6 月には記事をまったく更新しなかった。途中まで書いた記事もあったが、投稿する感じでもなくて止めてしまった。コロナの影響がジワジワとというか、巧妙に分かりづらく、心身を蝕んでいる、実にそう思う。

記録にも残した『三体』の続編『暗黒森林』が 6 月 18 日に発売され、ちまたの書店には平棚に堂々と詰まれていた。いずれ読もうかと思ってはいたが、それがいつになるかは定かではなかった。先日、洗濯中に上巻を買った。前作となる『三体』も Kindle だったので本作もそうしたが、やや困っている。

削除していた Kindle アプリを『暗黒森林』を読むために再インストールしたのだが、適切な日本語フォントがダウンロードできない。そのままでも文字は追えるが、括弧類の記号などは倒れて表示される。読めないことはないが、1 冊を通してこれでは耐えられない。

状況に少しずつ違いを与えてダウンロードを試しているがうまくいかないので節も読み終えていないのに怠くなってきた。解決策を探して試せることは増えたが、本日中にでもやるだろうか。そもそも前作は、Kindle の Web で読んだ気がするが記憶は定かではない。

内容について。ほんの数文を読んだだけだが、単調な文章がわずかに気になった。これって英訳からの翻訳なのだっけ。

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つい最近ほどまでは毎日 10,000 歩が健康に繋がるという話をベースに考えていたが、このところ -2,000 歩の 8,000 歩で考えるようになった。特に根拠は出さない。

歩数を計測することの機器を一般に「歩数計」という。「万歩計」という有名な名称は山佐時計計器株式会社の登録商標らしいが、これもそもそも「一万歩」をベースにネーミングされたものだろう。ググると 2013 年のプレスリリースで、2014 年に本登録商標が 30 周年となる(なった)ことが分かる。最初の販売は 1965 年でこのときはまだ「万歩メーター」だったらしい。いずれにせよ、10,000 歩が基準になっていたことに変わりはないが、この基準はいつから生まれたのか。

歩数計がデジタルになり手に入れやすくなったのも 90 年代半ばくらいかと思うが、東海道五十三次相当を計測できるとか、ポケットピカチュウ(1998)とかが懐かしい。

今では携帯電話、スマートフォンに標準的に装備されているし、スマートウォッチなどでは当然の機能だ。持って歩いているだけで勝手に歩数や運動強度を計測される。スマートフォンはほぼ毎日身につけて生活しているわけだが、すべてのシーンで持っているわけでもないので、ちゃんと計測したいならスマートウォッチを手にしたいという気分になる。

現状、もっとも製品としてのクオリティが高いのは Apple Watch だろう。iPhoneユーザーなどはこれを使えばいい。次点あるいは他の候補が難しく、Fitbit などがいいのか、中華製の安い端末で済むのか判断しづらい。GPS性能や連携機能や充電の効率、耐水性などがポイントになる。

昨年、Withings の Steel HR Sport を購入して使っていた。これは、文字盤がいわゆるアナログ時計で、小さい小窓のようなデジタルパネルが付いているタイプだ。メッセンジャーアプリなどの通知は連携機能として備わっているが、単体で操作できることはない。歩数、距離、心拍、カロリー、睡眠の時間と位相くらいは計測してくれる。あとはアラーム機能か。

強みといえば、電池の持ちがよく、月に1、2度のそれで済む点があげられる。これは、ずぼらな人間には非常にありがたい話だ。パッと見、スマートウォッチに見えない点にも利点はある。

弱みだが、盤面が弱い。すぐに傷がつく。製造や価格の問題でランクが下げられたのだろうが、これは残念で、傷のついた盤面を眺めることによる不愉快さは拭いがたい。

もうひとつの弱みは、シリコン製のベルトだ。装着感はいいのだが、夏場はすぐに臭くなる。お前の体質が悪いといえばそれまでだが、それにしても日持ちしない。毎日洗ってもなんとなく晴れない。肌との接着面側に溝があるのもよくない。しばらく放っておいたら、素材が劣化してとても装着できなくなった。

公式サイトで替えのベルトは販売されているが、革製ベルトが 5,000 円を超えており選択しづらく、シリコン製は同じ穴の狢となってしまう。Amazon で布製の適当なバンドを見繕って注文し、装着しなおしたらそれなりに見れる状態になり、装着感もよい。

