私はゲームはそこそこに好きだが、発売日に購入するようなタイトルなどは過去に片手で数える程度であって、どちらかというと他人のプレイを眺めているだけで満足であり、そこまで上手くもない。
で、まぁ2017年の3月に発売された『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(ブレワイ)は、その数少ないタイトルであって、3度目に公開されたプロモーションで Switch ごと購入を決意したことを今でも覚えている。
ちなみにゼルダシリーズも、リンクの冒険をちょっと触ったことがある、友達がプレイしている神トラを眺めていた、時オカだのトワプリだのの RTA は意味不明で面白いな、などと楽しんでいた程度だ。殊更、そこに魅力を感じてはいなかった。
おそらく 2017 年の 1 月頃に、まずはニンテンドー公式で Switch本体との予約が開始され、みんな苦戦していた。私はビックカメラの何回目かの予約戦に参戦し、実家の回線からアクセスとリダイレクトを繰り返していた記憶がある。で、予約が完了した。
長くなるので端折るけど、ブレワイの体験は無二のものだった。
はい。続編が発売されました。『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』です。いやー、こうきたか。続編と言えど、大きなテーマと、それに呼応した細部の手触りは実は変わっており、しかしまごうことなく続編であって、感服した。
前作のマップを踏襲して遊べるという贅沢さはどうだ
ネガティブな反応をしているひとも見かけたけれど、そもそもブレワイのフィールドだって遊びつくしていない。ブレワイ以前の物語も、エンディング後の物語も、気になる点が多い。生かし切られていない新アイデアもあるのでは。とかとか重ねると、続編もこの舞台を使わない手はない。
しかし、既存のマップだけでは満足せず、空はまだしも地底まで足してきて、それでプレイヤーが満足すると思ったか? お腹いっぱいだよ。
で、既存のハイラルの大地もそのままというわけではなく、空からの遺失物、地底側からの変動によって、作中で言うところの天変地異の影響で各地の様子が様変わりしている。いや、そら言われてしまえば、そのままなのだが、この設定によって既存のマップの小変がスムーズに受け入れられる。天才かな。
私は思うのだが、前作のマップが基本形を維持してメインで利用された例は、過去に、ドラクエ3 のアレフガルド(ドラクエ1)くらいしかないのではないか。部分的に再現されているということはあっても、そのままメイン舞台に採用されるということは稀でしょう。
もちろんそれは同じステージ(とあえて表現を変えるけど)をわざわざ新作でプレイしたいと思うプレイヤーは少ないという事実があるのだろう。今回は割と早い段階から同じステージを使うことは決まったと開発側からコメントが出ていたような気もするが(未確認)、それだけ自信があったんだなぁともなる。
裏返せば、これって偉く贅沢な体験とも言えるわけでしょう。ゲームに限らず、小説や映画だってそんなことはなかなかない。浅い知識で思いつくのは、シャーロック・ホームズシリーズが当世のロンドンを舞台とし、その街の各所で事件を解決した、というような設計くらいか。
フィクションは基本、同じ舞台を選ばない。これ鉄則なのでは。
という感じで、とりあえず現状 50 時間も遊んでいない中で特に感動したのは、まずはその部分だった。
あるいは日常系マンガとは。
ということで、ダラダラと文言を垂れ流す。言うまでもなく、これ、自分のなかでのギャグマンガの歴史という位置づけの話なので、マンガ史だとかギャグマンガ史の正統的な話ではない。なんならギャグマンガの定義もしらん。
で、私自身はギャグマンガとして意識して読んでなかったが、私のギャグマンガ史は『ドラえもん』に始まる。否定のしようがない。そしておそらくは『ドラえもん』で終わる。あるいは残念ながら。
ついで、藤子・F・不二雄の作品を漁るように読むことになり、雑に上げると『キテレツ大百科』『21エモン』などだろう、これらもギャグマンガなんだろう。小学生くらいのあいだの時期のことだ。傑作『モジャ公』との出会いが大きくなってからのこととなったのは、手軽に読めるバリエーションが書店から消えていたことが理由となる。いい時代になった。
