《薄氷の殺人》(2014)を観た。同監督(ディアオ・イーナン)および同主演(グイ・ルンメイ)の《鵞鳥湖の夜》の上映が始まるので、それを期した短期上映を利用させてもらった。また、どちらにもリャオ・ファンも出演している。彼は《帰れない二人》でも見た俳優であった。

原題は『白日焰火』、英題は “Black Coal, Thin Ice” となっており、どちらもよい。原題は話が進むにつれて決定的な意味をもたらす仕組みになっている。一方で英題は、本作の基調を表していると解釈して大方は間違いではなさそう。

ところで邦題の「薄氷の殺人」というのは、解釈のしようはあるとは思うものの、本作をミステリーと勘違いしてしまいそうだ。そういう意図があるのもしれない。この作品、ミステリーやサスペンスといった面もあるが、不幸で陰鬱、だが救いがなくもないようなという映画で、これがいわゆるフィルム・ノワールの系統である、らしい。まぁジャンルはどうでもいいが、ミステリーやサスペンスに主軸があると評すると、作品としては杜撰にみえてしまう強度か。

グイ・ルンメイがあまりに美しい、美しすぎる、といえばなんか感想としては七割くらい言い切った気持ちになってしまうが、さすがにそれだけでは味気ない。本作、私は何を楽しんだか。

この作品の舞台や年代はどうなっているのか

まぁどの映画でも気にするに越したことはないテーマだが、作品によっては舞台や年代を気にしても仕方ないパターンもある。本作は 2014 年の映画だが舞台となるのは 1999 年、および 2004 年らしい。どうしてこの年代を選んだのか、よくわからん。

舞台は中国北部、華北地方らしいが、詳細は特にないらしい。土地柄か時代性か、あるいは両方だろうけれども、田舎の中国らしいやや貧相で雑多な雰囲気が漂う街、画面となっている。リャオ・ファンの演じる主人公をはじめとした刑事たちも、花形職としてプライドはありそうだが、どこかマヌケというか杜撰さが否めない。

携帯電話やパソコンなどが一般化しつつあった時代と思われるが、中国の田舎としてほとんど登場しない。最近は話題にならないが、この頃の中国は Windows の海賊版が流通していたような状態だったのではないかな。逆に、あるシーンで中国などでよく目にするタイプのネットカフェのような設備が映るが、これは逆に 00 年代にすでにあったのか? やや疑問となる。まぁ、あったんだろうな。どっちでもいいけど。

不器用な男の、散っていく、なんだろうね

リャオ・ファンが演じる元刑事が主役ではあるのだが、まぁなんだか憎めない男であるように描かれるが、やってることは本当にクズ男そのものなんだよね。弁明の余地がない。彼の行動はいずれの状況でも一方通行なんだよね。

《帰れない二人》でリャオ・ファンが演じた男にも似たようなどうしようもなさがあったが、これは何なのかなぁ。中国映画にあまり明るいわけじゃないけど、主要な登場人物がそこそこにクズ男の割合がそこそこ高いような気はする。これはなんなのか。開き直りなのか。時代性なのか。

結末をどのように解釈しようが-まぁ目を逸らさずにしようとすれば、選ばれるのは決まっているように思うが、音楽と踊りという要素が本作のなかでどう作用しているのかはよく分からんままだ。

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《シチリアーノ 裏切りの美学》(以後「シチリアーノ」)を観た。イタリア映画である。原題および英題は “Il traditore”、”The Traitor” となっているので端的に「裏切り」でよいようだが、邦題に付された「美学」はどうか。とある SNS で的確でないとツッコんでいる人がいたが、この場合は「貫き通した信念」くらいのニュアンスで「美学」としているのだろうから、許容の範囲ではないか。どうでもいいけど。

同じく SNS でよく見かけたコメントより、背景知識の欠如が鑑賞の足を引っ張ることになることが確かめられたので、主役となった人物 トンマーゾ・ブシェッタ の Wikipedia の記事を事前に読んでおいた。これは完全に正解で、起こる出来事はだいたい把握でき、話が見えずに集中できないという事態は免れた。なんとなく絶妙におもしろくて、珍しくも鑑賞後にパンフレットを買うてしまった。

イタリアにとってのマフィアとは

さっそくだが、本作の話題からすこし逸れる。

《シシリアン・ゴースト・ストーリー》(2018)という映画があり、これは劇場で知識なしで観たら困ってしまった作品であった。この作品は、シチリアで起きた誘拐事件(ジュゼッペ事件)がベースになっており、言うまでもなくシチリアのマフィアの存在が根底にある。

この誘拐事件は 1993年に起きたとのことで、今回の「シチリアーノ」で描かれた時代と部分的に重なる。重要な登場人物、というか当時に権力を利かせていた大ボスである サルヴァトーレ・リイナ が同じ背景におり、改悛しようとした構成員を脅すための誘拐だったらしい。

この作品の監督は「事件から20年以上が経って、シチリアでもこの事件のことを知らない人がいたりして、この事件のことを忘れて欲しくないという思いで撮った」らしく、なるほどそういう意義も大きいのかと、あらためて学んだ次第だ。

「シチリアーノ」にも同じ面はあるはずで、現存のイタリアやシチリアにおけるマフィアの支配はおそらく弱まりつつあるのだろうけれども、とはいえこの半世紀以内に起きた出来事のインパクトはあまりにも強烈で凶悪であり、一方で、マフィアが必要悪として受け入れられていた状況もあるだろうわけで、このような作品たちがイタリア国内でどのように消化されていくかは単純に興味深い。

「シチリアーノ」の感想として、マフィア映画としては微妙のような意見もいくつか目にしたのだが、そもそも実話ベースの社会派作品という本作の側面を見落としているのではないか。

奇妙な倫理観、あるいは残虐性

ブシェッタも所属したコーサ・ノストラ、彼らの約束する「血の掟」とは、まずは組織の秘密を必ず守ることにある。そもそも組織の存在とその構成員であることを彼らは公的には否定する。その掟のもと、ブシェッタの主張としては、もし構成員が組織から排除されるにしても、それは彼らの関係性の内、最小限の人間関係の中で処理されるべきものであった。

こういった条件の下、彼らは家族となる。任侠の世界では義兄弟になるし、マフィアも似たようなものらしい。ところがブシェッタの裏切りと、本作で最大の黒幕として描かれる-実際にそうなのだが-サルヴァトーレ・リイナとの確執の大元には、まず 2 人の家族観の相違があったようだ。本作でもその点が大きな要素として描かれる。

