「衝撃の問題作!」という気分で鑑賞に望んだが、趣は藝術映画の類で、さらに言えばやや退屈だった。撮影の工夫なのか、映しづらい対象が多いためか知らないが、 人体の接写が眠たくなるほどに多い。また、揺れが大きいタイプの画面が多いので、これも眠気を誘う。眠い。序盤、ややうつらうつらとしてしまった。

主人公のジャックは建築家だか技師だかのシリアルキラーで、藝術家を気どっている。また、強迫性障害だと自白している。アメリカのどこだか分からぬが、田舎の広大な土地を所有しているようで、その一角に家を建てる計画を実行中だ。あとで調べたら、彼は技師らしく、自らのコンセプトの家を建てることで建築家(藝術家)と昇華されることを望んでいた節もあるようだ。

家といっても理念的なモデルをそのまま現実にしようというような体で、作中ではブロック作りからはじまり、木造の木組みへ切り替え、これも何度か試して組んでは放棄し、最終的にはコンクリートかモルタルかしらぬが、そういった構造物が一応完成したものとして提示される。だが貧弱である。後述する。

ジャックだが、初登場時は爺さんかと思わせられるような風貌で、ひとびとの命を奪うたびに若返っていく。まぁ分かりやすい。また、そのたびに強迫性障害が軽くなっていったと自白もしている。これらの表現をどう捉えればいいのか。そういったことを考える必要があるのか。時間の無駄ではないか。

作劇としては 5 つの幕とエピローグに分かれており、メインで進む物語の傍らでジャックとウェルギを名乗る老人との対話が差し込まれる。ウェルギが何者なのかは大体察しがつき、透けてみえる。人類社会の善と悪、あるいは藝術とは、というようなテーマをジャックに仮託して語っている風だが、本当にそうか。あるいはこのテーマはどれくらい斬新なのか。そういったことを考える必要があるのか。

個人的には第 3 幕の序盤の映像がおもしろかった。この映画がやりたいことの意味が分かったような気がしたからだ。振り返ってみれば、第 1 幕は衝動的、第 2 幕ははじめて自覚を持った段階、目的はまだ自分でもよく分かってない。第 3 幕は、家族と狩りをテーマにしており、言い方はなんだが視野が拡がっていく。翻って、内省も進んで第 4 幕は家族よりもパーソナルな愛と本人が嘯く。〆としての第 5 幕は大量殺人だ。

こういった経緯を辿る主人公の独白は、どのように言い繕っても陳腐にならざるを得ない。少なくとも私には目新しさはなかった。一方で、人間の歴史、藝術の歴史において命を奪うことにどのような意味があったのか、表現されてきたか。いかに肯定、否定されてきたのかという問いに対し、誰もうまく答えられないというジレンマは観客も解消しきれないわけで、愚直に考えようとすれば本作の生命線はそこにしかない。そういったことを考える必要があるのか。

本作、ハラハラドキドキするように作られているわけでもなければ、特別に胃のムカつきとか胸糞悪さとかも起きないようになっている(もともとこういったジャンルが苦手だったり、嫌悪している人物は別にして)。それは凄いのかもしれない。人体の接写が眠たいのも、その目的があるのかもしれない。殺人を扱い、それを肯定も否定もしないということであれば、そのような表現、つまり美しくもなければ特別汚らしくもなく、それらをただ映しているだけであるべきかもしれない。ただ、物語の展開については、中盤以降ちょっとだけドキドキしてしまった自分が悔しい。

最終的にジャックの建てる家が、どういうものなのか。これも中盤くらいから大方予想がついたので、何を今さら感があった。これを藝術というのならそれが何に繋がるのかという解釈も、観たままのものだったら、やっぱりおもしろいとはいえないと思う。そういったことを考える必要があるのか。

ところで、エピローグの最後の最後は悪い方に予想が外れたというか、ジャックも結局のところ人間だったことが分かり、やはり私には本作全体がなんだったのかが不明瞭になった。そういったことを考える必要があるのか。

