2023年の年始のどこかで《孤狼の血》を観た。配信がちょうど開始されたのか、犯罪映画の系列でおすすめに表示されたか。本作、立て付けはヤクザを相手取る刑事の映画ではあるけれど、大枠ではヤクザ映画なんでしょうか。このへんの作品の系譜というのが地味にわからない。先に《すばらしき世界》を見ちゃってるので、変幻自在の大俳優:役所広司って凄いなってなりますな。
同主演の松坂桃李は、2017~2019 年の映画ではよく見た。《ユリゴコロ》《不能犯》《居眠り磐音》《新聞記者》かな。今回の《孤狼の血》もこのリスト中に収まる時系列らしく、2018年の映画だ。いや、滅茶苦茶に出演してるなぁ。脂がのっている俳優であることだ。
で、役所広司の演じるベテランのマル暴刑事:大上と松坂桃李の演じる新人配属の日岡のタッグが広島は呉の抗争を止めんとする話、といっていいかな。
暴力や違法行為上等で捜査を進める大上についていけない日岡だが、なんやかんや尊敬できる面を見出していく。一方で、抗争-というか実質は片方の組が仕掛けた殲滅戦なんだけども―を止めようと大上がギリギリの交渉に出るものの失敗。港で水死体として発見される。悲しい。
この大上の最期の交渉はワンカットがチラッと映されるくらいで、どういうやり取りが為されたのかは描かれない。原作はどうだったんだろうかとも思うが、大上が最期に受けたであろうリンチを含め、そこは描かないほうが鑑賞者の想像力をかき立てる仕組みにはなっていたのだろうな。
好きなシーンはいくつかあって、大上亡き後に証拠を探しに養豚場の砂場を必死に宝探しする日岡。そこで発見する痕跡。養豚場の若旦那をボッコボコにする日岡。ここの展開のグロテスクさというか、作中の暴力表現でもっともエグかったのはここじゃないのかな。日岡もまともなキャリアを捨てたなという重要な部分であった。
大上の無念と復讐を果たすために準備を進める日岡。このとき、ピエール瀧の演じる右翼団体のリーダー:瀧井と相談をするシーンがある。このロケーションがいい。海上釣堀でいいのかね、映画のために用意したセットでもないのだろうけど、島状になった木材のうえで 2 人はなんやかんや相談している。いい。広島、行きたいなぁ。
で、《孤老の血 LEVEL2》も配信されているけれど、こちらは未だ見ていない。
原作は 3 部作で続編にも日岡は出るようだが、映画の続編はオリジナルらしく、時系列的には原作 2 部の前のことになるようだが、トレーラーをみると、アクション映画のような派手な箇所がよく目に留まる。鈴木亮平の演技が評判だが、どうなのかね。
森田剛の怪演が光るという《ヒメアノ〜ル》を2023年の年始に観た。
総論としては、ムロツヨシが印象の大きい。彼自身の存在感という意味でも、与えられた役柄、その演技という意味でも、とぼけ感を大きめに出したのだろう灰汁の強さが頭から離れない。ちょっと不愉快ですらある。彼がもっと普通だったら、この作品ももっと普通だったのかもしれない、それでいいのかも想像しづらく、つまりムロツヨシの映画になってしまったと言いたい。
原作の漫画は古谷実ということで、『行け!稲中卓球部』が 1 番有名だろうか。ちゃんと読んだ作品はなくて、望月峯太郎っぽい絵柄だよなと思ったら、Wikipedia に当漫画家のファンであるという情報が載っていた。と同時に、原作から映画化に際しては物語と設定が簡略化(と言っていいのか)、改変がかなり為されているようで、作品体験の印象も大きく異なりそうだ。
うーん、原作を読んだ方がいい気がしてきた。
包丁を持ち出せば油断している警官には勝てるけど、ヤンキー2人相手にはカッターナイフでは勝てないというのはリアリティがあるのか、ないのか、それがよくわからなかったけど、まぁいいか。
