『すばらしき世界』を観た。原案の小説『身分帳』(1990、佐木隆三)は、未読だ。監督の西川美和の作品を観るのも初めてで、役所広司が主演した映画をちゃんと見るのも初めてだ。

物語の主人公、三上正夫(役所広司)は正当防衛とも思しき殺人を犯し、自己弁護の失敗も重ね、平成 16 年に収監されて平成 29 年に娑婆に戻ってきた。社会生活に 13 年間のブランクがある。彼は「一匹狼」を自称するが、反社会的勢力の部分であったことは確かで、出所後に東京に向かう道すがら「カタギ」として生きると自ら誓う。

冒頭、東京の身元引受人の家にあったテレビ脇のカレンダーは 2 月 20 日を指していた。冬だ。そして物語はおそらく 7~8 月に終わる。よって、本作はおよそ半年程度の出来事を描いている、と思われる。

こう振り返ると、およそ 2 時間の上映時間は濃密だった。彼の生活は、アパートをなんとか借りて生活保護を受けながら職探しを始めるところから始まるが、暮らすことになったのは荒川付近だろう。荒川区か足立区か江東区か、そのへんかな。

前置きが長くなってしまった。

コメディ調に演出される箇所も多く、緊張と緩和のテンポのよさが不気味に心地いい。個人的には中盤の転換点がやや怠く感じたが、その弛んだ感触も長続きせず、結果的には幕引きまでちゃんとジェットコースターに乗って楽しめた。

本作に問題提起があるとすれば

社会派な作品でもあるが、そういう意味での本作の根幹を成す部分はなんだろうか。たとえば『万引き家族』(2018)と比べようとすると難しくて、「どちらのほうが自分にとってより身近な問題に感じるか?」というと、かなり回答に迷う。というか、答えが出ない愚問ではあるか。

よほど整備された世界で生まれ育った、相当に幸福な人間でもない限りは、三上のような、怒りが暴力に直結しやすい人間に、誰でも人生で 1 度以上は遭遇するだろう。暴力やその破壊力の次第ではあるが、居ることはいる。

とはいえ、遭遇したことがあるタイプの人間だから彼に共感しやすいかというと、そうはならない。それは多くの人間にとっては、彼は加害者、もしくは邪魔者、乱暴者であって、決して何かの被害者ではない-少なくとも表面的には。

もちろん、私は本作で描かれた彼の感情の起伏の程度には引いてしまった。大方の反応もそうだろうと感じる。

そういう意味では、「万引き家族」のほうが身近な問題のようにも思えるが、此方にしたって日常的に万引きを実行し、それを生活の基盤とする価値観なんて、なかなか分からない。

視点を変えよう。

あらためて三上の問題の根本は

私が結末付近で得た感想は、本作は『エレファント・マン』(1980)の類型だなという点で、突き詰めれば、これに尽きる。三上の属性がヤクザである、そうであったことに意識が寄りがちだが、ぶっちゃけヤクザとかどうでもいい。本作においては、それは物語の前提、または三上の性質と実績の結果でしかないので。

過去に彼が起こした犯罪、あるいは作中で実行した揉め事(事件化はしていないが悪事だ)を無視すると、三上という人間が社会生活を目指すうえで抱える問題点は「およそ正当な怒りが破壊的な暴力に直結しやすい」という性質にある。

それが「まじめすぎる」あるいは「幼少期の母親との別れ」などといったオブラートや原因探しに包まれて、作中では、まともな協力者達から批判、あるいは諭される。お前は普通じゃないんだからと。

就職が決まったときのパーティーが代表的だが、三上を救おうとする庄司夫妻、松本店長、ケースワーカーの井口、ライターの津乃田に至るまで、あくまでまともな側の人間である彼らは、すごく真っ当なアドバイスをくれる。

そこに少なからずの違和感を感じたのか、同シーンでの津乃田は一瞬だけ揺らいでいた。この点について、説明はなされないが、もどかしさはある。

『エレファント・マン』との比較を利用すると、何においても三上を無辜であるとできないので、彼の立場はエレファント・マンよりも難しい。が、三上を受け入れてやろうというカタギの世界は、そんなにもすばらしいものかね。

すばらしき世界を諦めない

作品のクライマックスに至っては、三上が彼自身の抑えがたい性質を社会に、あくまで「カタギ」として生活していけるレベルで、順応させていけるかという点に希望らしきものが提示される。

が、私にはよく分からない。そんなことが社会性なのか。あるいは、まともな人間性なのか。その分岐点ってどこね?

それでも本作がなんらかの感動を鑑賞者に与えるのは、三上自身がカタギの世界に希望を見い出すことを諦めなかったからなんだろう。あのエンディングをもって美談めいたノーサイドになってしまうのも心苦しいが、これも現実か。

それでもすばらしい世界はあるか

本作で、まっとうな人とはみ出し者の彼岸を、実にピンポイントに、悪びれて照らすのは、ちょい役の吉澤遥(長澤まさみ)くらいだ。なのだが、いかんせん主題めいた内容がボケるだろうから、これもそこまで深入りして描写はされない。

結局、三上がまともな社会に受け入れられ得たか分からない。そこに希望があるかどうかも、私的な感想としては、そこまでポジティブにも思わない。まともになろうという三上がコスモスを手にしたとき、何を思っていたのか。

付言というか、ベタな話ではあるが、「万引き家族」にせよ本作にせよ、前者ではタイトルが示す通りではあるのだが、家族というものの在りようへの問いが根底にはあるような気はするね。

まとまりのない感想になった。

その他

物語とは別に気に留まった点などをメモしておく。

東京タワーと”Love Lost In Heaven”

「カタギ」を諦めかけた三上がアニキ分に連絡し、そこへ向かうシーン。まぁ美しかったね。まずは東京タワーが映る夜景をバックに、横浜方面へ移動していく空撮(これもドローンで撮影できるのかな)を背景に、”Love Lost In Heaven” という、いかにも甘い曲が流れる。

この曲、実際の歌手も実在するようなのだが、本作への書き下ろし、専用のナンバーなのかしら。よくわからん。いい曲です。タイトルがね。

ちなみに、このシーンでのアニキ分との通話は、いかにも肩肘のはらない気の抜けた、彼らなりの愛情のこもった会話だった。福岡に着いてから舎弟の運転する車がほかに車両のいない高速を抜けていくシーンにも現実感がなくて、妙に美しい。三上が過去に生きていた世界がすでに現実離れしていることを予感させられる。