監督のラース・フォン・トリアーって、いつもこういう作風なのだな。テーマの扱い方としては他の作品にも興味がないわけではないが、画面自体はそこまで惹かれるものもないかな。ってか《ダンサー・イン・ザ・ダーク》の監督かぁ。

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2018 年制作の韓国映画だが、本国では 2019 年始、日本では 2020 年の年始から上映された(Wikipedia 情報)。刑事もののコメディ、これはまぎれもない正真正銘のコメディ映画といってよく、大笑いしながら楽しんだ。韓国はどこかの地域の警察署に所属する麻薬捜査班 5 名が主人公で、このヘボヘボのチームが解散の危機に瀕している。起死回生の結果を残すために奮闘するが…、という仕立てだ。

もう少し内容に踏み込むと、張り込み捜査のために表向きでチキン屋を経営する羽目になった彼らだが、そのお店が大ヒットしてしまい、てんやわんやの大騒ぎとなる。不出来とはいえ志をもって警官になった彼らにも葛藤なりがあるわけだが、謹慎中で収入もないところ、流行る店をみすみす手放すわけにもいかずに走らせていたら、ふとしたキッカケから大捕り物に発展する。

クライマックスでは彼らの 5 名の能力は実は格闘寄りであることが、やっと明かされる。最後の乱闘が始まる前に横に並ぶ彼らのアップが画面上で 5 つのカラムに分割してキメになるシーンがあり、戦隊モノっぽいなと思ったが、西部劇なんかにもあったかななどとも思う。どうだろう。

リーダーのコ班長の最後の格闘シーンが大爆笑もので、笑いどころとしても、物語のクライマックスとしてもベストだ。エンディングでは警官としてキャリアを進めた情景が描かれていたが、楽しませてもらった身としては、チキン屋がどうにかならなかったのかは気になった。あと、チキン食べたくなるので、いわゆる飯テロという部類の作品でもあった。

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昨年に鑑賞した《帰れない二人》の上映が早稲田松竹であったが、併せて同監督の《青の稲妻》と本作が流されていた。《青の稲妻》は時間が合わず、《長江に生きる 秉愛の物語》は観られた。発展が著しい中国は、国の変化を描く映画が盛んで、これらの作品もその流れのうえにある。《長江に生きる 秉愛の物語》は、完全なドキュメンタリー作品となっている。

場所は長江は沿岸の村「桂林」と朧げに覚えているが、あの有名なスポットではない。三峡ダムが完成した暁にはダム湖面下となる村から立ち退けという政府に抗う女性:秉愛(ビン・アイ)が取り上げられる。村の立ち退き事業自体は 1996 年から開始され、2002 年には一応の完了をとったらしい。監督は 7 年間もの間、彼女を追ったようだ。彼女はどうなったのか。

彼女の実家は、もっと山間部にあったようだが、父の決めた夫と結婚した。そこに愛はなく、かつて恋仲だった男とは別れた。そこから、夫とは一男一女を儲け、田舎の農民として生計を立ててきた。夫は脚に障害を抱えており、収入のよい重労働ができない。愛はあとから育まれた。そして彼女は大黒柱となった。

1996 年、第 1 次移住者たちが村から去る。家屋を破壊して建材を確保し、新しい土地で家を再建し、生活を歩み始めるとのことだ。まだ村は集落として機能しており、たくさんの人がいる。家財道具を載せた船が川下に消えていくのをまだ残っている人たちが見送っている。

時は飛んで 2002 年、隣近所が居なくなった彼女の一家は、その家だけを残した村の跡地に暮らしていた。高校生になった息子は町で寮生活をしている。娘はこれから高校受験だ。先に立ち退いた友人たちから引き受けた畑は、かなりの広さをもっており、そこを耕しては家族を養う収入を得ているらしい。

