《The 39 Steps》(邦題:三十九夜)を観た。イギリス時代のヒッチコックの作品だ。Amazon Prime に入っていたが、早々にラインナップから消えるという情報もあった。現時点でどうなっているかは知らない。

邦題は『三十九夜』となっているが、どうしてこういうタイトルが採用されたのかは、よく分からない。39 日間の出来事かとも思いながら見ていたが、どうみても 3、4 日間しか経っていない。 “39 Steps” が何なのかは大した秘密ではないが、作中では明らかになる。ちなみに原作小説があることも知らなかったが、こちらの邦訳のタイトルはきちんと『三十九階段』となっている。

なかなか突飛な展開で、ツッコミどころは多々あるが、それらを意に介さない勢いでハラハラドキドキが止まらないのは流石としか言いようがない。オチも劇的だが、そこに関しても見事にオチているので、これも素晴らしい。

即興の演説がウケてしまうシーン、滝裏に隠れるシーンなどが印象深いかな。結末のシーンに 5 分程度しか使われていない点もおもしろかった。

ところで主人公ハネイが 、 逃亡劇のなかで田舎の小作農家に投宿するシーンがある。小作農の若妻マーガレットは彼が逃亡者であることに気づくが、ハネイの説得で彼の無実を信じたようだ。この状況は、小作農(役名はジョン)が彼らの浮気を疑い屋外の窓から 2 人の口論を眺めているシーンに絡めて処理されている。とても上手い。

いずれにせよ、ハネイの無実をどうしてマーガレットが信じたのかは分からず、これを田舎の純朴な女性だったからという解釈もできそうだが、その後にハネイを逃がすための段取りの取り方、彼への説得の仕方などをみていると、どうみても彼女はデキル人間なのである。愛おしい。

その後、後半のどこかのシーンで、ジョンとマーガレットの小諍いが挟み込まれたが、あれはどういう意図だったのかね。なんというか、マーガレットの存在こそが本作の味わいではないかという気がするよ。じっくり考えてみたい課題である。

なお、マーガレットを演じている女優:ペギー・アシュクロフト(Peggy Ashcroft)だが、大女優とも呼ばれるのではないかというくらいの方っぽいな。 1984 年の《インドへの道》(A Passage to India)という映画では、アカデミー助演女優賞も受賞している。この映画も見てみたくなった。

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昨年から本格的に使っていた Notion が最新の更新で日本語検索に対応した。技術的な詳細は分からないが、今までは欧文をはじめとした単語間にブランクが入ったキーワードの検索しかできなかったが、今回の更新で文字列が途切れない日本語のような言語の文字列検索が効くようになった、ということで大まかには正しいと思われる。

過去の 2 回の記事( 検索できないというのは弱さか汎用的ではないツールを使いたい )で Notion に触れたが、結局のところ毎日の日記のようなメモは Notion に回帰している。適当に書き散らして機能側がそれなりに階層化してくれるのが使いやすい。

無料版で作成できるブロックが 1,000 までなので本格的に文章を放り込むとなると、有料版にせねばならないが、そこそこ使いやすい価格設定で安心ではなかろうか。

どうでもいいが、ノースサンドという会社 が社内での Notion 活用を全面的にバックアップしており、それを会社のプロモーションにも使っているような節があって興味深い。実際の Notion の方を呼んでインタビューのようなことをやっている。

総合的なマニュアルサイトも立ち上げており、心強い感じがする。

マニアックなユーザー達によって、さらなる使いこなしが模索されており 2019 年末には Notion の Advent Calendar がいくつか立ち上がっていた。ゴリゴリにカスタマイズしたい人には参考になるだろうと思う。

私はやらないけど。

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2019 年には少しペースが落ちたと思うが、2016 年くらいから意識的に新作映画を観る機会を増やしている。で、「子供を失う話」について考えていた。作品の要素として「子供を失う」という題材、振り返ってみると「多いのでは?」という話だ。以下は自分のイメージに該当した作品のリストだ。括弧内は制作年となっており、日本公開が 1 年ずれていたりするので、まぁ大体のアレです。ネタバレを含むので注意されたい。