ところが、これは失念していたが、このセッティングだと本体の裏面がベルトに遮断されて心拍数が計測できない。どうにもうまくいかないものだ。

とにかく君はあるけばいい。

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キーボードを新調した。自宅でそこまで本格的な入力作業を想定していなかったので、マシンを揃えたときは2,000円もしない安キーボードにしたのだが、昨今の事情で家で作業をすることが増えた。

現在、使っている安キーボードの叩き心地も嫌いではないのだが、まず土台が安定していないようで机との設置の次第ではガタガタと揺れる。こんなことでは話にならない。次いで、テンキーがないモデルであったので、痒いところに手が届かないというか、まとまった値を入力したいときはどうしても作業がもたつく。最後に、配線がどうしても邪魔なので、無線のキーボードが望ましい。というような不満に囲まれた。

今回、在宅勤務者が増えたということで Web カメラをはじめたとした所謂 OA 機器が品薄状態という話を耳にしてはいたが、高パフォーマンス型のキーボードも例外ではなかったようで、ロジクール製の業務向けのキーボードにひとつ目を付けたものの、どの量販店でも売り切れており、公式サイトでも販売がなされていないという状況になっていた。

多少値が張る商品ではあるので、納得できない製品を手にしてもしょうがない。しばらく様子見をしようかということで当分は諦めようと決意した矢先のことであった。

SANOGRAPHIX BLOG さんの最新の記事を読んでいたら、出会った。

自宅の PC 環境の記事だが、使用しているキーボードの Esc キーはビビットなオレンジ色でちょっと怪しいが、かっこいい。これが第一印象だ。古いコンピューターを思い出させられる。紹介されている『Keychron K2』というキーボードは、もともとクラウドファンディングで注目を集めた企画だったそうだが、それがオンライン通販で購入できるとのこと。上記の条件をほぼクリアしており、これはよいものだと直感した。

他に情報を提供しているブログを見てみると、以下のブログは熱心に購入して記事化してくれている。ありがとうございます。

いろいろと情報を読み漁ると、K2 シリーズの次に テンキーが付随する K4 シリーズが出ており、現在はさらにフルキーボードっぽい K6 シリーズのアーリーアダプターを募集しているという状況のようであった。最終的に公式サイトを開くことになった。

最初に K2 シリーズのラインナップを見たが、これらは売り切れていた(と思う)。次に目をつけた K4 シリーズも売り切れが目立つ。駄目かと諦めかけたが、バックライトが RGB つまりフルカラーで点灯するバージョンの赤軸がかろうじて残っていた。本当はバックライトは要らないので、White のバリエーションばかり注視しており、見落とすところであった。この際である。条件を満たしたキーボードが手に入らないよりはマシと思い、これを勢いで購入した。茶軸か赤軸であればいいと思っていたので、これも幸運であった。

注文を確定したのは先週の半ばのことであったが、受注の知らせがない。 Paypal での決済報告で受注完了ということかと思うが、不安はあった。そのまま様子をみることにしたが、週末には発送の知らせが届いていた。この知らせを開封したのが、本日の午前中のことで、そのまま本日中に届いた。製造も販売も特に気にしていなかったのだが、発送元は深圳となっていた。いままで深圳にそれほど注目していなかったが、完全にお世話になることになってしまった。

キートップを Windows 向けのキーに変更し、基本的な使い方をなんとなく覚えてから、ちょろちょろとこの文章を打っている。よいものである。さまざまなバリエーションでイルミネーションが変わるのも気分転換になる。メカニカルキーボードということで本体の厚みが増し、リストレストがあったほうがいいのではという気分になっているが、ますます道具が増えてしまうので、これは要検討といったところだ。

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御時世である。家に引きこもって生産的なことの真似事を続けているが、この夢とも現実とも地獄ともつかぬ不思議な時間がどこまで続くかわからない。可能な限り外食も避けた方がいいわけで、食事を自宅で摂る。惣菜や弁当を摂取しつづけるくらいなら自分で作った方が気分転換にもなるし、なんとなく財布にも身体にもよかろうと思うわけだ。少しでも習慣がない人間には辛かろう。

同じようなことをするひとは増えているようで、Twitter などを眺めていても人様の美味しそうな手料理が並んでいる。よい。

ところで、しばらく前に「あすけん」という食事管理アプリを入れて、各食のカロリーと栄養価のようなものを軽く測ってみた時期があった。いわゆる三大栄養素、炭水化物、タンパク質、脂質をはじめとしてビタミン類、カルシウムなどのミネラル、そして食物繊維などが大体わかるという優れものだ。とてもよいアプリで、よいサービスだと思う。