しかし、小学館の学年誌や月刊コロコロコミックを買ってもらってはおり、すべての作品に目を通してはいたが、掲載のギャグ作品、ほとんど覚えていない。ポケモンの作品などを辛うじて覚えているくらいだ。『ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん』はまだプロ野球に興味もなかったので意味不明だったし、『学級王ヤマザキ』とか流行っていた気がするが、特別に面白いと思って読んだ記憶もない。
余談というか、少し前の世代になると思うが、『おぼっちゃまくん』『つるピカ ハゲ丸』はアニメで少し知っていたかな。古本で『のんきくん』を買ってもらったこともあった。方倉陽二も亡くなるのが早かったんだなぁ。最後に「ステーン」みたいになるコテコテのギャグマンガだと逆にわかりやすくて嫌いじゃないよね、面白いかは別にして。
ほいで、ギャグマンガとして自分史上初めてそれと認識して笑ったのが、『魁!!クロマティ高校』になる。時代が飛んだな。
つまるところ、中学生くらいの時分にいわゆる三大少年誌をほぼ読んでこず、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』『とっても!ラッキーマン』なども、たまに耳目にするくらいで、特に興味も持てなかった。で、時は飛んで、どこかのタイミングで親戚の家で単行本の『魁!!クロマティ高校』に出会ったんだな、これがギャグマンガと自意識が向き合い始めた時だ、大仰に言うと。
当時は池上遼一も読んだこともなくて、むしろ池上遼一のギャグマンガなのか? とすら思ったが、これはたちまちにパロディ画風だということには気づいた。が、これだけシュールで、ややダウナーなギャグに出会った衝撃は強かった。1巻の冒頭のエピソードで鉛筆を喰ってる同級生という謎のコマで腹が捩れるほど笑ったときの記憶はいまでも鮮明だ。
このあたりから週刊少年マガジン、ジャンプをちょろちょろと読むようになる。『ピューと吹く!ジャガー』を先に読んで、「マサルさん」に戻って、小学校当時の同級生がセクシーコマンドーで騒いだりしていたのを思い出すなどしていた。これらも面白かったなぁ。
とりとめがない。
ちょっと、ここで冒頭に書いたように「日常系」マンガを軸に話を広げたい。
言うまでもなく『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』に代表されるような作品だろうし、直近であればまさしく『日常』という作品もある。もう少し前だと『クレヨンしんちゃん』『あたしンち』なんかもか。言うまでもなく、いずれもアニメ化してヒットしている。いや、これらはもともと日常系マンガではなかったろうけど、逆説的に日常系の地位をアニメ化によって築いてしまった作品たちと言えるだろう。サザエに至っては4コマ漫画出身だし。
あるいは、ジャンプお得意の『ジャングルの王者ターちゃん』や『銀魂』のようなギャグあり、それなりに重厚なストーリーあり、日常回ありとが入り混じった作品をどうカテゴライズすべきなのかも迷うし、厳密にジャンル分けする意義もそこまででもないだろうが、いろいろと思いは巡る。ていうか、ジャンプ系は明確にギャグ単体としうる作品のほうが少ないのか? こち亀、アラレちゃんとかかね? 近年だと『磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜』はちょっと興味あるんですけどね、読んでない。
それはそれとしてだ。
ギャグマンガに限らずフィクションとは、物語が続く限りは、それなりに世界観に厚みが増していくもので、人物の関係や背後の設定があるいは作者が意図しなくても構築されていくもんだろう。そこに異論はないと思う。
いわゆる日常系マンガがジャンルとして定着し始めたのは、2000年くらいからっぽいが、細かい分析は置いておいて、これってギャグマンガの亜種のような存在だったんじゃないのかという推測は正しいだろうか? いずれは萌えや癒しに収斂していったにせよだ。
