《ハケンアニメ!》を観た。フォローしている人たちの絶賛が背中を押してくれた。最近、このパターンが多い。配信に来ても見なかったろうから、この流され方は正しい。そう信じるしかない。

いや、よかったんじゃないですかね。よかった。かなりいい。すごくいい。めちゃくちゃいい、の目前くらいまでよい映画だった。もっとみんな見てほしい。

原作は 2014 年の辻村深月による小説だ。原作では、映画の主人公として描かれた齋藤瞳(吉岡里穂)のほか、脇を固めた行城(柄本佑)プロデューサーやライバルとなった王子監督(中村倫也)のエピソードもそれぞれ独立していたらしい。

ところで、辻村深月といえば『ドラえもん のび太の月面探査記』(2019)の脚本であったが、なるほど、もともとアニメ制作に造詣があったんだなとなった。

監督の対比をみる

新作アニメ『サウンドバック』の監督に抜擢された斎藤瞳は、社会人経験ありの業界人という珍しい経歴のようだが、具体的にはアニメーターを経て監督になったということでいいんだろうか。作画してるっぽいシーンもあるけれど。

一方のライバル役に据えられた『リデルライト』の監督:王子千晴は、絶賛された前作からのカムバックという立て付けであった。って、数年くらいはギャップがありそうだけど、何をしてたんだろう。

同じ監督業ではあるものの、初監督に苦しむ彼女のもがくさまと、復帰作で全力全身のクリエイティビティを発揮できるか苦しむ彼の葛藤とが、そこそこ絶妙に対比されている。そこを意識させられることも、あまりないが。

「覇権を競う」というタイトルに適った、彼らのアニメ放映時における周囲が注視する展開は、つまりは主に視聴率なのだが、どちらの監督も最終的には、そんなことは気にしちゃいない、いられない、という点で、新人だろうが天才だろうが、同じ立場だ。

ところで作中で『サウンドバック』は「サバク」と省略されていたけど、これには違和感大でして「サンドバ」とかのがよくない? とずっと考えていた。

プロデューサーの対比をみる

「サバク」のプロデューサーである行城は、斎藤の面接にも同席していた様子からして、純正コースのプロデューサーなんですかね。少なくとも会社の体制寄りの立場が強いことには変わりないだろう。

「リデル」の有科さんは、制作進行上がりだそうなので、彼女は現場寄りなんだろう。なんなら予告映像の制作も指揮できちゃうのである。彼女が王子監督と体制との板挟みにあうのも、多分にフィクション然としてはいたが、なるほど面白かった。

作中作品の類似をみる

作中で制作、放映される 2 作品『サウンドバック』『リデルライト』もよくできていた。おもしろそうだった。布陣も豪華で笑ってしまった。

「リデル」が監督の訴えていた展開をそのままなぞらなかったのは何を表しているのか。ざっくり言って彼の創作も単独では無しえないことの結果なんだろう。いいと思います。面白いなと思うのは、監督が選んだこのクライマックスは、現実の現代に選択されがちなルートだと感じられた点だ。

「サバク」は逆にわかりづらい結末を選んだということであった。開かれたエンディングというやつだ。そこに至るには、冒頭での脚本家とのいざこざが解消されたのが個人的には 1 番好きな展開だったが、ようやく監督の覚悟が開かれ、そこに作家性の端緒のようなのが見えたというところか。

この作品ら、作中作品なだけあってか、形式がわかりやすくなっており、方や主人公が 1 話ごとに 1 歳ずつ年を取っていくとか(斬新でおもしろそう! あの映画が思いつくけど)、あるいは 1 話ごとに新ロボットになっていくとか、仕掛けがシンプルだ。それでいておもしろそうなのは流石だ。

その他のことなど

  • 序盤のエピソードで並澤さんが描かされたカバー表紙のイラストに藤島康介っぽいテイストを感じていたら、王子監督の台詞に「ベルダンディー」の名前が出てきて、こだわりを感じた。
  • 王子監督の台詞には「草薙素子」も登場したが、此方はアニメーションが現行でも新作発表されているのがまた面白い。
  • 以前、細田守監督の執筆環境が狭いワンルームの缶詰部屋であるとドキュメンタリーで見たことがあったので、王子監督の執筆環境が真逆なのはユニークだった。映画の見せ方としては正解だろうけれど、気が散りそうだよね。
  • ナレーターに朴璐美さんがクレジットされていたが、どこで喋られていたのかわからなかった。残念である。
  • この映画、若者向けだとしたらテレビではなく、SNS を中心に盛り上げなくちゃならんと思うのだが、プロモーションはどうなっているのか。上映前の予告のラインナップなんかも違和感があった。
  • 「サバク」が音を捧げるついでに、別のものまで捧げなきゃいけない設定になっていたのが気になっている。そこにあまりオリジナリティも感じないし、アレはなんなんだろうね。

リンク

パッと見ただけだけど、anan NEWS の媒体の記事が検索で目に入ったのでリンクだけしておく。やはりターゲットがよくわから、これは吉岡里帆のアレなのかな。そういうことでもなくない?

