年末に向けて疲れが溜っていることを実感しているが、日常の忙しさに負けているというよりは、天災などを諸々含んだ季節の変化のほうに心身が追いついていないといったほうが的確なように思える。

最近、どうにも幾つかの漢字の使用について躊躇うことがあって、たとえば「乗る」という言葉を使うときに「乗」という字を用いることを避けたがる。理由はよくわかっていないのだが、動作と状態との繋がりを個人的にうまく処理できていないからではないかと感じる。つまり「乗降」というのは動作であるが「乗客」というのは状態であると思うのだが、「乗る」というように訓読みで使う場合、これは状態で使うことのほうがおそらく多いのだが、どうもそこに「乗る」という読みが気持ちよくない。まぁいい。

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《空の青さを知る人よ》を観た。どうせ憂鬱さ半ばのエンディングを体験するのだろうと倦厭していたが、結果としてはその気はそこまでもなく、というか見てよかった。たいへん良かった。今年は鑑賞したアニメ映画に外れが少ない。ファンタジー様の設定やアニメらしい描写などもあったが、どちらかというとやはりストーリーに重きのある作品ではあるかな。

高校生の相生あおい(若山詩音)の視点を中心に語られているが、キャスト&キャラクターは「しんの」こと金室慎之介(吉沢亮)がメインとして扱われている。また、キャストは次に姉の相沢あかね(吉岡里穂)となっている。このことを鑑みると、結果論的ではあるが、なるほどそういう話なのだと分かる。まぁキャストの知名度的な配慮もあったりするのだろうか。

本作も、青年期を迎えようとするオジサンを応援するようなところがある。《天気の子》の須賀にも似たところはあったので連想されたが、彼は帆高との対比という位置づけで、いずれにせよ少年時代との折り合いという点で相似だ。この点で何が気になるかというと本作のターゲットであって、女性的な視点(慎之介のパートナーという意味で)の相沢あかねがどうしても対立してくるわけだが、彼女の強さは青年期を迎えるオジサン、またはオバサンにとって劇中でどれだけ説得的だったかどうか、個人的にはあまり自信がない。

相生あかねは、高卒から就職して小学生だった妹を育ててきたわけで、その逞しさったら何のその、劇中でも弱みを見せることはほぼなく、過去に苦労したエピソードも断片的で、そこらへんがおもしろい。個人的に最も印象的だったのは、彼女のドライビングシーンだ。妹を車で送り迎えしたり、もちろん職場にも車で通勤したりしているのだが、おそらく高校卒業前に急いで自動車教習所に通ったのだろう。舞台の秩父に「秩父自動車学校」があることは調べればわかるが、相沢家がどこに立地しているかは不明で、だがおそらく教習所に通うだけでも大変で、面倒だ。泣きそうになる。

という感じで、彼女の運転は淀みないのだが、終盤に向けて一箇所だけドキッとするシーンがある。うまい演出だなぁ。

相生あおいを中心にした話に移りたいが、そこまで語ることもないか。慎之介に起きたマジックに翻弄されるあおい、彼女の若者らしい態度には岡田麿里らしさを感じた。高校生らしい無鉄砲さというのはあって、悪くいうと幼稚さが強調される。小学生の中村正嗣(大地葉)のほうがよっぽど大人びているという仕組みで、なかなか酷な立ち位置ではある。

彼女の感情表現、それを表現するための手法には少しばかり違和感があって、一方でその違和感が意図的に採用されている部分もあるだろうから始末が悪く、太眉がかわいいくらいの感想にしか落ち着かない。彼女に対して、大人となった慎之介らの葛藤には、それほど岡田麿里らしさを感じず、かなり地に足が着いた、抑制のきいた表現にとどまっていたのではないか。それ自体が年を取ることにも繋がっている。それが鑑賞後のやるせなさの薄さにも繋がっている。諦念でもある。

