『ガールズアンドパンツァー 最終章 第 3 話』を観た。前回から何年ぶりだろうか、夜のジャングルで知波単学園に追い詰められていたことは覚えていたので、特に問題なく物語に入り込めた。
さまざまな視点や角度から高密度なタンク戦が描かれる本作には、熱中せずにはいられない魅力がある。爆走する戦車の上で突っ立てても大丈夫だし、剥がれた装甲を手軽に修復してしまうのも OK なのは、クスッと来てしまうが、本作のリアリティ、非リアリティのバランスを維持する手腕は、いつも見事だ。
ここまで 3 話かけて 2 戦を描いてきた。残り 2 戦で予定通りの 残り 3 話となる計算だろうから、ピッタリだ。2020 年代で収束するスケジュールかはよくわからないが、楽しみにして待つしかない。
今回の本編は、どちらかというと知波単の成長の描写に重きが置かれていた。そのため、相対的にではあるが、大洗のメンバーの弱さがやや浮き彫りになった。いつも通りと言えばそうかもしれない。そういう意図によるだろう状況ではあるが、歯がゆさはある。
成長して健闘した知波単にしても、最後は見事にエース:あんこうチームに釣られる結末で終わってしまった点も、少しばかりもどかしい。会長、桃ちゃん達のカメさんチームが漁夫の利的に撃墜していくシーンは、過去のどこかにもあった気がするが、どうだったかな。
前半の大洗 vs 知波単を雑にまとめてしまうと、福ちゃんの成長とそこへの橋渡しというニュアンスが強く感じられた。世代交代がしっかり描かれているので、これも特に不満はない。
知波単戦が終わり、幕間としては他学校の対戦が描かれる。これは多くの視聴者が指摘しているが、勝ち上がってくるチームと、最終的に対戦することになりそうなチームは大方の予想がつく。
黒森峰のエリカとプラウダのカチューシャはどちらも面白かった。言ってしまうと、カチューシャの活躍のシーンって実は劇場版からあまり与えられてない気がして、やや不憫ではある。見せ場ではあるんだけどね。一方のエリカはそこそこ恵まれている。これは西住姉妹に挟まれているから致し方ないか。
で、結局は第 3 戦では継続高校が対戦相手となった。この高校は、劇場版からの本格登場だったハズだが、隊長のミカがまたひどい人物で、どうやってこれでチームを率いていられるのかまったく想像がつかない。が、有能なことに変わりないのだろう。
大洗の西住と秋山は、偵察にてサンダース大学付属が継続に負けた展開を見ていたが、それにしては戦闘の序幕の切り方がやや無防備だったなと、やはり思ってしまう。まぁ、この展開もそこまで意外ではなかったが、こうなるよね、という展開なので次回が楽しみではある。
西住みほが、ある意味で隊長という職務を降りている現状で、良くも悪くも肩のチカラが抜けており、判断力が鈍っている、みたいな想像もできるが、どんな感じなんだろうね。大洗女子学園の各チームの活躍を祈りたい。
オープニングでは、あんこうチーム、他学校のメンバー、大洗のその他のチームそれぞれが交互に描写されたが、自動車部のレオポンさんチームの 4 人は画面分割で入っていたのが面白かった。あんこうチーム以下はレオポンさんチームが好きなのだが、自動車部はほとんどが卒業なのだね。
どうしても間が空いてしまうので、キャラクターもとい声優さんの声の雰囲気が変わった、なかなか戻らない感じを幾人かから受けた。が、まぁこれも仕方ないのかな。通しで見たときに、どういう感じになるのかは気になる。
『長江 愛の詩』の記録をようやくまとめた。原題は「長江圖」となっており「長江の図」の意味か。英題は “Crosscurrent” で「逆流」「遡行」などか。作中で何が起きたかは英題が端的に表しているように思える。邦題はエモくて、実に日本らしい。けど、詩をピックアップしたのは良いと思う。
本作について監督は構想から数えて 10 年以上を費やしたとどこかで読んだインタビューで明かされていたが、シナリオの制作が進むたびに内容は複雑になっていったらしい。ということで、本作は非常に分かりづらい。
発表は 2016年 で日本国内では 2018年 にシネマート系(テアトルグループかな)で主に上映された、と思う。
2019年 には岐阜の映画祭で扱われたらしい。2020 年には仙台で上映されたらしい。私は 2018 年に劇場で鑑賞して非常に感動して、 DVD まで購入した。撮影は 35mm フィルムカメラを使ったらしく、恵比寿ガーデンシネマでの上映は 4K だったそうだが、残念ながら相応に画質が保証されたパッケージは、少なくとも日本国内では販売されていない。
ちょっとあまりに多面的に書きたいことが多く、メモを書き連ねて残して置いたら 3 年くらい経っていた。修正や補筆をして出そう。
あらすじ
主人公のガオ・チュンは、死んだ父を継いで長江で運航する貨物船の船長となった。操舵をはじめとした貨物船の従事者としての能力は低く、ベテランのホンウェイ、若手のウー・シェンに頼りきりだ。やくざ絡みの積み荷を上海から遡行して運んでいくことになったが、積み荷の正体がどうも怪しい。ほぼ同時期、エンジンルームで長江の地図、亡父の作と思われる詩が添えられている-を発見した。積み荷を運ぶにあたって長江を遡りつつ、印の土地に沿って停泊していたら、そのたびに謎の女性アン・ルーと邂逅することになった。
ざっくりした感想
本作は、解こうとしても解けないメタファーが折り重なっている。アン・ルーはいうなれば長江そのものであり、その歴史であり、ガオ・チュンがなぜか惹かれる対象であり、おそらくまた父の愛した人でもある-これがガオ・チュンの母であるとも考えられるし、まったく別の存在であるとも考えられる。
あまり行儀のよい解釈とも思わないが、父の船に乗った息子が、彼らにとって母なる河ともいえる長江の源流に向かっていく図として見たとき、やや艶めかしいというか「父殺し」の亜流にも読み替えられるような気がする。
だが、本作の場合に殺されるのは、父という以上に、長江で育まれた文化、民衆そのものですらあり得る-これは本編終了後のカットで表されている。
この作品で描かれるのは、実は登場人物のパーソナルな愛やその問題ではなく、長江そのものへの愛であり、鑑賞者はその体験に付き合わされたのだと自覚してしまって唖然した。
監督、脚本のヤン・チャオの自伝的な側面もなくはないという話だった気がするが、ちょうど「シン・エヴァ」を見た直後だから言うけれども、失われた父、あるいは母に対して煮え切らない思いと態度を抱えつつ、彼らの深奥を探っていかざるを得ないという構造が割と似ている。そういう気がした。
なにより、そういうところに惹かれたのかもしれない。
アン・ルー
ガオ・チュンは都合 10 回ほど、彼女に遭遇する。遭遇することのできない係留所もあったが、そこにも彼女の痕跡は残っている。長江を遡るほどに彼女は若返っていく(ように描写される)が、これは話が逆で、彼女の歴史あるいは長江の歴史をガオ・チュンと私たちが逆に辿っている。
