『ルクス・エテルナ 永遠の光』を観た。なんとなく映画を探していて、まぁ面白いということらしく、チケットを取った。予約のタイミングが早かったのもあって、予約したときはガラガラだったが、劇場についたら思っていたよりも席が埋まっていた。

それにしても監督のギャスパー・ノエもまったく知らず、ワクワクとしながら見始めたんだけど、ぶったまげましたね。うーん…。

考えさせる系の映画、ということで合っていると思うが、どうだろうか。1 回書きたいことを全部載せた感想を書いたが、どうも気持ちがよくないので、止めた。

この作品で描かれているある種の不条理さを笑いに転化するということも個人的には難しくて、煮え切らない。別の場所にも記したのだが、そのことだけ書こうと思う。

本作、ベアトリス、シャルロット、アビーという 3 人の女性の苦悩が分かりやすい。男も登場するが、ほとんどが気持ちが悪い。登場する男たちには、ほとんど台詞と役割があるのだが、まぁ気持ち悪さを引き立てるだけだ。まぁとにかく男は皆、気持ちが悪い。

女性は上記の 3 人の他、下撮り用のシャルロットの代役の女性、シャルロットの誘導係、その他という感じかな。

ベアトリスは、初の監督作品ということで気合が入っているがプロデューサーとも撮影監督とも反りが合わずに、何もかもうまく行かない。実際、指揮能力があるようには見えないので仕方がない。本作のイメージにも使われているが、最後に「なぜ誰もかれもが私を置いていくのか」と嘆いている。

シャルロットは、この愚作に付き合うことになってしまった人気俳優ということだ。ようわからん撮影に巻き込まれている点も不幸だが、問題は娘が身体的な被害にあっているかもしれないという事実が電話で不確かながらも露見した点にある。仕事をぶっちして帰ればいいのだが、タイミングが掴めなかったね…。

メタ的には、彼女の不幸は映画そのものにも、撮影現場にもない、というメッセージに読めるがどうだかねぇ。彼女も本作のイメージに使われており、磔にされて項垂れている。「永遠の光」とはえてして、見えない不幸によって支えられているのだ、とでも言いたげだが、よくわからん。

アビーは、シャルロットと同じく磔にされる。彼女は英語圏から撮影に参加しており、フランス語で進行管理される現場になかなか付いていけない。トラブル続きだし、どうしようもない。クライマックスの磔のシーンでは彼女の存在感が最高潮になる。かわいそうで、たいへんそうだね。

といった感じだが、私はもう 1 人の磔にされた女性が気になった。この女性は 1 回も台詞がなかったのではないかな。問題の磔のシーンでも黙っていた。それでもこの磔からアビーもシャルロットもさておき、1 番に解放されたのが彼女だった。

この映画がベアトリスの嘆きとシャルロッテの諦めという構図で締めくくられるにあたって、アビーももう 1 人の女性も意図的には添え物でしかないはずなのだが、そこに意味を持たせたとき、右側の女性がぽっかりと、誰にとっても都合のよい、本当に非常に淡白で、逆にそれだけ私から見たら奇妙な味付けになった。

私は、彼女のために自分がこの映画を観たと、そう思いたい。

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ヒッチコックマラソンです。『間違えられた男』《The Wrong Man》を観た。ヒッチコックのなかでは、異色の作品にあたるのかな。冒頭で実話を基にした作品だということを監督本人が語るシーンが用意されている。真剣味が違う。

実在の事件が存在する作品といえば『ロープ』もそうだが、こちらは映画の脚本のベースに舞台劇の脚本があった。事件の背景も大分に手が加わっている。一方で、『間違えられた男』は原作と脚本がマクスウェル・アンダーソンということだが、映画のための書き下ろし脚本なのだろうか。結論としては事実への脚色具合はわからん。

半世紀以上も前のことだから、警察の杜撰な捜査など現代以上によくあったことだろうけれども、被害者の証言や雑に鑑定された筆跡鑑定などから主人公:マニーは強盗の容疑者に仕立て上げられていく。

とはいえ当時といえど、もう少し強く主張すればそのまま留置場、刑務所域は免れたようにも思うが、そんなことはないのかね。突然に容疑者として事件に巻き込まれたらマニーのようになってしまうような気もする。その辺のリアリティはエンターテインメントととしもかなり重視されている雰囲気はある。

つまり、前半の醍醐味は翻弄されるマニーであって、留置場に入れられたマニーの苦悩の表情を中心にカメラがぐわんぐわんと動くシーンは凝っていて印象的だ。刑務所の格子に囲まれた階段だとか、牢獄の扉の窓越しのカメラワークとか、まぁ目に映える映し方ばかりなんだ。

輸送されていくマニーの俯いた表情や視線、足元の覚束ない雰囲気なども大きく見どころで、こういう無辜の人物がハメられていく作品は実に心が痛むので負荷も大きいのだが、映像の面白さについついのめり込んでいく。追いやられていく。

追い詰められていった男と女

この作品、実話がベースになっているという点も含めて、生活がカツカツな人物が主人公というのもヒッチコック作品としては割と珍しいのではないか。それも「実はお金に困っていた」じゃなくて、最初からお金に困ってギリギリで生活費を工面していることが明らかにされている。中流かそこらのごく一般的な家庭なんだよね。

冒頭で、マニーの配偶者であるローズの歯痛が問題となり、これをキッカケにして彼が容疑者となってしまう騒動に巻き込まれていく。ローズはこのことに気を病むのだが、ある時点で判明する分には、そもそも彼女は小さいながらも借金を重ねるマニーの家計勘定を良しとしていなかった。この辺のバランスはさりげないけど、見事だよね。

さて、マニーの容疑を晴らす決定的なアリバイとなるはずの人物たちが不幸にも物故していたことが判明した時点で、ローズが狂ったように笑い始める。実際に狂ってしまうのだが、このへんの強烈にメランコリーな女性という存在も、ヒッチコックとしては実は珍しいような気がする。『山羊座のもとに』と比較してもちょっと性質が違うような気がする。

おもしろいもので、この物語の原因で、かつ本筋であったのは強盗容疑事件なのだが、最後に印象に残るのは家庭の不幸であり、配偶者の破滅であった。マニーはむしろ、ここにこそ奇跡を望んだが、それは少なくとも作中では描かれずに終わった。前半と後半でまったく異なる表情をみせるローズ、これはスゴイいいよね。同じ人物に見えないくらいだった。