余談というほどでもないが、東京スカイツリーも『万引き家族』以来に映像作品での登場をみた。権利的に映像に登場させるのは相当に難しい建造物であるらしいが、東京タワーを上述のように活用しておいて、こちらを映さないわけにもいくまいな。なんだかんだで時代を象徴するモニュメントになっているね。

光のつぶつぶの効果

上述の東京タワーの情景然りだが、エモいシーンで多用されていたように思う。まるっきり CG ってワケでもなさそうだけど、なんらかの加工を加えないとこういう感じにはなかなかならないだろうね。こういう映し方の技法なりにも名前がありそうだけど、あいにく知らない。

やっぱりシーン全体が幻想的な調子になる効果がある。なんなら、全部が夢物語だったのではとすら思うが、残念ながらそうでもない。

福岡のアニキ分の女将

本作、最後に登場した介護施設の若者たちも好きなのだが、軍配は福岡の女将さんに上がった。夢のような福岡滞在、津乃田からの朗報。ウキウキ気分で釣りから帰宅すると警察との押し問答が発生していた。朗報と女将の説得がストッパーとなり、ふたたびカタギに傾いた三上は、現場から去る。

彼女こそ、まっとうではない側から、三上をまっとうな世界へ背中を押した、本作で唯一の人物なのだ。それはそれでどうなのと思わなくもないが、これこそが救いだと私は感じる。

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『花束みたいな恋をした』を観た。やっぱり劇場で映画を見るのはいいね。

映画で菅田将暉や有村架純をみるのは初めてで、これは非常に貴重な体験だった。有村架純についていえば、演技をまともに見たのも初めてかもしれない。

大枠としてはラブコメ枠でいいはずで、このジャンルの作品は年間に数多製作、発表されていると思うが、2016 年くらいから映画を鑑賞するようになってからポツポツと摂取している。

そんな個人的な鑑賞体験の範囲で本作を評価すると、この作品には、ごく普通のごく平凡なごく幸せな恋愛体験の始まりと終わりだけがあって、これがかなり奇跡的なことと思われた。

濃い設定やクセの強い主役たちであったり、なんらかの悲劇によって 2 人が引き裂かれたり、といった物語を盛り上げるための装置がほぼなく、どこにでもありそうなほろ苦い人生が描かれるのがよい。

とにかく普通の作品であることがすごい

京王線沿線に暮らす麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、ふとしたことから調布駅で終電を逃し、そこに居合わせた他 2 名と朝まで過ごすことになる。で、他 2 名はどうでもいいが、お互いに文藝ファンであったり、押井守を本人であると認識できたり、といった感じで気が合ったようなので、付き合いを深めていく。

ごくごく普通というか、大学生以降の人間関係は、こういうキッカケでスタートしていくものだよね。本棚のラインナップがメチャクチャ被ってるとか、そういうのを小さな運命の積み重ねみたいに言ってもいいし、少なくとも恋愛してる当人たちは運命性を感じてるものだろうけど、客観的に眺めていると、まぁよくある話だ。

これは悪い意味ではなくて、だからこそ本作が描く物語には普遍性がある、ような気がする。言うなれば、その点の当たり前さが妙に生々しくて、特に私は男性であるからか知らぬが、ところどころ菅田将暉が演じる麦の挙動に、共感性差恥心のような感情が生じて独特の気持ち悪さを感じた。

そういう点も含め、恋愛から結婚への地続き的な思考、あるいはその否定や(これは麦、絹双方だが)、これまたあまりにも典型的なすれ違いの様子などのディテール部分は、少しばかり違和感を感じなくもなかった。とはいえこれも、私個人の体験や感覚との相違から生じるギャップであるとしたら、その根源にある理屈や感情は限りなく私のナマモノであって、なかなか空恐ろしい。

ほにゃららカルチャー的なあれこれ

上述したように、麦も絹は、同じ特定の作家が好きだったり、押井守を判別できたり、音楽の趣味が合ったり、という特性がある。本作の難点というか、実在の固有名詞がバシバシ出てくるので、実際にこれらを知っているか否か、親しみがあるか否かで感触が大分変わりそうだという点があった。

私個人としては、本作に登場する作家やミュージシャン、映画などなどは大体は知っていたのでウワァーという感じで、物語の時系列の先頭にあたる 2015 年から世の中のいろいろはこんな感じだったなと、懐かしいような、やはり恥ずかしいような思いをもって見つめていた。

特に印象的だったのは 2017 年発売のゲーム筐体である Nintendo Switch のロンチタイトルであった『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』で、中高年世代(30 歳代以上くらい)はこのゲームでひさびさにコンシューマーに帰ってきた感があったが、麦と絹は 2 人はサラリーマン生活が徐々に忙しくなっていき、これで遊ぶことがなくなっていく。

あるいは、職場での泊まり込みの寝台では、なんと麦が「パズドラ」に興じているではないか。お前…、そんな、なんでそんな…。いや、いいんですけどね…。

長くなりそうなんで、カルチャー的な話は切り上げるけど、気になったのはレビューなどで本作で挙げられたカルチャー的なあれこれを「サブカル」と括って済ませていた人が多からず、いたことだ。まためんどくさい視点だなと呆れられるだろうけど、本作に登場したさまざまな映画、音楽、文藝などをサブカルと呼ぶ必要があるのか。ないだろうと思うが、どうだろうか。

秒速5cmメートル的な感触が…

ラストシーンの正に映画を見終える瞬間、視点が現代に戻り、麦と絹がそれぞれの新しいパートナーと街へ散っていくとき「あぁ、こりゃ男女双方の視点を補完してキレイに終わらせた大人の秒速5cmセンチメートルじゃん」と勝手に腑に落ちてしまった。

Twitter で検索してみると、同じような感想を述べたツイートは少なくなさそうだ。どういうことなのか。

それでもやっぱり男視点だなとは

つまり、この作品は限りになく平等に視点が描かれているけど、細部をちゃんと押さえると、一応は麦側の視点に重きが置かれている。どういうことかというと、タイトルを振り返ってみればわかりやすい。とりあえず、そのことには深入りしない。

そういえば、ラブコメものをいくつか見てきたと冒頭で言ったが、男性視点が軸に据えられている作品は、実はあんまり見てこなかったことに気がつく。『勝手に震えてろ』(2017)『愛がなんだ』(2018)などがパッと思い浮かぶが、いずれも女性作家の女性視点の作品だった。

であるから、その面で考えれば新海誠の作品が連想されてもさほど不思議ではないのかな。してみると、これは比べようのないことだけれど、作品への感情移入のしやすさのハードルは実は男性の方が低いのかもしれない。どうなんだろうね。

