ハラのもとにサンタクロースは訪れたのか|『戦場のメリークリスマス』

大島渚監督の作品が国の機関にアーカイブされるらしい。ということで、興行企画にするのが今後は難しくなるらしく、最後の大型上映ということで 4K リマスターなりの上映が始まった。大島渚というと私としてはテレビに出演している眉毛の濃い怖いおじさんというイメージが強く、映画監督だということは知っていたが、作品は見たことがなかった。

映画を見るようになってから、いずれは鑑賞することになるなと思っていたが、とうとうタイミングが来たわけです。というわけで、『戦場のメリークリスマス』を見てきました。英題は、《Merry Christmas Mr.Lawrence》ということで、こっちの方がタイトルとしてはしっくりきますね。でも、欧州では《Furyo》(俘虜)で公開されたんだっけ。なんでなんだろうね。

物語として考えると、大したことが起きない。かなり情緒に委ねられたような映画なんだけど、それが全然飽きない。画面に集中している自分を客観視できるタイミングがあるのだが、不思議とそこからスッと作品へのコンセントレーションに戻れる。こういう作品っていうのは珍しいし、おしなべていい作品なんだが。

ある種の性愛の映画だとか、日本と西洋の価値観の相違だとか、全体主義だなんだってトピックを取り上げた感想をいくつか見るけど、いやー、なんというか大事なことではあるんだけど、どうでもいいような。いずれも本作のテーマとして取り上げて何かを論じようには分かりやす過ぎやしないか。もちろん、大事なことではあるんで、繰り返しておくけれども。

ヨノイ大尉はジャワで何に出会ったか

冒頭のハラ軍曹の騒動から軍事裁判でのヨノイの動揺まで見ると、ヨノイを中心とした彼らの破滅なりが明らかで、酷くずる賢い導入だなというのが第一印象だった。こんな簡単に種明かしして、この先を楽しめるのかなと侮ってしまった。

そのヨノイは二二六事件にこそ参加できなかったが、もともとはそこそこ優秀な青年将校であったことに疑いなさそう。当時の日本のエリート軍人の精神構造が、どのような価値観で構成されていたのか、凝り固まっていたのか、或いは洗脳された状態だったのかは知らぬが、それはそれとして形のあるものであったことは確かなはずだ。

それがだ、裁判中に見せるあの動揺、思い出しただけで笑ってしまうけれど。セリアズに彼が読み取ったのは、ここでは言い知れぬ「美」だろうと断ずる。

何かしら策を凝らして、セリアズを手元に置くことができたヨノイは、実際に彼をどう扱おうとして、自分はどうしたいのか本人でもわかっていない。全くの突然に予期もせぬタイミングで訪れた、自分の価値観にはかつてカケラも存在しなかった「美」に出会ったとして、そんなの普通の人間には無力でしょう。

ヨノイは結局、その美を持て余し、破滅することになった。だが、それは彼にとって悪いことではなかったのかもしれない。俘虜収容所のあった土地は、なんといっても美しい場所だったのだから。

ハラとロレンスは何を交えて別れていったのか

ハラの奇妙な笑顔で描かれた 2 つのシーンが残した強烈な印象は本作のイメージを大きく決定づけているけれど、別にハラって全然いいやつじゃないし、ロレンスに対して友情が云々と言ったって、そんな独りよがりのものを見せられてもなと思うよ。実際、捕虜と監視にある種の信頼関係は生まれるだろうけどもさ。

最後のロレンスもイヤに白々しくて、私はなぁ、なんだかなぁってなったよ。でも結局、この 2 人の奇妙な連携があったからこそ話が進んだんだよな。ロレンスは「すべての人が間違っている」と2度ほどセリフを発していたが、そのなかで登場人物たちは何をしていくかというのがポイントなんだろう。

間違っている人生のなかでも、つまり目的自体は「善」に基づくものでなくても、人は善行をしうる。ハラはロレンスとセリアズらを救う役割を結果的に果たした。一方のロレンスも自己保身のためでもあり、あるいは職分柄の務めでもあり、彼らの価値観としての「善」の導き手として、可能な限り日本人どもに寄り添おうとした。

そういう意味で、ハラとロレンスを中心にしつつ、本作は誰もが間違っているなかでも生を過ごしつつも、彼らなりの善をまっとうしようとした。いくらかの例外はあるだろうけれど。そういう象徴的な意味が、この 2 人には役割づけられていたのではないか。

セリアズが最期に見たのはなんだったか

現時点で、本作で1番好きなのは実はセリアズの回想シーンかもしれない。なんでかよくわからないが、実家の庭園の構図が決まりまくっててカッコいい。あの実家は、完全に妄想の世界で、回想のなかでの弟は全然成長しないんだよね。配役が変わらないという意味で。ギリギリでリアリティが崩れていないとも見える一方、セリアズの弟のイメージが固着しているという表現ともなっている。

弟は兄に嫌われたくはなかった。それは兄だってそうだろう。弟からの信頼を自ら失うようなことはしたくなかった。兄は弟の成長を願い、それは達成されたが、そこで喪失された(ように見えたもの)に兄は戸惑い、それが彼の枷になっていった。それが戦争に従軍する理由ですらあったという。冷静になれば、地球の反対側に戦争で来るまでのトラウマになってたのかよ…、という話だ。

でも、セリアズだって本当は気がついていたはずで、弟はとっくに兄のことなんて許しているし、なんなら最初っから恨んでなんかいない。奇しくもすべてを奪われた状態になって、ようやくそのことを受け入れられたセリアズの最期の表情はあまりにも美しかったね。

ヒックスリーの残した言葉の意味は

何気に彼が重要な気がするんだよね。工事現場へと収容所を去るにあたり、ロレンスとの別れ際で彼は「俺が日本人でお前の立場だったら切腹してる」という旨の文句を残して去っていったと思う。いかにも気持ちの悪いセリフだが、原作にあったのかね、映画化の脚本で登場したセリフなのかね。

もともとヒックスリーとロレンスはあまり折り合いがよくなかった。立場こそ違うとはいえ、同じ英国の兵士として、英国人として、一定以上の価値観は共有していたはずだ。そんなヒックスリーが「日本的な恥」を受けて「切腹」しかねないという文句を発するほどに、彼にはロレンスに対してのネガティブな感情を膨らませ続けたという結果になっている。

まぁね、これは背後の設定がよくわからない。ヨノイが俘虜から銃火器に詳しい人物を提供せよというのは、軍務上の任務だったのだろうけれど、それ以上の情報はない。ジュネーブ協定という前提があるにしても、ヒックスリーは、正当な理由があるとはいえ意図的に情報を遮断し、俘虜全員を危険に晒したとも言える。そもそも彼の見立てでは 3 カ月後には終戦するだろうといったが、実際はもっと日本に粘られた。

物語全体の経緯のどこにロレンスに対する怒りポイント加算要素があったのか。これは、ロレンスとセリアズの対比によって浮かび上がるのだろう。ヒックスリーは、最後はセリアズに命を救われている。表面的にはこの行為が、セリアズが彼らの信念と価値観に殉じ、それがヒックスリーを守ったと映ったのではないか。より長い期間を過ごしてきたロレンスは、彼らのためにそこまではしてくれない、してくれなかったとヒックスリーは断じた。

ヒックスリーはセリアズの死を通して、その死について、半ば日本的な価値観に染まったのではないか。そうでなければ、ロレンスへのあの台詞は出てこない。この点において、実に巧妙に価値観の倒錯が起きている。そしてこれは、最後のハラの状況へと繋がっている。