なんとなく救いだと思ったのは、マニーの勤務先のホールだ。普通なら彼が容疑者になった時点で解雇されても不思議はないが、保釈後に平常通り業務に戻れているっぽいのだよな。物語的には、あまり不幸を拡散させても収拾がつかないというのと、実際にマニーはそういうことは絶対にしないという信頼があるという、意味付けもなされているのだろうけど、ベースを弾いてるマニーのシーンもよかったね。

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ヒッチコックマラソンです。『知りすぎていた男』《The Man Who Knew Too Much》を観た。のっけから海外、しかも合衆国でも欧州じゃないので少しびっくりしたが、カサブランカを経由してマラケシュへ観光に来ている家族という設定か。

夫は医者で、妻は世界を巡った元歌手のスターだったらしい。なんやかんやあって夫婦と息子が事件に巻きこまれ、息子が誘拐されて、2人はロンドンまで追いかけていくが…。

ひさびさに感じる規模感と妙な間延び感があるなと思ったが、これはイギリス時代の作品『暗殺者の家』のセルフ・リメイクでもあるらしい。なるほど、その辺の影響もあるのだろうか。今回の私の走っているヒッチコックマラソンでは、『暗殺者の家』は鑑賞できていないので、その辺の都合はわからない。

自分が感じた間延び感だが、主人公らが息子の救出を急いでいる割にはややマイペースだったり、ロンドンの警察がかなり間抜けに見えたのが該当する。これはおそらく原作の脚本から動かしがたいところだったのではないかな。

さて、まずは、マラケシュでの異文化感がよかった。これはさすがに現地のロケだよね? チキンを食べるシーンが出てくるのだが、『泥棒成金』と異なり、これはちゃんと食べていたような。左手を使ってはいけないというルールに翻弄される主人公はちょっと面白いね。

マラケシュの月夜を映したカットが本作では 1 番好きかもしれない。

ところで本作の冒頭は、ホールで演奏される楽団のシンバルが鳴らされるシーンから始まり、「この音を耳にしてしまった家族を襲う危機が…」みたいなメッセージがなされる。この仕掛けがうまく機能していたのかは微妙かもしらん。

ロンドンでは現地を訪れていた他国の大統領が、コンサートホールで暗殺されんとしていた。本作のクライマックスは前後があり、その前半がここのシーンだ。大きなホールにめちゃくちゃ大人数の観客、オーケストラ、合唱が入っており、圧巻の人数だ。

加えて、舞台設定とか狙撃のシーンなんかは、いくつもマネされていそう。ベタだけど最近の映画としては『テネット』の冒頭シーンなんかが連想されましたね。

音楽がめちゃくちゃ重要な要素なんだよね

まずは、このコンサートホールで演奏されていた曲目についてだが、インターネットのありがたいことに、詳しく説明してくれている個人サイトがあった。原曲はオーストラリア出身の作曲家、アーサー・ベンジャミンの《cantata the storm clouds》という曲らしい。

もうひとつの重要な音楽が《ケ・セラ・セラ》で、この作品のために制作され、歌われていたことも知らなかったが、なるほどなぁ。ミュージカル映画の系譜はあまり分からないのだが、こういった要素の取り入れなのかね。ドリス・デイの歌いっぷりがまさしく歌姫のそれで、美しい。

この曲が、クライマックスの 2 つ目の山場で活躍するわけだ。

子供がまともに登場する

『ハリーの災難』でも登場する子供にそこそこの役割が与えられていたが、ヒッチコックのサスペンス作品に子供がまともに登場して扱われるのは初めてなんじゃないだろうか。見落としがあるかな? これも時代の流れなのか?

不幸中の幸いというか、誘拐された子供はそれなりに丁重に扱われるのだが、誘拐犯側の女性諜報員も少年に同情してしまって、逃がそうとするんだよね。そこで母と子の暗号として《ケ・セラ・セラ》が機能するのなんて、上手いね。大使館の夜会で歌うには場違いな曲だったのに、結局は皆が聞き入ってっているのもオツだった。

タイトルの「知りすぎていた男」というのは、主人公のベンのことなのか、殺されたルイ・ベルナールなのか、よく分からんよな。ベルナールは最初、暗殺チームをベンではないかと疑ったということだが、さすがに子連れで偵察になんて訪れないよな(笑。 こういうところもちょっと旧作っぽさがあるような気がする。

以下が音楽まわりの情報で参考になったページだ。

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ヒッチコックマラソンです。『ハリーの災難』《The Trouble with Harry》を観た。

あらすじを確認することを避けて鑑賞したが、のっけから異常な展開で笑ってしまった。映像としては冒頭のシーンがもっとも美しく感じらるといっても過言ではないのではないか。

観賞後に情報を拾い読みしたけど、一般的にはブラック・コメディとして分類される作品らしい。後半には、やや集中力が失速していって、全体としてはそこそこという印象に落ち着いたが、要所の描写などを思い返してみると、考えさせられる点がいくつかあり、それなりに興味深いなと思ったので、それらについて書いておく。

ブラック・コメディにしても登場人物の考え方や感性がややおかしい。異常といってもいいような気配すらする。ということで登場人物別にメモする。

ジェニファー

最初の夫が死んで、その兄である男-タイトルとなっているハリーだが-、と結婚し、それも死んだ。最初の夫の死因は明かされないが、次の夫の死因は心臓発作だ。最初の夫の死から、次の夫との結婚と死、作中でのサムからの求婚の受け入れと、怒涛の勢いだが、これってヒデェよな。ブラック・コメディだから許される設定じゃないよね、これは半分褒めてるけど。なので本作一、狂気を孕んでいるのは彼女だ。

死体に遭遇してしまった息子への態度も妙だし、なんなら同じ行為を 2 度もさせようなんていうのは完全に正気の沙汰ではない。黒すぎる。

アーニー

息子のアーニーも肝が据わっている。いや、やっぱり変なんだよな。一昔前の田舎だったら当たり前だったのかしらないけど、船長(アルバート)の狩ったウサギの両耳を担いではしゃいでいる画がもうキツい。サムの持ち込んだカエルと交換してもらうシーンもそれなりに怖いのだが、譲渡したはずのウサギをすぐに借りて(強奪だよ)、そのままマフィン 2 つと交換しにいく。自由奔放が過ぎる。

