TwitterのWebクライアントが新UIに移行した。もう半年以上も前から変わっていたひとも居るように思うが(実態は不明)、私は最後の適用時に反映された。というわけで、ブックマーク機能の話だ。

そもそもいいね機能とはなんだったか

いいねは、ツイートに反応する機能だ。いいねはツイートごとに計上される。衆目を集めたツイートにはいいねが集まるという仕組みとなる。ツイートにいいねが集まるほど、個別のいいねは埋没していく。ただ、それはそれでよかったハズだった。「わたしのいいねを大切にしてください」という主張があったら、いささか奇妙だ。

いいねはツイートに対しての最小限の反応であった。リプライする必要もない。気になったのでメモという用途で使っている方もいた。小さな反応だった。

ところで、あるツイートに対していいねしたアカウントは、ツイートを確認すれば見られる。また、あるアカウントのいいねは、アカウントのホームから覗ける。そのワンアクションが垣根として用意されていたのが、この間までのTwitterだった。

そこから、いいねのタイムライン放流がはじまる。

どのタイミングか忘れたが、昨年の春夏くらいか。他人のいいねがタイムラインに流れるようになった。好評も不評も目にしたが、どちらかといえば戸惑いの声のほうが大きい。個人的には、他人のいいねを見たくもないが、他人にいいねを見せたくない気持ちのほうが強い。

ブックマーク機能を使いこなせるか

ブックマーク機能は完全プライベートなクリップ用の機能だ。登場当初はスマホアプリからしかアクセスできなかったので私は使わなかったが、この度はブラウザー経由からでも使えるようになった。そして、使うようになった。

単純にいえば機能増なのだが、これは用途にしたがって機能が分類されたということだ。どんどん抛りこんで定期的に読み返すとか、とにかく抛りこんでおけばええやろとか、使い方はたくさんあると思うが、どれが個人的に正しいのだろうかはまだよく分かってはいない。とりあえず、人に晒したくないいいねを保存してみてはいるが、それはそれでどうなのだという気もする。

以前だったら迷わずPocket送りにしていたのだが、新しいWebクライアントが微妙にPocketとの連携でよくわからないときがある。とりあえず、今日のメモはそれだけです。

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吉田秋生の『海街diary』は話題になりはじめた2巻の発売くらいから完結まで追った。完結は昨年、 2018年の夏だった。思ったより時間が経っていない。何度となくたまに読み返していたが、基本的におもしろいことに変わりはないないものの、こちらのメンタルの状況によって重さが変化する。爽やかなようでいて、それなりに重たい。そういう配分がされている。この記事では、そういう話をする。

話の主軸としては、主人公:浅野すずが2年生から中学卒業までの2年間を父を同じくする鎌倉の香田3姉妹(幸、佳乃、千佳)と暮らしを重ねていく生活にあって、4姉妹の恋や愛を中心に彼らの築く人間模様が描かれる。

まっとうな人たちがまとまっていく

本作は、ひとことでは「まともな人たちがあるべき場所に収まっていく」作品で、少し回りくどく意地悪くいうと「まともな人間というものは存在しないかもしれないが、バランスの取れたコミュニティというものはあり、登場人物たちのコミュニティからバッドステータスな人間関係をパージしていく」作品だ。読んだことがある人からすれば身も蓋もない味気もない説明で、おもしろ味もない説明だ。

4姉妹の父、香田3姉妹の母、すずの母、すずの継母、いずれも心のタガが外れてしまっている人物たちである。作品の冒頭、父を失ったすずは継母に引きずられていた。3姉妹に引き取られることで、まずは主人公がそこから救済される。

長女の幸と次女の佳乃については、ここでは細かい説明をを省くが、序盤では抉れた人間関係に晒されている。次女は物語の序盤ほどで、長女は中盤ほどで困った人間関係から解放されていき、それぞれの新しい人間関係(ここでも恋や愛のこと)が終盤までに形成され、結実していく。

三女である千佳は、4姉妹のなかでは特異で、記憶のなかで美化された両親との歪な関係を除いて、始めから終わりまで真っ当だ。こういう配役になっている。と、まぁ、主に長女と次女にいくつかの踏み外しがあったものの、4姉妹は基本的には真っ当で強い。

本作の魅力は何か。主人公すずが中学を卒業するまでに人間的に成長する話かといえば、そうとも言い切れない。たしかに成長はするが、すずはどちらかといえば作中では強い人物で、弱点を強調するほうが難しく、彼女の成長物語として断じれるものではない。

