発信できるネタは、いつもの映画ばかりとなるが、いくつか仕込んではいるが、なんか載せるような体裁にならないので放っておくことにして、いくつかある考えごとも書いて載せてもいいんだけど、今一歩のところで実現しない。

ということで、しばらくインプットに努めることにした。あんまりこういうこと、さして分量のない文章を記事にしたくもないけど、偶にはいいか。

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《グレイマン》を Netflix で鑑賞したことを思い出したので、残っている記憶のぶんだけメモを残しておく。本作の目指す方向性がよくわからんというのが大きな意見としてあって、続編の構想も浮かんだという話だが、これをどう続けるのというか。

大まかなアラスジだが、CIA に雇われた元囚人、裏ミッション用のプロフェッショナルとして暗躍するエージェントが、CIA 内の抗争に巻き込まれるかたちで、彼らとの対立を前面化していく。というか、1 対多だけど。

最終的には、欧州のどっかの王城のような屋敷を借り切った(あるいは所有物か知らんけど)CIA の基地で正面切って戦うというバカバカしさがあって、それはそれとして楽しいけれど、え? これで続編やるの? というか、どうとでも設定できそうだけれども、敵役も煎じ詰めれば小物ばかりというか。

アクション映画としては、このうえなく楽しい類だった。いくら主人公補正があるいといっても、広場の真ん中のベンチに拘束されて、あれだけ部隊が送り込まれ銃弾の雨あられを浴びたのに、ほぼ一発も当たらないというギャグ感もそこそこに、このシーンの前後から路面電車が脱線、崩壊するまでのアクションは最高とすら言えるのではないでしょうか。

いや、あのアクションシーンだけでも見る価値はあった。話はてんでわからなかったが。ライアン・ゴズリングは《ラ・ラ・ランド》から 4 作目くらいだけれど、いろいろ試している感じなんだろうか。

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書くという行為はすべて感動と愛に基づいている。

日常的な習慣から読書が脱落しやすい。しばらくまた習慣から離れてしまったので、なにかしら読了しやすい本を求めていた。で、以下の記事を読んで『日記の魔力』にとりかかった。短いし、平素で読みやすい。

Logseq を利用して日常の記録をとることに割と解法のような状態がみつかったような気分もあり、なにかしら参考にしたいという目的も手伝った。参照先の記事でも「古典」と評されているが、2004 年の書籍がもはや古典とされることに違和感はない。いやはや年を取ったもんだ。というワケで読書メモを残しておく。

日記、とるかとらないかで言ったら取ったほうがいい。記録というのは、そういうもんだ。これが前提ではある。

その目的と方法が大きな焦点のひとつと思われるが、ぶっちゃけ日記をとらなくても人生が順風満帆過ぎてその必要性がわからん、とか、無意識に日記をとる行為と同等の性向を備えている人間なら不要と思う。そういうこともあるだろう。あらためて、日記の目的ということだが、本書でも述べられているようには、人生あるいは心身のリバランスにあるようだ。記録を振り返るということはそういうことだ。

方法について。著者は 1990 年代からパソコンを利用しているという。基本的なワープロソフトというので、Wordなりプレーンテキストなりで記述しているんだろう。面白いなと思うのは、それ以前は京大カード式だったとのことで、コンピューターでも似た方法のアプリを試したが、これは諦めたとのことだった。昨今はやはりアプリ上でのカード式を求める方も多いので、時代はあっちこっちするもんだ。

ちなみに、わたしは前述の通り、日記系の記録は Logseq を使いはじめた。見出しレベルに、#log、#idea、#cite などのタグy設けて分類し(PoICを参考にしている)、記録を残している。このタグでアウトラインを切る方法、Workflowy あたりからできた実現できたのだろうが、タグ別の検索結果に以下レベル内の項目がすべて引っかかる。気づいて見れば、こんな単純で便利なことは無くて、もはやこれ以外は考えられない。

あくまで行動を記録する

「着想」と著者の呼ぶ「ある意味での自分の思想史上の進展」を記録する以外は、基本的には「行動記録」に徹せよと述べる。なるべく時刻を記せともいう。著者は執筆時点は翌日の朝に前日の日記をまとめているとしていたが、そのへんの扱いはよくわからない。パソコンを利用しはじめたときは数時間おきにとっていたこともある、のような記述もあった。