物語自体も、全体的には各イベントを提案するのはほとんど麦で、そういう意味では、古臭い作品ということもできるのか? とも思わなくもない。このポイントが、本作の面白さを左右するとは思わないが、小さな違和感のひとつではあった。

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しばらく更新が滞っていた。そろそろヒッチコックマラソンも再開したいし、今年は読了した書籍のメモなども載せていきたい。特別に忙しいわけではないが、どうにも進まない。これはよくない。

ということで、もなにもないが今回は、手塚治虫の『三つ目がとおる』についてメモを残す。Wikipedia や Amazon で収集した情報を自分なりにまとめ直しただけで大した内容ではないハズだが、誰かの役には立つかもしれない。

キッカケだが、Kindle で或るバージョンの第 1 巻を手に取った。だが、読んでみると明らかにこの第 1 巻は本シリーズの 1 作目ではない。この問題については、カスタマーレビューにも似たような発見、不満が書かれていた。だがこれは、 Kindle のせいではなくあきらかに原本がそのようになっている。

どうしてこうなった?

前提として『三つ目がとおる』は 1974 年から 4 年間、「週刊少年マガジン」にて連載された作品だ。調べた限りだと、以下のようなバリエーションで単行本やら文庫やらになっているようだ。本当は書誌情報などをていねいに洗うべきなのだが、まぁやりません。ざっくり調べた範囲で、発刊年代順にしたつもりだ。

  1. 講談社コミックス(全 6 巻、-1978?)
  2. 手塚治虫漫画全集(全 13 巻、1977?-1984?)
  3. 講談社コミックスペシャル(全 8 巻、1986?)
  4. 講談社コミックスグランドコレクション(全 8 巻、1996?)
  5. 講談社プラチナコミック(全 14 巻、2003?)コンビニコミック
  6. 講談社漫画文庫(全 8 巻、2008?)
  7. 手塚治虫文庫全集(全 7 巻、2010-2012)
  8. 復刻名作漫画シリーズ GAMANGA BOOKS版(全 10 巻、小学館クリエイティブ、2012)
  9. 三つ目がとおる 《オリジナル版》 大全集 (全 8 巻、復刊ドットコム、2019)

1~7 は講談社の発刊物だ。2.の全集は 3 期にわけて計画されたそうだが、「三つ目がとおる」の掲載時期に被っている。おそらく第 3 期に発刊されたと思われる。その後、10 年や 5 年などのスパンでさまざまな形態で発行されている。

8 は小学館クリエイティブの古典マンガの復興企画のようだが、よく調べていない。7と時期が微妙に重複している点が少しだけ気になる。

9 の復刊ドットコムの版は現行で最新版だが、これは雑誌掲載時の原稿と形態、話の展開を可能な限り再現したバージョンであるらしい。

暫定的な結論を述べれば、Kindle あるいは紙の書籍で買うのであれば、7 がよさそうだ。現段階では、7 と 8 の差がよく分かっていないのだが、どうも内容にそこまで差はないように思える。そして、どうしても掲載時のオリジナルに近い状態で読みたければ 9 という選択肢が考えられる。それについては以下のページに詳しいので、ここでは割愛する。

私が最初に遭遇したのはなんだったのか

キッカケとなった問題を扱う。手塚治虫に限った話ではないが、およそ連載作品というのは、単行本化にあたって手直しが入る。そして殊更、本作についてはそれが大きかったようだ。私が最初に手に取ったのは「手塚治虫漫画全集」版(上記 2)を Kindle 化した第 1 巻だったようで、一方の「手塚治虫文庫全集」(上記 7)の Kindle 版も存在するのだ。リンクは以下の通りだ。

なぜこうなったのか。ここからは、 Wikipedia (三つ目がとおる)の記述をそのまま引用するが、以下のような原因があるらしい。

『手塚治虫漫画全集』の刊行に当たっては、当時6巻まで発売されていた講談社コミックス(KC)版を打ち切りにし、その続きから優先して全集に収録されることになった。このため全集への収録順序は連載時の順序と大きく異なるものとなるが、「講談社コミックスペシャル(KCSP)」 以降の版では本来の順に戻されている。

Wikipedia:三つ目がとおる 作品の改変等について

なるほど、コミックス版を切ったものの、そこまで購入していた読者を待たせるわけにもいかないという判断から、コミックス版の続きをスタートとして全集に収録したという経緯だろうか。よくこんな手段を取ったな。

だが、この特異な状況にあるのは「手塚治虫漫画全集」(上記2)だけであるようだ。

ところで、また、「手塚治虫文庫全集」(上記7)では、このバージョン以前までオミットされていた以下の各話が収録されているらしい。これは、Wikipedia (手塚治虫漫画全集)の記述だ。

『三つ目がとおる』は下記の未収録作品が収録されている。
「分福登場」「給食」「猪鹿中学」「長耳族」「舌をだすな!」「七蛇寺の七ふしぎ」「カオスの壺」「メダルの謎」「スキャンダル」

Wikipedia (手塚治虫漫画全集)

Kindle なりの問題点もある

今回たまたま発見したのだが、Amazon Kindle サービスの悪癖にも遭遇した。先ほどリンクを張った『三つ目がとおる 手塚治虫文庫全集(1)』のページだが、ここに掲載されているカスタマーレビューが実は、小学館クリエイティブの GAMANGA BOOKS版 (上記8)と併合されている。これは明らかにミスだろう。2 巻目以降では発生していないので、一括操作で生じたエラー的な事象なのだろうが、これが GAMANGA BOOKS版 の発見に繋がったという救いもあるのだが、混乱も生んだ。

どのバージョンを読めばいいか

先ほども書いたが、あらためてまとめる。

Kindle で読みたければ「手塚治虫文庫全集」(上記7)がモアベターだろう。連載順を操作されたバージョンを敢えて読む必要はない。ついで、紙で読みたい場合だが、やはり「手塚治虫文庫全集」(上記7)がおそらく書店ではもっとも入手しやすい。

そして雑誌掲載時の状態、あるいは作品全体の手入れ前のクライマックスを堪能したければ復刊ドットコム版でもいいのではないか。割と高額、かつ場所もとりそうなので、最終巻だけこれを買ってみるというのもありかもしれないなと個人的には思う。どうもクライマックスにもバージョンごとの相違がかなり大きいようなので。

とここまで書いてボンヤリと思い出したが、10 年近く前にも同じように混乱していろいろと調べていたことを思い出した。当時はバリエーションの多さに負けて、わけが分からないまま撤退した記憶がある。

