映画《愛がなんだ》を、ひと月ほど前に観た。都内などではそろそろ上映も終わるのではないだろうか。なかなか手ごわい映画で、この駄文をそれなりにまとめるのにも苦労した。いや、まとまってないです。
まず、タイトルがいい。「愛がなんだ」ってなんなんだ。「愛なんていらないんだ」という意志表示なのか、なんなのか。よくわからないけど力がある。角田光代の原作は未読だが、とにかく力強い。
だが本編には、愛はほとんど関係ないように思える。あえて言うと、しょうもない恋の話でしかない。そういう意味での「愛がなんだ」なのかもしれない。
その恋にまつわる本話だが、共感する、笑う、痛々しい、という反応くらいしかできず、特筆すべきこともないようにも思えるが、全体感としては、ほどよくまとまってはいる。鑑賞中、これら3つの感情が絶妙に交錯した結果として、鑑賞後の感覚は 決してよくはなかった。これはもちろん鑑賞者次第ではあろう。ただ、そういう意味で、怪作とも言えるのではないか。
痛々しさを想う
主人公、ヒロインのテルちゃんだが、20代も半ばに至って盲目的な恋をしている。たとえば、連絡の途絶えた男(マモル)から突然の着信があり、バイトの面接を勝手に中断してまで喜んで応答に走る描写がある。劇場では笑い声もきこえたが、個人的には痛々しすぎてツラかった。可哀そうというのもあるし、そういう心理はわかるという共感もある。そういう感情、印象をひっくるめた結論として、本作、ただツラいシーンが多い。
という感じで、個人的にはさまざまな描写、シーンでの痛々しさに負けた。笑い飛ばせるほどコメディとしての演出がほどこされているわけでもなく、真摯に、あるいは気持ちよく共感できるほど美化されているわけでもないテルちゃんの描写、絶妙な生々しさが最後まで強烈なインパクトを残している。
つい笑ってしまう
笑えるところもある。だが先述のとおり、どこまでコメディを狙っているのかよく分からないところもあるし、笑いどころとして微妙なシーンも多い。
さきほどの電話の件のように、テルちゃんの空回りが1人でやっていることの範疇なら百歩譲って笑ってしまっても違和感は少ないように思えるのだが、逆に相手のいるところでの空回りは、半ば嘲笑的になってしまう。恋相手のマモルが「付き合ってらんねー」みたいな態度で去っていくところで笑うのは、人間として正しいのか? みたなモヤモヤとした自問が発生する。
かたや、湖畔の別荘でテルちゃん、マモルを含めた男女4人のメンバー(残りはナカハラとスミレ)が、参加者ナカハラの恋模様を談義するシーンがある。スミレ( マモルの想い人である )がナカハラの片思いを談判するのだが、このシーンのナカハラのやるせなさは、共感的な笑いが個人的に生まれた。しょうもない恋の、やりどころのなさがほどよいフィクションになっていた。
なんなんだろうねぇ。塩加減だねぇ。
ナカハラの恋のゆくえ
テルちゃんとナカハラは見込みの薄い恋をしている同士として読み取れるのだが、ナカハラは紆余曲折あって、恋を断ち切るほうに動く。
この結果、映画の演出としては、彼にとっては報われる(かもしれない)雰囲気のエンディングを迎える。彼はまともな人間になれそうだ、救いのない恋愛地獄から抜けられるかもしれないという安堵がある。ナカハラには幸せになってほしい。
テルちゃんの恋のゆくえ
終盤、テルちゃん本人から彼女の恋愛観についての独白がある。これも捉えどころがなく、どう楽しんだいいのか分からず、最後のシーンでちょっとビックリする。これは、救われた終わりなのか。笑いなのか。
非常に毒がある。いやぁ、笑えないっすよ。このシーンを含めたアレコレを深堀していくとそれだけで長い記事になりそうだけど、そんな気力はない。ナカハラと対比するとしたら、テルちゃんは終始幸せだったのかもしれないということだ。
このエンディングは、激熱である。
その他のこと
鑑賞後、ポスターなどに採用されているキービジュアルをあらためてマジマジと見たが傑作であった。マモルの表情が絶妙で、最高に笑える。
監督の今泉力哉が、自身の映画一般についてだが「少し笑えれば、とか、それくらい。」という旨のツイートをしていた。このツイートは現在はおそらく削除されているが、なるほどそういう感覚 でいいのかも、という確認はできた。
追記:20191224
