2022年の末に《チーム・ジンバブエのソムリエたち》を観た。
製作はオーストラリアなのかな。原題は 《Blind Ambition》だそうで、 2017 年のブラインドワイン、テイスティングコンテスト(フランスはボルドーで開催されているらしい、1チーム 4 人の国別対抗戦のようだが、あまり詳細はわからない)に出場したジンバブエチームの軌跡を追ったドキュメンタリーだ。
そもそもジンバブエにワインを嗜む文化が、少なくとも国際大会に出場するレベルでは存在せず、というか、国家の情勢がそのような文化をほぼ許容できないようで。ではなぜ、この代表が成立したかというと、南アフリカ共和国の存在がキーなのであった。
つまり、南アフリカ共和国で生計を立てているジンバブエ難民、あるいは移住、居住者たちがソムリエとしてチームを組める人数になったのが本作の彼らだ。
もともと南アフリカ共和国のソムリエ代表を選出する予選の上位 12 名にジンバブエ出身者の 4 人が入賞し、「それならば」と、当地のコーチであるJV(ジャン・ヴァンサン)が大会本部に掛け合ったらしい。
映画は冒頭、あくまで主人公たちの故郷はジンバブエであることを示す小さなカットが映されたのち、南アフリカのさまざまな風景を切り取ったカットを切り替わる。主にはケープタウンで、ソムリエたちの生活圏もそのようだ。おそらく。
メンバーは、ジョゼフ、ティナシェ、パードン、マールヴィンの4名で、3名はいわゆる難民だが、マールヴィンはもともと本国でも裕福なのかな。立ち入った説明はなかったが、そのような背景が示されており、ほかの3人とは少し毛色が違う。もともとは情報学か何かを学ぶつもりの傍らでワインのテイスティングに手を出したら夢中になってしまったらしい。
JVとの友情とチームの選択ミスのような
大会当日は、チームが結論を引き出すまでの助言役としてコーチが同席することが認められているらしいが(これ最後になってようやくハッキリしたよな)、JVは南ア代表チームのコーチなので、流石に大会当日に付き添うわけにはいかない。
というわけで、フランス現地にて大会日程におけるジンバブエ代表のコーチを選定するのだが、ドゥニ・ガレという人物が選ばれることになった。誰かしらなかったが、2000年前後くらいまでは世界を席巻した名ソムリエらしい。変わり者である。
フランス入りした南アフリカ共和国チームとジンバブエチームは、最終の特訓としてしばらく同行していたが、現地コーチのドゥニ・ガレは最終日だけは俺ルールでいくといってJVと離反する。ちょっとした揉め事に発展する。
本作、プロモーションに使われている材料などをみると、どうみても確かにJVとジンバブエチームの友情というか繋がりのほうが重要であることはわかる。それは事実なんだろうけど、なんだかな。
ドゥニ・ガレは、かなりメチャクチャで大会当日もチームの輪を乱しっぱなしであって歯痒い。結果、うまくいかない。
とはいえ、彼をコーチとして選んだのはジンバブエチームであったし、大会前日の最後の 1 日のワイナリー見学、そしてややリラックスしたムードでのテイスティング会がそんなに悪いかというと、そうでもないような気はした。
大会の結果とか
2017年の大会ということで、ドゥニ・ガレの雑なコーチングと初出場のプレッシャーに敗れたジンバブエチームの結果は下位に終わったのだった。それより下位にイタリアかなんか、ふつーに欧州のワイン産地として有名な国がランクしていたのは驚いたけど、まぁブラインド・テイスティングってそれだけ難しいんだろうな。
しかして、エンドテロップで語られた内容によると、チームは翌年も参加し、コーチ無しで日本などを破り、7位くらいとなったそうな。てか日本も参加する年があったんか。新型コロナ禍の 2019 年以降、大会がどうなっているのかもわからんし、雑にググる程度だと情報があんまり出てこない。
チームのその後は
それぞれが新しいキャリアに舵を切った様子が示されていた。
ジョゼフはもともと現地で自分のオリジナルワイン? の製作にも取り掛かっていた描写がちょいちょいとあって、ラストでは瓶詰めしているシーンが映されていた。作業には、同じジンバブエ難民の人たちを日雇いでチャーターしたりして、彼なりの道を模索しているらしい。
パードンは、欧州向けのワイン貿易商を営むとかでオランダ移住を決めたとか。そういうカットが映されていた。マールヴィンは、やはりなんかのコネクションなんだろうけど、上海か香港かで開催されたチャリティー的ななんかのVIPみたいな感じで招待されたりと、そういう感じだった。
ティナシェについてだが、まず冒頭の小さなカットが彼の帰郷時のショットであることが判明する。ジンバブエの地元に里帰りして祖父と再会し、幼いころから散策した近所の山の頂から故郷の大地を眺める彼の姿が印象深い。地元でワインを作りたいみたいな話をする。感動的だ。
なんというか
彼らは難民として南アフリカ共和国入りした(マールヴィンはよくわからん)。当然、彼らの努力もあった。巡りあわせというものもあるだろう。ジョゼフだったかな、最初はレストランの裏の畑仕事からキャリアをスタートさせている。