終盤で、バスタブに裸体で横たわっているハリーを確実に目撃しているはずだが、これもアーニーは軽くスルーする。気味が悪すぎる。

1950 年代のホラー映画のランキングなどをパッと眺めた限りなのだが、この時期はまだ子供が恐怖をもたらすタイプのホラー映画はあまりなさそうなんだけど、この映画のアーニーのようなイメージが、子供が恐怖の源泉となるホラーを生み出すきっかけになったのではないか、などと妄想してしまった。

ついでにメモしておくと、おそらく私が見てきたヒッチコック作品で子供がここまでちゃんと登場するのは初で、加えて次作の『知りすぎていた男』では、まるで真逆のように、まっとうな母親と子供が登場する。

サム

画家だ。まともな人間なのかちょっとネジが外れているのか分からないところがあるが、基本的には善人なようだ。上述のように、割と簡単にジェニーに惚れこんで、一晩でプロポーズまで済ませる。テンポが良すぎる。

この男がジェニーに何故惚れたのか。ジェニーのどこに魅力があったのか。ジェニーは彼女にまとわりつく男たちを次々と殺していくのではないかという恐怖がどうしても湧いてしまうね。ファム・ファタールだ。

私はこの男にも幸福は訪れそうにないように思える。コメディとは言うけど、なんというか全体的に不穏なんだよな-人が死んでいるのでそれはそうなのだけれども。

その他の登場人物

船長とアイビーはまだまともかな。船長に続いて、アイビーが登場した時点の彼女の態度で、話の半分くらいは予想できるんだよね。話がある程度まで進んだ時点で、埋めた死体を掘り返すというアイビーの意見は真っ当と言えばまっとうなのだが、別の視点が加わったら埋め戻すことにも簡単に同意するし、軸がねぇなぁ。このあたりはまぁ、コメディとして面白い。

グリーンボー医師も狂ってるけど、まぁ彼はいいや。読んでる本の内容などにはおそらく意味づけがなされているのだろうけれども。深入りしてはいけない。

ウィッグス親子は、この土地では最古の住人のように思えるが、なんとなく悲しい役どころなんだよね。カルヴィンのことを思うと、ツラくなる。このね、田舎なりの人間関係の粗密感というか、やりきれなさが潜んでいるのがね、そういう空恐ろしさが背後にあるんだよね。

『羅生門』っぽさないですか

インターネットでググる限りだと、ほとんど該当する指摘はなくて、「連想させられる」と書かれた記事は検索上位には何件かはあったが、これは私の勝手な思い込みなのか、どうなのか。

そもそも「ハリーの災難」の原作を知らないので、本作がどれくらい原作をトレースした結果なのかも不明だが、ややコメディ調に殺人の真相探しが進むのは、黒澤明の『羅生門』を完全に意識しているように感じた。

下記の参照した記事には、「この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日した。」ともあったが、どれくらい確かな情報なのかは定かではない。

のちのち得られた事実があれば、追記しておきたい。

というわけで-も何もないんだけど、なんというか私は本作はブラック・コメディというよりは、ホラー映画に繋がるような不条理さを重点的に読み取ってしまったのであった。

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『ルーブル美術館の夜 ― ダ・ヴィンチ没後500年展』を鑑賞してきた。上映中の映画を漁ってたらたまたま眼に入って、一応、レオナルド・ダ・ヴィンチのファンではあるのだが、なんとなく見てきた。面白かったには面白かったが、映画としてみたときの全体のパフォーマンスとしてはどうかなぁ、と偉そうなことを文句をたれつつ、前半の終わりから中盤はウトウトと寝落ちしたので、中途半端な体験および感想となる。

2019 – 2020 年にフランスはルーブル美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展について、この展覧会のキュレーターであった 2 氏の解説付きで展示物を読み解いていくという内容だ。本展、準備段階から実施に至るまで 10 年以上の歳月を費やしたそうだ。大変なことだ。

美術館の閉館後、誰もいないフロアを贅沢に使って、専門家のやり取りを拝聴できるというところがウリなのだろうけれども、それが夜である必要がイマイチわからなかった。別にそこに期待しているわけでもないので、いいっちゃいいのだが。

冒頭とエンディングで、おそらくドローンによる美術館全体の空撮が、エントランスのガラスのピラミッドを中心として、「四分の三正面」を彷彿とさせる角度から写されていた。おそらく冒頭が閉館直後をイメージしており、エンディングはこれからまた開館する直前みたいなニュアンスなのかな。

作品を解説するにあたっては特別なカメラワークなどはほぼ取りようがないが、題材に入るときには、ぐるりと付近の壁面からなめるように回転させて作品を中央に収めていったり、といった工夫には気がついた。寝落ちせずに済んだ箇所についてのみだけれど…。

本劇中で扱われている作品は、上にリンクを張った公式ページに記載されているが、以下となる。

  • 《聖トマスの懐疑》(彫像、ヴェロッキオ)
  • 《受胎告知》
  • 《聖母と果物鉢》
  • 《猫のいる聖母子の素描》
  • 《ブノワの聖母》
  • 《荒野の聖ヒエロニムス》
  • 《岩窟の聖母(パリ版)》
  • 《音楽家の肖像》
  • 《ミラノの貴婦人の肖像》
  • 《最後の晩餐》
  • 《ほつれ髪の女》
  • 《洗礼者ヨハネ》
  • 《聖母子と聖アンナ》
  • 《モナ・リザ》

なお、展覧会には《モナ・リザ》そのものは収録されなかったらしい。というのも、企画展のフロアのキャパシティは 1 日で 2 万人程度を想定していたらしいが、ルーブル美術館の《モナ・リザ》を見にくる人たちは 日に 3 万人だとのことだった。なるほどねぇ。

解説の合い間にはところどころで館内の映像も映されるが、これといって面白いことはなかったかな。良くも悪くも普通だ。

一番不満だったのは音楽で、パッと耳にしてどの曲だと同定できるほどではないが、バロック音楽-おそらくバッハだったりが、割と多かった印象がある。これがよく分からない。同時代の画家を扱っているのであれば分かるのだが、ぜんぜん時代が全然違うよね。それであっていれば不満もないわけだが、合わせるための工夫があるのかないのか。

