門脇麦が出演するというので、2022年の年末に《天間壮の三姉妹》を観た。

この映画に原作のマンガがあること、「スカイハイ」シリーズであること、題材が東日本大震災であることもしらなかった。あるいは原作のことは、すっかり忘れており、まず面食らったのであった。

物語の冒頭、生死の境がどうのこうのという話が明るみになる以前に、海沿いの町、宮城のナンバーのタクシーという本当に最初のシーンの情報から内容とテーマはそれなりに判ぜられたが、そうきたか、その手の作品だったか、となってしまった。

しかし、鑑賞後に確認すると、作品サイトには注意書きがあったが、館内および作品の冒頭などでも題材についての注意喚起はなく、このあとに観た《すずめの戸締り》とのギャップを感じた。作中での表現を鑑みても、もちろん、やはりまだ入場の直前でも注意されるべきだろうので、少しモヤモヤするものだ。あるいは劇場によっては配慮があったのかもしれない。私の環境では無かった。

また、憶測だが、2011 年から 10 年ほどが経つ節目として、2021 年前後を機にいろいろな企画が動いたのだろう。新型コロナの流行でスケジュールが前後した企画も少なくないだろうが。しかし、原作の連載こそ 2013 年から 2014 年だったようだが、映像化は慎重にならざるを得ないという面はあったろうな。いつ頃から企画が進んだんだろう。

類例といえば、アニメ作品だが、『岬のマヨイガ』(原作アリ)や『フラ・フラダンス』などは 2021年の作品だものな。実写映画として東日本大震災を扱った作品、どれくらいあるんだろう。二宮和也主演の《浅田家!》とかだろう。ちなみに、Wikipedia にはリスト化されている。

本作の鑑賞後、原作の冒頭の数話を読んでみたが、過去に序盤ばかりは読んだかもしれない気もする。映画では設定の細部に少し相違があるようだが、おそらく基本線は変わっていない。映画では次女は旅館の外で働いていたりと、後半の生かされ方を考えると(原作は読了できていないが)、アレンジが巧いとは感じた。

演じる俳優のあれこれのような話

登場する三姉妹は長女:のぞみ、次女:かなえ、三女:たまえで構成され、それぞれ大島優子、門脇麦、のん(能年玲奈)が演じる。年齢順は実年齢に沿った配役なっているっぽいが、特にのんは実年齢に比して、やや若目の役ではあった。

大島優子は、よう知らぬが AKB 系の出身だと女優としてはもっとも安定したキャリアを積んでいるようだが、もともと子役でもタレントしてたんだっけ。しっかりしつつも、やや頼りなさげな面も見せる長女役であった。女将姿のときの髪型の分け目がステキだったね。

なんだかんだで冒頭の彼女が笑顔を作るところから旅館の玄関までを進んでいくシーンが1番印象的ではあった。次点では、次女の彼氏が海へ旅立つところかな。

門脇麦は《あのこは貴族》で目にして以来だが、やっぱり不思議な役者だ。それほど作品をみてるわけでもないが、ファンである。いままで見てきた役のなかでは割と普通なほうの人物像ではあったと思うが、やはり要所でエッジが効いていて、そういう起用だったのかなとも。本作では、口紅のメイクアップが印象的であった。

主演ののん(能年玲奈)だが、彼女のことはよくわからない。ちゃんと演技している作品をはじめて見たレベルだ。彼女の魅力は演技の巧拙でもなくて、個性というとそれまでだが、たとえば諸々アンバラスで普通なら画面が持たなそうなシーンでも、彼女がいれば許される気がしてしまう。幼さとも言い切れず、妙に浮世離れした感覚というか、この作品世界内では、諦念に似た彼女の眼差しをギリギリのバランスでこなそうとはしていた。

姉妹の母を演じた寺島しのぶ、あまり得意ではないのだが、やっぱりいい演技をする。この映画のすぐあとくらいに上映が開始された《あちらにいる鬼》のほうが注目されているようだが、今作の演技もいいですね。

次女の恋人役で登場する高良健吾は《あちらにいる鬼》で寺島しのぶと共演しているらしいが、個人的には《あの子は貴族》での門脇麦との共演が印象に残っている。どういう経緯でこのキャスティングが成立するんだろうね。

原作者とか監督とか作風のあれこれのような

原作者:髙橋ツトムは講談社でも集英社でも小学館でも作品を連載している。案外というか、秋田書店はないんだな。多作だよね。あんまりちゃんと読んだことはないのだけれど。

そもそも TV ドラマのスカイハイの監督も、今作と同じ北村龍平が務めていたようだ。また、原作時点で、主役はのんを意識してアテガキしていたというトピックも目にした。いつ頃から映画化の企画を温めていたのかは、気になるところではあるが、上述の通り、10年の節目を狙った面はあったろう。

原作と映画を比して、ひとつだけ、解釈の問題が浮かんだ。原作の連載時(2013)であれば三姉妹の年齢差もそこまで気にならなかったと思われるが、これを 2022 年の映画としてみると、彼女らの年齢差をどのように考えればいいのか、ちょっと怪しい気がする。作っている側が気づかないはずはないので、原作のように震災から幾年と経ていないというスタンスなのだろうか。そのへんは分からないままだ。

どういうことを読み取ろうかなと

たった 1 人の肉親にも見限られて生きることに絶望していた少女(何歳設定なのか微妙にわからんのだ)が、家族や人たちとの交流の楽しさを心から体験できたのが、天間壮とその地域の住人たちであったというのは、いい。

それが「本来ならば居るべき場所ではない」というのも、まぁ、わかる。

亡くなった方たちがあの空間に留まるということの意味はよくわからなくて、ざっくり見ると、究極的には彼の地の住民らの多くは自分自身の死に自覚的でなかったとのことのようだが、そういうセッティングでいいのかは、かなり疑問だ。原作からの問題だけれど。

とはいえ、生きている、生き残れた、生き残ってしまった側の人間こそ、ギリギリまでは変わらぬ日常を共に過ごして亡くなった彼らの姿を記憶しており、本作の舞台のような、いわば彼らと共に過ごした日常を想いながら魂の安寧のようなものを願うんだろうから(もちろんそうでない場合もあるだろう)、こういった表現がそれなりに適当というか、穏当というのも一理あるのだろうとも思う。

主人公やほかに生き残る人たちが、近しい人たちの死をどうやって受容するのかという話が、究極的には、これに類する作品の肝であり、テーマであり、目的でありといったところだろう。

本作では、現地のイルカのショーでトレーナーとなり、再興した水族館にて、摩訶不思議なメッセージを携えた主人公の姿によってそれが提示される。異常な空間の演出こそがまさに映画的であったなと思う。

彼女のファンタジーな体験が、たとえ気休め程度にしかならなくても、そのメッセージを伝えられた相手らはそれなりに彼女の伝えた伝言を受容するだろうし、それを視聴していた私も、これはそれなりにそういうもんだなと感動した。

もう少し抽象的には、或る理想的とは言いづらいステータスにずっと居続けることの虚しさ、その克服、というのは言えるのだろうから、そういうところだろうかね。

《岬のマヨイガ》と《フラ・フラダンス》の鑑賞を宿題としたい。あと、年末年始に《護られなかった者たちへ》も観たけど、これも奇妙な作品だったな。

そういえば三田佳子も重要な役柄で出ており、ひさびさに拝見したなという感じだったが、存在感はあった。彼女のブログ記事を読むと、撮影についての情報が細切れにアップされているが、海岸のシーンのロケは北海道だったらしいと、いろいろと発見がある。

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