いずれにしても彼と彼女の邂逅はどれも現実的ではなく、描写自体は幻想であることをなるべく避けるようにしながらも、現実には不可能な状況を見せつけてくる。ラスト方向から感想を並べていく。回数とシチュエーションは、精確に記録したわけではないので、子細にはミスがあるだろう。
10 回目:最後の邂逅は山道を川上に向かって歩くアン・ルーをガオ・チュンの船がサーチライトで照らす。全体の筋として本来はアン・ルーは川下に向かっていくと思われるが、これは演出上の都合だろうか。ガオ・チュンがいくら彼女を呼んでも、彼女は歩くことに夢中な様子で彼には気がつかない。
この直後、とうとう現実と幻想の結節点が現れる。いや、切断面かな。このへんの描写や演出や、最高に好き。
9 回目:アン・ルーはどこかの寺院の壁画の清掃と岸壁に残されれた詩文かなにかの収集、版画作成の仕事をしている。ガオ・チュンと居合わせて、墨で顔を黒く染める。軽く交流するだけだ。可愛らしい。
8 回目:しばらく 2 人は邂逅していない。このシーンでは、アン・ルーは仏寺で修業中のようだ。また、夫と見られる男性が布団を運んで来ていた。まったく分からない。
7 回目:アン・ルーは海女のような作業をしており、河中の浮島に建てられた屋敷に居を構えている。ガオ・チュンは彼女に会えず、付近を通り過ぎる。彼女の佇む部屋の窓から、その姿が視聴者には垣間見える。視点は定かではない。
6 回目:仏塔(だろうか)に入ったガオ・チュンはアン・ルーと僧侶の問答を耳にする。彼は構内を上下して彼女を探すが見つからずじまいである。
5 回目:浜辺に立つアン、ルーは沖を行く船に向かって「私に会わずに置いていくのか」と叫ぶ。船はもちろんガオ・チュンのそれだ。だが、ガオ・チュンに話しかけているのかは定かではない。砂浜には詩が書かれている。これはガオ・チュンの父が残した詩だろうか。
4 回目:洪水なり浸水なりで家屋がどんどん駄目になっていく地区にアン・ルーは暮らしている。滞在期間、ガオ・チュンとアン・ルーは夫婦のように時間を過ごした。そのようにみえた。
ところが、アン・ルーはそこに夫が居たようである。最初の晩の次の夜、ガオ・チュンは家を再訪し、男女の諍いを目撃する。その後、なぜか男はベッド上で死んでいる。劇場と DVD で字幕に違いがあるだろうか、劇場では口論の内容が字幕された気がしたが、DVD ではなかった。
この辺、本作でもっとも分からない箇所のひとつで、当該地区が水没していくのは河川事業の一環なのだろうが、そもそも夫も 8 回目に夫らしかった人物と同一人物でもなさそうな気がした。
3 回目:深夜、路上で眠るアンルー、少し遠くでは高層ビルに花火が舞っている。これは上海なのかな。
2 回目:防波堤沿いのバラックに暮らしているアン・ルー。かつては母とここで暮らしていたという。アン・ルーとガオ・チュンはここで初めて身体を重ねた。というか、直接的に描写されるのはここだけだ。アン・ルーという存在にだけ着目すれば、あきらかにここから現実離れしはじめる。
1 回目:仕事を受けるために発船準備を進めるガオ・チュンはそばに停泊している小舟に乗った女性に妙に惹かれる。彼女こそがアン・ルーだが、船上生活でもしているようだ。解説などによると、船上で身売りをしているらしい。疲れ切った様子がある。
その他のことなど
物語の背景には長江の開発、代表される三峡ダムの存在、それに伴って変化していく流域の人々の生活、河川の環境が変化し、絶滅したとされるヨウスコウカワイルカの存在、などなどさまざまなファクターが入り混じっている。
クライマックス付近で三峡ダムを利用して、上流へ向かうシーンがあったが、劇場でこのシーンを観ることはすごい体験で、ダム施設内では船を係留するのだが、水位が上昇していくなかで響き渡る係留索の奏でる摩擦音が、長江の泣き声のようにしか聞こえなかった。
いや、まぁ、とにかくいいんだ。
以下、だいぶん前にググったときに解釈などの参考にした記事などだ。
キミは『あのこは貴族』を観たか。
テアトル系の映画館では、年末年始あたりから上映前の案内に登場していた記憶がある。門脇麦、水原希子が主演となれば、見ないわけにはいくまいと決意していた。こうした心づもりで上映開始を迎えたわけだが、決意を翻すことなく、あっさり鑑賞できた。よかった。
本作、すごくよかった。物語自体は、まぁなんというか否定的-のつもりはないのだが率直に言うと、しょーもないというか、一般化すればどこにでもある話で(あまりにも乱暴な物言い)、また、これといった起伏もない。
だが、決して退屈ということもない。何がスゴイと感じたかいうと、ことごとくツボを突いてくる俳優の演技と映像の演出で、みるみると、のめり込んでいった。
登場人物別に感想を残すのがしっくりきそうなので、そうする。そうしてみた結果、無駄に長くなった。けどまぁいいや。
平田里英
山下リオが演じる。主役のひとりである時岡美紀とは地元からの同窓生で、ふたりは富山の高校から慶應義塾大学に入学する。その後、10 年ほど音信不通のような状態になっていたようだが、2017 年の地元の同窓会で再会した後は、都内でもしばしば面会を重ねるようになる。
美紀の転機に寄り添ってくれるという立場の重要性と絶妙な存在感が無視できない一方、ちょいちょい登場するくらいなので紹介が難しい。2 つのシーンをあげたい。
まずは、自転車を引いて歩く美紀と語り合いながら歩くシーン。これはどれだけ演出の意図通りか不明だが、背景となった車道を白い車がややスピードに乗ったまま左折してふたりを追い抜いていく。この情景が、怒られるかもしれないが、本作でもっとも強烈に心に残っている。ある種の緩急を感じ、ちょっとビックリさせられた、とでも言おうか。
このシーンにそのまま続いてだが、内幸町の駅からニケツで美紀の自宅に向かっていく箇所も、本作でも 1、2 を争う名シーンであって、思わず鳥肌が立ってしまった。自転車をうまく生かす作品ってのはそれだけで貴重なんだ。
喫茶店や東京駅のシーンもそれぞれよくて、それぞれの状況で描かれる里英と美紀との連帯は、そこにあるのが何かは明言し難いが、なんなら友情やビジネスパートナーを超えた情愛があるのかもしらん。
青木幸一郎
高良健吾が演じる。慶應の幼稚舎から法学部を出て東大の法科大学院だかを経由して弁護士になり、果ては議員を目指すとか。生活の足元を固めるには結婚が必要というわけで、ちょうどよいところに榛原華子が現れた。彼らはアレヨという間もなく結婚する。
幸一郎さん、パッとした第一印象では、イケイケのリア充だったのでは? と思うが、見ていくと割とそうでもなく、実家を継ぐことのプレッシャーと葛藤、親族との世代ギャップに静かながらに悶々と苦悩している描写が醸されていて、演技も含めて、これはこれは見事だった。