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朝日新聞からも毎日新聞からも岸田政権がアベノミクスをどうしようとするのか、できるのか、みたいな記事が出ていた。

参院選の対策を含めて、財政健全化推進本部とやらの会合でなんか揉めたってのが発端のようだが、詳しい話は報道を読んでな。雑な感想としては、安倍さんの影響力はまだまだ大きいのだなぁというツラ味である。

岸田政権の施策にどう繋がるかという話ではあるのだが、肝心の岸田さんのやることが-本人がどれだけ企図しているかしらんけど、あんまり実を結ぶようには思えない。

件のアベノミクスだけども当初は、金融緩和、積極財政、成長戦略のセットだという話だったが、世に出ている情報を読む限りでは、まともに継続されたのは金融緩和だけのようだ。

で、直近でいえば現下のコロナ禍の問題を除いても、資産家らや富裕層やらは富を増やしたようだが、日本全体はしょっぱいままであることは疑いようはなく、このような状況においてアベノミクスが成功したと、安倍さんは信じてるんですかね。マジで。そう主張せざるを得ないというのはわかるけど。

日本の財政とインターネットというと、白川さんが日銀総裁だった時代は、なんかしらんけど日本のインターネットでも経済、財政、金融緩和の是々非々の議論が盛り上がっていたけれど、安倍政権になって、総裁も黒田さんに変わったりして、そういった議論をぶつ人もいなくなっていった。

それが言論空間といえるものだったかは知らんけど、アレは何だったんだろうねと偶に思い出す。本当になんだったんですかね。みんな何所に消えたのか。

そういう私は、発表された当初の安倍さんの経済政策には賛成的だったが、「アベノミクス」という呼称がついたあたりでダメだなと思った。ダサいもん。

この呼称、いつからそう呼ばれるようになったのか以前ちょっと調べたのだが、これがよくわからなかった。のだが Wikipedia に割と詳しく載ってますな。ソースらしきものまで確認はしてないが、確度は高そうですね。

アベノミクスとは、2012年(平成24年)11月の衆議院解散(「近いうち解散」)前後から朝日新聞が使用したことをきっかけに多用され始めたともされるが、「アベノミクス」「三本の矢」という呼称自体は既に2006年(平成18年)時点で、第1次安倍内閣当時の自由民主党幹事長・中川秀直による造語である。

経済は甦るさ、いつかはどこかで。

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5 月の後半に《攻殻機動隊 SAC_2045》の第 2 シーズンの配信が開始された。総集編については感想を残している。後編もいずれは劇場に来るだろうが、これはとっとと結末まで楽しみたい作品だので、タイミングを窺っていた。

Netflix は割と日本上陸の初期から利用していて、見たいものが思い当たらなくなったら更新を中断して、というのを繰り返している。現在の規約だと 6 か月以内に戻れば、アカウントのデータは保持されるらしい。

いままでアカウントの作り直しになったことはないが、かつては 6 か月より長く契約を切断していた記憶があるので、ルールの変化があったんだろうかな。どっちでもいいけど。

で、なんとなく再加入のタイミングだが、利用している au 回線の契約プランのバリエーションにて Netflix と Amazon Prime が含まれるプランがある。それが半年間のキャンペーンで割り増し分が免除されるとのことだ。どんなもんだろうかと思って、乗ってしまった。

という経緯をもって、ひさびさに Netflix にサインインしてトップ画面を見たけども、相変わらずというか、配信事業におけるサジェストの難しさってなかなか解消されないんだろうなという扁平さである。

ゲームに至ってはメニューから消し去りたいぞな。

そういえば Netflix、直近では契約者が伸び悩み、本社の人員整理も実施されたというではないか。興味は薄れつつあったので見出し以上のことはしらぬが、残念なことですね。

さて、自分なりに楽しむか。

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6月に突入した。気がついたら 6 月だった。ゴールデンウィークが去ってからも久しい。前半戦の終盤ということは、前半戦の振り返りには適したタイミングでもある。やっていきましょう。

1月

そこそこ人間らしく生きていた。まぁなんだ、月の振り返りをちゃんとやってないし、方々に断片的な記録しか残ってないので何とも言えない。日記を読んでみると、当時関わっていたプロジェクトの忙しさが垣間見えるが、そのことにはあえて触れていないことがわかる。

2月

この月も悪くは無かったというイメージはある。人間的に活動していた。例年、日記を残す習慣が 1 年のうちの半分乃至は生きており、残りは失っているような状況だが、本年は 2 月から 5 月まで日記をほぼ書いていない。それとは裏腹に、生活リズムは安定していた。

3月

なんやかんやで前半戦では 1 番好調だったシーズンというイメージが残っている。生産性があった。生産性があったというとある意味では味気ないが、生活が整っていたからこその充実と言えるだろう。

