劉慈欣の『三体』を読んだ。読んでからしばらく経ったが、どういう感想を残すか、困っていた。
作品は、おもしろかった。おもしろかったには、おもしろかったが、おもしろさ故のアレだが、兎にも角にも、おもしろさはあった。読み切るまで 三部作の第一作であることを失念しており、読了の満足とともに置いてゆかれた期待が寂しさをも呼び出した。
本作を SF 作品たらしめる面白さのポイントは並行的に何箇所かあり、それぞれの強度にかなり差があるように思え、そこに若干の違和感を感じないではない。ただ、これは好みの問題だったり、SFというジャンルそのものの問題だったりするので、なんともかんとも。
本作のおもしろさ
まず 1 つ目のおもしろさは、ポリティカルな話であることはないか。興味が無けりゃおもしろくもないだろうと言えばそこまでだが、文化大革命が扱われている。第 1 の主人公、葉文潔は革命に翻弄され、人生が狂った。読んでみれば分かるが、とても文化大革命が肯定的に扱われているとは言えず、思いっきり否定的に読める。本国の事情は詳しくないが、ここまで書けるものなのかと感心してしまう。
その裏で、政府は極秘の天文学的な実験を遂行していた。ここが本作を含んだシリーズの機転であり、おもしろいところの 2 つ目だ。世情と離れた田舎の天文台で、実験は繰り返されていた。葉文潔はこの実験に参加するとともに、この革命に対する復讐を達成するための希望をも見い出す。
3 つ目。本作の肝とも言える。三体星人の侵略行為のおもしろさだ。これには、彼ら三体星人史を VR ゲーム機で人類に追体験させることに秘密がある。規則性なく生存不可期間が訪れる三体世界は、あまりにも過酷といえる環境を経て進化した。その文明は地球人類よりも進んでいる。
だが、である。彼らはより安定した生存世界を望んでいる。説明するまでもなく、地球こそが理想郷だ。地球を発見した時点では彼らにとって取るに足らないレベルの地球人類であるが、侵略のスケジュールを組んでみると安穏ともしていられないということが分かる。おもしろい。
地球人の洗脳、文明の進歩の遅延行為、これらを VR 三体世界を体験させながら行う。すごくスリリングだ。ただし、三部作の 1 作目ということなので、最後は打ち切りエンドのような勢いのよさで締めくくられる。「俺たち人類は負けない」といった感じだ。第 2 の主人公である汪淼は、まぁ活躍らしい活躍もないような感じで、次回作に期待したい(登場するのかもわからん)。
本作の受け取り方
この感想を残すにあたって困ったのは「現代中国で描かれた作品であるということ」を個人的にどう受容していいのか分からない点だ。作家と作品、社会とは別物であり、その峻別については厳密であるべきだが、であるからこそ、この作品をどのように楽しんでいいのか、あるいは単純に楽しかったと言っていいのか、勝手に悩んでいる。
大森望のあとがきによると、作者の劉慈欣は中国の文学文化的な事業の面でそこそこに重要なポジションに就いているようだし、中国国家としても SF というジャンルを大きく育てたいみたいなところもあるようだ(インタビューを読むと劉慈欣としては「市場が小さすぎて話にならない」ということも言っているようだが)。
とまぁ、そういう背景を踏まえて、劉慈欣が現行の中国をどのように見ているのかがよく分からない。たとえば、本作で描かれる過酷な三体世界の描写は、序盤で描かれる文化大革命の最も苛烈な時期のパラフレーズとしても機能しているわけだが、現行に於いてこの中国の苛烈さは、香港でのデモ騒動、ウイグルへの弾圧や洗脳へと移行し、大きく表面化している。あるいは、NBA のスポンサーとして国家体制への批判を抑圧するなど、国力の増大とともに内外への圧力を増し続けている最中だ。
劉慈欣本人が、これらの事態をどのように捉えているか。あるいは内側から何かを変えようとしているのか。彼の心は計りようもないが、少なくともポリティカルな内容を直接に扱う作家として、中国国内でそれなりに地位を築きつつある作家として、現状の世界、中国に対しての態度を伝えてほしい。少なくとも『三体』では分からなかった。そのような作品であるからこそ中国内での発表が可能という面もあるだろう。だが、そういう作品の力ってなんなんだろうか。本作は絶妙に奇妙なバランスのうえに立っている。作品は間違いなくおもしろかったが、そういう心残りがある。
追記:以下がその後に記した「三体Ⅱ」「三体Ⅲ」の感想となる。