いや、エンディングに映されるスナップショット、いまどき現像するか? という疑問を挟みつつ、物語後の状況がいくつか提示される。賛否両論あるみたいだが、あったほうがいいでしょう、わかりやすくていい。自宅の駐車場で車の前に立つあかね、そこに人影、のカットが1番印象的で、まぁ、まぁいい。

本作を高校生くらいの子らが観たとき、おっさんおばさんの葛藤は理屈では分かるだろうが体感されるものではないだろう。そういう意味では、本作を観た若者が、幾年か経ってからもう一度摂取したら、だいぶん印象が変わったりもするのだろう。

作品内で、年齢の差に起因するギャップを生かす手法だが、思えば岡田麿里は《あの花~》でも《さよならの~》でも《凪のあすから》でも似たようなギャップを用いているんだなぁ。

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台風 19 号が過ぎた。すでに南洋で新しい熱帯低気圧が生成されつつあるというニュースの見出しを横目にした。言うまでもなく来てほしくはないが、こればかりは動向を見守るしかない。関東南部については、数百年来の治水対策が功を奏したと言っていいのだろう、大きな被害がある地域はあるとはいえ、数字で提出される死者、負傷者数から見るかぎりでは、そこまで被害は多くないようだ。とはいえ、神奈川県の死者数は現時点で2桁になってしまったようだし、東京を除く各県で数名の死者が出てしまっている。

12日の昼時点で、静岡の被害がすでに甚大なものになっていたように思う。栃木は日光の被害や長野や山梨の警報発令などもあわせて、東京(を含む関東圏)よりも地方のほうがよっぽど大事故になるなと思っていたが、そのようになってしまった。当初はあまり気が向いていなかったが、福島と宮城の被害も大きい。喉元を過ぎればなんとやら。死者数の総計は、3桁に到達してしまうのか、否か、といったくらいかなと思っているが、どうなっていくのだろうか。これも事態を見守るしかない。とりあえずどこかしらに少額ながら募金をしようかな。

Twitter では喧しく、ダム、路上生活者(ホームレス)などの話題で満載となっており、なるべく巻き込まれたくないものの、やはり多くのひとの気が立っているという空気感がある。とはいえ、静岡以西の方々らはほぼ日常であり、彼らのツイートなどを眺めていると、そのへんには個人的なズレも感じ、自らの感情の処理もまた難しいことを知る。とりあえず私自身と近縁者、身近な友人らの大きな被害はまだ耳にしていないのが幸いではあるが、被災した方々のことを思うと、何も考えられない。

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マンガ家に焦点を当てた作品の走りは手塚治虫の自伝だろうか。藤子不二雄Aの『まんが道』が皮きりとなったのだろうか。他にもあったろうか。ジャンプで大ブレイクした『バクマン。』などは、20代後半~30代くらのマンガ読者連想しやすいだろうか。直近だと、最近までコージィ城倉が描いていた『チェイサー』もおもしろかったが、『ブラックエンジェルズ』の平松伸二が自伝作品『そしてボクは外道マンになる』も何気におもしろい。パッと思いつくだけでこれくらいだが、もっとたくさんあるだろう。

で、本題のアニメ制作だが、アニメーション制作会社を題材にしたアニメ『SHIROBAKO』がまず思いつく。

で、マンガについてだが、アニメーターを主役にしたマンガというのは幾つかあって2017年に作者の花村ヤソが Twitter で呼びかけて盛り上がった作品が『アニメタ!』だ。連載は2015年から始まっており、既刊は4巻だ。連載終了の危機が何度かあったそうだが、上述の盛り上がりによって、ペースを掴んだ。と思われた矢先に著者の妊娠出産により休載中となっている。おめでとうございます、連載再開を祈ってます。

並行して読んでいたのが『西荻窪ランスルー』で、こちらは全4巻となっている。最終巻をそうと知らずに読んでいたら、話を折りたたむ方向に進展していたので完結してしまってビックリした記憶がある。制作の外側の人間関係まで描写していたのが本作の特長だったと思うが、それが逆に作品の焦点をコントロールしづらくしていたのかなという印象も残った。

