大林宣彦『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(英題:”Labyrinth of Cinema”)を観た。恥ずかしながら同監督の作品はいずれも未見で、今回も特な思い入れなく、そもそも映像の超大御所という認識もなく、マンダムの CM の演出を手がけられていたことは分かったが、『時をかける少女』こそ知っているが未見だし、それ以外のお仕事も分からない。

想起された作品

というワケで何も知らずに初見の視聴者としては、おそらく御多分に漏れず作風に早々に面食らったが、序盤の終わりの頃には夢中になってしまった。まず感触として連想させられたのは、今敏監督のアニメ映画『千年女優』(2002)で、メタ映画という視点とその扱い方が似ている。

次いで寺山修二の映像作品で、本作の冒頭に「映像」「純文学」というメッセージが発せられたこともヒントになったが、ミュージカルあるいは実験作品のような切り回し、詩の引用などが自由でいて綿密で-中原中也はあまり好みではないのだが-唸るしかなかった。早逝した寺山修二のほうが 3 歳上ではあるが、ほぼ同世代なのだな。Wikipedia によれば一緒に仕事をしたこともあったらしい。

映画って本当にいいものだ

身も蓋もないけど、映画って総合芸術だなという一言に尽きる。監督の自伝的なストーリーと反戦メッセージが、用意されたシチュエーションにおいて二重三重と言わずに繰り返される。幕末から明治維新、太平洋戦争における各局面を取り上げ、実在の人物を登場させることでドキュメンタリー性を強めて独特の重みを強めているが、主役 3 名の適度に軽い演技がエンターテインメント色をよい具合に添える。

というように、ストーリーの重さ軽さも、プロットの運びのテンポも、一本調子ではとても厳しいだろう作品の全体像を、絶妙な脚本と演出で凌ぐ。ちゃんとエンターテインメントにしてる。「この作品の台本ってどんなんなってんだろ?」って映画を見ながら初めて思ったかもしれない。

大雑把な印象

主役は厚木拓郎(馬場毬男役)、細山田隆人(鳥鳳介役)、細田善彦(団茂役)の 3 名だ。厚木拓郎は監督の自伝作『マヌケ先生』(2000)にて同役で(監督の分身)、今作もその文脈を汲んでいるようだが、彼自身は普段は映像よりも舞台、コントの俳優らしい。それらしさはあった。細山田隆人は監督作品の常連のようだし、TV ドラマなどにもよく出演してるみたい。だが知らない。細田善彦は『羊の木』(2018)に出演とのことだが記憶にない。

対応するように 3 名のヒロインがおり、謎の少女:希子を演じる吉田玲、成海璃子(斉藤一美役)、山崎紘奈(芳山和子役)が居る。もう 1 人忘れてならないのは、キーマンとなる女性に常盤貴子(立花百合子)か。希子を除く 3 名の役名は、やはり過去作品からとのことだ。

ストーリー全体としては、馬場毬男と希子の数奇な運命がベースに敷かれているが、要所で団茂と一美、鳥鳳介と和子、それぞれの愛と悲劇が挟まれる。さまざまな時代の苦難の中で、虚実入り混じった物語が展開されるが、団茂と一美の悲劇がもっとも印象的ではなかったか。ちょっと戦争というテーマから脱線気味なんだよね、このエピソードだけがそうなっていはしないか。

もちろん悪いことなくて、小さな岬でよりそう 2 人が妙に映えていて、そんななかでも私は背景が 1 番好きだったな。チープなようでいて幻想さをうまく演出していた。というか、役柄上の都合もあるのだろうが、設定的には主人公は毬男のはずなのだが、主に物語を動かしていたのは団茂と言っても過言ではなく、これは制作の途上で花開いていった部分も大きいのではないかなと思える。細田善彦への以下のインタビューは面白かった。

テーマと映画

メタ映画であることは述べたが、テーマとして反戦であることは無視できるわけない。本作の本当の上映開始予定はもっと早かったらしいが、奇しくもこの時期となってしまったことに運命があるのかもしれない。

映画が大好きで大好きでたまらない監督が、自身のテーマとしての反戦をエンターテインメントのなかで語るという矛盾はあって、ここを深堀しても仕方ないことで、これは宮崎駿などにも言えることだが、どうすべきかしらん。

本作としては「観客にもできることはある」というメッセージを提示することで、映画-純文学でもいいが-つまり、フィクションから現実へ働きかけるチカラを信じるという作家の魂が突きつけられている。オーソドックスな話ではあるが、これを一笑に付すことはできまいなぁ。いや、まぁ雑なまとめ方だけど。

希子について

なかなか難しい。そもそも大林監督はホラー的な表現が好きだったという記述を目にしたのだが、フィルム上で焼けていく希子のカットが繰り返されるのは印象強い演出とはいえ、あまり気持ちのいいものではない。いや、気持ちの悪い感情を植え付けさせる目的であるから成功しているのだが、しかし。

同じように、座敷童子の扱いがある。物語の序盤から説明付きで画面に登場する座敷童子は、中盤、終盤にも幕間のカットで登場する。この座敷童子だが、説明と違い、何やら怪しい存在として機能している。ただ、そんな理由のためだけの存在なワケはない。どういうことか。なるほど、座敷童子は作品の中からの作品の鑑賞者なのかもしらん。

その他のことなど

細田善彦のインタビューもおもしろかったが、以下の常盤貴子のインタビューも面白いな。ちょろっと出演していた稲垣吾郎に関してもそうだけど、監督は口約束をちゃんと守ろうとするんだなぁと。出演俳優のインタビューがあったら、できるだけ読んでいきたいね。

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