最近になって Amazon Prime で解禁されたと知って同サービスで鑑賞した。3 時間越えの長編作品で、主演がロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープの映画初出演作といった点が今に通じるところか。長くて要領を得ない映画のようにも思えるが、味わいが深い。
Amazon の評をみていると戦争に焦点をあてたレビューが多いが、適当には思われない。本作の最大の問題点は、ニックの葛藤のしょうもなさにある。それが、ベトナム戦争、ロシアンルーレット、鹿狩りなどに分けて表現されている。脚本に突飛なところがあるようにも見えるが、ニックの無様さに焦点をあてれば、そこはどうでもいい程度かなぁ。
背景事情は知らぬがマイクとニックは同居しており、マイクはニックに対して重く信頼を置いている。これがまず大前提である。マイクは仲良しグループのなかにあっても、鹿狩りに彼らと一緒に出掛けるのはニックが居るからこそだと彼に直接、伝えている。ニックはグループのバランサーだ。
同時に、ニックとスティーブンの関係を見たおきたい。スティーブンとアンジェラの結婚パーティーで、この 2 人は、始めから終わりまで踊りつづけている。年齢が近いからだろうか、2人の仲がよいことが分かる。そしてこれは、スティーブンが重大な秘密を、ニックに明かしたことからも察せられる。
さて、ベトナム戦争従軍後、半身不随となったスティーブンに対し、現地に残ったニックから多額の送金が行われる。スティーブンは送金主がニックであることに気が付かなかったようだが、マイクは即座に事態に気がつく。スティーブンの相談した重大な秘密の根源にいたのは、ニックに他ならないことが、あからさまではないが、確実に鑑賞者に知らされるのである。
正面からは明かされないこの秘密の答えが、いかにも本作の味を出しているのはツラい。彼らの日常であった友情も、ニックの帰りを待ちつづけるリンダの心情も、あまりに頼りなくて儚いものになってしまうからだ。
ニックの秘密を知るのが、アンジェラ、マイク、スタンリーだけだとしたらこれもまた絶妙なところで、スティーブンは最後まで知らなかったのだろうか。リンダもである。まるで道化ではないか。
ニックを連れ戻そうとしたマイクの心情はどうだ。それは他の誰のためでもなく、あくまでマイクの本心であった。それは友情だったし、愛情でもあったが、その真髄はまた客観的に鑑賞したところで理解も納得も、共感もしづらい。いっそのこと真心とでもいったほうがグッとくる。ニックを許しうるのはマイクのみなのだ。
そういう意味でみてみると、本作というのはとてもプライバシーな映画なんだなぁと思う。とても打ち解けた仲間同士ではあるが、個々の心情の深いところは共有されない。それでも彼らは仲間なのであった。
10月かに《Once Upon a Time in the West》(1968)を観た。《ウェスタン》と呼ばれることも多いらしい本作、新宿ピカデリーで上映していた。《Once Upon a Time in the Hollywood》の関連もあるだろう。以下の引用の通りらしい。
初公開から50年、そしてレオーネ生誕90年・没後30年を迎える今年2019年には、かねてよりセルジオ・レオーネ作品への愛と敬意を公言するクエンティン・タランティーノ監督が、本作のタイトルを引用した最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を発表する。ぜひ、あわせてご覧いただきたい。
https://theriver.jp/once-upon-west-release/
西部劇の古典的名作ということで、何の前知識も下調べもなしに見にいった。座席に座っているひとの数はまばらだが少なくはなく、映画好きそうな方たちが多い。ところどころカップルがおり、これまた数奇なカップルらだなと敬いたい気持ちになった。
監督のセルジオ・レオーネの他に原案には、ダリオ・アルジェント、ベルナルド・ベルトルッチが参加とのことで、非常に豪華だ。実はセルジオ・レオーネの作品を観るのもはじめてだったのだが、本作の藝術映画っぽさは、ベルトルッチの要素が強いらしい。また、当時にしても長尺の映画だということで、各地では短縮版(2時間45分)が上映されることが常だったそう。今回はオリジナル版(2時間55分)だったが私は初見なので、どこがどう編集されていたのかは当然わからん。