4月

悪くは無かった。すべては順調のはずだったのではないか。月末に、哀しい別れがあった。率直にいえば、それを 5 月末まで引きずっていた。というか、まだ解消していない。関連する心労が増えた。

5月

年頭のブログ記事に記したように、人間関係に気を遣う 1 年にしようとしている。ところが 5 月は不意の予定が重なった。どれもこれも自分で選び取った結果ではあったが、負担になった。4 月の件が重しになってダメージが倍化された面もある。

悪いことばかりではないが、いや、好かったことも多かった。部分的に悪いこともあった。大方悪くなかった。だが、しんどい人間付き合いに時間を割く必要はない。最小限でいいんだった。気にせずにおこう。

という感じだった。前半戦の最終月、ちょっと立て直したい。とりあえず日記の習慣を戻していくか。

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パリ13区》を観た。モノクロで気取った映画なのかなという勝手なイメージを抱いていたが、まぁなんというか……。英題は “Paris, 13th District” だそうで、原題は “Les Olympiades” だそうだ。

原題についてだが、てっきり現地での地区名だと思ったが、13 区の地区名は “Les Gobelins ” (レ・ゴブラン)だそうで、そんなら「オリンピアード」とやらは何ねと思ったら、13 区南部の高層住宅団地を指すらしい。その中心商業地区は中華街だそうです。Wikipedia ありがとう。

フォローの人たちが幾人か見ていたので次第に興味が出たというワケで鑑賞した。ほかに目ぼしい作品も無いし。結果としては、そこまで気取っちゃいなかったが、ただただ人間の苦しさがあった。この作品にポジティブさは、どれくらいあったかなぁ。自信がない。

ところで、本作がモノクロだったのは単純に、肌が頻繁に露出されるからだろう。そのまんま、つまりフルカラーだと、おそらくかなり、どぎつい。ほんのワンシーンだけでも、それが示されていた。

さて、監督:ジャック・オーディアールの作品も初見だが、(嘘です、《ゴールデン・リバー/The Sisters Brothers》を見てた)、本作は原作がクレジットされており、エイドリアン・トミネという米国人のコミックスだという。彼のことも知らなかったが、日系 4 世の作家だそうで彼の 3 作品がベースになっているとのことだ。

その原作の舞台がパリかはわからないが-というか、そうではない気がするけど、どうなんだろう。そのへんの感覚は普遍的なんだろうか。そのへんの感覚ってのは、本作で描かれるような一般的な若者(いうてアラサー)の性的接触にまつわる感覚の話だ。

ということで、最中のシーンはやたらと多いが、そこまでエロティックでもなければ、ドロドロもしていない。生活の一部という感じがするのは、そういう前提であり、演出でありなんだろうけど、悪くなかった。こういうカジュアルさは自分にとってはそこまで身近ではないので、新鮮と言えばそうだね……。

さて、4 人の登場人物について、ザックリと私見を述べると、ノラとアンバーの過去はおそらくに相当えげつない。彼女らの抱えるものは、特にノラについては、カミーユには捉えきれなかったろう。まぁ、話の次第はそうなった……。

ノラとアンバーの紡ぐ愛のようなものが、セラピー的なもので終始するのか、そういう枠組みを取っ払って自律した愛として発展していくのかはしらんけど、少なくとも作中の段階では、こりゃこうとしかならんわね。ツラい……。

一方は、エミリーとカミーユである。断片的にしか明かされないノラとアンバーの過去に比べ、現実直近の苦悩が描かれている。近親者の死ということだけど。

カミーユが車椅子をどうのこうのして苦しむシーンは、本作でも屈指に好きでね。妹さんとの関係も、最終的には一種の清涼剤として機能しているのがユニークだった。

母の死に対して、父、妹、そしてカミーユがどう向き合わざるを得ないのか、それなりに丁寧に描かれている。父の動向を知ったときの居心地の悪さ、そして単にその事実は、カミーユにも、エミリーにも重ねられる。

有り体に言えば、喪失をどう埋めるか。そこには人間性の濃淡がある。

エミリーの人物像の掘り下げもおもしろかった。たとえば、ノラとカミーユの関係が、彼の経歴について理解が進んだことでちょっと打ち解けたと思ったら、ピアノを上手に弾いているエミリーのカットにすっと移って、画面に窘められた気分になる。

グッと来たね。幼少時からの家族写真がたくさん画面に並べられる。彼女、バレエを習ったり、ピアノを習ったり、いろいろなところで家族の記念撮影をしたり……。裕福あるいは大切に育てられたというニュアンスが伝わる。ついでに、冒頭の字幕が記憶通りなら、大学は政治学院だそうで、これフランスでもエリートコースでしょ。