早稲田松竹での上映があったそうで、今泉力哉 監督のトークショーも開催されたらしい。そのレポート記事があがっているので読んだ。以下に引用したい。私も触れたが、映画のポスターに使われているカットは実際に撮影したシーンらしい。この他についてもいろいろとおもしろいインタビューで、なるほどなぁということが多い。
あのシーンは、ちゃんと動画でも撮っています。二人が出会った結婚式の二次会の帰り道で、テルコのハイヒールが折れて、守がおんぶして帰っているというシーンで。しかもその「いいよ、おんぶするよ」って言われて「いいよいいよ、重いから」って言って。でも「いや、大丈夫」っておんぶしたら「あ、テルちゃん、やっぱりあれだね(重いね)」みたいに守がテルコをいじって、「あ~だから言ったじゃん。重いでしょ~」っていちゃついているシーンです。
http://wasedashochiku.co.jp/archives/3014
紙の書籍で読書をする習慣をひさびさに復活させた。
えーっと、どこかで読んだのだが、線を引くメソッドは読書の反復方法としてはあまり意味がないらしい。たしかに重要だと思った箇所はハッキリするが結局のところ振り返りの時点で再考する必要があるし、それは初読のときと異なる発想になることもあるだろう。なるほど。まぁ、文意をつかむための補助線にはなるだろうけれども。
というわけで、付箋(ポストイット)に短文でメモを残してそのページに貼っつけていくというメソッドを試している。
この方法の難点は、ペンまたはポストイットを忘れたときに読書のモチベーションが地球の反対側まで到達するほど低下し、最終的には生きている気力を失う結果になることだ。
解決方法だが、ネックホルダー様のツールか、ベルトに装着するポーチみたいなものがよさそう。だが、そこまでするか? という気持ちもある。しばらく試行錯誤したい。
Twitterで話題になっていたが、傘を横持ちした人間が人の群れのなかに居た結果として振り回された傘の先端が子供の頭部に直撃しかねず危険であるという話があった。なるほど、なるほどなるほど。当該のツイートは男性を指摘していたが、個人的にもこれは男性のほうが多いように思う。横持ちしていようがいまいが、傘を振り回すイメージは男のほうが強い。なぜか。
まぁいい。傘の横持ちについてだが、これは傘の持ち運びしづらさが要因の一つとしてあると思う。振り回すタイプの人間についても同様で、むしろあの鉤状の持ち手は本当に有効なのか。あれは手首なり二の腕なりに掛けることを想定してるのだろうが、そんな使い方しているひと、たまに見るくらいじゃない? もっと有効な持ち手はないのか?
まぁいい。さて、私なりの解決策だが、横持ちするように傘の中央あたりを掴んで、そのまま先端を肩のほうに寄せればいい。腕にピタッとくっつけるかたちだ。これが一番歩きやすい。
傘を振り回しがちな男だが、これは凄く動物っぽいなと思う。なんなんだろうね。
母の日、父の日というのがあり、5月6月にやってくる。小さい子供であれば、感謝のなにかを何かしらのなにかで示せばよかろう。成人はどうだ。両親との関係にもよるだろうし、まぁぶっちゃけどうでもいい。ていうか、誕生日のことを考えると祝いごとが多いなとなる。なんなんだ、これ。
祝いごとで騒ぐのはキライではないので、何かしらしたいと思う。ここ数年来しばらくは、Amazonのセールで適当に見繕って送っていたが、今回はなんとなく広告にヤラレタのだったとおぼろげに記憶しているが、高島屋オンラインを利用して、それぞれに贈り物を見積もった。大したものではない。だが、微妙にセンスが問われる。そういうのもキライじゃない。
雨天が続く。
本日の11時頃、NHKのニュースにより関東地域も梅雨入りしたという情報を得た。朝、駅に向かって歩いているとすれ違うひとが傘を携えていた。なるほど、空は曇っていたのでいつからか雨が降るのだろうとは思っていたが、梅雨入りだったとは。
出掛け先に傘を常備していたので、お昼はこれを差した。湿気もなかなかのもので、冷たいペットボトルから結露が起こる。ここ数年は、それ以前の数年間よりも梅雨らしい雨模様がかえってきている気がする。
西日本では、大雨被害模様となっているようだが、水不足になっていた地域もあったようで、いずれにせよ危険なことはなるべく少ないほうがいいが、水不足も避けたい。
まとまった話題がない(作れていない)ということなのだが、先日の話題の続きだ。てきとうな読書灯をググって探す。「おすすめの読書灯 Top 20」などという記事がみつかるが、読む気にもならない。Top 10でも多いくらいで、5つくらいなら見てもいいかな? という感触だ。