一方で、並行して、憶測交じりではあるが、彼らはもともとジンバブエでもちゃんとした職があり、生活基盤のあったからこそ異国で生き抜く目があったんだなという面もあったのかなと。いや、そういう積み重ねこそがあらたな人生における成功にもつながっているということだが。
しかし、公式ページの TOP の写真などをみると、JVの笑顔が 1 番ステキなんだよな。彼がどれだけ、チーム・ジンバブエを愛していたかが、伝わってくる。
2022年末に《光復》を観た。これは凄い映画だった。
自主製作映画ということが理由か、R18+指定はむしろ客を増やしそうだが、あまり人はいなかった。もったいない。さて、深川栄洋監督の作品、観たことがあるかな? と確認したら、まったくなかった。《白夜行》すら見ていない。
失礼にも鑑賞中は、途中まで見たことある監督の作品かと思って眺めていたのだが、さすがにあるタイミングから「これ知らんひとの作品やな」ってなったのだった。そういうのわかるレベルにはなったという発見はあった。
タイトルが気持ち悪いよなというイメージは最初からあったが、これは展開を追うごとに納得させられるものであって、まぁ巧い。そうですね、終始、気持ちが悪い。
舞台に長野を選んだのもよくわからなくて、全体の苦い展開から、長野の人たちはこれを見て何を思うのかなと感じていたのだが、これもタイトルと同じように、特に終盤に及ぶにあたっての展開にて、この場所を選んだことの一定の意味は読み取れた気分にはなった。
監督の自主製作映画ということらしい本作は、同年 10 月に公開されていたらしい《42-50火光》(かぎろい)と両面となる作品らしく、残念ながらこちらは未見のままだ。今後、視聴する機会があるかも定かではない。
どちらの作品も主演は監督のパートナー:宮澤美保である。ちなみに彼女の地元が長野県長野市であるらしいし、Wikipedia によると書道の資格もあるらしいので、特に情報はないが、どちらの題字も彼女が書いているのではないかしらん。
あとから通販で購入したパンフレットを読むと、なんなら俳優陣もほとんど長野に縁のある方たちで、そういう座組なんだそうな。自主製作映画である点を含め、前回の映画に引き続き《エッシャー通りの赤いポスト》を連想させられる。なんだろうね?
ノンジャンルな作品って楽しい。認知症の母の介護に疲労して自我がなかば壊れた女性がなんか転落していく話っぽい体裁ではあるが、転落と表現するには垂直落下が過ぎるレベルであって、落としどころはどのなのかなと眺めていたら、はい、VFX 班が必要になる映画だったとはなぁ。
光復 とは?
あんまりグダグダ内容に触れたい感じもしないので、「光復」とはなんなのか。どのタイミングで主人公に起きたのかということを考えたい。
2つ、段階があったのかな。どちらが良い、悪いということも無い。
人間性とか、自らの罪、他人の罪、それぞれの采配は知ったこっちゃないけれど、どこかで安らぎが(光復)必要なのが人間なので、とにもかくにもそういう場所が、どんな生活、どの段階においたって求められるってわけだ。
あるいは安らぎを求める方法が、ルールや法に反している場合もあるかもしれない。これは同時に、主人公の母や弟、彼女を貶めた人たち、あるいは対立する人間たちにも言い得ることで、彼らも同様に、大なり小なり、それぞれ苦しみを抱えていると思えば、この酷い印象の映画も美しく思えてくる。
ということで、解釈しづらいラストについても、やはりどこの誰にも安らぎの求め方というのはあって、つまりあの状況下で安らぎを得ているのは誰か(みんな)なんでしょうな。袈裟まで憎いか。
袈裟を憎むな、人を求めよ。
2022年の年末だかに《宮松と山下》を観た。これ、よかったなぁ。
去年の半ばくらいだったか、騒動を起こした香川照之が主演だが、本作の撮影は騒動よりも前だったようで(それはそうだろうけど)、騒動の事情もまったく知らないまま見て、わざわざパンフレットまで買ってしまった。
「5月」というユニットが監督と脚本を務めるという異色の映画だった。
このユニットは、佐藤雅彦、関友太郎、平瀬謙太朗の 3 名で構成され、対等な関係ということらしいが、もともとは佐藤雅彦が指導する東京藝大の研究室から成り立ったらしい。また、佐藤雅彦は TVCM やゲームなどのプランナー(なのかな?)として仕事に携わることもあったらしく、湖池屋の TVCM なんかはマスターピースですね。小さい頃から最高に好き。この間、アニバーサリーでなんかやってるのを見たけど、ありがとうございます。
というわけで、パンフレットの内容もおもしろかった。
あらすじのような
40代半ばあたりだろうか、京都は太秦でエキストラを本業にして生計をたてている宮松という男がおったそうな。映画では、浪人として切り捨てられ、直後の別のシーンでふたたび切り捨てられる宮松が画面端に見切れていく様子が、まず描かれる。
さすがにエキストラだけでは生活できない彼は、どこかの山のロープウェーの運行係に月に何度か入っている。映画前半で彼のリアルを描写しているのは、ここくらいだったろうか。前半は劇伴もほとんどなく、ロープウェーのシーンにて、はじめて象徴的な音が入ったと記憶している。