それがついには、友人からパーソナリティ障害を通告され、妹はロンドンなりで双子を生んで、母もそちらへかかり切りで、遠く幸せな生活を過ごしている。

残された大好きな祖母は、認知症だ。打つ手がない。

まぁこうやって振り返るとね、言い方に棘があるかもだけど、ノラはノラで、エミリーとカミーユはそのまま、落ち着くところに落ち着いている。相応というと雑かもしれない。

登場人物、あるいは俳優たちの年齢構成

奇しくもノラ役のノエミ・メルランが画家マリアンヌを演じ、同作の監督のセリーヌ・シアマが今回は脚本にクレジットされた《燃ゆる女の肖像》でも役者の年齢が気になったが、今回もそうなった。

登場人物についてだが、設定上、おそらくみんな二十代後半から三十代前半だろう。ノラについてだけは明言されていて、32(33だっけ?)歳と言っていた。俳優の実年齢と同じなんだろう。

カミーユはどうか。ノラよりは若そうな雰囲気もあるが、ザックリ調べたフランスの教員制度を見ると、大学の卒業に 5 年を要するらしい。6 年教員をしたと言っていた記憶があるので、留年のたぐいが無いとして 29 歳とかか。だとすれば、イメージ通りだ。

ちなみに、彼を演じた MAKITA SAMBA は 1987 年生まれというから、制作当時は 33 歳 か 34 歳くらいかな。ノミエ・メルランとは、ほぼ同世代だ。

エミリーを演じたルーシー・チャンは 2000 年生まれということで制作時点で 21 歳前後か。キャストのなかでは最年少だろう。それであの存在感はすごいの一言だが。エミリー自体の設定年齢は 25 歳前後かなと予測するがどうだろうか。

ついでではないが、アンバー役のジェーニー・ベスは、ミュージシャンだそうで、1984 年生まれだそう。メインキャストのなかでは最年長かな。これも不思議ではないというか、イメージには一致する。

冒頭の蜜月関係は 1 週間の何日目だったか

まぁどうでもいいんだけど、プロット上、時間が遡って描写されるのは冒頭だけと思われた。

オープニング、パリ13区の高層マンションではいろんな生活があります。さて、こいつらは…、というところでエミリーとカミーユがごろにゃんしているのは、冒頭および作中で繰り広げられた会話の内容からして入居初期だ。

2 人の単純な関係は 1 週間で終わったという彼女の証言を真に受けるなら、入居後の 2、3 日中のことと予測するのが自然だろう。

だからなんだ、という話ではあるが、そういうときくらいの無責任な関係とその愉楽に、なんというか人間らしさを感じる。

ひとこと愚痴のようなことを零せば、これは現地の人たちでも「あぁー、こんな感じだよね」ってなるような作品なのかは気になるところである。もちろん、まるっきりそんなことはなかろうから、よいお話で終わるのであろう。

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《シン・ウルトラマン》を観てきた。ウルトラマンシリーズというのは通しで見たことが 1 度もないうえ、全体感もさっぱりわからない。たまたまコミックスを流し読みしたり、雑誌の特集で設定をかいつまんだりしたことはあった。

庵野秀明、樋口真嗣の座組でアレコレ言われるのはしょうがないだろうけど、彼ら、あるいは本シリーズ、もしくは特撮にそれぞれ思い入れなり深い造詣がない限りは、ヘタな詮索してもあんまり意味ないよな、という感想が多いことよ。

西島秀俊

田村君男役。いろんな映画祭で評価された《ドライブ・マイ・カー》の主演俳優ですね。これ、撮影はどうやら《シン・ウルトラマン》のほうが先行していたようで、公開が前後したようだ、多分。おもしろいね。

若手の俳優たちの演技はだいぶん厳しい感じの本作だったが、特に冒頭から前半あたりの SF 的なキーワードが頻発するシーンは西島さんの台詞回しでもちょっとキツさがあって、ついついニッコリしまった。

みなさん、徐々に馴染んでいくんですけどね。見る側の慣れも含めて。あと、みんなスーツもネクタイもお洒落だったですね。

長澤まさみ

浅見弘子役。主役だろうな。全体的には詰め込まれたエピソードが立て続きに発生するなかで、彼女の神永への態度、さらに具体的には彼がウルトラマンに変身する前後において度々にアップされる彼女の描写は、一貫していたので、作品全体の軸と言っても過言ではない。

で、ベタというか説明不要というか、彼女の神永への関心の変遷がそれぞれの表情で描かれている。まぁなんというか、わかりやすいんだけど、よく演じ分けられていて感心した。偉そうな言い方になってしまうけど。その仔細について明確なアレはないけど、それで十分だという話だ。

一部界隈で目にした彼女に関連したシーンについての文句だが、個人的にはまったくぴんと来ない。ちょっと調べても、具体的にどのシーンかも判然としない。人間の尊厳レベルで問題という訴えなら、まぁ。しかし、仮に人権へのハラスメントとでも言おうものなら、それこそ本作自体のテーマでもある。

竹野内豊

役名ないんですかね。仮に《シン・ゴジラ》とアレすると赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官)とでもなるのだろうか。ここで気になってくるのは《シン・仮面ライダー》であって、あの作品って国家の機関が登場するスケールで語られる文脈を差し込めるの? という点が気になる。