最後に、宇仁田ゆみである。『うさぎドロップ』は言うまでもなくおもしろいが、この人の作品は大体おもしろく思っていて『ゼッタイドンカン』が最も好きなのだが、それは置いておいて『パラパラデイズ』である。1巻が2017年発売だということで、本作のことをすっかり忘れていた。少し調べると不定期連載ということらしい。本年の6月に2巻が発売されていたようで、先日ひさびさに宇仁田ゆみで検索をかけていたら引っかかったので思い出して読んだ。まぁおもしろい。本作、ここまでで紹介した作品のなかで始めて、主役が男性の作画監督なのだ。主人公はすでに画が描ける人。エネルギッシュな新人女子に引っ張りまわされていくというのは、作者の典型的なパターンでもあるが、鉄板でよい。

他にもアニメ制作のマンガはあったような気がするが、単に私が知らないだけか、おそらくどれも続刊が出ていないなどの状況だと思う。ところで、ドラえもんにもアニメ制作するエピソードがあった記憶があるが、タイトルが思い出せない。こういうときにどうやって調べるか。マンガの各話タイトルの一覧を漁り、そこから見つけるか。関連キーワードでググるか。前者は怠いし、後者はノイズが多すぎる。ふと思い出したのがスネ夫の存在で 、 本話もスネ夫に対抗してのび太がアニメ制作に着手するという話であったはずだ。ここから「スネ夫スタジオ」というキーワードを連想することでタイトルが見つかった。「アニメ制作なんてわけないよ」(てんとう虫コミックス第24巻)である。のび太の作画によるネズミから逃げるドラえもんがかわいい。

以下のブログに詳しい。

https://ameblo.jp/kuro-yokoyama/entry-12402041744.html

追記:

あー、『映像研には手を出すな!』のことをすっかり失念していた。なんなら1番に勢いのある作品じゃないか。

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《ファントムスレッド》(Phantom Thread、2017)の感想を残しておく。当時、映画館で本作の予告をボーッと見ていたときはドキュメント映画なのかなと勘違いしていたが、全然そんなことはなかった。主演のダニエル・デイ=ルイスの演技の賜物か、撮影の技術か、編集の妙か、私がアホすぎるだけか、どれだったのだろう。

第2次世界大戦後のイギリスが舞台で美術はもちろん、音楽、画面は時代設定に沿った古さを醸している。クラシック調の音楽が多い作品だが、担当は Radiohead のジョニー・グリーンウッドだそう。彼はバンド活動を始める以前に、幼少時はクラシック音楽の素養を養っていたそうな。ついでに《ノルウェイの森》(2010)の音楽も担当していたらしいということを知ったので、ビックリした。

いくつかの食事のシーン

食事のシーンは何度か描かれるが、いずれもエキサイティングで、そのことを中心に記す。登場人物らの不和と融和がすべて食卓で表現されているといっても過言ではないのが本作だ。

冒頭。冷めきった食事シーン。まだ作品の成り行きが分からない状態で見せられる。女性が男性に対していろいろと愛想を振りまくが、男性はまったく意に介していない。この女性はすぐに舞台から退場することとなる。この男性こそ主人公のレイノルズである。

ヒロイン、アルマがレイノルズに食事を振る舞おうとするシーンがある。冒頭に引き続き、レイノルズは楽しい食事など望んでおらず、果てはケンカになる。正面から向き合いたいアルマは正しいのだが、レイノルズが極度の変人であるということをまだ理解していない。

決意したアルマは、レイノルズにある仕掛けを施す。もちろん食卓でのことだ。変人に対応するには狂人になるしかない。このあたりで、人物のイメージの様相も変動しはじめる。アルマは魔女だった、そうなると決意した。男を射止めるためだったら、後悔しない。その甲斐あって、レイノルズは陥落する。しかし、所詮は魔女の魔法に魅せられているだけで、その関係は非常に不安定なのであった。