結婚相手も、彼の経歴なら簡単に選べそうなものだが、そうはなっていない。実は、外面だとか社交性だとかの能力は低いのだろう。華子の前ではやたらと誠実だが、美紀が「実はそれほどイヤな奴じゃない」みたいなニュアンスの台詞をこぼすあたりで、察せられるところがある。
設定上はおそらく 32 歳である彼を、幼いと見るか、年相応と見るかは視聴者次第ではあるが、まぁこんなもんかな。とはいえ、ほんまもんのお坊ちゃまエリートの描写としては、やや弱いのかもとも思わなくもない。実態はもっとエグイだろうなと。
なお、「原作ではもっと旧弊な価値観に染まっているので、映画の脚本のキャラクターの方がしっくりきた」という感想も見た。なるほど。
榛原華子
門脇麦が演じる。主役のひとりで、作品全体としては、ほぼ彼女の視点が中心になる。29 歳かな。
父が医院を経営し、松濤暮らしのボンボンの三女ということで、大事に育てられたなりの価値観の基盤の無さ、周囲の意に沿った故の諦念に包まれた人生観を滲ませる。
バカではないものの要所で知恵が抜けている、一方で、お育ちの物腰とピンポイントでの配慮の良さはちゃんと備わっている、これまたアンバランスな人間像が絶妙な演技で表現される。
ほとんど主体的な意見を表明せずに、のらりくらいと周囲の欲望を最小ダメージで躱してきた彼女だが、とはいえ、彼女自身の意思や感情をそれなりに発した箇所はいくつかあるはずで、私は 2 つのシーンで気になった。
作中で彼女が本当の意味でひとりになれるのは、タクシーを駆って都内を縦横無尽に移動する車中だったりして。感情の機微もここで発露されることが多い。別に彼女自身にとっては、タクシーはただの移動手段にすぎない。
タクシーと決別した彼女を、そしてその選んだルートを誰が否定できようか。エンディングに解釈の余地があるのか否かは両論あろうけれど、自分勝手さが極端に振れたことを除いて、華子本人の意思決定を作品全体が肯定するとすれば、あの終わり方はどこまでも前向きだ、と個人的には考える。
相良逸子
石橋静河が演じる。華子の同窓生である彼女は、バイオリニストとしてドイツと日本を中心に活動する。良家のお嬢様然としつつ、現代社会なりの新しげな、しかし彼女自身の価値観に沿って生きる道を選んでいる。
雑に括れば、美紀に対する里英、華子に対する逸子といった構図となり、そういう意味では説明するまでもなく、逸子は華子の助けになっている。
単純に私が石橋静河のファンなだけなのだが、窮屈な世界をそれでも自分なりに伸び伸びと生きようとしている逸子は、とてもカッコイイのであった。
本作での仕掛けとしては、彼女は右手の薬指だかに指輪をしており、どこかの会話のシーンでも示唆されていたが、恋人のようなパートナーがいるのか否かは明らかではない。ノイズと思わなくもないが、フックとしての機能はあるのだろう。
時岡美紀
水原希子が演じる。甲乙つけがたいというか、出演者はみんな好きなんだけど、本作で誰に敬意を示したいかといえば彼女になる。本当によくやった。里英の説明で触れたように、主役のひとりである。
富山の高校から上京して大学生になったのち、紆余曲折あってイベント会社のコーディネーターのような仕事をしていると思われるが、学生時代の縁から幸一郎とたまに時間を過ごす仲になっている。
彼女は貴族ではないので、タイトルの視点はあえて特定するとすれば、時岡美紀の視点がもっとも近いとは言えるだろう。
でもね、別にタイトルの「あのこは貴族」というようなニュアンスは、作中ではあからさまに表現されることはなかった。そう言ってもいいと思う。
本作において華子と美紀の交錯点というのは、思いのほか小さい。
それでありながらも、物語は全体として美紀と華子を取り巻いた、行き当たりばったりを強いられるような生活と環境、彼女らの生活は対比ではなくて、それぞれの喜びも悲しみも、等しくそれぞれに訪れるだけで、実際には縁があるのかないのかも定かではない華子と美紀が、見事に重ねられている。
攻めと受けの八方美人の在りかた
そんな彼女らについて、あえて対比をして見てみると、華子が防御力をあげて世界と対峙してきた一方、美紀はそれなりに攻撃力をあげて世界と対峙する必要があった。
大学入学を喜ぶ美紀、年末年始に草臥れて富山の実家で過ごす美紀、同窓会でひとり酒を煽る美紀、年明けのパーティーで逸子に挨拶する美紀、突然に逸子に謎の会合に呼び出される美紀、その他、その他、その他…。
彼女の見せなければならない表情が多いこと多いこと。
同時にして逆に、華子は、最小限の表情の変化で、それぞれの状況で彼女自身の感情のゆらめきを表している。
これらの演技、演出を振り返ると、あらためて驚かされるが、とにかく主演の彼女らの演技には惚れ惚れする。
女性たちによる世界観なのか
本作、監督・脚本が岨手由貴子、原作が山内マリコということで、制作人の主要メンバーも内容、テーマ的にもほぼほぼ女性が中心になっている。
珍しいことはなくて、これは潮流なのだろうけれど『燃える女の肖像』しかり、『はちどり』しかり、そういうところがあった。
そこにどこまで意味を見い出すかは鑑賞者次第といっていいとは思うが、特に本作においては単純に旧世代側の人間か否か、でいいのかなと。逸子が美紀に対して「旧来の女性」が強いられていた生き方を論じるシーンがあったが、少なくとも「旧来の生き方」を強いられ続けて逃れられないでいるのは、高良健吾なのだよな、本作は。
古い価値観から逃れていく人たちと、そうでない人たち、そういったギャップの観点としては、まぁティピカルだったかな。些細なことではあるけれど。
『すばらしき世界』を観た。原案の小説『身分帳』(1990、佐木隆三)は、未読だ。監督の西川美和の作品を観るのも初めてで、役所広司が主演した映画をちゃんと見るのも初めてだ。
物語の主人公、三上正夫(役所広司)は正当防衛とも思しき殺人を犯し、自己弁護の失敗も重ね、平成 16 年に収監されて平成 29 年に娑婆に戻ってきた。社会生活に 13 年間のブランクがある。彼は「一匹狼」を自称するが、反社会的勢力の部分であったことは確かで、出所後に東京に向かう道すがら「カタギ」として生きると自ら誓う。
冒頭、東京の身元引受人の家にあったテレビ脇のカレンダーは 2 月 20 日を指していた。冬だ。そして物語はおそらく 7~8 月に終わる。よって、本作はおよそ半年程度の出来事を描いている、と思われる。
こう振り返ると、およそ 2 時間の上映時間は濃密だった。彼の生活は、アパートをなんとか借りて生活保護を受けながら職探しを始めるところから始まるが、暮らすことになったのは荒川付近だろう。荒川区か足立区か江東区か、そのへんかな。
前置きが長くなってしまった。
