまうし、その隙にパートナーはマブセ博士に誘拐されるし、散々だ。

そのうえ、マブセ博士にカウンセリングを装った罠にはめられて破滅していく。神経が摩耗した彼の描写、演技が美しくて好きだね。後編は彼が 1 番よかった。広い邸宅で発狂して暴れまわるシーンとかいいぞ。

Act.5 くらいのマブゼ博士が扮した奇術師のステージも見ものだった。先住民族と思しき集団がステージの奥から次へ次へと舞台、観客席へと移動していく。終いにはパッと消える。パッと消えるほうは映画のテクニックとしては分かりやすいのだが、画面の奥から登場する仕掛けは謎で、これはステージもといスタジオが実際に奥まで作られていたのかな。

パッと消えるほうのマジックも現実的には不可能に思われるので、これはもはやマブゼ博士の幻想、もとい幻覚の世界とも考えうるのかね。

マブセ博士の手下たち

6 人くらい居るのかな。しょっぱなから登場するのが、虚弱で頼りなさげな執事風の男、次に登場するのは運転手または強行部隊として働く豪傑、さらにはデブで巨漢な歯抜けの男、紅一点のカーラ、ヴェンクの事務室を破壊工作した男もメンバーだったかな。

個性が強くて彼らを見ているだけでも飽きない気がする。キャラクターの造形としてはマブセ博士に負けていない。これが見事だね。でも、マブゼ博士の何に魅力を感じて従っていたのだろうか。大恩があったりしたのかな?

マブセ博士の最後

本拠地から地下水道を這って逃げるシーンだけで、その転落の様がおもしろいが、別の隠れ家に到達したときの顛末も面白い。まず、現場で雇っている盲目のひとたちに恐れられる。彼らは直接マブゼ博士のことを把握していないのだろう。恐れ切っている。てんで役に立たない。

ついで、本作中で彼が手を下した犠牲者たちとの関係が、あらためて炙り出される。ベタだけど、このへんの描写も最高だね。詳しく書きたいけど、野暮になりかねないから止めることにする。いい映画だった。

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4 月初頭、機会があったので『伝説巨人イデオン』の「接触編」および「発動編」を観た。もともと伝説的な作品だと承知していたが、鑑賞する機会と熱意に恵まれず、今日まで未鑑賞のままだった。

「発動編」入りのハイライト直前までは TV シリーズのまとめ版ということで、体験としては可能であれば TV シリーズを見て、それから「発動編」を堪能するといいとのことだが、今回は劇場版 2 作品を通しで見るに留めた。

もちろん、端折られた部分について未鑑賞となるのは心残りがあるが、総監督の富野由悠季の作品はある程度は知っているので、おこがましいけれども、そこそこの補完はできたつもりだ。なお、現時点では Amazon Prime でレンタルされているようなので、気が向いたら楽しめる。

まぁ、なので、これから書く感想はあくまで劇場版の範疇になる。

敵が味方になる展開が熱いじゃない

前置きを無視して、劇場版ではほとんど活躍できなかったギジェの話をする-やっぱり省略されたストーリーが熱いじゃない。本作、すべての事件の原因はカララにあるみたいな言われ方をしているようだが-もちろん否定はできない、初見の感想としては先見隊長ギジェ以下の統率の無さが悲惨極まるなと。つまり、ギジェの第一印象は最悪であった。

その後、バック・フランの軍に戻ったギジェは月面に滞在中のソロシップへの攻撃部隊に加わり、混乱のさなかで地球人のシェリルを救いつつ、ソロシップに乗り込む。TV シリーズではソロシップクルーとの葛藤やシェリルとの情愛などが丹念に描かれるのだろうけど、ここは「発動編」ではダイジェストで済まされた。

さらにその後、植物が鬱蒼と繁る惑星に追い込まれた戦闘で、ギジェはイデオンパイロットとしてで偉大な貢献をして息絶える、みたいなことと思うが、いやぁー、彼の活躍をちゃんと観たかったですね。やっぱり TV シリーズを見るしかないか。このときのイデオンのぶっ壊れ性能がまたユニークなんだわ。

一瞬の風のように去っていったヒロインがいた

前置きを無視して、劇場版ではほぼハイライトでしか登場しなかったキッチン話をする。ソロシップは補給を兼ねて地球系の植民星に降り立ち、そこの住民に助力を求めるものの、彼らからはにべもなく断られる。なんならバック・フランの追跡と攻撃によってこの植民星もヤベェ、そこからは破滅へ一直線、ということだと思う。バック・フランは好戦的が過ぎる。