2人は入籍後、新年の休暇を山奥のリゾート地で過ごす。どうしてこういう状況を作ったのか、寒々としたテラスで食事をするするシーンがあるが、アルマの食事のマナーは成っていない。美しくないものは、どう取り繕っても美しくない。晩餐でも、ゲームの席でも、アルマの立ち振る舞いは端的に言って粗野で野蛮。そのことにあらためて気がついたレイノルズ、目が覚めかける。

ここからアルマは再度、魔法を使う。結末として、レイノルズは完璧に墜ちる。私として徐々に破局、つまりレイノルズの目覚めを期待していたので、この展開にビビり、非常に悲しかった。だが、アルマの魔法の調理が非常に魅力的に記憶に残っているのも事実で、おぼろげ乍らも覚えている、ラストの調理シーンから食卓でのやり取りまでが、いまだに笑える。どうして君は手玉に取られてしまうんだ、レイノルズ! なぜなら魔法が掛けられているからだよ。

エンディング、アルマが主人公レイノルズの顔、頭をやさしくひざ上で支えているカット、これにはヨハネとサロメを彷彿とさせられたが、今思うとピエタでもあったのかもしれない。いや、2人が幸せならそれでいいのだが、個人的には、レイノルズのファッションデザイナーとしての天才性はアルマとの関係を深めていくにしたがって欠けていったのではないかと思われ、そのあたりの感触は人に依るのかもしれぬが、歯がゆい。

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香港映画の黄金時代というのがよく分からないが、《さらば、わが愛/覇王別姫》を観た。1993年の映画だ。上映が開始され、タイトルまでのやり取りとカットだけで名作だと確信させられる貫禄。とにかくすべてが淡々としているのだが、飽きずに最後まで鑑賞できるのは何故でしょう。

程蝶衣(小豆子)という人物について

遊女のもとに生まれた小豆子は、これ以上は育てられずと京劇(中国の古典舞踊)の少年団に連れられる。6本指の小豆子は入団を許可されなかったが、母がその指を落とすことで許可されるに至った。彼は母と指とを同時に失うのだ。この強烈な印象から物語は始まるわけだが、この多指症が何を暗示したのかはよく分からない。

少年へ成長した小豆子は、本作のタイトルでもある「覇王別姫」をはじめとする京劇の女形を演ぜられるように育成される。だが彼は、「女として生まれ」という台詞が覚えられない。本当に覚えられないのか、彼が意図的にそれをやっているのかはよく分からないままだが、幼いころから慕っていた石頭の施しによって、弱点を克服して演じることができるようになった。

この石頭によって小豆子に与えられる施しだが、冷静に見ると異様なまでにあからさまな表現で、思い出すとゾッとする。まぁ意味がわからない(わかる)。

女形をものにした小豆子は、成年して程蝶衣を名乗る。同じく成長した段小楼(石頭)と 2 人で抱えた一座を盛り立てるわけだが、ここに日本との戦争、共産化革命などが絡み、彼の運命が翻弄されていく。

段小楼(石頭)の口上とその変遷

程蝶衣と対になるのが段小楼こと石頭で、彼はさまざまなシーンで口上を述べさせられる。冒頭、少年団が広場で演舞しているのだが、それを良しとしないグループに絡まれる。騒ぎは大きくなる一方だったが、石頭が煉瓦を頭突きで割るという一発芸を披露したことで場が収まる。師匠らは下らない芸を披露した彼を叱るが、その蛮勇が劇団を救ったことも確かであった。

成人した段小楼は、遊郭遊びを覚えて菊仙に惚れる。前後して程蝶衣にプライベート(現実)と仕事であるフィクション(京劇)を一緒にするなと諭していたが、割と難しいところがある。遊郭で菊仙を救えたのは、どうみても彼が京劇で培ったハッタリ能力に因る処が大きい。このへんが物語の折り返し地点のようにも思える。

文革後、取り調べ、市中での晒し首のシーンでは、段小楼もとい京劇の魔力も地に墜ちる。革命後に作られた堅い煉瓦は、彼の頭突きではもう割れない。勇ましかった男が、程蝶衣を売るような発言をして保身に走るありさま、そして妻である菊仙を失うという末路、情けない限りだ。最初から最後まで狂言回しとして描かれる段小楼の哀れをどう処理したらいいのか。