炭水化物だが、これは実はいわゆる糖質と食物繊維に分かれるようで、どちらかというと糖質の方が主だ。どういうことかというと主食となる穀類の成分の話であり、体内のエネルギーの話だ。エネルギーになるのは、あくまで糖質だ。ただし、炭水化物を成分表示などでみると、糖質と食物繊維に分類されているケースが増えているということ。専門的な話ではなく、ここ数カ月の経験則の話だ。

言うまでもなく、糖質の摂取がいちばん簡単で、次は脂質となっており、これとバランスをとりながらタンパク質を稼ぐのがなかなか難しい。鶏ハムだとかサラダチキンだとかが流行るのはこのお陰というわけだ。だが、まぁまだ何とかなる。

私がもっとも注目したのは、食物繊維だ。これが難しい。野菜を摂れというのは本来は食物繊維のためだと私は勘違いしていたが、 1 日の必要量とされる食物繊維を野菜だけで補うのはかなり厳しい。ご飯にも食物繊維が割と入っているという話も見聞きするが、どんなものだろうか。

大豆類は割と食物繊維を持っており、言うまでもなくタンパク質も豊富なので、納豆がやたらと持て囃される理由も腑に落ちる。ウイルスに効くとは思わないが。

さらに辿っていくと、食物繊維は水溶性と不溶性とに分かれるという。おもしろいのがコンニャクで、これは原料の芋はほぼ水溶性の食物繊維となっているらしいが、コンニャクとして成形された結果は、ほぼ不溶性の食物繊維の塊になるらしい。一部には水溶性と表示されているが、不溶性とするほうが正しいようだ。野菜やナッツ類には不溶性の食物繊維の方が多いらしい。逆に、海藻類や果物類は水溶性の食物繊維が多いらしい。

さて、どっちをどう摂取するのがいいのやらということだが、身も蓋もなくバランスよく採りなさいということだ。で、結論めいたことをいうと、どうも海藻類が手っ取り早いように思える。したがって、これも散々耳にしてきたが、味噌汁というのはぼうみてもバランスのよい料理である。昆布なりワカメなりぶっ込めばいい。どちらかというと昆布のほうがよさそうで、おしゃぶり昆布などの成分をみると、その食物繊維の量に割と感動する。

残り、ビタミンやミネラルだが、信用できる限りはドリンクなりサプリなりが早いなというこれも身も蓋もない結論になった。特にビタミンだが、これは栄養士でもない限りは必要とされる摂取量のバランスなんてとれないよ。魔法使いかよ。

というわけで、私は食物繊維とビタミンには勝てそうもない。勝てそうもないんだ。

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音楽:1980X

頭脳警察のボーカルである PANTA のソロ以降の 5 枚目のアルバム『1980X』という作品がある。ユニットとしては PANTA&HAL のアルバムだ。本作のタイトルは昭和天皇の崩御とそのカウントダウンを裏テーマとしているらしい。たしか、渋谷慶一郎の書いたライナーノーツにそうあったと思う(2000年前後くらいに紙ジャケットで再発された版に入っていた)。PANTA の証言もどこかで読んだかもしれない。収録は、以下の 10 曲で、裏テーマと正しく一致するのは 3 曲目の「臨時ニュース」だ。

  1. トゥ・シューズ
  2. モータードライブ
  3. 臨時ニュース
  4. Audi 80
  5. オートバイ
  6. ルイーズ
  7. トリックスター
  8. キック・ザ・シティ
  9. IDカード
  10. ナイフ

表向き-というか本来のテーマは「東京」で、これは前作の『マラッカ』から地続きとなっている面もある。活気に支えられつつも昭和の終わりがにじり寄るような作品となっているのではないか。私は昭和をほとんど生きておらず、知ったかぶりだが。

私は7曲目の「トリックスター」が1番好きだ。「霧の降る街」というフレーズから始まる。もう最高じゃん。トリックスターがどういう人物なのかは不明だが、街の人たちは彼女を「星屑と間違える」らしい。よい曲です。PATNA は歌詞にて彼女に眠る場所を貸そうとするが、まぁそう上手くもいかないらしい。なんせ相手はトリックスターなんで。

次点で「モータードライブ」「ルイーズ」かな。前者はパパラッチか、あるいはストーカーでもあるかのような描写が続く-そう言うと、気持ち悪いけれども。その対象だが、これはトリックスターでもあるかもしれない。いずれにせよ対象の本当の孤独を知ってるのは、追っている俺だけだというのがミソなんだな。