  • 《マンチェスター・バイ・ザ・シー》(2016)
  • 《メッセージ》(2016)
  • 《ウインド・リバー》(2017)
  • 《運命は踊る》(2017)
  • 《スリー・ビルボード》(2017)
  • 《search/サーチ》(2018)
  • 《ファースト・マン》(2018)
  • 《へレディタリー 継承》(2018)

《マンチェスター・バイ・ザ・シー》

甥の後見人となっていた主人公。父親を失った甥との距離感に苦しむが、彼自身が 2 子を失っていた事実が終盤で明かされる。火災による事故だ。どうした設定か、昇華しきれない苦しみがある。主人公は子を失った地に滞在すること能わず、甥との生活を断念するが、最後に僅かでも心の交流があった。

《メッセージ》

邦訳の最新作『息吹』が発売されたテッド・チャンの傑作映画化だが、SF 的なトリッキーさで娘が亡くなったことと、主人公によって解明される事実が明かになっていく。この娘は難病で亡くなる。映画版は、娘のエピソードは脇役になっているが、原作はどちらかというと娘への伝言という体裁だったか。

《ウインド・リバー》

主人公の娘が亡くなるわけではないが、と思ってあらすじを確認したら、やはりこちらも主人公の娘が亡くなっていた。記憶とは曖昧なものだ。暴行によるものだ。ワイオミング州のネイティブ・アメリカン地区での悲劇をサスペンス、アクションなどであしらった社会派作品で、テーマは相当に重たいが、よく出来てきて、かなり好きな作品だ。なお、ワインスタイン配給の映画というなんという皮肉か。

《運命は踊る》

この映画もめちゃくちゃいい。イスラエル映画だ。この作品では主人公の息子が亡くなる。結論から言うと交通事故だ。中盤まで本当に亡くなったのか、どうして亡くなったのかよく分からない。そして事態は反転し、逆回転する。憔悴する主人公と妻との関係性に重きがある。息子の死はある事件の報いのような部分も感じられるが、これは日本人なり私なりの感性の問題のような気もする。

《スリー・ビルボード》

主人公の娘が亡くなる。これも暴行によるものだったと記憶しているが、炎上により詳細は判明していないんだっけな。《ウインド・リバー》同様に社会派の作品だが、表層的にはもっと混沌としている。エンディングの余韻がいいんだが、モヤモヤとさせられる作品ではあった。狙いは抽象的なところなのかな。

《search/サーチ》

この作品はこのリスト中では例外的で、実は娘は失われていない。最後に救出される。娘が帰ってこない父の不安と焦燥をコンピューター画面越しに描写するという妙技がキモの作品だ。父子家庭なりの苦しみがある。あらすじを思い出していたのだが、まぁ真っ当なエンターテインメントらしい結末だったな。

《ファースト・マン》

これは実話がベースなのだが、つまりアポロ 11 号のニール・アームストロング機長の娘、カレン・アームストロングがわずか 2 歳で亡くなっている。本作の月探査の情景は、娘の死と重なり合うところが大きいように描かれていた。そして帰還後の融和よ。しかし、調べてみると後年離婚しているようだ。

《へレディタリー 継承》

ホラー映画だが、主人公の娘が亡くなる。というか家族がほぼ全滅する。演出の妙というか広告の妙というか、娘にはもっと役割があるのかと思ったらそうでもなかった。そういう肩透かしを狙っているのか、私の勝手な思い込みか。なんで大ヒットしたのかよくわからないんだよなぁ。悪魔崇拝とか知らんわ。

まとめのようなメモ

というわけで、ジャンルに関わらず子が亡くなる作品というのはたくさんある。社会派作品の主眼は暴行の被害となる女子などであることが少なくなさそうだが、どうなんだろう。また、これも言うまでもなさそうだが、親のエゴやある種の怠慢によっての落命なども目に入る。今回のリストには病死も 2 件あった。

子の 1 番の親孝行は親よりも長生きすること、とはよく言ったもので、逆に言えば親にとっての最大の不幸のひとつが子を失うことだろう。作品のテーマがどこにあろうとも、フィクションにおいて大きなフックとなり得る要素であることに違いはないものな。