一方で、立ち退き事業は進行しているわけで、村を含めた比較的広い同地域での寄合では喧々囂々、みんな好き勝手に言いたいことを喚きたてている。ぽつぽつと残っているひとたちが集まればまだそれなりに人はいるようだ。多数決で物事を決めるとうそぶいてはいるが、国家や役人の敷いたレールに沿ってしか話は進まない。

彼女は、現在の自らの畑を維持できる距離での引越しを目論むが、そうはならない。中国では国民は土地を所有できない。決められた土地に行けと役所の人間が説得にくるが意見は平行線のままだ。とうとう指定された候補地にまで呼び出されてしまう。役人と秉愛夫妻とのやり取りは、本作のハイライトといえそう。耳慣れない言語での口論が延々と続くので、ちょっと眠くなったけど。

さて、彼女が今の生活と暮らす土地に懸ける思いが尋常でないことはわかるし、政府の命令が一方的であることもわかるのだが、彼女なりの論理がどれだけの正当性を持つのかは、私には判断できなかった。

最終的には一時的に引越しに合意するも、結局のところ彼女は、政府の一方的な主張に迎合する引越しはしないと決意を改め、少なくとも撮影期間の 2003 年までは意志を貫いた、とのことだ(元の家は水没し、なんやかんやで近所の小屋を買い取った、とのエピソードが字幕で流れるのみであった)。

冒頭、寄合後、最後の 3 つのシーンで彼女はインタビューらしいインタビューに答えている。いずれの独白でも、恋は父に敗れ、でもそれを恨んでいるわけでもなく、自らは家族を助け、そうやってみんなの記憶に刻まれたいということを淡々と述べる。

2002 年の苦しい時期、よく祖母と母の夢を見るとカメラに向かって彼女は言った。故郷の夢だ。だが、夫が夢に出てくることはないとも言った。「身体は簡単に動くけれど、心は思ったよりもはやくは動かない」とも言った。どういうことだろうか。

非常に印象に残った言葉だったが、だが、そうであればなぜ彼女は、嫁いできたこの村に身体が縛られているのだろうか。まして、心も縛られているのか。逆に問えば、心をこの村に残すために、身体を無理やりにでも留めているのではないだろうか。

また、彼女の学業は、文化大革命の終わりに翻弄され、教師が権威を失い、学校では終始に渡り農作業をやったという。これがどのような政策や活動にあたるのかはよく分からないが、とにかく自分は勉強する機会が失われ、勉強できなかったという気持ちが、強く残っているのであった。

父や国に翻弄されつくしたうえの人生で、とうとう自分の世界を築きつつあったが、今度はそこを破棄されることになった。こういうことだろうか。

その他の情報など

ポレポレ東中野の作品解説に情報が充実していた(リンク切れ)が、以下の 2 つの記事も参考になった。気になった箇所の引用とともにメモとして残しておく。

そんなフォン・イェン監督が結果的にビンアイを主役に据えた本作を完成させたのは、フォン・イェン監督がビンアイの生きザマにホレ込んだため。プレスシートによれば、フォン・イェン監督は4人の女性に絞って撮影を続けており、ビンアイはその中の1人だったが、次第にその「特殊な存在」としての価値が高まり、結果的に彼女が唯1人の主人公となるドキュメンタリーになったらしい。

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-09-27tyoukouniikiru.htm

フォン・イェンも「三峡ダムによる移住」をテーマに撮影を進めていた。そして出会った1人が断固として移住を拒否する秉愛だったのである。補償金をもらい移住する人が多い中、流されず、「自分の置かれた立場、将来、心、魂について自分なりに考えている」ビンアイの姿に「農民の意識の目覚め」を見出したと監督は述べている。農業経済学専攻の監督らしい視点がうかがえる。

https://wan.or.jp/article/show/2961

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『銀の匙 Silver Spoon』(荒川弘)の最終 15 巻が刊行され、これにて完結した。最後のほうは家庭の事情だろうか不定期連載になっていたが、無事に終わってよかった。最終話、第 1 話と同じスタートからはじまり、主人公:八軒の成長の大きさが見事に照らされていた。