この植民星でコスモと懇意になったのがキッチ・キッチンで、お互いにそこそこ惹かれ合う感じになっていくようだが、上述の通りに、ドバァーンッ!! うわぁーん! となって、コスモがブチ切れる!! キッチンの最期は TV シリーズよりもハイライトによる描写のほうが過酷になっているようだ。世知辛い。

コスモはロマンス要素ないよなぁ、などと「接触編」を見ながら思っていたし、キッチンの人物像もまた絶妙で散っていくには如何にも惜しい人物なので何とも衝撃的なのである。

と、こんな感じで主にギジェとキッチンにまつわる顛末が「発動編」冒頭のハイライトが流れる。なんのこっちゃかはほとんど分からないままだが、怒り猛るイデオンおよびコスモの姿に思わず感動せざるを得ない。

イデオンパイロットたちのさまざま

劇場版で省略された結果か判断しづらいが、3 機あるイデオンマシンのパイロットの「パイロットとしての立場や苦悩」のような視点はあまりなかったと感じる。Aメカのコスモとデク、Cメカのカーシャ以外は乗組員の交代も多いようで、先の例だとギジェが挙げられるが、Bメカのパイロットはなにかと不憫だ。

ついては、イデオンとおよびイデのエネルギーは自己防衛本能の強いより若い命、なんなら幼児や胎児レベルに反応するという点がこの機体、さらには作品全体の根本的な思想ともなるのだが、Bメカのパイロットは、悉くこの思想から相対的には 1 番遠い立場にあった。そういう意味付けもあるのだろうか。

逆に、若いからこそか、デクはクライマックス付近ではイデオンのレーダーなどの機能をそこそこ十分に使いこなしたようで、パイロットとしての成長はもちろんだが、適性の強さ、新しい時代へのエネルギーを感じさせる。

最期まで居たベスにせよ、途中で散っていったギジェにせよ、あるいはその他の Bメカのパイロットにせよ、 30 代目前くらいの年齢と思われ、充分若いようだが、そんな彼らにしてもイデオンとしては古い世代として扱うようなのがツラい。

この観点でバック・フラン側を見ると、主な登場人物でもっとも若いのがカララで、他の登場人物は彼女よりも年上だろう。そりゃリーダーが爺たちの集団に未来なんて切り開けるわけがない、となるのであった。

この旧世代を中心にしか回ることのない敵役の人間関係の描写は、オーソドックスなようでいて、なかなか珍しいというか、実はあんまりない徹底のしかたなのではと少し思う。実際に調べるとどうだろうか。

コスモとカーシャがみせた未来像は

なんだかんだでラストシーンがよい。実写で波打つ海を映したシーンが長尺で続くのも好きだよ。

メシアに導かれる人類たちは、それはそれでいい。スターチャイルドだか上位存在だかになるんだろう。インターネットに転がっている情報を読む限りでは、ラストシーンに登場するキャラクターたちはかろうじて現世での記憶を残しているだけで、存在が昇華されていく過程で人格や記憶をすっかりアレしていくらしい。違和感はない。

逆に、視聴者に彼らの意思や考えが分かるのもここまでなので、ここで何を感じたかで彼らとの接点は切れる。ラストシーンの最後に起こることはごくシンプルで、逃走と闘争に疲れたコスモが眠ったまま起きず、佇むカーシャにキッチンが合流し、2 人で彼で起こす。

キッチンが先に行っちゃったので、最後はカーシャと手を取り合って行くってだけなんだけど、なんなのさこれ。やっぱり TV シリーズをみないとアカンと思うのだが、カーシャという人間が本作で果たしてきた役割の大きさというのが実感させられる。

別にそれは、コスモが表で活躍して、カーシャが陰で支えるみたいな旧態依然というかベタな関係を想起させるものではなくて、もっとなんかすごくいい関係だったり、あるいはチカラの象徴のような気がする。

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『吸血鬼ノスフェラトゥ』《Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens》を観た。1922 年の作品なので、前回鑑賞の『メトロポリス』よりも 4 年前の作品ということになる。ムルナウ監督という名前くらいは知っていたが、ちゃんと見るのは初めてだ。

この時期のドイツ映画について個人的なメモだが、雑駁には 1920 年代くらいのドイツ映画、もとい絵画や建築など幅広い藝術分野での活動、そこに見受けられる形式を「ドイツ表現主義」と呼ぶ。先日の『メトロポリス』も本潮流の作品とされる。