あるカット、仕事からアパートに帰った彼が扉を開くと、室内は外装の見た目よりも整然としており、待ち人がおった。広そうなレイアウトの居室は、リノベーションのきいた物件ならそういうこともあるだろうかと訝しながらも見ていたが、やっぱりそういうことでもなかった。半分くらいは騙されていたので、悔しかったような、気持ちのいいような、そんな体験である。
さきほど、劇伴の話をしたが、音の調整も気になっていた。序盤、劇場の音響の問題かと疑ったのだが、音が籠っているように聞こえた。で、結局はそういう音に聞こえるように調整がなされたいたようで、これはもう 1 度鑑賞して確かめるしかないが、たしかにエキストラ時のシーンの音声は籠っていたように思う。
ほいで後半、宮松が山下に侵食されていくという恐怖の展開がはじまる。エキストラ出演している彼を旧知の友人が発見したのである。なんかこの展開、どこかで見たことあるような気もするが、定かではないなぁ。
新横浜を降りて旧友の運転で新中川だかの駅前に降り立つ宮松は、12 年ぶりの帰還らしいが、妹ということらしい女性とハグするのであった。うーん、この抱擁もすべてを観たあとだとわかるのだが、ほんのりと違和感を与える描写、演技で、上手いもんだなぁ。
異母兄妹、そして幼少期は離れていた山下兄妹は両親の不幸な死をキッカケに共同生活をはじめ、兄はそのために仕事をタクシー運転手に変えたらしい。穏やかな生活がおそらくはあった。それは否定しえない。問題児は誰だ。
画面にチラッと映った彼のタクシードライバーとしてのライセンスは平成 24 年と刻印されていたので、平成 31 年と令和 4 年で作中時間が大体 2022 年ほどだと判ぜられた。
洗濯物を畳む妹が兄の黄色い T シャツを愛おしそうに扱うシーンも作中で最高潮に倒錯的というか、問題が隠されており、それが明らかでもあり、切ないんだ。
こういうのでいいんだよ。切ないんだよ。
気になった点など
ロケーションの話
京都と横浜の近辺が舞台ということでいいと思うが、山下家の所在地はどこなんだろか。新横浜で新幹線を降りたのは間違いないが、車で移動した駅の駅名が「新中川」のような感じと記憶しているけど、同じ名前の駅はないようだし、混乱している。
また、宮下の勤めているロープウェー、京都方面ということなので何となく奈良あたりで撮影したのかなと思っていたが、ロープウェーに記された「バンビ」という号をヒントにすると、埼玉県は長瀞の宝登山ロープウエイらしい。
上記のリンク先の記事をあてにするなら、京都ではほとんど撮影してない可能性もありそうだな。どうなんだろうな。架空の町という可能性は大いにある。
死にゆく男、そうでもないかも
作中で宮下が演じるエキストラ役は、ほとんどが死んでいくが、作中では 2 作ほど死なない役も演じている。意味づけはある、には決まっているだろうが、なかなか難しそう。
特に 2 つ目のエキストラのシーンは普通のようでいてそうでもないような。こちらを眺める彼が観客を相対化しているというにしては、そんなに面白くはないかなぁ。
エキストラ業界では路傍の群衆役と死にゆく雑兵役、どちらに格があるのだろうか。
あるいはほとんどが時代劇の死に役だった一方で、最後のほうでは現代劇の、しかも意味のありそうな死に役もこなしていた。これも興味深い。彼は役者としてランクアップしていっているのかもしれない。
どうして宮松なのか
本作最大の謎にして、多分そこまで意味がない、現実社会における身元不明な記憶喪失者の社会的なフォローアップについては調べていないが(なんなら本作の状況であれば 12 年も見つからないということもなさそうだが)、どうして彼は宮松姓を名乗ったのだろうか。私、気になりますね。
なんとなく《無法松の一生》が連想されるけれど、別に関係なかろうか。
連想した映画の話をする
2022 年に限定すると《林檎とポラロイド》が連想させられる。あの作品も、やはりなんとなくある種の悲しみを記憶喪失とともに描写していた。もちろん方向性はほとんど異なるけれども。ごく個人的な記憶にまつわるパーソナルな作品という意味では、遠くない。
もうひとつは《エッシャー通りの赤いポスト》だ。こちらは、エキストラがテーマであるという点にて連想した。宮松が淡々とエキストラに徹している一方、「エッシャー通り」のほうは役者としての成り上がり狙いのような面が強かったが、これは全然方向が違うな。
///
しかし、いずれにせよ何かのために生きるということの、ある意味での欺瞞というか、虚無さというのはあって、その折り合いのつけ方を模索するにはいい映画なのかもしれない。
2022年の年末くらいに《ファイブ・デビルス》を観た。感想をアップしておく。ところどころ記憶があいまい太郎だが、許してください。
妙に色気を隠さない(映像的な意味で)母:ジョアンヌ、セルビア系(だっけ?)の父:ジミーを両親に持つ少女:ヴィッキーは、嗅覚がちょっとだけ異常に強くて、森の中でも母を秒で探し当てるし、ガラスの小瓶にいろいろな匂いを集めている。いわば変態であって、学校では、いじめられている。そこに父の妹であり、母の元恋人である叔母:ジュリアが数年ぶりに帰省してくる。
人間関係が妙な方向に転がりだす。