本作の掲載紙は週刊少年サンデーだが、北海道が舞台の作品で同じ掲載紙といえば『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(ゆうきまさみ)が思い浮かぶ。どちらも北海道の広大さが丁寧に描かれている。北海道、動物というテーマでのつながりを追っていくと『動物のお医者さん』(佐々木倫子)がピックアップされる。すべての作品の作者は、北海道出身だ。

ところで、Wikipedia とは便利なもので以下のようなリストがある。もちろん、抜け漏れは多くあるだろうが大雑把な指標にはなる。

コミックの項目には 64 の作品が列記されており、つまり 64 人以上の作家がいるわけだが、そのうち 27 名以上が北海道出身または在住であるようだ(リンク先をざっくり見て回っただけなので正確性に欠く。また、作画、原作など分業が明記されている者についてはスルーした)。

「あぁ、そういえば北海道が舞台だった」とすぐに判別できた作品としては『ゴールデンカムイ』(野田サトル)、『僕だけがいない街』(三部敬) 、 『波よ聞いてくれ』(沙村広明)などが挙がり、前 2 作品は作者も北海道出身のようだ。

また、列挙しないが「そういえば舞台が北海道と聞いたことがあるな」という作品もいくつかあり、そういう場合はなんとなく札幌っぽいことが多いように思える。あるいは地理的に近い東北の出身者が多かったり、豪雪地帯という類似性を感じたのか新潟の出身者が居たり、なぜか兵庫県出身者も幾人か( 2 人かな?)いたのが印象深い。

一口に北海道といっても広大な土地なので、一緒くたにできないが、やはり舞台が北海道であるというインパクトは認められるだろうし、深掘りしていくと面白そうな話題ではある。

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いろいろを試しては捨てるということを繰り返しては最適解を探すのが人間、ひいては生物の性というものだが、Discord を個人メモツールに使おうというムーブメントがやってきた。ググると似たような話題が出てくるし、そうしているひとの話を目にして興味を持った次第だ。

Discord というのは、ゲーマー向けのチャットツールという位置づけだ。昔は Skype 一択だったのだろうと思うが、今ではさまざまなツールがある。チャットツールをメモに使うという発想がどれくらいメジャーか分からないが、つぶやき単位でメモが溜まっていくというのは精神衛生上よいように思える。

少し話を戻すと、ラップトップとスマートフォンなどで共有して使えるメモ機能を探している。結局、オンラインで使えるツールを探すことになるわけだが、これがなかなか難しい。求めているのは、カテゴリ分けしやすいツールだ。これがなかなか選択肢を狭める要因で、Evernote ほどの機能は不要だが、Keep や Simplenote などでタグで分別する手間を払いたいのだ。それに後者のアプリたちは 1 メモの存在感が大きい。もっとミニマルなメモツールがいい。

エンジニア向けなど、マークダウン記法に対応した類の情報管理ツールはカテゴリ分けの条件には一致するが、マークダウン機能は不要だし、やっぱりちょっと違う。同じように、ここで何度か話題にあげている Notion もこの目的にはちょっとカロリーオーバーなのだ。

あるいは、Twitter を鍵アカウントにして誰もフォローせずに使うという手もあるが、ホーム画面はすべてのツイートを表示しなくなったので使いづらい。いちいちアカウントのトップを開いていられるかよ。もしくは、Slack を個人で使うという方法もあり、これはかなり実践性が高いのだが、やはり個人的な用途という感じがしないし、複数の workspace に参加している場合、その切り替えが割とめんどくさい。

というわけで、白羽の矢がたったのが Discord なのであった。以下は読む必要もないが、単純な準備手順だ。

サーバをたてる

Discord にアカウントを登録すると、サーバに参加するか、自分のサーバを立ち上げるかを決定することになるが、今回についていえば「サーバ」とは自分のメモのためのホームの名前と思っていい。難しいことはない。適当に名前を付ける。

