《東京2020オリンピック SIDE:B》を観た。
《東京2020オリンピック SIDE:A》は未見であった。オリンピックの開催には反対であったし、人付き合いの場での数えるほどの観戦を除いては-それもコロナで少なかったわけだが、開会式も閉会式もほぼ見ていない。次々と沸く醜聞にも嫌悪しかなかった。開催国というのはどこもそうなのかもしれないが、始まる前からオリンピックに疲れている。そうでしょう。
今回はオリンピックという鍋の中に、東北の復興アピール、コロナ禍への対策、あるいは男女平等といった味の濃すぎる具材も混ぜ込むことになっている。
こんなのすべてを前面化してしまったら、バッハ会長でも森会長でも料理しきれないだろうし、いわんや映像化を任された監督をやである。そういう仕事だったと心に留めておきたい。
で、私は河瀨直美氏の映画なんて見たこともないし、あんまり興味もないのだけれど、この映画はこの映画として、巷の評判はあんまりよくないようだけど、野村萬斎のインタビューがあるというので、観にいった。残念ながら、ポジティブな面も皮肉をも綯い交ぜした面白いドキュメントだったと思う。
老いたる老兵たちの国への賛歌
男女問わずに顔のドアップが多い映像だが、いかんせんおじさん、おじいちゃんが多いので、なんだか心が疲れてしまう。特に冒頭は多かったね。大スクリーンで繰り返して映すものでもない。狙い通りだろうけれど。
本映像でフォーカスされて登場する人物たち、子供以外のなかでは、おそらくバドミントン男女ペアの 2 人がもっとも若かったと思うが、その他のスポーツ選手、若手コーチ類を除くと 30 代のスタッフなんてインタビューに応えていたか?
メインスタッフ、特に幹部クラスの年齢層が高いのはいくらかは仕方ないだろうとしても、やはりツラい。なんとかならんかったんか、インタビュー対象は。雑務係でもいいから若者スタッフのインタビューをさ。
まぁ、置いておこう。さて、それらの登場人物のうち、最たる主役の 1 人は森さんだろう。また、なんやかんやで彼が東京オリンピック開催に最たる尽力をしたというのは事実であったろう。
特には、退任前後のインタビューで彼からは「(政治家として)やってきたことを後悔したことは無い」という発言と「これで(あのタイミングで辞任して)よかったのかと振り返っている」という、対極するような旨の発言を取っている。括弧内は私による補填であるし、全体的に誤読の可能性もある。だが、まぁ彼の失敗らしき経過の扱いは十分だったろう。
なんにせよ、森さんだって彼自身の独自のパワーは行使したろうが、その権威や権力の強さにおいたって調整やらで苦心してるに決まってるんだ。実働部隊を動かすだけだろうとしても。
しかし、森にしても橋本聖子にしても、やはり東京オリンピック 1964 が今回の開催の大きな動機であることは、ドキュメンタリー中においては隠していない。今回の 2020 の開催が、私たち社会のためになると信じている。なんでそんなに?
若者たちのスポーツは
スポーツ選手のトップフォームってのは、一部の競技や選手を除いてはやはり20 代に最盛期を迎えるのが一般的と言ってよかろう。つまり言うまでもなくオリンピックの主役たるは若者たちなのである。
当たり前やん。
いやね、劇場でスクリーンを眺めながらあらためて気づかされたって話ですよ。
子供が、体育の授業、地元のスポーツクラブ、放課後の遊び、何でもいいけれど「身体を動かす」という行為を、自己の興味や適応、人間関係のなかで相対化しつつ、自分のものにしていく。
この根本的な部分が身心の成長とともにあって、苦手や得意にかかわらず、それなりには必要であるはずの能力として、最終的には死ぬまでそれは、求められるはずだ。
たとえば水泳なんて本当に苦手な子でも、中学の 3 年生までには、おっかなびっくり足をつきながらでも少なくとも 10m や 20m などは進めるようになるのが、日本の義務教育課程であるように思う。例外はあるだろう。
いずれにせよそれが、できなくてもいいけど、得意にならなくてもいいけど、試しておいた方がいいし、できたら何となくいいし、楽しめたら最高! くらいの「身体を動かす」行為であり、学びであろう。あんまり使いたくない表現だけど。
その「身体を動かす」が楽しい、得意だという子が努力を重ねても、手に数えられる人数しか辿り着けないのがトップアスリートなワケだが、ここで主張したいのは、これらは平等-これは多分に建前ではあるが-なスタート地点から細かれ太かれ地続きになっている事実だ。
端的に運動というとき、部活動やスポーツを取り巻く諸々の問題なんて腐るほどあるワケだし、結局のところ「身体を動かす」を苦手をするひとなんて悲しいくらいに多いけれど、それでも上述の根本原理を否定できる日はこない。
翻って、オリンピックへの根本的な信頼やその理念にも、揺るがしようのない部分が、このようにして在る。上記の森や橋本も同じようではあったが、作品内では、バッハの無垢さが演出されたインタビューがさらにそれを強調していたね。
話が散らかったけど、つまるところオリンピックが若者世代を鼓舞する-あるいは鼓舞された体験があったという懐古的な-目的があることに反論しづらい。
同時に、河瀨監督の作風はしらぬが、具体的な部分でも、抽象的なカットでも、子供たちに未来を繋ごうというメッセージは作品内でも一貫しており、これが本作の形の一部になったのは、誤りでもないのでしょう。陳腐という反応も見たけど、ほんならお前は子供の減る社会でどんなリアクションができるんだと。
ただ聖火リレーを応援する少年を否定する言葉を用意するのはなかなか難しい、少なくとも私には。
あぁ、日本の文化は
オリンピック開催とその運びについて最大の軋轢であったと思われ、それについては嫌悪をもっとも強く感じたのが、演出チームの動向だったが、本映画では野村萬斎、MIKIKO の両氏のインタビューがあった。
野村萬斎は座長のような役職を務めていたが、ギリギリのところで降板してアドバイザーに再任されている。内側の人間に留まることによって下手なことは言えない状況ともなったろう。
しかし、その野村萬斎のインタビューは、電通と話が通じなかったという旨をはっきりと述べており、佐々木何某とも同席した会見では、その軋轢が隠しようもなく映されていた。
電通以外にこの大型案件を回せないというなら仕方ないし、それを主導できるのが佐々木何某というなら、最初っからそういう座組にしとけという話であって、結局のところいったんは座長を引き継いだらしい MIKIKO だって不当な手順で離脱させられた、というではないか。
インタビューでの彼女はもはや、どうでもよさそうだった。残念ながら。
挙句、佐々木何某は、LINE 会議だかでの発言が晒されてこれも降板した。統制がとれていないにもほどがある。いまとなっては LINE での発言それ以前と以上に、彼への信頼も現場を回すには求心力を失っていたのだろう。
結実的には、本作中では、森山未來と市川海老蔵の演目がチラチラと映されて、それぞれのインタビューもワンフレーズ程度がまとめられ、なんとか日本文化を取り繕おうとしていたが、もう何のことやら皆目わからん。