まぁ、忘れる前にというのが原則だろう。

時刻についてはあんまり厳密に考えても仕方ないのかなという気はする。話は逸れるが TaskChute ユーザーの方とかは、メチャクチャ厳密に打刻するよね。真似しようとしたことはあるけど、全然無理だった。性格や性質以上に、仕事や生活スタイルでの向き不向きもある気はするし、可能な限りでよいのかなと。

行動の記録という点について、なるほどユニークだなという指摘があって、内省は意味がないという点だ。いくら内省を重ねても人間は変わらないので、やるなら具体的な目標を立てろという話であった。こういうのは身も蓋もないなと感じつつも、いざそうするということも経験を重ねるまでは難しい。

内省自体を、あとから読んだときにコンテンツとして楽しめるならアリだと思うが、毒になることもありそうなので難しいね。

具体的な目標を立てるにあたっては、「具体ということの中心は実は「肯定」することである」という記述があり、これは本当にそう。現実ってのは原則的に肯定でしかできてない。そのためには肯定から始めるしかない。

リバランスのために日記の読み返す

日記で内省するなというワケではなくて、あくまでそれは行動記録との照らし合わせ、それによって喚起される記憶あるいは感情との相互作用であれ、というような話だと読み取った。

著者のバックグラウンドはあまり調べていないが、経済学徒でマルクス研究者、現象学なんかの思想系にも造詣があるようで、ところどころの説明には、感情の動きに配慮した記述が目に留まる。

先の目的についての箇所でも触れたが、外面的にも内面的にも人間には浮き沈みがそれなりにあるもんで、「セルフイメージ」とのズレとの関連性にも言及しつつ、沈みすぎず、浮きすぎないための日記の読み返しを推奨している。著者の執筆時点では基本的には 10 日ほどごとに行っているとのこと。まぁ ひと月じゃ長い気がするので長くても 2 週間程度が区切りな気はする。切羽詰まっているときは、もっと頻繁に読み返すこともあるだろう。

特に「調子がよいときのパターンを見い出すことが大切」という説明も当たり前と捉えがちだが、日記はそれをより明らかに、克明に、シンプルに、あるいはときに詳らかに示すだろう。参考にしたい。

問うことを諦めない

人間、いわゆるライフステージの展開にしたがって興味や関心を持つ範囲、保てる範囲が徐々に移り変わっていく、ということに間違いはないはずだ。

一方、本書で著者がいうように「一生は「問いのレベル」で決まるといってもいい」という問題意識もあって、もちろんどの段階で、どの程度のレベルの問いを立てられるかは人生によりけりだが、しかし最大の問題はそれを維持し続けることでもあり。

著者が行動記録のほかに残すという「着想」は、正にこの類の問題に係るメモであり、もとい日記として記録されることとなる。著者にとってのテーマは、ある種の思想史らしく、具体的な説明はないが、言わずもがな、おそらくは若年のころから直面してきた問題がそこにはある。

この着想の記録だが、必ずしも深刻な内容である必要はなく、取り組んでいるテーマ別だったり、ジャンル別であったり、そういう感じでよさそうだ。

著者の言葉を借りるわけではないが、興味あるところしか意味のある疑問は生まれないだろうという話にも通じる。記録はなんらかの問いを熟成し、その記録が思考を発展させる。

PKM なんかでは、自分なりの知恵や工夫の総体を「第二の脳」なんていうが、なんてことなくて日記であればその記述自体がそもそも其れだという、またごく自然なことを感じるなど。

しかし、なぜタイトルが「魔力」なのかについては説明がなかったな。

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《ラム/LAMB》を観た。

この作品は、どれかの映画の感想で書いた記憶があるが、予告期間が長かった。

その予告がよくできていた。なんとなくこういう程度(良くも悪くも)の映画なんだろうなという予感と期待を裏切らない出来で、それなりに誘われる雰囲気はあった。

で、蓋を開けたら期待通りの作品だ。

舞台はアイスランド、制作はアイスランド、スウェーデン、ポーランドとなっている。監督はヴィラジーミル・ヨハンソンという方だそうで、特殊効果なんか出身なのかな。脚本には共同でショーンという方が入っているようで、こちらは小説がメイン仕事なのか知らぬが、アイスランドの方だ。ビョークとコラボレーションしたりしているらしい。