長くはあったけど退屈はほとんどなく、実にエキサイティングな体験だった。冒頭、誰も寄り付かないような荒野にポツンと立つ駅舎、線路のカットが映るまで駅舎とも気づかれないようなボロ屋にガンマンが3名、よくわからんが列車の到着を待つ。強盗かと思いきや待ち人があったようで、彼らの見当違いだったのか去ろうとする。というところで、実は下車していたハーモニカとの決闘。まずは3名が亡くなる。
駅に併設されていた風車、貯水タンク、木の床の下は貯水槽かわからんが、どれも妙にかっこいい。ハットに水を溜めて飲む黒人ガンマンもよければ、蝿を払うのに意地でも手を使わないバカもかわいい。ここまでで分からないのは、彼らがハーモニカを待っていた理由で、この謎の回収には少し時間がかかる。
場面は一転、荒野に暮らす家庭がホームパーティの準備を進めている。父は金持ちになるぞ! と気合十分だが、それも束の間、ならず者らに襲われて一家は全滅する。彼らが去り際に「フランク」の名前を出すことで何らかの関係が示唆されるが、まだよく分からない。モブっぽいなと思われた父、マクベインは割と重要な役なのかな? と思いはじめた途端に亡くなるので、気が置けない。
マクベインの婚約者、ジルが荒野に降り立つシーンに移る。迎えが来ないことは私たち観客には分かっているが、彼女は事情を知らない。彼女の不安とともに開拓町の活気が描写され、馬車をチャーターした彼女の移動とともにアリゾナ州の大自然が描かれる。いい、これを映画館のスクリーンで味わえたのは最高だった。
途中の馬宿でシャイアン登場。名前だけ登場したフランクをあわせて、本作の主要人物が全員揃った。ハーモニカによる演奏が単なる演奏ではなくて、劇中のメタ的な要素を兼ねていることもハッキリする。哀愁漂う美しい音色に不気味さが加わる。馬宿の一悶着が終わる時点で、フランク一味がシャイアン一味を嵌めようとしたことまでは分かる。フランクの目的とハーモニカの目的は不明のままとなる。
徐々にマクベイン夫人(未亡人)となったジルの美しさと狙いも明らかになってくる。元々クローズアップが多用される作品だが、マクベイン家のベッドに仰向け大の字で横たわるジルのクローズアップを天幕の刺繍のパターン越しに映したカットは印象深い。また、彼女専用の劇伴があるのもおもしろい。
続いて、ハーモニカが洗濯屋のおっさんを尋問するシーン、冒頭の疑問を解決する。ハーモニカは洗濯屋のおっさんを通してフランクを呼び出す算段だったようだ。本作での暴力的なシーンはここがピークで、ネクタイを引っ張られ、壁や床に叩きつけられ、おっさんはボッコボコにされる。
このへんで何度か映されることになるハーモニカの回想シーンが入る。ぼんやりと男が歩んでくる画が浮かぶが、もちろん、ハーモニカがフランクを追っている理由を指し示す図である。1番思い浮かべやすいのが復讐劇で、親父か兄弟でもやられたのかな、くらいの想像が働く。
長くなったので、巻く。
ここまでで気になる謎は 2 つあり、「ハーモニカとフランクの関係」「マクベインが狙われた理由」となる。オチとしては、マクベインの所有していた未開拓地が鉄道敷設用の財産になるというのひとつ、ハーモニカはフランクに復讐を果たしに来たというのがひとつだ。
フランクを雇うモートンという鉄道敷設事業者は、ビジネスマンであるという人間性、鉄道や文明の象徴とし現れる。対して、ハーモニカもフランクも荒野の男たちである。そういったなかで各人物の目的や生きざま、復讐と正義、ガンマンとしての筋、男と女などなどの調和や不調和があれこれと作用していて最後まで目が離せない。最高であった。
余談だが、劇場にいたカップルのうち少なくとも 2 組は、《Once Upon a Time in the Hollywood》と間違って入っていたようで、片方は途中で退出し、もう片方は最後まで観ていたが終了後にお互いに笑っていた。
『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を読んでいた。タイトルが長い。書籍は達人出版会で販売されており、epub 、 PDF で配信される。最初は PDF を Acrobat Reader で読んだが、Google Play ブックスに epub を突っ込んだら割とすんなりと読めることに気がつき、8 月末からツラツラと読んでいた。2 か月半くらい読んでいた計算になる。以下が商品ページになる(URL の命名規則がよくわからん。追記:「情報共有の未来」の続刊という意味か)。