今作の最大の問題にして、気になるポイントは、娘のヴィッキーにも彼女の生誕以前のジュリア追放劇の一端が担わさせられていることにある。この事実、この設定が明らかになってくるにつれて、スクリーンを眺めている私にとっては相当に残虐、あまりに非道である作品だなと感じられた。言い過ぎかもしれないが、この絶望感はエヴァンゲリオン劇場版のような程度があった。で、面白くはあるが、どうしてこういうお話にしたのだろうか。すごい。不愉快がすごい。感動すらする。
子供にこそ妙な加害性というか、ほろ苦いでは済まない程度の、運命のようなものの不可逆的な残酷さを抱かせる海外映画、あんまり印象にないので、やっぱり感動する。後味は最悪だけど。
このことは、一旦置いておくとして。35mmフィルムで撮影されたというフランスの田舎町の風景や、それぞれの人物の動き、不穏な雰囲気が最後まで残っていたカットのひとつひとつは、それはそれなりに面白かった。
原題にあたる英題および仏題は、”The Five Devils” (Les cinq diables)だそうで本題はそのままだ。私は気づかなかったのだが、舞台となる村落の名前がこれらしい(実在はしないんだろう)。しかし、メインの登場人物が 5 名いるので、彼らがそれぞれ悪魔、ということと思う。
こんな酷な話、なんで思いついたんだろう。
叔母と姪の宿命のような
公式ページなどでは「タイムリープ」と言っているけれど、これ「タイムトリップ」ではないのかしら。ヴィッキーの意識だけが飛んでるという体でもないので。まぁどっちでもいい。しかし、また、この時間移動で相互に存在を認識できる対象がヴィッキーとジュリアだけなので、SF的な時間旅行というか、ファンタジーかオカルトあるいはホラー寄りの描写ではあった。
次いで、このタイムトリップは、ヴィッキーの異常な嗅覚、それ単体では実現せず、ジュリアの持ち込んだ(ヴィッキーが彼女から盗んだ)薬液が必要となる。ジュリアの仕事とは、なんだか薬品関係かしらぬがそういう匂わせはあり、また「すべてはわかっている」というような警告からも彼女は起こることの結末までを半ば自覚し、判じていた節がある。
だとすれば、彼女は何が起こるかを知っていながら、恋人を取り戻しに来た、と言えよう。作中では明確にはされないが。この不条理な雰囲気は、直近でいえば、微妙に《ヘレディタリー/継承》やジョーダン・ピールっぽい作風のようにも映った。
ヤバい女2人に振り回されたひとたち
ジミーも、顔面火傷を負った彼女:ナディーヌを捨ててジョアンヌを選んだクソ男のような雰囲気があるにはある。が、なんともなぁ。最終的な展開を見ていると、恋人を失ったジョアンヌがジミーを誑し込んだように思えて仕方ない。
ヴィッキーという運命的なイレギュラーこそが物語の鍵ではあるのだが、ストーリー全体としては所詮、ジョアンヌとジュリアの 2 人の愛のなんとかに巻き込まれたひとたちの悲劇にしか思えない。念のため、同性愛が悪いと言っているわけではない。
繰り返しになるが、子供であるヴィッキーがカギになってしまっているのが本作の気持ちの悪さであり、なんならオリジナリティを感じる部分ではある……。
幼少のジュリアがおそらくは 2 回だけ映る。で、2 回目の登場が判断しづらいが、彼女はその情景をみた(知っている)ので、ジョアンヌ奪還計画を実行したんじゃないか、と結論づけられるが、それでもやっぱり自分勝手だなという印象は拭えない。痛み分けのつもりなんすかね。
ヴィッキーはどうするんや
なんか自分の感想が定まらないなと、いろんな方の感想をみていたのだが、母と叔母の愛のあり方やヴィッキー自身の存在の肯定性みたいなところ、率直に受け取ったというようなポジティブン気味の感想も多く、あぁ意外というか、自分が根暗でネガティブなだけなのかもと思わさせられる。
いや、しかし、どう考えても叔母と姪のトリッキーな因果を軸にしておいて、結論としてヴィッキーがなにかに納得したり、克服したりしたようには見えないし、人間が必ずしもキレイな存在である必要はないけど、この話のどこにどういう希望のようなものが示されているのかは、やっぱり個人的にはよくわからん。
観てよかったけど、もうあんまり見たくはないというか。何を求めるかと言われると、やっぱり代償を負わされているのがヴィッキーだけでしかないように見えるのが不愉快なんだわ。
いや、なんか解釈に間違いがあるんだろうなぁ、これ。凄い映画でした。また、いつか見るよ。
2022年の年末に《THE FIRST SLAM DUNK》を観てきた。
原作は直撃世代で、同級生に半ば無理やり単行本を読まさせられた。放課後はほとんどバスケットボールに興じていた気がする。原作のおもしろさはすでに説明するまでもないが、既存のアニメのファンもこんなに多かったのかという印象はあり、公開までの事前情報だけで前評判が揺れる作品だったな。
大まかには、2 時間の映画にするにあたって、こんな脚本になりますよね、という感想にはなった。
オープニング、メインの 5 人がそれぞれペン入れ、配色され、それが動き出すという演出に沸くような気もするが、なんかよくわからない気もした。あれはどこの階段なんだよというね。体育館のコートに降りていく階段であんなに横に広がれないよね、という細かい意識が働いてしまうだけなんだけども。