映画のラストが何気に好きで、原作だと生来のおかしな人間だったらしい森田正一が、映画ではイジメをきっかけに壊れたという点が大きく異なっているらしく、逃走劇の果に彼が見たのは幼い頃の記憶なのだった。ハンドルを誤った原因もそこに起因していて、こういうのに弱いんだ……。
ムロツヨシがなぁ。ムロツヨシ自体は好きなんだけど。
あと、これは余談だけど原作の 2008 年、映画化の 2016 年と本作の主人公:森田のようなキャラクターの扱いというかイメージ像も割と変遷が大きいような気がして、そういうのもおもしろいかもな。望月峯太郎を引き合いに出すと、『ドラゴンヘッド』のノブオのような人物が 2000 年の作品だったとかね。
ちょっと原作を読む機会をどこかで設けられないか気にしておく。
2023年の年始に《マザー!》を観た。原題は 《mother!》だそうだ。そのまんまだけど、もしかしたら邦題はギリギリまで決まってなかったんじゃないの。「母さん!」って感じなのかね。
2017年の映画で、日本では2018年に公開予定であったが、配給会社の判断で公開が中止されたとか。もともとグロテスクな映画だという話は耳にしていたが、配信されていたので、なんとなく年始の暇なときに見ようとなった。
草原の一軒家、異様に広い間取り、内装は中途半端、DIY で奥さんが家屋を整えようとしている。夫は作家のようだが、ご多分に漏れずスランプ状態に陥っている。ちなみに夫婦間の関係も夫の不能により途絶しているらしい。
ある晩、どこからも来るわけがない訪問者を迎え、その男を泊める。そのうち、彼のパートナーという女も来訪し、仲たがいをしているという訪問者の 2 人の息子とやらもやってくる。弟が死ぬ。
この時点で、アベルとカインと判じたので、聖書の引用と意識できたが、全貌はどんなもんなのか。個人的にここから先は、そこに意識が向かなかった。だが、以下にリンクした解説ブログを読んだら、全体像がまるで聖書の引用ともとれるようだ。気づかんなぁ。
本作では唯一、夫が家から外出するシーンがある。死ぬ弟(訪問者の息子)のために病院に行ったらしいが、この描写が何を意味したのかわからない。というか、ここは主人公の孤独と不安を強調する間だったんだろうけど、違和感は大きい。
で、訪問者の息子の葬儀がどうのこうのでトンチキな騒ぎがまた起きては過ぎる。
どっちが先だったか忘れたが、このへんで妻は子供をその身に宿し、夫はスランプを脱し、創作熱を取り戻し、過去の名声を再び引き寄せるのであった。と、ここまででおそらく 3 幕構成で言うところの 2 幕までが終わる。
で、ギリギリ戯画的で踏みとどまっていた本作の描写は、ここから一気に阿鼻叫喚のパーティーへと変貌し、ワケわかめになる。耐性がないと見れないタイプの映像になる。子は生まれるが、ほとんど同時に死ぬ。
この家の地下にある隠された部屋にはなにかしらの秘密があった演出はあり、ラストに一端が明かされる雰囲気だが、ぶっちゃけどうでもいいようでもある。
タイトルやオチから察するには、人間のあらゆる活動の不毛さというか、そのなかで何を見出すかというテーマがあるような気もするが、解説ブログを読むと環境問題への問題提起だそうだ。ひゃー、さすがに気づかんて。
うーん、夫が神であったとして、では妻はいったい何だったのか。結局、この作品が “mother!” であることの意味は何か。
夫の引き起こす事件、それに伴って訪れる妻(母)の喜怒哀楽、主人公はいったいどういう存在だったのか。彼女こそが結局は、作品内では唯一まともな人間として切り出されるけど、果たして鑑賞者として、あそこに留まることを選び続けた彼女に共感できるのか。共感する必要があるか?