菊仙の役割。 段小楼を慕う男と女の対比

菊仙というキャラクターはなかなか特殊だ。序盤はネガティブなイメージを纏っている。それはそうで、彼女は京劇で舞う段小楼を好ましく思っていない。この心理もかなり捻じれており、「まっとうな家庭」を望む彼女の願望とまとめれば済むが、そんな彼女の望みを叶えることはそもそも無理なのでした。

身籠った子を落とすことになったのも、演出上はかなり自業自得だが、物語上の都合として彼女は遠回しに、だが直接に程蝶衣に罪を被せる。程蝶衣が厄を運んでくるという旨の発言もしているが、観客としては別にそんなことないので、異常なヒステリーを感じる。だがこの辺りは、段小楼を軸に程蝶衣と対立するように描かれるので、こうなるのは必然なのだ。

転機はいったん段小楼が京劇を降りたのち、文革前後に訪れる。端的に言葉にまとめると、結局のところ菊仙にとっても程蝶衣は、弟のような存在であった。それでよかったはずだった。アヘン中毒から治療中の彼を見舞う彼女、舞台から蹴落とされた彼にそっと衣を掛ける彼女、そのやり取り、火中に捨てられた宝剣を彼に届ける彼女、どれも見事すぎるくらいで、そのやり取り、和解のような関係が成立しそうでしないまま終わる関係が美しい。

小癩や小四など、それぞれの激情

少年団時代、小豆子と脱走した小癩という少年がいた。町の舞台で覇王別姫をみた彼らは感動のあまり劇団に戻るが、体罰を受ける小豆子を見ていた小癩は、屋台で買ったサンザシを頬張ってから自ら命を絶つ。何故か。いや、よく分からない。

「どんな罰にも耐える」と述べたばかりであった彼は、口の中を甘い菓子で満たして絶望していった。本作では、人が命を絶つシーンが3つほどあるように思うが、それが「ある種の幻想の終わり」を意味しているとすれば、小癩の死はどのような幻想の終わりを象徴していたのか。人を感激させる劇の裏にある理不尽な世界、夢から現へ、醒めた小癩の虚ろな決断だった。

青年時代、少年団の解散に程蝶衣が引き取った小四という少年がいた。彼は内弟子のような立場として程蝶衣を支えるが、一方で文革思想に染まっていく。歯がゆいものがある。といっても彼に与えられた大きな役割はこのくらいであった。 結局のところ、程蝶衣を引きずり下ろしたものの、革命のエネルギーは京劇自体を悪しきものとしてしまった。小四自身も、よくわからない謎のシーンではあったが、体制によって処理されてしまう。

ただし、私が本作で1番いいなぁと思ったのは、実は彼のある表情で、市中で引き摺りまわされる段小楼と程蝶衣を群衆のひとりとして後ろのほうで眺めている姿だ。彼が段小楼と程蝶衣を見つめている表情の、笑顔とも苦痛とも読み取れないうごめきは本作一であったように見えたし、なんなら本作の象徴するすべてを代表していたような気がした。

結末に解釈が必要かどうかは不明だが、程蝶衣が亡くなったことは確かだ。また、彼が引いたのは模造刀ではなく実剣で、それは件の宝剣だったのだろう。程蝶衣が舞台の上で死を選んだというのはもちろんだが、それがあくまで段小楼との稽古のなかであったという点も見逃しがたい。そこは限りなくプライベートと京劇の狭間であったというワケだ。

また、最期のやり取りは、程蝶衣が女形に目覚めた際の事件の反復でもある。おそらくもなにも、このことが最も重要で、最後のカットで段小楼が「小豆」と声をかける。程蝶衣の幼名だ。段小楼の最後の笑顔には、色々な意味が込められているだろうが、私は小さな人間のやるせなさを見た気分のままでいる。

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昔からたまに疑問として頭に浮かんでは消えていって、そうしては思い出してきたが、嫉妬が炎に譬えられるのはなぜだろうか。嫉妬というのはある種の苛立ちや焦りが処理できないくらい大きくなったものだろうから、私はこれを漏水の類に譬えたい。炎はそれだけで美しさを喚起してしまうが、漏水は完全に管理責任や不備を問われるものでしょう。

嫉妬ってそういうもんじゃない?