チャンネルをたてる

いわゆるチャット画面が立ち上がると、左からホームおよび参加サーバ一覧、フレンドDMもしくはサーバ内チャンネルの一覧のカラムが並ぶ。個人用のメモはサーバ内のチャンネル別に記述していくことになる。この時点でサーバを追加することも可能で、つまり 2 階層のメモ入力システムが用意されたことになる。

メモを入力する

チャットの入力画面にメモを入力するだけの話だ。チャンネルは適当に分類すればいい。自分用のメモとしては「ピン留め」「引用」「絵文字でリプライ」あたりの機能は応用ワザとして利用できそう。また、URL は自動的にいわゆるリンクカードを生成してくれるので可読性が高まる。写真の投稿もできるらしいので、写真のメモもよいだろう。

問題点があるとすれば

この使い方が本来の用途と異なるという点は、根本的な問題かもしれない。その他、バックアップやログの抽出が基本機能にはないという点も問題だろう。他にもあるかもしれないが、そもそも Discord の機能を把握していないのが最大の問題だ。

いずれにせよ、 似たような機能性を備えたメモツールが他にあれば喜んで使うさ。

なお、以下の記事などは参考になった。本筋とは関係ないが、以下の 2 つの記事、片方が note での運用で、もう片方が medium での運用なのがおもしろいな。

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いつだったかデヴィッド・リンチ監督の《エレファント・マン》を観た。近年の私の好きなコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)で、本作が重要なアイテムだったので気になっていてが、スクリーンで鑑賞する機会が以前にあったので、これ幸いと観たのであった。感想を途中まで書いて放っていたのだが、棚卸する。

いまさら説明は不要と思うが、本作は「重度の奇形病に悩まされた男、通称エレファント・マンことジョゼフ・メリックの半生」を描く。実在の人物は存在するが、それなりに脚色された物語だ。

院長カー・ゴムの変節

『ケンガイ』では、メリックを看護した医師トリーブスの奥さんのセリフを引用して同作の登場人物に投影されていたが、私は院長カー・ゴムの変節に泣いた。あまりに傲慢だが、それゆえに人間的でもあった。

院長は当初、会話もままならないメリックの入院に反対していた。それが一転、メリックが詩編 23 を諳んじられる教養の持ち主であることが判明すると、意見を翻す。トリーブスに「君に彼の半生を想像できるか?」と問い、適当な相槌が返されると「そんなわけない!」と否定する。メリックほどの知性をもった人間が動物と同じかそれ以下の環境で虐げられてきた、想像を絶する辛酸に勝手に共感したのだ。

院長の当初の見解は経営者という視点では正しかろうが、人道や倫理的な視点からは否定される。知性の程度に関わらずメリックは助けられるべきであって、作中ではその役目をトリーブスが果たしたが、院長のような価値観をもった人間もいるわけで、その変節にメリックの知性を持ちだすのが憎い。これは人間の弱さだ。

興行師バイツの偏愛

見世物小屋のエピソードは作劇上の演出が強めのようで、Wikipedia の記述を信頼すれば実際のメリックは時代の変化によって見世物小屋産業が縮小するなか最後の契約を一方的に破棄され財産を奪われたようだが、それまではそれなりに従業員として見世物の仕事を果たしていたようだ。

その点、作中の興行師バイツはメリックの扱いが酷く、殴打してしつけをするような態度で臨むなどする。なぜこういう演出になったかは、メリックに対する差別や偏見など、負の態度をもっとも象徴する人物像が作劇上として必要だったからだろう。

しかし、同時にバイツはメリックを「私のかわいい宝」などとも言う。興行師バイツにとって最も稼ぎのある見世物がメリックであったのかもしれないし、孤独な放浪者であるバイツが頼りにできるのもメリックぐらいしか残らなかった(と彼は信じている)のかもしれない。これも人間の弱さだ。