映画の主役としては宮城リョータが配され、どこかの雑誌で読み切りで掲載されたエピソードが挟まれる。調べたら、週刊少年ジャンプに掲載の『ピアス』(1998)だそうだ。ヤングジャンプ(2001)でも再掲されたらしい。異色だな。ネットにアップされた冒頭のページをチラッと目にしたことがある程度だが、当時から重たい過去を持ってきたなという印象があったね。
中学生の半ばくらいまでは内気な少年だったリョータが、高校生になった時点で喧嘩っ早い少年になっている経緯こそ省かれており、なんなのかなという気はするが、「ピアス」というタイトルを鑑みると思わないところもない。読み切り短編のほうだと描かれていたんだっけか。
夏の夜、雨天の体育館、時間の経過
映像ならではだなと感じた表現は、リョータがファールシュートを放つ瞬間、彩子と語った夜の音がオーバーラップするシーンだ。今になって思うと、あんまりスラムダンクっぽくない、というか直截に言うと『バガボンド』っぽい雰囲気も感じる。同じような描き方はコマ割りによって漫画でも可能そうだが、少なくとも漫画『SLAM DUNK』には感じなかった大人っぽさがあった。とは思うんだけど、このシーンって原作だとどんなだったんだっけ。原作にあるんだっけ? ないんだっけ?
刻々と迫るタイムアップに対し、秒間で選手たちが切磋琢磨している状況はよくわかる。漫画の下手なアニメ化に起こりがちな、変に間延びしたアニメーションになっていないのは凄かった。クライマックスの緊張感も中途半端さをまったく感じさせない圧巻の出来。
逆に、リアル性を重視した結果なのか、コンテ的な問題なのか、いくつか気になったところもあって、たとえば、三井の有名なシーンのひとつ、何度でも甦えるシュートだが、ボールがネットを揺らすカットと三井の台詞のカット、あれ読者はイメージ通りだったろうか? 個人の感覚といえばそれまでだろうが、前後は逆ではないか。
また、河田と桜木のマッチシーンも、コミックで読んでいるときほどには、時間の凝縮感や桜木の凄みが、伝わりづらかった。河田が「まだいる」みたいに心境をモノローグするが、いうて画面では一瞬のこと瞬間のカットが過ぎて、何のことかわからない。そうでもなかったか?
流川の存在がとにかく謎だなと
「そもそも湘北の学力レベルどないなっとんねん」みたいなツッコミを見ると、たしかになーとなる。が、それはそれで置いておくとして、本作は流川の立ち位置が 1 番よくわからなくなったね。桜木もそういう部分はあるが。
一応、桜木はバスケットボールの外から来た男。異端児。なんかケガするけどチームを鼓舞して活躍するという原作由来の部分が強く残っているので、違和感も小さかったが、流川がどういう背景でこの5人の中にいるのか、どうしても目立つ。そこに別に理由はないので、原作の物語が積み重ねたはずの厚みの部分を除いては、原作を読んでも感触はほぼ変わらないと思われるが、それでも。
今作および読み切りにおけるリョータにせよ、原作あるいは今作で挟まれた山王の沢北の情報にせよ、その他のいずれのキャラクターにせよ、なんかしらバックボーン(1on1なり)が語られるものだが、流川になるとそれが皆無なのが、あらためて目立ったのは否めない。
などと書きながら流川のバックボーンの設定みたいなのを調べていたら、井上雄彦の『楓パープル』で同系の主人公(同じ人物ではないがモデルのよう)を描いていたらしい。はえぇ、そうでしたか。仕方ない部分かねぇ。
しかし、流川主人公、桜木主人公、リョータとそれぞれの主人公でやってきた関連作品を、仮に「SLAM DUNK」サーガと勝手に呼ぶとしたら、少なくともあと 2 回はなにかできるんじゃないのかとも思う。
本作、もともとが 90 年代の作品ではあるわけだが、宮城リョータの過去エピソードが絡まりつつ話の軸が回ることも含め、なんというか全体的には「懐かしさ」が強い。海に還りたいですね。
「ボーン」シリーズを Netflix で視聴した影響だろうか《今そこにある危機》がサジェストされたので、2022年の年末にこれを鑑賞した。原題は《Clear and Present Danger》だそうなので、ほぼそのまま、よい邦題ですね。
主演のハリソン・フォード、計算が間違っていなければ、本作の公開時点で 52 歳くらいだそう。えぇー、って感じだ。映画は小説家トム・クランシーの「ジャック・ライアン」シリーズに拠るとのことで、彼の主演では《パトリオット・ゲーム》も映画になっている。どちらも何度か地上波で放映されたのではないかなぁ。
で、当たり前のことだが、ハリソン・フォードってアクション俳優だったんだなって再確認できた。キャリアをみればわかることなんだけどさ。そして、2023 年には 80 歳のお爺さんとなった彼が、インディー・ジョーンズとして帰ってくるらしいけれど。マジか。
あらすじと作品背景みたいな
洋上で殺害された現米大統領との繋がりも深い実業家が、実はコロンビアの麻薬カルテルと繋がりがあって云々、それをいかに処理しようかという陣営側と、可能な限りは光を当てないとアカンやろ主人公派みたいな話なのだが、CIAの役人でしかないジャックは、なんやかんやで現地入りを繰り返しさせられ、それなりに暴れる(逃げ回るメインだけど)。
