《よこがお》という映画をみて、なんとなく他の人の感想を漁りたくなって、いつもはFilmarksをぼんやり眺めるくらいで、今回はどうしようかなということで、Yahoo!映画 でいくつかの感想をみてみた。
Yahoo!映画だが、割と辛口なコメントが多い。Filmarksは逆に、高得点(好意的)な感想が多く、これはこれで辟易とすることもあるのだが、やっぱり、感想はヘタに辛口を吐くよりもポジティブなほうが害が少ないなぁと思ってしまった。
おもしろいのは「リアリティ」の捉え方で、いくつかの描写に「こんなのはあり得ない」というコメントが複数あった。御説、ごもっともでございます。観客が「リアリティのなさを理由に映画に入り込めない」「おもしろくない」というのも、究極的には制作側の下手となるのだろうが、その線引きをどこに設けるのか。「あえてリアリティを外した演出なのだろうが、上手く作用しているとは思えない」という指摘なら分かるが、そういう例は少ない。
たとえば、今回観た映画ではないが、 私は今年の映画《新聞記者》について、リアリティの扱いにだいたい失敗していると考えている。この作品は社会派、と言ってしまえばそれまでだが、実際に起きている事件などを題材にしており、攻めた姿勢がウリのひとつのはずだった。ではあるが、少なくとも作品内の事件の展開や幕引き、各機関やメディアの描写のあり方、いずれも微妙にファンタジーしていて硬くない。私がターゲットではないと言えば終わりだが、これで社会派作品はないだろう。
というように、《新聞記者》については社会派作品であるはずという「ジャンル」にもとづくリアリティについてネガティブにコメントしてみた。言うまでもなく、作品をジャンル前提に見る必要はまったくない。むしろジャンル前提にすることの弊害の方が気になるが、リアリティというのはその辺の線引きと関りが深いところもあるのだろう。鑑みてみると、リアリティが外れてて違和感を感じるとき、制作側が本来は意識していない側の視点で眺めているのかもしれない。いずれにせよ、生産的な消費をしたいものだ。
昨日の雑記(epub形式で購入した書籍を読むにあたって)の続きだが、GoogleのPlayブックスで読書をしてマーカーを引くと、そのまとめがGoogle Driveに転記されることがわかった。便利だ。Kindleにも類似のシステムがあるが、まとめを記載されたページにアクセスしづらく、またページ上のテキストとして表示されるので、再利用がめんどくさい。実際、ここまで使いやすさに差があると、テキスト系の書籍は全部Playブックスでいいのではないかという気になる。
先日、epub形式の書籍を購入した。まぁ大抵PDFでも読めるようになっているが、ほとんどの場合はepubのほうが軽いようだ。epubのほうが使いまわしが利くような気もするが、リフローが使える以上のepubのメリットがよく分からない。
iPhoneなどのApple製品ではiBooks(であってるかな?)でepubの書類を表示できたはずだ。ただまぁどうなのだろう。メール添付されたepubファイルが開けるのだろうか。最近はますます直接のファイルやり取りはしづらくなっているように思えるが、どうやって自前のepubファイルをiBooksに送るのか、あるいは送れるのかはよくわからない。調べる気もないので、とりあえず、iBooksについてはここまで。
Android、ファイルの直接操作はApple製品と比べると天と地ほど簡単だが、どうにもよさげなビュアーアプリがない。いくつかのアプリから最もまともそうなアプリを見繕ってダウンロードした。その後、epub書籍をGoogle Drive経由で渡したら、Playブックスが反応するではないか。
だがまぁ、まずは落としたアプリで表示してみた。やはり海外製なので文字組が崩れる。読むことはできる。Playブックスも試す。どこに書籍が入ったのかよくわからなかったが何とか見つけて開くと、これがまぁやっぱりそこそこキレイだ。読み上げソフトで音読もしてくれる。悔しいが便利である。
ただまぁ、Googleプレイ周りのアプリは個人の持ち込んだデータとGoogleプレイが販売・管理しているデータのフワッとしたごちゃ混ぜ感があまり得意ではない。しかし、どうなんだろうねぇ、epubは。