この本のことを知った時期も、経路もよく覚えていない。著者である yomoyomo さんのブログ、YAMDAS現更新履歴 も RSS リーダーに突っ込んではいるがそこまで熱心に読んでいるワケでもない。もう少し言うと、以前から買って読もうかなと何度となく意識していたが、買えていなかった。うろ覚えだが、PayPal 決済が障害になっていたような気がする。ところが、今回はすんなりと購入できたのだった。というか、決済方法にクレジットカードがあるなぁ。それで買えたんだっけ。何も覚えていない。
最初に読んだ解説によれば、本書は「2013年から2016年までのインターネットを巡る思想史の変遷」だという。なるほど、おもしろそうだな。一方で、解説に登場する人物の名前が半分以上わからない。なるほど、不安になるな。結果として、これはどちらも半分ずつ的中という感じで、話題の大半は興味深くておもしろいものの、登場人物や背景についての知識が十分でない場合は、話題をフォローするのが精いっぱいという章も多い。補足するまでもないが、私の知識量などに基づいた話だ。技術的な話題から政治や経済など、扱われている内容は多岐にわたる。
さらに言うと、2013 年から 2016 年という長いようで短い期間であって、短いながらも、その期間にはたくさんの思惑や事件がワーッと起こっている。そのリアルタイムのできごとを扱った記事の集合なワケで、1冊の本の全体像としてまとまっているとも言いがたいところはある(繰り返すが連載記事のまとめだからそりゃね)。個人的な要約としては「CNET や TechCrunch の日本版でたまに掲載される関連記事を追うくらいじゃ足りない、ワールドワイドなインターネットの近況や背景事情、思想の近況を教えてくれる」のが本書かな。
ところで、全部で 50 章にまとめられた本書において、日本国内が中心となる話題といえば、第2章「生成的な場、ユーザ参加型研究がもたらす多様性、そして巨人の肩」、第7章「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」、25章「空がまた暗くなる──鬱と惑いと老害のはざまで」、第33章「思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ」、第35章「ラストスタンド」などであった。漏らしがあるかもしれない。
なぜいきなりドメスティックな点を挙げたかというと、日本におけるインターネット思想とは何じゃろな? と思ったからだ。たとえば、第2章はニコニコ動画から派生したニコニコ学会 β の話題であり、第33章は川上量生の『鈴木さんにも分かるネットの未来』が取り上げられている。同章では、アーキテクチャの話題に敷衍して濱野智史『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか』が紹介されているが、この本だって初出は 2008 年だ(古いから悪いというエクスキューズではない)。第33章では、2015 年に刊行された角川インターネット講座に関連した話題が扱われており、そういえばそんなシリーズもあったなと思い出に浸っていたが、Amazon で確認したら、Kindle 版がセールされているときに買っており、そのまま、まったく目を通していないことに気がついた。
濱野智史 は AKB 関連の新書を出して以来、一般書の舞台には降りてこないから何をやっているのか知らないが、川上量生は実業家と呼ぶのがふさわしいだろうけど、なんかよく分からんことになっている。本書には津田大介もところどころで扱われているが、こちらの方も何かと泥沼だ。なんだ日本のインターネット文化なんて、文化らしい文化が無くなっているんじゃないのという気もしてくる。日本のインターネット文化をけん引するような存在や真面目に思索する方面、そういったムーブメントはあるのか? 今、どこにあるのかしら。
そこまで踏まえて本書を振り返ると、日本に限らず「インターネット文化」なるものは少なくとも従前のイメージから逸脱しつづけていて、それがタイトルともなっている第48章の「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」に繋がってくる、のか? ともなる。それがより具体的にはどういう力学によって齎されているかは本書を読んだら実感されるところであって、私には要約できない。