雰囲気で音を入れたというほどバカな話もないだろうけど、よく分からない。単純に、作品にあっているとは感じられなかったのが残念だった。エンドロールではスタンダードジャズみたいな音楽が流れていたけど、突然のジャズに困惑した。なんだか、これらの印象ばかりが残るなぁ。

ちなみに、後ほど他の方の感想を目にしたら、エンドロールで流れていたのはやはりバッハのパッサカリアのジャズ演奏だったらしい。なんならこういう演奏で全体をまとめてくれたほうがよっぽどマシだよ。

下書きから完成まで、新たな技法をどう生かすのか

1 番まともに鑑賞できたのは最後のほうの《聖母子と聖アンナ》だったのだが、これはデッサンや肖像画などと異なり、宗教画のカテゴリーに入るので、制作される対象は完全に画家のイマジネーション頼りになるわけだ。下書きと実際の作品の構図に異なりがあるのは、特にこの画家の場合は珍しくもないことだと思うが、つまるところ完成図が常に画家の脳内にしかない。

私には、なんなら下書きのほうがよい絵に見える。「下書き段階の方がよかった」なんてことはこの画家に限らず、絵描き一般によくあることだと思うが、それだけ初期段階の完成イメージのままに作品を作り上げることの難しさを物語っているのだろう。そのうえ、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、新しい技法や画材などへの興味関心が尽きず、なかなか制作は進まないのであった。

というような話も過去に何度か見てきたが、今回あらためて腹落ちした。

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Twitter での評判から『AWAKE』を観てきた。いわゆる正月最後の休みの日の、最初の回であったので、2021 年の映画初めと言っていいのかな。いい映画だったが、その良さをどう自分の中で消化したらしたらいいのか、咀嚼の仕方に悩んでいる。

本作、2015 年にドワンゴの主催で行われた将棋のイベント「電脳戦」にて実際に行われた 阿久津主税八段×将棋AI「AWAKE」の試合の顛末や、開発者の方の背景をベースに制作された作品だ。監督の山田篤宏は、ニューヨーク大学で映画を学んだらしく、直近では乃木坂のプロモーション映画の制作などを務めたらしい。商業映画デビュー作とのこと。

作中では、同じ世代としてプロ棋士を目指した主人公の清田(吉沢亮)と浅川(若葉達也)、そしてその後、プロ棋士になれなかった清田とプロ棋士になって大活躍する浅川を対比しつつ、彼らを通して、将棋AI × プロ棋士 というテーマをぶつけてくる。

ついては 将棋AI のクセがひとつのカギとなっていて、2015 年当時、いわゆる「ハメ手」が決まれば将棋AI の対戦相手は、ほぼ勝ちを確定できる。そこで本作では、プロ棋士がハメ手を使うのか? いわば姑息な手段に出てまで勝利をもぎ取りにくるのか? あるいは、将棋AI はそこまでプロ棋士を追い詰めたのか? というところが醍醐味になってくる。

それぞれの主要人物たちの情熱がうまく表現されつつ、全体としては-テーマが将棋なのでこのように扱われて然るべしというニュアンスも兼ねて-、落ち着いた雰囲気を貫いていた点が好印象だった。

それぞれの登場人物の好きなシーン

なんというか、主要キャラクターたちの好きだったシーンを挙げておきたい。

清田

すばらしかった。吉沢亮、名前は知っていたけどあんまり演技はみたことなくて、今回初めてちゃんとみたんだけど、上手いっすね。私が本作で 1 番好きだったのは、警察署から引き取られて父親の運転する車の後部座席で横になったときの演技で、カメラとの距離も絶妙ながら、ちゃんと父親に謝って感謝して、薄っすら伸びた髭と疲れがうまく滲んでいた。

浅川

登場シーン自体はそこまで多くもないのかな。AWAKE との対局が決まってからの苦悩がメインディッシュな感じがしますが、棋神戦で優勢をひっくり返されて負けたあとに盤の前でひとり反省会しているシーンが良かったですね。あれは何というか、トップで活躍してる彼も余裕綽々ではなくて、結局のところ負けたくないという強い勝負心を維持しているからこそあの席に座っていられるというニュアンスと、来る対 AI 戦においてもその戦意に変わりはないということの布石でもあった。

若葉達也、『愛がなんだ』でヘタレ写真家の役をやっていて初めて見たんだが(この作品でもちょい役だったけど光ってたな)、今回はちょっと優等生役ということで、やっぱりよかった。2021 年の 4 月頃には初主演の『街の上で』が上映されるらしいので、ちょっと楽しみだ。

磯野

清田の大学の先輩で人工知能研究会の仲間だね。いいキャラでバランスが取れている。変態キャラだと思いきや(実際にはそうなのだけれども)、清田の変態性、もとい情熱におされてしっかりしたサポーターになってしまっているあたりが実にいい男だ。

彼がもっとも輝いたなと私が感じたシーンは、欠点の判明した AWAKE の改修を猛烈に訴える清田を抑え込むシーンだね。あそこはよかった。

社交性がない清田が、磯野と祝杯をあげにいったり、「お前、女の子に興味なかっただろ」みたいなやり取りを交わしたり、そういうシーンがいちいち心に染みる。磯野君は本作の潤滑油なんだよなぁ。

その他のことなど

現実の出来事をうまくいい話に落とし込んだ脚本になっているという点は、ある意味では拒否感を抱く人も少なくないのかなという感想はもった。実際のところ、2015 年の電脳戦の子の様子は、さまざまな意見が飛び交ったようだし、映画みたいに一見して清らかな終わり方ではない。まぁ、フィクションなんて喜劇も悲劇もそんなもんなんだけどさ。この辺の距離感って、難しいよね。いくつか関連するページを読んだけど、キリがないのでここには載せない。

ロケ地。関東近郊が多かったようだ。棋神戦の舞台となった古いお屋敷が気になったのだが、どうやら群馬県は前橋市の「臨江閣」というお屋敷らしい。重要文化財だが、明治期に群馬県の迎賓館として建造された近代和建築ということらしい。室内が部分的に映されただけだったが、きれいだったね。

音楽。前半の清田と浅川の奨励会時代はほとんど BGM らしい音楽は流れないのだけれど、後半のいわば本題に入ってからはちょっとずつ音楽の効果が強くなっていった感じがした。こだわりを感じたね。