所詮、人間は神(夫なり? 家なり?)から離れられないという前提であればいいんだけど、では最後に火を放つのはなぜ彼女でなければいけなかったのか。そしてなぜ夫はそれをリサイクルしようとするのか。夫は神ではなくね? となっちゃう。
神の創造に母的ななにかが関わっているとすれば、みたいな想像もできるんだけど、そうすると、この時点で、いや当初から聖書の見立てなんていうのは下らない画作りでしかなかったという面も考えられる。大体、神は無から世界を作り出したわけだし、そこに男も女もない。
楽園に闖入者が来ることを拒めない神を神足らしめているのは、別に何も無さそう。
というわけで、結論として、主人公:母を「地球」と捉えると、いいかもね。
地球が望もうと望むまいと生命は生まれ、繫栄し、最終的には地球を食い尽くさんばかりの勢いで拡がる人類がいる、という構図が、たしかに今作の描いた状況そのものかもしれない。
そうすると、やはり聖書を引用する展開は壮絶な皮肉であり、かつ物語全体に決定的な意味は与えていないように思え、エンターテインメントとして楽しむ分には意味ありげなそれらの状況は面白いものの、それだけなので、意地が悪いとも思える。
このとき、夫は神というより人間性の化身なんだろうな。となると、ラストシーンは人間は何度失敗しても母を利用する、あるいは協調していくことを諦めないぜ、みたいな半ばポジティブなメッセージはありうるかもしれない。
嘘だろ。
《シン・仮面ライダー》を観た。
メタ論になりがちな作品ではあって、つまるところウェル・メイドな映画ではなくて、こういう作品に向き合うべく心構えについて思ったことなどを書こうかとも思ったけど、このブログの本義に立ち戻っていつも通りにダラダラ書くことにする。
本当に賛否両論の反応を目にしてきたなか、庵野秀明の最新作はどんなもんかと、ハードルを下げて見に行ったつもりだった。《式日》も《キューティーハニー》も観ておらず、《シン・ゴジラ》からの実写勢ではある。
仮面ライダーの経験もほぼ無く、小さい頃に仮面ライダー名鑑で、アマゾンの設定とビジュアルが好きだったなという程度だ。平成ライダーはジオウが面白いと聞いて、バンダイチャンネルにわざわざ入会して半分くらいまで観た。たしかにめちゃくちゃ面白かったが、これも途中で終わった。長いのである。
特撮といえば 90 年代後半のメタルヒーローシリーズを幾シーズンかぐらいがメインで、レンジャーモノもそんなにハマっていない。
多くの反応をみるに、当たり前だが、往年の仮面ライダーファンの反応も一様ではなくて、温度差というか、受け取り方にギャップがあったように見える。もちろん、原作の石ノ森章太郎作品まで射程にしている人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうし、どの要素がどの方面に向けて表現されているのか、表現されていないのか、誰にどうやって刺さるのかは、わかりようもない。
終わってから押さえておきたい大まかな感触としては、庵野秀明らしさは充満していたけど、それが誰かの感じる面白さとも、誰かの感じるつまらなさとも、言うほど直結してはいないのではないか? とはなった。だので「庵野秀明好き勝手やってる」みたいな雑な感想はどうかなぁ。あいまいなオタク論も同様である。
見始めた最中、すでに指摘も目にしたけれど、出演もしている塚本晋也が監督の《斬、》(2018)っぽい映画だなと、まずは思った。主演が池松壮亮である点が第一に共通するが、ある武力をもった主人公がそれを行使するのを躊躇う、という点で共通しているし、その武力に伴って生み出される凄惨で残虐な状況も近いところがある。
で、庵野秀明と塚本晋也の関係の具体的な事情などは知る由もないけど、言うまでもなく意識しているだろうし、そこにリスペクトがあるわけでしょ、という次第なので、機会があったら見たらいいんじゃないか。おもしろい作品です。
次いで、ボスラッシュのような演出がユニークだった。ハッキリとシーンをそれっぽく繋ぐことをしない。画面に映る情報を特に補足もしない。個人的には直近では《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》が連想され、つまりアニメ的な演出なのか? と安易に考えそうになったが、特撮作品にありがちな場面転換のような気もした。古い作品にありがちといってもいいのかもしれない。
一方で同時に、2人目のオーグとの対決あたりで「退屈な作品か?」という印象が過ったのも事実で、なんやかんで文脈が隠されているということに辟易ともなる。別に文脈を知っていなくてもいいことは結果的には確かだし、気づく必要もないのだが、このノリが続くとツラいなとなったことも言っておく。