ところで、この期間に鑑賞した日本の映画( 2016 – 2019 くらい)でそういった作品を観ていない気がする。自分がそういう作品に触れていないだけだろうが、どういう作品をリストアップできるだろうか。家族を扱った作品はいくつでもあるように思うが、どうだろう。未見だが《人魚の眠る家》(2018)は、そのような話といえるのかもしれない。見てみるか。

しかし、どうしても《攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL》のあのセリフが思い浮かんでしまう。「まるで天使みたいに笑って」。

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このゴミの集積場のようなブログにも一応下書きのような書き溜めはいくつかあり、2020 年になって少しばかり整理したのだが、放っておいても単独の記事とはできそうもないメモをまとめて放出することでアウトプットとしたい。

展覧:ラファエロ前派の軌跡

昨年、三菱一号美術館で開催されていた《ラファエロ前派の軌跡》展のメモです。5 月 1 日に野次馬根性で皇居周りを散歩した次いでに訪問した。当日は小雨が降っていたかな。以前も同派の展覧会に出向いた記憶があり、少し調べてみると直近だと森アーツセンターギャラリー(2014)か、Bunkamura(2015-2016)が該当したので、おそらく後者にいったと思われる。

ロセッティとエドワード・バーン=ジョーンズの作品などをメモしていたが、それ以上深入りしていない。少し調べたら年末に大阪でも開催されていたらしい。融通しやすいんだろうな。

《あかねさす少女》

2018 年の作品だが、昨年に鑑賞した。キャラクター原案が桂正和で、良くも悪くも人物が濃い。並行世界ものっぽさにロードムービーっぽさが相まっている。みんなハッピーなエンディングではなかったが、前向きな心地よさはあったと記憶している。

《GODZILLA》アニメゴジラ三部作

これも 2018 年だ。決戦都市編の 2 作目が 1 番好きだったかな。

最終決戦でハルオはメトフィエスによるギドラ崇拝的な滅亡を拒んだ。ギドラによる滅亡というのはゴジラによる破壊とは次元が異なり、対ギドラにおいてはゴジラとハルオは共闘的な関係になる。まぁ、わかる。

エンディングとその後はあまり覚えていないのだが、現地民との共生を始めたクルーたちは、ナノメタル細胞を発見してイケイケムードになるが、その危険性を知ったハルオはゴジラに特攻するみたいなオチだったと思う。

ハルオの特攻の目的だが、いままでの憎しみベースのもではなく、あくまで現行の幸せなコミュニティをできるだけ長引かせたいという欲求に基づくものだった、と思わせられるが、その辺の扱いは唐突というか、ハルオ自身の行動や理念めいた考え方があまりに人間的すぎて、それが作品の魅力とはなっていないようなところがシリーズ全体の謎だった。

《劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~》

これは、2019 年だ。ユーフォニアムチームが主題だったかな。夏紀のファンなので、それはうれしかった。本アニメシリーズの序盤は久美子の棒読みが声優さんの初々しさに重なっていたような気がするが、もはやキャラクターと同一化している。どこかしら他人事っぽさがあったり、マイペースであったりするところとか。

奏が麗奈と久美子の仲の良さについては他人に指摘されるまで気がついていなかった点があったと思うが、そこが非常に気になった、とメモしてある。さまざまな意味が考えられるが、ちゃんと観察しているようでそうでもないというところかな。

俺ガイル

これは 2018 年に鑑賞したのではという感じだが、アニメ《俺の青春ラブコメはまちがっている》を2期分だけ観た。タイトル通り、青春ラブコメなのだが、ラブのあたりがかなりバックヤードに押しやられており、その代わりに展開されるのは主人公である八幡(はちまん)の人間性だ。嫌われ役を買って出て周囲のバランスを調整するというピカレスクロマンみたいな面がある作品だ。そういったところの細やかな心情を扱ったラブコメだという狙いはわかる。