いろいろと感じるところもないではないが、前向きな清田の姿勢というのは、好きだった対象と正面切って向き合うことを諦めざるを得なくても、そこに関わっていくにはいくつもの道があるということを示してくれたというのはあったかもしらん。

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ヒッチコックマラソンです。『泥棒成金』《To Catch a Thief》を観た。感情に任せて言えば、現時点で『三十九夜』を超えるマイ・ベストかもしれない。某 SNS であまり評価が良くなかったのでちょっとビビっているのだが、このおもしろさに悦びを隠せない。

どのシーンも面白くて見入り、ドキドキしたり、ケタケタ笑ったりした。あらすじを書き並べる感想は書かないようにしてるが、この作品については、そのように書く。

冒頭、気色悪い顔色をした女性の絶叫で、まずビビる。なんだこれ、とても恐ろしいものを見せられたな、となる。直後、鈍く緑に光る屋根瓦を黒猫が行き来し、物語が提示される。残念ながらあらすじを読んでいるので、この黒猫が「キャット」なる宝石泥棒を意味することは事前にわかっているが、それでも-だからこそか-面白い。

本編、まず登場するは、優雅でのんびりとした斜面で畑をいじる男は元キャットである。そこに早速お巡りさんが来る。男、屋根へ逃げる。屋根に上る必要あった? 画がキマってる。カッコいい。そしたらすぐさまカーチェースが始まって、ヘリコプターによる空撮が披露される。のどかで風光明媚なフランスの田舎道を駆ける2台の車が映える。本気だなぁ、いいなぁと思った矢先、おい、なんだなんだ、逃げたのは囮じゃん。ウケる。

男は裏側でバスに乗車し、レストランへ、そこからベニスへ逃げる。ベニスに向かう船上で、かつての仲間の組織の娘とのやりとりまでを通して、主人公の背景の事情が色々と察せられる仕組みになっているが、クライマックスまで見てから振り返ると、この辺の人間関係やその顛末がほろ苦いね…。

花市場での密会、追跡、乱闘までの流れもサンペンスっぽさもほどほどに、オチとしては婆さんの強さには敵わずに-もちろん男は手加減している-、素直にお縄にかかるというコメディのような退場劇で笑わせてくれる。この辺で、本作の風合いが馴染んでくる仕組みなのかなぁ。

密会相手だった保険屋も最後までよく付き合った、乗り切ったなという感じだが、花市場の次のシーンでの会食もやたらと面白い。強いメイドの美味しい料理、僕も食べたいです。ところで、んー? 最後までみて湧いた疑問だが、保険屋のひとは真犯人のことはわかってたのか? そんなことはないか? んまぁ、いいや。

さて男、ターゲットのアメリカ人親子に近づこうというのだが、このとき、ジョーは親子のお母さんからの評価を、上げて落として上げる。このジェットコースター加減も、その見せ方も面白い。このお母さん本人に対するの評価-作中での魅力も-転結があるんだよねぇ、本当にいいです。本作ではこのお母さんが最高に好き。面白すぎる。

仲良くなる前に去り際に娘からのキス。んー、なんじゃこれは!? おぅ、海水浴に行くことになったんすか。ここで娘の美しさがエグいっていう描写が入るんだけどもこれも過剰なくらいで、完全にギャグなんだよね、ジョーは引いちゃってる。ジョーは終始ひけちゃってるんですよね。ここもポイントだよね。

直後の海水浴のシーンも大好きなんだけど、伝令役として組織の娘が来る。ちょい沖にある浮き場でちょっとした諍い。参戦する娘、痴話喧嘩が始まる。「なんてステキな太陽だ」と空を仰ぐジョーが面白すぎる。パンツ掴まれるし、大爆笑するしかない。

一転、緊迫したカーチェースである。『断崖』を彷彿とさせられたが、撮影のテクニックも伴った緊迫感も全然レベルアップしており、同じ監督の作品を続けて見てきた甲斐というものを感じざるを得ない。ここ、監督の作品という意味では本当に面白くて、女性の方が肝が据わってるみたいな見方もできる。ところで、ギャグはやはり大切で、刑事さんたちも事故ったものの無事でよかった。やっぱり笑える。

ピクニックのシーンは久々にシリアス味が帰ってきたが、謎のロマンス成分も加味されて、なんともいえない絶妙な雰囲気だ。一方で私は、彼らがチキンを齧ってるふりをして全然食べてないことの方が気になった。これはそういう演技なのか、それとも本当に食べなくてもいいやという謂わば雑な演技なのか、どっちなんだい? どっちもなのかな、こういうメタ部分でも笑える。

夜の花火のシーンもいいよねぇ、普通に良い。室内に射し込む光の加減がよい。美しいなぁ、楽しいなぁ。私は娘がソファーに腰掛けるまで、彼女の首元にある宝石に気がつかなかったし、実はそれは偽物らしいという展開に「くそーっ」ってなった。この一連のシーンは終わり方も綺麗なんだよなぁ。

一転、事件です。また人間関係が捩れる。お母さんが最高で、ここでジョーも簡単に素性を明かすのが面白いんだよね。お互いに人間としての度量をちゃんと測り切って、ジョーが腹を見せるには最低限度の信頼関係が築かれているんだよね。もう、お母さんの株はここからエンディングまでストップ高ですよ。マジで面白いから、マジで。

娘、娘の疑いは晴れやまず。一方の娘は葬式でキレ散らかすのだが、それをジョーはビンタするんだ。ふむふむ、これもクライマックスまで見た後だと、ニュアンスがハッキリする。「俺が面倒を見る」と明言するくらいには彼女のことを想っていて、愛していたんだよなぁ。悲しいなぁ。この時点で手を引けとも言っているニュアンスもあるのかな。

仮装舞踏会もなぁ、参加者たちはお洒落な恰好しているのに、みんな葉巻やパイプをスパスパやってて笑えるし、お母さんはやっぱり最高だし、宴会の終盤はもう乱痴気パーティーの後始末かみたいな画面が映される。つくづくギャグです。なんだけど、次のカットでは優雅な音楽に合わせて姫と黒マスクの男がしっとりと踊ってるんすよ。なんで従者と踊るんだよ、でもきれいなシーンなんだよね。落差で笑うわ。