なによりメリックのこのような半生をスクリーンで鑑賞している私がいるわけで、医師トリーブスの無償の愛も、ゴム院長のみせる条件付きの博愛も、興行師バイツの悲劇または破滅する愛も、それらをすべて享受して鑑賞しているのだから仕方ない。

聖堂のミニチュアをほぼ完成させたメリックは、就寝とともに奇妙な夢をみせておそらく亡くなったわけだが、夢に登場する女性の表情とセリフがまた何とも言えない奇妙な感触を残す。

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先日に感想を残した《書を捨てよ町へ出よう》と同時上映であった。こちらのほうが、まとまった作りなので鑑賞しやすいかな。積極的に人に薦められるとも思わないが、おもしろかったさ。

この作品もメタ構造をとっている。もっとも特徴的なのは、登場人物の顔面が例外を除いては白塗りになっている点だ。例外がどのような基準であるかは分からないが、推測するに「作中の作者の意図を越えた(と描写される)登場人物には白塗りがない」のではないか。つまりそれは主人公をそそのかした人妻であり、その彼氏であり、あるいは主人公の貞節を奪った女性であったりする。他は忘れた。

大雑把に話は以下の 4 つがあり、「少年の主人公が田舎を飛び出そうとする話」「子を生んだ女がその子を手放す話」「見世物小屋の空気女が夫に捨てられる話」「青年の主人公が過去の改変を試みる話」がある程度まで並行して進み、結末にかけて徐々にクロスオーバーしていく。いや、見世物小屋の話も関連することはするが、それ以外の 3 つの関連性のほうが強い。

言い換えると「少年の主人公が人妻と田舎を脱出する」までが青年の主人公の制作した「過去の回想作品」だが、これで本当にいいのか? と彼は悩む。そして後半は「実はこうだったのではないか?」という虚現実の入り交じった内容になり、それは「逃避行の失敗」であり、「青年に唆された少年は偶発的にも貞節の喪失」に遭遇し、「ようやく母なるものと折り合いがついた青年がいたのは新宿の雑踏のなか」であった。

ネットに転がる感想を読むと、寺山修司のテーマとされる「母殺し」についてのコメントが多いが(これは原作の詩を意識してのことだろうか)、私は《書を捨てよ町に出よう》にも描かれた「少年の思わぬ貞節の喪失」のほうが気になった。前作以上にその描写は強烈で、なんといっても仏様の眼前での強行である。まさしく神も仏もいないのだ。これも寺山修司自身の自省的な面が強いと考えるのが自然と思うが、どうなのだろうね。

田舎と母の呪縛というメタファーに時計が使われている点もベタではあるがおもしろく、「時計は家族にひとつあればいい、バラバラの時計があってはいけない」という価値観が母を自縛している。そうは言うものの、家の時計は狂っているし、終盤には狂った柱時計がたくさん掛かっている映像も用いられる。

母といえば少年が家出したのち、板間の板をひっくり返して出したスクリーンに恐山の上空から少年を発見するシーンがあった。これはいわゆる特撮なのか、どうやって撮影したのか分からないが、板間の裏が遠隔地を映す装置になっているという発想にはやられた。当時にしても珍しくはないイメージだろうけど、発想元は何かあろうのだろうか。私は『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を連想してしまった。

見世物小屋については、ここでも性的なイメージを喚起させる目的を強く感じるが、あんまり深く考えたくないし、逆に、単体ではここが一番楽しかったかもしれない。よく知らんが、ここの登場人物は天井桟敷の方たちなのかな。

なんだかんだと書いたが、思い出してみれば、人妻の実家の田畑が寂れていく情景が鑑賞中はいちばん心に響いた。田園で死んだのは一体なんだったのかね。

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『ボールルームへようこそ』の 10 巻を読む。

月刊少年マガジンで連載中の作品だが、実質は不定期連載のようになっており、突然の終了はないだろうと思うが気が抜けない。また、今回は本巻の Amazon レビューで知ったのだが、2017 年放映のアニメが展開を先行したらしい。昔はこのようなことがよくあったような気がするが、最近でもあるのだなぁ。