直近でアイスランドとフィクションというと『北北西に雲と往け』が思い浮かぶ。それっぽいことをいうと、人智を超えた大自然の驚異がそれなりに残る当地において利用しやすい設定というのは感じられるところで、それはこのマンガも、今回の映画も似たようなところはあると思う。

また、あるいは獣面の人間、あるいは半神みたいなモチーフは、特にギリシア神話だとネタに事欠かないんだろうけれど、今回はどうなのだろう。どちらかというと北欧なんだろうけれど、北欧の神話にはあまり興味も無くて、ほとんどわからない。あるいは日本ならだが、個人的には小松左京の『くだんのはは』などは直さに連想されるが、いかがでしょう。

前置きが長くなった。

作品自体は、明確に 3 章立てになっていて、発端、展開、収束というステップを踏む。発端となる第 1 章は、アイスランドの山間部の田舎、ご近所さんすら確認できない山腹で牧羊を主な生業としているらしい夫婦を映す。ジャガイモも育てている!

第 1 章は、会話らしい会話もほとんどない。これがよい。

雰囲気だけで画面は進んでいくが、アイスランド山間部の大自然、淡々としつつも大変そうであり、また、それなりに充実していそうな暮らしが晒される。お昼の鑑賞だったというコンディションも含めて、寝落ちすることもなく画面に集中できた。

話は冬から始まり、第 2 章で春口となると思われるが、第 1 章の冒頭-つまり作品の冒頭では雪山に暮らす馬の群れが映された。また、これも 1 章の途中と思うが、こちらも山中で生存しているらしい羊の群れが映されたことを記しておく。

前者の馬の群れ、ニュアンスは判然としないが、当地には野生化した馬がいるらしいので、それはそれとして映されたのだろう。それを踏まえると後者の羊の群れも野生化した其れと思われる。オーストラリアなんかだと、年に何度か迷子になって何年も彷徨ったと思われる羊が毛むくじゃらで見つかったりする。似たようなもんだろう。

さて、アダが行方不明になったとき、夫:イングヴァルは迷わず川を探しにいった。最後らへんの夢中を示したカットでも小さいながら表されているが、どうも本来のアダは水難事故でなくなったらしいことが地味に伝えられてくる。とはいえ、その過去の悲しみ自体は、やはり表面化はしない。

第 2 章、イングヴァルの弟:ペトゥールが都会から追い出されて帰郷するとビビる。アダが食卓に座っているから無理もない。ペトゥールとアダの見せかけか、あるいはそれなりに本物の融和は、どう解釈したらいいんだろうね。その交流に嘘は無かろうが、これも地味に巧くて複雑な感情の交感がある、みたいな読みとり方をせざるを得ない。

ペトゥール、基本的にはいいやつだが、そこはやはり客であり、闖入者ではあるので、問題を引き起こして去る。

これも微妙なところがあって、イングヴァルの不能性みたいなところに話が及びかねない気はするが、一方で、クライマックスの描写は投げ出されており、此れも何とも言えない気がする。有り体に言って気持ちが悪いプライバシーの話題になってくるので、ここではやらない。

さて、終章だが、上述のようにペトゥールが去る前後から始まったんだっけかな。

展開に意外性はなくて、あるべきものがあるべき場所に無かったり、犬や猫が周囲の異常を察知しているということの繰り返しが利いてきて、しまいには犬が犠牲になった。アダはその事実と存在を確認しているはずだが、それに怯えた様子もなく、またイングヴァルに伝える様子もなかった。

だが、アダはそれに引かれていくのをたしかに拒んだ。彼女が往くのは、家か、丘か。

残る問題はマリアだが、というか、マリアしか問題でなかった気もするが、落としどころをどこにするかは鑑賞者次第という懐の深さは本作の美点か、あるいは汚点か。そういった雰囲気の中で作品は終わるので、まぁいい映画かというとそうでもないという気分にはなる。