何が言いたいかというと、あらゐけいいちの『日常』というタイトルは、まさしくそれを意図してのこととすら思う。どうでもいいけど、はじめて目にしたときは、これで敢えて「ひじょう」とでも読ませるのかと思ったくらいだ。別にこのことを強く言いたいわけではないが、そういう推測を伝えてはおきたかった。
ということで、数多のギャグマンガの係累に目は通しているハズなんだが、野中英次を越して、うすた京介を越して、次にギャグ作品として意識して記憶に残ったのは『日常』になるかもしれない。この作品はアニメから入ったが、その後に漫画も読んだ。完結したと思ったら、最近になって再開していることも知った。つまり、いまなお、読んでいる。平たくいうとあんまり得意じゃない傾向の笑いなんだけど、クセになる作品ではある。
あるいは、『月刊少女野崎くん』も 2014 年のアニメから入って無事に原作読者になった作品だが、これもコメディ、ギャグマンガとして本当に秀逸だ。わたし、4コマ漫画はあまり得意ではなく、あるいは本作が正統な4コマ漫画かというと実はそうでもないかもしれないが、それでも本作は4コマという特性を生かしてギャグを取りにきてる、その手腕は見事だ。
こういうことは普段はあんまり思わないが、原作者(椿いづみ)の物語の作り方とかすごく気になる。読んでいてそういうことに気がいってしまう。サインください。
さて、ダラダラと書いてきたが、ちょっとだけ『モジャ公』全3巻という奇跡の傑作の話をします。
「宇宙に家出」という実に下らない前提からスタートしつつ、少年の冒険っぽい展開、そのベースとなるどうしようもないギャグ、ほんのりSF風味。こんな傑作は空前絶後で「自殺集団」「天国よいとこ」といったSF味の強めの秀作もさながらに最強にバカバカしい「アステロイド・ラリー」の笑いと感動は、唯一無二で、これは笑いの殿堂入りです。
いわゆる「すれちがい」系のギャグが展開されるのだが、これがどこまでもしょうもなくて、神々しいほどにバカバカしい。この展開を漫画で表現するという天才の所業を見逃してはならない。いや、この傑作をうまく説明できない自分の非力さに原稿が濡れている。とにかく、この駄文を読まなくていいから『モジャ公』を読んでくれ。
だが、『モジャ公』といえば『バビロンまでは何光年?』を忘れちゃなんねぇんだ。道満晴明は直球のエロも描くし、話の組み立てからして秀逸な作家だけど、本作のベースはあきらかに「モジャ公」であるし、どちらかというとシュールさが勝つSF作品であるが、しかしシニカルな笑いがベースになっていることは確かで、ついでにこれも読むべきであって、大変に面白いのである。
いや、絶対にもっと自分史に爪痕を残したギャグマンガは在るのだが、とりあえずパッと思いつくのはこの程度なので今回はここまでにする。ちなみに、少なくともこの記事でピックアップして面白いとした作品は単行本で買って読んだ。一部は古本だったりしたけど。
おっと『落第忍者乱太郎』を忘れていた。あるいは、尼子騒兵衛の『はむこ参る!』は作者のマスターピースではないだろうか?
2023年の年始、刑事姿をした阿部寛への飢えが止まらず《麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜》を観た。この作品、原作やテレビシリーズはまったく知らなかったが、この次作の《祈りの幕が下りる時》は劇場で見ていたので大体の枠組みは知っていた。
日本橋の橋の麒麟像の前で腹部に刺傷を負った男性がたどり着き、折り鶴を捧げて亡くなった。この男性は誰に? どうして? 殺されたか。という、事件を追う。
並行して、その容疑者らしき男が事故にあって亡くなる。つっても物証があるくらいで、動機は見当たらず、なんなら金銭目的ということになりかねないが、でも…、みたいなところを足を使って真相を求めていく。
キャストは豪華で、原作が2009年くらい、TVドラマが2010年、この映画が2011年と、凄いダイナミックに作品のメディアミックス展開が進んだようだが、当時の売り出し中の俳優たちが軒並み出てたんじゃないのという豪華さがある。今となってはかなり懐かしい顔も少なくない。
原作の出来か、映画の出来かは判断できないが、映画としては次作の《祈りの幕が下りるとき》のほうが面白かったかな。今作もいろんな人間模様が織り交ぜてはあるが、映画としてはとっ散らかった感じが否めない。