コメディ調に演出される箇所も多く、緊張と緩和のテンポのよさが不気味に心地いい。個人的には中盤の転換点がやや怠く感じたが、その弛んだ感触も長続きせず、結果的には幕引きまでちゃんとジェットコースターに乗って楽しめた。
本作に問題提起があるとすれば
社会派な作品でもあるが、そういう意味での本作の根幹を成す部分はなんだろうか。たとえば『万引き家族』(2018)と比べようとすると難しくて、「どちらのほうが自分にとってより身近な問題に感じるか?」というと、かなり回答に迷う。というか、答えが出ない愚問ではあるか。
よほど整備された世界で生まれ育った、相当に幸福な人間でもない限りは、三上のような、怒りが暴力に直結しやすい人間に、誰でも人生で 1 度以上は遭遇するだろう。暴力やその破壊力の次第ではあるが、居ることはいる。
とはいえ、遭遇したことがあるタイプの人間だから彼に共感しやすいかというと、そうはならない。それは多くの人間にとっては、彼は加害者、もしくは邪魔者、乱暴者であって、決して何かの被害者ではない-少なくとも表面的には。
もちろん、私は本作で描かれた彼の感情の起伏の程度には引いてしまった。大方の反応もそうだろうと感じる。
そういう意味では、「万引き家族」のほうが身近な問題のようにも思えるが、此方にしたって日常的に万引きを実行し、それを生活の基盤とする価値観なんて、なかなか分からない。
視点を変えよう。
あらためて三上の問題の根本は
私が結末付近で得た感想は、本作は『エレファント・マン』(1980)の類型だなという点で、突き詰めれば、これに尽きる。三上の属性がヤクザである、そうであったことに意識が寄りがちだが、ぶっちゃけヤクザとかどうでもいい。本作においては、それは物語の前提、または三上の性質と実績の結果でしかないので。
過去に彼が起こした犯罪、あるいは作中で実行した揉め事(事件化はしていないが悪事だ)を無視すると、三上という人間が社会生活を目指すうえで抱える問題点は「およそ正当な怒りが破壊的な暴力に直結しやすい」という性質にある。
それが「まじめすぎる」あるいは「幼少期の母親との別れ」などといったオブラートや原因探しに包まれて、作中では、まともな協力者達から批判、あるいは諭される。お前は普通じゃないんだからと。
就職が決まったときのパーティーが代表的だが、三上を救おうとする庄司夫妻、松本店長、ケースワーカーの井口、ライターの津乃田に至るまで、あくまでまともな側の人間である彼らは、すごく真っ当なアドバイスをくれる。
そこに少なからずの違和感を感じたのか、同シーンでの津乃田は一瞬だけ揺らいでいた。この点について、説明はなされないが、もどかしさはある。
『エレファント・マン』との比較を利用すると、何においても三上を無辜であるとできないので、彼の立場はエレファント・マンよりも難しい。が、三上を受け入れてやろうというカタギの世界は、そんなにもすばらしいものかね。
すばらしき世界を諦めない
作品のクライマックスに至っては、三上が彼自身の抑えがたい性質を社会に、あくまで「カタギ」として生活していけるレベルで、順応させていけるかという点に希望らしきものが提示される。
が、私にはよく分からない。そんなことが社会性なのか。あるいは、まともな人間性なのか。その分岐点ってどこね?
それでも本作がなんらかの感動を鑑賞者に与えるのは、三上自身がカタギの世界に希望を見い出すことを諦めなかったからなんだろう。あのエンディングをもって美談めいたノーサイドになってしまうのも心苦しいが、これも現実か。
それでもすばらしい世界はあるか
本作で、まっとうな人とはみ出し者の彼岸を、実にピンポイントに、悪びれて照らすのは、ちょい役の吉澤遥(長澤まさみ)くらいだ。なのだが、いかんせん主題めいた内容がボケるだろうから、これもそこまで深入りして描写はされない。
結局、三上がまともな社会に受け入れられ得たか分からない。そこに希望があるかどうかも、私的な感想としては、そこまでポジティブにも思わない。まともになろうという三上がコスモスを手にしたとき、何を思っていたのか。
付言というか、ベタな話ではあるが、「万引き家族」にせよ本作にせよ、前者ではタイトルが示す通りではあるのだが、家族というものの在りようへの問いが根底にはあるような気はするね。
まとまりのない感想になった。
その他
物語とは別に気に留まった点などをメモしておく。
東京タワーと”Love Lost In Heaven”
「カタギ」を諦めかけた三上がアニキ分に連絡し、そこへ向かうシーン。まぁ美しかったね。まずは東京タワーが映る夜景をバックに、横浜方面へ移動していく空撮(これもドローンで撮影できるのかな)を背景に、”Love Lost In Heaven” という、いかにも甘い曲が流れる。
この曲、実際の歌手も実在するようなのだが、本作への書き下ろし、専用のナンバーなのかしら。よくわからん。いい曲です。タイトルがね。
ちなみに、このシーンでのアニキ分との通話は、いかにも肩肘のはらない気の抜けた、彼らなりの愛情のこもった会話だった。福岡に着いてから舎弟の運転する車がほかに車両のいない高速を抜けていくシーンにも現実感がなくて、妙に美しい。三上が過去に生きていた世界がすでに現実離れしていることを予感させられる。
余談というほどでもないが、東京スカイツリーも『万引き家族』以来に映像作品での登場をみた。権利的に映像に登場させるのは相当に難しい建造物であるらしいが、東京タワーを上述のように活用しておいて、こちらを映さないわけにもいくまいな。なんだかんだで時代を象徴するモニュメントになっているね。
光のつぶつぶの効果
上述の東京タワーの情景然りだが、エモいシーンで多用されていたように思う。まるっきり CG ってワケでもなさそうだけど、なんらかの加工を加えないとこういう感じにはなかなかならないだろうね。こういう映し方の技法なりにも名前がありそうだけど、あいにく知らない。
やっぱりシーン全体が幻想的な調子になる効果がある。なんなら、全部が夢物語だったのではとすら思うが、残念ながらそうでもない。
福岡のアニキ分の女将
本作、最後に登場した介護施設の若者たちも好きなのだが、軍配は福岡の女将さんに上がった。夢のような福岡滞在、津乃田からの朗報。ウキウキ気分で釣りから帰宅すると警察との押し問答が発生していた。朗報と女将の説得がストッパーとなり、ふたたびカタギに傾いた三上は、現場から去る。
彼女こそ、まっとうではない側から、三上をまっとうな世界へ背中を押した、本作で唯一の人物なのだ。それはそれでどうなのと思わなくもないが、これこそが救いだと私は感じる。
『花束みたいな恋をした』を観た。やっぱり劇場で映画を見るのはいいね。
映画で菅田将暉や有村架純をみるのは初めてで、これは非常に貴重な体験だった。有村架純についていえば、演技をまともに見たのも初めてかもしれない。