それぞれが少しずつ成長する

では何なのかということをストーリーから順に説明することも避けたい。冒頭の説明の抽象的な言い換えだが、成長とは対話であり、相互理解であり、愛なのであると、てきとうなことを述べておけば容易い。

本作、鎌倉市に暮らす主人公たちのコミュニティ、中学校やサッカークラブ、病院、信用金庫、スポーツショップ、酒屋、食堂、喫茶店などを通して4姉妹を含めて描かれる登場人物たちが各々、少しずつ成長する。もちろん子供たちの成長もあれば、大人の至らない点の反省も数え切れないくらい含んでいる。コミュニケーションによって彼らの関係が少しずつ上向いていく。緊張が解きほぐされていく。予定調和的に、あるべき場所に、整っていく。こういう心地よさがある。

対話できない者どもをどうする

本作、上記に書いた心地よさがあり、ふつうにおもしろい。だが、最終9巻に収録された番外編「通り雨のあとに」を読まされたときの読後感の悪さが、物語の周縁から捨て去られた人たちを思い出させる。トラウマものである。番外編は、すずが東北の田舎に置いてきた義理の弟、和樹を扱っている。和樹は救済されていない。

あるべき人間関係、コミュニティの姿が認められるとして、それが成り立っていく様を見ているのは心地よい。諦められた人たちは、うまく退場させられていく。仕方がないことである。本編では、歪な関係を象徴する人たちは切り離されていく。
たとえば二ノ宮幸子は、事故のように、人質のように、不幸を回収しきれずに退場していった。だが、彼女の退場も新たな紐帯によって昇華された。彼女の死はあっけなく、はかなく、だからこそ美しいだろうか。

そして繰り返すが、和樹のコミュニティはバッドステータスのままである。少なくとも番外編で扱うには不十分で「どうしてこんなものを読ませた?」となった……。

まとめのような後味をつける

ちょうど『海街diary』を読み返した私が本文をつらつらと書いている折に、月刊フラワーズの2019年09月号から『詩歌川百景』が連載開始されたということを聞いた。その関連から、自分が『海街diary』を読み返すことになったような気もする。『詩歌川百景』だが、前述の番外編「通り雨のあとに」がそのまま舞台の物語のようだ。

その内容や進行、結果についてはわからないが、同じように人間関係の再生のようなものが描かれるのであれば、それが吉田秋生のテーマだということだろう。弱い人間の弱さの本質や、弱い人間の見せる強さ、あるいは弱い人間たちのあるべきコミュニティのようなものが描かれたら一層のこと美しい作品になるのではないかと夢想するのみである。

上記まで書いた内容をまとめている最中に思ったが、本作は割と女性向けのマンガの枠組みとしてはオーソドックスだったんだな。これと強く連想できる作品が思いつくわけではないので具体的な作品名は挙げないが、早い話「家族を作り直す」系の話の地域コミュニティ版だよね。もちろん、それをこのスケールで作話できるのは完全に作家の能力に拠るところだろう。

あるいはスムーズに話が進む版の『渡る世間は鬼ばかり』ではなかろうか、などとも思った。

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タイトルに深い意味は無くて、NHKの「100分 de 名著」で小松左京が取り上げられていたらしいことに終了後に気がついたという話だ。そもそも「100分 de 名著」シリーズにはいっさい目を向けたことがなかったが、小松左京が扱われたのであれば話は別だ。どうして気がつかなかったのか。センサーの感度が落ちている。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/89_komatsu/index.html

扱われた作品は『地には平和を』『日本沈没』『ゴルディアスの結び目』『虚無回廊』の4作品らしい。ふーん、ほどほどじゃん。

SF作家としてのキャリアのスタートと終わりの2冊をきっちり入れてきている。この2作品を押さえるとして、残りは「日本沈没」と「ゴルディアス」だが、ベストセラー作品である前者を外すというのも考えづらい。「ゴルディアス」に変えて『果てしなき流れの果てに』はアリかもしれないが、「虚無回廊」とのバランスを考えると「ゴルディアス」に軍配が上がるか。さよなら、ジュピター……。

そうでなければ「女」シリーズや怪談物などが欲しかったかもしれない。だが、これらは短編なので番組の都合としては扱いづらかったんだろう。だとすれば、選書は、まぁこんなものか。