わからせるつもりもないのだろうが、こうなってくるともはや笑える。皮肉半分、ジレンマ半分という意識が垣間見えた。
ただし、この局面では逆転的ではあるのだが、本作は雨天の中を去っていく野村萬斎(だったよね?)のカットをもってして、切り刻まれた日本文化を、切り刻んだ表現のなかであらわしたのではないか。
それはおそらくには彼に寄り添っていて-少なくともそのつもりであって-、いわば好意的だったように見えた。なんて言っておくと、だいぶそれらしくはある。
森辞任の巧妙とは
全体的に森さんの活動、ひいてはオリンピック全体の進行に沿った視点を紡がねばならない仕組みがある本映画の進行のなか、彼の辞任というオチが本作全体にどういう効果を生んだのか。ざっくり言って女性の活躍の場を増やすということで、そうせざるを得なくなった。そういう意味では、成功した、というメッセージになったか。
すべての新たな女性の役員らの発言を子細には覚えていないが、彼女らが選ばれるに至った立場、活動なりを刻々と表明したシーンはやはり断片的ながらもカットが割かれていた。もう事は大詰めに至って、なんでまたこんなことが実施されているかかという雰囲気でもあったが-あくまで形式的に森の失言とされた状況が再現されたような状況にもなっており、皮肉であったね。
やり直していくしかないのだ。
おいしい食事を届けたい
会場の食堂なんかの責任者-便宜的に料理長と呼ぶ-の追跡にもシーンが割かれていた。なんなら全体像のなかで一貫していたのは料理長である彼、および彼らスタッフの仕事くらいであった。
ぶっちゃけ、このストーリーだけでも映画になるだろうし、そしてもっとも面白いとも思う。彼による「縁の下の力持ち」や「セミの一生のようだった」など、味のあるコメントも多かった(実際の発言とはやや異なるかも)。
コロナ禍前の試食会、ナンプラー(だっけかな)を足して「これでイケる」なんてシーンを映してのちに「期待していたより全然美味しくなかった」という試食会の参加者のキツめのコメントをしっかり撮っている。笑える。
しまいには、コロナ禍でスタッフの集まりもままならない。それでもやるしかない。良くも悪くも、現場の彼らには使命感があった。現地での料理は美味しそうだし、「SIDE:A」 は知らぬが、もっとも選手たちの日常を感じさせる現場らしさに-ほんの数秒のシーンだったが、ついつい感情移入してしまう。
スカイツリーをバックに、早朝の隅田川を自転車を漕いで渡る彼を映したカットは最高のシーンだったろ。
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病院に届けるとんかつ屋さんのエピソードなんかも似たものがあったけど、これはオリンピックというよりはコロナ禍の文脈にて採用されたシーンで、かつそこはやはり子供という軸もさりげなく織り込まれていた。お弁当が美味しそうだったね。
本作がオミットしたらしきもの
そんなもんはいくらでもあろうけれど、以下の記事などを読んで気になったことだけを残しておく。
安部さんは必要なのか
五輪の延期を決定した人物は重要じゃないのという話だったけど、どれくらい彼が重要なのか。
東京五輪の誘致に全力を注いだ日本の総理大臣、この映画のど真ん中である2020年9月16日まで現役総理であり、辞任後も五輪組織委員会の名誉最高顧問であった政治家に名前も触れない五輪ドキュメンタリーなんてありうる?
と書かれており、御尤もな気はするのだが、オリンピックの延期という事象はどうにも絵にならなくない? いや、それはどうでもいいのだけれど、その疑問の根拠があまりよくわからない。
別に安部を肯定的に捉えようと、否定的に捉えようとどっちでもいいけど-というかオリンピック映画なのでどうでもいいのだが-、中止判断の是非を問いたいなら未だしも、やはりそれは本作がやることではないだろうし、中止されたならまだしも、これは、ただの延期なんだから、時間と画面を割く理由は弱い。
オリンピックに反対するのこと
上記の記事(の有料部分)では、また、監督による現場(主には森さんらしい)への共感やシンパシーのような述懐(パンフレット記載とのこと)を軸にして、オリンピックの外側、反対者たちの視点が抜け落ちているのではないか、との指摘があった。
これ、同じようなことを指摘しているメディアのいくつかの記事にもあったが、これらの指摘こそナイーブではないか。
本作、オリンピックの公式映画なんですよね。ここまで書いてきたように、少なくとも現行でそれなりに正統とされる手続きを踏んで開催が決定されたイベントが、紆余曲折を経て実現されたことを撮ってるのさ。
繰り返すけど、反対派の立場をそれなりに受容して取り上げろって、バランスをとっているつもりでいて、根本的に視点がずれてやしないか。
別に反対派を無碍にしろとも言わないけれど、結局それらが大きな運動にはならなかったのも事実だろうので、本作で取り上げるにしたってどうしたってカケラ程度にしかならないし、開催に対してはノイズであった事実は否定できまい。
バッハがパフォーマティヴに振る舞ったように見えるシーンであっても、厳密にパフォーマンスであったようにはおよそ見えないし、残念ながら英語のままならないか、咄嗟に意見を陳述できなかった反対者を映画側が擁護するなり、配慮するなりの理由もない。
これ以上は特に言うこともないが、下記の記事は(記事全体の 5 ページ目の部分にあたる)ほかの記事らと主張は同じくして、逆の視点の作品をちゃんと紹介しているので、その点はありがたい。
まとめのようなものと木下グループと
映画は面白かったと書いたし、そう考えている。それはそれとして、オリンピックが開催されたことへの疑問と反感も持ち合わせている。メリットはあったのか、それは持続するのか、わからないことだらけだ。
やはり開催しないという決断をしてほしいという気持ちもあった。作中では、宮本亜門も敢えてインタビューにそう答えてくれていた。このカットは割とビックリした。
それでも開催を目指す軸があったのも前提としてあって、また同時に、これらを推進する個別のユニットをしらみつぶしに否定できない。
あるいは、この映画に観客が少ない理由と言えば、もはや最初から日本の大多数は-それとも映画館に足を運ぶような人たちは?-オリンピックに興味が無かったかもしれない。
もしくは、この興業-映画ではなくオリンピック全体の成功面にも失敗面にも、誰も関心が無いのかもしれない。
概ね、私もそうであるけれど。
だとすれば、この状況は、やはり皮肉にも野村萬斎が指摘した面にも似ているようにも思われ、つまり、私たちはわたしたちのすることや、その持続や継続についてほとほと興味を持てないでいる、のかもしれない。その理由が何か、原因が何であるかはわからないけれども。
さて、そこで最後に触れておきたいのは木下グループだ。
あんまり詳しくないのだが、本作の制作会社としては木下グループがクレジットされていた。木下工務店などのグループ会社をまとめるスゴイやつだ。映画製作、配給会社としてのキノフィルムズも存在するが、今回は案件の巨大さ故に木下グループとして参画したと思われる。