ちなみにだが、実はそれって最近の映画界隈でもてはやされる作品と相似する部分があるのではないか。ややレイヤーは異なるが、アカデミー作品賞の作品だってやれ人種だ、ビビットなテーマだ、社会問題だというのが決め手になっているという。あるいは人気の映画シリーズは、本作同様に、或るシリーズの系であること自体が文脈そのものであり、そこで鑑賞者を篩にかける、あるいは高揚させる事実は見逃せない。
なんだかねぇ。
で、そんな感覚とはお構いなしに、銃撃戦で斃れるオーグもいれば、目的は達したいけど言うほど戦いたくないというオーグも出てくる。このへんの塩梅はさすがで、そもそもがデタラメなテーマではあるわけだが、彼らが、それぞれの目的に沿った戦略を謀って、かつ、それぞれにそれなりに味がある。こういった落としどころの作り方の巧さは比類ない気がするというか、磨かれた技という感じがある。
こういう工夫なり技術をオリジナリティといっていいなら、私は最大の賛辞を贈りたいわけよ。
さて、政府機関がさそりオーグを倒すという展開がいわゆる幕間であり、ある種の伏線でもあったが、鑑賞者側もいろいろと分岐点なんじゃないですかね。まぁしょうもない映画ではあるんだ。最終的には家族愛みたいなところがテーマのひとつみたいになるし、みんな泡になって消えてゆくし、このへんで見てる側の切り替えもうまくいかないと置いていかれそうだ。
何かと忙しいし、よい映画っぽい文法からは外れてるでしょ、これ。それで飽きれるひともいるし、怒り出すひともいるという始末よね。
さて、この映画、まともな台詞を持った人間が人間として登場するのは、最初の緑川博士、政府機関の2名、それだけなのよね。ルリ子が唯一、彼女こそもデザインされて生まれた人造人間ではあるので象徴的には人間側の人間ではなく、だが、1号の悩みとは別に、等身大の人間としての心情を抱き、吐露したのが実は彼女だけというのは、また業が深い設定である。薄暗い。
また、結果的に、1 号が抱いた武力にまつわる問題はこのへんで事実上の決着はついていて、ライダー同士の戦いも含め、ほぼ同じ力を持つ者同士の潰しあいに過ぎないことになる。そりゃ泥仕合にもなるってもんで、そのへんの妙なリアリティってもんが伝わらないひとには伝わらない。それが最終的には、そのへんのしょうもない喧嘩っぽいバウトに着地するのだ。こんなもんは見たくないと言われれば、それまでだが。
また、しかし、である。
この映画の感想を交換した知人が、ライダー1号、2号同士の戦いだけが異様の派手さで描かれて、やや不満と言っていた。なるほど味がある指摘で、最後の0号との戦闘はむしろ上述の理由を含めて画面上は割と穏やかで、0号の戦法(というか武術?)がそれを許しているというこじつけもよく考えられているのだが、1号×2号の戦闘だけはチープさを確保しながらも、本作で別格の超人対決であった。
はじめて本気を出した 1 号と彼を上回る性能の2号との戦いである。ここは派手でなくてはならない。そういうことなんでしょう。メリハリといえばそれまで。また、これも個人の感想に過ぎないが、ここで滅茶苦茶頑張りましたみたいな VFX なり CG なりの演出をしても、大しておもしろい画面にはならないってことなんでしょうね。
最終決戦である。究極のオーグ、蝶(超)オーグである緑川息子も普段はほとんど人間然としているのもユニークで、やはり前提を忘れそうになるが、こいつら人間じゃないからね、ほんとは。森山未來の独特の身体の使い方が画面に与える違和感もそこそこに、あくまで人間側である1号:池松壮亮、孤独をモットーとし、飄々としたとしたキャラクターを維持し続ける2号:柄本佑らとの対比も際立ってくる。
あくまで娯楽作品として、登場するそれぞれのキャラクターの考えや苦悩は、あんまりどれかにフォーカスされたり、特別に強い演出などがなされることなく(そのように見えた)、だが、なんとなく解決されていく。こうもりオーグとK.Kオーグはドンマイだけど、いうてオーグの面々にも苦しみはあったんやなって……。
良い意味で、これは特別な作品じゃないんだなっていうのがあった。
その他のことなど
光学作画とは
クレジットに「光学作画」として、庵野秀明がクレジットされており、こりゃなんだとなったが、ウルトラマン系の円谷作品で光線などの特殊な画面の処理をほどこす役職らしい。
ほとんど、 飯塚定雄氏の仕事ということのようだけれど、VFX や CG が本格的に採用される前の日本映画、特撮映画の加工技術の粋ということなんだろうか。Wikipedia をソースとすると、《シン・ゴジラ》にはこの役職はクレジットされておらず、《シン・ウルトラマン》には飯塚定雄氏がクレジットされており、本作ではこれを庵野秀明が務めたということになる。いろいろと事情があるんだろう。