が、言っては何だが、だからなんなのだという話にも見える。

リイナの指示の下(とされる)に繰り広げられた虐殺ともいえるコーサ・ノストラの大凶行は-リイナの極端なまでの猜疑心の強さにも起因するらしいが-、とにかく見境がないようで。劇中で、まるでゲームでもあるかのように演出された状況は、悪く言って爽快ですらあった。

そんなリイナは、端的に言っていわゆるサイコパスなんじゃないのかとも思うが、そうしてしまうとマフィアのほとんどが該当しそうになる。家族は大事であると口を酸っぱく言う彼らだが、どんな家族だよ、それ、という。また、結局のところブシェッタも、度を過ぎた大量殺人には異を唱えたものの、外道には変わりない。

結論というほどのことでもないが、社会的に、人の命が軽くなるという状況において、どのような諸条件がそれを引き起こすのかしら。それは麻薬なのか、戦争なのか、金なのか。

えらい法廷があったもんだ

話が拡散してしまいがちだ。ブシェッタの告発により、幾人ものボス級の構成員が捕まる。そんで、彼らの罪を裁こうという段になる。

1984年に執り行われたらしい所謂「マフィア大裁判」だが、逮捕された大量の構成員が、大法廷に用意された左右の檻に収監され、やいのやいの騒いでいる。各人の弁護人と担当などが中央の座席に扇状に並んでおり、後方の 2 階部分には親族やマスコミが立ち並ぶ。パンフレットによると、この大法廷はこの裁判を目的として建造されたらしい。

同パンフレットには、この法廷劇を迫力があるというように述べていたが、どうか。一方で、SNS ではシラケたというような意見もあった。私の意見はどちらでもないが「ところがどっこい、これは現実」をほぼ忠実に再現した作品なので、「迫力」をそのまま解釈すれば、これは私は真実味ということになると思う。

檻のなかのマフィアは一部の人物を除いてはかなり滑稽に描かれている。ここには社会派映画としての側面、監督としての矜持があったのではないかな。マフィアは恐れられることは十分に認めるが、滑稽にされることについては許さない、とのことで、これはなかなかマフィアに対しては攻撃的な描写に見える。牢の中でお道化ている彼らは正直、ダサい。

裁判としてまともに機能していない法廷劇は、感触としてはたしかに「シラケている」のだが、なので、だからこそ面白い。

「対決」という謎のシステム(イタリアの裁判システム)によって、ブシェッタとの旧知の友にしてコーサ・ノストラの要人でもある ジュゼッペ・カロ、彼とブシェッタとの口論も描かれるのだが、カロの主張があまりにも弱く、なんでこんな茶番染みていて子供っぽい言い争いになるのかさっぱりわからん。しかし、これも実際にこういうやりとりがなされたんだろう。

そう考えると単純にウケるし、こういうトンチンカンな主張を公的に開陳するやつ等が何人もの人たちの命を軽々と奪ってきたのだという奇妙な現実感も引き起こす。

結局のところ、この大裁判によって、カロは終身刑で投獄され、まだ獄中にいる。また、大裁判より 8年後の 1993年にはリイナが逮捕されており、こちらは 2017年に亡くなったらしい。ブシェッタはそれより早く、2000年にアメリカ合衆国で亡くなっている。

この記事を書くにあたって軽くググってたら、以下のブログよりリイナの訃報のネットニュースのリンクがあった。当時の報道や獄中のリイナの様子などが動画で確認できるが、なるほど作中では要所が的確に再現されていたのだなと確認できて、よい。

その他のことなど

なんか音楽がよかったらしい。鑑賞中、今回はあまり気づけなかったのだが、パンフレットに記載された最後の記事によると、かなり手が込んでいたようだ。担当のニコラ・ピオヴァーニは、いくつかの有名な作品でも仕事をしている。もう一度鑑賞したいというモチベーションは今のところないが、確認はしたいなぁ。

Netflix にブシェッタのドキュメンタリー作品『裏切りのゴッドファーザー』があるらしい。これは見てみたいな。

似たような状況というか、命の軽さという面で、現在のメキシコは当時のイタリアに近いのではないか。あるいはそれ以上の異常事態なのだろうか。メキシコにおける命の軽さはその死生観にも関連があるのではという話もあったが、そうではないのかもしれない。あるいは、イタリアとメキシコの死生観、命の軽さって似てるんじゃないのか、とも考えられるが、どうなんだろう。日本人にも割と近いところがあるようにも感じる。

監督マルコ・ヴェロッキオの他の作品は見たことがなかったが、何か機会を作って鑑賞したい。

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《宇宙でいちばんあかるい屋根》を観た。映画の原作の野中ともそという方を知らなかったが、元は音楽畑から活動をはじめて編集者となり、現在はニューヨークに在住らしい。Wikipedia に載ってる情報の受け売りだが、原作はもともと 2003年にポプラ社で書き下ろしの単行本として刊行され、2006年に角川文庫、今回の映画に合わせて本年 4月に光文社から再文庫化されて刊行されているらしい。数奇な運命やな…。

本作、ファンタジーらしいぞ? というくらいの事前情報のみで鑑賞した。劇場には老若男、という感じで確認できる範囲では男性しかいなかったが気になったが、どういうことかな? よく分からない。レイトショーなのでそもそも疎らではあったのだが。

さて、今年はコロナの影響などもあって観られている作品自体がそこまで多くはないのだが、序盤のワクワク感は割とかなり強烈なインパクトを残してくれた作品で、総合的にもかなり満足感の高い作品だった。

脈絡のなさなどどうでもいいのだ

原作も未読なので本作の想像力を支えている根本的なテーマを見落としている可能性はあるのだが、作品への没入に失敗するか、没入を拒むと、そもそもつばめと星ばあの出会いがなぜ発生したのかという疑問が大きくなるばかりだろう。実際、そんなことは気にしても仕方ないのだが。

「宇宙でいちばんあかるい屋根」というテーマがどのように導出されるのかについても、率直に言うと星ばあ(桃井かおり)のインパクトに一任されている感がある。とはいえそれはオープニングの映像をはじめとした映像表現の端々で補強されてはいるのだ。

ところで、撮影のロケ地は神奈川県秦野市と聖蹟桜ヶ丘で行われたらしい。作中で登場する水族館は設定上は江の島だろうと思うが、もっとも幻想的に描かれたクラゲ水槽のシーンは山形県の鶴岡市立加茂水族館がロケ地とのことで。