で、上記ページのトップメニューをみると[スポーツ][芸術・文化活動]という項目が立っている。グループ本社は、傘下社の個別の事業を総合的にサポートしつつ、日本社会全体の文化活動を奨励する矢面に立っている、ということだろう。
新着情報には、本作でインタビューに応えていた宮本亜門が演出を務めるミュージカルの情報も流れていた。スポーツ関連情報もたくさんある。他にはたとえば、オリンピック前後からの PCR 検査にも相当に注力してるようで、知っているひとは知っているんだろうけど、私は不勉強ながら知らなかった。
このように、コンテンツを支えてくれる存在と、その重要性をあらためて確認できたのは嬉しかったね。
本作がおよそ 3 年間かそれ以上の期間でどれだけ移動して、取材して、撮影して、編集して、はたまた経費を必要としたのかしらんけど、その苦労とそれを支えたであろう映画のスタッフらや木下グループには、相応の賛辞を送りたいなとは。
しかし、残念だったと言えば、20 代~30 代なりのスタッフからのコメントがほぼなかったことかね。スポーツのコーチ陣にはいたけれど。
しっかし、止らんなかったのかね、オリンピック。根本的なプロセスが謎すぎる。んだども、都知事 4 人を経たプロジェクトの重みでもあるんだなぁ。
都民はたいへんだ。
追記のようなもの
この記事、2022 年の 7 月 4 日くらいにざっと書いたまま放っておいたら、安倍さんが凶弾に倒れてしまった。彼について触れた部分も大した内容でないし、なんとなくアレだけれども、残しておくことにする。何かを取り繕うではないが、そういう時系列だということだけ残しておく。
《ナワリヌイ》を観た。
彼のことは報道で目にするくらいで、ロシアの政治活動家というだけのイメージだったが、それはそれで問題ないだろう。2020 年に国内をエアバスで移動中、急病として倒れ、一命をとりとめたが、国内の病院は信用ならず、ドイツの病院に移管されたのちに恢復、活動を再開するに至った。
この映画のハイライトは、彼の急病が命を狙った当局側からの毒殺だったのではないかという疑惑と、その疑惑を白日の下に晒すという、国家機関を相手取った策略がある程度まで見事にハマったという点にあろう。その結果はというと、今後どうなるのかといえれば、未だ希望はあるだろうか。
ロシア当局が無視しようが、否定しようが、どうやらこれが事実であることは確定的であって、世界中で報道がなされたらしかった。これは、あんまり知らなかったので、個人的には恥ずかしい限りですね。
私が閲覧できる中では毎日新聞のフォロー記事がそれなりに忠実というか、それなりに報道している感じなのかな。とりあえず以下の 3 つの記事だけリンクを張っておく。
で、現状では彼はロシアに帰国と同時に収監され、詐欺罪たとか騒乱罪的な容疑で実刑が 9 年になるとか。ろくでもない展開ですね。
ドキュメンタリーのなかでもナワリヌイ自身が指摘していたが、上記 3 つ目のプーチンの反論にもならない弁明がある。これをそのまま受け取ると、プーチンのコントール下にない部分があったのだろうかね、と勘繰りたくもなる。
もしそうであれば、暴走する旧帝国の暴力なんて危険極まりないわけで、実際にそうなっているとしか思えない今回のウクライナ侵略もプーチンが事前に得ていた情報がてんでデタラメだったのでは? という報道もあった。その真実味をさらに強く感じてしまう。
形骸化しているとはいえ、市民が参加する選挙制度をもったロシア連邦という国家の、国内の苦しみもわからないではないが、今回の侵略においては、なんかもっとスマートな立ち振る舞い方はできなかったのかなという心持ちもある。
別にナワリヌイ氏が全面的に正しいという話ではないだろうが、彼の立場からみた歪なロシアの姿というのは、まぁ大体は歪としてみて間違いはない、というのは確かだろうな。
話を映画に戻すけれど、制作にかかわっている会社は 英語版の Wikiepedia を参考にすると以下の 5 社であるらしい。
- Cottage M
- Fishbowl Films
- RaeFilm Studios
- CNN Films
- HBO Max
上の 3 つは実働面のスタジオの類だろうか。下は CNN 、ワーナーブラザーズ系の映像会社ということなので、スポンサーレベルだろう。この映画の企画化やら撮影やらにどの会社がどんだけ、どのタイミングからコミットしてるのかは知らんけど、アメリカ合衆国からある程度の労力が注がれているというのも確かなのだろう。
とかく映像としては、ナワリヌイの帰国における空港の様子と、機窓から故郷を眺めつつ苦悩の表情を浮かべる彼の姿が特に印象に残った。
家族について。奥さん(としておく)と、おそらく成人した娘さん、おそらくまだ未成年の息子さんなどがちょいちょいと映る。つまり、息子さんはあんまり映らない。米国かなんかの学校に通っているのかな。娘さんは活動を手伝ったりしているみたいだけど、基本的な生活拠点はやっぱり米国なのかな。
ちょっとこれ以上は調べないけど、やはりナワリヌイ氏のロシアへの愛のようなものは特別らしくて、それは娘からしても特別なものであるらしい。
《ドンバス》を観た。
ウクライナ、ロシアの情勢だが、ハッキリ言って疲れている、といっても過言では無かろう。もちろん、現地の悲劇や苦痛は想像を絶する。残念な事態である。
蓄積された情報も素人には捌ききれないほど増え、侵略戦争は継続しており終わりが見えそうもなく、ゼレンスキー氏の叫びもこれだけ続くと見慣れたものになってしまった。
で、本作だが、ウクライナのセルゲイ・ロズニツァという監督のドキュメンタリー調の風刺的な作品だった。2018 年だ。製作にはウクライナの他、ドイツ、フランス、オランダときて、ルーマニアも関わっている。ルーマニア、どういう経緯なんだろうか。
2014 年に起きたクリミア半島およびウクライナ東部の騒動を経て、クリミア半島はサラッとロシアに併合されたようだが、ウクライナ東部は膠着状態が続いている。で、その東部地域がドンバスだ。
本作は膠着状態が続いているなかでの作品という位置づけになろう。で、言うまでもなく 2022 年にかけて正面化した武力衝突、もとい侵略が日本での上映にも繋がったという流れだ。
最新の事態は、戦闘地域を東南部に拡げ、黒海沿岸地帯までが争点になっている、という感じでとりあえずはいいのだろうか。
映画の話に戻る。
オムニバスと言っていいのか、途中でウトウトした瞬間もあったが、長短あれど 15 前後のエピソードが描かれる。それぞれが微妙に繋がっている場合もあるようだが、一貫しているわけでもなさそう。
印象に残ったのは、懲罰隊(翻訳があっているのか少し疑問)として街路に晒されるウクライナ側(であっているよな)に与したとされる兵士のエピソード、発見された盗難車がそのまま徴用される男のエピソードかな。
人間の愚かさと、戦争の不条理さがよく滲んでいた。
本作そのものはあくまでもフィクションであり、特に冒頭の撮影シーンとエンディングの撮影シーンの構造がそれを示しており、悪趣味ながらも本作の矜持という面もあったかなと。
だが、描かれたことはほとんど実際に起きたこと、起きていることを土台にしている。うーん、。