扱いに困っただろうは「ゴルディアス」だろうなぁ。どういう構成で乗り切ったのか。もちろん他の放送回も気になる。アーカイブスで扱っているだろうから後追い視聴はできる。各回を補ってみるのも面白そうだが、気が向いたらやるだろうか。

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Bluetooth イヤフォンを使いはじめてからどれくらい経ったでしょう。はじめて買ったのは、SONY製の「MDR-EX BN」シリーズ(おそらくこれで同定できる)で、これは2世代くらい使った。これは個人的に名シリーズで、ノイズキャンセリング(NC)機能も良く働く。なによりSONYらしいコストパフォーマンスもある。オススメしたい商品だ。

ところで、ときどき外出時にイヤフォンを使わなくなる季節があり、そういうときは必要なくなる。あるいは、手持ちの安い有線のイヤフォンで済ましてしまうときもあったりする。

で、MDR-EX BNシリーズの欠点といえば、本体をどこかにクリップする必要があることで、シャツを着ているときはいいのだが、Tシャツだと装着が難しく、コードを伸ばしてパンツに装着するかとなるとめんどくさい。それで利用が億劫になることがあった。しだいに使わなくなっていくのである。

3年程前、ひさびさにBluetoothイヤフォンを使いたくなり、上記の問題を解決するための商品を探した。2016年くらいなので完全独立型イヤフォンの供給や性能も安定してきたようだったが、まだ何となく躊躇っていた。そこで目を付けたのがSONY製の「MDR-XB BT」シリーズで、いわゆる首かけ型のスポーツタイプだ。先の問題を解消できる。

で、これをしばらく使っていたのだが、気になる点がいくつかあった。1つは音のこもりが割と大きい。購入した製品がたまたまそのような状態だったのか、再生デバイスとの相性が悪いのか、同商品の特性として受け入れるしかないのか分からなかったが、どうにも慣れない。また、意外とかさばり、少なくともサクッとポケットに入れられる感じではない(コンセプト上、首からぶらさげていればいいので)。首から下げ続けるのも割とうっとうしいし、ベストなフィットポジションもよく分からない。というわけで、これも次第に使わなくなった。

ここまでが前話で、最近ひさびさにイヤフォン生活をしたくなった。一昨年か前に発売されたBOSE製のNC機能付き完全独立型イヤフォンがかなりの完成度をもっているように見え、なるほどそろそろ完全独立型もありかなとは思っていた。ただし、私はBOSEがなんとなく苦手だ。

また、さんざんSONYの話をしてきたが、イヤフォンの話だけで考えるとSENNHEISERが1番の好みだったりする。しからば、MOMENTUM Wireless もかなり検討したが、ヘッドフォンサイズの機器を持ち歩くほどの音楽好きでもない自覚があった。そんな折、 昨年の秋冬くらいだったろうか、MOMENTUMシリーズから完全独立型イヤフォンの発売が告知され、言うまでもなく待つことになった。

発売後の結論として、MOMENTUM True Wirelessは購入していない。非常に高価な商品ということもあるが、どうにもスペック面で見劣りする点が大きい。音質には間違いはなさそうだが、次世代機での進化待ちという感じだ。iPhoneユーザーではないが、Powerbeats Proも考えた。このあいだ発表されたSONYのWF-1000XM3もおそらく良い商品だろう。さんざん迷っていたが、この間ふと読んだブログの記事で、NUARL NT01AX を知り、少し悩んだが購入した。

こいつは便利だ。手放せないな。NC機能はついてないが、私にとってのNC機能の要は電車移動時の雑音であって、幸いゴツゴツの満員電車に乗る機会が減ったいまの生活においては、NC機能の優先度は下がっているのであった。

上述の読んだブログの記事というのは、こちら。参考になりました。ありがとうございました。

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岩明均の連載作品『ヒストリエ』の第11巻が発売されたことを知っているか。早速、読んだ。おもしろいのだがあっという間に終わってしまう。いや、おもしろいからあっという間に終わってしまう。いや、もっと話を圧縮すればいいのでは、などなどと思うが、おもしろいことには変わりない。

岩明均の主な作品だが、『寄生獣』(1988-1995)のあいだに『骨の音』(1990)が発表されている(表題作は書き下ろしだということだ)。その後『七夕の国』(1996-1999)となり、『雪の峠・剣の舞』(2001)となる。『ヘウレーカ』(2002)を経て、ヒストリエの連載が2003年から始まる、といったところか。Wikipediaの情報をアテにしているので精度についてはあしからず。