《シン・ゴジラ》に共通して出演している俳優として気づいたのは、高橋一生ですね。声の出演だけだけど。

山本耕史

メフィラス役。登場時一瞬、藤原竜也かと思った。まぁ、いい演技だったというか、キャラクター像にあっていたというか。居酒屋で神永としっぽり飲んでいるシーンは本作でも珠玉のシーンではないか。

最後は、揺れないウルトラマン(ゾフィー)が来訪したことであっさり身を引くのも現金でよい。

ザラブ

戦闘シーンはザラブ戦が好きだったね。空戦描写がいい。重力を操っているという雰囲気が感じられたし、ザラブの幾何学的なエネルギー波とウルトラマンの光線は、それだけならザラブのほうが高性能そうだよね。気円斬みたいなのに負けたけど。

被害者たち

破壊される家屋や建物なんかの描写はあえてオモチャ感を残しているんだろう。人的被害を連想させる描写は最小限以下だったと思う。これは、《シン・ゴジラ》と比べても間違いなかろう。

そもそも正義のヒーローの話なので、そういった側面をヘタに強調するわけにもいかないんだろうね。《シン・ゴジラ》と比べて残念だったといえば、さらに無能感が強かった政府が無慈悲にも総辞職させられるということもなくて寂しい。

ゼットン

株式会社カラーがクレジットされる意味、ここにありといった感で、どこからどうみても使徒だ。こればっかりはエヴァンゲリオンだ。

逆に、使徒のデザインの根本的なイメージがウルトラマンシリーズの外星人たちに拠っているということもよくわかった。

外星人やらその兵器、あるいは怪獣(変な当て字は使わない)がどれもウルトラマンと同じサイズである保証もないということも端的に表されていたと思う。

特撮とはなんだ

批判的な意見の例に「予算がない」「しょぼい」みたいなのがあったんだけど、そうじゃないんじゃないのと。これが特撮の現代的な映像なんじゃないのと。

なんというか今回の鑑賞で一番おもしろかったのってここで、新しい映画なんだけど古臭い。CG が多用されているんだろうけど、特段それ自体の効果が豪華でカッコいいというワケでもない。

これが日本映画だ、というか。こういう作品をそつなく評価して取り込んで昇華していかないともったいないというか。マンガやアニメ原作の実写化作品でもいいけどさ、日本的でキチンとした派手な映画、もっと見たいですね。

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どこかでひさびさに日記ブログなりの方々とした話題が盛り上がっていたらしい。当該の記事に目を通したが、別になんということも無く。

どちらかというと、以下の記事が直近では心に残っている。といって 1 月の記事だ。もうそんなに経ったか。はてな内でも注目しているひとが少ないのが残念だ。

ずっと昔から thinkeroid さんの記事は読み続けているが、今年になってブログ活動を意識的に、少し活発にしたとのこと、その理由が綴られている。

想いや考えを堆積させていく、あるいは風化していくのが人間だろうけれども、節々でなにかしら振り返ることは、どんなに根無し草な人生を暮らしていてもあろう。あるいは日々に几帳面に生きているひとこそ。

ゴールデンウイークに差し掛かるあたりで、身内にアクシデントがあり、なんだか気持ちの整理も進まないままに、いろいろな予定をこなしてきたが、奥底では哀しみが渦巻いている。

しばらく映画館にも行っていないし、勉強というか、読書というか、そういった活動も停滞気味だ。アクシデントを除いても、どうにもプライベートの進捗が芳しくない。そういうタイミングだと言えば、それまでだろうか。

気持ちと生活のリズムに折り返しをつけたい。

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《アネット/Annett》を観た。奇妙なビジュアルの作品であることは認識していたが、そこまで関心を熟成できていなかったのは事実で、フォローしてるひとらが賛辞を送っていたので、観にいった。これは個人的には大ヒットな逸品で、現時点で今年の映画としてはかなり好きだ。

ネタバレと呼べる要素を大いに含むので、もし本作を未鑑賞で、内容は知りたくないという方は、読まないでほしい。

監督と過去の作品は知っていたが、見たことはない。前情報もほとんど無しで臨んだ。ミュージカルいう話だったが、別に歌って踊る感じでもないし、歌うにしてもガッツリ歌うという風でもないので、逆に音楽で感動したいという向きの人には合わない。

個人的に、歌が混じる映画はとっつきづらいが、本作では歌はスパイスというか、ストーリーや全体のギミックに大きく作用する面のほうが強く、そういう意味でも音がヘンに雑音化しないというか、違和感こそなかったし、これはこれでよい。

アネットのパペットたる所以

以下の3つの観点からアネットはほとんどすべてのシーンにおいてパペットでなければならなかった。説明するほどでもないし、野暮ではあるんだけど、自分用にもメモとして残しておく。これで大方、感想の主たる部分も述べたことになる。