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コミック(全8巻)である。本日発売された8巻をもって完結した。目次を読んでいて完結に気がつく。寂しい。

原作は七月鏡一、作画が杉山鉄兵となっているが、どちらも存じませんでした。発行元が小学館とは知っていたが、週刊少年サンデーということも知らなかった。ウェブ系だと思っていた。

推理もののコミックを読みたいなと思っている時期にちょうど1巻が発売され、これはおもしろいぞと思ってフォローしていた。おもしろかったよ。というか、サンデーは推理ものを並行して連載していたのか。

記憶喪失の少年探偵、ゼノが謎を解く。タイトルにある殺人密室、建築家かつ天才的な犯罪者である甲斐七楼の製作した7つの殺人密室を巡り、ゼノの生い立ちから甲斐七楼の秘密、国家レベルのうんちゃらかんちゃらなど、なにからなにまで明らかになっていく。

物語がスピーディーですばらしく、飽きない。基本的に件の密室が関係しない話はほぼなく(いくつあったろうか)、最終回までミチミチとした密度で話が進む。密室のギミックも「そうはならんやろ」という設定とリアリティのバランスが巧く、楽しい。

探偵の助手にD坂エイラという女子がいる。突拍子もない設定で、彼女は殺し屋組織のエリート候補でもあった。ところで、ゼノには人間の感情が読み取れないという欠点があり、それをエイラが補助するという仕組みがある。感動こそしないがなるほどなぁとなる。

全体的にピーキーな設定が多いが、それを変に目立たせない勢いと世界観にフィットした画風がよい。特には瞳の描写がよくて、表情をよく表している。キーパーソンのひとりに甲斐羽美という女性がいるが、彼女の表情は本作で1番好きだ。

最後の話で、記憶の断片をいくらか取り戻したゼノの瞳に光が灯っていたことに、うれしいような寂しいような感触を得る。心残りと言えば、最後の密室の設定や利用のされ方などに中途半端さを感じた。この結末までの流れは作者側のほぼ想定内だとは思うが、多少は急いだのかもしれない。なお、ちょいとばかり、浦沢直樹の『MONSTER』が思い出される設定や描写があった。まぁよくあるやつだ。

ところで少年探偵というジャンルの根本的な魅力ってなんだろうね。

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春の終わりから夏頃にかけて、アニメ映画をよく見た。感想をあまり残せていないが、適当にあげていきたい。というわけで《きみと、波に乗れたら》のメモを残しておこう。

監督は湯浅政明で、TVアニメの『四畳半神話大系』(2010)と《夜明け告げるルーのうた》(2017)は観た。脚本は吉田玲子で、《夜明け告げるルーのうた》で同監督と仕事をしている。彼女の脚本は直近だと《リズと青い鳥》(2018)、《若おかみは小学生!》(2018)で観ている。

さて、予告を見ただけで恋人が亡くなる話だと分かる。が、私は予告を見たときは、サーファーの彼女(向水ひな子)が亡くなるのかと思っていたが、逆だった。消防士である彼氏(雛罌粟港:ひなしげみなと)が亡くなる。

彼の死のショックから立ち直れないひな子だが、ふとしたキッカケでミナトの残留思念的な何かと遭遇できた彼女は、それなりに元気を取り戻す。さて、そんな仮初の幸せがいつまでも続くはずはなく、必然的に彼らには別れが待っているのだが、どのような結末へと繋がるのか。