《天気の子》が上映中の新海誠ではないが、岩明均もある一定のテーマを変奏させている節がある。そう思って本文を書き始めたが、ここまで書いてそうでもないような気もしてきた。ヒストリエの主人公、エウネメスの人物造形は、「雪の峠」の渋江内膳に近いように思えた。終始、決してピュアなだけの男ではないという点においてだ。

なんでこんな文章を書こうと思ったのかといえば、あらためてどの作品が好きかなと思ったからなのだが、むずかしいな。『雪の峠』か『ヘウレーカ』かな。あぁ、無常。

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2018年、ヨルゴス・ランティモス監督の最新作。当時劇場で鑑賞して、しばらく下書きを取っておいたんだけど、整理して上げる。

とにかく笑えばいい

なんだかんだ、これはコメディ映画なんですよね。当年のいくつかの映画賞ではコメディ部門で出品されているわけで、やたらとシリアスなので飲み込まれがちだけど、どこもかしこもふざけている。私が1番笑ったのが鳩撃ちのシーンで、アビゲイルの射撃によってサラの顔が汚れるところ。まさに面汚し。アビゲイルがマシャム大佐を処理したシーン(2回)も絶品の趣味の悪さで笑うしかなかった。劇場で一緒に見てたひとたちはあまり笑ってなかったけど。

本作、ほとんどのシーンを自然光で撮影したとのことらしいが、どの情景も、それぞれの登場人物の心象をうまく反映している。女王の自室は、どの時間帯でもほぼほの暗いままなのだけれど、廊下はいろいろな表情を見せる。本作の主役は廊下と言っても過言ではなかろう。というわけで、廊下に焦点をあてたメモを記す。

暗さにも種類があり、明るさは暗さを強める

蝋燭が照らす

第1に暗い廊下。時代が時代だけに、夜は完全に暗い。闇を照らすのは蝋燭のみ。暗い廊下を照らす蝋燭は繊細で美しく、同時におどろおどろしさを演出する。大きく覚えているのは2箇所だ。

まずは、夜会の最中に女王が癇癪を起こすシーン。サラに連れられて自室へ戻るなか、廊下には異様なほどの数の蝋燭が配置されている。ディズニーランドのアトラクションかというような装飾具合。女王の機嫌をとるためにサラは、徐々に車椅子のスピードをあげていく。狂騒というか狂走であって、ほの暗い廊下を駆け抜けていく女王とサラは、まるで魔女のよう。まぁ、そういう(どういう?)秘密をかかえているんだなという憶測が立ち、割とあっさりと開示される。

もう1箇所は、正にこのシーンから反転した状態にある。女王に嫌厭されたサラが頼りない蝋燭を1本たずさえて、秘密の廊下を歩いていく。女王の部屋に向かったのである。女王の寝台に直通している扉を開いた彼女の灯りに映った光景とは。いやー、ズルかった。

廊下に戻ったサラはショックでフラフラと歩く。全編に渡ってしっかりピシッとしている彼女だが、このシーンだけは例外的に不安定で、それが表現されている。ふらふらと左右に揺れる蝋燭は危ない。この映画の蝋燭、どんだけたくさん灯がともっていても火事になりそうな気配はまったくなかったが、さすがにこのシーンだけは燭台をこぼさないか心配だった。完全に名シーンですね。1番好きかもしれない。

太陽が照らす

第2に明るい廊下。印象に残るシーンは1本だけだったが、かなり重要だ。女王に気に入られはじめたアビゲイルは、彼女の車椅子を引きながら気持ちのよい陽の射す廊下を移動していた。そんななかで2人が耳にしたのは、中庭で演奏される弦楽四重奏。窓辺から中庭を見下ろして微笑みながら聴きいる2人。あからさま過ぎるくらいに幸福な情景で、このまま終わればハッピーエンドかとも思われる。狂走していた2人との対比も見事だ。

一転、女王の気が触れてアビゲイルを拒絶。車椅子を蹴飛ばしてヨタヨタ歩きながらも暴走。歩行もままならない彼女は、フラフラと廊下を彷徨しはじめる。グルグルグルグルと歩き回り、しまいには自分がどこにいるのか分からなくなる始末で、そこらにいる衛兵に八つ当たりをはじめる。女王が溜めこんできた業は、明るい、昼間の、美しい廊下には耐えられない。ましてアビゲイルが癒す、癒せる類のモノでもないことがハッキリするのであった。