具体的にはどのへんのシーンのどういう映像加工なのか知りたいもんだが。
轍がないんだよなぁ
これも散々指摘されているが、監督の作風として撮りたい画面が大前提で、そのほかのことは置き去りにさりがちだという。まぁよくわからん指摘とも言えそうなんだけど、矛盾みたいに見えてしまうなら仕方がない。私は別に悪いとも思ってはいない。
今回は、海岸の砂浜で本郷と政府の 2 人が語っているシーンがまず目に留まった。バイクが傍らにあって、ルリ子亡き後の作戦の行く末を語っている彼らだが、ギリギリ彼らの足跡がカメラに映らなかったとして、それは認めよう。
だけど、さすがにバイクがここまで来た痕跡がまったく目に入らないのは可笑しいでしょ笑。風が強かったとしても、まるっきり痕跡がなくなるまで会話を始めないワケもなく。これ、絶対にそういう画作りをしていると思うのだが、そういうリアリティは画面に邪魔っていう配慮なんだろうな。仮に最新のバットマン映画で似たようなシーンを撮るとしたら、向こうの監督はそうするんだろうな、とか。楽しいね。
お前ら、どこに向かうんだよ
政府の2人がちょっとギャグ要員みたいに振る舞う味付けは、されているように思う。で、そのなかでも別にお笑い側ではないのだが目に留まったのは、あるシーンでの彼らの去り際だ。ここも画作りが優先されているなと。
具体的には蝶オーグによってヤラれた政府機関のエージェントの死体袋の列を彼らが去る描写で、広い航空機用の倉庫のようなロケーションだが、彼らが画面外に行くとき、滝は左手前方向へ、立花は右手前方向に、別々に袋のあいだを縫っていく。いやいやいや、さすがに同じ出口に向かうだろうに、なんでそれぞれ別方向になるんだというね笑。
でも、画はかっこいいんだよなぁ。
はい、おもしろかったです
ということで、目に留まるいくつかの不満の原因はわからなくもないが、《シン・ゴジラ》と比して、どっちもおもしろいというくらいには面白かった。なんとなく《シン・ウルトラマン》は彼が直接は指揮しなかったらしい理由もなんとなくはわかった気がする。これくらい作風の振れ幅が必要だったんじゃないかな。
また、よくある批判についてひとつだけ気になるのは、「「古さ」や「チープさ」を良さとするな」みたいな意見があるんだけど、これがわかんなくて、それが決定的に作品を面白くしていない(とみんなが思うからその意見になるんだろうけど)限りは選択された手法なわけじゃん。
昨今ならあえてモノクロで撮影された映画がシネコンレベルでも 1 つや 2 つは毎年上映されている気がするけど、あれ、なんでモノクロで撮ってんの? って話にはならんのかね。そこを論点に批判的に扱う文章もどこかにはあるんだろうし、ちゃんと分解すれば理解できる批判にもなるんだろうけど、どうも感覚レベルで出てくるその辺のネガティブイメージがよくわからん。映像のインパクトってそれだけ強烈ということの証左でもあるんだろうけどね。
まぁ、究極、最終的には感覚が大事なので、まぁ、ダメって言われるものはダメという総論にはなるんだろう。
最後に、あんまり本作にまつわる文章はまだ読んでない。おもしろい文章をネットで見つけたら、順次追加していきたい。
以下の記事、全体的に言いたいことを言ってくれている感じがある。
以下の記事、90年代なりの宗教観なりその問題性がベースになるという指摘は他に目にしてないので、参考になる。指摘も概ね的を射てそう。浜辺美波がキレイに撮られてないというのもまったく同意で、意図こそ想像できるが、そこはなんとかしろよとは思った。人造とはいえ、人間は不完全なのが其れだから、なんですかね。
2023年の年頭に《エージェント・マロリー》を観た。
ボーンシリーズをまとめて見た影響のようで、Netflix に薦められるままに鑑賞した。2011 年の映画らしい。某映画 SNS での点数は低めなんだけど、この映画よくないですかね。90 分とコンパクトなのも好きだね。
評価の低い理由としては、話がよくわからん、オチが特にない、という当たりだろう。さもありなん。まずは映画の冒頭、雪中のドライブインに辿り着いた主人公:マロリーは早速、待ち合わせ相手のような男と喧嘩を起こして、市民を誘拐して逃亡劇が始まる。
と思いきや、回想に入る。
おそらく全体の半分以上はこの回想が中心に進み、残りは冒頭の時間軸での決着編となるんだが、この構成は必要だったか? となる。ちょっとしたフックを入れたかったっぽいんだけど、この語り口を選んだことのメリットがあまりよくわからない。