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『ルクス・エテルナ 永遠の光』を観た。なんとなく映画を探していて、まぁ面白いということらしく、チケットを取った。予約のタイミングが早かったのもあって、予約したときはガラガラだったが、劇場についたら思っていたよりも席が埋まっていた。

それにしても監督のギャスパー・ノエもまったく知らず、ワクワクとしながら見始めたんだけど、ぶったまげましたね。うーん…。

考えさせる系の映画、ということで合っていると思うが、どうだろうか。1 回書きたいことを全部載せた感想を書いたが、どうも気持ちがよくないので、止めた。

この作品で描かれているある種の不条理さを笑いに転化するということも個人的には難しくて、煮え切らない。別の場所にも記したのだが、そのことだけ書こうと思う。

本作、ベアトリス、シャルロット、アビーという 3 人の女性の苦悩が分かりやすい。男も登場するが、ほとんどが気持ちが悪い。登場する男たちには、ほとんど台詞と役割があるのだが、まぁ気持ち悪さを引き立てるだけだ。まぁとにかく男は皆、気持ちが悪い。

女性は上記の 3 人の他、下撮り用のシャルロットの代役の女性、シャルロットの誘導係、その他という感じかな。

ベアトリスは、初の監督作品ということで気合が入っているがプロデューサーとも撮影監督とも反りが合わずに、何もかもうまく行かない。実際、指揮能力があるようには見えないので仕方がない。本作のイメージにも使われているが、最後に「なぜ誰もかれもが私を置いていくのか」と嘆いている。

シャルロットは、この愚作に付き合うことになってしまった人気俳優ということだ。ようわからん撮影に巻き込まれている点も不幸だが、問題は娘が身体的な被害にあっているかもしれないという事実が電話で不確かながらも露見した点にある。仕事をぶっちして帰ればいいのだが、タイミングが掴めなかったね…。

メタ的には、彼女の不幸は映画そのものにも、撮影現場にもない、というメッセージに読めるがどうだかねぇ。彼女も本作のイメージに使われており、磔にされて項垂れている。「永遠の光」とはえてして、見えない不幸によって支えられているのだ、とでも言いたげだが、よくわからん。

アビーは、シャルロットと同じく磔にされる。彼女は英語圏から撮影に参加しており、フランス語で進行管理される現場になかなか付いていけない。トラブル続きだし、どうしようもない。クライマックスの磔のシーンでは彼女の存在感が最高潮になる。かわいそうで、たいへんそうだね。

といった感じだが、私はもう 1 人の磔にされた女性が気になった。この女性は 1 回も台詞がなかったのではないかな。問題の磔のシーンでも黙っていた。それでもこの磔からアビーもシャルロットもさておき、1 番に解放されたのが彼女だった。

この映画がベアトリスの嘆きとシャルロッテの諦めという構図で締めくくられるにあたって、アビーももう 1 人の女性も意図的には添え物でしかないはずなのだが、そこに意味を持たせたとき、右側の女性がぽっかりと、誰にとっても都合のよい、本当に非常に淡白で、逆にそれだけ私から見たら奇妙な味付けになった。

私は、彼女のために自分がこの映画を観たと、そう思いたい。

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ヒッチコックマラソンです。『間違えられた男』《The Wrong Man》を観た。ヒッチコックのなかでは、異色の作品にあたるのかな。冒頭で実話を基にした作品だということを監督本人が語るシーンが用意されている。真剣味が違う。

実在の事件が存在する作品といえば『ロープ』もそうだが、こちらは映画の脚本のベースに舞台劇の脚本があった。事件の背景も大分に手が加わっている。一方で、『間違えられた男』は原作と脚本がマクスウェル・アンダーソンということだが、映画のための書き下ろし脚本なのだろうか。結論としては事実への脚色具合はわからん。

半世紀以上も前のことだから、警察の杜撰な捜査など現代以上によくあったことだろうけれども、被害者の証言や雑に鑑定された筆跡鑑定などから主人公:マニーは強盗の容疑者に仕立て上げられていく。

とはいえ当時といえど、もう少し強く主張すればそのまま留置場、刑務所域は免れたようにも思うが、そんなことはないのかね。突然に容疑者として事件に巻き込まれたらマニーのようになってしまうような気もする。その辺のリアリティはエンターテインメントととしもかなり重視されている雰囲気はある。

つまり、前半の醍醐味は翻弄されるマニーであって、留置場に入れられたマニーの苦悩の表情を中心にカメラがぐわんぐわんと動くシーンは凝っていて印象的だ。刑務所の格子に囲まれた階段だとか、牢獄の扉の窓越しのカメラワークとか、まぁ目に映える映し方ばかりなんだ。

輸送されていくマニーの俯いた表情や視線、足元の覚束ない雰囲気なども大きく見どころで、こういう無辜の人物がハメられていく作品は実に心が痛むので負荷も大きいのだが、映像の面白さについついのめり込んでいく。追いやられていく。

追い詰められていった男と女

この作品、実話がベースになっているという点も含めて、生活がカツカツな人物が主人公というのもヒッチコック作品としては割と珍しいのではないか。それも「実はお金に困っていた」じゃなくて、最初からお金に困ってギリギリで生活費を工面していることが明らかにされている。中流かそこらのごく一般的な家庭なんだよね。

冒頭で、マニーの配偶者であるローズの歯痛が問題となり、これをキッカケにして彼が容疑者となってしまう騒動に巻き込まれていく。ローズはこのことに気を病むのだが、ある時点で判明する分には、そもそも彼女は小さいながらも借金を重ねるマニーの家計勘定を良しとしていなかった。この辺のバランスはさりげないけど、見事だよね。

さて、マニーの容疑を晴らす決定的なアリバイとなるはずの人物たちが不幸にも物故していたことが判明した時点で、ローズが狂ったように笑い始める。実際に狂ってしまうのだが、このへんの強烈にメランコリーな女性という存在も、ヒッチコックとしては実は珍しいような気がする。『山羊座のもとに』と比較してもちょっと性質が違うような気がする。

おもしろいもので、この物語の原因で、かつ本筋であったのは強盗容疑事件なのだが、最後に印象に残るのは家庭の不幸であり、配偶者の破滅であった。マニーはむしろ、ここにこそ奇跡を望んだが、それは少なくとも作中では描かれずに終わった。前半と後半でまったく異なる表情をみせるローズ、これはスゴイいいよね。同じ人物に見えないくらいだった。