すると、ここでね、突然音楽が止まって演奏者たちが退場し、カップルも退場する。最後には庭にいた刑事らが集合して、彼らも居館に戻っていくのだが、ここのシーンは手前の柱 3 本が 2 対 1 くらいの間隔で配置され、画面に間が置かれている。これがとっても舞台っぽいんだが、幕が変わって最終幕になることを意味付けているんだろうな。そういう画面作りだ。面白いんだよ。勘弁してくれよ。このシーンが 1 番好きかもしれない。

お母さんは深酒の結果なのか、衣装もそのままに寝こけている。やっぱり最高だ。

冒頭と同じ緑に光る屋根。いいぞ、いいぞ。真犯人とジョーの追いかけっこ、それを照らすマヌケな刑事たち、見守る娘と保険屋、一堂に会している。娘が愛していたのは、父だった。それ以外は要らなかった。いや、ジョーのことは愛していたのだ。だからこそ、彼らの結末はこのような苦いことになったのだ。

でも大丈夫。この作品はお母さんがちゃんと面白く終わりにしてくれた。

まじめな感想としては、以下の記事などが参考になりました。

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年末、なにかと絶賛されている『燃ゆる女の肖像』を観てきた。なんならこの作品が 2020 年の劇場での映画納めだった。フランス映画かな。原題は《Portrait de la jeune fille en feu》、英題は《Portrait of a Lady on Fire》だ。

あまりによくできた映画だ。言及したいポイントも尽きないが、私としては、エロイーズの表情の変化が本作の全体を支えていたなぁ、としみじみ思う。というわけで、キャストに興味が湧き、 Wikipedia などを読んだ。以下の部分は、ほぼそのまとめなので、特別な内容はない。

監督のセリーヌ・シアマは 1978 年生まれのイタリア系フランス人だそうだ。過去の作品は未見だが、エロイーズ役のアデル・エネルは監督の第 1 作『水の中のつぼみ』に出演しており、この作品でフランス国内の有望若手女優賞を受賞した経緯がある。これが 2007 年だ。

ついては本作では、アデル・エネルの配役が最初に決定したらしいので、少なくともキャストについては彼女の存在、演技が作品のイメージを決めることが想定されていたのだろう。

で、そんなことを思いながらここまで書いて、幾つかの記事を読んだら、セリーヌ・シアマとアデル・エネルは私生活でもパートナーだったらしい。おぅ、それはそれは、決定的に重要なファクターじゃないですか。監督へのインタビューでは以下のような発言も目にした。

アデルが私の「ミューズ」であるという概念に終止符を打ち、互いの創造性によって作り上げる作業が、映画作りの核にあったと思います。私たちはお互いに刺激を与える協力者という関係です。

https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a34855511/cfea-cinema-active-celine-sciamma-20-1204/

そのアデル・エネルは 1989 年生まれの 31 歳であるのに対し、もう片方の主役となるマリアンヌ役のノエミ・メルランは 1988 年生まれの 32 歳だ。設定上、18世紀のフランス貴族で嫁入り前の娘の役をするには実年齢が大きくかけ離れているように思えるが、別にこれは珍しくもないことだろうな。ただ一応、マリアンヌのほうが実年齢が上でよかったなと個人的には…。

作品の外側の問題と作品そのもの、作品内でのアレやコレを一緒くたにしてはいけないけれど、これは流石に見落とせないポイントであるなぁ、しかし。安易に捉えてはいけないけれど、構図としてはマリアンヌがエロイーズに焦がれた状況は、セリーヌ監督にとってのアデルの存在を重ねることができてしまう。

状況を支配したのは誰か

まず、この点が気になった。エロイーズは生活の定まった修道院生活から解放され、逆に母親から幽閉されることとなり、知らずのうちに婚姻用の画題にされている。一見すると、というか冷静に考えても、彼女は可哀想な立ち位置にいる。

それは事実として、だが、よくよく展開を追うと、どうみても画家のマリアンヌよりもエロイーズのほうが賢く、口が立ち、彼らを取り巻く世界を現実的かつ忠実に捉えていて、物語の主導権を握っていることが分かる。

逆に、これは或る意味であるべき展開なり結果なりであって、つまり芸術家が対象に魅了されてこそ作品の制作は、その完成度を押し上げる。結果として、マリアンヌはエロイーズを描くことに成功した。という構図になっている。

マリアンヌは何に魅了されたか

中盤くらいまでエロイーズはほとんど不機嫌なんだよね。笑顔を見せない。だから、マリアンヌも彼女を描けない。仕事の目的を達成するためには彼女の笑顔を引き出す必要があったが、それってエロイーズを理解することに他ならないし、じゃぁエロイーズを理解するってどういうこと? となる。

「キスしたくなったのはどのタイミングだったか」という問いが交換されていて非常にエロチックだったが、回答された「そのタイミング」は割と曖昧だったと思う。

先程のエロイーズの強さは、メイドのソフィーの顛末でのあのタイミングで頂点に達してたと画面を眺めていた視聴者としては私は実感した。だので、私は「あのタイミング」こそがエロイーズがマリアンヌを落とした瞬間だったと感じる。イヤだねぇ、そんなことどうでもいいよね。

エロイーズの容貌と瞳は

作品全体で平均するとマリアンヌの瞳が一番美しく映っていた。だが、あるシーンではたしかにエロイーズの瞳が爆発的に美しかった。普段は、やや青みがかかった小さめの瞳に見えるのだが、あのシーンだけは彼女の瞳は大きく漆黒の美しさがあった。どうやって撮ってるのかなぁ。

あとこれは、もちろんアデル・エネルの演技力の賜物なのだろうが、化粧もうまく意図されてコントロールされているのだなと感じる。エロイーズは、ときとして少女のようだが、ときとして疲れ果てた-それこそ俳優の実年齢なりの-女性の素顔にも見えたのだ。

これも調子に乗って勇んで言えば、本作中でエロイーズは永遠をそこに秘めているワケで、つまりマリアンヌにとってエロイーズは庇護の対象でもあるが、同時にエロイーズこそが彼女の救いにもなっていった。作中でさまざまな表情で魅せる彼女に、マリアンヌは捕らわれている。

詩人は永遠を脱せたのか

オルフェ神話を扱ったシーンとその扱いも絶妙だったね。彼女は「オルフェは詩人でいたかったから振り返った」という。もう一方の彼女は「妻が振り向いてと言ったのではないか」という。そもそもの視点が違うのだ。