山形に足を延ばす機会はなかなかないが、加茂水族館には行ってみたいものである。

わかりやすい多様性をさまざまに見せる

この映画のよさは、登場人物たちの多面性がわかりやすく描かれていることにある、としたい。主人公である大石つばめ(清原果耶)の体験やその他の描写を通じて私たちはそれを楽しんでいる。

本作で 1 番よかったなと思ったのは、伊藤健太郎の演じた浅倉亨と彼の演技だった。つばめの憧れの近所のお兄さんとして画面に映るときは、ちょっと年上のお兄さん役を格好よく魅せているが、家族内で浮いている姉をなんとか繋ぎとめようと努力しているシーンでは、健気な弟として、ある種の弱弱しさと健気さを醸していた。よい。

つばめの父である大石敏雄(吉岡秀隆)、妻が妊娠中であるためかしらないが、よく家に居る。本作の設定の仕掛けのひとつは中盤くらいから徐々に明かされるが、敏雄の葛藤というのはほとんど表面化しない。というのも、本人の中ではほとんど解決しているからだろう。つばめへのフォローが父としてどうなのか? みたいな疑問は湧いたが、思春期の娘への対処としてできる限りのことはしている、とも取れる。

男性陣としては笹川誠(醍醐虎汰朗)もよかった。作中では残念ながら全編に渡ってほぼ好感をもてるキャラではないのだが、最後のシーンでは大いに笑わせてもらった。擁護するものではないが、結局のところ単純にこのような不器用さが生き方になってしまっているのであるなぁ。

山上ひばり役の水野美紀も大石麻子役の坂井真紀もひさびさにみたが、どちらもよかった。眼力がある演技をされていた。

その他のことなど

主演の清原果耶は中学生を演じていたが、実年齢は 18 歳か。162 cm という身長らしいが、中学生としてもそこまで違和感のない映り方をしていた。演技や衣装、撮影などが巧いのか。制服姿のときは大人っぽく、私服姿のときは中学生相応にみえるというのは上手な構成だなと。彼女の流した涙がどのように変遷したのかというのは、考えていて楽しい。星ばあと過ごした夏は、どれだけ濃密な時間だったのか。

ドローン空撮で、秦野市の住宅街を映している。オープニングでかなり映す。まぁ、これがテーマですと。これを見れただけでも鑑賞してよかった。映像にはパステル調の加工がなされていると思う。映画と直接関係ないのだが、ゲーム『Cities: Skylines』などシム系のゲームを楽しんでいるときのような光景が気持ちいい。話が飛ぶが、学校のガラスに屋根屋根が映っているのもよい。

「星ばあと邂逅するエリアの美術がちゃちい」みたいなコメントを見かけたのだが、上記のようにゲームっぽさというか、世界観の小ささとしての反映としては見て取れないか。秦野市には行ったことがないが、割と山に囲まれた箱庭的な土地のように見えた。あくまで脚色されたモノではあるが、これが大石つばめの等身大の世界なのだ。

内容の味わいとしては全然異なるが《はちどり》と同じような年齢の子が主役の物語となっており、近い時期にみた映画としてどうしても連想されてしまうのも面白かった。まぁ全然別ものなんですけど。

藤井道人監督、《新聞記者》は全然ピンと来なかったですけど、これはハマりました。ありがとうございました。

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《透明人間》(2020)を観た。もう上映はほとんど終了しているのではないか。自分は見るかどうか決めかねていたのだが、リー・ワネル監督の作品の《アップグレード》(2018)が楽しかったので気にはなっていた。

リー・ワネル自身はそもそも SAW シリーズで有名になったようだが、脚本や総指揮、出演こそすれど監督としては参加したことなかったのだな。どういう経緯なんだろうか。ちなみに、私は SAW シリーズはまったく見たことない。

ところで制作には《ゲット・アウト》(2017)や《ブラック・クランズマン》(2018)などのジェイソン・ブラムが入っている。

主演のエリザベス・モスは《アス》(2019)に出演しているし、この辺に縁というかコミュニティがあるようにも思える。まぁ余談だね。

透明人間という題材だが、ウェルズの原作を基点として最初の映画《透明人間》(1933)があり、そこから同じテーマでさまざまな作品が生まれたようだ。 1933年 の最初の作品は未見だが、2000年の《インビジブル》は私も映画館で観た。こちらの作品は、誰にも認識されなくなった恐怖と不安が狂気になっていくというプロットだったと記憶している。

話を戻す。監督の前作《アップグレード》は良質な B 級映画という印象が強かったが、本作は脚本のケレン味がほどよく配合された良質なホラー、SF、サスペンスになっっていたように思う。世界観や登場するギミック、透明人間のシステムの設計がかなり現実的ぽっくて、フィクションを楽しむために動員すべき割り切りや、へんなシラケがかなり抑え気味だ。

というところまで書いたが、いまいち感想がまとまらない。なんだろうなぁ。特に印象に残っているトピックだけ挙げておこう。

エリザベス・モスの演技がよい。セシリアの狼狽するところ、顔面蒼白(文字通り)になるところ、冷静になるところ、いろいろな表情を楽しめる。《ヘレディタリー/継承》(2018)のトニ・コレットの演技を連想してしまった。屋根裏のシーンなんかも絡んでいたので、なおさら。

ラスト付近の食卓に用意されたワイングラス。完全に円柱状のグラスになっており、あまり目にしないタイプだ。非常に印象深かった。この道具に限らず、割と監督は画面内に映る小物の配置などに、こだわりが大きいのではないか。

剣はペンより強かか

結末にはいくつかの解釈(深読みの余地)が用意されているようだが、私としては割と表面的に描かれたとおりの物語であるとしたい。彼女が果たしたエイドリアンへの復讐は、その手段から明らかなように妹エミリーへの餞であるように見える。

本作、ペンが割と象徴的に使われている。上述の小道具へのこだわりにも関連するだろうか。結局のところ、ペンはナイフには敵わなかった。

ゼウスはどこへ消えた

そういえば私としては、この点が 1 番気になっている。そもそもセシリアは冒頭でゼウスをどうしたかったのかがよく分からない。そしてゼウスと再び出会ったときの状況も不自然(ではないとされる)であったが、それもスルーされる。

その後、ゼウスは姿を消してそのまま終わってしまう。

…先ほど「私としては割と表面的に描かれたとおりの物語であるとしたい」と書いたが、飼い犬のゼウスが文字通りゼウスであったとしたら、この物語の解釈はどうなるか…。セシリアのお腹のなかにいるのは誰の子なのだろうか…。考えたくないですね。