事件自体も小粒というと語弊があるが、焦点は亡くなった男とその息子の家族模様で、そこに主人公の親子関係がオーバーラップするという仕組みだが(次作も一緒ね)、本件の親子の問題はなんだかなぁ、こういうことはありうるとは思うんだけど、全体としたとき、悲しい事故の継ぎ接ぎという以上の感想が生まれない。
そこが醍醐味といえばそうなのかもしれない。
被害者となった父を中井貴一が演じている。私、あんまり中井貴一の出演作は見たことが無くて『梟の城』のほかはミキ・プルーンの印象ばかりなのだが、役者としては嫌いじゃない。
というわけで、本作の好きなシーンだが、やっぱりこの父が日本橋で最期の折り鶴を捧げる箇所がよい。
マイケル・ダグラスが主演の《ゲーム》を観た。
監督:デヴィッド・フィンチャー、なんだかんだ TV での洋画の放映が多かった時代のイメージが強く、いくつかの作品は TV で見た記憶がある。本作も御多分に漏れず、途中で鑑賞歴があることに気づいた。
フィンチャー作品のファンからは微妙という本作の評をチラッと見たけれど、原因としては、現実とフィクションのせめぎあいにおいて、フィクションがちょっと勝ってしまっているからだそうだ、理解が間違っていなければ。なるほど。
《トゥルーマン・ショー》なんかも連想される作風だが、そうなると関連作品への妄想がとっ散らかってくる。《トゥルーマン・ショー》の元ネタはフィリップ・K・ディックの作品らしいが、《ゲーム》には元ネタとなったような作品はあるのだろうか。気になるけれど、ざっと見る限りで情報はわからず。
あらすじ。個人投資家(銀行?)として親からの資産を殖やしている主人公は、孤独な生活を過ごしている。喧嘩別れした弟から人生を変えるゲームに参加しないかと誘われ、なんかんやと誘いに乗ってみたら偉い騒動に巻き込まれる。藤子・F・不二雄の画で見てみたい作品でもあるな。
しょーもない感想として、なんとなく思うのは、これだけバカげた遊びの最後の最後、大勢に囲まれ、逃げ隠れのしようのない状況でネタ晴らしを食らって、それを笑って迎えられる主人公の胆力に目が留まる。私だったらその場で気絶するか、さすがに不貞腐れてしまいそうだ。まぁ、お話だからいいのだけれど。
好きなシーン、面白いなと思ったのはタクシーで襲われたのち、メキシコだかの墓地に置き捨てられたあたりの状況の描写だ。「まさか冗談で海外に置き去りにする? しかも一文無しにまでして」というような疑問が浮かぶところで、事態が現実なのか否か、鑑賞者に更なる揺さぶりをかけてくるステップだ。
どうやらなんとか国境を跨いで(背後ではもちろん手回しがあったにせよ)、誰でも乗れるバスを乗り継いで、クタクタになって我が家まで戻ってくるが(制作の都合として詳らかには描写できないという条件もおそらく存在するだろう)、これがより、このゲームの展開の突拍子も無さを際立たせていた。
ただまぁ、主人公の人間性というか、張り詰めた生き方が今後に渡って変わっていくかどうかはわからないんだよな、これ。
2023年の年始に《護られなかった者たちへ》を観た。
単に配信のスタートが理由か、東日本大震災の関連映画としてか、あるいは両方か、よくわからぬがリコメンドされたので見た。刑事役の阿部寛に飢えていたというのも本音だ。2021年の映画だが予定では2020年の公開だったようで、この辺は《天間荘の三姉妹》と似たような事情と思うが、あちらと同じく、時代設計も現代に沿うように原作から後ろにずらされているようだ。311関連作品も大変だ、というくらいには距離をとって見れるようになってきた。
ミステリー調で進むので半ばミステリー作品でも間違いないのだろうが、震災と絡めつつも生活保護の実態に迫るような問題提起が為されるので、タイトル通り、社会派のも部分もあり、まとまりがないとは言わないが何の作品だったのかピンとこない面もある。これも原作を読むとまた印象が変わるんだろうナァとは思いつつ原作者の Wikipedia を読んでみると、こういう作風らしいこともわかる。
クレジット上の主人公:利根泰久(佐藤健)と舞台回しとしての主人公:笘篠誠一郎(阿部寛)は、両者ともに生きることに疲弊している感が強く、その様子を体現したかのような眼の演技力はよかった。ひくつく左目の下瞼が印象強い。遠島けい(倍賞美津子)の発する強烈な包容力も魅力的であった。倍賞姉妹、凄いんだなとあらためて感服する。円山幹子を演じる石井心咲(過去編の子役)から清原果耶(ほぼ現在から現在編)への接続もよかった。