結末でマリアンヌが発見したエロイーズは、子供を産み、それなりに老けこんでいた。だがそれでもマリアンヌは彼女を愛している。少なくとも彼女の愛は、エロイーズを作品にしたことで、それを永遠性のなかに閉じ込めた。

一方のエロイーズは絵画のなかでこそマリアンヌへの愛を確かに示すが、現実はそうはいかない。決して彼女を振り返らず、ただ思い出に浸って、思い出の藝術を鑑賞し、そのなかで喜怒哀楽を消費し、思いを昇華させていただけだった。

疑問はひとつあって、オープニングで登場したマリアンヌの作品、これは島での体験を統合して描いた作品だと思うが、タイトルでもある。この作品は、おそらくマリアンヌがエロイーズを思い出に昇華しようとして描かれた。だから女は燃えている。

その他のことなど

まず、作中の基本設定として、これも個人的な見解だが、エロイーズは作中の世界観では一般的にいって美しくないタイプの容貌なのだろう。母親もそう思っていない。母親とマリアンヌが昼の居間で、なにやら語らうシーンがあったが、それがこのことを暗示しているようにしか思えない。

それでも、エロイーズは美しい。そういう瞬間を愛する人は求めている。エロイーズがマリアンヌに最初に笑顔を見せるのが寝ているときというのもよかった。そしてそれが、実は半ば覚醒してたっぽいのも彼女らしい憎たらしさがあった。

次に、最初の画家についてだが、少なくとも画家としての技量はマリアンヌよりもあったのではないか。未完成の作品に彼女が火をかけたのには、その辺の理由がある気がする。皮肉にもというか、ここにもタイトルが掛かってしまっている。が、これは意図しているわけではない、のかな。

最後に、海と色遣いについて。マリアンヌは赤い衣装をまとっている。エロイーズは濃い青、または絵になるときは緑のドレスになる。ソフィーはだいたい白い。まぁだいたい想像しやすいイメージにあった配色なんだけど、これがキレイな海とよく調和していた。むしろ、海の美しさが際立っていた。

また、最近読んだ本によると、中世以降においては緑の服は「恋煩い」、青の服は「貞節」を意味していたらしいので、その辺は忠実に充てられているのだろう(追記:2021-01-12)

決意したソフィーを砂浜で走らせているとき、あの構図が怖かったよね。あのときはマリアンヌもエロイーズも黒っぽくなっていて、ちょっとビックリしたんだよな。18 世紀後半のフランスで、ヴィヴァルディを聴いて泣くエンディングがエモ過ぎて泣く。

自分なりに咀嚼するのに参考になったのは以下のサイトなど。

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ヒッチコックマラソンです。『裏窓』《Rear Window》を観た。

まず、よくわからないのがタイトルで、単純に「裏窓」とはおそらく住居、建築物の正面に位置しない窓を指すのだろう。今作、舞台となっているのはおそらく大通りに面していない、謂わば中庭のようなエリアに面した部屋たちが舞台で、そこに覗く窓たちが主役と言ってもいい。これらを指して裏窓としてよさそうだが、人々の生活を覗く主人公自身であるジェフリーズを、あるいはそこで垣間見える悲喜劇を指しているとも言えそう。

次にだが、どうもサスペンスというよりは男女のサガというか、そういった構図を映し出していることが気になってしまった。『ダイヤルMを廻せ』でもそうだったので個人的には視点を変えてみたいけれども、やはりこの辺は完全にテーマのなのかなぁ。となると、サスペンスはサブテーマのようにすら思えてしまう。

つまるところ、窓から覗けるほとんどすべての人間関係は男女関係に収斂している。

1 組ずつ挙げていくと、まずは左隣の窓のパートナー。序盤はとても幸せそうで新婚ほやほやだ。彼らの様子の描写は 1 番少ないし、本筋の展開とも最も関係しない。この 2 人の関係は途中から少しずつ雲行きが怪しくなってくるのがユニークで、最後は「こんなことなら結婚しなかった」と女性の罵りすら聞こえてくる。なんなら主人公のカップルの未来像としては 1 番近くもある。悩ましい。

2 組目、右手上階のピアニストと正面 1 階のミス・ロンリー、この 2 人がくっつくとは私は予想できなかったし、なんだか夢のようだが、出会いというのは夢なんだよな、これでいいんだよな、ロマンチックだ…。ミス・ロンリーは失意の人で、これはパートナー探しに恵まれていない結果が続いていることを示しているが、一方のピアニストの彼は何なんだろうね。パーティーとか友だちとかは多いようだが、彼にも 1 度も明確なパートナーは描かれなかった。繰り返しになるが、出会いっていうものを表しているのかな。

3 組目、正面左のアパートの踊り子は独り身のようで、仕事仲間や付き合いがあるのだろうか、幾人かの男を部屋に招いたりはしていたが、エンディングでは兵役帰りの彼氏が帰ってきたようだ。短いシーンだが、踊り子の方が彼に溺愛しているようには見えた。幼馴染だろうか、彼の方が年下のような描写もあったが判別できなかった。たしかに、こういうカップルもカップル像としては典型だろう。踊り子としての出世と彼氏との幸せを天秤にかける日が来るのか、来ないのか。

4 組目、正面 3 階の夫婦はベランダで寝起きしている奇矯な夫婦だ。それでも理由があって、なぜなら本作、めちゃくちゃ暑いのだ。他人の生活を覗き放題という無茶な舞台設定も、この設定を担保にしている。この強引さは嫌いじゃない。話を戻すが、この夫婦の振る舞いなどは、完全に戯画的というか、コメディ部分なんですよね。とはいえ、悲喜劇のある部分を一手に引き受けている貴重な存在でもある。

さて、問題の正面は 2 階の部屋。夫:ソーワルドは営業寄りのビジネスパーソンであるらしい。一方の妻は病気がちらしい。 2 人の仲がそこまでよくないことは、序盤から暗示されていた。そこである晩、女の悲鳴が響く。翌朝から病気の妻の姿が見えない。さてどうなる? ここでは、本筋については触れない。

結局、事件の深夜に夫と外に出て行った女性は誰だったのか。それは明かされないし、本筋としてはどうでもいいのだろうが、描かれていない背景を想像する余地でもある。結論としては、おそらく犯人の男、ソーワルドには愛人がいたのだ。そう理解するのがおそらくもっともシンプルではないか。