なんとなく救いだと思ったのは、マニーの勤務先のホールだ。普通なら彼が容疑者になった時点で解雇されても不思議はないが、保釈後に平常通り業務に戻れているっぽいのだよな。物語的には、あまり不幸を拡散させても収拾がつかないというのと、実際にマニーはそういうことは絶対にしないという信頼があるという、意味付けもなされているのだろうけど、ベースを弾いてるマニーのシーンもよかったね。

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ヒッチコックマラソンです。『知りすぎていた男』《The Man Who Knew Too Much》を観た。のっけから海外、しかも合衆国でも欧州じゃないので少しびっくりしたが、カサブランカを経由してマラケシュへ観光に来ている家族という設定か。

夫は医者で、妻は世界を巡った元歌手のスターだったらしい。なんやかんやあって夫婦と息子が事件に巻きこまれ、息子が誘拐されて、2人はロンドンまで追いかけていくが…。

ひさびさに感じる規模感と妙な間延び感があるなと思ったが、これはイギリス時代の作品『暗殺者の家』のセルフ・リメイクでもあるらしい。なるほど、その辺の影響もあるのだろうか。今回の私の走っているヒッチコックマラソンでは、『暗殺者の家』は鑑賞できていないので、その辺の都合はわからない。

自分が感じた間延び感だが、主人公らが息子の救出を急いでいる割にはややマイペースだったり、ロンドンの警察がかなり間抜けに見えたのが該当する。これはおそらく原作の脚本から動かしがたいところだったのではないかな。

さて、まずは、マラケシュでの異文化感がよかった。これはさすがに現地のロケだよね? チキンを食べるシーンが出てくるのだが、『泥棒成金』と異なり、これはちゃんと食べていたような。左手を使ってはいけないというルールに翻弄される主人公はちょっと面白いね。

マラケシュの月夜を映したカットが本作では 1 番好きかもしれない。

ところで本作の冒頭は、ホールで演奏される楽団のシンバルが鳴らされるシーンから始まり、「この音を耳にしてしまった家族を襲う危機が…」みたいなメッセージがなされる。この仕掛けがうまく機能していたのかは微妙かもしらん。

ロンドンでは現地を訪れていた他国の大統領が、コンサートホールで暗殺されんとしていた。本作のクライマックスは前後があり、その前半がここのシーンだ。大きなホールにめちゃくちゃ大人数の観客、オーケストラ、合唱が入っており、圧巻の人数だ。

加えて、舞台設定とか狙撃のシーンなんかは、いくつもマネされていそう。ベタだけど最近の映画としては『テネット』の冒頭シーンなんかが連想されましたね。

音楽がめちゃくちゃ重要な要素なんだよね

まずは、このコンサートホールで演奏されていた曲目についてだが、インターネットのありがたいことに、詳しく説明してくれている個人サイトがあった。原曲はオーストラリア出身の作曲家、アーサー・ベンジャミンの《cantata the storm clouds》という曲らしい。

もうひとつの重要な音楽が《ケ・セラ・セラ》で、この作品のために制作され、歌われていたことも知らなかったが、なるほどなぁ。ミュージカル映画の系譜はあまり分からないのだが、こういった要素の取り入れなのかね。ドリス・デイの歌いっぷりがまさしく歌姫のそれで、美しい。

この曲が、クライマックスの 2 つ目の山場で活躍するわけだ。

子供がまともに登場する

『ハリーの災難』でも登場する子供にそこそこの役割が与えられていたが、ヒッチコックのサスペンス作品に子供がまともに登場して扱われるのは初めてなんじゃないだろうか。見落としがあるかな? これも時代の流れなのか?

不幸中の幸いというか、誘拐された子供はそれなりに丁重に扱われるのだが、誘拐犯側の女性諜報員も少年に同情してしまって、逃がそうとするんだよね。そこで母と子の暗号として《ケ・セラ・セラ》が機能するのなんて、上手いね。大使館の夜会で歌うには場違いな曲だったのに、結局は皆が聞き入ってっているのもオツだった。

タイトルの「知りすぎていた男」というのは、主人公のベンのことなのか、殺されたルイ・ベルナールなのか、よく分からんよな。ベルナールは最初、暗殺チームをベンではないかと疑ったということだが、さすがに子連れで偵察になんて訪れないよな(笑。 こういうところもちょっと旧作っぽさがあるような気がする。

以下が音楽まわりの情報で参考になったページだ。

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ヒッチコックマラソンです。『ハリーの災難』《The Trouble with Harry》を観た。

あらすじを確認することを避けて鑑賞したが、のっけから異常な展開で笑ってしまった。映像としては冒頭のシーンがもっとも美しく感じらるといっても過言ではないのではないか。

観賞後に情報を拾い読みしたけど、一般的にはブラック・コメディとして分類される作品らしい。後半には、やや集中力が失速していって、全体としてはそこそこという印象に落ち着いたが、要所の描写などを思い返してみると、考えさせられる点がいくつかあり、それなりに興味深いなと思ったので、それらについて書いておく。

ブラック・コメディにしても登場人物の考え方や感性がややおかしい。異常といってもいいような気配すらする。ということで登場人物別にメモする。

ジェニファー

最初の夫が死んで、その兄である男-タイトルとなっているハリーだが-、と結婚し、それも死んだ。最初の夫の死因は明かされないが、次の夫の死因は心臓発作だ。最初の夫の死から、次の夫との結婚と死、作中でのサムからの求婚の受け入れと、怒涛の勢いだが、これってヒデェよな。ブラック・コメディだから許される設定じゃないよね、これは半分褒めてるけど。なので本作一、狂気を孕んでいるのは彼女だ。

死体に遭遇してしまった息子への態度も妙だし、なんなら同じ行為を 2 度もさせようなんていうのは完全に正気の沙汰ではない。黒すぎる。

アーニー

息子のアーニーも肝が据わっている。いや、やっぱり変なんだよな。一昔前の田舎だったら当たり前だったのかしらないけど、船長(アルバート)の狩ったウサギの両耳を担いではしゃいでいる画がもうキツい。サムの持ち込んだカエルと交換してもらうシーンもそれなりに怖いのだが、譲渡したはずのウサギをすぐに借りて(強奪だよ)、そのままマフィン 2 つと交換しにいく。自由奔放が過ぎる。

終盤で、バスタブに裸体で横たわっているハリーを確実に目撃しているはずだが、これもアーニーは軽くスルーする。気味が悪すぎる。

1950 年代のホラー映画のランキングなどをパッと眺めた限りなのだが、この時期はまだ子供が恐怖をもたらすタイプのホラー映画はあまりなさそうなんだけど、この映画のアーニーのようなイメージが、子供が恐怖の源泉となるホラーを生み出すきっかけになったのではないか、などと妄想してしまった。