物語、残忍な殺人事件が起きているよというトピックが提示されつつ、震災を被った彼らの過去や現代での苦労なんかも手厚く語られる。これが人情噺っぽさを強めている面もあって、上記に絡めて本作がどういう作品なのか、ますます謎めかせる結果になっている。別に悪いこっちゃないし、2時間程度でこの内容を違和感小さく映像に纏めるのは寧ろよくやってるって話ではある。
ミステリー的な部分、これ消去法で犯人がわかってしまうのは原作由来なのか、多少は簡略化されたであろう映像作品としての本作のマイナスポイントなのかは判断できないが、とはいえ、事件のキッカケとなる象徴的なシーンにおける眼の演技がこれもよくて、色々とこだわりが生かされたなというのは感じる。
事件の被害者となる2名、三雲忠勝と城之内猛をそれぞれ演じる永山瑛太と緒形直人もまた絶妙でね。瑛太のあの小癪な人間像の演じ方、職人の粋だよね。地道ながらもしょっぱさが滲む中間管理職然とした雰囲気を纏った緒形直人も最高や。
で、社会派作品としての部分について、どう考えたらいいのか。
直近だと、大学生(および当人の属する世帯?)が生活保護を受けられないという問題がメディアを通じてクローズアップされていた。
同じメディアだが、下記のような記事も直近で目に留まった。
国はこの年、生活保護費のうち、食費や光熱費など日常の生活費にあたる「生活扶助」の基準額を引き下げることを決めた。5年に一度の定期的な見直しに伴い、「08年以降の物価の下落が反映されていない」として15年まで断続的に引き下げた。減額幅は、最大で10%となった。
「最低限度の生活の具体化の観点からみて、判断過程や手続きに過誤・欠落がある」として減額決定を取り消した。全国29地裁で起こされた一連の訴訟で、減額決定を取り消す判決は初めてだった。
で、また直近の記事だが、大阪高裁に及んだ訴訟は地裁の判決を退けたらしい。
そのうえで、リーマン・ショックで国民の生活水準が急速に悪化した08年以降、基準額は据え置かれたことで生活保護世帯の可処分所得は一般世帯と比べて実質的に増えており、引き下げはその不均衡を是正するためだと認定した。
https://mainichi.jp/articles/20230415/ddn/041/040/005000c
記事中では専門家がリーマン・ショックだけを焦点にしてるのは問題では、という旨を説明しているが、まったくその通りに思える。というか2015年までの減額措置についての訴訟が2022年の現行でグダグダ続いている時点で、これ行政か裁判の不手際レベルなのではという視点もあるわけで。
と、一筋縄ざっくり解決というわけにもいかないわけだが、個々の具体的な事例については最適な対処方法を見つけられるケースは少なくないとは思いたい。問題は、この問題にコミットする社会的なリソースが足りてない、関心が共有されていないというあたりなんだろうか、総論的に過ぎるけど。
あるいはもっと直接的なアプローチとしては、生活困窮者を支援するNPOなどに参加なり寄付なりするなどか。調べてみようかな。
2023年の年始に《サウンド・オブ・サイレンス》を観た。
マイケル・ダグラスを再認識した記念すべき作品になった。昔は TV で放送される洋画でよく名前を見たけれど、幼く、俳優を意識するまではなかったので、いい機会にはなった。この映画が配信サービスでサジェストされた理由は《アンディ・ガルシア 沈黙の行方》を見たからだろう。
ということで、精神科医が主役であって、なんかわからんが質の悪い精神科病棟に幽閉された若い女の子のカウンセリングを元同僚だかに依頼される。この時点で主人公は既に犯罪へ加担させられかけており、つまるところ強盗団の隠し財産を知るのは、この正気を失った少女だけだという事実と直面するわけだ。
人質にされたのは骨折して自宅療養中の妻と、幼児の娘だ。この慌ただしい設定と状況が端的に描かれる序中盤は、フィクションなりに展開が纏まっていて上手い。病棟の少女は異常を演じているだけだという見立てを得るまでの展開も悪くはない。だがやはり徐々にして、彼女を連れだして事件解決に奔走し始めるあたりから絵空ごと感が強まり、なんだかなという印象になってくる。が、見れなくはない。