1つの個人ブログでたったひとつの読書灯を紹介しており、これは悪くなさそうだ。どういうわけか、ほかの記事ではリストアップされていない。これを購入するかどうかはまだ分からないが、とりあえず第一候補となった。
寝る前に部屋の灯りを全開にしたまま読書したいわけでもない。したがって読書灯を設備しようと思うのだが、適当な商品が見つからない。
よって読書しない。そんなことが許されるだろうか。
友人に勧められて鑑賞した。2017年の中国映画《芳華-Youth-》だ。
よい映画だった、と言い放ってしまっていいのか、よい映画だった。中国映画は《天安門、恋人たち》以来かな。失われた青春を想う映画が多い。
舞台は1970-80年代の中国は共産党が人民解放軍の一組織である「文芸工作団」(以下、文工団)に所属する若者たちの青春劇だ。文工団というのは、演劇やら演奏やらで本隊を鼓舞するにぎわし隊のことのようで、つまるところ安全なところで仕事をするひとたちだ。
これに後半、中越戦争が絡む。
感想を述べるうえで押さえておきたいのが3名。劉峰、何小萍、小穂子で、劉峰は部隊の「縁の下の力持ち」、何小萍は「上京してきた哀れな子」、小穂子はストーリーテラーだ。その他、えらい政治家の子息などで文工団は構成されている。
戦争の現実、青春の現実
先ほど青春劇と述べた。そのような作品であるし、そのようにしか形容しようがないのだが、そもそも青春劇とはなんだ。以前、別の場所で考えごとをしていたときに思ったのだが、あるべき青春劇というのは登場人物、主人公が、過去を振り返って「ああいう時代があったなぁ」と前向きに回想できるような時期の物語でなければならず、そこに鑑賞者自身の青春の記憶や憧憬が紛れ込んでしまうのは悪手ではないか。
という考え方を使うと、《芳華》も青春劇とは言いがたく、映像の美しさが皮相的になる。
さて、劉峰と何小萍は、いずれも部隊の中心となれる努力をし、ポテンシャルも持ちあわせており、チャンスもあったが、人間関係のもつれから文工団を退団し、配置転換されていく。どこへ行くのか。前線しかないわけです。
もう、説明する必要もないんですよね。バキバキに美しい映像だからって、誰がごまかされるかって話で、こんなにエグいことが表現され、私たちはこれを享受していていいんでしょうか。
劉峰と何小萍は、それぞれ別々に戦地にて活躍しますが、どちらも大きく傷ついて帰ってきます。仲間の死をたくさん見送ってきました。一方の文工団の面々といえば、ストーリーテラーの小穂子もふくめて、戦後、文工団解散後もちゃっかり社会的にグッドポジションを維持しながら彼らなりに生き抜いていく。一概に悪いことではない。
だが、残酷すぎるでしょ。救いはあるのか、ないのか。
芳華-Youth-とは
タイトルとしては「かぐわしい花」という意味だろうからして「Youth」にかけているのかなと思ったが、どうやら芳華とは「花の香の様な歳月」という意味らしい。
青春について、しつこいようだが、私の解釈では、劉峰と何小萍にとって文工団での思い出は青春たり得ず、小穂子などのメンバーにとっては青春であった、となるのだが、どうだろうか。
あるいは、ストーリーテラーである小穂子がエンディングでこぼす言葉が決定的で、劉峰と何小萍にとっての「芳華」とは現在進行形であって、それを青春としてもいいのではないか、としたい。
戦友の墓前にたつ劉峰にむかって、小穂子が歩み寄っていくシーンがあるのだが、この場面で、彼女はいくつかある墓標を縫うようにして進んでいく。決してまっすぐは向かわなかった。このシーンにこそ、劉峰と何小萍との関係が凝縮されているようで、一番記憶に残っている。
エンディングの映像も楽しい。 劇中の振り返りなのか、ディレクターズカットシーンのようなものなのか、想像しえた青春の像なのか、定かではないが、いくつものシーンのカットが流れてくる。
中国の作品であるというから
原作は上海出身のアメリカ人作家、厳歌苓さんだそう。ざっとみるかぎり《芳華》は書き下ろしの脚本なんだと思うが、よくわからない。彼女は30歳くらいで渡米しており、何度か移動をくり返していたようだが、今はアメリカ国籍を持ったアメリカ人ということでよさそう。