と、ここまで書いてちょっと調べたら、序盤あたりでソーワルドが電話していた相手は愛人だったという話を目にした。確かめないけれど、そうであれば尚更、邪魔になった妻を処分してしまって、生活をやり直そうとしたソーワルドという構図が成り立ちやすいのかな。なお、以下の掲示板への投稿にあった。

さて、さまざまなパートナー関係が描かれるが、主人公のジェフリーズと彼女リザの関係はどうなったのか。リザがただのお嬢様じゃないことは終盤の描写で強調され、最後のシーンではむしろ彼女の方が主役だったのではくらいの表現を感じた。

過去作にも女性の方が活躍するパターンは多かったが、この作品のリザは、危険な仕事に従事する男のパートナーになるという意思、その前提が明確なのでその分だけ新鮮だ。また、前作の『ダイヤルMを廻せ』と比べておくと、今作は世界中を駆け回る男に付いていくことを躊躇わない女という意味で、パートナー像が真逆になっている。

美術とか衣装まわりに言及しておく。クライマックスの大捕り物でリザの纏っていたワンピースがきれいだった。てか、衣装に関してはそれだけ。画面を構成するジェフリーズの部屋、そこから臨める景色はすべてがスタジオセットである。まぁ、こんな都合のいい環境が見つかるはずもないし、不自然なので流石に気がつく。

とはいえ、正面のビルは 4 階以上もありそうだ。ちょっとセットの大きさが想像しづらい。インターネットは便利なのでさまざまな情報を提供してくれる。以下のページなんかを見ると、全容がなんとなく窺える。直接見学してみたかったものだ。

あとまぁ、なんか珍しく学術系の論考が引っかかったので、読んでみるかな。成城大学の映画学の先生、木村建哉「古典的ハリウッド映画における不自然な「自然さ」:ヒッチコック『裏窓』(1954年)の冒頭場面を例として」の論考が PDF で転がっていた。冒頭をざっと眺めたけど、内容はおもしろそうだ。

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年を越して継続中のヒッチコックマラソン、全作品を見る意図はないものの、視聴ハードルが低い作品は見たい、という基準でやってきたがようやくゴールが見えてきた気がする。というわけで『ダイヤルMを廻せ』《Dial M for Murder》を見た。

はっきり言って主人公、言うなれば『汚名』と同じように悪役側に、多少なりとも同情しがちになってしまうストーリーだった。それは勿論、そういう計算のもとに作られているのだろう。本作はサスペンスだし、それはそれとして面白いのだが、犯人の夫と被害者の妻の愛憎の関係にどうしても気が向いてしまう。

資産家であるマーゴは、元花形テニスプレイヤーで世界中を駆け回っていたトニーに対し、寂しさからだっけか引退を頼み、実現した。引退後のトニーは、スポーツ用品の商いをしているという。それでも徐々に 2 人はすれ違いが大きくなっていったらしく、ある日トニーは、新しいパートナー候補であるマークと、マーゴが幸せそうにスパゲティを作っている、つまり彼女の浮気現場を目撃してしまったらしい。

こんな悲劇ありますか? この時点で、殺人よりもよっぽどの悲劇だよ。そりゃ仕事を変えたらトニーだって変わらざるを得ないさ。自分からそれを望んでおいて「彼は変わってしまった」と繰り返すマーゴのどこに同情の余地がある? そう思いませんか? とまぁ、こういう構造になっている。

そもそも間男であるマーク:推理小説家も一応は重要な役割を果たすが、なんというかパッとしない。これも冒頭では彼が活躍するんだろうなと思わせておくための伏線なんだろうか。だが、マークはどちらかというと滑稽なんだよな。

一方、ヒッチコックの作品にしては刑事が珍しく優秀だ。役者のジョン・ウィリアムズは、本作の他、『パラダイン夫人の恋』『泥棒成金』に登場している。名脇役といってはそれまでだが、最後のワンピースを埋めてくれる俳優っていう感じがする。

展開はいつも通りと言ってはなんだが、ギリギリまでトニーがやり過ごせるかにかかっており、まぁ失敗するのだが、やっぱりというか上手いよね。最後に刑事が窓からトニーの行方を観察するシーンがあるのだが、そのトニーの最後の逡巡がいい。

ここ、ほぼ窓越しにトニーを眺める構図なのでほぼ無音となっており、トニーの動きにすべてが掛かっている。うまいんだよなぁ、なぜドアが開かないのか、カギが違っているのではないか、頭を巡らせ気がつき、迷い、それでも再度確認に戻る。このシーンが 1 番心に残っている。

次いで言えば、本作は舞台っぽいのかな。作中で登場するシーンはほとんどがトニー&マーゴ宅なのだよね。カメラの向きも入口のドアを正面から映した方向が大半を占めるかな。ドアとカギが作品の問題点、ヒッチコック流に言えばマクガフィンなのかな、これ。だから、ドアが主役なもんで、とにかくここを中心に映すのだろうね。

また、私は酒と酒瓶の扱いが気になった。序盤にマーゴとマークが室内でいちゃついているシーンがあるのだが、あるカットで並んだ酒瓶が画面下に入っている。最初はこれは、入り口のドア脇にあるトニーがよく利用している酒瓶たちと同じだと思ったが、別のものだ。入口ドアの奥にある。最初のシーン遺構はほとんど映らない。 2 人はこの棚から選んで酒を飲んでいたようだ。

クライマックスの最後で、観念したトニーはドア脇にある棚から 2 人に酒を勧めて、2 人もなんとなくそれを受け取っちゃうんだよね。なんかもうこれは、ある意味でトニーの勝利なんじゃないでしょうかとすら思っちゃうよね。彼の掌の上で 2 人は十分に踊り切ったという。というわけでちょっとトニーを応援したくなるというほろ苦いサスペンスだった。

ところで、花形テニスプレイヤーと資産家の娘が結婚する、というベースの設定は『見知らぬ乗客』とも微妙に重なるところがある。この 2 作品に限らず、なんというか別の作品のある要素を取り入れているケースが多いように思うが、これは省力化のためなのか、単純にそういうクセがあるのか。ヒッチコック廻りの知見として、定まった見解はあるのかね。

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