透明であること、または視界が開けていること

「透明」というテーマは本当に奥が深い。対象が視える、あるいは視えないというのは、日常的にも学術的にもいろいろな切り口から考えたり論じたりされえるテーマでしょう。こと人間に限らず、透明であることがどういうことであるかというネタを扱った作品には興味があるね。

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8 月中に「ジャンプ+」で全話公開されていた。初めて読んだ。現行の連載作品『チェンソーマン』よりも分かりやすいのではないか。巻数も 10 巻以内となっているし、これは個人的な佳作、名作のラインナップに加えたい品だ。

祝福という名の呪いを受けた人間たちがいる。そのなかでもきわめて不幸な状況に陥った主人公アグニは、自らの祝福が効力を発しつつ、他者の祝福である業火に包まれている。業火はアグニが消滅するまで永続するが、アグニ自身の祝福によってその消滅は阻まれている。

この状況って何だっけなぁ。ジレンマというか、非常にうまいトリックなんだけど、似たような設定が生かされた類似の作品が思い出されるようで、出てこない。まぁいいか。しかし、これを第 1 話でバビェーンとやってしまうのが藤本タツキの凄さよなぁ。

さて、長々と書きたいことを散らかすとあらすじを追うだけになるし、テーマで切っても似たような書き方になっちゃいそうだし面倒だから、キャラクターで感想をまとめる。

アグニ

イニシャルは「アンパンマン」のアだそうだが、結果的にはインドの神話に登場するアグニ神の名となり、ベタに燃えることが運命づけられている。復讐か正義か、なんのためにどのような衝動で動いているのか不明瞭なままに死にながら生きつづける(誰でもそうじゃん)が、苦痛でしかない生を過ごすにあたって(誰でもそうじゃん)理由が必要だので、なんとなく指針をとる。この指針作りについてはトガタとのコンビ時には安定していたが、いかんせん、話が動くときは自我をコントロールできることも稀であったので、いかんともしがたい。

ところで妹への愛は家族愛としてのプラトニックなそれではあったが、じゃぁその最愛の存在に似た別人が目の前に現れたらどうする? というようなテーマは実はあったんじゃないのか? 結論と言えば身も蓋もないが、全部を忘れてから再会できればいいじゃんね。倒錯的だなぁ。

しかし、時空を超越した先の再会という意味では『一千年後の再会』(藤子・F・不二雄)を連想せざるを得ないね。これもそんなに珍しい設定ではないけれど。ところで、アグニのような図体はでかいけどそれをコントロールする知性や目的が足りないという人物像はよく講談社系のコミックスで目にする印象があり、これが集英社系のコミックスで描かれたことに割と違和感が大きい。チェンソーマン然りである。

ドマ

アグニを燃やした張本人で、そういう意味では本作の超重要人物だが、ほとんど退場している。「半端な正義が世を正す方向にうまく作用するか」というようなお題をアグニに提出するあたりは、皮肉も利いていておもしろい。

本キャラクターのネーミングは「ドラえもん」から取っているというヒントが著者から与えられてるので、では彼自身のキャラクターにも何らかの反映はあるのではないかと勘ぐってしまうが、そう簡単でもなさそう。万能な(とされる)人物の身勝手さ、あるいはその限界、その象徴という意味ではたしかにドラえもんほど的確なものもいないかもしれない。

とはいえ、後述のサン(「サザエさん」より命名)との関係を考えると、ドマ-アグニ-サンの順に継承される愛憎というのは、あまり表面化されないが割と重要なサブテーマだったのでは。生きるための精神的な糧を完全に他者に委ねてはならない、とでもいうような。

トガタ

いいよね、彼のようなトリックスターは最高だ。作者の分身といってもよさそうな役割、人物像だが、その最期はどうだ。トガタ自身も再生の祝福持ちで、どうやらその効力も大きいのだが、しかしドマの炎には敵わなかった。まぁ本音をいうとトガタが燃えていくシーンが私は本作で 1 番ツラかった。

アグニのまともな理解者というのはトガタしかいなかったという点が大きい。これは逆についても言えることで、2 人の気持ちがやっと通じた矢先の別れというのは悲劇としては鉄板だが、だからこそ、これがいい。

亡くなって以降、名前すらほとんど登場しなくなったトガタだが、映画という概念は残していった。アグニの夢か妄想かしらぬが、妹と映画館でふにゃふにゃしているイメージは本来はアグニには抱きえないものだろうし、設定上というか作劇場というか、その観点からは矛盾にも思えるが、まぁなんか、いいからいいんだよな。いいものはいい。

サン

彼の結末はなんというか「こういう風に使われてしまったか」というメタ的な感想になってしまった。サンにはアグニ教をおだやかに維持させるポテンシャルがあったようには思うが、そうはならなかった。根本的には狂信者だものね。どうも『地球へ…』のトォニィの失敗した姿が彼ではないかとイメージを重ねてしまった-背景は全然異なるが。

本来はそのまま「太陽」だという名前だが祝福は電気である。このギャップに作者として深い意図はあるのだろうか。そこまで無いようにも思う。とはいえ、仮にサンがアグニと最終的に敵対すると設定されたとき、もっとも適当な能力とも言えそうだ。

ネネトによって介護されるアグニに彼の名が与えられるのも相当に皮肉が効いており、ちょっと目眩がするくらいだ。とはいえ、ここでやっとアグニという炎が太陽としてのそれに一致するのだ。うまいなぁ。少なくともサンという名前には意味があったじゃないか。意図はあったんだ。

ネネト

割と重要キャラというか、居ないと話が進まないんだよなぁ。トガタによりカメラマンに任命された彼女は、名実ともに本作をギリギリ最後の方まで見送ることとなった仕事人である。ずっとサンを想いつづけている純情のようななにかも、それがステキなものなのかは判別しづらいが、まぁいいか。

とはいえ、結末で描かれる彼女の様子から察するに、彼女こそが太陽のように多くの人らを導いたであろうことは想像に難くない。焦点にするとすれば、彼女には作中で特定の祝福は明かされなかったことだが-普通の人間としていたが、何かしらあったのではないか? 天寿を全うする祝福とか。

ユダあるいはルナ

言うまでもなくネーミングによる印象は裏切り者だが、実際にそのような立ち位置である。幾重にも人びとを裏切っていく彼女の生き様を君は見届けたか? ストーリーの展開上、本来は望んでもいなかったルナになるという役割を時間の経過に従って受け入れてしまう狂気もよい。もう本作、頭は大丈夫ですか? となる。