監督ならではの森、その役割

過去作《ロブスター》《聖なる鹿殺し》を見るかぎり、監督は木立のなかにカメラを走らせてギュギューッってやるのが好みだ。《ロブスター》は半分は森が舞台であったし、《聖なる鹿殺し》は都市から自宅への経路は郊外を抜けるときに、木立のなかを小気味よく駆けていった。本作はどうか。本作では馬が森を駆けるが、目立ったシーンは3つかな。というか、屋外のシーンは庭以外は森だけなんだよね。

キッカケの疾走

アビゲイルが森を駆けるのは1回(森にいるシーンは2回かな)。それがここで取り上げる3回の森のシーンの最初。痛みに苦しむ女王への薬草を採取しにいくところだ。下働きレベルの彼女がどっから馬を調達して乗ったねん、というツッコミが成立するということは、それだけの強引さが求められたということで、それがアビゲイルの執念すらも表していると捉えられなくもない。

女王の変節

女王がサラと乗馬に出るシーンがある。駆けるというか散歩だが、サラと女王の分岐が決定的になる場面である。直前にサラが女王に乗馬の装備を着せている描写があるのだが、甲冑のような木製の乗馬具が拘束具のようにもみえ、2人の関係性がエグく視覚化される。散歩での話題はアビゲイルであり、女王の気持ちはアビゲイルに傾ていることが本人の口から明らかになる。

訣別のサラ

アビゲイルの努力、策略によって女王から遠ざけられたサラが城外に飛び出していく。暗い夜の森を駆ける。サラはこのとき、馬から身を落として大怪我を負う。怪我の原因はアビゲイルにある。アビゲイルによって森は女王を癒すためにも使われ、サラを追い落とすためにも使われた。便利過ぎるだろ、森。

という感じで、ランティモスの森を堪能したい。

まとめ

たしかに前作の《聖なる鹿殺し》よりも作家性は丸められているように感じるが、それにしたってヒドイ作品で(褒めている)、なんという後味の悪い最高の作品を大スクリーンで鑑賞できるのか。アカデミー賞にはあまり興味がないが、今回ばかりは感謝した。

ヨルゴス・ランティモス監督、Twitter などで検索すると「変態」というキーワードをよく目にする。なるほど、否定できない。だが、私本人としては、この監督の脚本面での作家性は大仰に言うと「人間の美醜、その一義-両義性の追及」にあると思っている。

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梅雨が長いというが、例年の平均を比べてみても大差はない。気温が低いというが、日本海側はそれなりに暑かったりする。私は、2010年前後くらいに梅雨らしい梅雨が来なくなったことを嘆いていたが、ここ5年くらいは関東にも梅雨らしい梅雨が帰ってきたなと思うようになった。まぁ、これも南関東限定の話で他の地域に関しては感知できない。

九州を中心とした西日本の地域は、毎年のような豪雨被害にあっているし、これに関しては梅雨明け以降、台風の季節がやってきたら南関東もその他の地域も同じような危険にさらされるだろう。

毎年。毎年、今年は特別に何かが起きているという思い込みをしやすい。

生活実感として野菜の価格がやや高騰ぎみのように感じるが目立った報道はない。しかし、東北は太平洋側の親類の農家ではあまり芳しくないようであることは耳にした。何もわからない。と思って調べたら、7日前の毎日新聞で「日照不足、都心で20日連続 野菜高騰、生活を直撃」と報じられていた。

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茶化すことでしか精神の安定を図れないということもあるだろう。なにかしらの思いのたけを書き連ねて心を落ち着かせるということもできるだろう。あるいは情報を遮断し、もしくは情報をしらみつぶしにし、そういう操作によってバランスをとっていくということもあるだろう。

身近な第三者に降りかかった厄災にまつわる理解や感情、その原因に対するスタンスの取り方、それぞれの人がそれぞれの方法でもって対処するしかない。

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お札を入れる財布と小銭入れを別々に使っている。

先週の金曜日、行きつけのお店で夕飯を食べて会計を済ませようと思ったら小銭入れがカバンにない。その前に寄り道していたが財布は出していない。つまり最後に職場を出たときに小銭入れを忘れているハズだということになった。

カレンダー通りに3連休を過ごすので、3日間は職場にいかない。土曜日を過ごした時点で小銭が溜まる溜まる。あふれるあふれる。日曜日に職場の近所まで行くことになったので急ぎ足で寄り道してみた結果、デスクの周りに小銭入れはない。あー、もう見つからんかも。見当がつかない。どこで落とした。足早に去る。