  1. 単純に作劇の合理的な目的
  2. ヘンリーにとってのアネット
  3. アンにとってのアネット

ひとつめ。「生まれたとき」「留守番であやされているとき」「立ち歩きできるようになったとき」「歌えるようになったとき」「あるメッセージを訴えるとき」「父と面会したとき」それぞれのシーンで僅かずつ成長するアネットをどうするかという演出上の問題がある。

本物の俳優(子役)を採用する場合、少なくとも 3 回くらい役者を変更しないと、それらしい画作りはできないと思われる。で、それは難しいようねということでパペットが採用されたのだろう。

赤子の役をほぼ人形に背負わせることで、寓話性が高まるというか、突き放して話に入り込めるというか、異化効果と言っていいのか、そういう意図はあったろう。

また、人形はまるっきり CG というワケではなくて実物ベースで撮影されたらしく、日本で作るかみたいな話もあったらしい。最終的にはフランス人の造形師による人形を採用することになったとのことだ。

彼女の存在は、はじめこそ滑稽で不気味にすら見えたが、次第にそれなりの可愛さを生み出し、最後には感情移入までさせられる。これは見事だった。逆説的には、そう感じてしまう自分に対して、何だかなという感覚さえ生じた。

娘を愛すことをいつ覚えたか

ふたつめ。私にはヘンリーを憎めない。作中ではロクなことをしていないが、私にはどうしてもこの男が憎めない。同類への哀れみだろうか。憎めない。この男、娘を愛していたかというとおそらくは、ほとんどノーだが、完全に否定もしづらい。

アネット誕生のシーンで彼の流した汗、この描写は半ばギャグだったろうけれど、あれはヘンリーの感動そのものであって、娘への期待や希望と、そこに同居する不安が入り交じっていた。作中でやたらと汗を拭う男なのも注目したい。

ちょいちょいと挟まれるモノローグから、ヘンリーは、あまりまともな環境では育ってはいないことが予想され、心が重たくなる。アンの死後に一瞬でもシャッキとするのも面白かったが、それもアンの呪いによって逸らされていった。

さて、ヘンリーにとってアネットが人形であった理由だが、まずは正面を向いて愛せていないというのが単純にある。歌えるアネットを聴衆に晒そうとしたという素振りからも、これははっきりと示されている。

で、もうひとつは本当の父親ではなかったからだ。これも単純だ。

ヘンリーはアネットの名を呼ぶが、「娘」とはほとんど呼ばない。この台詞回しはごく自然にそうなっただけとも思えるが、結果的に意味ある形になったといえよう。

かなり微妙な点だが、ヘンリーには実の娘ではないという予感が元々あったようにも思うし、指揮者から明かされてそれを再確認、あるいは自覚したようにも思う。いずれにせよ、アンをあのようなかたちで失った彼に免罪は無いが、アンと指揮者によって不幸の種を事前に積まれていたのが彼ではないか。不幸にしか辿り着かない男が愛おしい。

アンにとってのアネット

みっつめ。初登場時、あるいは舞台俳優として成功後の彼女が送迎車の後部座席で林檎を齧っている。鑑賞後に思い返すまでは何ということもないと思っていたが、ざっくり言って悪魔の誘いを受けてしまった人物としても見れるだろう。

ぶっちゃけ、意味ありげに伴奏者のモノローグが開陳され、加えてアネットがこのようにパペットを利用して描かれた時点で、私には即座にアネットの真実が予想された。アンはヘンリーに負い目があった。そういって過言なかろう。

どの顔をして “We Love Each Other So Much” を歌っていたのか。私にはわからないね。

たとえば彼女は、誰もいない自宅の、さらに寝室を厳重に戸締りし、加えて洗面室に隠れるように入り、窓を開け、ひそかに煙草をふかしていた。このような彼女のことをヘンリーは知らなかったのだろう。彼女の秘密は多い。

言うまでもなくアンとヘンリー、あるいはアネットを含めた彼らの不幸の原因のひとつで、ヘンリーは劇場で死を続ける彼女をこそ知ってはいても、素の状態に近い弱い彼女については実はほとんど知らなった。そうに違いない。

しかし、ヘンリーが抱える闇についても、アンにも同様のことが言えよう。

前話が長くなった。

母親としてのアンが抱くアネットへの愛情に偽りはないだろう。が、作中の展開と作用としては、アンすらもアネットを道具として見立てている。それは決定的には、アンに宿された歌う能力であり、彼女はこれを呪いとまで言う。こんな親があっていいのだろうか。

伴奏者を含めた主要登場人物 3 名は、いずれも決定的な悪人ではないが、それぞれが解消しようのないエゴの問題を持っていた。付け加えておくなら、ヘンリーを主軸にして話が進むためか、個人的にはアンのそれは少し宙に浮いて見えた。

クライマックスに至っては「あなたと一緒に獄中で罰を受けるのは私よ」のような台詞、これは言うまでもなく自分への罰でもある。そこには罪の自覚があった。だからこそ、最期のあとはヘンリーと寄り添おうとしたのかもしれない。