オチにかかわる設定として重要なのは、暗号を知っていた少女の父は、無縁仏としてハート島に埋葬されたという点だ。ハート島って、ニューヨークの片隅にある小さな島ですけど、長い歴史に渡って後ろ暗い役割を背負わされてきたっていう曰くがある。
この島が、フィクションなどのアイデアでどれだけ活用されているのかは知らんけど、安易に扱われるべき対象であることは確かだろうし、いわゆるダークツーリズムの対象としうるロケーションなんだろうなと、いろいろとイメージされる。映画本編よりもこちらに気が向いてしまった。
まぁ、なんのかんのあって事件は解決するのであった。
皆さんの感想を読んでいて知ったのだが、この映画で活躍した病棟に幽閉されていた少女役の俳優さんも、娘役の俳優さんもどちらも若くして亡くなっている。なんというかただ寂しいという以上に言えることも無いが、ついこの前に公開され、鑑賞した《逆転のトライアングル》のヒロインの女性も若くして亡くなっているし、偶々とはいえ、なんかね、残念だね。
ちなみに本作の原題は《Don’t Say A Word》というらしく、似たような気がする別のタイトルに地味に変更されているが、そのまま邦題にするには語感がイマイチな気はするのでわからなくはない。
2023年の年始、配信サービスを漁っていてサジェストされた《ウォンテッド》を観た。
会計処理かなんかの事務作業に従事してる冴えない男が主人公だ。実は彼は、西洋に古くから続く暗殺家集団のエースの息子で、暗殺の才能が申し分ないということがザックリと語られる。
で、その彼の親父が殺されただの、お前の命も危ういだの、なんやかんやあって裏世界の抗争(というほど大したもんには終始見えない)に巻き込まれる。
この暗殺家集団は「フラタニティ」を名乗るが、世界を正しい道へ導く全自動織機だとかがアメリカはシカゴの外れにある工場に鎮座している。なんでや。ヨーロッパからわざわざ輸送したんか?
動力もなにも不明のファンタジーな全自動織機は暗殺対象の氏名を暗号で示すのだが、なんでわざわざ暗号化しているのかも、サッパリわからない。ツッコんでもキリがない。このマシンが登場した時点でようやく本作の方向性がわかったけど、まぁおもしろいよ。大したことは無いけど。
私からしたら、この映画のおもしろさは、2点あった。
- うだつのあがらない人間の根っこからの意識改善する
- なんか訓練を積むと銃弾の弾道が滅茶苦茶に曲がる
負け犬根性が根を張った主人公、こんなんじゃ一流の暗殺者、もとい戦う人間としてやってけません。ということで、性根を叩き直す展開が中盤の入口にある。実際のところ本作でヒートアップするのは、この部分が最高潮といっても的外れでもなく、なんとなく《ファイト・クラブ》を想起させられるテイストがある。といっても、《ファイト・クラブ》はあまり内容を覚えていないが、とりあえず身体性(直截な暴力)でもって立ち向かうのが大事だよっていうメッセージ性ね。これがおもしろい。
で、もうひとつだが、この作品世界ではめっちゃ鍛えると曲線銃撃ができるらしい。選ばれた戦士(あるいは限界まで鍛え上げられた場合)のみかもしれない。とにかく銃弾が曲がる。常識的に考えて有り得ないが、なんか雑に調べると向こうの TV番組ではワザワザ検証したケースがあったらしい。が、もちろん、曲がらない。
この端的だけど、大胆な嘘が本作のスパイスとして奇妙にうまく作用していて、鍛え上げたとて超人というわけでもない登場人物たちのアクションにエッジを与えている。巧いのである。
ということで、上映当時にどれだけ話題になったかはしらんけど、思いのほか発見が多くて面白い作品だった。なお、これは全然気づかなかったが、完全に《マトリックス》フォロワーでもあるようで、つまるところアレンジがうまい脚本だったのだなとも。原作はアメコミなんだもんな、これ。
2023年の年始のどこかで《孤狼の血》を観た。配信がちょうど開始されたのか、犯罪映画の系列でおすすめに表示されたか。本作、立て付けはヤクザを相手取る刑事の映画ではあるけれど、大枠ではヤクザ映画なんでしょうか。このへんの作品の系譜というのが地味にわからない。先に《すばらしき世界》を見ちゃってるので、変幻自在の大俳優:役所広司って凄いなってなりますな。