また、ありがちな設定として、所属組織に裏切られたようでいて、裏返すと元請けとの三すくみの関係のなかで、誰がどう裏切ったのか、明確ではない結末もウケていないようだ。これも、あえてこうなっているので仕方ない。
クライアントが利用してエージェント会社、その実働部隊(マロリー)が荷物になりかけたので、適当に理由をつけて処分しようとしたら失敗した。悪いのは誰? って、負けたやつ(エージェント会社)にすべて擦り付けるだけの話なのだ。
で、一見地味だけどなんかリアリティのあるアクションがいいなと思って眺めていたが、マロリー役のジーナ・カラーノという女性、ムエタイ出身の総合格闘家らしく、なんならワイルドスピードシリーズや、『デッドプール』にも出演してるって。後者は見たことあるけど、さすがにわからんかった。
というわけで、硬めのアクションがよい映画です。追ってきた追跡者と警官? を続けざまに相手してのしてしまうシーンが印象深い。
今年からノート、手帳はシステム手帳フォームにしてみた。昔もどこかのメーカーの新規格のリフィル系ノートを採用して挫折したことあるけれど、年末年始になんのキッカケだったか、ASHFORD のデザインリフィルパッドよくね? と発見して、悩んでいた。触ってみたいとなったのだった。
システム手帳、何が嫌ってリングが邪魔なんだよね。身も蓋もないけど、それが小さい頃から苦手で使うのを避けていた。ダヴィンチとか憧れはあったけども。更には、リフィルをカスタマイズするのが面倒くさくて、楽しさである反面、それなら出来合いの手帳でええやんとなっていたのだった。
で、デザインリフィルパッドだが、プラ製のリングかつシンプルで悪くなさそうじゃんとなった。あんまり邪魔にならないように配慮されている。ということで、スケジュール系のリフィルだとか、メモ用のリフィルだとか最小限度を見繕って、ひさびさに文具文具な時間を過ごした。
で、届いて使い始めたのはいいんだけど、ペラい。それが売りなんだけど、ペラい。雑に持ち運ぶには心許ないケースが私の場合は割とあって―もともとがガサツなので、それなりに文具ラバーで丁寧な使い方をしないといけない、これは難しいと心が折れた。
というわけで、困っていた。
最短の解法 1 は、カバーを替えることだろう。しかし、かつてはダヴィンチに憧れた身であったし、革製品はなんどとなく使ってきてはいるが、なんとなく革のシステム手帳カバーを使うことに戸惑いが生じるお年頃になっていたのである。あと、重いし、高い。
して、解法 2 はケースに収納するという提案がされる。使う際の手間は増えるが、同封できる武具(クリップなり、補充用フィルなり)が増えるというメリットもあるので一長一短である。問題は、どのケースを使うか。
なるべくシンプルで軽いケースを探すが、それなら手帳カバーを替えればええやんという話になりかねず、ASHFORD 謹製のデザインリフィルパッド用ケースもバリエーションで販売されているが、どうにも触手が動かず。
無印良品の文具ケースが割といい、という情報を得れば現地で触ってみたが、こんなんすぐに使わなくなるやんという見通しがたったので断念し、途方に暮れていた。デニムのブックカバーのようなのがあればいいなとイメージはあった。
暫くあきらめ気味で、思い出したようにググってはを繰り返していたら、ファイロファックス (Filofax)というメーカーのクリップブック(clipbook)なる製品の情報が入ってきた。一見するとおしゃれさが勝る。解法 1 の解決案だ。セールスポイントはいくつかあるようだ。
- 軽い(販売店の商品案内には「合皮」とあるがファブリック感のある素材)
- パタンと開ける(背が柔らかく大きい。おそらく最大の工夫点)
- リフィルが割と多めに格納できる(上記の工夫で生じる利点2だろう)
- ペンをホールドできる(上記で生まれる空間がちょうどホルダーになる利点3)
で、手元で使ってみることにした。
個人的には軽さとペンのホールドの便利さがほぼ目的通りで、これで元を取ったような気分でいる。パタンと開ける機能は便利ではあるが、そこまでパタンという感じではないし、ユースケース的に自分にはあまり当てはまりそうにない。
デザインリフィルパッドからの変更点として気をつけたいのは、リングの金属がむき出しなので、PC とかそういった製品と一緒に扱うときに傷つける危険があるということで、実はこれが割と危惧している最大の懸念ごとだ。
リングの邪魔さ加減は、そんなでもないというか。幼き頃、若き頃あれだけ気になっていたのを無視できるようになった。ペンの使い方なのか、手の使い方なのか、鈍感になっただけなのかわからん。ちょっと寂しい。