ついでにメモしておくと、おそらく私が見てきたヒッチコック作品で子供がここまでちゃんと登場するのは初で、加えて次作の『知りすぎていた男』では、まるで真逆のように、まっとうな母親と子供が登場する。

サム

画家だ。まともな人間なのかちょっとネジが外れているのか分からないところがあるが、基本的には善人なようだ。上述のように、割と簡単にジェニーに惚れこんで、一晩でプロポーズまで済ませる。テンポが良すぎる。

この男がジェニーに何故惚れたのか。ジェニーのどこに魅力があったのか。ジェニーは彼女にまとわりつく男たちを次々と殺していくのではないかという恐怖がどうしても湧いてしまうね。ファム・ファタールだ。

私はこの男にも幸福は訪れそうにないように思える。コメディとは言うけど、なんというか全体的に不穏なんだよな-人が死んでいるのでそれはそうなのだけれども。

その他の登場人物

船長とアイビーはまだまともかな。船長に続いて、アイビーが登場した時点の彼女の態度で、話の半分くらいは予想できるんだよね。話がある程度まで進んだ時点で、埋めた死体を掘り返すというアイビーの意見は真っ当と言えばまっとうなのだが、別の視点が加わったら埋め戻すことにも簡単に同意するし、軸がねぇなぁ。このあたりはまぁ、コメディとして面白い。

グリーンボー医師も狂ってるけど、まぁ彼はいいや。読んでる本の内容などにはおそらく意味づけがなされているのだろうけれども。深入りしてはいけない。

ウィッグス親子は、この土地では最古の住人のように思えるが、なんとなく悲しい役どころなんだよね。カルヴィンのことを思うと、ツラくなる。このね、田舎なりの人間関係の粗密感というか、やりきれなさが潜んでいるのがね、そういう空恐ろしさが背後にあるんだよね。

『羅生門』っぽさないですか

インターネットでググる限りだと、ほとんど該当する指摘はなくて、「連想させられる」と書かれた記事は検索上位には何件かはあったが、これは私の勝手な思い込みなのか、どうなのか。

そもそも「ハリーの災難」の原作を知らないので、本作がどれくらい原作をトレースした結果なのかも不明だが、ややコメディ調に殺人の真相探しが進むのは、黒澤明の『羅生門』を完全に意識しているように感じた。

下記の参照した記事には、「この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日した。」ともあったが、どれくらい確かな情報なのかは定かではない。

のちのち得られた事実があれば、追記しておきたい。

というわけで-も何もないんだけど、なんというか私は本作はブラック・コメディというよりは、ホラー映画に繋がるような不条理さを重点的に読み取ってしまったのであった。

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『ルーブル美術館の夜 ― ダ・ヴィンチ没後500年展』を鑑賞してきた。上映中の映画を漁ってたらたまたま眼に入って、一応、レオナルド・ダ・ヴィンチのファンではあるのだが、なんとなく見てきた。面白かったには面白かったが、映画としてみたときの全体のパフォーマンスとしてはどうかなぁ、と偉そうなことを文句をたれつつ、前半の終わりから中盤はウトウトと寝落ちしたので、中途半端な体験および感想となる。

2019 – 2020 年にフランスはルーブル美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展について、この展覧会のキュレーターであった 2 氏の解説付きで展示物を読み解いていくという内容だ。本展、準備段階から実施に至るまで 10 年以上の歳月を費やしたそうだ。大変なことだ。

美術館の閉館後、誰もいないフロアを贅沢に使って、専門家のやり取りを拝聴できるというところがウリなのだろうけれども、それが夜である必要がイマイチわからなかった。別にそこに期待しているわけでもないので、いいっちゃいいのだが。

冒頭とエンディングで、おそらくドローンによる美術館全体の空撮が、エントランスのガラスのピラミッドを中心として、「四分の三正面」を彷彿とさせる角度から写されていた。おそらく冒頭が閉館直後をイメージしており、エンディングはこれからまた開館する直前みたいなニュアンスなのかな。

作品を解説するにあたっては特別なカメラワークなどはほぼ取りようがないが、題材に入るときには、ぐるりと付近の壁面からなめるように回転させて作品を中央に収めていったり、といった工夫には気がついた。寝落ちせずに済んだ箇所についてのみだけれど…。

本劇中で扱われている作品は、上にリンクを張った公式ページに記載されているが、以下となる。

  • 《聖トマスの懐疑》(彫像、ヴェロッキオ)
  • 《受胎告知》
  • 《聖母と果物鉢》
  • 《猫のいる聖母子の素描》
  • 《ブノワの聖母》
  • 《荒野の聖ヒエロニムス》
  • 《岩窟の聖母(パリ版)》
  • 《音楽家の肖像》
  • 《ミラノの貴婦人の肖像》
  • 《最後の晩餐》
  • 《ほつれ髪の女》
  • 《洗礼者ヨハネ》
  • 《聖母子と聖アンナ》
  • 《モナ・リザ》

なお、展覧会には《モナ・リザ》そのものは収録されなかったらしい。というのも、企画展のフロアのキャパシティは 1 日で 2 万人程度を想定していたらしいが、ルーブル美術館の《モナ・リザ》を見にくる人たちは 日に 3 万人だとのことだった。なるほどねぇ。

解説の合い間にはところどころで館内の映像も映されるが、これといって面白いことはなかったかな。良くも悪くも普通だ。

一番不満だったのは音楽で、パッと耳にしてどの曲だと同定できるほどではないが、バロック音楽-おそらくバッハだったりが、割と多かった印象がある。これがよく分からない。同時代の画家を扱っているのであれば分かるのだが、ぜんぜん時代が全然違うよね。それであっていれば不満もないわけだが、合わせるための工夫があるのかないのか。

雰囲気で音を入れたというほどバカな話もないだろうけど、よく分からない。単純に、作品にあっているとは感じられなかったのが残念だった。エンドロールではスタンダードジャズみたいな音楽が流れていたけど、突然のジャズに困惑した。なんだか、これらの印象ばかりが残るなぁ。

ちなみに、後ほど他の方の感想を目にしたら、エンドロールで流れていたのはやはりバッハのパッサカリアのジャズ演奏だったらしい。なんならこういう演奏で全体をまとめてくれたほうがよっぽどマシだよ。