同主演の松坂桃李は、2017~2019 年の映画ではよく見た。《ユリゴコロ》《不能犯》《居眠り磐音》《新聞記者》かな。今回の《孤狼の血》もこのリスト中に収まる時系列らしく、2018年の映画だ。いや、滅茶苦茶に出演してるなぁ。脂がのっている俳優であることだ。
で、役所広司の演じるベテランのマル暴刑事:大上と松坂桃李の演じる新人配属の日岡のタッグが広島は呉の抗争を止めんとする話、といっていいかな。
暴力や違法行為上等で捜査を進める大上についていけない日岡だが、なんやかんや尊敬できる面を見出していく。一方で、抗争-というか実質は片方の組が仕掛けた殲滅戦なんだけども―を止めようと大上がギリギリの交渉に出るものの失敗。港で水死体として発見される。悲しい。
この大上の最期の交渉はワンカットがチラッと映されるくらいで、どういうやり取りが為されたのかは描かれない。原作はどうだったんだろうかとも思うが、大上が最期に受けたであろうリンチを含め、そこは描かないほうが鑑賞者の想像力をかき立てる仕組みにはなっていたのだろうな。
好きなシーンはいくつかあって、大上亡き後に証拠を探しに養豚場の砂場を必死に宝探しする日岡。そこで発見する痕跡。養豚場の若旦那をボッコボコにする日岡。ここの展開のグロテスクさというか、作中の暴力表現でもっともエグかったのはここじゃないのかな。日岡もまともなキャリアを捨てたなという重要な部分であった。
大上の無念と復讐を果たすために準備を進める日岡。このとき、ピエール瀧の演じる右翼団体のリーダー:瀧井と相談をするシーンがある。このロケーションがいい。海上釣堀でいいのかね、映画のために用意したセットでもないのだろうけど、島状になった木材のうえで 2 人はなんやかんや相談している。いい。広島、行きたいなぁ。
で、《孤老の血 LEVEL2》も配信されているけれど、こちらは未だ見ていない。
原作は 3 部作で続編にも日岡は出るようだが、映画の続編はオリジナルらしく、時系列的には原作 2 部の前のことになるようだが、トレーラーをみると、アクション映画のような派手な箇所がよく目に留まる。鈴木亮平の演技が評判だが、どうなのかね。
森田剛の怪演が光るという《ヒメアノ〜ル》を2023年の年始に観た。
総論としては、ムロツヨシが印象の大きい。彼自身の存在感という意味でも、与えられた役柄、その演技という意味でも、とぼけ感を大きめに出したのだろう灰汁の強さが頭から離れない。ちょっと不愉快ですらある。彼がもっと普通だったら、この作品ももっと普通だったのかもしれない、それでいいのかも想像しづらく、つまりムロツヨシの映画になってしまったと言いたい。
原作の漫画は古谷実ということで、『行け!稲中卓球部』が 1 番有名だろうか。ちゃんと読んだ作品はなくて、望月峯太郎っぽい絵柄だよなと思ったら、Wikipedia に当漫画家のファンであるという情報が載っていた。と同時に、原作から映画化に際しては物語と設定が簡略化(と言っていいのか)、改変がかなり為されているようで、作品体験の印象も大きく異なりそうだ。
うーん、原作を読んだ方がいい気がしてきた。
包丁を持ち出せば油断している警官には勝てるけど、ヤンキー2人相手にはカッターナイフでは勝てないというのはリアリティがあるのか、ないのか、それがよくわからなかったけど、まぁいいか。
映画のラストが何気に好きで、原作だと生来のおかしな人間だったらしい森田正一が、映画ではイジメをきっかけに壊れたという点が大きく異なっているらしく、逃走劇の果に彼が見たのは幼い頃の記憶なのだった。ハンドルを誤った原因もそこに起因していて、こういうのに弱いんだ……。
ムロツヨシがなぁ。ムロツヨシ自体は好きなんだけど。
あと、これは余談だけど原作の 2008 年、映画化の 2016 年と本作の主人公:森田のようなキャラクターの扱いというかイメージ像も割と変遷が大きいような気がして、そういうのもおもしろいかもな。望月峯太郎を引き合いに出すと、『ドラゴンヘッド』のノブオのような人物が 2000 年の作品だったとかね。
ちょっと原作を読む機会をどこかで設けられないか気にしておく。