ところで、いわゆるPCの場合だが、Macは前述のとおりiBooksがある。こちらはファイルの管理も楽だろう。GoogleのChromebookの場合は、同様にPlayブックスが使えるだろうし、Chrome拡張系のepubリーダーがいくつかあったはずだ。読みやすいとは言わないが。
Windowsは私には未知の領域で、なにやらWindows 10以降の標準ブラウザー「Edge」が表示に対応しているようだが、試したことはない。Windowsストアや個別に開発されたリーダーなどは探す気にもならない。こういうところにもコンシューマーにとってのメインのコンピューターがスマートフォンに移ったという実感が生える。
《天気の子》が米国アカデミー賞の国際長編映画賞部門に出品されることが決まったらしい。外国人にこの作品の骨子がわかるのか謎だなと思うものの《The Shape of Water》(2017)がありなんだから好かろうよ。
どうでもよいが水の表現というのは、おそらくあらゆる芸術活動での最大のテーマのひとつであろうが、先日の金曜ロードショーで《崖の上のポニョ》(2008)が放送された。あの作品、まともに見たのは1回だけだが、あの怪作をテレビでやるのだから凄い(なにがとは言わない)。
今年のアニメ映画《波に乗れたら》は、湯浅政明監督が《夜明け告げるルーのうた》(2017)に続けて水を描いている。スクエア状の特徴的なヤツで、あれは水ではないのかもしれないが、まぁ海なんで水なんですな。
ふたたび海外の作品に目を向けると《モアナと伝説の海》(2016)がある。水の描写が飛びぬけていいということだったが、思い返してもあまり印象に残らない。絶賛する記事はググればたくさん出てくるが、どうにも書き捨てたような内容ばかりではないか。
忘れてならないのは、今年の《海獣の子供》で描かれた海というのは、そのエネルギーが尋常ではなく、今ここまで文章を書いていた気分的には、この文章で上げる作品のなかでは最も重要だと感じたが、ポニョはやっぱりすごいのは、あの物語には話を進めるためのガソリンがほぼないにも関わらず、エネルギーがあるからだ。文章が破綻してるが、まぁいい。
そういえば、雨が街を水没させる作品といえば《ドラえもん のび太と雲の王国》(1992)がある。あれはたしか世界中の文明に鉄槌を下すというような文脈だったと思うが、作中ではまぁ練馬区あたりが水没しているところが描写されたんだろうな(コミックスのみ既読)。私の東京水没初体験は、この作品に捧げたのだったな。
ほとんど興味ないけど《アクアマン》(2018)とかはどんなんだったんだろう。
井上陽水の《最後のニュース》というナンバーをはじめて耳にした。へぇ。1989年の曲だ。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は1962年の作品らしい。ついでに言うと作者は 2年後には亡くなっている。個人的に印象的な作品としては『ドラえもん のび太と雲の王国』だが、この作品は1992年だ。
マズローの欲求5段階説あるいは、ある時期の発展途上国(とされた国々)の訴えではないが、周囲の生活の外側にある環境の問題について人びとが考えうる余裕を持つのは、そのままに余裕があるときに限る。
そもそも地球温暖化(気候変動)について、人間活動が及ぼす影響に関する議論だって、いずれの陣営の筋立てがどれくらい正しいのか、それがいつどの研究で覆されたのか、などなどをフォローするのも大事で、仮にあるスタンスでの主張が信念化してしまっては意味がないのであるからして、難しい。
あるいは最近ではマイクロプラスチックが話題だが、これもプラスチック製品の扱い方の問題なのか、商業的に仕込まれたなんらかの戦略なのか、ナイーブな環境運動の一環なのか、あるいはいずれもが織り込まれた潮流なのかしらないが、全体像がよくわからない。まぁ、まともな本を読んで学べという一言に尽きるのだが。
欧州では「緑の党」と呼ばれる思想、政治のグループがそれなりに勢力を伸ばしているようで、なかなかどうして、そういった思想の強固さに驚くしかないなと最近に思ったという話であった。日本にも「緑の党グリーンズジャパン」があるようだが、まぁパッとせんな。
噂の中国SF『三体』を読み終えたので、社会的な面から感想を残そうかと思って作者のインタビューを漁りはじめたらめんどくさくなって一時停止してしまった。的外れなことを言っても仕方ないけど、自分の感覚から離れたまとめになってもあんまり意味がないし、バランス感覚が必要だね。