後者のタイトルが示すルイーズという女性は、これはトリックスターの前身、あるいはモータードライブと同質だが、もっと距離が近い、近い距離にいる対象のようなところがある。「そのデジタルキックは時代のモデル」という歌詞の意味がわからない。ルイーズに「夜を蹴っ飛ばせ」と煽り立てるのは流石っす。

3 曲あげてみたが、結局のところ PANTA が得意とするところの、定まらない対女性のやや甘ったるい世界観が私の好みだということがハッキリしただけか。もちろん他の曲も好きだが、こうなってしまってはしかたない。Xデーというのも近いのかもなと思いながら、本作のことを思い出して記事を書いた。しかし、インターネット時代になったからか「臨時ニュース」というフレーズもあまり聞かないような気もする。

ついで、ではないが、このアルバムと前作『マラッカ』にはプロデューサーに鈴木慶一が入っている。私は詳しくないが「はちみつぱい」と「はっぴぃえんど」は同じ所属だったので、てっきりそれほど PANTA と関係があるわけではないと思っていたが、そうでもなかった。Billboard JAPAN の以下の記事(おそらく 2018年初出)を読むと、当時の様子や経緯がわかって楽しい。

そもそも鈴木慶一については《若女将は小学生》(2018)でも音楽プロデューサーをしていて驚いたのだが、そのときに経歴をみたら、さまざまなジャンルの作品の音楽を手がけていることを知った。ちょっとムーンライダーズを聴いてみようかなと思ったりしてね。

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公開されてすぐに《ジョジョ・ラビット》を観た。アカデミー賞ノミネート作品よろしく、平日の最終回だったが座席は 7 割ほど埋まっていた。

コメディのような調子を持っているが、少年の成長という点で人間愛を描いたようなニュアンスも強い。題材が題材なので、制作にせよ視聴にせよ慎重にならざるを得ない部分はあるだろう。鑑賞中に「こんな題材でこんなコメディっぽく楽しんでいいんだっけ」と冷静になってしまう瞬間もときどきあった。似たような感想はいくつかみかけたので、同じことを感じる人は少なからずいるようだ。

監督のタイワ・ワイティティだが、主人公のイマジナリー・フレンドであるアドルフ(言うまでもなくヒットラーのイメージ)で出演している。監督自身にも直近にユダヤ系の血筋があるとのことで、感じるところはある。脚本も本人だが、本作には一応、原作があるようだ。

主人公は 10 歳の少年:ジョジョで、ナチス政権の教育や宣伝が功を奏したのか熱心なナチス崇拝に堕ちている。とはいえ、彼は根は心がやさしい純朴な少年なので-だからこそ洗脳されたとも言えるのだろうが、行動と言動がチグハグしており、貫徹されるものでないことは明白だ。焦点は、その融解の過程になるだろうか。

偉大なる第三帝国が仮初の存在であることは、冒頭の少年兵キャンプのおけるクレンツェンドルフ大尉の挨拶から提出され、作中の大人たちは実は敗戦を覚悟している節がある。この前提が、本作のバランスを担保している。

少年向けの訓練合宿ででウサギを処理できず逃がそうとしたジョジョに対し、空想上の友であるアドルフはそれを良しとして「ウサギは勇敢でずる賢く強い」と励ました。これはなかなか皮肉が利いている。

ジョジョの母であるロージーは反ナチスで、息子の変節に混乱している面があるが、それは表に出さずに変わらず、愛を注いで接している。また、彼女は自宅にユダヤ少女エルサを匿っており、キャンプでケガをして自宅に居る時間が増えたジョジョが、それを発見してしまうというのが事の起こりだ。

ジョジョは空想上の憎いユダヤ人と、目の前の少女エルサとのギャップに苦しみつつ、徐々に融和していく。まぁ、そりゃそうだね。かわいいお姉さん女の子が突如として現れたら、純朴な少年は抗えない-というのは半ば冗談だが。

本作でもっとも悲しいシーンは、かなりオブラートに包まれている。すでに鑑賞の記憶が薄れてきているが、母はジョジョに愛は蝶のようなものであると伝えた。悲劇の朝、ジョジョは蝶に導かれて事態に直面する。しかし、その克服はかなり奇妙であったのではないか。そして本作でもっとも緊迫するシーンが訪れると-この題材の作品によくあるアレだ-大胆な方法でジョジョとエルサは難を逃れる。

