2022年の年末、《3つの鍵》を観た。

イタリアの映画で、舞台もイタリアの何処かローマからそう遠くないエリアのようだが、製作にはフランスもクレジットされている。原題は “Tre piani” で英題が “Three floors” なので、原題に沿えば安直には「3階建て」だろうし、日本の劇場でこのまま邦題にするはずがないので「3つの鍵」となった、という経緯と思う。

つまるところ 3 階建てのアパートが本作の舞台で、物語はそこに暮らす 4 つの家庭が織りなす 10 年を描くが、そう考えると「”3つの鍵”ってなんやねん、鍵は 4 つやろ」と毒づきたくもなる。冒頭から「鍵」にどういう意味があるのか注意しながら見ていたが、これはミスリードされてしまったなと、途中で気づいたのだった。

群像劇っぽい出来合いの作品なので、登場人物別に感想を述べると楽だ。

家族がテーマであることは疑いようがなく、それぞれの家庭は世代の分布が絶妙に分かれている。夫に痴呆が見えはじめた老人夫婦、成人したばかりの息子がいる裁判官(?)夫婦、幼い娘のいる夫婦、赤子を抱えた夫婦(夫は建築関連でたまにしか帰らない)の 4 家族が描かれる。

映画全体は、大きくは 5 年ごとに 3 つのチャプターで構成され、変化とともに死ぬ人がいたり、子供は大きくなったり、つまるところ人間関係のこじれが明らかになったり、解消されたりする。成人したばかりの息子がいる夫婦の婦人:ドーラと、幼い娘を抱えた夫婦の夫:ルーチョ、この2人はほぼ絡まないが、作品全体の話の軸が彼らだというのは疑いない。

ドーラ夫婦と息子の不和の原因は、夫の頑迷さと息子の幼さ、それらに挟まれて身動きを取らなかったドーラ自身の関係から成っている。息子が飲酒運転による轢殺を起こしたことから家庭の不和が限界に達し、5年後の出所と離別、10年後の夫の死と息子との対面という段を踏む。

息子が家を発つとき、夫からは「俺を選ぶか、息子を選ぶかせよ」と宣言されるが、彼女はそこで息子を選べなかった。選ばなかった。

どちらが正しいという話ではない。

この家族の関係は、その主体が完全に夫の意思のみによって支配されている部分は認められるので、それですべてが決まる。仕方なかったといえばそうだろうが、息子がその状況に納得するわけではない。もちろん、息子の甘えもある。

夫の死後、ふたたび息子と向き合おうとするドーラだが、都合の良いムーブをするなという息子の主張も確かで、それでも支配者の枷を外された彼女は、もともとは聡明なんだろうし、ようやく自分の頭で彼との関係を模索し、行動し始めた。最終的には和解の兆しのようなものは描かれていた。

並行してルーチョだ。

娘が痴呆の老人と行方不明になったという展開まではぎりぎり許すとして、その後の娘の憔悴について結果的には要らぬ心配を爆発させ、同階の老夫婦との関係を破綻させ、この事件に、または更なる原因をどこかに求めるにせよ、老夫婦の孫娘と関係を持つに至る。

どうしてこういうプロットを組んだんでしょうね。笑ってしまう。巧いんだけども。

ルーチョの家庭は、どうにもルーチョ本人よりもパートナーのサラほうが、高給取りそうな仕事をしており、彼女も独立した経済的主体だ。これは、ドーラと対照的ですらある。世代性を反映している面もありそうだが、彼女は、粗相をしたルーチョをまったく許さないということはなく寧ろ寛大で公平すぎるくらいに扱っている。強いのである。

ルーチョにまつわる事件は、ドーラのそれと比して、10年の歳月によって、それぞれの人物たちの老成、あるいは成長、あるいは取りうる進路などの別によって、過去のわだかまりをあくまで過去にしていく。その過程がさりげなくだが、たしかに描かれている。

で、実はしかし、最大の問題は、赤子を抱えた家庭だった。

夫が現場仕事のために偶にしか戻ってこないモニカである。長女を生み、長男を生み、不安と隣り合わせではありつつも、彼女なりの生活を築きつつあった。

彼女の問題は表面的には極個人的で、ドーラやルーチョに比べると抽象的だ。それは「母は私を生んでからおかしくなった」という強迫観念からも判ぜられるが、事実関係は語られない。

また、この問題は彼女の眼前には黒のカラスとして現れ、象徴される。カラスが問いかけるでもあるかのように、いつの間にか彼女の目の前にいるのだ。お前はそれでいいのかと。

夫の兄との邂逅もキッカケか原因のひとつだろうし、彼女が無事に失踪生活を送っているとして、もしかしたら何かしらのタイミングで、夫の兄と合流した可能性もあるのかもしれない。

どういうことか? いや、わからないんだけど。

2 人の幼子を残された仕事中心の生活の男は、それでも子供を養う必要がある。いずれは勤務地に子供たちを連れまわすのである。これも新しい家族の形なのだろうけれど、この奇妙な彼女の顛末こそが、やはり結果的には、ドーラ、サラ、モニカ、あるいは老夫婦の婦人といった女性らの多様性にこそ描かれている気すらしてきた。

本作のシーンのひとつ、クライマックス付近だが、彼らのアパートの前を街頭パレードのダンスが通り過ぎていくのがある。半ば幻想的ともいえる光景は、そこに居合わせた住民たちを少しばかりでも日常から解放したんだろうか。

よいシーンではあった。

個人的には、ルーチョが事務所に使っていたらしき自室の壁をガラスで修復したあとのシーンが好みだった。彼が決定的な間違いを犯す瞬間のちょうど前で、作中でのドーラとルーチョの接点といえば、彼女の息子が壊したこの壁くらいなもので、つまりそれはアパート全体の変化、あるいは破滅の合図であったわけだが、半透明のガラス(アクリルかもしらん)によってそれが修復されたことのニュアンスは…、なにか求められるだろうか。

あるいは、4つの家庭(老夫婦を除くと 3 つの家庭)の変化だが、ちょっと無理やりに図式化すると、ドーラは親子の関係、ルーチョは父としての問題、ではモニカの問題はなにかというとテーマ的なものが浮かび上がってくる気がする―もちろん、不在がちなパートナーと幼子 2 人という負担の大きさは前提される。

しかし、最終的に、クライマックスで不幸ぶっているひとが居ないことが、なにより本作のメッセージ然としているのかなとは。イタリア映画はいつも家族を扱う。

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