日曜の後半から月曜まで、さらに小銭が溜まる溜まる。あふれるあふれる。どうしようか。彼はどこへいった。火曜、出勤して隣のデスク(空き机)の端のほうに小銭入れが居た。

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時代劇はほとんど鑑賞しないが、なんとなく劇場で《居眠り磐音》を観た。そのときの感想を今になってまとめた。

松坂桃李が出演している作品は、《ユリゴコロ》(2017)と《不能犯》(2018)くらいしかまともに鑑賞したことはなかった。一応のヒロイン役、木村文乃は《羊の木》(2018)くらいしか見たことがなかった。だが、よくよく辿ってみるとこの2名はTVドラマ《サイレーン 刑事×彼女×完全悪女》(2015)で主役を共演していた。家族が鑑賞する傍らで私もたまに目にしていた。また、同作でのヒール役、菜々緒を加えてみんな同年齢なんだね、という感じである。

本作のストーリーの前提を大まかに残す。

主人公の磐音は、同藩の若手仲間である琴平、慎之輔とともに九州は豊後に帰京した。江戸への出向と修行を終え、藩を盛り上げていくはずだった3人。だが、悪玉にハメられた同志たちは次々に非業の最期を迎え、磐音は江戸で浪人となって生きることとなったのであった…。

4つの殺陣

大きくは4つあったと記憶している。時代劇映画で演じられる殺陣の数の大小などはわからないが、満足感は高かった。どれも意味づけがしっかりしているうえに、ワチャワチャせずに緊張感がある。個別に感想を記そう。

琴平と慎之輔

殺陣と言っていいのか。正気を失った慎之輔を琴平が切り捨てる一瞬のやり取りです。このシーンは、琴平が一家の長子として冷静に事態を収めるスマートさが光っていて、さらに次の殺陣との対比が美しくなる仕組みがある。

琴平と磐音

今度は琴平が半ば正気ではない。が、最後に磐音と「尋常」(ガチンコ)での試合に臨む。柄本佑の演技がねぇ、怒りながらも冷静さを保っていた姿から一転しての狂気ですよ。もう磐音をやっつけかねない勢いで切り結ぶ。よいです。

磐音と毘沙門の統五郎ら

本作唯一の室内戦にして複数戦かな。取り得もよくわからない浪人として扱われていた磐音が本領を発揮する清々しさよ。バサバサやっつけるので残忍さも孕んでいる。狭い部屋のなかというドキドキもある。うん、本作では1番好きかもしれない。

磐音と黒岩十三郎

悪役浪人のひとり、二刀流。この殺陣がいっちゃんアクションしていたのではないだろうか。なにせ二刀流だし、敵に豪傑感があるので細っこい磐音では勝てないのではないかという不安が大きい。ていうか、かなりピンチだったんじゃないかしら。どさくさで決着つかなかったんだっけか。しかし、黒岩の二刀流、ガサツでかっこよかった。

その他のよしなしごと

磐音の暮らす長屋だが、立地がおもしろい。水路沿いにあるのだが、手前の路地の構造がおもしろい。どこかで交錯していてブリッジのような立体になっている。このような状態の路地があったのか、どこかにモデルがあるのか知りたい。夜の部屋、川に面している側の障子に水面が映っていたように思える。ちょっとオシャレすぎる気もしたが、きれいだった。

統五郎、黒岩と結託していた浪人のひとりに、天童赤児という浪人がいた。彼も強者ぽかったが、ストーリーの都合のうえ派手な剣術は披露せずに舞台を去るのでちょっと肩透かしというか、残念であった。

悪役のひとり、柄本明。バタ臭すぎないかという感想もあったが、これくらいベタベタのほうがいいっちゃんね。もうひとり、奥田瑛二。ピエール瀧の代役だったとのことだが、こちらのほうがハマっていたのではないだろうか。ほのめかしの具合がよかった。

なお。磐音の元許嫁で、可哀そうな顛末を迎える。序盤の印象付けと中盤での想起、終盤での登場など、本作のなかで、決して悪くはないが、どれもイマイチピンと来ないシーンが多かった。これは原作のボリュームを映像で補わなければいけないうえでのギリギリの結節点だったのではないか。

木村文乃が演じるおこんとその父、中村梅雀が演じる金兵衛の親子漫才も作品の味付けとして忘れがたい印象を残す。

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