『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を読んでいた。タイトルが長い。書籍は達人出版会で販売されており、epub 、 PDF で配信される。最初は PDF を Acrobat Reader で読んだが、Google Play ブックスに epub を突っ込んだら割とすんなりと読めることに気がつき、8 月末からツラツラと読んでいた。2 か月半くらい読んでいた計算になる。以下が商品ページになる(URL の命名規則がよくわからん。追記:「情報共有の未来」の続刊という意味か)。

この本のことを知った時期も、経路もよく覚えていない。著者である yomoyomo さんのブログ、YAMDAS現更新履歴 も RSS リーダーに突っ込んではいるがそこまで熱心に読んでいるワケでもない。もう少し言うと、以前から買って読もうかなと何度となく意識していたが、買えていなかった。うろ覚えだが、PayPal 決済が障害になっていたような気がする。ところが、今回はすんなりと購入できたのだった。というか、決済方法にクレジットカードがあるなぁ。それで買えたんだっけ。何も覚えていない。

最初に読んだ解説によれば、本書は「2013年から2016年までのインターネットを巡る思想史の変遷」だという。なるほど、おもしろそうだな。一方で、解説に登場する人物の名前が半分以上わからない。なるほど、不安になるな。結果として、これはどちらも半分ずつ的中という感じで、話題の大半は興味深くておもしろいものの、登場人物や背景についての知識が十分でない場合は、話題をフォローするのが精いっぱいという章も多い。補足するまでもないが、私の知識量などに基づいた話だ。技術的な話題から政治や経済など、扱われている内容は多岐にわたる。

さらに言うと、2013 年から 2016 年という長いようで短い期間であって、短いながらも、その期間にはたくさんの思惑や事件がワーッと起こっている。そのリアルタイムのできごとを扱った記事の集合なワケで、1冊の本の全体像としてまとまっているとも言いがたいところはある(繰り返すが連載記事のまとめだからそりゃね)。個人的な要約としては「CNET や TechCrunch の日本版でたまに掲載される関連記事を追うくらいじゃ足りない、ワールドワイドなインターネットの近況や背景事情、思想の近況を教えてくれる」のが本書かな。

ところで、全部で 50 章にまとめられた本書において、日本国内が中心となる話題といえば、第2章「生成的な場、ユーザ参加型研究がもたらす多様性、そして巨人の肩」、第7章「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」、25章「空がまた暗くなる──鬱と惑いと老害のはざまで」、第33章「思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ」、第35章「ラストスタンド」などであった。漏らしがあるかもしれない。

なぜいきなりドメスティックな点を挙げたかというと、日本におけるインターネット思想とは何じゃろな? と思ったからだ。たとえば、第2章はニコニコ動画から派生したニコニコ学会 β の話題であり、第33章は川上量生の『鈴木さんにも分かるネットの未来』が取り上げられている。同章では、アーキテクチャの話題に敷衍して濱野智史『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか』が紹介されているが、この本だって初出は 2008 年だ(古いから悪いというエクスキューズではない)。第33章では、2015 年に刊行された角川インターネット講座に関連した話題が扱われており、そういえばそんなシリーズもあったなと思い出に浸っていたが、Amazon で確認したら、Kindle 版がセールされているときに買っており、そのまま、まったく目を通していないことに気がついた。

濱野智史 は AKB 関連の新書を出して以来、一般書の舞台には降りてこないから何をやっているのか知らないが、川上量生は実業家と呼ぶのがふさわしいだろうけど、なんかよく分からんことになっている。本書には津田大介もところどころで扱われているが、こちらの方も何かと泥沼だ。なんだ日本のインターネット文化なんて、文化らしい文化が無くなっているんじゃないのという気もしてくる。日本のインターネット文化をけん引するような存在や真面目に思索する方面、そういったムーブメントはあるのか? 今、どこにあるのかしら。

そこまで踏まえて本書を振り返ると、日本に限らず「インターネット文化」なるものは少なくとも従前のイメージから逸脱しつづけていて、それがタイトルともなっている第48章の「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」に繋がってくる、のか? ともなる。それがより具体的にはどういう力学によって齎されているかは本書を読んだら実感されるところであって、私には要約できない。

個人的には、どちらかというとユーザー寄りの立場に近い「第50章 ネットにしか居場所がないということ」が印象に強い(最後にあるのも理由なのだが)。Wikipedia 編集者の愛憎が入り交じったエピソードについての記事だが、どのプラットフォームにおいても所属する参加者たちは、それなりに自分に意味を見出しているわけだ。それを承認欲求の一言で片付けたいとは個人的には思わないのだが、何とも言いがたいよね。同じような事例やそこから発展した事件などは日本国内でもいくらでも起きているわけで、殊更インターネットに限った話とも言いづらいが、インターネットが可能にするコミュニケーションとそこから起こりうる齟齬の大きさの見積もりの難しさというのは、なかなか越えがたい障害なのだなぁ、など。こういったミクロな視点と本書全体がフォローしようとしたマクロな問題群は通底しているのだろうか。考えてみたい(考えないパターンだよこれ)。

ところで、本書で紹介されている重要な書籍の邦訳版など、どうして胡散臭い感じのタイトルや装丁になることが多いんだろうなと思うと、まぁいろいろとツラいよな。

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