下書きから完成まで、新たな技法をどう生かすのか

1 番まともに鑑賞できたのは最後のほうの《聖母子と聖アンナ》だったのだが、これはデッサンや肖像画などと異なり、宗教画のカテゴリーに入るので、制作される対象は完全に画家のイマジネーション頼りになるわけだ。下書きと実際の作品の構図に異なりがあるのは、特にこの画家の場合は珍しくもないことだと思うが、つまるところ完成図が常に画家の脳内にしかない。

私には、なんなら下書きのほうがよい絵に見える。「下書き段階の方がよかった」なんてことはこの画家に限らず、絵描き一般によくあることだと思うが、それだけ初期段階の完成イメージのままに作品を作り上げることの難しさを物語っているのだろう。そのうえ、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、新しい技法や画材などへの興味関心が尽きず、なかなか制作は進まないのであった。

というような話も過去に何度か見てきたが、今回あらためて腹落ちした。

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Twitter での評判から『AWAKE』を観てきた。いわゆる正月最後の休みの日の、最初の回であったので、2021 年の映画初めと言っていいのかな。いい映画だったが、その良さをどう自分の中で消化したらしたらいいのか、咀嚼の仕方に悩んでいる。

本作、2015 年にドワンゴの主催で行われた将棋のイベント「電脳戦」にて実際に行われた 阿久津主税八段×将棋AI「AWAKE」の試合の顛末や、開発者の方の背景をベースに制作された作品だ。監督の山田篤宏は、ニューヨーク大学で映画を学んだらしく、直近では乃木坂のプロモーション映画の制作などを務めたらしい。商業映画デビュー作とのこと。

作中では、同じ世代としてプロ棋士を目指した主人公の清田(吉沢亮)と浅川(若葉達也)、そしてその後、プロ棋士になれなかった清田とプロ棋士になって大活躍する浅川を対比しつつ、彼らを通して、将棋AI × プロ棋士 というテーマをぶつけてくる。

ついては 将棋AI のクセがひとつのカギとなっていて、2015 年当時、いわゆる「ハメ手」が決まれば将棋AI の対戦相手は、ほぼ勝ちを確定できる。そこで本作では、プロ棋士がハメ手を使うのか? いわば姑息な手段に出てまで勝利をもぎ取りにくるのか? あるいは、将棋AI はそこまでプロ棋士を追い詰めたのか? というところが醍醐味になってくる。

それぞれの主要人物たちの情熱がうまく表現されつつ、全体としては-テーマが将棋なのでこのように扱われて然るべしというニュアンスも兼ねて-、落ち着いた雰囲気を貫いていた点が好印象だった。

それぞれの登場人物の好きなシーン

なんというか、主要キャラクターたちの好きだったシーンを挙げておきたい。

清田

すばらしかった。吉沢亮、名前は知っていたけどあんまり演技はみたことなくて、今回初めてちゃんとみたんだけど、上手いっすね。私が本作で 1 番好きだったのは、警察署から引き取られて父親の運転する車の後部座席で横になったときの演技で、カメラとの距離も絶妙ながら、ちゃんと父親に謝って感謝して、薄っすら伸びた髭と疲れがうまく滲んでいた。

浅川

登場シーン自体はそこまで多くもないのかな。AWAKE との対局が決まってからの苦悩がメインディッシュな感じがしますが、棋神戦で優勢をひっくり返されて負けたあとに盤の前でひとり反省会しているシーンが良かったですね。あれは何というか、トップで活躍してる彼も余裕綽々ではなくて、結局のところ負けたくないという強い勝負心を維持しているからこそあの席に座っていられるというニュアンスと、来る対 AI 戦においてもその戦意に変わりはないということの布石でもあった。

若葉達也、『愛がなんだ』でヘタレ写真家の役をやっていて初めて見たんだが(この作品でもちょい役だったけど光ってたな)、今回はちょっと優等生役ということで、やっぱりよかった。2021 年の 4 月頃には初主演の『街の上で』が上映されるらしいので、ちょっと楽しみだ。

磯野

清田の大学の先輩で人工知能研究会の仲間だね。いいキャラでバランスが取れている。変態キャラだと思いきや(実際にはそうなのだけれども)、清田の変態性、もとい情熱におされてしっかりしたサポーターになってしまっているあたりが実にいい男だ。

彼がもっとも輝いたなと私が感じたシーンは、欠点の判明した AWAKE の改修を猛烈に訴える清田を抑え込むシーンだね。あそこはよかった。

社交性がない清田が、磯野と祝杯をあげにいったり、「お前、女の子に興味なかっただろ」みたいなやり取りを交わしたり、そういうシーンがいちいち心に染みる。磯野君は本作の潤滑油なんだよなぁ。

その他のことなど

現実の出来事をうまくいい話に落とし込んだ脚本になっているという点は、ある意味では拒否感を抱く人も少なくないのかなという感想はもった。実際のところ、2015 年の電脳戦の子の様子は、さまざまな意見が飛び交ったようだし、映画みたいに一見して清らかな終わり方ではない。まぁ、フィクションなんて喜劇も悲劇もそんなもんなんだけどさ。この辺の距離感って、難しいよね。いくつか関連するページを読んだけど、キリがないのでここには載せない。

ロケ地。関東近郊が多かったようだ。棋神戦の舞台となった古いお屋敷が気になったのだが、どうやら群馬県は前橋市の「臨江閣」というお屋敷らしい。重要文化財だが、明治期に群馬県の迎賓館として建造された近代和建築ということらしい。室内が部分的に映されただけだったが、きれいだったね。

音楽。前半の清田と浅川の奨励会時代はほとんど BGM らしい音楽は流れないのだけれど、後半のいわば本題に入ってからはちょっとずつ音楽の効果が強くなっていった感じがした。こだわりを感じたね。

いろいろと感じるところもないではないが、前向きな清田の姿勢というのは、好きだった対象と正面切って向き合うことを諦めざるを得なくても、そこに関わっていくにはいくつもの道があるということを示してくれたというのはあったかもしらん。

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ヒッチコックマラソンです。『泥棒成金』《To Catch a Thief》を観た。感情に任せて言えば、現時点で『三十九夜』を超えるマイ・ベストかもしれない。某 SNS であまり評価が良くなかったのでちょっとビビっているのだが、このおもしろさに悦びを隠せない。