好きだけど。

穿ってみれば、アイスランドという土地、人間と羊がどうやってこの国土に広がったか、みたいな視点はありそうで、しかし、だからってそれを人間と羊の対立軸にせんでもなぁという気はする。そこがうま味なんだろうけれど。

ところで何と言ってもよかったのは、ワンコです。牧羊犬としてボーダーコリーの子が画面に映るのだが、これが何となく居る以上の意味があって、イングヴァルに非常によく従って、よく動いて、活躍していた。

さきに書いたイングヴァルの夢中でのアダを探すシーンの幻想的な水溜まりを駆けるシーン、いったんイングヴァルがコケるんだけど、並走していたワンコが地味に上手い。なんなら作中でこのカットが最好きまである。

今作は、このワンコ、可哀相な最期を迎えるけど、この子の活躍を拝めるだけで鑑賞の価値があったとは言っておきたい。おおまじめ。

最近観た映画のなかだと《聖なる鹿殺し/Killing the Sacred Dear》や《アネット/Annette》などと並べてみたい雰囲気はありますね。

あと、どうでもいい味なんだけど、ペトゥールを乗せた乗用車が左車線を走っていた気がした。実際の交通ルールはどうだったっけなとググると、以下のブログ記事がサジェストされる。

やっぱりである。1964 年に右側通行になってるよな。運転手はそれなりの年齢いった妙齢の女性だったが、64 年より前の生まれという風にも見えなかった。

どう解釈すればいいのか。

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とかいいつつ、ほぼ何もできていない。業務でたまにメモや書き残しをするくらいだ。

フィジカルな手帳も年始などには購入してしばらくはそれなりに記録やらメモやらに利用するが、数月もたてば利用するのを諦めて、鞄あるいは棚の肥やしになっていることが多い。

それでも文字をなにかを書くという習慣を、プライベートで確保しておきたいという謎の欲求は収まらない。

ひさびさにほぼ日手帳でも使おうかなという気になっているが、信仰上の理由であまり使いたくないという心理も働いており、何とも言えない。1回、Marks の日別ダイアリーを試したことがあったが、これも挫折している。

そもそも日付の決まったノートの重圧が厳然とあって、それは 読書:『バレットジャーナル 人生を変えるノート術』 の記事で書いた。

なんならペン習字でも習おうかなという気分にもなっている。

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こんな見出しを作っておいてなんだが、方法が見つからない。

Pixel 6 を利用しはじめて、どれくらい経ったでしょう。ちょうど 1 年くらいみたいですね。使い慣れて不満もないけど、なんというかこの端末の推しポイントというと、背面の謎の出っ張りくらいしかなくて…。

いままでの Android スマートフォンは、なるたけアプリをホーム画面に出したくなかったのと、自動的なカテゴリー機能がパーフェクト便利だったのでホームアプリに Smart Launcher を採用していた。めちゃくちゃ愛用していた。スゴイ便利だった。

Pixel 6 にしてからは既定のホームアプリを利用している。アプリが増えてくるとランチャーの検索性も下がるし、ホームに追加されるアプリアイコンもなんだかなぁ、という感じだったが、それなりに不自由せずに使っていた。なんとなく慣れた。

だが、ここにきて、ひとつイヤな問題がある。

要らんアプリを削除したあと、ホーム画面では、そこにあったアイコンは当然に削除され、そこを埋めていたポイントが空き地になる。新しいアプリがインストールされれば、ここは自動的に埋め地となるが、そうでない場合、消したアプリが複数に渡ると空き地だらけになる。これが心地悪い。

ホームアプリによっては、自動的に空き地を詰める機能が設けられている場合もあるが、どうも Android 13 の素のホームアプリには当該の機能はないようで。

泣いている。方法があったら誰か教えてください。手動で整地するのめんどくさいっす。

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《灼熱の魂》のデジタルリマスター版 リバイバル上映を観た。原題の “Incendies” はフランス語 “incendie”の複数形で、火災、あるいは感情の爆発、動乱、戦乱なんかを意味するらしい(ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典)。邦題、いいんじゃないでしょうか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴについては、《メッセージ》からの俄かファンな私だが、なるほどなというテーマだった。