スーリャ、ユダ、ルナが似たような容姿をしていることには設定上の意味付けがありそうだが、どうなのだろうか。

トガタにせよユダにせよ、再生の祝福持ちは人間的な感情が希薄になりがちだが、同じく再生持ちのアグニの激情に感化されるというのは、なんだろうか。そのアグニの激情そのものも端緒は呪いのような炎なのであるからして、業というものをよくよく考えさせられる。

一見して無垢なハッピーエンドのように描かれた太陽と月の邂逅だが、これは果たして幸福なのか。2 人は永遠にいちゃついているのかね。本作、もし仮に続編的な次回作を作るとしたら、どこに誰をどのように設定していくかを考えたら案外とおもしろそうだなとふと思った。

そこではもしかしたらスーリャの野望がそのまま実現しているかもしれない。まる。

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《ドロステのはてで僕ら》を観た。そこまで見る気もなかったのだが、予告に魅かれる部分もあった。映画を見終えてから脚本の上田誠のインタビューを読んだが、たしかに作品の構造は、やや理解しづらい。時間モノに慣れていないとなおさらだろう。個人的にはおもしろかったけれども。

本作を語るに『カメラを止めるな!』が引き合いになることも少なくないようだが、前後の幕で大きな 1 つのネタバレを披露できる「カメ止め」に対して、本作はネタバレ(というかギミックの作用)を 2 重に、しかも脳内で走らせるしかない。作品内のネタバレは並行する時間軸を想像するしかないし、作品外のネタバレは純粋に製作現場を想像するしかない-「カメ止め」の2重性はやっぱり分かりやすいのであった。

しかし、なんだかんだで本作は劇場で観なければいけない-観たほうがいいに決まっているのだが、ここにも少しばかり難しさがあって、周囲の鑑賞者がどれくらい笑っているのかが気になってしまうというややオタク的なチキン問題も露呈するのである。…まぁ些細なことか。

本作のギミックのひとつとして登場する「ドロステ」効果は、作品内ではいわゆる合わせ鏡の原理として登場する。ここに時間差という作用としての SF 的な発想が加わって物語の軸をなす。いくつかの時間軸が描かれるが、場面は基本的にはひとつの軸上だけで進行する。簡単には 2分 ずつずれた同一の世界が合わせ鏡の向こう側にある。

いたずらにではなく時は流れる

というわけで作中では、2 分前に予告された事象が 2 分後に発生する。これは実際の時間経過、および作品内のそれとほぼほぼ一致しているはずで、私は序盤の 2 箇所でカウントしながら視聴していたが、たしかにディスプレイ内から発せられたカトウの発言は、たしかに 2 分後に別のディスプレイに向かってカトウから発せられていた。これは実際の経過時間の話だ。

作品内の時間経過というのは、つまり本作はワンカット風に編集されていて-実際には 7 つほどのカットで構成されているらしいが-、動き続けるカメラはスローモーションや倍速処理しない限りは-時間は原則的に等速で進むはずなので(ネタです)-、ほぼそのまま作中の経過時間と一致する(はずだ)。

ついては、かなりキッチリと管理された時間のなかで演技・演出がなされているわけでこれは凄いこと、なんだと思うけど、ようわからん。余談だけど、こういうテクニックを駆使されると、どうしても筒井康隆の『虚人たち』を連想してしまうね。

なんか朝倉あきがいるじゃないか

『七つの会議』で朝倉あきをはじめて認識したのだが、割とよく目にするような、でもそうでもないようなイメージを纏った俳優(実際によく目にするという意味ではなく)で、本作のキャストに彼女が入っていることを鑑賞の直前、当日朝の予約時に気づいたのだが、映画館の座席に座ったタイミングではすっかり忘れており、登場してからも気がつかなかった。

しばらく眺めてて、この女優さんの声はどこかで聞いたことあるな? となった段階でキャストのことを思い出した。インタビューを読むと、ここの配役だけはヨーロッパ企画と普段のかかわりが小さい俳優を選びたかったという意図があったらしい。納得できる。直電してオファーしたというエピソードはおもしろかった。なお、私はメインメンバーを固めるヨーロッパ企画のことはよく知らない。

彼女はなんというか声が通る俳優で、それが美しい。ハリのある声とでも言えばいいのだろうか。そういえば本作は彼女のほかの俳優、女優さんは劇団俳優ばかりなので、みんな発声がよい。こういうところもおもしろい。イシヅカ役の本多さんはやや滑舌が悪かった気がしたが、それはそれで目立っていておもしろかった。

ドロステのはてとは何だったか

この作品でのタイムスリップは過去には効力がない。カトウの所有する 2 つのディスプレイが映し出す過去の限界はどこにあるのかも気になったが、これはどうでもよくなる。つまり、「ドロステのはて」が時間的な指向性を指すのであれば、言うまでもなくは本作においては未来を指す。

「はて」は 2 つあるように思われる。まずは 1 つ目。エンディングにてカトウが述懐した「未来を知りたくない」という態度のワケ。同時に、カトウの話に乗って自らもしょうもないエピソードを披露するメグミ。どちらも外部から指し示されたバカバカしい未来像。こういうのを退ける。あくまでコメディであるし、本当にくだらない理由ではあるが、思い出してみればチョットだけ沁みる。2 人の笑顔がとってつけたようにディスプレイに映ったのも好きだね。

もう 1 つのドロステだが、そもそも「僕ら」とは誰を指すのか。カトウとメグミをなんとなくカウントするとして、その他の 4名(アヤ、コミヤ、オザワ、タナベ)は僕らの内なのか。ヤミ金の 2名は? 客の 2名は? あるいは鑑賞者は? ベタではあるが避けようもない点でもある。好きなタイトルではあるのだが、どこに結び付けていいのか腑に落ちる落としどころがまだ見つかっていない。ざっくりと、ドロステのはてに私であるが、まぁいい作品だったなぁという感じで楽しめた。

その他

カトウが 5 階に上っていくシーンがクライマックスだと思うのだが、ここの音楽がよかった。最近の流行りっぽい気もする。調べると担当は滝本晃司で、バンド「たま」のベースを担当されていた方だ。なるほどな。公式ページに寄せられたコメントに拠れば映画音楽は初仕事らしいが、ヨーロッパ企画とは劇音楽のほうで 2009 年くらいから縁があるようだ。しかし、それくらいなんだな。