本作の主役は誰なのだろうか

ミナトとひな子のほかに登場人物として重要なのは、ミナトの妹の雛罌粟洋子と消防士の後輩の川村山葵(ワサビ)だ。ひな子を中心に話が進んでいくのは当然なのだが、洋子とワサビの存在と役割もなかなか大きくて無視できない。

というよりもだね、言ってしまうと、ひな子はミナトが亡くなったことでマイナスになり、結末でやっとそれがゼロ、新たな人生のスタート地点まで恢復したというくらいで、実はなんともやるせないストーリーである。

一方で、洋子とワサビはそれぞれが作中でプラスプラスの成長をみせており、なんなら彼らの成長物語とも読める。有体に言って共感しやすい。

冒頭からみていると、ワサビに充てられる描写が最後まで案外少なくない。彼の無力さ、未熟さが描かれ、結末にかけて、それが少しずつ克服されていく。洋子についても同様で、本作の中盤から後半にかけてとてもよい人間らしさが演じられている。オタクの視聴者は洋子に惹かれるみたいなことが、当時 Twitter で言われていた。まぁ、そういう感じだ。

本作でのヒーローとその役割

実はミナトにとっては幼い頃から、ひな子がヒーローとして在り、そのことがミナト自身の人生に活力を与えていた。一方で、ひな子もミナトにエネルギーをもらっていたという構造があり(そりゃ恋人同士だからね)、話の構造を上手にややこしくさせている。

落ち込んだひな子が取り戻す彼女らしさ、ヒーロー性はあくまでも映像作品らしく、ミナトの死後も続く現実に起きるアレやコレやの顛末で復活しつつあることが描写されるが、それでも儚い。どうしてこんな仕打ちを!

お互いがお互いにとってヒーローだというペアが居て、その片方が失われたときの喪失を、どうやって工面していくのか、描いていくのか。残されたほうはどのように復活していくのか。そういうことを考える必要があるのか。

よく分からないままだが、そこが本作の味だろうか? ただ本来、一般論として「相互に支える関係」の構築が人間同士という存在、社会にとって、本作で描かれる喪失というのは、ある意味では誰にでも必然で共通の問題でもあるハズ、と言ってしまっていいのか。

湯浅監督の描く水は何なのか

《夜明け告げるルーのうた》(2017)でも水は重要な要素だったが、本作でもそれは変わりない。本作の水は、もっと親しみやすく、ひとびとの生活を助け、彩りを与えるためにあるものだ。ネガティブな要素が浮き上がるのはミナトにまつわる部分だけで、それも設定上、うやむやにならざるをえない。

いずれにせよ、本来は考えられないような動きをする水は、ファンタジックだ。ひな子が好きだった水、ミナトが克服した水、彼らを救った水、ひな子が泣いた水など、まぁたくさんの水が作中で描かれる。

本作での私の最も好みだった水は、河口の水と、海岸で洋子が淹れたコーヒーかな。事件の浜辺の描写も、湯浅監督らしさがめちゃくちゃ出ていておもしろかったんだけどね。

ついでに、奇しくもというか、同時期に《海獣の子供》が上映されていたのもおもしろい。あの作品の海は、未知が過ぎる。あと、《The Shape of Water》(2017)みたいな描写があるところは笑った、どれだけ意図的かはわからないけど。

追記(20220307)

ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。インタビュアーが食事に触れていたのは、なるほどねと。「ルーのうた」が子供向けで、そこからさらに視聴者層を増やそうとしたという旨があったが、自分が子供なら観る順番は、本作、「ルーのうた」のほうがいいかなぁ。

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角川シネマ有楽町で《よこがお》を観た。

この劇場では、その回が最終だったらしく、クレジット後に監督の深田晃司が挨拶に登場した。メチャクチャよさそうな人だった。話題作《淵に立つ》(2016)を私は観ていないが、前作の《海を駆ける》(2018)は劇場で見てそこそこ楽しんだ。《よこがお》だが、以前に予告で楽しそうだなと思ったまま忘却していたが、ひさびさの映画熱にタイミングよく鑑賞しただけのことで監督のことは意識していなかった。

https://yokogao-movie.jp

まだ上映している、これから上映する映画館もあるようだが、深田監督がなんでもいいから拡げてとおっしゃっていたので、役にも立たないだろうが、感想をアップしておこう。直接のネタバレはしないが、描写などについては踏み込むので、気になるひとは気をつけてほしい。