まっとうなアクション映画というよりは、半ば国家陰謀的なサスペンスなんだけど、現行のいろんな映画に影響を与えているなという面も強く、このへんの歴史をもう少し知りたくもなる。
「ボーン」シリーズと見比べて目に留まりやすかった点で言うと、コンピュータの発展だ。FBI だか CIA だかしらぬが、政府組織の作戦室の設備が根本から違い過ぎて、これは笑ってしまう。10 年や 20 年でこれだけ進歩するんだから恐ろしい。
好きなシーンというか
冒頭、麻薬カルテルのボスがバッティングマシンで打撃練習、というか汗を流しているんだけれど、彼、野球が好きみたいなんですよね。で、クライマックスの付近で彼がそのバットをもって、ちょっとだけ活躍するシーンがあるんだけど、このキャラ付けが地味によかった。原作からあったのだろうか。
この「ジャック・ライアン」シリーズだけれど、2018年にもシリーズ・ドラマ化されているらしいので何かと人気が根強いんですね。というか、やっぱり根本的に設定が上手いということに尽きそう。
2022年末に《サイレント・ナイト/SILENT NIGHT》を観た。テキトーに内容も調べずにチケットを取った作品で、なんとなくホラーっぽいのかなと思っていたが、そんなこともなくて戸惑った。
あらすじ
人類の終末の最期の日をどう過ごすか?
それがちょうどクリスマスにあたるので、分け隔ての無いメンバーを集めてパーティーをやって解散するよ、というノリで取り繕われていたが、当然、そんなスッキリした状態で話が進むはずもない。
製作はそれなりに小規模と思われ、基本的には B 級枠の扱いでよかろうが、詳しくはわからない。《ジョジョ・ラビット》の主演子役だったローマン・グリフィン・デイビスが、本作でも名演していた。
また、作中の双子の弟役は実際に彼の弟達だとかで、何とも言い難いトリビアではある。ほかの俳優陣も有名どころがいるらしいが、あまり興味はない。
本作、ローマンの演じる主人公:アート少年の葛藤こそが醍醐味といってもいいくらいで、繰り返すが、作品自体がおもしろいかというと難しい。
どちらかというと社会派作品で、エンターテインメントととしては中途半端を感じつつも、提示されたリアルな社会にある現下の苦味からは逃げられない。藤子・F・不二雄の短編『大予言』のような状況が再現されている。
大人たちはまぁどうでもいいが、子供たちの未来がないのである。
人類は余計な苦しみを避けるために、一部のシェルターへ避難できる人たちを除いて政府(?)から安楽死の薬剤を配布されている。死の嵐が到達する前に服用せよ、という話だ。『箱舟はいっぱい』も連想させられる。
しかし、アート少年は、死の嵐が世界を苦しめることも、人間が汚した地球が人間の生存に適さない状況になりつつあることも受け入れつつ、安楽死を選ぶことが正解かは疑問でしかないという。
何もかもが大人の都合、現状の社会を成してきた人間たちのエゴで物事は進んでおり、そんな大人は「子供のための未来はもうそこには無い」「一緒に逝こう」と言う。こんなの子供からしたら耐えられるワケがないし、そんな大人たちの言明を信頼する理由がない。
街場の気候変動対策
ちょっとリアルな社会と自分の経験の話をする。1990年代は、藤子・F・不二雄もいくつかの作品に取り上げたように、地球温暖化(現行では気候変動)が大きなトピックとしてあったし、それについて悩み、考えさせられることが多かった。
2000年代くらいになると議論は進むが、一方で懐疑論なども登場するわけで、個人的にはパーソナルな人間に可能な対策はかなり限定的であり、同時に懐疑論派寄りの意見に傾いていった。自暴自棄気味の面もあった。
しかして、2010年代くらいから現在に至るまで、やはり人類社会の影響の大きさ如何にかかわらず気候変動は確実に起きており、直近では特に、二酸化炭素に次いで、畜産物からの排出物、メタンガスが問題であるというトピックが取り上げられやすい。
これも程度のほどは判じづらいが、繰り返すように、間違いなく起きている気候変動に対し、取れるだけでも何かしら対処が必要というわけだ。
自分は、世の中は、人類社会は、なにかしら具体的なアクションを打てているのか? 大規模な施策と方針決定は、それぞれの代表者集団に任せるったって、最終的な行動は個人に委ねられる段階がどこかであるわけで……。
映画から話が逸れた。
アートの葛藤は、彼なりの思考と決断に辿り着く。しかし、無知で臆病な大人たちにパターナリスティックに否定される。後味が悪い。彼らは、それを愛というが、その愛をもっと事前に、ちゃんと発揮しておけというサジェスチョンがある。愛の射程というのは、どこまで伸びるのかね。
クライマックス、予期されたオチに至るには、クリスマスであること、アートを抱く母とその構図などから、考察ポイントというか、結末へのヒントなどがそれなりに用意されており、そのへんは鑑賞者へのサービスが、一応はあった。
というわけで、特段おもしろいとは言えないが、2022年の末に、個人的に課題として突き付けられた問題作ではあった。