日本の近作だとあまり比較にはあげたくないが《新聞記者》(2019)が仕立てとしては遠くはないのかもしれない。
なかなか受容が難しい。記録まで。
- 撮影
- 議会
- 病院
- バス
- 記者
- 避難壕
- 聖なる何とか
- 記者2
- 懲罰隊
- 車の徴用
- 結婚式
- 車をランチャー
- バス
- 撮影2
リンクメモ:
『宝石の国』連載再開に寄せて。
愚問というか、作家のファンとしてはどうでもいいことというか、そういうことではあるんだが、『宝石の国』の既刊を読んでいて気になったので、書いておく。書いてみたら別に、作家性みたいな話にはならなくて、『宝石の国』の続きが楽しみということに尽きた。
紙の雑誌で月刊アフタヌーンを購入しはじめた頃、四季賞の存在を知った。で、たまたまその 1 回目に小冊子で出会った大賞作品が『虫と歌』だった。これは衝撃でしたね。
下記のリンク先の記事を読むと、マンガ表現的な面としては高野文子の影響が大きいとのことだが、高野文子を読んだことが無い。この方の記事に詳しい。それだけは伝えたかった。
続ける。
デビュー作を含む『虫と歌』に収録された作品は設定があまり明かされない作品が割とあったが、それでも傑作「日下兄妹」や絶妙な趣味の悪さを誇る「星の恋人」なんかは設定もそれなりに明かされる SF 寄りな作品だろうか。『25時のバカンス』とその収録作品なんかは、もはや SF だろう。ようしらんけど。
で、初の連載作となった『宝石の国』はもっと SF なんだけど、今月のアフタヌーンからおよそ 1 年半の休載を経て再開がなされた。
私は 4 巻までは Kindle で買って読んでいて、月 1 の連載だと細かい部分を忘れがちだったので、続きはいずれと思っていたら、しばらく読まなくなっていた。
で今回、連載の再開に伴って コミックDAYS で全巻が解放されたので、それに肖って読んだ。
はい。
これだけのスケールの SF を描けるマンガ家、現行でほかに居るっけ? となる。ビビりますねぇ。小説家とも比べたいくらいなんだけど、現代 SF 小説はほとんど追えてないので何もわからん。まぁ「三体」や「天冥の標」のシリーズは比肩しうるか。
現行の展開で達成されそうなことといえば、悪い人類の悪さを濾したような悪い人たちの救済というか補完みたいなところで、無垢で純粋な宝石たちは、本当にその無垢さゆえに何色にも染まりやすい。美しさとはなにか。
遠大に過ぎるスケールで描かれる矮小な人間模様とその記憶や意思の移ろいやすさは、絶品の味わいである。歯痒い。
巷では「火の鳥」を連想したというまとめを目にしたが、「すまん、この報われない其れは類作としてはやっぱりエヴァじゃん」となる。あるいは、いくつかの、のび太の物語か。ジェームズ・ティプトリー・Jr にも似た感触がある。
個人的にあえて「火の鳥」との差を言えば、あれは絶対的な存在である火の鳥がある種のマクガフィン的な存在としての主役であるし、また全体として輪廻を認める世界観であることは明らかで、対して本来仏教的なレールを走っている(ように見える)『宝石の国』とは相容れない。
話を戻す。フォスフォフィライトを主人公とすると、この人物がこの苛酷な展開によって、ここまで苛め抜かれることも、なかなかない。そういう意味では上記のほかに具体的に「この作品」とは言いづらいが、90 年代の作品っぽいダークさも感じる。というか、そういうことだ。
この終末感よ。
いずれ閉鎖されるという cakes のインタビューがまだ読めたが、仏教高校に通ったという作者の提供するクライマックスまでの展開が、まさに仏教的な内容だとすれば、それをどう表現しうるのか、あるいはフォスフォフィライトの苦しみこそが強調されて終わるのか。
長い休載の理由は知らんけど、本作の構想が頭に浮かばないわけは無かっただろうから、休載前から変化があったろうが、無かろうが、新たな進展を楽しむだけだ。どういうタイプの希望を残すのか。
また、勝手にいろんなテーマとつなげてしまったが、どうしてもこのように読んでしまう業がある。長丁場になるのか、割合スパッと終わるのかもしらんが、長くとも 15 巻内くらいで終わると個人的には最高だ。
『金曜日はアトリエで』が 4 巻で完結していた。2 巻まではマンガを漁っているときに読んでいて、3 巻以降は忘れていたのだが、完結していたので読んだ。これは面白い作品で、とにかく面白いのだ。
出会って突然ヌードモデルを務めるという突飛な展開が面白くないわけがないが、この画家と女性の関係がなんともよい。
作品のモチーフが魚であったり海であったり、そこに理想の女性像が求められたわけだが、画家にとって、それが彼女だった。たしかに、モデルの女性が人間としてステキであることが徐々に明かされるが、出会って突然、なぜなのか、画家は彼女を発見した。よくわからん。画家の審美眼がそれを見抜いた? という発想で終わらせたくもないが。
後半の展開および彼女のプロフィールはどれだけ予定されていたのか不明だし(もともと読み切り型の短編であったとのことだ)、Amazon のレビューでも「後付け設定だろ」という指摘もあったが、彼女は自らを海の底に置いていた。そこが画家に直感された。言ってしまえば、わかりやすい。だが、これを運命かと言えば、そうだろう。
大筋は画家とモデルのフワッとした不慣れで不可思議な恋愛模様が描かれる。題材の魚をモデル仕事の終了後に夕飯にして食べるなんてことが実際にあるのだろうか。知らん。
金曜の夜だけ、こういう特別な関係が、1 年くらい続いたのかね。季節感があんまりないのでよくわからんが、モデルの復活の過程を考えれば、おおよそそんなもんかな。
完結まで読んでからひさびさに 1、2 巻を読み返すと、絵柄が割と変化していることに驚く。これは作者の浜田咲良が初連載であるっぽいことも影響しているが、変化が楽しい。
ついで、序盤の関係性は割と中終盤と逆であって-順序的には話の進展とともに逆転したことになるが、これも味わい深い。当初の画家はただの自惚れ屋だし、モデルは序盤は割と彼に警戒的でその辺の人間関係に自覚的だ。
こういう変化も含めて、面白い。
単純にダブルワークが彼女の生活や仕事に、新しい人間関係や彩りを与えたというのは、一般的に希望があっていいなと。
画家の担当の平野君は実在したら単純にイヤなやつだなと思うけど、作品にはほどよいスパイスとなっていた。テキトーに幸せになれば? と思う。
人類の歴史にあらたな佳作が誕生した。
あー、後半はそうでもないけど、当初の絵柄にはなんとなくテリー山本に似たところを感じた。寿司屋の同期が絡むエピソードの作話も似たような雰囲気を見た気がする。
《犬王》を観た。都合、2 回観た。1 回目はコンディションが悪く、ことごとく重要なシーンで寝落ちしていた。いや、さすがに今作をこんな体験のまま終わらせてはいけない。ということで、2 度劇場に足を運んだ。なお、劇場パンフレットは 3 カ所回ったけど、どこも売り切れていた。
原作『平家物語 犬王の巻』は未読なので、ついては的外れな感想になっている部分もあるかもしれない。
鑑賞後から今にかけて、サウンドトラックをヘビーローテーションで聴いている。犬王の演目の曲がどれも素晴らしい。劇中で聴いても、ももちろんいいのだが、音楽だけでも全然いい。とにかくいい。歌詞が染みる。