アドルフ、最後に出てくるのは何処かなとワクワクしながら鑑賞していたが、最後の最後でエルサを秘密警察に渡せというところであったっけ。ここでジョジョはアドルフと決別することになるわけだが、ジョジョは「勇敢でずる賢く、強い」生き方を選んだ。これはアドルフ自身がジョジョに発したメッセージでもあった。

彼の選んだ生き方を実践していたのが、ジョジョの母ロージーとクレンツェンドルフ大尉ではないか。この 2 人は作劇場の都合があるとはいえ、自分なりの矜持を守り、できる限り信念に従って行動し、体制や情勢のなかでしぶとく生き抜いている、いたのであった。 クレンツェンドルフ大尉はジョジョを何度も救っている。

作中で私がもっとも好みのシーンは、川原での親子の散策で、対岸から 2 人を映している。大きな石の段が中央を横切って左下にポツンと 2 人がいる。ジョジョはまだ靴紐もまともに 1 人では結べずに、母の手を借りたが、この結び方は蝶々結びである。

母から紡がれた愛は、これを持って、たしかにジョジョからエルサへも伝わったということを思えば、この映画を甲斐もあったものだと実感した。

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IMAX レーザーGTテクノロジー仕様で《地獄の黙示録 ファイナルカット》を鑑賞した。フランシス・コッポラ、作風や周辺の話題が尽きない監督だが、大体が「わからない」と言われている印象がある。いくつか機会を見逃していたが、今回、はじめて味わった。超サイコーじゃないか。賛否両論がある作品のようだが、本作が纏った徹底した矛盾が、独特の魅力を生み出している。

一箇所だけ、キルゴア大佐のけしかける爆撃攻撃シーンでうつらうつらとしてしまった。このシーン、割と人気のようなのだが、状況の読み取りのしづらさに加え、爆音がヘビーすぎて脳の処理が追いつかなかった。ついでにマスクをしながらの鑑賞だったため十分な酸素が回りづらく、ついつい寝落ちた。

クルー

カーツ大佐の居城へ向かうウィラード一行の遡行の旅は、ベトナム戦争のバカバカしさを同行の兵士たちを通して表現する。チーフ、シェフ、ランス、クリーンの 4 名だ。

艇長であるチーフは 1 番まともなキャラクターだが、作戦の目的を知らない彼は、責任感もつきまとい、目的地に近づくほどに頑なになっていく。あげくは現地民の投擲した槍に命を奪われるが、その間際にウィラードを道連れにしようとする。任務の遂行がどうでもよくなっている。死に際で仕方ないとはいえ、狂気に落ちた。直後、他のクルーには作戦を明かされることとなる皮肉もツライ。ついでに言っておくと、ランスに水葬されるチーフのシーン、本作で 1 番好みで、水面の光もよいし、艇にあがるランスの表情もよい。

薬におぼれた機関士、シェフは活躍もほぼなく、一見するとギャグ要員のようだが、ベトナム語とフランス語を喋れるトリリンガルとして非常に優秀だ。ニックネームの通り、もともと料理家を目指していたようで、語学に堪能なのもその流れがあるようだが、こいつがいなかったら話が詰んでる点がユニークだ。チーフの死後、短い間だがまともなキャラクターの地位を引き継ぎ任務をほぼ完遂させたのち、圧巻の最期を迎えるのもよい。ほぼウザいだけだったが、終盤は憎めない。

プロサーファーらしいランスは、まだ少年らしさを残している。補給基地で仕入れたと思しき水上スキーで勝手に遊び出す。フェイスペイントに興じる。自分宛ての郵便に対して「ディズニーランドよりもこっちのほうがよっぽど楽しい」と叫ぶ。ベトナム人の舟から奪った犬を飼いはじめる。カーツの王国には馴染んでしまう。以上のような描写により、ベトナムに、カーツに、順応してしまうタイプの人間として描かれる。これはクリーンとの対比でもある。こんな彼は生き残るのだから世話がない。

最年少の兵士クリーンは、完全に少年だ。彼は本国から離れられない心理を表しており、ラジオから流れてくる「サティスファクション」に合わせて踊ったり、両親からのテープに郷愁を抱いたりとする。すべての人物に関連するテーマだが、クリーンの帰るべき場所は明確で、しかも、割と裕福な家庭の子息であるようだ。そんな彼が脆くも最初に脱落してしまうのは非常に忍びないし、無常であり矛盾でもある-言うまでもない。