2 作しか観ていない身で言うのもなんだが、暗くてファンタジックな物語、それが現実への風刺としても機能しつつ、といったところが映画におけるこのムーブメントの特徴なのかな。以下のページの説明が何となく理解の助けになった。

というわけで、作品の感想を残しておきたい。今回もニコニコ動画にアップロードされていた版を鑑賞した。

原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』であり、本作は契約を経ずに翻案する形で映画化したらしい。細部の設定はやや異なるようだ。人物名もドイツ名に変更されたとあるが、鑑賞した版に出てきた英語文章および日本語字幕では原作の人物名で表記されていたような気がする。面倒なので、以降の文章の人物名などは Wikipedia の記載に従う。

ついては、まずは自分なりにあらすじをまとめる。

青年トーマスは不動産屋のノックに指示されて契約のために、ルーマニアはトランシルヴァニアにあるオルロックの居城へ向かう。もうすでにノックの状態が何かおかしい。それでも陽気なトーマスは、愛妻エレンを友人宅に預けて出張に赴く。旅先、目的地を前にした宿で「吸血鬼の書」だかを目にしたトーマスは、これを一笑に付してオルロックの下へ向かった。直後、悲劇に見舞われてドラキュラを信じる。

トーマスの持つ妻エレンの写真で彼女に魅せられた吸血鬼オルロックは、海路で彼らの住居であるドイツのヴィスボルグに向かう。遅れてトーマスも陸路で追いかける。オルロックが海路を選んだ理由が不明瞭だが、船倉ならずっと真っ暗だからとかなのかな-単純に原作に寄せただけだろうか。しかし、遅れたトーマスは陸路でスピードを稼げた分だけ、2 人はほぼ同時にヴィスボルグに到着する。

不動産屋のノックはオルロックの来訪に歓喜してとうとう本性を露わにして、街を恐怖に陥れる。それと並行してか、謎の疫病が街に広がり、外出禁止令のようなものが箝口される。なんともタイムリーなトピックである。

オルロックはトーマス夫婦邸の向かいにあるボロイ家で暮らし始め、エレンを襲撃する機会を謀っている。そもそもエレンは超常的にオルロックの存在と危険性を感知していたが、トーマスの持ち帰った「吸血鬼の書」を読んでヒントを得、オルロック退治を決意する。

そして、オルロックを見事に誘い出し、決着としてはオルロックは日の出の朝日を浴び、消滅する。ところで、解説を読むとエレンはオルロックと結果として相打ちとなったらしく、クライマックスでは亡くなったようだ。これは、わからなかった。以上があらすじとなる。

話として印象的なことなど

エレンが自分を無垢だと自覚してオルロックをやっつけようとなるのが興味深かった。本作における無垢の定義とはなんなのか。どうして彼女は自分を犠牲にできたのか。並行してというか、トーマスが完全に道化なのも気になる。何の役に立っていないばかりか、不幸と不吉のフラグを立てつづける行動しかさせてもらえない。

映像的として印象的なシーンなど

特殊撮影といってよさそうなシーンがいくつかあったのかなぁ。オルロックのひとつひとつの挙動だとか、ラスト付近でスーッと透明に消えていく箇所とクライマックスの消滅のしかたはたしかに特殊な撮影技術だろうかね。

なんとかいう教授が「吸血鬼」を解説するシーンで、ハエを捕まえる食虫植物、エサを摂取する細胞生物、巣で捕えた獲物を処理する蜘蛛などのアップが映されるシーンがある。ここらへんはたまたま保存状態がよかったのか、映像もそこそこ美しくて印象深い。

その前段階のトーマスがオルロック邸に向かう途中、放牧された馬を狙う狼のカットもあった。いずれもこれらは吸血鬼、つまり捕食者と狙われるエサという関係を重ねるイメージであることには疑いようはなかろう。こういうイメージの使い方は現代でも多いだろうし、そういう意味では逆に新鮮だった。

話中では暗い時間であるはずだが、撮影技術かフィルムや機材の限界か、そうは撮影できていないシーンが多い。これは特に初期のモノクロ映画ではよくあることのはずで、それらのシーンは明るい。だが、ひとつだけだろうか、暗闇の中で灯りをともして明るくなるシーンがあった。これは印象的だった。

今回は以下のブログの記事が目に留まった。たしかに怪奇作品ではあるものの、裏テーマとしては疾病の恐怖、見えない恐怖への市民の恐慌状態のような視点が、見た目よりも大きいように考えられる。

あと劇版がよかった。現代音楽風の音の使い方だけれど、恐怖を煽るような演出がしっかりなされている。

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