ネタバレを含む感想になるが、まぁ見てないひとには何を言ってるかわからん文章になった。
二重に語って見逃される
比叡座の座長、犬王の父が奇妙な面に魅せられて琵琶法師をたった斬る。そうすることによって密かに語られ、広められようとしていた平家の物語が回収され、それは比叡座の踊りの美として還元される。面がなんでか物語を回収したがったのかは、これはわからない。原作に説明はあるのだろうか。
同時に、面との契約によって呪われた犬王は京のそこかしかに溜まっている平家の兵士らの残留思念と交感する能力を得ていた。これをもって父の目をかいくぐって、新しい平家の物語を紡ぐことが可能になる。面が犬王を手に入れきれなかったのもクライマックスの描写をみれば、なぜか残留思念たちのお陰なので、まぁ面と残留思念、父と犬王という対立構造と因縁があるんだろう。
でまぁ、犬王と友有の関係にまとめ直すと、呪いの面は物語を携えた琵琶法師を探知はできるようだが、面が取り込んだつもりだった犬王が語る平家物語は未然に防げなかった。
同時に、平家の歌を咲かせる犬王のことを語る友有のことも、こちらは当然のように面にはトレースできず、結果として彼らの躍進を見逃すことになった。
おもしろいですね。
異形が受容されていく
犬王、呪いによって異形として生み出された。犬らと一緒に育てられる。それで犬王、ということと思うが原作ではどう説明されているのだろう。史実的には何だろうね、大の犬好きだったりしたのだろうか。もっとも由来はわからないのだろうが。
作話および演出上のアンビバレンツさというか、アニメーション的にも個人的には、犬王の最大の魅力は異形の腕だった。が、最初の演目にて発生した呪いの解消で、それは無くなった。あら、寂しい。
同じく演目を経るごとに鱗の体表、奇怪な相貌が無くなっていく。普通の人間然に近づいていく。もっと言うと、美の化身のごとくなっていく。並行して、異形が放つ魅力は、無くなっていく。本来は喜ばしいことだが、何故か悲しい。
最終的に犬王は彼にしかできなかった物語を終えたわけだが、そこに至っては、美しいだけの只のひとだ。美しければ十分だろうか。民の前で歌うわけでもないだろうから、なんなら名声ばかりが残るだけだろうか。結果的に、史実的にそうなった、という話なのだが。そういえば、友も失った。
最後の状態の犬王に、まだ残留思念の声を読み取ることができたか否かは気になるところではあるが、できたところでどうしようもないし、そういう意味ではできないに等しいし、できなくなったとするのが正解なんだろう。これも誰かの無念である。
モブたちがいる
湯浅監督作品の醍醐味のひとつと言えば、モブたちなんじゃないのかしら。1 回目の鑑賞ではことごとくライブシーンで寝落ちていたのだが、ライブシーンのモブたちが熱い。モブ然としていてよい。
今回は、モブ然としながらも、新しい演目に呼応する観客たちということで、彼らにもそれなりに動きが求められた。『腕塚』では、手を伸ばし、拳を突き上げるように犬王から煽られ、拍手も求められる。『鯨』では犬王の歌詞の呼びかけに重ねて歌うようになっている。
新しいものを求める
とりわけ面白かったのが、足利義満のパートナーの女性(日野業子かな)がそもそも犬王の演目を望んだということであった。
河原の友有のパフォーマンスにちょいちょい品のよさそうな女性たちが顔を見せていたようだったが、彼女らのネットワークが業子のもとへ評判として届いたのだろう、おそらく。
『鯨』の演目の前後に、お偉いところの女性(業子だろう)も注目しています、みたいなカットがちょっと入っていた。
で、彼女もワン・オブ・モブスだと断じたうえで話を変えるけど、彼女は妊娠中なんですよね。これは微かとはいえ、犬王の出生と、呪いの解呪を経た生まれ変わりに被る部分がある。
演出上もおもしろくて、『竜中将』の演目開始時、彼女の扇が天中の太陽(月じゃないよね? 部分日食という演出と受けていいのかな?)を覗いたときに光彩で画面が滲むが、アレは犬王が面越しに若葉のキラキラを目にしていた序盤のシーンを反芻している。グッときましたね。
友有のライブシーンはなんだった
2 回目の鑑賞で当たり前のことに気づいたが、友有の路上ライブはあくまで犬王の公演の宣伝で、基本的には宣伝(友有)→公演(犬王)の繰り返しが 3 回続くという単調さ、わかりやすさがあった。最後だけは、共演となったが。
サウンドトラックに収録されている曲名も『犬王 壱』『犬王 弐』『犬王 参』と、とてもシンプルだ。
もともと友魚(友有)は、亡き父の恨みを晴らすために、天叢雲剣を探すように指示した権力者を探していた。そのために平家かその後継の権力に連なる人脈への接近を試みていた。その経緯の上で、友一として琵琶法師になった。
どうして犬王に入れ込んだのか。友有となったのか。『犬王 弐』の歌詞がヒントというか、注目せざるを得ない。聴衆に「一緒に見届けようぜ」と叫ぶ。「俺にも見えてるぜ」という。「確かめよう」とこだわる。彼は琵琶法師である。
友魚が友有へとなった経緯をみれば、父の恨みを超えて、一介の琵琶法師を超えて、それらを内包しつつ、犬王との友情へ突き進んだことは明らかだろうが、そこには盲目の苦しみもあったんだろうか。
友有が感得できた犬王の美とはどこにあったのか。
個別に見ると、『犬王 弐』のパフォーマンスが 1 番特徴が出てたかな。琵琶プレイがアレでしたね。身体性もアレで、上半身の描写の生々しさが、このシーンだけは強調されていて、ちょっと驚いた。女性ファンが増えるわけである。
音楽性あたりの話
『鯨』の QUEEN に寄せた部分が気になる人が多いようだけど、同曲の掛け合い部分とか、ファンクの流れのようだが、音楽に詳しくないのでわからん。
『腕塚』のほうがファンクだという意見も見た。というか、そもそも犬王の声優を務めたアヴちゃんのバンド女王蜂は、もともとファンク志向のグループらしい。なるほど。
作曲の大友良英は苦心したという記事をチラリと読んだが、そういうあたりの兼ね合いなども考慮されたのだろう。どの曲も素晴らしい。
あるいは体制への反抗がロックというのは逆に古くないか、とか、大友良英なんだからフリー・ジャズっぽい挑戦も見たかった、などの意見が目に留まったけど、難しいね。
パッと聴き以上に、いろいろと難しいことを試されている音楽に思うが、説明する技能がない。
『竜中将』がまたよい。
なんかよくわからんが、犬王も友有も彼らの共闘体制が最期だと予感はしている。そんな状態からバラード調の歌い上げで曲は始まる。
「広がる海へと浮かべた身体」という歌詞のまま、犬王は浮かぶ。舞台の仕掛けの演出にもこだわりを持って描写している本作、『竜中将』ではよく見ると彼を釣っているし、その装置が上空からのカットで目に留まる。それで一応説明されている。
いい感じで演目は進むが、平家の兵どもの思念は犬王、あるいは友有の呼びかけに応えない。
ここ究極的に面白いんだけど、その根本的な謎を解くためには友有が必要で、なんかしらんけど彼が湖面に飛び込む。すると、母の子守歌のような声が聞こえてくる。歌詞は恐いけど。
