2018年の韓国映画《はちどり》を鑑賞した。前情報をほとんど仕入れずに観たが、いろいろな映画祭で受賞した作品らしい。原題はハングルで《벌새》と表記する。冒頭、小さくこのタイトルが表示されたときは字幕がなく、意味を読み取れずに困惑したが、何を表すのかを翌朝になって気がついた。アホかね。

あらすじ。1994年、高度経済成長の最中の韓国はソウル市周辺が舞台とのことだ。集合団地の 10 階に 5 人家族で暮らす中学生の女の子、ウニが主人公だ。彼女は年齢の割には小柄だが、作中世界での登場人物たちの認識としてもそれなりに可愛らしい子として扱われているようだ。とはいえ、家庭内でも学校内でも居心地が悪く、友達も少なく、冴えないながらもクソ冴えないボーイフレンドは居り、そこは思春期の少女らしく、彼女なりに希望に繋がるようなスタイルを暗中模索して苦しんでいる。

ポスターで使われている彼女の顔のアップしか知らなかった段階ではもっと年上の人物の話かと思っていた。

家族

父母と兄姉に彼女という構成だが、とりわけ父は情緒が極端で、端的にそれが原因で家族内の不和は日常的だ。また、韓国、あるいは韓国作品によく描かれる長男信仰が存在し、舞台となる 20 世紀末は現在に比べ、なおさらその気は強かっただろう。ところで、韓国映画ならではの字幕における息子から父への発言の敬語の丁寧さがおもしろい。韓国語が分かれば、実際の具合も分かるのだろうが、どうなのだろう。

また、ウニにとって母は、かなり儚く頼り気がなく、信頼しづらい。夫との関係をはじめ、彼女は人生にいくつかの大きな後悔があるらしい。私は少なくとも 3 つのシーンでそれを感じた。そのうちの真ん中のシーンは、夢か幻か、悪夢のようなシーンで、これは冒頭のリフレインなのだろうが、母親とのコミュニケーションの不能というのは、こんなにも怖いのかとなる。

とはいえ、いずれにせよ、家族愛がたしかにあることはジワジワと、かつそれなりに明確に描写される。だが「家族の情があった、よかった」という情感で締めくくられるワケではなく、かなり繊細なバランスだ。ソファーに隠されたアレはよかった。

死の匂い

作中で登場人物が亡くなるのだが、もうね、予想通りの展開! とは言わないが、登場してからしばらくすると、この人物は亡くなるなと予感させられる。なんだろうね、別に特別にそのような描写があるわけでも、なにかしらヒントがあるわけでもない。「死の匂い」というクサい見出しをつけたが、そういう感じだ。別に本作がテーマとして生死を中心に扱っているわけでもなく、ただ物悲しい。

1 つだけ挙げるとすれば、記憶頼りなので定かではないが、背中からのカットが意識的に多かったかな。

ウニの挙動

ウニは気を許した相手にしか自分の右側-観る側にとってはウニが右側-に置かないようなイメージがあり、確かにそのように演出されていると思われる。記憶の限りでは彼女が気を許した模様のシーンは 4 つだ。自宅の一室で母とソファーに掛けているとき、後輩とカラオケに入っているとき、帰りの寄り道で先生とおしゃべりしているとき、同じく先生とソファーで並んでいるときだ。

右側というのは、ウニが耳裏に違和感を感じた場所であり、重ねて傷を創った場所でもある。こちら側を特定の相手にしか晒さないというのは、分かりやすい。立ち位置に同じくして、ウニの耳の出し方も明確に意識的に操作されているように見えた。

挙動と言えば、地団駄のシーンとそこからの差が印象強くて、好きだね。

何が描かれたか

ウニが成長したかと言われると首肯しかねるが、ラストの景色にはある種の自立や決意、旅立ちが読み取れた。そもそも母親との交わらない点を主にした家族関係の歪み、親友とのすれ違い、ボーイフレンドや後輩との捻じれ、それぞれの人間関係がどれくらい貴重か、あるいはそうでないのかをあらためて考え、確認するキッカケになったのは何だったのか。

そのキッカケはどれくらい実があって、本当に確実なものだったのか。もしかしたら、大したキッカケではなかったかもしれない。結局、そのキッカケがウニに何をもたらしたのか。そういえば、母とウニは第 3 幕にて、かなり独特な視点でようやく交差するのであった。とても皮肉なことではあるが、同じ類の虚無を共有した点で、やっとのことでウニは母を掴んだ、のかもしれない。

あと、私は姉の存在が効いていると思う。姉の彼氏がいいやつだという点で、作中における姉はその時点では幸福だし、それだけにウニに対しても余裕があり、親和できている。そもそも家族内で存在が一番近いという前提はあるが。

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