11歳で「赤色バレエの文芸兵」になったらしい。これが何かはわからないが、文工団と似たような職務だろう。20歳のときに中越戦争にて戦地記者を務めたことがあるそうで、この経験はストーリーテラーの小穂子の設定に生かされている。という経緯をみると、あるいは割と、実体験に近い作品なのかもしれない(Wikipedia 厳歌苓 より)。
監督の馮小剛は、やはり文工団に所属したらしく、監督の経験もかなり含まれることがわかる。というか、馮小剛のキャリアは文工団からスタートしていると見ることもできそうなので、そう捉えると《芳華》に監督の自伝的な側面を見出すこともできるかもしれない。
毛沢東が生きた時代、中越戦争、その後の世代、中国という国家、それぞれを原作の厳歌苓、監督の馮小剛がどう思っているのかは知り得ないが、劉峰と何小萍に近づいて考えれば、当時を辛くも生き抜いた小さな人たちがいたということなんだろうね。なんだろうね、この〆は。
現代ビジネスの以下の記事はそれなりに参考になった。
Windowsにはフリーソフトという文化があった(まだある)が、かつてほどの勢いはないと思う。Vectorや窓の杜などは運営されているが、使う機会もかつてほどではない。フリーソフトを紹介する個人サイトもたくさんあったが、更新されなくなったり、閉鎖されたりといった流れをたくさん見てきた。
フリーゲームの文化もかつてほどではないような気もするが、こちらはインディーゲームにトレンドが移ったような気もするし(日本の国内でさえ)、悪いことではないと感じる。
個人開発の有料アプリで伝統的なソフトといえば「秀丸」だろうか。2、3年前くらいにかなり詳細なインタビューが出ていた。テキストエディタについても、その用途等からしてさまざまなアレコレがある。
最初から話題が逸れていた。
画像閲覧ソフトというものがある。場合によっては管理もする。いや、どちらかといえば管理する目的のほうが大きく、言うまでもなく2つの機能は一体のことが多い。ネットサーフィンをしていると、気に入った画像を保存したいという衝動に誰でも一度は駆られるものではないか。保存した画像をどう仕舞っておく、という話だ。
画像を閲覧、管理するにおいてエクスプローラーでは怠い、めんどくさいというときに登場するが画像閲覧ソフトだ(管理もする)。
さらに、管理は別にいい、手っ取り早くファイルを確認したい、という状況に至ることがある。「Massigra」だが、これはほぼ閲覧目的のソフトだ。何より起動がはやい。MacのQuick Lookには及ばないが、これでいいのである。
Windowsであれば、かつてはPicture Manager(これはMicrosft Officeの一部)、Live Photo Galleryなどがあった。悪くなかったが、管理ソフトだ。Windows 10になってからはフォトアプリになった。やりたいことは分かるし支持もしたいが、ソフトは重く、Windows 8以降の設計思想に則っており、お世辞にも使いやすいとはいえない。
というわけで、依然としてMassigraを愛用している。気になる点といえば、今後不具合などが発生した場合に 制作者は更新する気があるのかどうか、くらいだ。ソフトの最終更新は、2013年だものね。
最悪の場合は類似のソフトIrfanViewに乗り換えるかくらいかな。
なお、本記事では「ソフト」で通しているが、タイトルはアプリとした。なんというか説明しづらいが、そういう語感で統一したい。
今朝から以下のニュースが話題になっている。他のメディアも報じているのかもしれないが、フォローされているのは概ね朝日新聞デジタルの記事で、はてブなどもこの記事に集まっている。
ところで、朝日新聞デジタルでは、場合によって同じトピックを別々の切り口で扱い、2つの記事がほぼ同時に配信されることがある。事実報道よりの内容になっている記事と、対象へのインタビューを厚めにした記事と、などのパターンだ。
そういった話の上で、今回の「のり」の件は以下の記事もある。
だが今回に関しては、どちらの内容も同一なのだ。2つ目は朝日新聞「アピタル」(医療メディア部門のような)配下の記事となっている。おそらくは配信の仕組みによって、どちらも別々の記事となってしまっているだけなのだが、おもしろいのは、今回はどちらのはてブも同じくらい伸びていることだ。
まぁ、どうでもいいっちゃどうでもいいのだが、どちらかというと1つ目の記事のタイトルのほうが医療メディア向けにもよいような気もする。記事タイトルをつける権限が別々の部署に分かれている結果なのだろうが、ここはモヤモヤする。