そんなこんなで犬王の秘密がようやく明かされる。それとともに犬王の父も呪いから解放されるのであったぁ……。指が残っているのいいシーンですね。
竜中将の歌詞を最後まで読むと、これ形としては残留思念たちの無念も解消されたんですね、竜宮城が見つかったということで。なので、上の考察はとりあえずキャンセル……。
600 年だよ
壇ノ浦の戦いが 1185 年くらいらしいが、犬王の活躍が 1400 年前後か。およそ 200 年のギャップがあったわけだ、そこには。
一方、友有が現世まで待った期間はおよそ 600 年となる。本作、ちょっとした疑問としては上に書いたように、友有がなにをそこまで犬王に賭けたのか、個人的にはそこまで読み取れなかったことなのだが、この 600 年という想像しがたいスケールを友有が過ごし、それを犬王が探していたというだけで、個人的にはすべて許された。
友魚の親父の無念も、たかだか十数年でしぼんでしまった。200 年に渡った兵どもの残留思念も、犬王と友有という媒体を通してとはいえ、成仏していった。彼らはどうか。
600 年! そんなに思い詰めてたのか。物別れになったお互いを、そんなに求めていたのか。最期の行き違いから一瞬で和解して、出会った当時の関係性を楽しめる。そんな物語だった。
その他のことなど
- 犬王、母がどこかで亡くなったようだが、思い返すとこれも面の要求だったのかなと思ったり、思わなかったり。
- 犬王、天覧の申し出が幕府よりあったとき、彼の周りで喜んでくれていた若者たちは兄弟っぽいんですよね。彼らが無事そうだったし、犬王への蟠りとか無さそうでホワッとした。
- 足利義満を声で演じてるのは、柄本佑なんすよね。よく目にするなぁ。『ハケンアニメ』の出演とどっちが先だったのか、ちょっと気になりますね。
- 最後の公演、離れの建物の最上階で鑑賞していた世阿弥もノッているシーンが一瞬だけだけれども描かれていて、これもよかった。
『ユリイカ2022年7月臨時増刊号』で湯浅監督の特集が組まれている。Twitter での監督のつぶやきによれば年表の編纂が恣意的っぽくてちょっと怒っていたが、まぁそれを差っ引いても読むには値しそだわね。買ったので読みます。
《トップガン マーヴェリック/Top Gun: Maverick》を観た。さんざん待ったというか、劇場での予告映像に慣れ切ってしまった作品であって-おそらく 2019 年の後半くらいから流されていた、ずーっと予告を眺めていたので公開される現実感が、まずなかった。
コロナ禍で延期が続いたの A 級タイトルは、おそらく本作が最後ではないか。
これもあまり観るつもりもなかったが、絶賛アンド絶賛では仕方がない。見てきた。 前作をあまり覚えていなかったので、事前に《トップガン》も予習するという念の入れようである。
感想と言えば、たしかに面白いには違いないが、それ以上に不思議な映画だった。
要所で前作の要素を再現し、これが続編であることを意識させつつ、同時にもちろん主人公の個性も年齢を重ねながらも、彼の特性の根本は維持されており、かつ問題児然とした部分も最小限の味付けになっており、究極的には前作で弱点だったと思しき脚本諸々の難点を解消した。
加えて、ミッション・インポッシブルみたいなトム・クルーズ走りやそこそこに無茶な展開もセッティングされており、エンターテインメント味が濃くなっている。これはどちらかというとご愛敬の部類かな。
とにかく飛行というか空戦というか、そのシーンの迫力が素晴らしいという以上に観にいく理由をあげるのもバカバカしい。
その他、周辺情報もたくさん発信されているし、特に言うこともない。コクピットのシーンは、ほとんど実際に飛んで撮影されたとのことだが、G でマーヴェリックの顔が歪むのが何気に楽しい。これがリアルだ。
前作の公開直後は、軍隊への志願者が増えたということがあったらしい。国威啓発というか、そういうプロパガンダ的な側面があるということだ。まぁ、今回も否めない面はあるだろう。
ただなんというか、US 本国の雰囲気は知りえないが、おそらくは 80 年代などよりは社会的にそういうムードになりやすいかというと否定的ではあろうな。
水分をよく摂取する。
水道局から届く水が安全なことは十分に承知しているが、なんとなくそのままは飲みたくはないなというところ、普段はミネラルウォーターを購入していた。あるいは、余裕があるときはいったん沸かしてから飲むとか。
生活空間のシンクの蛇口は、浄水器を備えるには工数がかかるタイプであったし、それに着手するほどのモチベーションもなく、長く諦めていたのである。
ところが、世には浄水ポットなるものがあった。それに気づくのに、いくらか時間がかかった。
ペットボトルのミネラルウォーターの問題点は、廃棄するストレスだった。たかがという話だろうが、個人的にはこれが今回の最大の理由になった。あと、なんとなくコストパフォーマンスよくなるのではないか。
これもおそらく正しかろう。定期的に交換する必要があるカートリッジは割高に感じるが、それでもおそらく半年もかからないくらいで相対的に安価となるかな。
ところで、浄水器や浄水ポットを売る側からは、「ペットボトルを棄てる量が減るのでエコだ」というメッセージもあった。これはちょっと疑問であった。本体はまだしも、カートリッジの製造コスト(製造上の廃棄物とかね)がよくわからん。あまり情報らしい情報もパッとは目に入らなかったが、多分これも正しいんだろう。
で、製品だが、ドイツのメーカー BRITA が製品のラインナップも多く、なんか使いやすいそうだなと思ったが、何を日和ったか最終的にはトレビーノ製のポットにした。これもいくつか理由はあるが、最大には「洗いやすそうだから」を理由としたい。
で、初期設定こそ何だかよくわからんかったが、これはいい。水の在庫を気にする必要がないのもいい。なんとなくポットの形状もカッコいい。二重蓋が一体化しているという仕組みも心を擽る。
そこそこ洗いやすい。
いまのところ何も不自由はない。ゴミ捨ての手間も減った。
ところで、Amazon のレビューにあったが、製品名が製造コードそのまま(みたいな感じ)でとっつきづらいというのは確かにあるね。愛着もへったくれもないという姿勢なのか、この英数字を覚えてくれというメッセージなのか、どっちなんだろう。
映画ではないが、映画カテゴリーの記事として残しておく。前作の劇場版の感想は以下です。
2023年12月追記:
『攻殻機動隊SAC_2045 最後の人間』を観てきた。本記事の総集版映画だ。いうまでもなくカットも編集も多く、特にクライマックスの展開は表現が割と変わっている。なんで自分がここまで熱心なのかもよくわからんが、ちゃんと見てきた(もちろん比べようもなく熱心で精確な鑑賞をしてる方は山ほどいるだろう)。
というわけで、この感想はどうやら的外れらしいが、それを意に介さずに同じような感想を抱いた記事をアップした。
《攻殻機動隊SAC_2045》シーズン2 を観終えた。クライマックスの展開は、概ね想像力の限界は超えなかったが、これをキッチリとやり切ったことに感動したし、終始、面白かった。まずはその一言だけは伝えたかった。