どのシーンも面白くて見入り、ドキドキしたり、ケタケタ笑ったりした。あらすじを書き並べる感想は書かないようにしてるが、この作品については、そのように書く。

冒頭、気色悪い顔色をした女性の絶叫で、まずビビる。なんだこれ、とても恐ろしいものを見せられたな、となる。直後、鈍く緑に光る屋根瓦を黒猫が行き来し、物語が提示される。残念ながらあらすじを読んでいるので、この黒猫が「キャット」なる宝石泥棒を意味することは事前にわかっているが、それでも-だからこそか-面白い。

本編、まず登場するは、優雅でのんびりとした斜面で畑をいじる男は元キャットである。そこに早速お巡りさんが来る。男、屋根へ逃げる。屋根に上る必要あった? 画がキマってる。カッコいい。そしたらすぐさまカーチェースが始まって、ヘリコプターによる空撮が披露される。のどかで風光明媚なフランスの田舎道を駆ける2台の車が映える。本気だなぁ、いいなぁと思った矢先、おい、なんだなんだ、逃げたのは囮じゃん。ウケる。

男は裏側でバスに乗車し、レストランへ、そこからベニスへ逃げる。ベニスに向かう船上で、かつての仲間の組織の娘とのやりとりまでを通して、主人公の背景の事情が色々と察せられる仕組みになっているが、クライマックスまで見てから振り返ると、この辺の人間関係やその顛末がほろ苦いね…。

花市場での密会、追跡、乱闘までの流れもサンペンスっぽさもほどほどに、オチとしては婆さんの強さには敵わずに-もちろん男は手加減している-、素直にお縄にかかるというコメディのような退場劇で笑わせてくれる。この辺で、本作の風合いが馴染んでくる仕組みなのかなぁ。

密会相手だった保険屋も最後までよく付き合った、乗り切ったなという感じだが、花市場の次のシーンでの会食もやたらと面白い。強いメイドの美味しい料理、僕も食べたいです。ところで、んー? 最後までみて湧いた疑問だが、保険屋のひとは真犯人のことはわかってたのか? そんなことはないか? んまぁ、いいや。

さて男、ターゲットのアメリカ人親子に近づこうというのだが、このとき、ジョーは親子のお母さんからの評価を、上げて落として上げる。このジェットコースター加減も、その見せ方も面白い。このお母さん本人に対するの評価-作中での魅力も-転結があるんだよねぇ、本当にいいです。本作ではこのお母さんが最高に好き。面白すぎる。

仲良くなる前に去り際に娘からのキス。んー、なんじゃこれは!? おぅ、海水浴に行くことになったんすか。ここで娘の美しさがエグいっていう描写が入るんだけどもこれも過剰なくらいで、完全にギャグなんだよね、ジョーは引いちゃってる。ジョーは終始ひけちゃってるんですよね。ここもポイントだよね。

直後の海水浴のシーンも大好きなんだけど、伝令役として組織の娘が来る。ちょい沖にある浮き場でちょっとした諍い。参戦する娘、痴話喧嘩が始まる。「なんてステキな太陽だ」と空を仰ぐジョーが面白すぎる。パンツ掴まれるし、大爆笑するしかない。

一転、緊迫したカーチェースである。『断崖』を彷彿とさせられたが、撮影のテクニックも伴った緊迫感も全然レベルアップしており、同じ監督の作品を続けて見てきた甲斐というものを感じざるを得ない。ここ、監督の作品という意味では本当に面白くて、女性の方が肝が据わってるみたいな見方もできる。ところで、ギャグはやはり大切で、刑事さんたちも事故ったものの無事でよかった。やっぱり笑える。

ピクニックのシーンは久々にシリアス味が帰ってきたが、謎のロマンス成分も加味されて、なんともいえない絶妙な雰囲気だ。一方で私は、彼らがチキンを齧ってるふりをして全然食べてないことの方が気になった。これはそういう演技なのか、それとも本当に食べなくてもいいやという謂わば雑な演技なのか、どっちなんだい? どっちもなのかな、こういうメタ部分でも笑える。

夜の花火のシーンもいいよねぇ、普通に良い。室内に射し込む光の加減がよい。美しいなぁ、楽しいなぁ。私は娘がソファーに腰掛けるまで、彼女の首元にある宝石に気がつかなかったし、実はそれは偽物らしいという展開に「くそーっ」ってなった。この一連のシーンは終わり方も綺麗なんだよなぁ。

一転、事件です。また人間関係が捩れる。お母さんが最高で、ここでジョーも簡単に素性を明かすのが面白いんだよね。お互いに人間としての度量をちゃんと測り切って、ジョーが腹を見せるには最低限度の信頼関係が築かれているんだよね。もう、お母さんの株はここからエンディングまでストップ高ですよ。マジで面白いから、マジで。

娘、娘の疑いは晴れやまず。一方の娘は葬式でキレ散らかすのだが、それをジョーはビンタするんだ。ふむふむ、これもクライマックスまで見た後だと、ニュアンスがハッキリする。「俺が面倒を見る」と明言するくらいには彼女のことを想っていて、愛していたんだよなぁ。悲しいなぁ。この時点で手を引けとも言っているニュアンスもあるのかな。

仮装舞踏会もなぁ、参加者たちはお洒落な恰好しているのに、みんな葉巻やパイプをスパスパやってて笑えるし、お母さんはやっぱり最高だし、宴会の終盤はもう乱痴気パーティーの後始末かみたいな画面が映される。つくづくギャグです。なんだけど、次のカットでは優雅な音楽に合わせて姫と黒マスクの男がしっとりと踊ってるんすよ。なんで従者と踊るんだよ、でもきれいなシーンなんだよね。落差で笑うわ。

すると、ここでね、突然音楽が止まって演奏者たちが退場し、カップルも退場する。最後には庭にいた刑事らが集合して、彼らも居館に戻っていくのだが、ここのシーンは手前の柱 3 本が 2 対 1 くらいの間隔で配置され、画面に間が置かれている。これがとっても舞台っぽいんだが、幕が変わって最終幕になることを意味付けているんだろうな。そういう画面作りだ。面白いんだよ。勘弁してくれよ。このシーンが 1 番好きかもしれない。

お母さんは深酒の結果なのか、衣装もそのままに寝こけている。やっぱり最高だ。

冒頭と同じ緑に光る屋根。いいぞ、いいぞ。真犯人とジョーの追いかけっこ、それを照らすマヌケな刑事たち、見守る娘と保険屋、一堂に会している。娘が愛していたのは、父だった。それ以外は要らなかった。いや、ジョーのことは愛していたのだ。だからこそ、彼らの結末はこのような苦いことになったのだ。

でも大丈夫。この作品はお母さんがちゃんと面白く終わりにしてくれた。

まじめな感想としては、以下の記事などが参考になりました。

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