本作も《メッセージ》も、あるいはブレードランナーの続編も、原作と呼ぶべき対象が存在するわけだが、よぅくこういう作品に巡り合えるというか、拾い上げられるものだ。それが努力であり才能なのだろう。テーマのみならず話術、プロットにも近いところを感じる。

物語の舞台もあらすじも知らずに鑑賞に臨んだ結果、姉弟の暮らしている地域がカナダであることも、母の故郷がレバノンであることも、終盤までわからなかった。世界史はちょっとだけ履修したが、現代史はほとんどノータッチなのよね。

あらすじ

ある日、突如として世を捨てたような状態になって入院、そのまま亡くなった母の遺言に従い、双子の姉弟の姉:ジャンヌは母の故郷に居ると思われる父、そして存在すら知らされていなかった兄のあとを、母の足跡とともに追う。

母がたどった過去の情景、それを巡る現代のジャンヌのシーンが微妙にオーバーラップして時間軸が入り乱れる。作品世界に誘い込む手法だろうが、個人的には混乱させられたなという印象が大きい。

若くして離別した息子(姉弟の兄)を失った女の執念、その皮肉な結果に向き合うことになる姉弟が辿りついた真実とは。

レバノンの内戦のような

上述の通り、世界史もとい現代史には疎い。中東戦争、レバノン、ヒズボラというキーワードは耳にした機会はあるが、レバノンで具体的に何が起きたのか。少しでも知る機会ということで、いつものようにインターネットで学んだ。明石書店のエリアスタディーズでも読むといいのだろうが。

レバノン内戦というと、大まかな括りは、アイン・ルンマーネ事件(1975年)に端を発するキリスト教系の宗派住民マロン派とパレスチナ難民勢力の武力的な暴発から始まったらしい。

既存の国内イスラム宗派、シリア、イスラエル、果てはイランまで巻き込んで争いは全土に及んだと。もちろん欧米諸国も絡んでいる。

物語だが、亡くなった母は現地の古くからの、おそらくクリスチャンの家筋で、一方で彼女の恋の相手は別系統の人物であったようだ。この男性は、物語は序盤の回想パートで登場も一瞬、台詞もないような状況で亡くなってしまう。素性がほとんどわからない。

また、つまり、彼は、姉弟の兄の父であるが、姉弟の父ではない。

その後、家から勘当され、ベイルートの大学に通っていた母が遭遇したのは、上述のアイン・ルンマーネ事件だろうか。これを契機に彼女は、南部の孤児院施設に預けられたという情報を頼りに息子を探す旅に出る。

果たして、孤児院はアラブ系の組織に攻撃され、息子は死亡したものと思われた。復讐心に駆られたまま彼女は、組織に参加し、ある政治政党の党首または幹部らしき人物を暗殺に成功する。

この政党がどの派閥だったのか、よくわからない。暗殺対象は右派だったとかのはずなので、キリスト教系の政党だったのかな。

さて、捕らえられた彼女は、南部のファタハ・ランドにある刑務所に収監され、 15 年を過ごす。このファタハ・ランドというのは、パレスチナ難民勢力に与えられた自治地域だ。

史実上、内戦自体は一応、1990 年をもって幕を閉じたという扱いにはなっているようで。作中の彼女はイスラム系勢力の実力者に匿われるカタチでカナダへと渡航し、第 2 または第 3 の人生を歩むことになったと。

プールがいろいろと

母がおかしくなったのは、市民プールのプールサイドであった。季節は晩夏だろうか。母の死後、姉の旅立つタイミングと思われるが、抜栓された水のないプールとその景色を前に佇む彼女が描かれている。

母が教えたからこそ姉弟は水泳を嗜むようだが、母自身についてもレバノン時代にはなかった趣味だろう。母の苛烈な過去に直面するたび、プールでそれに向き合う姉弟の描写は、わかりやすくも本作での象徴的なシーンだ。

レバノンでの 2 つ目のプールのシーンであったと思うが、光の反射の加減で、頭だけが妙に大きくみえる状態の姉弟が抱擁する。このアンバランスさと妙な美しさは、作品内でも随一に思う。