2023年の年頭に《怒り》を観た。公開当時、それなりに話題になっていたように思うが、見ていなかった。ちょいとあとだが、同じ時期の《愚行録》は劇場で鑑賞して、こっちは面白かった割に話題になっていないかったので、なにかと不公平だと勝手に感じていた。何者かに一家が惨殺されるという事件がキッカケになっている部分が地味に重なっているのだよ。
で、《怒り》だが、映画としてのまとめ方が非常に巧い。3か所でそれぞれ進行するストーリーが、逃亡した殺人犯との関連性という 1 点のみで緊張感が保たれるわけで、これ下手な演出だったら B 級っぽくなるだろうし、あるいは意味がわからなくなりそう。3 つのそれぞれの話に意味があって、それがいずれも過不足ない。あくまで映画の中の話ではあるが、嘘くささも強くない。
画面も飽きない美しさが続くし、なんだこれ天才か。
で、一方のストーリーは、ぶっちゃけよくわからん。彼が「怒り」と記したそれは彼にとっての正義だった、程度の話なんだろうけど、それにしちゃその狂気は、役者の演技は与えられた範囲のなかでは十分ではあったろうが、なんか満足できない。それくらいのバランスを狙ったのかとも思うが、原作から乖離しているわけでもないようなので、原作のパワーがここまでだったのかな。
または、事件はストーリーのキッカケで、いろんな怒りの描写のひとつに過ぎず、作者がこれと思った「怒り」の事象を群像劇的に描いたのが本作なのかもしれない。
さまざまな怒り
なんか怒り
他人を見下すことでしか自分を保てない本性は普段は形を潜めていて、なんか都合のよいシーンでそれが爆発するということなんかね。あるいは自分の無力さを無意識では気づいていて、それをうまく解消できない?
まっとうな怒り
事件、悲惨である。彼女の怒りと彼の怒りは、どう解決のしようもない。ていうか、母が気づかないはずはないと思うんだが、その辺は、汚いようでいてキレイに胡麻化され、隠されている。
あとこの出来事は、社会的な問題でもあるので、他人事とは言えない。以前よりはこのケースは減っているようではあるが。
分かり合えない怒り
この 2 人の関係は、まったく美しく、墓前の 2 人のシーンはまったくよかった。何かの記事でたまたま読んだが、わざわざホテルで同棲してまで役作りしたらしい。この映画をみて良かったなってところだ。やっぱ、妻夫木よ。
冒頭、割とこの 2 人の関係が強めの印象になるので面食らった。これも苛立ちの部類と思うが、反転して怒りになっちゃう人はいるんだろうか。詳らかには書かないが。
信じられない弱さへの怒り
キャスト上、主演は渡辺謙ということになっているらしいが、この関係の話がもっともフラットで、印象が薄いということも無いが、特別感もない。それが悪いわけでもない。ただ、彼を責めるわけではないが、あまりにもナイーブすぎるよな、冷静になると。まぁ、反社は怖いから仕方ないな。
しかし、ひさびさに宮崎あおいをみたけど、やっぱり替えの利きづらい俳優だな、彼女は。
と、テキトーに書き散らしたけど、原作を読んでみないことには本作の勘所はわからないだろうかねぇ。読むことも無さそうだけど。
2023年の年頭に《ジャック・リーチャー NEVER GO BACK》を観た。終わってから《アウトロー》の続編であり、原作小説を持つシリーズだと知ったが、2つの作品に関連性はほぼないようで、別の作品として鑑賞できる。今作のトム・クルーズの役は圧倒的に強い印象がある。
2 作だが、どっちもどっちかな。《アウトロー》をあんまり覚えていないけど、こちらのほうがまとまりはあったような。「NEVER GO BACK」は、ラストの密輸の実態が明かされるあたりから完全に蛇足感が出てしまっており、最後の格闘もなんのためにやってるのかわからん状態になっていたのが少し残念だったね。
ジャック・リーチャーの日本語 Wikipedia 、ジャックリーチャーの能力や彼のモットーがリストで記述されている。英語版を眺めると、同じような記載はなさそうなので、日本語の熱心な編集者がわざわざ書いたのか、どこからかの転記何だろうかと思うが、なんとなくライトノベル染みている印象がある。
言うて、原作がそういうテイストなのだろうなとも感じた。というくらいで、時間を潰すには流石のトム・クルーズだが、それ以上でも以下でもないか。
2023年の年始に《ナイブズ・アウト:グラス・オニオン》を観た。Netflix で配信された新作ということでシリーズ2作目だ。先だって、1作目も見た。