個人的には、どちらかというとユーザー寄りの立場に近い「第50章 ネットにしか居場所がないということ」が印象に強い(最後にあるのも理由なのだが)。Wikipedia 編集者の愛憎が入り交じったエピソードについての記事だが、どのプラットフォームにおいても所属する参加者たちは、それなりに自分に意味を見出しているわけだ。それを承認欲求の一言で片付けたいとは個人的には思わないのだが、何とも言いがたいよね。同じような事例やそこから発展した事件などは日本国内でもいくらでも起きているわけで、殊更インターネットに限った話とも言いづらいが、インターネットが可能にするコミュニケーションとそこから起こりうる齟齬の大きさの見積もりの難しさというのは、なかなか越えがたい障害なのだなぁ、など。こういったミクロな視点と本書全体がフォローしようとしたマクロな問題群は通底しているのだろうか。考えてみたい(考えないパターンだよこれ)。
ところで、本書で紹介されている重要な書籍の邦訳版など、どうして胡散臭い感じのタイトルや装丁になることが多いんだろうなと思うと、まぁいろいろとツラいよな。
ある本を読み終えたので感想を書いてたら〆の文章が消えてしまって、下書きを放置することにした。このようなケースでは似たような文章を焼き直すか、開き直って今ある部分までで公開するか、などの対処をしてきたが、放っておいて書き直すのが一番だ。そもそも書きたてほやほやだったし。
前回の記事で《天気の子》の感想をあげたら、同作にまつわる話題がチラホラと目につく。なんちゃら効果というやつだろうか。そのなかで、坂上秋成さんがの現代ビジネスに掲載された 8 月の記事をこき下ろしているツイートを見た。言及先の記事は目にした記憶がなく、パラパラと読んだが、まぁ興味はない。リンクも張らない。
社会反映論と言われるような批評は、東浩紀主宰のゼロアカ道場で非常に流行っていたように思う。それが作品や社会に対して、なんらかのポジティブな視点を与えるのならいいのだが、そうでない場合は話にならない。それにしても遠回りでややこしい方法なんだよな。何も言っていないに等しい場合が非常に多い。
そうでない場合は話にならないとは言ったが、これは非常に難しいところで、ネガティブな批評というのは、問題提起や一周回ったところにある希望などを見出さなければならないはずだが、それが単純に褒めるより難しいということも当たり前に分かることではないか。だというのに、有象無象の文章が多いのはなぜか。作品の欠点や難点(に見えるところ)をあげるという行為は必要であるが、それはそこで思考停止するためのものではなく、作品理解への橋頭保であるべきだ。
まぁいいか。
そろそろ TOHO の劇場ですら上映は終了するのではないだろうかという気がしており、いい加減に《天気の子》の感想を書き残そうと思い立つ。鑑賞した直後の勢いにまかせた感想もいいが、時間が経っても残されている記憶と印象で書く感想にもよさはあるはずだ。
カオスの東京、汚い大人たち。
これは最初から感じていたことだが、東京は汚い。これを美麗なアニメーションで美しく再現したことに、おもしろ味がある。狭い道路を行き交う車、うるさい踏切、いつ倒れてもおかしくなさそうな古ぼけたビル、寝泊りできるマンガ喫茶の薄暗い個室、風俗の宣伝広告車、歌舞伎町などの歓楽街と裏通り、ホテル、汚い東京をとことん描く。インタビューや記事にも明言されていたが、これは今までとは少し視線が違う。《君の名は。》で三葉にとってキラキラと光っていた東京ではなく、あくまで、その裏側だ。
汚さは嫌悪の対象のみであるかというと、そうでもないだろう。家出した帆高が都会を目指したこと自体がそうであるが、なんでも飲み込みかねないカオスというのは、ある意味で救いだし、実際にこの汚さのなかで帆高は生活を構築しはじめる。まともな家庭の崩壊した陽菜が生き抜こうとしたのも、この汚さを生み出すカオスに頼ってのことだ。
そういう現実、あるいは夢を見せることができるのが東京であって、本作についていえば、強く汚さ、古さがエネルギーを持っている。その魅力とは、なかなか自覚しづらいところがあるように思うがどうだろうか。あるいは汚さのなかに身を置いたとき、汚さを客観的に見ることは非常に難しいのではないか。汚さに身をゆだねる楽しさもあるのではないか。
汚さといえば大人であって、本作の大人というのは、アテにならない。青春やジュブナイル作品などにおいて、アテにならない大人というのは珍しくもないが、チンピラおよび警察官、いわば社会の暴力の陰と陽にたつ人間らがどちらもクソなのが本作で、これは「大人ではない、子供のままでもいられない」という帆高と陽菜らの立場の不安定さをも表しているのではないか。事実、序盤の彼らは陰の暴力の世界に引っ張られつつあった。