コミヤ役の石田剛太だが『幼な子われらに生まれ』に出演していたらしい。公式ページは無くなっているし、Wikipedia には記載がないし、どのような役で出演したのかわからない。もどかしい。

藤子・F・不二雄の名前が登場する。ファンにはうれしい。SF 短編が全 8 巻というのはパーフェクト版を指しているのだろう。メグミの好きな作品がどうしてこれなの? と笑いたくなるチョイスなのだが、カトウもこれを知っているのがよい。なんとなくだが本作については個人的には『ドジ田ドジ郎の幸運』を連想させられた。

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映画《アルプススタンドのはしの方》を観た。原作は戯曲・演劇だそうで兵庫県の、県立東播磨高等学校の演劇部顧問、籔博晶氏による作品らしい。それが人気を博し、世に広がった末に映画化となった。このような成り立ち故というか、本作の特徴だが、甲子園の 1 回戦を応援する状況を描きながらフィールドは一切登場しない。

あくまで「アルプススタンドのはし」が主役なので映るのは、ほとんどそこのみだ。ロケに使われている球場はあきらかに甲子園ではないのだが、Wikipedia によれば交渉はされており、実現しなかったようだ。残念やね。キャストも高校生役であることも前提になるが、若手主体で新鮮だった。ちょっと高校生を演じるにはどうなのという雰囲気も序盤にはあったが、まぁ些細な問題か。エンディングのための含みもあったのだろう。

コメディっぽさ、それこそ舞台でみるような小ネタの挟み方もあり、登場人物たちの高校生ならではの青春のアレコレもあり、そこそこに楽しめた。予算も小さいだろうし、ちょっとしたいい話というスケールの話だが、こういう作品を鑑賞する機会が年に何度かあってもよいなぁ。ポテンシャルを感じさせられる。

大きなファールが飛んでいく、飛んできたときの間の長さ、目線の方向がトンチンカンに映ったのが気になったけど、これも計算の範疇ということなら文句はない。あと、映画版のオリジナル脚本らしいが、茶道部に全国大会なんてあるのか? という疑問がひとつ。

もともと縁のある(同じ演劇部の)安田と田宮、そこに元野球部の藤野、孤独な成績上位者の宮下を加え、本来は仲良くなるはずもなかったであろう 4 人が試合の終盤には打ち解けているというのは如何にも青春っぽくてよい。オチの回収もオリジナルなんだろうけど、おもしろかった。

前述のオリジナル脚本の展開を頼れば、このあとも 4 人は近からず遠からずよい友人関係を築いていったのかなという推測も成り立って、清々しい。

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《映画ドラえもん のび太の新恐竜》を観た。映画ドラえもんシリーズに私が復帰したのは、2 作前の《映画ドラえもん のび太の宝島》からであった。それは新海誠とタッグを組んだ川村元気が脚本した作品であって、今作も「のび太の宝島」以来の 1 作ぶりの脚本として川村元気が担当している。同じく、監督も「のび太の宝島」の今井一暁ということだ。

普段、感想を残すときはなるべく心に残った良い点を、気になった点があれば自分なりに消化できる解釈を残そうと心がけてはいるが、思い入れのあるシリーズだけにどうしても心残りも多い。まぁ、よかったなと思った点からあげていきたい。

よかったなと思った点

ちょっと近未来を感じる広告スクリーン

冒頭の恐竜パーク、のび太がティラノサウルスにビビって騒いだ顛末でカメラが施設の天井方向に移るが、そこにある曲面スクリーンには夏の清涼飲料水の広告が流れていた。おそらく実現可能な設備で、新宿のヤマダ電機の施設に付いてるスクリーンのようではあるが、こういう近未来感を感じさせる描写はおしなべて好き。サイバーパンクというか『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』を観たときのワクワク感に近い。

豆腐売りとスマートフォンの合わせ技

リヤカーを曳いた豆腐売りが夕方に野比家前を横切っていくカットがある。設定は練馬区だったと思うが、さすがに現代には居らんやろ。いるのかね? 練馬には。まぁいい。その一方で、公共の場で異変が発生すると通行人がこぞってスマホで撮影するシーンが出てくる。完全にワザとなんだけど、時間-時代の感覚を揺るがせてくる。

これが本筋の展開-恐竜時代へと遡行するストーリーへの記号的な伏線として描写されているなら細やかながら面白いけど、誰が気がつくのか、誰が気にかけるのかという疑問も湧く。だがまぁ、誰かが気がついたら面白いよなと思うし、こういう表現は嫌いではない。ただまぁ、豆腐売りが日常空間に存在した世代って、本作のメインターゲットとなるキッズの親世代でもなく、もっと古いよな。

タイムマシンやっぱりカッコいいわ

そもそもが「のび太の恐竜」のレールに乗ったストーリーであり、双子の恐竜の育成物語にも感じたところも特になかったが、タイムマシンに乗り込んで過去に移動するシーンは個人的には盛り上がった。というか、全体でいえばピークだったような気もなくはない。

すんなり移動できずに、やや時空の乱れみたいなのに巻き込まれるところもよいし、ドラえもんのタイムマシンの表現のスタンダードからはちょっと離れた、途方もない時間を遡ったという雰囲気の、目的時間への到着時の描写は特に好きだ。

「魔界大冒険」や「日本誕生」でもそうだが、やはり時空間という異次元の特殊さが、メインではないにせよキッチリ表現されて生かされているのは気持ちがいい。

ジャイアンとスネ夫のコンビは良し

映画の原作(大長編ドラえもん)があった頃から、ジャイアンとスネ夫が-あるいはしずかちゃんのケースも-別行動をとることがある。本筋を解決するためのヒントを別ルートで回収したりといった展開が多いけれど、なんのために別々になったのかよく分からないシナリオに収束していることも少なくない。

今作はこの操作が割とうまくいってたという印象があり、ジャイアンとスネ夫の掛け合い自体も笑えた。ジャイアンの体形のデザインがかなりデフォルメがかかっており、カートゥーンっぽさすらあったのも、いろいろと動かすための工夫の末だったのだろうと。

気になってしまった点

OPが無いでない EDが地味でない?