姉弟の出生について

ここからは物語の核心に触れる感じになるので、ネタバレ的な話になる。

序盤から明かされている父の不在について、物語の現代部分がざっくり 2000 年前後くらいとして、後知恵だけれども母のレバノン時代は大体が 70年代中盤からはじまり、 80 ~90年代となるはずだ。

鑑賞中に、次第にあきらかになる事実と時間の経過との関係に少しずつ違和感が大きくなっていったが、その原因がある 1 点に収束していった。いやはや。

当方はフランス語もわからなければ、アラブ系の言語もわからん。姉の名は “Jeanne” ジャンヌで、弟は “Simon” シモンかな。いずれもフランス読みとして間違いなかろうが、中東圏でも割と可換できる名前なのだろうか、或るシーンではそのように呼ばれていた。

このシーンも、またよかった。また、非常にどうでもいいことだが、双子の姉弟の関係性を決めたのは、フランス式なのか、レバノン式なのか。少し気になった。どうでもいいけど。

最後に。

ありきたりというか、ある意味ではアレな言い方だけど、結局、世界史の問題や複雑に絡み合うさまざまな経緯について学ぶにあたって、よほど記憶力やこの系統の学習に適性があれば別だが、このようなコンテンツに補助的にでも理解の一端を任せる、というのは大事だということを思い知らされる。

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《雨を告げる漂流団地》を Netflix で見た。上映もされているが、台風の迫るなかでの時間の使い方のひとつだったのでした。許してください-誰にともなく。

《ペンギン・ハイウェイ》と同じく、石田祐康が監督を務める。その他、プロデューサーの山本幸治は目にしたことがあるが、クレジットで存じている方は、それくらいでした。

解体前の団地とその元住人、姉弟あるいは兄妹のように育った航祐と夏芽を中心に、ひと夏の不思議な体験を通して、小さな成長を遂げたのか? 主人公らは小学 6 年生らしいです。

オープニングは、まだ住民が居た頃の団地の様子が描かれ、主人公らがまだ低学年くらいまでの時期を映したり。ある部屋の窓から、おじいさんがフェードアウトしていく。キーパーソンじゃんと思ったら、たしかにそうでした。

冒頭から航祐が不機嫌であり、夏芽との関係を何かしら拗らせていることが伺える。のっけの情報だけだと、恋愛のたぐいくらいしか想定できない。恋愛脳かな?

で、最後まで見てもそこは否定しきれないけれど、かなり抑制的というか、とりあえず現状では恋愛と呼べるそれではないけれど、くらいのエクスキューズが付くような描写だろうか。制作側がそれを意識していないはずはないので、なおさら。特別な関係にあった 2 人だけに、様子がね。

彼らの蟠りだが、航祐の祖父-つまり OPでフェードアウトしていったおじいさんが亡くなったときのすれ違いに原因があった。さらに作品としては、その根本に、夏芽が普段の外見上の装い以上に生きる意味を見失っていることを扱っていました。

この問題が割とエグい。マイルドに描かれているようだけれど。 物語の 2/3 くらいの地点だと思うが、彼女は死に惹かれているといっていいくらいの態度を明らかにする。

ホラー映画味も強まる。

考えてみれば、本作のホラー感には明確な理由があって、彼女は本当は 1 回、死んでいるハズなのだった。これも実は、かなり問題とできる演出だろう。深入りすると作品自体から離れていく気もするので、深入りしないけれど。

さて、一瞬の豪雨によって漂流しはじめた団地での生活は、奇怪なモンスターなどこそ出てこないものの、なかなか大変なのは事実で、大方はコミカルに描かれてはいるが、これもこれで恐い。当たり前である。

航祐と夏芽は、主役だからこそ注目しやすく、いろいろと能動的に行動するが、別に決定的なリーダーシップ性を備えているワケでもなく、ようよう 2 人も仲直りして仲間たちと溶け込む。

だが、要所ではやはり、相互に憎まれ口をたたくことを止めない。そういうもんなだろうな、この 2 人の関係性は、という納得感もある一方、じれったいというか、こういう状況が本来の 2人の状況といわれても? みたいな感情も湧く。これは演出の意図がよくわからなかった。