何方にも与しない須賀圭介の助力、帆高の機転と陽菜の天恵によって、仮初ながらも安定した生活のバランスを取り戻しつつあったが、今度は陽の暴力がそれを許さない。曰く、家出少年、拳銃の所持。曰く、年齢詐称、未成年者保護などである。もちろん、警察はよいことをしている前提に立って少年らを社会のレールに嵌めこもうとするワケだが、そんなものは望んではいないのである。
天災、リセットされる東京。
人間の事情に構いなく、気まぐれに状況を操作するのが天である、というような発想は古今東西、新旧に関わらずオーソドックスだが、本作は陽菜自身が天の采配となってしまうのがキモであって、彼女の器としての限界は、少年らの抵抗のピークに一致してしまう。かくて天気の子は、彼らを取り巻く環境、葛藤をことごとく洗い流すのであった。
考証記事をいくつか見たが、山手線の東側ほぼ半分は沈んだらしい。上野、東京、品川はなく、千代田区は半壊模様か。新宿駅はほぼ無事らしいが、渋谷駅近辺のエリアは水浸の影響を大きく受けるだろうように思える。都外に目を伸ばすと、神奈川の川崎、横浜はおろか、埼玉は大宮方面まで水没しかねず、千葉は利根川水系がヤバかろう。
東京という、とても狭い世界ではあるが、このカオスの世界をリセットしたことはいかにも爽快ではないか。本当にそうか? 不意とはいえ、東京の半分を洗い流してしまうという愚行、快挙、エネルギーをどう受け止める。彼らのかかえる問題の解決に大人は役に立たなかった。その帰結がこの状況だと思えば、しとしとと降り続ける長雨というのは、何なんだろうな。
少年に負い目がある男。
少年らでもなく、大人でもない、本作で新海監督の立場に近いらしい人物、須賀圭介であるが、こいつぁ実は主役なんじゃないかという疑いが強い。 須賀の行動や願いを媒介しないと物語がうまく進展しないことを思うと、《天空の城ラピュタ》のドーラやムスカの背負った役割に近いとも言える。 彼に焦点をあてた感想をひとつも読めておらず、やや不思議だ。
というのも、陽菜を犠牲にすることで大雨で沈まず済んだ東京を象徴しているのが須賀圭介にほかならず、逆に同時に、これは少年を捨てようとした須賀自身の未練が狭間にあり、そして最終的には少年の希望を許す、まだ選択肢のある帆高に託すことで、彼自身のあきらめが擬似的に克服される。
須賀のあきらめというのも絶妙なところで、それは別に若かった頃の夢などではなく、亡妻および離れ離れになった娘と過ごせるはずだった当たり前の生活を失ったという、取り戻しようのなく自力で解決のしようのない悔恨を抱き続けた点にある。
1人の命で大勢の日常が救えるのなら、といった大人びた欺瞞を盾にしたまま酩酊し、目が覚めたら半地下の自宅から覗ける窓には雨水が押し寄せている。失った家族の思い出が詰まったままになっているリビングの非現実感と、一夜の大雨によってできた水溜まりの非現実感は、不用意に窓が解き放たれたことによって一体となって、結末で東京が水没する前に、まずは彼の思い出の空間が水没することになった。この構図は如何にも見事で、本作のピークはここにあるとも思っている。小栗旬の演技がなによりいい。この感想を残したかった。
補遺
不意にラピュタを持ちだした比較をしてしまったのが悔しい。個人的に、ラピュタにはパズーの意志というのはほとんど無いと思っており、そこが苦手なポイントなのだが、翻って本作はどうか。陽菜の決意に帆高はどれくらい影響を与えたか。失われた楽園、あるいは楽園を失うことの決意という局面で、帆高とパズーが果たした役割にどれくらい印象の違いがあるかなど、おもしろいのではないか。
とりあえず、後で読もうと思って溜め込んでいて、今回読んだインタビューやブロガーの感想などのうち参考になったものを以下にまとめておいた。新聞社などの有料記事は省いている。順不同です。
「疑似家族」というキーワードが《万引き家族》への言及とともに紹介されている。あぁそう言われればそうだねという。
上のインタビューの後編。上映直後にセカイ系で賑わった反応あたりへの言及は一応押さえておきたい。個人的には興味はない。以下は引用。
コアなファンに向けて美少女ゲーム的な文脈をどうつくるかとか、そういうことは全く考えていないです。結果的にそういう文脈でも楽しめるものになったのなら嬉しい
僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。
感想では触れなかったが、気になる視点ではある。銃の所持については結論めいたところを書いてほしかった。
上記と似た視点だが、こちらは逃走にのみ注目している。おもしろい。
この記事はよくできていると感じていて、いろいろと気になる点をまとめてくれている。 この記事では須賀に焦点をあてた内容も多い。参考になる。