作戦の目的

カンボジアへ向かう船中でウィラードはカーツの資料を読み込んでいく。カーツの経歴や実績は見事なもので、軍紀に違反した作戦も、それ単体で評価すれば成果も上がっており、否定しづらいもののようだ。補給所の乱痴気騒ぎや弛んだ同乗のクルーたちを横目にしながら、ウィラードは彼へのシンパシーを深めていく。この同情は作戦の成功には邪魔だろう。ウィラードもカーツの一派に取り込まれる可能性を示され、私はやや動揺したが、果たして結末は。

フランス人との会食

クリーンを失った直後のこと。フランス人の運営するプランテーションに立ち寄り、彼らの歓迎を受ける。一転して日常のような環境に入るが、逆に言えば、ここからが本当の地獄(Apocalypse)の入口になっているわけだ。戦場の真隣にこのような場所があることの不思議でもある。なんとなく《風立ちぬ》の軽井沢での休暇旅行のシーンを思い出してしまった。

会食中のフランス人らは一家であり、男女 6 名ほどいた。彼らは国から見放されかねない状況でもあるが、国を愛しつつ、一方で、この土地にも情があり、家族間の政治的スタンスにもやや隔たりがある。議論がヒートアップするたびに、ひとり、またひとりと席を立っていく。

ロクサーヌとの夜

もうめちゃくちゃ幻想的で、私は嫌いになれない。このシーンは何だろう。ウィラードが自らの心を開いて完全に無防備にされている作中で唯一のシーンでもある。豪奢なあしらいの部屋は、のちに登場するカーツの居城とのうまい対比にもなっているし、カーツの居城で限界状態に晒されて心が無になった彼の状態とも対比できる。

作戦の完了

ウィラードがカーツ暗殺を成功させられたのは何故だろうか。同じ任務を背負ったコルビー大尉はなぜカーツへ恭順してしまったのか。ウィラードとカーツ、またはコルビーとを分けたのは、端的にいえば本国に待ち人がいるか否かであり、カーツは息子が、コルビーには妻が居た。ウィラードはどうか。

ウィラードについては、オープニングで示された通り、とっくに妻から離婚を言い渡されて受理している。本国に帰るべき理由があるひとたちは戦地に留まり、狂気に身を委ねる一方で、ウィラードのような頼りを失った人間が彼らを粛正する。やはりここでも、同乗したクルーと同様に、本人が自覚して本来求めていたはずの立場や居るべき場所が、現実では逆転している。その原因は正常や狂気、あるいは軍務への忠実や誠意、恭順などと白黒つけられるものではないのだろう。

なお、この感想では触れまいと思ったが、この作品は撮影に難航したという事実があるようで、その最大の問題のひとつがカーツ役の俳優のマーロン・ブランドの肥満にあったという。本作、ラスボスのカーツは、ほぼ陰にいて登場から最期まで全身がほぼ映らない。ここでも苦し紛れの光と影が絶妙なな仕事をして美しく、結果的にその不気味さを強調している。想定外への対処が、魅力を増強させているという皮肉も認めざるを得ないのではないか。

バージョンの違いと受容

本作、いくつかのバージョンがある。私の分かった範囲だと初回公開の時点で限定の 70mm 版と通常公開の 35mm 版があり、この 2 つの大きな違いはエンディングのカーツ居城爆撃シーンの有無だそう。35mm のほうに爆撃シーンがある。また、クレジットも 35mm にしかない。

次いで、2001 年に公開された『特別完全版』は、50 分ほどのシーンが追加されているらしく、序盤の最後に登場したプレイメイト達との再会シーン、およびフランス人のプランテーションのシーンが主とのことだ。

最後の今回の『地獄の黙示録 ファイナル・カット』だが、これは『特別完全版』からプレイメイト達との再会を削いでいる点が大きいようだ。なお、後者 2 つのバージョンには、最後の爆撃シーンはない、ようだ。

いくつかの人の感想や批評に目を通したが、最初に 70mm 版を観た人はこれを最高としていることが多いようだ。特別完全版は冗長に過ぎるようだが、プレイメイト達との再会シーンがなくなったファイナル・カット版は収まりがよいとは思わないかしら。

上述したように、母国に家族を残したカーツ、家族を失っているウィラードという対比に加え、戦争のむなしさ、それをある種克服したカーツの居城を繋ぐフランス人のプランテーションという場違いな日常。それを締めくくったロクサーヌとの夜というのは、異様に美しい。