別に喧嘩するな仲良くしろってワケではないが、いかにもしょーもない減らず口の叩き合いが、現場の状況に則しているとは思えないのだ。漂流してるんだよ? 団地が沈むで? という瀬戸際ですよ。

考えうるとすれば、子供向けとしては、これがウケ狙いというか、自然体なのかもしれないが、どうなのか。

まぁいいか。

「雨を告げる漂流団地」というタイトルについても考えたい。「雨を告げる」という部分だが、雰囲気だけだろうか。どういう意味合いなのか。これもわからない。考えたいと言ったけど、考えるのを諦めた。

海底のモヤモヤもよくわからん。

誰にも顧みられない部分があそこに取り込まれるのか?

まぁいいか。

最後に、漂流についての類話について、知っていることをまとめておく。

いうまでもなく、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』が挙げられる。原題に近いタイトルとしては『二年間の休暇』となるワケだが、冷静に考えると暢気で前向きなタイトルですね。

で、漫画だと『漂流教室』がある。楳図かずおだね。いやぁ、よくこんなことを 1970 年代にコミックとしたと思うけれど、Wikipedia に記載の説明には、やはりというか『十五少年漂流記』が念頭にあったとあります。

忘れちゃいけないのが、「機動戦士ガンダム」であり、あるいは『銀河漂流バイファム』だったりである。サンライズの方針なのか、富野監督など何方かの意志の反映なのか知らぬが、これらも『十五少年漂流記』の影響が大きい。特に『銀河漂流バイファム』はいい。

あるいは、ドラえもんにこれぞ漂流というタイトルのイメージはあまりないが、一応は映画に『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』というタイトルはある。すまんが、内容はほとんど覚えていない。居住可能な星を探しているという感じの話だったっけ?

そういえば『日本沈没2020』でも漂流の描写はあって、これは白眉だった。ということを思い出したら、ヒッチコックの『救命艇』も漂流モノとは言えそうだなと気づく。そして、なるほど、『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』という映画もあったな。

なんだかいろいろと思い当たるけれど、吉村昭の『漂流』もまったく漂流であった。とはいえ、ここまで名前を挙げなかったが『ロビンソン・クルーソー』などと同じで、漂流自体というよりは孤島のサバイバル生活という面が強いんだっけかなとは。

なんでか人間は漂流というテーマに惹かれるのだろうかな。

最後にひとつ。物語についてまだ疑問があったのを思い出したが、夏芽は小さい頃に 1 度ここに来たことがあると言ったが、あれは皆を安心させるための嘘だったのか?

まるっきり嘘という雰囲気でもなかったし、それにしてはその後のフォローも無かったが、仮に彼女の発言が真実だとすればどういうシチュエーションだったのか。

いろいろと疑問が尽きない。

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Amazon Primeで《軍中楽園》を観た。2014 年の台湾映画だ。日本国内での上映は 2018 年だとか。

つい先日、台湾は金門島というエリアに正体不明のドローンが侵入し、台湾軍だかが撃墜したというニュースを目にした。不勉強ながら、地理がわからず地図をみると、ほとんど大陸本土側だ。仔細は Wikipedia などを読んでもよくわからないが、とにかくここは台湾領土として実効支配されていると。

《軍中楽園》は 1969 年、共産党との小競り合いの最前線であった金門島、そこに用意された公認の娼館に配属された若手軍人の物語だそうだ。

彼の名をルオ・バオタイ:羅保台という。ピュアで純朴、学者の家系で姉が 3 人いるところの長男だとかだったと説明されていたが、つまり娼館での人間模様に翻弄されるのが序盤だ。彼はいわゆる童貞であって、地元の彼女といつか一緒になるとか、かんとか。

次第に仲良くなったニーニー:妮妮という女性や、もともと所属していた海兵部隊の上官との友情、彼の抱えるコンプレックスなんかと向き合いながら、次第に大人びてくるバオタイだが、一線はギリギリで超えない、おいっ、なんのことやら。