そして、先行した展開の内容だが、この 10 巻に収録されている最後の話以降(数話くらい使うかな)で披露されるはずで、さらにそれは 2020 年 2 月号( 1 月発売)以降から掲載予定だったが、さっそく 2 月号で休載となった。楽しみが次号以降に持ち越された形だ。歯がゆいものだ。

というわけで、存在を知ってしまったからには無視して話を続けづらくもなったのでアニメを最終話だけみたが、全体のトーン(ここでは主にキャラクターの感情表現)がアニメ向けにメリハリ付けられているなぁというのがひとつ。しかし、原作の線が割と生かされたデザインだなぁというのも思った。最後に、予想した展開がちょっとばかり違うなというのがある。ただまぁ、これは作者のチェックは通っているのではないかな。

10 巻の話に戻る。ちょうどいい機会だからと 1 巻から読み返していたのだが、本シーズンのライバル釘宮方美だが、彼の若い頃はまさに主人公の富士田多々良に被るのだなぁと認識した。釘宮は幼少期(小学生までかな)はボゥッとした少年で、職員室での先生の注意も上の空で窓の外を眺めていた。これは中学生の富士田が進路指導をやり過ごしていた描写と同じくみえる。

まぁ要点としては、釘宮にしても急成長する富士田と同じ舞台でガチで踊ってたらやっぱりダンス楽しいなぁという原点回帰してくるところだろう。兵藤にせよ、赤城にせよ、富士田を通して同じような契機を得ている。

釘宮の話をしておいてなんだが、10 巻の最大のハイライトは富士田と緋山の平衡(カウンターバランス)がとうとう成立をみせる描写だ。富士田を本当の意味での額縁たらしめた緋山が、彼女自身も富士田自身からパートナーとして花開いていくという状況をあのように描かれると降参するしかない。よいものだ。

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西洋美術館の常設展示室での小展《内藤コレクション展 ゴシック写本の小宇宙》に出かけた。《ハプスブルグ展》と同日程となっており、最終日の行列に並ぶ。常設展の窓口を別にできないかと常々思うのだが、それはそれで難しいのだろう。

内藤コレクションというのは、医師、内藤裕史氏からおよそ 150 点、 2016 年に西洋美術館に寄贈された写本のコレクションであり、これに加えて藝大の持っている 4 点の写本(ファクシミリ版だったかな)も同時に展示されていた。内容は、主に13 世紀のイギリスやフランスで作成された聖書に連なる写本の「零葉」が主であった。零葉というのは、書籍から残った1ページだけのことを指すらしい。知らなかった。

これらの写本の特徴は、まず羊皮紙製であること。正確に引かれた罫線に従ってラテン語、ものによってはフランス語などで記述される。

さらに「ドロップキャップ(イニシャルキャップ)」と言っていいのか、各ページの主要な箇所の頭文字を大きくあしらう。これは罫線の外の余白に書かれることもあれば、罫線内の複数行に大きく書かれることもある。この大きな文字が生み出した空きスペースに、本文の内容のイラストを配することも特徴として挙げられる。

レイアウトは 2 段組みになることが多いようだが、外枠や中央の罫にはアラベスクのような植物や、螺旋か渦のようなオブジェクトが描かれることも多いようで、美しいは美しいが、グロテスクであったり不気味な様子がある。組み合わせて、人や動物、ドラゴン(だったかな)などがモチーフとなったイラストが多く載るが、よく考えるとドラゴン(だったかな)はよく分からないな。聖書にドラゴン関係あるっけ。

行内の余った領域にも埋草として模様が入っており、これには執念じみたものを感じたが、実用的には抜け漏れを防ぐ目的などがあったのだろうか。黙読するときの行移動で下の行の目安を付けやすいということもあるかもしれない。