『天冥の標』のことを考えていた。本作を途中まで読んだとき、この作品こそ『虚無回廊』(小松左京)を飛び越していくのではと思っていた。読了したいま、そういう企図も少なからずあるように思えるが、全くがそうというワケでもなかろう。
しかし、これだけ長い小説もなぁと思いを巡らせていたら『妖星伝』(半村良)が浮かんだ。連想するには、むしろ遅いくらいだ。いつだったかそう思ったことはあっただろうが、すっかり忘れていた。そうなると、『天冥の標』はむしろ『妖星伝』と呼応するところのほうが大きいのではないかという単純なイメージに繋がった。だが、いかんせん『妖星伝』の結末当たりの話をほとんど覚えていない。
さて、さてさて。
事態に収拾がつかなくなっているように見える。デモが始まったのが6月、もう2か月も続いている。悠長なことは言っていられないが、すごいエネルギーだ。眺めていることしかできないので、とりあえず思ったことを書く。
といっても、特に定まった思いもない。「香港加油」とはいうが、頑張ってほしいのは「香港」なのか。デモの参加者すべてか、香港の若者か、香港の市民か。香港の民主主義的な制度に自覚的、かつ賛成的な市民か。誰に向かってに頑張れと言えばいいのか。
どう転んでも体制にとっていくらでも操作しやすい結果にしかならないのではないかというところもある。たとえば行政長官の林鄭月娥だが、本人は辞めたがっているが辞任が認められないという。追い詰められた長官がどうするか、どうなるかは想像したくもないが、どのような決断を下すにせよ、香港市民のためになる選択肢や結果は少なかろう。暴力の応酬についても同様で、個別の暴動をしらみつぶしに検証するということもできまい。結果的に、どうやって暴力に収拾をつけるかという話になったときどうするか、ということになる。中国本土の市民には権力はない。
そもそも本件の直近の発端が、台湾で発生した香港人カップルの事件に因るというのも何とも皮肉な顛末だ。やるせない。
ヤングマガジンで『雪女と蟹を食う』という作品が連載されている。1巻がこの間発売された。Amazonに集まるレビュー数は作品の勢い(特に1巻については)をよく表すが、確認する限り、そこそこ売れているように思える。高得点でもある。
あらすじは、人生に見切りをつけた男がなぜか美女と逃避行することになる、という作品だ。まぁ、ありきたりです。
『雪女と蟹を食う』というタイトルだが、これはいいよなぁ。まったく意味がわからないが、雪女は美しいだろうし、かといって本来は一緒にいるべき対象じゃないだろうし、ホクホクの蟹を雪女が食べるのか? という疑問も湧く一方で、蟹を食べるのだからコミュニケーションは最小限で済むという安心感も演出できる。
よっぽど展開にひねりを加えないと、あまり長続きしそうにもないし、なんならいつ終わってもおかしくない作品なのだが、というか、まぁ長編にするつもりはないだろうと思ってはいるが、おもしろく読んでいる。このタイトル、いいよなぁ。ふわふわとした関係、時間という夢物語のなかで、少しずつ問題があきらかにされていく展開もいいが、どう着地するのだろうね。しかし、タイトルがいいよなぁ。
『天冥の標』を読み終えたのでメモを掲載しようとしているのだが、いかんせん長大な作品なので、どうしたものかと思っている。手ごわい。長編作品の読書でありがちな問題が登場人物の数と相関関係の複雑化。ただこの作品について言えば人名であまり困ることはなかった。とはいえ、やはり長い作品なのでところどころで誰だかわからなくなったりもする。ずいぶん過去のエピソードで登場した人物が再登場するときなどが一番厄介だよね。
何巻にもおよぶ作品、特にロシアやフランスの古典作品には、登場人物が多い。よく言われるが、正式名称、愛称、名字呼びなどのバリエーションがある場合もあって、苦痛になりかねない。目次の前後に人名録があったり、しおりがガイドになっていることもある。確認して読む小まめさがあれば幸いだが、あいにく私は持ちあわせておらぬ。ガイドの網羅性の問題もあって、重要そうな立ち回りの人物が掲載されていなかったときは泣いた。
というわけで私はもう随分と前から、人名を覚えるのを諦めている。文脈で思い出すか、思い出せなければ所詮はその程度の存在だったのだということにして読み進める。さすがに支障を感じたときに限っては振り返ることとしている。