妮妮との別れのシーンは、同じ男性としてはわかるようなわからんような、その残酷ともいえるピュアさは、たしかにバオタイの美徳ではあったかもしれないが、それが終盤のハイライトでは脆くも崩れ去ったことが、さっくりと描かれる。この諸行無常さが何とも言えない。

こういう直截なコミカルさは中国の作品という感じがする。うまく説明できないが。

バオタイ自身の葛藤や、同期の旧友の失踪、失意の上官の転落など興味深い内容ではあるが、全体的に軽いので、重くなり過ぎないのはいいのだが、一方でなにかとなぜか、清々しくはあるが、何を観ていたのかはよくわからん気分になるタイプの作品ではあった。

とはいえ、失恋を重ねられる人生ってのは、ある意味で幸せだろうなと思う。

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《U・ボート ディレクターズ・カット版》を観た。Amazon Prime から無くなる前に。

この映画、観た記憶はないが、その自信もない。地上波で放映されたことがあったなら可能性はある。私が鑑賞したとすれば、2004 年の木曜洋画劇場版に限るようだが(Wikipedia拠)、どうだったか。

まったく面白い映画で、もともとは TV 向けのドラマらしいが、そういう前提にしても話のつなぎなどに無理は感じない。ディレクターズ・カット版は 3 時間を超えるので、調整しやすい面はあるのだろう。鑑賞は長くてツラいが。劇場公開版は 149 分、日本国内上映版は 135 分らしいので(同前)、やはりこれらは省略の多さゆえに感触も異なろう。

つまるところ、潜水艦が沈むか、沈まないかが全体のカタルシスで、潜水艦モノといえばこれに尽きる気がするが、本作については特に、帰港後のクライマックスこそが評価を決定的にしているというか、そういう作品で、ここが決定的に名作足らしめている。のだろう。また、出航前の饗宴との差こそが、実である。戦争は虚しい。

ほとんど登場人物の話をする。

艦長と機関長はかなりの付き合いらしいが、どの程度なのか。機関長と機関兵曹長の見分けが、たまに難しくて、ツラかった。長い航海ののち、みんなの髭が伸びてくると尚更だ。

その機関兵曹長:ヨハンは途中でメンタルブレイクしてしまうが、そのときの彼の表情、その相貌を照らすライティングは本作中でも 1 位かというくらいの狂気を前面化した見事な表現だ。

操舵長はなかなか、いいキャラクターだった。が、ジブラルタル突破作戦で重傷を負い、命半ば。かと思いきや、なんとかかんとか、地味に彼は生き残っており、こういう数奇さの演出も効いている。とはいえ、機銃にやられてアレだけ時間が経ってたら、本当だったら失血死だろう。

艦長、トムゼン大尉と洋上ですれ違って喜んでいたが、邂逅が終わった途端に現実に戻り、周囲にキレ散らかす。リアリティがある。戦友に思わず出くわす奇跡を楽しむことと、その事実が示す不合理な事態に対処すべき態度とはまったく別であって、嫌にドキドキさせられると同時に、面白くもある。

報道官の彼は実質のところ艦長と並ぶ主人公だろう。乗艦上の責務としてはフリーの立場から最終的にはクルーたちと運命を共にする。彼なりの視点から、特に士官以上らとは、ときには橋渡し的な役割を、特に最後のほうでは取ったりもする。皆の最後を見届けるのも彼の役割だった。

艦内、通常は白色灯か暖色の白熱球かで、潜航または浮上時に赤色灯に切り替わる。潜水艦モノの皮切りであろう本作だが、これだけでまず楽しい。ほのかに光る青いライトや、洗面所のライトなんかも印象深い。

食事シーン、割とバリエーションに富んだ料理が並ぶ。美味しそうだとも言いがたいが、魅力的ではある。魚かチーズかに黴が繁殖したシーンが象徴的であったが、それ以外もやはり目に留まる。報道官、たまに食欲がないのがハッキリしていて、これもよかった。

ソナー音でビビる演出も、潜水艦モノだとアルアルで-もちろん実際においても恐怖そのものだろうけれども、本作中においては中盤からの敵駆逐艦との攻防のさなか、この音がふと耳に小さく響く。すると「おいおいおいおい、何だこの音は」という感じになって、不思議な新鮮味があった。

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