展示作品のうち何点かは、灰や黄緑、オレンジ様の色も使われていたが、当時の彩色方法としては不透明水彩の赤と青が使いやすかったらしく、そこに金箔を加えた3色によるカラーが多かった。これがなかなか色彩豊か(と言っていいのか)な印象を与えられるもので、赤と青と金と黒だけでこんなに楽し気な紙面を作れるのだなぁという感動もある。

で、どうしてこういう装飾が施されたのかということなんだけど、なぜなんだろうか。美しい紙面にするということはそれだけ写本の価値をあげるということかもしれないが、そういうことだろうか。ぶっちゃけて言うと、読みやすさや検索しやすさを上げるためだろうかと思うのだが、どうなのだろうか。目的の内容のイニシャル、イメージが頭に浮かんでいれば、ペラペラとページをめくったときに該当する箇所を見つけやすくなる。そういうことではないのか。そういう実用性の面の話はなかった。

余談だが、本展は常設展のスペース内の展示(西洋美術館の収蔵品)なので基本的には撮影が可能になっている。私と同じようにブログに感想を残している方々を探すと、撮影された写本がたくさん出てくるので楽しい。

それはいいのだが、スマートフォンのシャッター音がうるさすぎる。そこかしこでカシャカシャと鳴らされると落ち着いて見ていられない。なんとかならんかね。

特に記憶に残っているのは以下の 2 点だ。

「栄ある天国の扉」

題字は間違っているかもしれない。「D」だったと思うが、段落全体を囲むように描かれており、そのなかに本文が挿入されているという異色のレイアウトだ。これはおそらくこのタイトルの通り、扉なり門なりがイメージされてこのようになったのだと思う。

「天にいる神に祈る水中のダビデ王」

「S」の上部の余白に天の神、下の余白に水浴するダビデ王が描かれている。どの文書に対応した箇所なのか記憶しておけばよかったが、どうなのだろう。本写本には楽譜(のようなもの)が載っているのもおもしろい。

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昨年末に iPad を購入しようか迷っているというようなこと書いたが、結局のところ 2020 年の初売りで iPad Pro 11 を Smart Keyboard Folio とともに購入した。そこそこの出費である。Apple Pencil も活用できる端末ではあるが、これはとりあえず保留とした。12 inch でも良かったのかもだが、ふと持ちだしたいときには大きすぎるように思ったので、11 inch とした。

iPad を購入したことでひさびさに Apple 製品のある生活に戻ってきたが、過去に有効だった操作が最新の iPadOS で無効になっているなどがあり、戸惑う。新しいデバイスに出会うときに同じことがよく起こるが、こういう感覚は大事にしたいものだ。とはいえ、概ね慣れてきた。

キーボードの装着感も打鍵感も嫌いではない。ペチペチといった感じだが不思議と打ちづらさはない。11 inch サイズのキーボードに自分が耐えられることは Chromebook で確認済みであったので、サイズについての苦痛はまったく無い。ただ、タブレット様に使うときはカバーが邪魔だな。いちいち装着/脱着するのもめんどくさい。しかし、US キーボードを手軽に選択できることが Apple 製品の強みであることだと再認識する。

しかし、タブレットの大きさと快適さにあらためて感動している。まぁ、スマートフォンも大画面化が進んだし、そのせいか町中や電車内でタブレットを使っている人間は減ったようにも思うが、やはりそれでも便利は便利なのだ。

また今回、手元で腐らせていた App Store のカードを活用できたのが、地味にうれしい。ちょっとした手違いで諭吉分のカードを以前に購入し、そのときには Apple 関連で消費したいサービスなどがなく、使い道がなかった。譲渡することも億劫でかなり長い期間も寝かせていたのだが、これを登録した。大物買いをしなければ、しばらくこれで試せることも増えるだろう。

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