プラトニックな愛が過ぎる|『ザ・スイッチ』《Freaky》

『ザ・スイッチ』《Freaky》を観た。本国では 2020 年に公開された映画のようだが、日本ではこのシーズンでの公開となった。予告は何度か目にした気はする。特に興味もなかったのだが、知り合いが興味があると言うので、なんとなく見てきた。一緒に行ったわけではない。感想だが、少し悩ましい。

「13日の金曜日」シリーズ? 「ジェイソン」シリーズ? をオマージュしてる部分が多かれ少なかれあることは分かるが、あんまり知らないのであった。

監督:クリストファー・ランドンの『ハッピー・デス・デイ』(2017)を評価するファンは日本でも多いようだが、目にした範囲の感想としては今回はこの作品ほどは面白くはなかった、というような感想がいくつか目に入った。どうなんだろうね。私は未見なので何とも言えないけれど。

冒頭、「伝説のシリアルマーダーが都市伝説として持て囃されたのは 20 年も前の 90 年代の話だよ」という旨の前振りがオープニングの登場人物によって語られるが、その存在が本作で登場したブッチャーと同一人物だったのかがイマイチ分からない。関係あるのかね、ないのかね。

本作に登場するブッチャーと身体が入れ替わるのが、ヒロインのミリーだが、彼女側は家庭環境からハイスクール内でのヒエラルキーまで、大方が滅入ったステータスであることが描かれる。この 2 人の身体の入れ替わりで起こる素っ頓狂な事件が、スプラッターで快楽的な表現を添えて、楽しめるという構図だったはずだ。いや、まぁ狙い通りの楽しさはあったことはあった。

周辺のことで、いくつか気になったことを書いておく。

古代アステカの呪術具:ラ・ドーラ

この道具立ての設定が粗くないかね。生贄を捧げるときに利用された短剣ということでよさそうだが、それがなんでシリアルマーダーを作出する機能をもったのか明確な説明はない。短剣自体が本来の目的を見失ったということだろうが、生贄を捧げるために適当に人を屠っていくというのは、どうにも違和感が残った。

この短剣にはスペイン語で(!)その秘密が記述されているとのことだが、それもどういうことなのか。悪いのはスペイン人の侵略者たちなのか? とこうやって振り返りながら妄想していくと多少は背後関係を辿れるが、どうにも鑑賞中には、つまり、作品内ではよう分からん。

B 級ホラー並のファジーさということで片付けられればいいんだけど、そこまでホラーなりスプラッターなりの娯楽感覚に振り切った作品とも受容できなかったので、私の抱いてしまった違和感がなかなか破壊されなかった。

結局、ブッチャーはどういう人間だったのか

つまるところ、ブッチャーの人物の肉付け、背景をもう少しだけ明かしてほしかった。これがあれば入れ替わり時の彼の行動なりにも心が通じたような気がする。ブッチャーは、ラ・ドーラがなくてもシリアルマーダーだったようではあるのだが、この呪術具に読みだされたようにも見えた。

廃工場なりに居を構えているらしいが、浮浪者仲間のようなおじさんが薬を恵んでもらいに来たりするあたりからして、ブッチャーは単なるバカなアレではない。ミリーと同化したときに、彼女の社会的な立場や心理をそこそこ的確に洞察してみせたりもした。身体能力も異常に高い。

これがまた、仕掛けが別にあるホラーだったら、驚異的な頭脳と身体能力を持った謎に包まれた異常者、でいけるのかもしれないが、いかんせん、ブッチャー側の存在も、ミリーの憑依によってキュートあるいはコミカルな人間性が-中身はミリーなので理屈でいえば別物として考えるべきだが-ビジュアルで表現されている。

この辺の違和感との調和が難しいね。おもしろいんだけどね。

ふたつのキスに奇妙な真実味があった

やりたかったことの根幹は実はここだったんじゃないのかなぁ。本作には冒頭を除いて、ふたつの重要なキスシーンがあるんだけど、ふと考えると前者のキスシーンを撮影するために本作全体があったような気がしてならない。

違和感との調和、あるいは不調和のピークというかクライマックスがどう考えてもここなんだよね。これについて考えると、本作はホラーでもコメディでもなくて、広く愛を扱った作品な気がしてくる。

そう捉えると、ミリーについては家族愛、友情、他者への憧憬と調和、といったようなさまざまな愛のカタチについては、それぞれ全体のボリュームとしてはやや寂しいが、しかしバランスをとっては描かれていたね。