2023年の年始に《マザー!》を観た。原題は 《mother!》だそうだ。そのまんまだけど、もしかしたら邦題はギリギリまで決まってなかったんじゃないの。「母さん!」って感じなのかね。
2017年の映画で、日本では2018年に公開予定であったが、配給会社の判断で公開が中止されたとか。もともとグロテスクな映画だという話は耳にしていたが、配信されていたので、なんとなく年始の暇なときに見ようとなった。
草原の一軒家、異様に広い間取り、内装は中途半端、DIY で奥さんが家屋を整えようとしている。夫は作家のようだが、ご多分に漏れずスランプ状態に陥っている。ちなみに夫婦間の関係も夫の不能により途絶しているらしい。
ある晩、どこからも来るわけがない訪問者を迎え、その男を泊める。そのうち、彼のパートナーという女も来訪し、仲たがいをしているという訪問者の 2 人の息子とやらもやってくる。弟が死ぬ。
この時点で、アベルとカインと判じたので、聖書の引用と意識できたが、全貌はどんなもんなのか。個人的にここから先は、そこに意識が向かなかった。だが、以下にリンクした解説ブログを読んだら、全体像がまるで聖書の引用ともとれるようだ。気づかんなぁ。
本作では唯一、夫が家から外出するシーンがある。死ぬ弟(訪問者の息子)のために病院に行ったらしいが、この描写が何を意味したのかわからない。というか、ここは主人公の孤独と不安を強調する間だったんだろうけど、違和感は大きい。
で、訪問者の息子の葬儀がどうのこうのでトンチキな騒ぎがまた起きては過ぎる。
どっちが先だったか忘れたが、このへんで妻は子供をその身に宿し、夫はスランプを脱し、創作熱を取り戻し、過去の名声を再び引き寄せるのであった。と、ここまででおそらく 3 幕構成で言うところの 2 幕までが終わる。
で、ギリギリ戯画的で踏みとどまっていた本作の描写は、ここから一気に阿鼻叫喚のパーティーへと変貌し、ワケわかめになる。耐性がないと見れないタイプの映像になる。子は生まれるが、ほとんど同時に死ぬ。
この家の地下にある隠された部屋にはなにかしらの秘密があった演出はあり、ラストに一端が明かされる雰囲気だが、ぶっちゃけどうでもいいようでもある。
タイトルやオチから察するには、人間のあらゆる活動の不毛さというか、そのなかで何を見出すかというテーマがあるような気もするが、解説ブログを読むと環境問題への問題提起だそうだ。ひゃー、さすがに気づかんて。
うーん、夫が神であったとして、では妻はいったい何だったのか。結局、この作品が “mother!” であることの意味は何か。
夫の引き起こす事件、それに伴って訪れる妻(母)の喜怒哀楽、主人公はいったいどういう存在だったのか。彼女こそが結局は、作品内では唯一まともな人間として切り出されるけど、果たして鑑賞者として、あそこに留まることを選び続けた彼女に共感できるのか。共感する必要があるか?
所詮、人間は神(夫なり? 家なり?)から離れられないという前提であればいいんだけど、では最後に火を放つのはなぜ彼女でなければいけなかったのか。そしてなぜ夫はそれをリサイクルしようとするのか。夫は神ではなくね? となっちゃう。
神の創造に母的ななにかが関わっているとすれば、みたいな想像もできるんだけど、そうすると、この時点で、いや当初から聖書の見立てなんていうのは下らない画作りでしかなかったという面も考えられる。大体、神は無から世界を作り出したわけだし、そこに男も女もない。
楽園に闖入者が来ることを拒めない神を神足らしめているのは、別に何も無さそう。
というわけで、結論として、主人公:母を「地球」と捉えると、いいかもね。
地球が望もうと望むまいと生命は生まれ、繫栄し、最終的には地球を食い尽くさんばかりの勢いで拡がる人類がいる、という構図が、たしかに今作の描いた状況そのものかもしれない。
そうすると、やはり聖書を引用する展開は壮絶な皮肉であり、かつ物語全体に決定的な意味は与えていないように思え、エンターテインメントとして楽しむ分には意味ありげなそれらの状況は面白いものの、それだけなので、意地が悪いとも思える。
このとき、夫は神というより人間性の化身なんだろうな。となると、ラストシーンは人間は何度失敗しても母を利用する、あるいは協調していくことを諦めないぜ、みたいな半ばポジティブなメッセージはありうるかもしれない。
嘘だろ。