井上陽水の《最後のニュース》というナンバーをはじめて耳にした。へぇ。1989年の曲だ。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は1962年の作品らしい。ついでに言うと作者は 2年後には亡くなっている。個人的に印象的な作品としては『ドラえもん のび太と雲の王国』だが、この作品は1992年だ。
マズローの欲求5段階説あるいは、ある時期の発展途上国(とされた国々)の訴えではないが、周囲の生活の外側にある環境の問題について人びとが考えうる余裕を持つのは、そのままに余裕があるときに限る。
そもそも地球温暖化(気候変動)について、人間活動が及ぼす影響に関する議論だって、いずれの陣営の筋立てがどれくらい正しいのか、それがいつどの研究で覆されたのか、などなどをフォローするのも大事で、仮にあるスタンスでの主張が信念化してしまっては意味がないのであるからして、難しい。
あるいは最近ではマイクロプラスチックが話題だが、これもプラスチック製品の扱い方の問題なのか、商業的に仕込まれたなんらかの戦略なのか、ナイーブな環境運動の一環なのか、あるいはいずれもが織り込まれた潮流なのかしらないが、全体像がよくわからない。まぁ、まともな本を読んで学べという一言に尽きるのだが。
欧州では「緑の党」と呼ばれる思想、政治のグループがそれなりに勢力を伸ばしているようで、なかなかどうして、そういった思想の強固さに驚くしかないなと最近に思ったという話であった。日本にも「緑の党グリーンズジャパン」があるようだが、まぁパッとせんな。
噂の中国SF『三体』を読み終えたので、社会的な面から感想を残そうかと思って作者のインタビューを漁りはじめたらめんどくさくなって一時停止してしまった。的外れなことを言っても仕方ないけど、自分の感覚から離れたまとめになってもあんまり意味がないし、バランス感覚が必要だね。
『天冥の標』のことを考えていた。本作を途中まで読んだとき、この作品こそ『虚無回廊』(小松左京)を飛び越していくのではと思っていた。読了したいま、そういう企図も少なからずあるように思えるが、全くがそうというワケでもなかろう。
しかし、これだけ長い小説もなぁと思いを巡らせていたら『妖星伝』(半村良)が浮かんだ。連想するには、むしろ遅いくらいだ。いつだったかそう思ったことはあっただろうが、すっかり忘れていた。そうなると、『天冥の標』はむしろ『妖星伝』と呼応するところのほうが大きいのではないかという単純なイメージに繋がった。だが、いかんせん『妖星伝』の結末当たりの話をほとんど覚えていない。
さて、さてさて。
事態に収拾がつかなくなっているように見える。デモが始まったのが6月、もう2か月も続いている。悠長なことは言っていられないが、すごいエネルギーだ。眺めていることしかできないので、とりあえず思ったことを書く。
といっても、特に定まった思いもない。「香港加油」とはいうが、頑張ってほしいのは「香港」なのか。デモの参加者すべてか、香港の若者か、香港の市民か。香港の民主主義的な制度に自覚的、かつ賛成的な市民か。誰に向かってに頑張れと言えばいいのか。
どう転んでも体制にとっていくらでも操作しやすい結果にしかならないのではないかというところもある。たとえば行政長官の林鄭月娥だが、本人は辞めたがっているが辞任が認められないという。追い詰められた長官がどうするか、どうなるかは想像したくもないが、どのような決断を下すにせよ、香港市民のためになる選択肢や結果は少なかろう。暴力の応酬についても同様で、個別の暴動をしらみつぶしに検証するということもできまい。結果的に、どうやって暴力に収拾をつけるかという話になったときどうするか、ということになる。中国本土の市民には権力はない。
そもそも本件の直近の発端が、台湾で発生した香港人カップルの事件に因るというのも何とも皮肉な顛末だ。やるせない。
ヤングマガジンで『雪女と蟹を食う』という作品が連載されている。1巻がこの間発売された。Amazonに集まるレビュー数は作品の勢い(特に1巻については)をよく表すが、確認する限り、そこそこ売れているように思える。高得点でもある。
あらすじは、人生に見切りをつけた男がなぜか美女と逃避行することになる、という作品だ。まぁ、ありきたりです。
『雪女と蟹を食う』というタイトルだが、これはいいよなぁ。まったく意味がわからないが、雪女は美しいだろうし、かといって本来は一緒にいるべき対象じゃないだろうし、ホクホクの蟹を雪女が食べるのか? という疑問も湧く一方で、蟹を食べるのだからコミュニケーションは最小限で済むという安心感も演出できる。