あなたは愛せない

この悲劇全体の導火線を用意したのがアン(あるいは同時に伴奏者)だとすれば、それに火をつけて爆発まで処理したのがヘンリーだった。クライマックスにおけるヘンリーとアネットとのやりとり、どういう意味だろうか。明白なのかもしれないが、私にはよくわかっていない。これはアネットからヘンリーへの呪いか。

なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。

「闇を覗くな」というヘンリーからアネットへのメッセージは、いくつか意味があるように思うが、あらためて考えてみると、ヘンリーは彼女の両親のどちらをも手に掛けている。その事実をアネットは実は知っているのか。

そんな人間が、それこそ手をかけた対象の娘を愛す理由はないということか。あるいは、娘自身がそれを拒むだけか。単純に後者では意味がないが……。

なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。

以下、レビューやインタビューなどへのリンクです。

なんだかんだでエンドクレジットが好きです。

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《林檎とポラロイド》を観た。ヨルゴス・ランティモスと同じギリシア人監督で、彼の撮影の助手のようなこともしていたらしいクリストス・ニクという新しい方だとかで、興味を持ったワケだが、好みの作品ではあったが、小品というか突き詰めるとなんともいえない味わいだ。

ネタバレを忌避するタイプのひとにはあわない作品とその感想なので、以下の文章は注意です。

英題は “APPLES” で原題の通りだが、ギリシア文字では “ΜΗΛΟ” と書く。ざっくり「ミロ」と読む。イータの大文字の形状がアルファベットの “H” と相似だからビビりますね。ちなみに、キリル文字の “И” はイータを元としているらしいけれど、キリル文字にはこれとは別に “Н” という字がある。もうメチャクチャですね。

さて、突然にひとびとが記憶喪失に陥る社会で、ある男も記憶喪失になったようだ。これらのひとらは病院に送られ、保護されて診断を受け、親族なり友人なりが引き取りにくれば、それに応じる形になるらしい。

で、親族らが見つからないなどの場合は再生プログラム送りになる。

男の本当にやりたかったことは

鑑賞者には中盤のさりげないシーンで種明かしされるが、男:アリスは記憶喪失を装っていただけだ。で、その理由だが、パートナーが亡くなったことに起因している、と思われる。

と、オチだけ書くとなんということはなくて、本作はいったいなんだったのかという気分になる。

再生プログラムの目的は

そもそも、記憶喪失者の発見時に身分証の不携帯が問題になっているようだし、この世界にはスマートフォンなどの機器もないようなので、ていねいに無視されているが、設定にはかなりファンタジーがある。

というワケで自ずと、本作からは寓話的なメッセージ性を読み取りたくもなってしまうというものだ。

記憶喪失者にはアパートの一室と生活資金があてがわれ、謎のプログラムをこなすように指示されるが、およそ生産的な行動ではない。どちらかというと破滅的な行動の指示が多くなっていくようだ。

特に最後の指示は、途中で切断されたものの、不穏な内容であった。

そのひとつ前の指示が、アリスが直面していた事態、あらためて向き合わさせられた事態であり、それがある意味で、ひとを自暴自棄にさせるような状況だとすれば、社会の足かせとなる記憶喪失者たちは、何に使われるのか。

逆説的に、アリスは記憶を取り戻すことを選ぶ。

うーん、でどういうことなのか

「林檎は記憶を維持するために役立つ」というメッセージ、記録を残すために利用されるポラロイド写真。少なくとも本作の舞台設定では、情報を残すための装置は脳とポラロイド写真しかない。

人間の記憶もポラロイド写真も淡い。次第に、あるいは不意に、ときにはあっという間に大切な情報さえ失う。

通信手段のない世界、記憶喪失という現象あるいはその装い、記憶喪失的な、かつ身寄りもロクに見つからなかった人間たちへの扱い、といったあたりを掘り下げると、本作には人情噺というよりは仄暗さがあるように感じるが、ここまでとする。

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《ゴッドファーザー》を観た。午前十時の映画祭というやつである。例に漏れず、ほぼ満席だった。コッポラの作品は《地獄の黙示録》の体験以来だが、この映画は断片的に見たことある気もしてきた。が、話の全体像はほとんど知らなかったので、新鮮な体験ではあった。

マフィア映画、このブログで言及しているだけでも《シチリアーノ 裏切りの美学》《The Untouchables》くらいしか触れてないし、そもそもあんまり観ていないけれど、端的に言って気持ちのいいコンテンツではない。

本作や原作がアメリカン・マフィアの実態をどれだけ精確に描写しているのかは確かめられていない。だが、本作はマフィアとその類縁が苦しむ描写がほとんどで、一般人が苦しむような状況はほぼ直接的には描かれていない。その点は、楽しむ方としては救いなんだろうか。