大枠としてはラブコメ枠でいいはずで、このジャンルの作品は年間に数多製作、発表されていると思うが、2016 年くらいから映画を鑑賞するようになってからポツポツと摂取している。
そんな個人的な鑑賞体験の範囲で本作を評価すると、この作品には、ごく普通のごく平凡なごく幸せな恋愛体験の始まりと終わりだけがあって、これがかなり奇跡的なことと思われた。
濃い設定やクセの強い主役たちであったり、なんらかの悲劇によって 2 人が引き裂かれたり、といった物語を盛り上げるための装置がほぼなく、どこにでもありそうなほろ苦い人生が描かれるのがよい。
とにかく普通の作品であることがすごい
京王線沿線に暮らす麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、ふとしたことから調布駅で終電を逃し、そこに居合わせた他 2 名と朝まで過ごすことになる。で、他 2 名はどうでもいいが、お互いに文藝ファンであったり、押井守を本人であると認識できたり、といった感じで気が合ったようなので、付き合いを深めていく。
ごくごく普通というか、大学生以降の人間関係は、こういうキッカケでスタートしていくものだよね。本棚のラインナップがメチャクチャ被ってるとか、そういうのを小さな運命の積み重ねみたいに言ってもいいし、少なくとも恋愛してる当人たちは運命性を感じてるものだろうけど、客観的に眺めていると、まぁよくある話だ。
これは悪い意味ではなくて、だからこそ本作が描く物語には普遍性がある、ような気がする。言うなれば、その点の当たり前さが妙に生々しくて、特に私は男性であるからか知らぬが、ところどころ菅田将暉が演じる麦の挙動に、共感性差恥心のような感情が生じて独特の気持ち悪さを感じた。
そういう点も含め、恋愛から結婚への地続き的な思考、あるいはその否定や(これは麦、絹双方だが)、これまたあまりにも典型的なすれ違いの様子などのディテール部分は、少しばかり違和感を感じなくもなかった。とはいえこれも、私個人の体験や感覚との相違から生じるギャップであるとしたら、その根源にある理屈や感情は限りなく私のナマモノであって、なかなか空恐ろしい。
ほにゃららカルチャー的なあれこれ
上述したように、麦も絹は、同じ特定の作家が好きだったり、押井守を判別できたり、音楽の趣味が合ったり、という特性がある。本作の難点というか、実在の固有名詞がバシバシ出てくるので、実際にこれらを知っているか否か、親しみがあるか否かで感触が大分変わりそうだという点があった。
私個人としては、本作に登場する作家やミュージシャン、映画などなどは大体は知っていたのでウワァーという感じで、物語の時系列の先頭にあたる 2015 年から世の中のいろいろはこんな感じだったなと、懐かしいような、やはり恥ずかしいような思いをもって見つめていた。
特に印象的だったのは 2017 年発売のゲーム筐体である Nintendo Switch のロンチタイトルであった『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』で、中高年世代(30 歳代以上くらい)はこのゲームでひさびさにコンシューマーに帰ってきた感があったが、麦と絹は 2 人はサラリーマン生活が徐々に忙しくなっていき、これで遊ぶことがなくなっていく。
あるいは、職場での泊まり込みの寝台では、なんと麦が「パズドラ」に興じているではないか。お前…、そんな、なんでそんな…。いや、いいんですけどね…。
長くなりそうなんで、カルチャー的な話は切り上げるけど、気になったのはレビューなどで本作で挙げられたカルチャー的なあれこれを「サブカル」と括って済ませていた人が多からず、いたことだ。まためんどくさい視点だなと呆れられるだろうけど、本作に登場したさまざまな映画、音楽、文藝などをサブカルと呼ぶ必要があるのか。ないだろうと思うが、どうだろうか。
秒速5cmメートル的な感触が…
ラストシーンの正に映画を見終える瞬間、視点が現代に戻り、麦と絹がそれぞれの新しいパートナーと街へ散っていくとき「あぁ、こりゃ男女双方の視点を補完してキレイに終わらせた大人の秒速5cmセンチメートルじゃん」と勝手に腑に落ちてしまった。
Twitter で検索してみると、同じような感想を述べたツイートは少なくなさそうだ。どういうことなのか。
それでもやっぱり男視点だなとは
つまり、この作品は限りになく平等に視点が描かれているけど、細部をちゃんと押さえると、一応は麦側の視点に重きが置かれている。どういうことかというと、タイトルを振り返ってみればわかりやすい。とりあえず、そのことには深入りしない。
そういえば、ラブコメものをいくつか見てきたと冒頭で言ったが、男性視点が軸に据えられている作品は、実はあんまり見てこなかったことに気がつく。『勝手に震えてろ』(2017)『愛がなんだ』(2018)などがパッと思い浮かぶが、いずれも女性作家の女性視点の作品だった。
であるから、その面で考えれば新海誠の作品が連想されてもさほど不思議ではないのかな。してみると、これは比べようのないことだけれど、作品への感情移入のしやすさのハードルは実は男性の方が低いのかもしれない。どうなんだろうね。
物語自体も、全体的には各イベントを提案するのはほとんど麦で、そういう意味では、古臭い作品ということもできるのか? とも思わなくもない。このポイントが、本作の面白さを左右するとは思わないが、小さな違和感のひとつではあった。
しばらく更新が滞っていた。そろそろヒッチコックマラソンも再開したいし、今年は読了した書籍のメモなども載せていきたい。特別に忙しいわけではないが、どうにも進まない。これはよくない。
ということで、もなにもないが今回は、手塚治虫の『三つ目がとおる』についてメモを残す。Wikipedia や Amazon で収集した情報を自分なりにまとめ直しただけで大した内容ではないハズだが、誰かの役には立つかもしれない。
キッカケだが、Kindle で或るバージョンの第 1 巻を手に取った。だが、読んでみると明らかにこの第 1 巻は本シリーズの 1 作目ではない。この問題については、カスタマーレビューにも似たような発見、不満が書かれていた。だがこれは、 Kindle のせいではなくあきらかに原本がそのようになっている。
どうしてこうなった?
前提として『三つ目がとおる』は 1974 年から 4 年間、「週刊少年マガジン」にて連載された作品だ。調べた限りだと、以下のようなバリエーションで単行本やら文庫やらになっているようだ。本当は書誌情報などをていねいに洗うべきなのだが、まぁやりません。ざっくり調べた範囲で、発刊年代順にしたつもりだ。
- 講談社コミックス(全 6 巻、-1978?)