よっぽど展開にひねりを加えないと、あまり長続きしそうにもないし、なんならいつ終わってもおかしくない作品なのだが、というか、まぁ長編にするつもりはないだろうと思ってはいるが、おもしろく読んでいる。このタイトル、いいよなぁ。ふわふわとした関係、時間という夢物語のなかで、少しずつ問題があきらかにされていく展開もいいが、どう着地するのだろうね。しかし、タイトルがいいよなぁ。
『天冥の標』を読み終えたのでメモを掲載しようとしているのだが、いかんせん長大な作品なので、どうしたものかと思っている。手ごわい。長編作品の読書でありがちな問題が登場人物の数と相関関係の複雑化。ただこの作品について言えば人名であまり困ることはなかった。とはいえ、やはり長い作品なのでところどころで誰だかわからなくなったりもする。ずいぶん過去のエピソードで登場した人物が再登場するときなどが一番厄介だよね。
何巻にもおよぶ作品、特にロシアやフランスの古典作品には、登場人物が多い。よく言われるが、正式名称、愛称、名字呼びなどのバリエーションがある場合もあって、苦痛になりかねない。目次の前後に人名録があったり、しおりがガイドになっていることもある。確認して読む小まめさがあれば幸いだが、あいにく私は持ちあわせておらぬ。ガイドの網羅性の問題もあって、重要そうな立ち回りの人物が掲載されていなかったときは泣いた。
というわけで私はもう随分と前から、人名を覚えるのを諦めている。文脈で思い出すか、思い出せなければ所詮はその程度の存在だったのだということにして読み進める。さすがに支障を感じたときに限っては振り返ることとしている。
TwitterのWebクライアントが新UIに移行した。もう半年以上も前から変わっていたひとも居るように思うが(実態は不明)、私は最後の適用時に反映された。というわけで、ブックマーク機能の話だ。
そもそもいいね機能とはなんだったか
いいねは、ツイートに反応する機能だ。いいねはツイートごとに計上される。衆目を集めたツイートにはいいねが集まるという仕組みとなる。ツイートにいいねが集まるほど、個別のいいねは埋没していく。ただ、それはそれでよかったハズだった。「わたしのいいねを大切にしてください」という主張があったら、いささか奇妙だ。
いいねはツイートに対しての最小限の反応であった。リプライする必要もない。気になったのでメモという用途で使っている方もいた。小さな反応だった。
ところで、あるツイートに対していいねしたアカウントは、ツイートを確認すれば見られる。また、あるアカウントのいいねは、アカウントのホームから覗ける。そのワンアクションが垣根として用意されていたのが、この間までのTwitterだった。
そこから、いいねのタイムライン放流がはじまる。
どのタイミングか忘れたが、昨年の春夏くらいか。他人のいいねがタイムラインに流れるようになった。好評も不評も目にしたが、どちらかといえば戸惑いの声のほうが大きい。個人的には、他人のいいねを見たくもないが、他人にいいねを見せたくない気持ちのほうが強い。
ブックマーク機能を使いこなせるか
ブックマーク機能は完全プライベートなクリップ用の機能だ。登場当初はスマホアプリからしかアクセスできなかったので私は使わなかったが、この度はブラウザー経由からでも使えるようになった。そして、使うようになった。
単純にいえば機能増なのだが、これは用途にしたがって機能が分類されたということだ。どんどん抛りこんで定期的に読み返すとか、とにかく抛りこんでおけばええやろとか、使い方はたくさんあると思うが、どれが個人的に正しいのだろうかはまだよく分かってはいない。とりあえず、人に晒したくないいいねを保存してみてはいるが、それはそれでどうなのだという気もする。
以前だったら迷わずPocket送りにしていたのだが、新しいWebクライアントが微妙にPocketとの連携でよくわからないときがある。とりあえず、今日のメモはそれだけです。
吉田秋生の『海街diary』は話題になりはじめた2巻の発売くらいから完結まで追った。完結は昨年、 2018年の夏だった。思ったより時間が経っていない。何度となくたまに読み返していたが、基本的におもしろいことに変わりはないないものの、こちらのメンタルの状況によって重さが変化する。爽やかなようでいて、それなりに重たい。そういう配分がされている。この記事では、そういう話をする。
話の主軸としては、主人公:浅野すずが2年生から中学卒業までの2年間を父を同じくする鎌倉の香田3姉妹(幸、佳乃、千佳)と暮らしを重ねていく生活にあって、4姉妹の恋や愛を中心に彼らの築く人間模様が描かれる。
まっとうな人たちがまとまっていく