本筋の人物ではないが、キーマンとはなっているヒロイン姉の扱い方と捉え方が難しかったと記憶しており、リアリティラインとまではいわないが、どうにもその点ですんなり鑑賞と思考が進まなかったな。文章なら流せるのかもしれない。原作は完結したということなので、気が向いたら読んでみたい。

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最近、this.kiji.is から始まる URL の記事をちょくちょく見る機会が増えている。以降には適当な英数字が割り当てられており、 “this.kiji.is” が媒体となっているわけだが、これは一体なんなのか少し気になっていた。共同通信の記事本体などは、この URL で発行されているようだし、地方新聞社の記事などでもたまに目にする。

ノアドット株式会社が運営するサービスだということが分かる。この会社名について気になる点がひとつあって、アルファベット表記にしたとき「頭文字は大文字なのだろうか、小文字なのだろうか」という点だ。 Web ページのタイトルとフッターの権利者表示は “N” が振られている一方で、ロゴは小文字の “n” であしらわれている。

まぁどっちでもいい。

で、まぁ経営者を辿って以下のインタビューを読んだ。

中瀬氏だが、出版社の編集、記者ののち Yahoo! ニュースでの記事編成などをしていたらしい。そこから独立したということかな。すごいね。上記リンク先のインタビューを読めば、どういう仕組みかは分かるが、引用すると以下のようなことらしい。

つまり、記事の流通コストを外部化しながら、ブランド認知の拡大と収益獲得の主導権保持ができるわけです。ここが、強大な集客力を持ったニュースアグリゲーターに記事を配信して、おこぼれの収益やバックリンクをもらってウェブサイトのPVを伸ばせる代わりに収益の大半とブランド認知を失う、という既存モデルと異なるところです。

https://digiday.jp/platforms/nordot-nakase-ryutaro/

さらに踏み込んで、基本的なコンセプトは以下のように語られている。

いずれにしても根本にあるのは、コストをかけて作られたコンテンツをもっと効率的・効果的に流通させるための共同体と、それを実現するデジタルインフラをパブリッシャー自身が主導して創り上げていくという考え方です。

https://digiday.jp/platforms/nordot-nakase-ryutaro/

いやぁ、おもしろいや。コンテンツの作成から配信まで経験したうえでのアイディアと理念、システム作りが結実したということがよく分かる。カッコいい。

ところで、記事作成元との契約に従うのだろうが、すべての記事が公開されたままということも少なそうで、読者が “this.kiji.is” から提供された URL をアーカイブのリンクとして位置づけるのは難しそうだなという印象も持った(詳しく調べたわけではないので、実際にどういう動きを取っているのか存ぜぬ)。

追記:20200109

同日中に追記かますなと自分でも思うが、山本さんの以下の記事は目を通しておきたいなぁとなった。「配信戦争勃発」と「独り勝ち」が併記されている煽り力の強いタイトルだ。

ついでにメモしておくと上記の記事で言及されている年末の Newsweek 日本版による「進撃のYahoo!」なる特集がある。私は目を通していないが、HUFFPOST に概要版みたいな記事もあがっている。

何だかんだで日経新聞が強いなぁという身も蓋もない感想に落ち着いたりする。

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新国立競技場が稼働し始めたということで、年末くらいから同施設関連の情報が勝手に入ってくる状態になった。天皇杯決勝の映像であったり、メディアの報道であったり、上空のヘリコプターから撮影された映像もあれば、Twitter 経由で訪問者が投稿した現地の写真なども目にした。で、まぁ、お世辞にもカッコいい施設とは思えず、特に上空からの図がダサい。

一方、年末から路線を停止して実施された地下鉄銀座線の渋谷駅の移設新設だが、こちらもホームの写真などが回ってくるようになった。ホームの写真はなんとなくカッコいいように見えるが、M 字型の白いアーチは肋骨にみえる。 Twitter で検索してみると、近代的だとか近未来的だとかいった形容があり、それぞれだなという感じだが、あくまで現代的ではないようで、そのへんが面白い。現代的な鉄道のホームのデザインとはどんなもんだろうか。導線がエグくなってしまったというツイートもちらほらと見かけたが、私はユーザーではないので分からない。