2022年の年末に、現時点で最後の作品となっている《ジェイソン・ボーン》を除いて、ボーン・シリーズをまとめて観た。特に格闘シーンを中心にアクション映画の演出に多大な影響を与えたシリーズということだ。が、この映画のおそらく 1 作目の TVCM があまり好みでなく、マッド・デイモンもよくわからず、敬遠していた。まとめての感想となる。
その特徴というのはカット数の多さで、いまではすっかり定着した手法らしいので、あとから見返しても新鮮さはあまり感じない、という話ではあるかもしれない。
ボーン・アイデンティティー
半死体となった主人公:ジェイソン・ボーンが漁船に回収される。記憶を失っており、出自もなにもわからないまま命を狙われる。この狙われ続ける理由だが、ぶっちゃけ最後までよくわからない。理由は分かるけれど、そこまで執拗になることあるんだろうか。
上述の映像手法の話に沿って言えば、むしろなんかビルの外縁を沿うように逃げようとするシーンはカットが少なくて、映画全体のなかではこのシーンの印象が強い。
ボーン・スプレマシー
警官などからの逃亡劇は、ロシアでのシーンがシリーズで 1 番好きかもしれない。ボーンの記憶に封印された彼の苦悩が明らかになっていくが、まぁベタであって、これは別に珍しいわけでもないという感触ではあった。
最後の女の子、冒頭で亡くなったヒロインにちょいとビジュアルを寄せてきてるよなという感触だ。
ボーン・アルティメイタム
新聞記者を連れた空港での逃亡劇とその失敗は、映像としてはすごいんだけども、このシーンである必要があるのかは、よくわからなかった。が、まぁハラハラできたからこれはこれでアリなんだろう。
さすがに、シリーズ全体の作り話の構造の強度が弱まったな、というか話が拡がっていくなかで無理筋じゃない? という疑問がどうしても付きまといやすくなるので、ちょいちょいキツい。
屋上のかけっこのシーンが長くて、上述の 1 作目のシーンと同様、このシリーズとしては新鮮であったが、長すぎやしませんか、なんだこれってなった。
ボーン・レガシー
番外編か別シリーズ的な扱いなのを知らずに見た。この間、大怪我をされたジェレミー・レナーさんが主役じゃないか。全体としては、さすがに敵方の動きがハチャメチャで、やはり視聴はキツかった。
大雑把には楽しめたけれど。なんなら雪中の訓練シーンが1番面白かった気すらする。
ん-、《ジェイソン・ボーン》観るかな?
2022年の年末、《未来惑星ザルドス》を観た。4K リバイバルの予告をみた時点では「ふーん」という程度だったが、時間が合ったのでチケットをとった次第だ。
印象では、かなりぶっ飛んで抽象的な内容かと危ぶんだが、割とまっとうな SF で、拍子抜けというか最後のほうは普通に楽しめた。レイトショーだったのもあってか序盤は眠気が勝ってしまい、危なく熟睡コースだったが、なんとか睡魔も退けられた。
主演のショーン・コネリー、 007 シリーズの引退直後くらいなのかな? 奇妙な映画に出たもんだが、時代的にはこの手のファンタジー映画なんかに名のある俳優が出演するのもおかしくはないのか? というか、バキバキの売れっ子俳優がシリアスな映画にも MCU にも出演する、みたいな状況と感覚的には大差は無いのかもしれない。
英語版の Wikipedia を読んでいたら、当初はバート・レイノルズという役者が予定されていたが彼が降板、ちょうど仕事が空いていたショーン・コネリーがアサインされたという経緯らしい。2 人の写真を比べると、ダンディーな髭面中年男性という雰囲気が似てるので、ちょうどよかったんだろう。ていうか、方向性は、役者ありきではなくて役のイメージを重視したと確認できる。
ちなみに、監督のジョン・ブアマンは今日現在にて存命らしく、降板したバート・レイノルズ、代役のショーン・コネリーと、順に生年は 1936年、30年、33年となっているようなので、彼らはほとんど同年代なんだね。同英語版 Wikipedia の記載によると監督は『ロード・オブ・ザ・リング』の映像化がぽしゃって本作に取り掛かったらしいので、なんともはや。運命とは数奇なものだ。
作品の内容は、ポストアポカリプスというよりは、全体的には人類の進歩の袋小路が主題的で、身も蓋もないけれど、日本版タイトルの「未来惑星」が半ばネタバレしている。おいおいおい。
ざっくり 1970 年代の後半には決定的に有名な SF 映画シリーズが生まれまくってることを考えると 1974 年の本作は、いろいろな事情があるにせよ過渡期的な作品だったのかなという気もするが、実際にはどうなんだろう。小説分野でもの古典的な名作 SF が量産されている時期だろうし……。
しかし、この作品、カルト的な人気があるらしいけれども、テレビ東京の午後のロードショーや BS のどこかの枠でやってそうなくらいの雰囲気はあった(後述)。問題があるとすれば、衣装の奇抜さや、性的なテーマがやや前面に出過ぎているきらいがある点で、バストトップもチラチラ目に入るし。というかそれが本作の人気の限定性の根本的な問題だろうな。
“The gun is good! The penis is evil!”