本作は、ひとことでは「まともな人たちがあるべき場所に収まっていく」作品で、少し回りくどく意地悪くいうと「まともな人間というものは存在しないかもしれないが、バランスの取れたコミュニティというものはあり、登場人物たちのコミュニティからバッドステータスな人間関係をパージしていく」作品だ。読んだことがある人からすれば身も蓋もない味気もない説明で、おもしろ味もない説明だ。
4姉妹の父、香田3姉妹の母、すずの母、すずの継母、いずれも心のタガが外れてしまっている人物たちである。作品の冒頭、父を失ったすずは継母に引きずられていた。3姉妹に引き取られることで、まずは主人公がそこから救済される。
長女の幸と次女の佳乃については、ここでは細かい説明をを省くが、序盤では抉れた人間関係に晒されている。次女は物語の序盤ほどで、長女は中盤ほどで困った人間関係から解放されていき、それぞれの新しい人間関係(ここでも恋や愛のこと)が終盤までに形成され、結実していく。
三女である千佳は、4姉妹のなかでは特異で、記憶のなかで美化された両親との歪な関係を除いて、始めから終わりまで真っ当だ。こういう配役になっている。と、まぁ、主に長女と次女にいくつかの踏み外しがあったものの、4姉妹は基本的には真っ当で強い。
本作の魅力は何か。主人公すずが中学を卒業するまでに人間的に成長する話かといえば、そうとも言い切れない。たしかに成長はするが、すずはどちらかといえば作中では強い人物で、弱点を強調するほうが難しく、彼女の成長物語として断じれるものではない。
それぞれが少しずつ成長する
では何なのかということをストーリーから順に説明することも避けたい。冒頭の説明の抽象的な言い換えだが、成長とは対話であり、相互理解であり、愛なのであると、てきとうなことを述べておけば容易い。
本作、鎌倉市に暮らす主人公たちのコミュニティ、中学校やサッカークラブ、病院、信用金庫、スポーツショップ、酒屋、食堂、喫茶店などを通して4姉妹を含めて描かれる登場人物たちが各々、少しずつ成長する。もちろん子供たちの成長もあれば、大人の至らない点の反省も数え切れないくらい含んでいる。コミュニケーションによって彼らの関係が少しずつ上向いていく。緊張が解きほぐされていく。予定調和的に、あるべき場所に、整っていく。こういう心地よさがある。
対話できない者どもをどうする
本作、上記に書いた心地よさがあり、ふつうにおもしろい。だが、最終9巻に収録された番外編「通り雨のあとに」を読まされたときの読後感の悪さが、物語の周縁から捨て去られた人たちを思い出させる。トラウマものである。番外編は、すずが東北の田舎に置いてきた義理の弟、和樹を扱っている。和樹は救済されていない。
あるべき人間関係、コミュニティの姿が認められるとして、それが成り立っていく様を見ているのは心地よい。諦められた人たちは、うまく退場させられていく。仕方がないことである。本編では、歪な関係を象徴する人たちは切り離されていく。
たとえば二ノ宮幸子は、事故のように、人質のように、不幸を回収しきれずに退場していった。だが、彼女の退場も新たな紐帯によって昇華された。彼女の死はあっけなく、はかなく、だからこそ美しいだろうか。
そして繰り返すが、和樹のコミュニティはバッドステータスのままである。少なくとも番外編で扱うには不十分で「どうしてこんなものを読ませた?」となった……。
まとめのような後味をつける
ちょうど『海街diary』を読み返した私が本文をつらつらと書いている折に、月刊フラワーズの2019年09月号から『詩歌川百景』が連載開始されたということを聞いた。その関連から、自分が『海街diary』を読み返すことになったような気もする。『詩歌川百景』だが、前述の番外編「通り雨のあとに」がそのまま舞台の物語のようだ。
その内容や進行、結果についてはわからないが、同じように人間関係の再生のようなものが描かれるのであれば、それが吉田秋生のテーマだということだろう。弱い人間の弱さの本質や、弱い人間の見せる強さ、あるいは弱い人間たちのあるべきコミュニティのようなものが描かれたら一層のこと美しい作品になるのではないかと夢想するのみである。
上記まで書いた内容をまとめている最中に思ったが、本作は割と女性向けのマンガの枠組みとしてはオーソドックスだったんだな。これと強く連想できる作品が思いつくわけではないので具体的な作品名は挙げないが、早い話「家族を作り直す」系の話の地域コミュニティ版だよね。もちろん、それをこのスケールで作話できるのは完全に作家の能力に拠るところだろう。
あるいはスムーズに話が進む版の『渡る世間は鬼ばかり』ではなかろうか、などとも思った。
タイトルに深い意味は無くて、NHKの「100分 de 名著」で小松左京が取り上げられていたらしいことに終了後に気がついたという話だ。そもそも「100分 de 名著」シリーズにはいっさい目を向けたことがなかったが、小松左京が扱われたのであれば話は別だ。どうして気がつかなかったのか。センサーの感度が落ちている。