帰るべき場所があるカーツ、それを失ったウィラード、ロクサーヌがいる。一方、戦争の地でウィラードを魅了するカーツ、あるいはロクサーヌがいる。本作はこの 3 人の構造で私は楽しみたい。ファイナル・カットを観られてよかった。奇妙な作品であることには変わりないが、明確に魅力がある作品であった。

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『100日後に死ぬワニ』というコンテンツがあるが、私はファンではないし、どちらかといえば嫌いなのだが、「ある作品」であることには変わりないので、自分がそれをどう捉えるかを自分なりに考えることには関心がある。なお、100 日目に何が起きたかのは知らないままだ。連載もたまに目に入ったときに気が向けば読んだくらいで、おそらく 10 本読んだか読んでいないかくらいだ。

連載は 1 日 1 回の 4 コマ漫画形式で、おそらくそれで 作品内の1 日が経過している。あるいは「100日後に死ぬ」が読者の実時間に対応しているだけなのかもしれないが、考えづらいので退ける。つまり連載の 100 日とワニの 100 日が連動している。新しいものではないかもしれないが、ユニークだ。

タイトルからしてブラックジョークというか、端的にいって不穏さを感じるが、そんなこと言ったら異常なタイトルの作品というのはたくさんある。 私が本作に感じる不快感は、タイトルにある死というモチーフが、さらに連載の実時間に連動している点にあるのではないか、と自問自答している。他に考えられることといえば、作風はあくまでうだつの上がらない感じのワニのほのぼのとした小さな日常が中心で、死に直面する内容ではないからかもしれない。唐突な死を演出するにあたって、100 日はあまりにも長すぎはしないかという心苦しさだ。

結果として、予想した通りというか-ネガティブな意味での批判のような記事が溢れかえった。私は予想されたこの流れまで含めて敬遠していたので、今のところどの記事にも目は通しておらず、あくまで記事の見出しに拠った意見ではある。どのような観点からの批判が多いのだろうか-読まないけど。

ここまでの流れを含めて、連載中は少なくともワニという作品を楽しんでいた人がたくさん居たのも、おそらく事実だし、私は結末は知らないが、完結をみて満足した人もいろいろなことを考えた人も、千差万別居ただろう。結末を迎えて不快になったという人も、もしかしたら居るかもしれない。

それがどの点に言及されたかにかかわらず、論争を生み出したり、話題性を孕んでいる作品というのは、それだけである意味でよい作品だろう。逆にそれがネガティブに反応される結果になったとしてもだ。

これ以上は特に触れることもないが、 『100日後に死ぬワニ』 を読んで楽しんだり、考えたりして、生活にプラスになることが一人でも多くにあるなら幸福なことだね。

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というのはウソなんだけど。

Mediumをどうやって使いたいか

Medium というサービスがあって-まぁ誰でも知ってるか、そこそこ収益化に失敗している、というようなニュースを過去に目にしつつ、昨今の動向はよく分からない。少なくとも、日本での事業は縮小したらしいというところまでは覚えている。

ただまぁ、なんかしら魅力があるプラットフォームだとは思っており、なんか使い道ないかなと最近あらためて感じつつ、日本人ユーザーが可視化されづらいなら日本語でつまらない日記でも書こうなぁなどと思ったりしてな。

日本語ユーザーが可視化されない大きな理由のひとつは、そういうシステムだからなのだけれど、以下のようなグループもあるらしくて、少ないながらも日本語ユーザーで連帯しようという気概を感じる。よい。

Medium側では以下のページだ。パブリケーションって note でいうところのクリップ? マガジン? みたいなやつかな。どっちもよくわからないけど。

気が向いたら、なんとなく眺めてみたいな。

遅いインターネットとな

Twitter を眺めていたら、以前に触れた濱野智史の名前をひさびさに見かけたので何事かと思ったら、宇野常寛の新しい企画「遅いインターネット」という媒体の対談記事が出てきた。

ははぁ。この企画-というか Web メディア「遅いインターネット」は、本年の 2 月から公表されている。企画自体は「2年と少し前」に思いついたらしい。私は宇野さんの熱心なフォロワーではないので、その考えるところはあまり分からないのだが、いいタイトルの企画だなとは思った。以下の宣言の内容もざっと目を通した限りでは嫌いじゃない-ざっとな。

ただし、この企画のページ、全体の構造や相互のリンクがわかりづらいところがややあって、それが慣れの問題なのか、スマホ最適化の問題なのか、設計思想の問題なのかよくわからない。たとえば、上記の「遅いインターネット宣言2020」へのリンクがどこから辿れるのか、どうやって見つけたのか、自分でもよくわからない。