神山健治の攻殻機動隊はどれも好きだけど、それぞれにちゃんと重みのグレードがあってよい。で、今回はそれが極まったと見える。これが Netflix 最速で配信されることの意味とは!? という気がするが、どうなんだろう。そのおかげで、めちゃくちゃ翻訳されているんだよね。エンディング後の翻訳クレジットが異様なまでに長い。
キャラクターの 3DCG も必要な限り洗練されたと見えた。特に確かめたわけじゃないけど、特に荒巻部長の違和感がシーズン 1 よりも小さい。
で、まあ自分なりに気になった点のメモだけ残しておく。
ダブルシンク
『1984』をここまで執拗に引用する必要があったのかと疑問だったが、なるほどダブルシンクをこういう形で生かすのかという驚きと落胆というか、メチャクチャすごい設定なんだけど肩透かし的ではあるというか、現代と近未来あるいは超未来が割と接近して見えた。
実現不可能そうに思えるけど、やってのける。やっていることは、ドラえもんで例えるなら「もしもボックス」を全世界の人間が、それぞれ自分の都合のよいように世界のありようを捉え電話口で伝え、それは仮想現実ではなくて現実世界で、かつそれが互いに破綻していない世界ということなんだろう。
ぶっちゃけどのレベルまで整合がとれて、どこかで誰かは思考誘導されているんだろうなとか、不都合がいずれは爆発するんじゃないのかとか、思うけれど、なんかそういうのは、とりあえず許されてしまう。
みんな N になっちゃう。
最後はどうなった
ミサイルが発射されたのは、発射されて都合のよい人間にとってだけ、という事実には間違いなさそう。そういう人たちの見ている世界がどんな風になって整合性つけられているのかは不明だけど。
で、基底現実(と『BLAME!』の用語を借りてみる)では、ミサイルは打たれていない。ということは前提的に、物理的に世界が大きくダメージを受けるような現実的な事象は周到に避けられるんだろうな? とか-やはり次々に疑問は浮かぶ。
草薙素子と江崎プリンは N 化できないので、N 世間で暮らすには相当に難しいように思うが、少なくとも江崎プリンには容易いことなんだろうか。
で、問題はシマムラタカシのプラグが抜かれたか否かだ。
どちらとでも取れる結末とはなっていたのだろうが、いくつか読んだ感想だと、江崎プリンが九課に帰ってこれたことを決定的な理由として、少佐はプラグを抜いていない、という説をとる方がやや多かった。いずれの解読も納得的な理由であった。
ところが、私はそうでもない気もしている。
少佐がロマンチストだから N化 しないというオシャレな理由は置いておくとしても、彼女がその選択権を持ったということの意味は、草薙素子がプラグを抜くということを示していたと読みたい。そしてそれを実行したろうと。
シマムラタカシがパーソナルな旧人類的な個人として、草薙素子に母への手紙への礼を言っていたが、このことは重要ではないのか。いま思いついたけれど、身近な人間の理不尽な死も、N化 は何かしら好都合な理由をつけて後腐れない感情として処理させるのか。
息子を失った母の喪失を、シマムラタカシはどうやって埋めるのか。
話がズレていった。
自分が考えたのは、プラグを抜いたからとていきなり世界中の人間の目が覚めて、恐慌状態に陥るみたいなことはなくて、基底現実と理想現実のギャップを徐々に受け入れていくんじゃないかってことだ。カプセルに入れたのと逆の処理を現実で行うことになるんでしょ、きっと。
だのでまぁ、少佐が去るエンディングというのは、そういうまだるっこしい辻褄合わせの冷却期間には付き合ってられんというアレじゃないのかね。
江崎プリンはどうなる
とはいったものの、また話は逸れるようだが、私も神山健治の攻殻機動隊はこれで終わってもいいように思う。もしもの現実というフォームをこんなにそれらしく扱ってみせて、その到達かあるいは限界なりをチラッとでも提示できてしまったら、もうやることがないのでは。現代におけるありうべき理想社会の可能性として。
ということで、また話を捻るようで厚かましくも、江崎プリンだが、荒巻部長の台詞のニュアンスや、ゴーストは失いつつも義体化したことで演算能力も身体能力も最強格となった彼女は、草薙素子の後継たりうるのかみたいな問題がある。バトーとの縁みたいな伏線のはり方も巧い。
ぶっちゃけもうゴーストも何も無いような気はするが-それこそ理想現実の世においては、草薙素子と江崎プリンの決定的な差はそこにあることになるんだろう。
一方、作中の世界の最後が N 解除後でも N 継続でもいいけど、いずれにせよ彼女らのどちらもが依然として社会のマイノリティであることには変わりがない。そこに基底現実がある/あった事実を知るもの同士としてはなおさら。
ただまぁ、少佐がこんな世の中には付き合っちゃおれんけん、といって姿をくらますのであれば、それはやはりゴーストの有無によって左右される選択肢なのかなという気はする。プリンちゃんは悪くないけど。
結局、見える見えないは何だったのか
ゴーストハックされたから目の前の人間が見えなくなるというのはわかるが、本作中ではそれ以上に、見える見えないが、比喩的に使われていたような気がする。
特に気になっているのは、シマムラタカシの元同級生が何故か東京にいるところで、トグサが彼女に導かれて逃走するシーンが異様な長さで描かれているが、あれはなんだったのか。
終いには彼女も、彼女を追いかけていた群衆たちもスーッと消えている。あれは N化 した人間たちだったのだろうか?だから姿を消せた(シマムラタカシの管理下にある)とすれば、理屈はわかる。
では、元同級生の彼女は、なぜトグサの 101 号室行きを阻止しようとしてくれたのか。これ、マジで個人的にはわかってなくて、シマムラタカシ の導きと解するのが穏当なんだろうけど、どうなっているんですかね。
あー、彼女もハーフ・ポストヒューマンみたいな存在だったと捉えると自然なのかな。運動能力を見れば、それは明らかと言えそうですね……。つまり、彼女は N化 した群衆たちからも不可視だったのかもしれない。なんであそこにいたんかね。
『1984』にヒロインがいたなと気づいてあらすじを Wikipedia で読み返したけど、なるほどね。101号室とヒロイン、主人公はそういう関係にあったんだっけな。
と、なると、どういうことだってばよ、というところまで考えようとしてシーズン 1 の「14歳革命」の情報を読み直してたら、同級生だった子も亡くなってるんだっけか。あの存在は、「14歳革命」のときのユズ(従妹)同様に、幻想的な存在だったということかしら。
そう考えると、ポストヒューマンというのは近しい人の死を「死者の人格を模倣するAI」ではないが、そういった存在(そう呼ぶとして)を許容することで克服しようという試みなのかもしれない。だとすれば、なんだ半ば死者は存在しないみたいな空間で生きられるのかな? 先ほどの母親の悲しみも解決するかもしれない。
そんな未来でいいですかね?
あるいはタチコマの課題は
タチコマたちのアイデンティティについて誤解があったらアレなんだけど、彼らは意志や情報共有はしつつも、それぞれの意思判断は個体別にできると考えていいんだよね?