以下のようなニュースもあった。イメージデザインなども載っているが、どれくらい魅力的に見えるだろうか。よくわからない。

もうひとつ、CES の記者会見とやらでトヨタが発表したというスマートシティ構想だが、ようやく世界標準の規模とスケールをもった建築やら都市開発プランに見える。豊田さん、流石っす。

巷で予言されているように、日本社会が縮小していくことが必定であるとしたら、建築物を含めたデザインもそれを織り込んだものにはなるのだろうね。

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令和元年が 7 カ月ほどで無事に終わり、令和 2 年となった。いわゆる西暦は 2020 年だ。昨年の日記に目を通すとダラダラと生きていることが判明するばかりだが、ところどころに抵抗の痕跡が見受けられた。頑張って生きているんだ。

今年だが、とりあえず読書のペースを戻したい。月に2本を最低限とするところから目標としたい。年末年始に『ジョン・ロック―神と人間との間』(岩波新書 2018)を読んでいたが、これも終わったのでメモを残すこともしておきたい。

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赤の他人に救われるということは、人生で数えるほどしかないのではないか。「社会はすべての人で成り立っている」とかいう話ではなくてもっと直接的な事例の話としたい。

具体的な例をあげれば「電車のホームで落ちたところを助けられた」とか、あるいは抽象的な例としては「あの人の作品に感銘を受けて人生が一変した」などをイメージする。

なんなら「道端ですれ違いざまに落としたハンカチを拾ってもらった」などもカテゴライズされうるが、落とし物を拾ってくれた相手の顔を覚えていられるのも何時までだろうか。

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『AIの遺電子 』および『AIの遺電子 RED QUEEN』(山田胡瓜)のシリーズが完結していた。なんとなく読んでいなかった最終の 2 巻を読んだ。その感想は別に書いておきたい気もするのだが、ネタバレと言うか、ゲーム世界の扱いについて気になることがあったので、それについてのメモを残す。

言うてしまうと『ゲームの王国』(小川哲)や『三体』(劉慈欣)などで似たようなギミックを見たからなのだが、つまるところゲーム世界が現実の問題を解決させる糸口になっているというところで、昔から用いられた設定ではあると思うが、扱われ方にちょっと差が出てきたようなという違和感があるということだ。あくまで「ソードアートオンライン」シリーズなどとは異なる感覚だということは明らかにしておきたい。

VR 機器が発達したからこその影響とも思えるのだが、それだけで済ませていいのかもよく分からない。この感覚がそれなりに妥当であるかも実はあまり自信がない。

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突然だが、スマートフォンで公に公開する文章を書くと明言しているのをネットで見かけたのは、SF 作家の藤井太陽や、いろいろな人である山本一郎がいる。もしくは、今日の大学生はレポートばかりでなく卒論までスマートフォンで記述し、それを Word なりにコピー&ペーストして出力するというが、もはや極端な例とも言いがたいようだ。あるいは別の話だが、脳波による文字入力が実現したというニュースもちらほらと目に入るようになってきた。一般に実用化される日が来てもおかしくなさそうだ。

で、私はスマートフォンで長文を入力する気にならない。ここ数年、個人的にも世の趨勢的にも Chromebook ブームが来ており、いくつかの端末を試していた。ちょっと、ババッと、デジタルにメモしたいときに役立つし、ネットサーフィンだけなら十分な性能を持つ。何より安価である。Chrome OS も搭載されているアプリも悪くない。ではあるのだが、ハードウェアに総じて不満が大きい。市場が拡大するにつれて徐々に進歩しているが、ここ最近は手を出す気分が小さくなっている。

また、そもそも持ち運ぶことを前提にしたいので 13 inch 以下で 11 inch 前後を前提にしているのだが、そういったなかで久々に iPad に戻ればいいんじゃないのという意識が芽生えた。 Smart Keyboard Folio を装備するという思い切りが必要になるが、ひさびさに縁遠いデバイスに触りたいという欲求もある。

実現するとしたら年明けだろうな。どうしようかな。

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