新型コロナが蔓延するなかでの出来事というエッセンスを、孤島の事件というインシデントに絡めているが、どうだろう。一応、劇中で登場するアイテムの存在には、この設定が寄与してはいるが。あるいは、数年後にみたときに、時代性を浮かび上がらせることはできるだろうから、それが狙いなのかな。
いろいろと魅力的な秘密に溢れた作品と思うが、自力でそれらを解き明かす手間をかけるほどでもない。もとから精通していれば、どう切り取っても楽しめる作品でもあるのだろう。一応、へぇーってなったブログ記事へのリンクは最後に張っておく。
舞台となる孤島、007 かなにかアクション映画で使われたのと同じロケーションな気がするが、巨大なグラスオニオンとか諸々の設備とか、どこまでリアルで、どこからがセットで、あるいは CG なりによる映像処理なのか、全然わかりませんね。
事件の謎と展開は前作よりも伏せられた情報が多いように見え、どういうことなのかを考える時間は増えた。一方で、そもそも何が起きているのかは前作よりもわかりづらい気はする。
たとえば、人間関係だが、アントレプレナーからのスケールアップとか、インフルエンサーの文化とか、エネルギー問題がどうとか、それぞれの文化なり構造なりを把握できてないと、そもそも何が争いの原因で、登場人物がどういう人間で、何が滑稽なのか、わかりづらそう。まぁそういうターゲット向けというわけだ。
お笑いポイントも多いと思うのだが、それだけ自分の気づいていないポイントも多いと思われ、そこは悲しい。個人的には、血液に見立てた激辛ソースが……、という直截なギャグに笑ったけれど、オチ部分が省かれていたのがスマートですね。
というわけで今作は前作に引き続き「探偵もの」ではあるんだけど、風刺や不条理な笑い部分の扱いのほうがトピックなんじゃないですかね。
2022年末に《東京物語》(1953)を観た。
実はこの作品、スコセッシおすすめ外国映画選マラソンのラインナップでもあり、なんやかんや 2020 年からスタートしてダラダラと 4 年目に入るマラソンだが、この映画でストップして暫く経っていた。
あらすじを知っていただけに視聴パワーが追い付いてこず、珍しくも人と観ることで乗り切った。ちなみに小津監督作品は《秋刀魚の味》を見たことはある。
小津安二郎は、この映画で「高度経済成長の日本社会で変容する家庭を描きたかった」ということらしい。別に出典とかは知りませんが、まぁそういうことなんでしょう。東京のロケ地は皇居脇を走るバスだったり、おそらくは荒川河川敷あたりの工場群と煙突が映されていたり、つまるところ生活圏としては上野周辺なのかなと予測するが、下記のサイトの情報によると、足立区が中心らしい。
ちょっと意表を突かれたのは大阪で働く三男坊がいるという設定で、老夫婦は 3 男 2 女を儲けたということだった。次男は大阪で働いていたのね。小津安二郎というと、独特の構図というかショットが特徴らしいが、今作では大阪の三男の部屋の構図が 1 番に印象的だった。尾道の実家の通り沿いの窓のレイアウトとかどうなってんの? とか、実家を出てすぐの陰のある通りのカットとかも好きだけども。
しかして、冒頭とクライマックスにちょっとだけしか出演しない次女の京子の存在こそが、どちらかというとネガティブに、変わっていく中で変わらない存在であった。
教員という職こそあれ、老いた両親とともに田舎で暮らし、彼らの老後を見つめている彼女の存在は、東京だか大阪だか、高度成長だかしらないが、たしかに彼女の生活は実家のそこにあって、ともすれば兄姉らには忘れられている。それでいいのか?
さらには、クライマックスでの周吉と紀子とのやりとり、また紀子と京子のやりとりも展開、ここに極まれりというか、戦争未亡人の紀子がどのように生きていくのか、彼女の視点からみた京子の存在はどう映るのか。気になるところばかりだね。
また、しかし、とみが「一度は必ず尾道にいらしてね」と紀子に、東京滞在で最高の体験となった紀子の部屋での思い出を残しつつ、それが奇しくも実現するという悲しい結果も何とも言えない味わいがあった。東京で結婚し、夫が生きてさえいれば何度となく尾道を訪れることがあったのかなという紀子なので、なおさら。
気になったことなど
東京駅での待ち合わせがおもしろい。携帯電話もない時代だから合流も大変だろうなという定番の予想が外れた。長距離移動する深夜列車なんて、東京駅の特定の時間のプラットフォームしかないわけで、別に誰も迷わないのである。そこにいけばおのずと皆が集まる。
とみと長男の下の子が土手で遊んでいるのを遠くから映したカットもよかった。ざっと眺めていると、ロケ地も大体は同定されているようだが、なんか聖地巡礼でもないけど、風景の味わいを少しでも体験したくもなる。