扱われた作品は『地には平和を』『日本沈没』『ゴルディアスの結び目』『虚無回廊』の4作品らしい。ふーん、ほどほどじゃん。
SF作家としてのキャリアのスタートと終わりの2冊をきっちり入れてきている。この2作品を押さえるとして、残りは「日本沈没」と「ゴルディアス」だが、ベストセラー作品である前者を外すというのも考えづらい。「ゴルディアス」に変えて『果てしなき流れの果てに』はアリかもしれないが、「虚無回廊」とのバランスを考えると「ゴルディアス」に軍配が上がるか。さよなら、ジュピター……。
そうでなければ「女」シリーズや怪談物などが欲しかったかもしれない。だが、これらは短編なので番組の都合としては扱いづらかったんだろう。だとすれば、選書は、まぁこんなものか。
扱いに困っただろうは「ゴルディアス」だろうなぁ。どういう構成で乗り切ったのか。もちろん他の放送回も気になる。アーカイブスで扱っているだろうから後追い視聴はできる。各回を補ってみるのも面白そうだが、気が向いたらやるだろうか。
Bluetooth イヤフォンを使いはじめてからどれくらい経ったでしょう。はじめて買ったのは、SONY製の「MDR-EX BN」シリーズ(おそらくこれで同定できる)で、これは2世代くらい使った。これは個人的に名シリーズで、ノイズキャンセリング(NC)機能も良く働く。なによりSONYらしいコストパフォーマンスもある。オススメしたい商品だ。
ところで、ときどき外出時にイヤフォンを使わなくなる季節があり、そういうときは必要なくなる。あるいは、手持ちの安い有線のイヤフォンで済ましてしまうときもあったりする。
で、MDR-EX BNシリーズの欠点といえば、本体をどこかにクリップする必要があることで、シャツを着ているときはいいのだが、Tシャツだと装着が難しく、コードを伸ばしてパンツに装着するかとなるとめんどくさい。それで利用が億劫になることがあった。しだいに使わなくなっていくのである。
3年程前、ひさびさにBluetoothイヤフォンを使いたくなり、上記の問題を解決するための商品を探した。2016年くらいなので完全独立型イヤフォンの供給や性能も安定してきたようだったが、まだ何となく躊躇っていた。そこで目を付けたのがSONY製の「MDR-XB BT」シリーズで、いわゆる首かけ型のスポーツタイプだ。先の問題を解消できる。
で、これをしばらく使っていたのだが、気になる点がいくつかあった。1つは音のこもりが割と大きい。購入した製品がたまたまそのような状態だったのか、再生デバイスとの相性が悪いのか、同商品の特性として受け入れるしかないのか分からなかったが、どうにも慣れない。また、意外とかさばり、少なくともサクッとポケットに入れられる感じではない(コンセプト上、首からぶらさげていればいいので)。首から下げ続けるのも割とうっとうしいし、ベストなフィットポジションもよく分からない。というわけで、これも次第に使わなくなった。
ここまでが前話で、最近ひさびさにイヤフォン生活をしたくなった。一昨年か前に発売されたBOSE製のNC機能付き完全独立型イヤフォンがかなりの完成度をもっているように見え、なるほどそろそろ完全独立型もありかなとは思っていた。ただし、私はBOSEがなんとなく苦手だ。
また、さんざんSONYの話をしてきたが、イヤフォンの話だけで考えるとSENNHEISERが1番の好みだったりする。しからば、MOMENTUM Wireless もかなり検討したが、ヘッドフォンサイズの機器を持ち歩くほどの音楽好きでもない自覚があった。そんな折、 昨年の秋冬くらいだったろうか、MOMENTUMシリーズから完全独立型イヤフォンの発売が告知され、言うまでもなく待つことになった。
発売後の結論として、MOMENTUM True Wirelessは購入していない。非常に高価な商品ということもあるが、どうにもスペック面で見劣りする点が大きい。音質には間違いはなさそうだが、次世代機での進化待ちという感じだ。iPhoneユーザーではないが、Powerbeats Proも考えた。このあいだ発表されたSONYのWF-1000XM3もおそらく良い商品だろう。さんざん迷っていたが、この間ふと読んだブログの記事で、NUARL NT01AX を知り、少し悩んだが購入した。
こいつは便利だ。手放せないな。NC機能はついてないが、私にとってのNC機能の要は電車移動時の雑音であって、幸いゴツゴツの満員電車に乗る機会が減ったいまの生活においては、NC機能の優先度は下がっているのであった。
上述の読んだブログの記事というのは、こちら。参考になりました。ありがとうございました。