- 手塚治虫漫画全集(全 13 巻、1977?-1984?)
- 講談社コミックスペシャル(全 8 巻、1986?)
- 講談社コミックスグランドコレクション(全 8 巻、1996?)
- 講談社プラチナコミック(全 14 巻、2003?)コンビニコミック
- 講談社漫画文庫(全 8 巻、2008?)
- 手塚治虫文庫全集(全 7 巻、2010-2012)
- 復刻名作漫画シリーズ GAMANGA BOOKS版(全 10 巻、小学館クリエイティブ、2012)
- 三つ目がとおる 《オリジナル版》 大全集 (全 8 巻、復刊ドットコム、2019)
1~7 は講談社の発刊物だ。2.の全集は 3 期にわけて計画されたそうだが、「三つ目がとおる」の掲載時期に被っている。おそらく第 3 期に発刊されたと思われる。その後、10 年や 5 年などのスパンでさまざまな形態で発行されている。
8 は小学館クリエイティブの古典マンガの復興企画のようだが、よく調べていない。7と時期が微妙に重複している点が少しだけ気になる。
9 の復刊ドットコムの版は現行で最新版だが、これは雑誌掲載時の原稿と形態、話の展開を可能な限り再現したバージョンであるらしい。
暫定的な結論を述べれば、Kindle あるいは紙の書籍で買うのであれば、7 がよさそうだ。現段階では、7 と 8 の差がよく分かっていないのだが、どうも内容にそこまで差はないように思える。そして、どうしても掲載時のオリジナルに近い状態で読みたければ 9 という選択肢が考えられる。それについては以下のページに詳しいので、ここでは割愛する。
私が最初に遭遇したのはなんだったのか
キッカケとなった問題を扱う。手塚治虫に限った話ではないが、およそ連載作品というのは、単行本化にあたって手直しが入る。そして殊更、本作についてはそれが大きかったようだ。私が最初に手に取ったのは「手塚治虫漫画全集」版(上記 2)を Kindle 化した第 1 巻だったようで、一方の「手塚治虫文庫全集」(上記 7)の Kindle 版も存在するのだ。リンクは以下の通りだ。
なぜこうなったのか。ここからは、 Wikipedia (三つ目がとおる)の記述をそのまま引用するが、以下のような原因があるらしい。
『手塚治虫漫画全集』の刊行に当たっては、当時6巻まで発売されていた講談社コミックス(KC)版を打ち切りにし、その続きから優先して全集に収録されることになった。このため全集への収録順序は連載時の順序と大きく異なるものとなるが、「講談社コミックスペシャル(KCSP)」 以降の版では本来の順に戻されている。
Wikipedia:三つ目がとおる 作品の改変等について
なるほど、コミックス版を切ったものの、そこまで購入していた読者を待たせるわけにもいかないという判断から、コミックス版の続きをスタートとして全集に収録したという経緯だろうか。よくこんな手段を取ったな。
だが、この特異な状況にあるのは「手塚治虫漫画全集」(上記2)だけであるようだ。
ところで、また、「手塚治虫文庫全集」(上記7)では、このバージョン以前までオミットされていた以下の各話が収録されているらしい。これは、Wikipedia (手塚治虫漫画全集)の記述だ。
『三つ目がとおる』は下記の未収録作品が収録されている。
「分福登場」「給食」「猪鹿中学」「長耳族」「舌をだすな!」「七蛇寺の七ふしぎ」「カオスの壺」「メダルの謎」「スキャンダル」
Kindle なりの問題点もある
今回たまたま発見したのだが、Amazon Kindle サービスの悪癖にも遭遇した。先ほどリンクを張った『三つ目がとおる 手塚治虫文庫全集(1)』のページだが、ここに掲載されているカスタマーレビューが実は、小学館クリエイティブの GAMANGA BOOKS版 (上記8)と併合されている。これは明らかにミスだろう。2 巻目以降では発生していないので、一括操作で生じたエラー的な事象なのだろうが、これが GAMANGA BOOKS版 の発見に繋がったという救いもあるのだが、混乱も生んだ。
どのバージョンを読めばいいか
先ほども書いたが、あらためてまとめる。
Kindle で読みたければ「手塚治虫文庫全集」(上記7)がモアベターだろう。連載順を操作されたバージョンを敢えて読む必要はない。ついで、紙で読みたい場合だが、やはり「手塚治虫文庫全集」(上記7)がおそらく書店ではもっとも入手しやすい。
そして雑誌掲載時の状態、あるいは作品全体の手入れ前のクライマックスを堪能したければ復刊ドットコム版でもいいのではないか。割と高額、かつ場所もとりそうなので、最終巻だけこれを買ってみるというのもありかもしれないなと個人的には思う。どうもクライマックスにもバージョンごとの相違がかなり大きいようなので。
とここまで書いてボンヤリと思い出したが、10 年近く前にも同じように混乱していろいろと調べていたことを思い出した。当時はバリエーションの多さに負けて、わけが分からないまま撤退した記憶がある。
『ルクス・エテルナ 永遠の光』を観た。なんとなく映画を探していて、まぁ面白いということらしく、チケットを取った。予約のタイミングが早かったのもあって、予約したときはガラガラだったが、劇場についたら思っていたよりも席が埋まっていた。
それにしても監督のギャスパー・ノエもまったく知らず、ワクワクとしながら見始めたんだけど、ぶったまげましたね。うーん…。
考えさせる系の映画、ということで合っていると思うが、どうだろうか。1 回書きたいことを全部載せた感想を書いたが、どうも気持ちがよくないので、止めた。
この作品で描かれているある種の不条理さを笑いに転化するということも個人的には難しくて、煮え切らない。別の場所にも記したのだが、そのことだけ書こうと思う。
本作、ベアトリス、シャルロット、アビーという 3 人の女性の苦悩が分かりやすい。男も登場するが、ほとんどが気持ちが悪い。登場する男たちには、ほとんど台詞と役割があるのだが、まぁ気持ち悪さを引き立てるだけだ。まぁとにかく男は皆、気持ちが悪い。
女性は上記の 3 人の他、下撮り用のシャルロットの代役の女性、シャルロットの誘導係、その他という感じかな。
ベアトリスは、初の監督作品ということで気合が入っているがプロデューサーとも撮影監督とも反りが合わずに、何もかもうまく行かない。実際、指揮能力があるようには見えないので仕方がない。本作のイメージにも使われているが、最後に「なぜ誰もかれもが私を置いていくのか」と嘆いている。
シャルロットは、この愚作に付き合うことになってしまった人気俳優ということだ。ようわからん撮影に巻き込まれている点も不幸だが、問題は娘が身体的な被害にあっているかもしれないという事実が電話で不確かながらも露見した点にある。仕事をぶっちして帰ればいいのだが、タイミングが掴めなかったね…。
メタ的には、彼女の不幸は映画そのものにも、撮影現場にもない、というメッセージに読めるがどうだかねぇ。彼女も本作のイメージに使われており、磔にされて項垂れている。「永遠の光」とはえてして、見えない不幸によって支えられているのだ、とでも言いたげだが、よくわからん。
アビーは、シャルロットと同じく磔にされる。彼女は英語圏から撮影に参加しており、フランス語で進行管理される現場になかなか付いていけない。トラブル続きだし、どうしようもない。クライマックスの磔のシーンでは彼女の存在感が最高潮になる。かわいそうで、たいへんそうだね。