あらすじを述べる。訪問看護師の市子は近々結婚を控えている。同僚のシングルファザー医師との結婚である。市子は、非常に面倒見がよい人物で、訪問看護先のひとつである家庭の長女である基子、次女であるサキとも親密にしており、3人で勉強することもよくあった。物語は、ある事件をきっかけに一転した市子の生活の顛末と、彼女の泥臭い抵抗を描く。

本作をどういった面から感想するとクリアになるか、難しいが、そうだなぁ、市子の移動手段なんかどうだろうか。

自転車、タクシー、自動車が動いていく

訪問看護には自転車で向かう。件の家庭にも自転車で訪れ、自転車で事務所まで帰る。自宅から事務所までは徒歩で向かっているようだが、その距離感はよく分からない。事件の経緯とともに自転車を駐める位置にわずかな違いが生じる。自転車を扱う足取りも違う。冒頭では健やかに軽やかに運転していた自転車だが、事件が起きたあとには重たい枷のようになっていた。ははぁ、おもしろい。

市子がタクシーに乗るシーンがある。本作では、自転車に次いで登場する移動手段だ。カメラの方向などはあまり覚えていないが、そこそこの大きさの幹道を通っていた。路面沿いのレストランの看板が首都圏郊外の地域の田舎臭さを感じさせる。物語的にも、この時点での市子は、事態に翻弄されはじめている段階なのだが、このタクシーも結局は目的を果たさないままフラフラと動いていくのみであった。わはぁ、おもしろい。

婚約相手の自動車に乗るシーンはおそらく2つあった。片方は停車している車中での会話、もう片方は引越し先の内見へ向かうための乗車、この車で移動しているシーンはハッキリとは描かれない。ひゃぁ、おもしろい。

とうとう市子は自分の自動車を運転する(婚約相手との車のシーンがもしかしたら前後しているかもしらん)。軽自動車だったかな。洗車機で車を洗うシーンがあるんだけど、本作で1番好き。洗車機のなかにいるときって少なからず非日常感があって、いいんだよね。フロントガラスの水滴が囂々と鳴るドライヤーで吹き飛ばされていく。美しい。

で、せっかく洗車した車だが、諸般の事情で乗り捨てなければならなくなる。このシーンもまたいい。このあたりは個人的に緊張のピークかな。そもそもこのとき、どこに向かっているんだか鑑賞者には明かされないし、市子もよくわかってないと思われる。そんななかの顛末なので、言ってしまえばとても分かりやすい情況なのだ。おっほっほ、おもしろい。

最後、エンディング付近だが、車を乗り換えている。いろいろなことが終わったあとであり、ハンドルを握る彼女もある種の逞しさを備えている。事件は終わったものの、最後の最後まで異常の極みが連続して描かれる。運命の交差点、鳴り響くクラクション。もうすべてが終わったと思っていた彼女に残された可能なかぎりの最期の悲鳴。やるせなさが、おもしろい。そののち、加速した自動車は、サイドミラーに映る市子の虚ろな表情を執拗に見せるが、ここまでの重なりを経たあとだと不安しかない。最後まで、おもしろいなぁ。

といった感じで、移動手段についてまとめたが、この作品のテーマ的な部分についてはぜんぜん触れたつもりはなく、基子、和道との関係などにも触れたいのだが、扱いづらくて困っている。書き足せることがまとまれば、また書く。

そういえば監督による原作小説も刊行されており、映画とは結末が異なるとのことなので気にはなっている(が、今のところはあまり手に取る気はない)。日本の映画は監督の作家性に頼りすぎているとしばしば話題になるが、こうして小説をしたためる方もいるのはどういう傾向なんだろうか。

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