過去の作品を通した監督評としてまとまっている。
ちゃんとしたメディアの記事だなぁという。他のインタビュー記事で言及されていたが「貧困」というポイントをしっかり取り上げている記事や感想というのはあまりないようで、そういう意味で貴重だ。
伝奇的なアプローチもできるんだが、あまり試みてる評は少ないように思う。まぁ、そこまで真剣に探していないけども。これは、メディアがそれをやったということで、まぁ。
英題は少し凝ってるなというか、ネタバレ気味やなというか、ダブルミーニング上手いなという感じだったねぇ。触れようと思ったけど、以下のブログ記事が大体言いたいことを言ってくれていた。以下は冒頭部分の引用。
「英単語のWeatherには動詞として「(嵐や困難を)乗り越える」という意味があります。つまり Weathering With You とは、「貴方とともに困難を乗り越える」といった意味になります。」
見出しがすべてといったところだが、メモ。
煮え切らない感想だけども、よい。
水没問題でググると本日現在でトップに表示される記事。丁寧ですね、ありがとうございました。
小栗旬の発信を見てみたくて読んだ記事。参考まで。
追記:2020.1.8
1 月 3 日の朝日新聞に新海誠監督の長インタビューが掲載されていた。《天気の子》のラストについては、ほぼ解説的な解釈(解説だ)が披露されているので興味深くはある。また、以下の引用の箇所はなかなか面白い。
他者のことを徹底的に想像するというのは、愛に結びつくと思うんですよね。他者のことを想像すればするほど、世の中には愛が増えるはずだ、とは、僕は自分の職業的にも思っています。
https://digital.asahi.com/articles/ASMDR559LMDRUCVL02B.html
いろいろな事件の公判やら取り調べ、書類送検やらが立て続き、どれくらい関係あるのか知らないが、なんとなく年末のようなものの整理の始まりを感じていたが、同じくして、いろんな事件の発生を立て続けに知らされるという週末であった。理不尽だ。あるいは台風の被災やいくつかの未解決事件、いつの間にか解決していた事件など、忘れてはふとしたきっかけで思い出され、そうしては、たちまち忘れていく。
土曜日にシャガールの絵画を観る機会があった。2016 年に東京都美術館で開催された《ポンピドゥー・センター傑作展》で目にした《ワイングラスを掲げる2人の肖像》以来だったのだが、シャガールの絵が喚起する懐かしさとはなんだろうなあぁと耽っていた。まとめて観る機会はないだろうかと気になって調べてみたら、ポーラ銀座ビルでつい先日までやっていたようだ。悲しいが、こういうすれ違いはよくある。あるいは現在 、 三菱一号館美術館で開催されている展覧会でもいくつか出ているようなので、そちらに期待してもよいかもしれない。
年末に向けて疲れが溜っていることを実感しているが、日常の忙しさに負けているというよりは、天災などを諸々含んだ季節の変化のほうに心身が追いついていないといったほうが的確なように思える。
最近、どうにも幾つかの漢字の使用について躊躇うことがあって、たとえば「乗る」という言葉を使うときに「乗」という字を用いることを避けたがる。理由はよくわかっていないのだが、動作と状態との繋がりを個人的にうまく処理できていないからではないかと感じる。つまり「乗降」というのは動作であるが「乗客」というのは状態であると思うのだが、「乗る」というように訓読みで使う場合、これは状態で使うことのほうがおそらく多いのだが、どうもそこに「乗る」という読みが気持ちよくない。まぁいい。
《空の青さを知る人よ》を観た。どうせ憂鬱さ半ばのエンディングを体験するのだろうと倦厭していたが、結果としてはその気はそこまでもなく、というか見てよかった。たいへん良かった。今年は鑑賞したアニメ映画に外れが少ない。ファンタジー様の設定やアニメらしい描写などもあったが、どちらかというとやはりストーリーに重きのある作品ではあるかな。
高校生の相生あおい(若山詩音)の視点を中心に語られているが、キャスト&キャラクターは「しんの」こと金室慎之介(吉沢亮)がメインとして扱われている。また、キャストは次に姉の相沢あかね(吉岡里穂)となっている。このことを鑑みると、結果論的ではあるが、なるほどそういう話なのだと分かる。まぁキャストの知名度的な配慮もあったりするのだろうか。