少なくとも決戦に駆り出されていた 10 体以内ほどの彼らは、どこからが理想世界の描写かはしらんが、みんなシマムラタカシの構想に同意していたように描かれていた。これも演出の都合やらと言ってしまえばそれまでだが、異を唱える個体が居ないことにはやや違和感があった。スリリングではあったが。
そういえば、自分が N 解除を推す理由のひとつにはエンディングでの彼らの会話にもあって、「今回の件は僕らもまた勉強になったなぁ」とか言ってたけど、あれ解除してなかったら出てこない台詞なのではないのか。しらんけど。
少年に革命を背負わせるな
なんかこれに尽きる気がしてきた。
問題はシマムラタカシであったことなのではないのか、本作は。結局のところ「1A84」の意思を継いだポストヒューマンって、シマムラタカシとミズカネスズカくらいだったのでしょう、少なくとも作中では。
で、言うまでもなく最後の砦はシマムラタカシであったわけだけど、そもそも妹のように慕ってくれていた従妹も変な風に亡くすし、大切な存在であったろう同級生も大変な目に合ってるし、そんな彼になんでこんな重大な役目にさせたよ。
少年にいろんなことさせすぎなんだよな、日本の作品は。逆に言うと本作が問いかけることがあるとすれば、ここなんじゃないの。しらんけど。
前回の感想で「最終的には彼女(※草薙素子)は、ポストヒューマンたちの深淵みたいのを覗くのだろうか。」と書いたけど、なるほど彼らの深淵というか、理想的な世界の深淵という感じだったな。そういう意味ではたしかに彼女(と江崎プリン)が、少なくとも作中では設定された世界の臨界に直面したという結果になったか。
仮に続編を構想するとしたら、どういう掘り下げがあるか妄想するのは楽しそうではある。雑に言えば、宇宙とか。サイバーパンクと土地の問題とかやってほしい。
リンク
検索上位にきていて、参考にしたり、面白かった感想など。
《チタン/TITAN》を観た。監督の前作《RAW〜少女のめざめ〜》も劇場で観たけど、なるほどね。前作のタイトルに冠された “RAW” が象徴した生々しさは、本作で更にパワーアップし、しかもそれが或る意味で反転されていた。
なんという倒錯か。この歪みっぷりは容易ではないというか、よくやった。拍手したい。
マーダーシーンも多いし、お産というか妊婦がむやみやたらと自分の身体を苛め抜く描写も多いので、グロテスクというか端的に奇怪な画面が多く、あんまりひとには薦められる作品ではない。全然、そういう作品ではない。
あらすじのような説明をする
ヒロイン:アレクシアは、幼少時から車が好きだったようで。父の運転中、喧嘩みたいなことになって事故にあう。自損事故だ。で、彼女は右耳の周囲にチタンを埋め込む。その生々しい傷跡は成人してからも残っている。そして彼女は、ダンサーとなった。
車が好きだった彼女は、ある晩、車と交わる。なんだか抽象的な映画だなと思うが、メタファーなんかじゃなくて実際にヤるのだ。どういうことなのか…。
で、なんかしらんけど殺人衝動も持ちあわせていた彼女は、いろいろと人もヤッてたが、最後は両親を燃やして地元から逃走し、長年に渡り行方不明の息子を探しているヒーロー:ヴァンサンの家に潜り込む。まぁ、ファンタジーな展開というか、話は単純だ。
ヴァンサンは、地域の消防隊の隊長らしい。フランスの消防システムってこういう感じなのか? という疑問はあるが、まあいい。周囲は彼女が隊長の息子であるはずがないことに気づきつつも、なんか受け入れる雰囲気が醸されつつあった。
が、いかんせん彼女は妊娠している。さて、どうなる?
父と娘、あるいは息子の関係とは
アレクシアはずっと父と仲良くなかったみたいで、燃やす晩の最期にチラッと邂逅する。ちなみに、これはクライマックスで対比されている。
父はアレクシアになるたけ触れようとしなかったという描写も端的ながら、これもヴァンサンとは真逆であることが強調される。スキンシップに溢れたヴァンサンのボディランゲージには、見覚えのあるような気さえする。
親のスキンシップが子の心理や成長に与える影響などはしらぬが、アレクシアは次第に絆されていく。やっぱり展開としてはベタなんだよね。
アレクシアは発声によって息子でないこと、女であることがバレるのを恐れているが、ある程度まで関係が進んだ時点で危険を忘れてまで「病気なの?」と尋ねる。あまりに自然だった。ヴァンサンも気に留めてもいない。家族があった。よい。
そんななか、いろいろと限界が近づく。そりゃお腹に子供が居るからな。
車と踊ることの意味とはなんだ
終盤にて、あるキッカケで消防車と踊ることになったアレクシアはついつい本気を出してしまう。
序盤と終盤のそれぞれの交わり、そもそもアレクシアは対物性愛というか性的倒錯というか、車に興奮してしまうらしいんだけど、これが何を象徴してるのか、これがサッパリわからない。最初に交わった車が妙なクラシックカーだったのもよくわからない。父性への渇望なんだろうか。
また消防車との交合を試みたシーンで、彼女が達することができなかったとすれば、それはもはや車への倒錯がなくなったと考えるのが自然だろうか。悩ましいな。
だが、だとすれば、それはなぜか。父との関係が、これは単純に家族愛でいいと思うが、成立したことに尽きるか。
だが、腹には子がある。
祝え、新たなる生命の誕生を
重大なネタバレというか、物語の中盤くらいから徐々に、そしてクライマックスでは決定的に物語の主軸が実はヴァンサンになっている。
圧倒的な交代劇だ。
これは覆しがたい事実で、ラストカットを見れば明らかであるし、なんならキャストのクレジットも見ればいいし、とにかくそうとしか言えない。
アレクシアの腹の子は、ヴァンサンのもとでしか生まれ得なかったと、結果論かもしれないが、そうとしか言えない。
この新しい生命は、本当に文字通り新しい生命であり、言うなれば「ゴシックSF」とでも言いたくなるような展開なのだが、そういうサブジャンルがあるのか知らぬ。
お産のシーンというのは、不可侵さがあるというか、それだけで神聖な気がしてくるというか、とにかく特別なのだが、今回はそれに輪をかけている。常軌を逸している。
「見捨てないで」と叫んだ息子(妊婦)の願いを、父は最期まで捨てることはないだろう。いやー、やっぱり圧倒的な倒錯だな。
補足的な話をする
ヴァンサンは、消防隊員の食堂調理場で「ここでは自分は神だ」と言った。これはもちろん言葉通りの意味でもあるし、喩えでもある。いずれにせよ彼は神として君臨している。
ということは、アレクシアは神の子であり、それが生む子もやはり神の系譜に連なることになる。
鑑賞時こそ、これは神とキリストの関係の寓話かなと感じたが、よく考えると、ギリシア神話的な要素のほうが大きいだろう。
父との交流によってこそ結果的に子を成しえたというのは、ゼウスもろもろによって喩えられるエピソードを連想させられるし、なによりも本作のタイトルが「TITAN」なのであった。
語源としては、いうまでもなくタイタンであって、ギリシア神話における神の係累を指している。このいわゆるタイタンという神らから作品をさらに掘り下げても面白かろうが、まぁいいか。
ただまぁ、アレなんですよね。ギリシア神話は大らか? なので神と人間以外との交わりエピソードも割と多い。そういうニュアンスは意図されているでしょう。
当然、描かれたことには奇妙さしかないのだが、人間の系譜とか時代の変化というのは、そういうことなのかもしれん。なんだこの話の展開は……。
もしまた思い返すことがあるとすれば、新しい時代の神話のひとつと思って、本作に向き合いたい。
父に、ありがとう、母に、さようなら。また、このオチか。