といった感じだが、私はもう 1 人の磔にされた女性が気になった。この女性は 1 回も台詞がなかったのではないかな。問題の磔のシーンでも黙っていた。それでもこの磔からアビーもシャルロットもさておき、1 番に解放されたのが彼女だった。
この映画がベアトリスの嘆きとシャルロッテの諦めという構図で締めくくられるにあたって、アビーももう 1 人の女性も意図的には添え物でしかないはずなのだが、そこに意味を持たせたとき、右側の女性がぽっかりと、誰にとっても都合のよい、本当に非常に淡白で、逆にそれだけ私から見たら奇妙な味付けになった。
私は、彼女のために自分がこの映画を観たと、そう思いたい。
ヒッチコックマラソンです。『間違えられた男』《The Wrong Man》を観た。ヒッチコックのなかでは、異色の作品にあたるのかな。冒頭で実話を基にした作品だということを監督本人が語るシーンが用意されている。真剣味が違う。
実在の事件が存在する作品といえば『ロープ』もそうだが、こちらは映画の脚本のベースに舞台劇の脚本があった。事件の背景も大分に手が加わっている。一方で、『間違えられた男』は原作と脚本がマクスウェル・アンダーソンということだが、映画のための書き下ろし脚本なのだろうか。結論としては事実への脚色具合はわからん。
半世紀以上も前のことだから、警察の杜撰な捜査など現代以上によくあったことだろうけれども、被害者の証言や雑に鑑定された筆跡鑑定などから主人公:マニーは強盗の容疑者に仕立て上げられていく。
とはいえ当時といえど、もう少し強く主張すればそのまま留置場、刑務所域は免れたようにも思うが、そんなことはないのかね。突然に容疑者として事件に巻き込まれたらマニーのようになってしまうような気もする。その辺のリアリティはエンターテインメントととしもかなり重視されている雰囲気はある。
つまり、前半の醍醐味は翻弄されるマニーであって、留置場に入れられたマニーの苦悩の表情を中心にカメラがぐわんぐわんと動くシーンは凝っていて印象的だ。刑務所の格子に囲まれた階段だとか、牢獄の扉の窓越しのカメラワークとか、まぁ目に映える映し方ばかりなんだ。
輸送されていくマニーの俯いた表情や視線、足元の覚束ない雰囲気なども大きく見どころで、こういう無辜の人物がハメられていく作品は実に心が痛むので負荷も大きいのだが、映像の面白さについついのめり込んでいく。追いやられていく。
追い詰められていった男と女
この作品、実話がベースになっているという点も含めて、生活がカツカツな人物が主人公というのもヒッチコック作品としては割と珍しいのではないか。それも「実はお金に困っていた」じゃなくて、最初からお金に困ってギリギリで生活費を工面していることが明らかにされている。中流かそこらのごく一般的な家庭なんだよね。
冒頭で、マニーの配偶者であるローズの歯痛が問題となり、これをキッカケにして彼が容疑者となってしまう騒動に巻き込まれていく。ローズはこのことに気を病むのだが、ある時点で判明する分には、そもそも彼女は小さいながらも借金を重ねるマニーの家計勘定を良しとしていなかった。この辺のバランスはさりげないけど、見事だよね。
さて、マニーの容疑を晴らす決定的なアリバイとなるはずの人物たちが不幸にも物故していたことが判明した時点で、ローズが狂ったように笑い始める。実際に狂ってしまうのだが、このへんの強烈にメランコリーな女性という存在も、ヒッチコックとしては実は珍しいような気がする。『山羊座のもとに』と比較してもちょっと性質が違うような気がする。
おもしろいもので、この物語の原因で、かつ本筋であったのは強盗容疑事件なのだが、最後に印象に残るのは家庭の不幸であり、配偶者の破滅であった。マニーはむしろ、ここにこそ奇跡を望んだが、それは少なくとも作中では描かれずに終わった。前半と後半でまったく異なる表情をみせるローズ、これはスゴイいいよね。同じ人物に見えないくらいだった。
なんとなく救いだと思ったのは、マニーの勤務先のホールだ。普通なら彼が容疑者になった時点で解雇されても不思議はないが、保釈後に平常通り業務に戻れているっぽいのだよな。物語的には、あまり不幸を拡散させても収拾がつかないというのと、実際にマニーはそういうことは絶対にしないという信頼があるという、意味付けもなされているのだろうけど、ベースを弾いてるマニーのシーンもよかったね。
ヒッチコックマラソンです。『知りすぎていた男』《The Man Who Knew Too Much》を観た。のっけから海外、しかも合衆国でも欧州じゃないので少しびっくりしたが、カサブランカを経由してマラケシュへ観光に来ている家族という設定か。
夫は医者で、妻は世界を巡った元歌手のスターだったらしい。なんやかんやあって夫婦と息子が事件に巻きこまれ、息子が誘拐されて、2人はロンドンまで追いかけていくが…。
ひさびさに感じる規模感と妙な間延び感があるなと思ったが、これはイギリス時代の作品『暗殺者の家』のセルフ・リメイクでもあるらしい。なるほど、その辺の影響もあるのだろうか。今回の私の走っているヒッチコックマラソンでは、『暗殺者の家』は鑑賞できていないので、その辺の都合はわからない。
自分が感じた間延び感だが、主人公らが息子の救出を急いでいる割にはややマイペースだったり、ロンドンの警察がかなり間抜けに見えたのが該当する。これはおそらく原作の脚本から動かしがたいところだったのではないかな。
さて、まずは、マラケシュでの異文化感がよかった。これはさすがに現地のロケだよね? チキンを食べるシーンが出てくるのだが、『泥棒成金』と異なり、これはちゃんと食べていたような。左手を使ってはいけないというルールに翻弄される主人公はちょっと面白いね。
マラケシュの月夜を映したカットが本作では 1 番好きかもしれない。
ところで本作の冒頭は、ホールで演奏される楽団のシンバルが鳴らされるシーンから始まり、「この音を耳にしてしまった家族を襲う危機が…」みたいなメッセージがなされる。この仕掛けがうまく機能していたのかは微妙かもしらん。
ロンドンでは現地を訪れていた他国の大統領が、コンサートホールで暗殺されんとしていた。本作のクライマックスは前後があり、その前半がここのシーンだ。大きなホールにめちゃくちゃ大人数の観客、オーケストラ、合唱が入っており、圧巻の人数だ。
加えて、舞台設定とか狙撃のシーンなんかは、いくつもマネされていそう。ベタだけど最近の映画としては『テネット』の冒頭シーンなんかが連想されましたね。
音楽がめちゃくちゃ重要な要素なんだよね
まずは、このコンサートホールで演奏されていた曲目についてだが、インターネットのありがたいことに、詳しく説明してくれている個人サイトがあった。原曲はオーストラリア出身の作曲家、アーサー・ベンジャミンの《cantata the storm clouds》という曲らしい。
もうひとつの重要な音楽が《ケ・セラ・セラ》で、この作品のために制作され、歌われていたことも知らなかったが、なるほどなぁ。ミュージカル映画の系譜はあまり分からないのだが、こういった要素の取り入れなのかね。ドリス・デイの歌いっぷりがまさしく歌姫のそれで、美しい。
この曲が、クライマックスの 2 つ目の山場で活躍するわけだ。
子供がまともに登場する
『ハリーの災難』でも登場する子供にそこそこの役割が与えられていたが、ヒッチコックのサスペンス作品に子供がまともに登場して扱われるのは初めてなんじゃないだろうか。見落としがあるかな? これも時代の流れなのか?