前作の OP が非常によくできていただけに残念だった。OP がカットされた理由はよく分からないが、尺の都合だろうか。 TV アニメの OP が新恐竜仕様になったとのことなので、兼ね合いもあったのだろうか。かなりガッカリした。個人的には本作最大のマイナスポイントです。

加えて ED が地味ではなかったか。本作はかなり強くキッズ向けに振っているように思えるのだが、ちょっと思わせぶりなだけの、のび太が1人で迎えるラストといい、地味な ED といい、他の箇所にも言えることだが、ところどころ妙に大人向けというかキッズ向けに徹せていない点がある。ED のあの描写、脚本家からはあの作品を連想してしまうし、好みではなかった。ワクワクの終わったあとの余韻が欲しかった。

突然に逆上がりの練習をするな

双子の恐竜の片割れの運動神経が悪い。彼がのび太の分身で、彼の成長と別れまでが描かれる。キッズ向け映画の典型とも思わないが、のび太の葛藤や問題の解決法もピンとせず、悪い言い方をすれば子供だましではなかったかなとも思う。

たとえば恐竜が飛べるようになるまで僕が指導すると言ったのび太だったが、その方法というのは「とにかく頑張れ、みんなできてるのにできないはずがない」みたいなメッセージに基づく、悪く言うと根性論っぽい、反復練習のみだ。こんなのは、現実社会において延々と批判されていたメンタリティ、メソッドそのもので、それこそ本来ならのび太が正面切って反抗してきた対象でしょ。

こういうのをキッズに見せるの? なんなんコレ、という。

お前はどこのピー助じゃい

これは完全にファンサービスなんだろうけど、少なくとも原作映画か 2006年版の視聴者向けというのは確かで、やはりターゲットの軸がよく分からない。14年前の映画を予習済みのキッズ向けということなのか。

また、もともと考えても仕方がないドラえもんの世界観の整合性に、さらに余計なノイズを与えられたのも気持ちよくはないが、これは完全に良くないオタクのやっかみではある。

タイムパラドックスはどうした

同じ藤子・F作品ではあるが、ドラえもん原作には採用されていない道具が登場する。そこはいい。それにしたって、せっかくここまで話を単純化したというのにギリギリでタイムパラドックスのややこしい話題を持ち出すのは厳しいし、当該道具の効能も、あの説明だけでは大人でも分からないだろうし、ことさらキッズにはチンプンカンプンだろう。

ついでは、どういう意図か分からぬが、ざっくり言って「竜の騎士」のストーリーをなぞった展開が披露されるうえ、どうしてそれが許容されるのか、タイムパトロールの対応も疑問だらけで設定がガバガバになって終わる。

どうにもこれは「すこしふしぎ」の範疇ではないような気がしてしまう。

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大林宣彦『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(英題:”Labyrinth of Cinema”)を観た。恥ずかしながら同監督の作品はいずれも未見で、今回も特な思い入れなく、そもそも映像の超大御所という認識もなく、マンダムの CM の演出を手がけられていたことは分かったが、『時をかける少女』こそ知っているが未見だし、それ以外のお仕事も分からない。

想起された作品

というワケで何も知らずに初見の視聴者としては、おそらく御多分に漏れず作風に早々に面食らったが、序盤の終わりの頃には夢中になってしまった。まず感触として連想させられたのは、今敏監督のアニメ映画『千年女優』(2002)で、メタ映画という視点とその扱い方が似ている。

次いで寺山修二の映像作品で、本作の冒頭に「映像」「純文学」というメッセージが発せられたこともヒントになったが、ミュージカルあるいは実験作品のような切り回し、詩の引用などが自由でいて綿密で-中原中也はあまり好みではないのだが-唸るしかなかった。早逝した寺山修二のほうが 3 歳上ではあるが、ほぼ同世代なのだな。Wikipedia によれば一緒に仕事をしたこともあったらしい。

映画って本当にいいものだ

身も蓋もないけど、映画って総合芸術だなという一言に尽きる。監督の自伝的なストーリーと反戦メッセージが、用意されたシチュエーションにおいて二重三重と言わずに繰り返される。幕末から明治維新、太平洋戦争における各局面を取り上げ、実在の人物を登場させることでドキュメンタリー性を強めて独特の重みを強めているが、主役 3 名の適度に軽い演技がエンターテインメント色をよい具合に添える。

というように、ストーリーの重さ軽さも、プロットの運びのテンポも、一本調子ではとても厳しいだろう作品の全体像を、絶妙な脚本と演出で凌ぐ。ちゃんとエンターテインメントにしてる。「この作品の台本ってどんなんなってんだろ?」って映画を見ながら初めて思ったかもしれない。

大雑把な印象

主役は厚木拓郎(馬場毬男役)、細山田隆人(鳥鳳介役)、細田善彦(団茂役)の 3 名だ。厚木拓郎は監督の自伝作『マヌケ先生』(2000)にて同役で(監督の分身)、今作もその文脈を汲んでいるようだが、彼自身は普段は映像よりも舞台、コントの俳優らしい。それらしさはあった。細山田隆人は監督作品の常連のようだし、TV ドラマなどにもよく出演してるみたい。だが知らない。細田善彦は『羊の木』(2018)に出演とのことだが記憶にない。

対応するように 3 名のヒロインがおり、謎の少女:希子を演じる吉田玲、成海璃子(斉藤一美役)、山崎紘奈(芳山和子役)が居る。もう 1 人忘れてならないのは、キーマンとなる女性に常盤貴子(立花百合子)か。希子を除く 3 名の役名は、やはり過去作品からとのことだ。

ストーリー全体としては、馬場毬男と希子の数奇な運命がベースに敷かれているが、要所で団茂と一美、鳥鳳介と和子、それぞれの愛と悲劇が挟まれる。さまざまな時代の苦難の中で、虚実入り混じった物語が展開されるが、団茂と一美の悲劇がもっとも印象的ではなかったか。ちょっと戦争というテーマから脱線気味なんだよね、このエピソードだけがそうなっていはしないか。

もちろん悪いことなくて、小さな岬でよりそう 2 人が妙に映えていて、そんななかでも私は背景が 1 番好きだったな。チープなようでいて幻想さをうまく演出していた。というか、役柄上の都合もあるのだろうが、設定的には主人公は毬男のはずなのだが、主に物語を動かしていたのは団茂と言っても過言ではなく、これは制作の途上で花開いていった部分も大きいのではないかなと思える。細田善彦への以下のインタビューは面白かった。

テーマと映画

メタ映画であることは述べたが、テーマとして反戦であることは無視できるわけない。本作の本当の上映開始予定はもっと早かったらしいが、奇しくもこの時期となってしまったことに運命があるのかもしれない。

映画が大好きで大好きでたまらない監督が、自身のテーマとしての反戦をエンターテインメントのなかで語るという矛盾はあって、ここを深堀しても仕方ないことで、これは宮崎駿などにも言えることだが、どうすべきかしらん。