また、関連ページを眺め終わって、引用しようとした文章もどこかへ行ってしまった。曰く「10年後もGoogle検索に残っているような」という文句について「はぁ、そうなの」と思ったのだが、見当たらない。と困ってたら、あった。note じゃんけ。

このウェブマガジンはタイムラインの潮目を読んで、瞬間最大風速を強くすることだけを考えがちな今日のインターネットメディアとは距離を置いて、5年、10年と読み継がれる記事をグーグルの検索に引っかかりやすいところにおいておく、という一種の「ネットサーフィン復権運動」だ。

https://note.com/wakusei2nduno/n/n0d20f6d6359f

なんとなく思ったことは 2 つあって、いわゆる速いインターネットの象徴のような Google を基準にしてしまっていいのかなという点と、同じようにそもそも「ネットサーフィン」という文化は Google 以前だったのでは、という話だ。

「ネットサーフィン」については私も記事にしようとし、ほったらかしている状態のゴミ原稿があるのだが、この語はリンク集時代の産物なのではないだろうか。なので私は、以前にもここやどこか別のところでも書いたかもだが、ソーシャルブックマークのような存在のもっと個人に寄り添ったバリエーションが欲しいなと思っている。そこにこそ、宇野さんの「遅い」に託されるようなニュアンスを求めている。

話がとっ散らかったので終わりにするが、最近のインターネットに潮目みたいなのを感じる向きはあるよね-ずっとか。

最後に、最近割と面白いなとなったのは、東浩紀のゲンロンも宇野常寛の PLANETS も動画放送(または双方向的ななにか)の媒体としてはニコニコチャンネル(ニコニコ動画)の運営を維持しているんだよね。会員の囲い込みやすさ、字幕動画の有利性なんかの優位が残ったままなんだろうかね。

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《1917 命をかけた伝令》を観た。まだいくつかの劇場で上映しているようだが、まぁ感想をあげてしまおう。

ワンカットで撮影された(ようにみえる)作品という話題性が先行していたが、それなりにはおもしろかった。実際にカメラは途切れないようにみえるが、遮蔽物や暗転などを使って状況の切れ目は表現されているので、あまり違和感はなかったものの、どこが切断点なのかはハッキリわかるところもあれば、ここじゃないかと推測できる点も多々あった。

カメラという点では、いくつかの感想にある 1 人称視点のゲーム(FPS)っぽい雰囲気もたしかにあったが、ところどころで主人公らから十分に遠ざかりもするので、同じ場所にいると仮定された人間の視点としては撮りようのないショットもいくつかあり、FPS 的なゲームっぽさはそこまで喚起されなかったかな。

それよりもゲームに近いという意味では、物語の目詰まり感のほうがよほど気になるもので、話を完結させるべく目まぐるしいくらいに色々なイベントが起こる。「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあるくらいなので、ある人間の人生のひと時にはこのような瞬間もあるのかもしれないが、それにしても異様に思えた。そういう違和を残せただけで、本作は成功なのかもしれない。

ひとつだけ。

主人公は壕のなかの爆発で目を傷める。そのときに水筒の水をほぼ使い切ってしまう。少し歩みを進めると、平原に一軒家に放置された乳牛。ふーん、まぁ不自然とはあえては言わぬが、というシチュエーション。搾りたてのまま放置されたミルク。水筒に補給する主人公。まぁな、水分が必要なのはわかるけどいつ腐るかわからないものを入れるか? と思う。まぁいい。

しばらく経ち(3 ~ 5 時間程度だろうか)、目的地付近の町に着く。町は何が燃えているのか分からないくらいの異様な炎に包まれている。劇中でもっとも幻想的なのはこのシーンではないか。敵兵に追われた主人公は空き家に逃げ込む。あぁ、女性が出てくるシーンだなと思ったら、本当に出てきた。逃げ遅れた女性と置き去りにされた乳児が居た。マジか、このフラグを回収するためにお前はミルクを入手していたのか、となる。

まぁ、こんな作品だ。

個人的に気になったのは、この家屋を去るとき、主人公が扉をきちんと閉じなかった点で、状況の臨場感のためか、あるいは彼の心理状態までを反映したうえでの演出か、なかなか判断しづらいのだが、私はきちんと扉を閉めてほしかった。そこは、カメラを先行させる、別ルートから移動させるという手段をもってしても、そうしてほしかった。

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