不幸中の幸いというか、誘拐された子供はそれなりに丁重に扱われるのだが、誘拐犯側の女性諜報員も少年に同情してしまって、逃がそうとするんだよね。そこで母と子の暗号として《ケ・セラ・セラ》が機能するのなんて、上手いね。大使館の夜会で歌うには場違いな曲だったのに、結局は皆が聞き入ってっているのもオツだった。
タイトルの「知りすぎていた男」というのは、主人公のベンのことなのか、殺されたルイ・ベルナールなのか、よく分からんよな。ベルナールは最初、暗殺チームをベンではないかと疑ったということだが、さすがに子連れで偵察になんて訪れないよな(笑。 こういうところもちょっと旧作っぽさがあるような気がする。
以下が音楽まわりの情報で参考になったページだ。
ヒッチコックマラソンです。『ハリーの災難』《The Trouble with Harry》を観た。
あらすじを確認することを避けて鑑賞したが、のっけから異常な展開で笑ってしまった。映像としては冒頭のシーンがもっとも美しく感じらるといっても過言ではないのではないか。
観賞後に情報を拾い読みしたけど、一般的にはブラック・コメディとして分類される作品らしい。後半には、やや集中力が失速していって、全体としてはそこそこという印象に落ち着いたが、要所の描写などを思い返してみると、考えさせられる点がいくつかあり、それなりに興味深いなと思ったので、それらについて書いておく。
ブラック・コメディにしても登場人物の考え方や感性がややおかしい。異常といってもいいような気配すらする。ということで登場人物別にメモする。
ジェニファー
最初の夫が死んで、その兄である男-タイトルとなっているハリーだが-、と結婚し、それも死んだ。最初の夫の死因は明かされないが、次の夫の死因は心臓発作だ。最初の夫の死から、次の夫との結婚と死、作中でのサムからの求婚の受け入れと、怒涛の勢いだが、これってヒデェよな。ブラック・コメディだから許される設定じゃないよね、これは半分褒めてるけど。なので本作一、狂気を孕んでいるのは彼女だ。
死体に遭遇してしまった息子への態度も妙だし、なんなら同じ行為を 2 度もさせようなんていうのは完全に正気の沙汰ではない。黒すぎる。
アーニー
息子のアーニーも肝が据わっている。いや、やっぱり変なんだよな。一昔前の田舎だったら当たり前だったのかしらないけど、船長(アルバート)の狩ったウサギの両耳を担いではしゃいでいる画がもうキツい。サムの持ち込んだカエルと交換してもらうシーンもそれなりに怖いのだが、譲渡したはずのウサギをすぐに借りて(強奪だよ)、そのままマフィン 2 つと交換しにいく。自由奔放が過ぎる。
終盤で、バスタブに裸体で横たわっているハリーを確実に目撃しているはずだが、これもアーニーは軽くスルーする。気味が悪すぎる。
1950 年代のホラー映画のランキングなどをパッと眺めた限りなのだが、この時期はまだ子供が恐怖をもたらすタイプのホラー映画はあまりなさそうなんだけど、この映画のアーニーのようなイメージが、子供が恐怖の源泉となるホラーを生み出すきっかけになったのではないか、などと妄想してしまった。
ついでにメモしておくと、おそらく私が見てきたヒッチコック作品で子供がここまでちゃんと登場するのは初で、加えて次作の『知りすぎていた男』では、まるで真逆のように、まっとうな母親と子供が登場する。
サム
画家だ。まともな人間なのかちょっとネジが外れているのか分からないところがあるが、基本的には善人なようだ。上述のように、割と簡単にジェニーに惚れこんで、一晩でプロポーズまで済ませる。テンポが良すぎる。
この男がジェニーに何故惚れたのか。ジェニーのどこに魅力があったのか。ジェニーは彼女にまとわりつく男たちを次々と殺していくのではないかという恐怖がどうしても湧いてしまうね。ファム・ファタールだ。
私はこの男にも幸福は訪れそうにないように思える。コメディとは言うけど、なんというか全体的に不穏なんだよな-人が死んでいるのでそれはそうなのだけれども。
その他の登場人物
船長とアイビーはまだまともかな。船長に続いて、アイビーが登場した時点の彼女の態度で、話の半分くらいは予想できるんだよね。話がある程度まで進んだ時点で、埋めた死体を掘り返すというアイビーの意見は真っ当と言えばまっとうなのだが、別の視点が加わったら埋め戻すことにも簡単に同意するし、軸がねぇなぁ。このあたりはまぁ、コメディとして面白い。
グリーンボー医師も狂ってるけど、まぁ彼はいいや。読んでる本の内容などにはおそらく意味づけがなされているのだろうけれども。深入りしてはいけない。
ウィッグス親子は、この土地では最古の住人のように思えるが、なんとなく悲しい役どころなんだよね。カルヴィンのことを思うと、ツラくなる。このね、田舎なりの人間関係の粗密感というか、やりきれなさが潜んでいるのがね、そういう空恐ろしさが背後にあるんだよね。
『羅生門』っぽさないですか
インターネットでググる限りだと、ほとんど該当する指摘はなくて、「連想させられる」と書かれた記事は検索上位には何件かはあったが、これは私の勝手な思い込みなのか、どうなのか。
そもそも「ハリーの災難」の原作を知らないので、本作がどれくらい原作をトレースした結果なのかも不明だが、ややコメディ調に殺人の真相探しが進むのは、黒澤明の『羅生門』を完全に意識しているように感じた。
下記の参照した記事には、「この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日した。」ともあったが、どれくらい確かな情報なのかは定かではない。
のちのち得られた事実があれば、追記しておきたい。
というわけで-も何もないんだけど、なんというか私は本作はブラック・コメディというよりは、ホラー映画に繋がるような不条理さを重点的に読み取ってしまったのであった。