本作としては「観客にもできることはある」というメッセージを提示することで、映画-純文学でもいいが-つまり、フィクションから現実へ働きかけるチカラを信じるという作家の魂が突きつけられている。オーソドックスな話ではあるが、これを一笑に付すことはできまいなぁ。いや、まぁ雑なまとめ方だけど。

希子について

なかなか難しい。そもそも大林監督はホラー的な表現が好きだったという記述を目にしたのだが、フィルム上で焼けていく希子のカットが繰り返されるのは印象強い演出とはいえ、あまり気持ちのいいものではない。いや、気持ちの悪い感情を植え付けさせる目的であるから成功しているのだが、しかし。

同じように、座敷童子の扱いがある。物語の序盤から説明付きで画面に登場する座敷童子は、中盤、終盤にも幕間のカットで登場する。この座敷童子だが、説明と違い、何やら怪しい存在として機能している。ただ、そんな理由のためだけの存在なワケはない。どういうことか。なるほど、座敷童子は作品の中からの作品の鑑賞者なのかもしらん。

その他のことなど

細田善彦のインタビューもおもしろかったが、以下の常盤貴子のインタビューも面白いな。ちょろっと出演していた稲垣吾郎に関してもそうだけど、監督は口約束をちゃんと守ろうとするんだなぁと。出演俳優のインタビューがあったら、できるだけ読んでいきたいね。

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2020年 8月の Amazon Prime に『七つの会議』がラインナップに加わった。

シーズン 2 が放映中のドラマ『半沢直樹』との相乗を狙っているのか、このタイミングを逃す手はない。本作との関係としては原作が池井戸潤、監督(演出)が福澤克雄であることが重要で、内容に繋がりはない(同原作の『下町ロケット』も同監督によって映像化されている)。

いずれの原作も私は未読だが、半沢の 1 シーズンは楽しんでおり、映画『祈りの幕が下りる時』(2018)で福澤監督のファンになったので『七つの会議』は映画館で鑑賞した。

福澤克雄だが、ドラマ『3年B組金八先生』の第 4 シリーズから演出に参加しており、私は 第 5 シリーズ、第 6 シリーズは視聴していたので、この時点で出会っていみたいだ-当時は演出に興味など欠片もなかった『祈りの幕が下りる時』で好きになったのは、劇中に登場した遠景のカットが心地よかったからである。

豪華なキャスト

監督にまつわる話となるが『七つの会議』では主な出演者が「福澤組」-という通称が通用するのか知らないがネットメディアの記事で見かけた-で固められている。本作では、香川照之、及川光博、片岡愛之助、北大路欣也などだ。説明するまでもなく、半沢シリーズにも登場する面々で、もはや作風と言っていいレベルの枠組みが整えられている。ここに主演の野村萬斎が加わるという贅沢さである。

その他の出演者も豪華で、橋爪功、小泉孝太郎、吉田羊、役所広司、土屋太鳳などがいる。橋爪功こそ登場シーンは多かったが、小泉孝太郎以下の 4 名は、ほんの少しのシーンの数カットにしか出てこない。よく出演したものだと思うが、それだけ魅力的な作品だということだろうか。こちらも贅沢である。

好きなシーン

ここでは好きなシーンを個別に列記していく。

工場

登場するトーメイテックという会社、およびその工場だが、北関東は群馬県の前橋にある設定となっている。映像としては高崎線沿いの道路であったり、工場の空撮映像であったりだが、これがいい。関東平野の平べったさが存分に発揮されている画作りだ。

同工場の部品倉庫もよく、卸用の管理倉庫なのでやたらと広い。作中では営業一課の浜本(朝倉あき)がここを駆け回り、主人公の八角(野村萬斎)が速歩で彼女らを追いかける。まぁなんてことないシーンではあるのだが、倉庫の広がりと奥行きができるだけ感じられ、なんてことないシーンなりに緊張感がある。

墓参り

とあるシーンで八角が墓参りをするが、お話の筋的にこんなところにお墓を建てるような登場人物か? という疑問が浮かぶ。ところで、そんなことはどうでもよくて、いわゆる墓地でこのシーンを撮影するよりも、よっぽど画面映えするのである。青々とした稲を風が撫でていく田園風景は最高に気持ちがいい。

会議室

クライマックスに登場する会議室、やたらとデカい。この部屋を、およそ 8 人という少人数で使っている。対面した座席間は人数に比してバカみたいな距離になっている-もちろんそれも狙いだが、相対者同士の心理的な距離感の演出とともに、一種のマヌケさすら匂わせている。

八角を含めた同社の 4 人が横に並んで着席しているのを正面から移したカットが本作で 1 番好きだ。そもそも八角の所属する東京建電内での対立が描かれていた前半から、今度は彼らの一団が親会社と対峙することになっている矛盾がこの 1 シーンにバシッと収められている。『赤ひげ』の食事シーンすら思い出した。

ちなみにこの会議室は、埼玉県さいたま市中央区保健センターの会議室らしい。 さいたま市ホームページの貸し出し実績 にも掲載されている。本作のロケ地については調べると多くが割り出されているので、おもしろい。上記の工場、およびその本社も、設定とほぼ同じ場所にある企業の施設を利用しているらしい。

歌舞伎と狂言

半沢シリーズの視聴者が「この演技はもはや歌舞伎」みたいなことをツイートしているのを何度か目にした。実際のところ、本作でも香川照之と片岡愛之助(前者は紆余曲折あるが)は、歌舞伎俳優だし、今期の半沢シリーズには他にも歌舞伎俳優が出ているらしいではないか。

『七つの会議』のキャストにおいては、主演の野村萬斎の本職は狂言界の俳優だ。終始に渡って怒気を発する香川照之や片岡愛之助の役に比して、野村萬斎の役はヒョウヒョウとして彼らの怒りを逸らしていく。いずれの文化にも詳しくはないが、歌舞伎は大仰な演技、立ち振る舞いが根幹に、狂言はそもそも喜劇を主にした笑いが根幹にあるという。であれば、配役の意図はこの点にもあるはずで、面白い。

定番の福澤組の為す演出のなかに混じった野村萬斎の存在は、序盤こそ違和感の塊でしかないが、少しずつシリアスさを増してくる内容に、紐解かれていく謎に、それに見合った演技を加味していき、最後には等身大のサラリーマン-あくまでも理想のヒーロー像としてではあるが-に収束していく。なんとも気持ちがいい。

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