という台詞が象徴するような作品を、気軽にお茶の間に流せるものではない。
全体的なビジョンとしてはよくある SF なものの、性愛だけを否定する作用が強く働いているのは印象的で、超未来では人類の性差自体が無くなるような類の作品はいくつか知っているが、性愛だけを強く否定、そのうえで、しかし、鉄砲というような男性的なシンボルを並べて肯定するのが、本作のユニークさというか、よくわからない。フロイト的なものをあえて対立させたみたいな話なんだろうか。なんだったんや。
ところで、クライマックスのシーンには、やはりカルト的な人気を誇るゲーム『リンダキューブ(アゲイン)』のエンディングが連想されたけれど、本作にインスパイアされたということはあるのだろうか。
とかとか。細かいところまで話題は尽きない作品ではあった。
で、下記のレビューを読むと、地上波で放送されることもあったらしい。
昔はこれが地上波で普通に放送されていたのだから精神的に豊かな時代です。
未来惑星ザルドス くそげーまにあさんの映画レビュー|Yahoo!映画
Amazon のレビューを読むと、水曜ロードショーだったとか。こうして情報をみると、なんとなく既視感があった気もするんだけど、何とも言えぬ。
2022年の年末に《奈落のマイホーム》を観た。
韓国の映画で、原題は『싱크홀』であるらしく、意味としては「シンクホール」ということなので、そのまんま「陥没穴」というやつですね。調べてないけれど、英題も “sinkhole” のままなんじゃないですかね。
《パラサイト 半地下の家族》の原題も単純に「寄生」だったと記憶している。英題も “Parasite” だったんだっけな。こう思うと、邦題って凝りがちだなとあらためてなるが、しかし流石に原題そのまんまでもなぁ…。
とも思ったけど、ビートたけしの『花火』とか、観たことないけどこのうえなくシンプルなタイトルだね。タイトル道も険しい。
で、《奈落のマイホーム》だがコメディ半分、ドラマ半分という体の作品で、《エクストリーム・ジョブ》なんかもそうだけど、韓国映画は日本映画よりも、この手のコメディが上手いですね。
実際に起きた事件をアレンジしているようだけれど―数年前はよく報道されていた気もする、そこは映画的な創作感があって、良くも悪くも B 級映画的な部分もあった。
韓国の都心からそう遠くない住宅街に新築のマンションの部屋を買った主人公一家だが、シンクホールの発生によって、なんとマンションごと数百メートルレベルで地中に落下する。主人公らとともに何世帯かが地下に取り残されるなかで脱出を図るパニック映画だ。《ポセイドン・アドベンチャー》などに似た感触である。
最後、どうなるのかなとハラハラとみていたが、なるほど、そうやって帰るんかと納得できたし、クライマックスもドキドキの展開だったので、よかった。話の展開を詳らかにしてまで語りたいこともそこまでない。
韓国映画、日本に近いからか逆に翻訳(字幕)が不思議なことになりやすいのかもしれない。主人公の勤める会社の部下たちも事故に巻き込まれるのだが、女の子が数歳上の上長である男の子を「代理」と呼び続ける。
この「代理」は、「課長」とか「係長」のような役職名らしく、たとえば同じシチュエーションで日本で撮影したら「係長」みたく呼ぶんだろうかと思わなくもなく、そこまで想像すれば違和感もないのだが、慣れないので、なんとも奇妙に見えた。もう少し別の文化圏だと、どう訳するんだろうか。
ということで、クライマックスが特に好きな映画ですね。ちょっとファンタジーっぽさとほろ苦い要素も織り込まれていて、これも悪くない。そんなにすべてが万事上手く行くわけもないので。
エンディングのシーンは、取ってつけたような雰囲気であったが、まぁこれもこれで。無くてもいいけど。