本作も、青年期を迎えようとするオジサンを応援するようなところがある。《天気の子》の須賀にも似たところはあったので連想されたが、彼は帆高との対比という位置づけで、いずれにせよ少年時代との折り合いという点で相似だ。この点で何が気になるかというと本作のターゲットであって、女性的な視点(慎之介のパートナーという意味で)の相沢あかねがどうしても対立してくるわけだが、彼女の強さは青年期を迎えるオジサン、またはオバサンにとって劇中でどれだけ説得的だったかどうか、個人的にはあまり自信がない。
相生あかねは、高卒から就職して小学生だった妹を育ててきたわけで、その逞しさったら何のその、劇中でも弱みを見せることはほぼなく、過去に苦労したエピソードも断片的で、そこらへんがおもしろい。個人的に最も印象的だったのは、彼女のドライビングシーンだ。妹を車で送り迎えしたり、もちろん職場にも車で通勤したりしているのだが、おそらく高校卒業前に急いで自動車教習所に通ったのだろう。舞台の秩父に「秩父自動車学校」があることは調べればわかるが、相沢家がどこに立地しているかは不明で、だがおそらく教習所に通うだけでも大変で、面倒だ。泣きそうになる。
という感じで、彼女の運転は淀みないのだが、終盤に向けて一箇所だけドキッとするシーンがある。うまい演出だなぁ。
相生あおいを中心にした話に移りたいが、そこまで語ることもないか。慎之介に起きたマジックに翻弄されるあおい、彼女の若者らしい態度には岡田麿里らしさを感じた。高校生らしい無鉄砲さというのはあって、悪くいうと幼稚さが強調される。小学生の中村正嗣(大地葉)のほうがよっぽど大人びているという仕組みで、なかなか酷な立ち位置ではある。
彼女の感情表現、それを表現するための手法には少しばかり違和感があって、一方でその違和感が意図的に採用されている部分もあるだろうから始末が悪く、太眉がかわいいくらいの感想にしか落ち着かない。彼女に対して、大人となった慎之介らの葛藤には、それほど岡田麿里らしさを感じず、かなり地に足が着いた、抑制のきいた表現にとどまっていたのではないか。それ自体が年を取ることにも繋がっている。それが鑑賞後のやるせなさの薄さにも繋がっている。諦念でもある。
いや、エンディングに映されるスナップショット、いまどき現像するか? という疑問を挟みつつ、物語後の状況がいくつか提示される。賛否両論あるみたいだが、あったほうがいいでしょう、わかりやすくていい。自宅の駐車場で車の前に立つあかね、そこに人影、のカットが1番印象的で、まぁ、まぁいい。
本作を高校生くらいの子らが観たとき、おっさんおばさんの葛藤は理屈では分かるだろうが体感されるものではないだろう。そういう意味では、本作を観た若者が、幾年か経ってからもう一度摂取したら、だいぶん印象が変わったりもするのだろう。
作品内で、年齢の差に起因するギャップを生かす手法だが、思えば岡田麿里は《あの花~》でも《さよならの~》でも《凪のあすから》でも似たようなギャップを用いているんだなぁ。
台風 19 号が過ぎた。すでに南洋で新しい熱帯低気圧が生成されつつあるというニュースの見出しを横目にした。言うまでもなく来てほしくはないが、こればかりは動向を見守るしかない。関東南部については、数百年来の治水対策が功を奏したと言っていいのだろう、大きな被害がある地域はあるとはいえ、数字で提出される死者、負傷者数から見るかぎりでは、そこまで被害は多くないようだ。とはいえ、神奈川県の死者数は現時点で2桁になってしまったようだし、東京を除く各県で数名の死者が出てしまっている。
12日の昼時点で、静岡の被害がすでに甚大なものになっていたように思う。栃木は日光の被害や長野や山梨の警報発令などもあわせて、東京(を含む関東圏)よりも地方のほうがよっぽど大事故になるなと思っていたが、そのようになってしまった。当初はあまり気が向いていなかったが、福島と宮城の被害も大きい。喉元を過ぎればなんとやら。死者数の総計は、3桁に到達してしまうのか、否か、といったくらいかなと思っているが、どうなっていくのだろうか。これも事態を見守るしかない。とりあえずどこかしらに少額ながら募金をしようかな。
Twitter では喧しく、ダム、路上生活者(ホームレス)などの話題で満載となっており、なるべく巻き込まれたくないものの、やはり多くのひとの気が立っているという空気感がある。とはいえ、静岡以西の方々らはほぼ日常であり、彼らのツイートなどを眺めていると、そのへんには個人的なズレも感じ、自らの感情の処理もまた難しいことを知る。とりあえず私自身と近縁者、身近な友人らの大きな被害はまだ耳にしていないのが幸いではあるが、被災した方々のことを思うと、何も考えられない。