念のため時代背景についてだが、マイケルが海兵隊で日本軍と戦ったとかの状況から 1940年代後半から 1950 年代の終わりまでが本作の時代背景にあたるらしい。この時代あたりから巨大なファミリーでも麻薬売買に着手しはじめたというのも概ね歴史に則しているようだ。

コルレオーネ・ファミリーの世代交代

ヴィトーの偉大さ、襲撃後の老境、そしてそれを引き継ぐことになったマイケル、この関係をやたらと丁寧に描くのが本作だ。それぞれのエピソードは、このテーマを生かすために十分に力を果たしている。語弊を恐れなければ、それ以上の役割はない。

結婚式、配役と種馬、新しい取引の申し出、銃撃、抗争、マイケルの避難生活、兄の死、復活と帰郷、洗礼式といった具合に展開やその関係は、割と明確で、どの状況も丁寧でフラットというか、これといってこのシーンが強烈に演出されているということはない。あえていえば、マイケルの避難生活は異世界感があるか。

洗礼式のさまざま

どこの描写もフラットとは言ったが、やはりクライマックスの洗礼式は欠かせないか。荘厳なカトリック教会で催される誕生した甥の洗礼式、「悪を取り除く」旨の問いに重ねられる粛々とした回答の裏で起こる粛正の数々は、善も悪もないような気分になってくる。爽快感までは感じなかったが、粛正のシーンはどれもよかった。

甲乙つけがたいが、モー・グリーンがマッサージを受けている最中に眼鏡越しに射抜かれるところがいいね。マイケルが食堂でやらかしたのと同じくらいのインパクトがあった。

教会で流れているのは、バッハのパッサカリアとフーガ BWV852 のように聞こえたが、音源として耳にする作品よりもスローテンポだったので確証が持てなかったが、サントラに入っているっぽいので確定か。

これもな、イタリアのカトリックが教会でバッハを洗礼式で流すのかわからないし、気になるのだが、どう調べればいいのかわからないので、単純に楽しんでおくに任せる。どうなんだろう。

要塞化していくゲート

ヴィトーが襲撃された直後だったかな。ファミリーの屋敷の入口は内側から車が横に壁になる形で蓋をされて、来訪者の勝手な侵入を防ぐ体制になったと見えた。それ以前がどうだったかは気づかなかったが。結婚式のシーンなどは同じ門か不明だが、オープンだったよね。

で、次のどこかのシーンでは申し訳程度のチェーンが装着されており、出入りがあるたびに外すなどしている描写があったが、さらに展開が進むと完全にゲートが据え付けられており、終盤に至っては何人もの門番が武装していたな。

ヴィトーの最期のシーンでもゲートが映っていたような気はするが、それがどうなっていたかはよくわからなかった。これも同じ門かすら怪しい。再鑑賞の機会があれば気にしたい。つまるところ抗争が激化していることを端的に表してたのだろうが、面白いなと眺めていた。

ランプ電飾による演出が

《地獄の黙示録》の河川沿いの基地や、中盤あたりの夜中の銃撃戦の現場、フランス租界なんかで電飾がいくつか使われていた印象が残っているが、本作でも結婚式-これは点灯していないが、あるいはクリスマスなんかで、電飾があって、監督のこだわりだろうかとなった。

帳尻合わせとアポロニア

抗争の歯止めが無くならない限りは双方の犠牲者の数や質で帳尻をあわせる暗黙の了解はある気がするが、この計算は話中でどうなっているのかな。

ルカの死をどうカウントするかだが、とりあえずこれはゼロで計算しておく。

まず、ヴィトーが瀕死にさせられる。そして追撃が加わる事態になる。これに対してソニーがタッタリアの次期当主を処分したが、この時点でコルレオーネ側の勘定が +1 だろうか。

さらにマイケルがソロッツォ(警官は無勘定)を処分することで更に +1 になる。

これらに対してようやくタッタリア側の報復が入り、まずはソニーが処分されて -1 、加えてアポロニアが処分されて更に -1 となる。

ここでプラマイゼロになるのか?

遂にはマイケルの決断によって、バルジーニ、モー・グリーン、テシオが処分される(ついでにカルロもだが)。これで +3 だろうか。

さんざん攻撃されつくしたコルレオーネ側が状況を大胆に整理した結果、マイケル、コルレオーネ側が多めに処分して勝利を収めた。なんと言ってもマイケルは、アポロニアを巻き添えにされているのだ。これはどちらかというとソロッツォ側の報復だったのかな。後半もなにかと忙しい為、アポロニアの存在を忘れがちだが、そりゃマイケルは静かにキレてるよな。

うーん、差し引きゼロ! としておくがどうだろうか。裏切ったシチリア時代の護衛君とかもしっかり処分されているのかね。

ケイにせよ、アポロニアにせよ、ヴィトーの配偶者のカルメロとは異なり、マフィアのボスの配偶者としての苦難に直面することになっている。組織の変容を体現しているとすれば単純だろうけれど、どうなんだろうな。

Part 2 の上映には行けなかったので、近いうちに配信なんかで鑑賞したい。

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