最近、this.kiji.is から始まる URL の記事をちょくちょく見る機会が増えている。以降には適当な英数字が割り当てられており、 “this.kiji.is” が媒体となっているわけだが、これは一体なんなのか少し気になっていた。共同通信の記事本体などは、この URL で発行されているようだし、地方新聞社の記事などでもたまに目にする。
ノアドット株式会社が運営するサービスだということが分かる。この会社名について気になる点がひとつあって、アルファベット表記にしたとき「頭文字は大文字なのだろうか、小文字なのだろうか」という点だ。 Web ページのタイトルとフッターの権利者表示は “N” が振られている一方で、ロゴは小文字の “n” であしらわれている。
まぁどっちでもいい。
で、まぁ経営者を辿って以下のインタビューを読んだ。
中瀬氏だが、出版社の編集、記者ののち Yahoo! ニュースでの記事編成などをしていたらしい。そこから独立したということかな。すごいね。上記リンク先のインタビューを読めば、どういう仕組みかは分かるが、引用すると以下のようなことらしい。
つまり、記事の流通コストを外部化しながら、ブランド認知の拡大と収益獲得の主導権保持ができるわけです。ここが、強大な集客力を持ったニュースアグリゲーターに記事を配信して、おこぼれの収益やバックリンクをもらってウェブサイトのPVを伸ばせる代わりに収益の大半とブランド認知を失う、という既存モデルと異なるところです。
https://digiday.jp/platforms/nordot-nakase-ryutaro/
さらに踏み込んで、基本的なコンセプトは以下のように語られている。
いずれにしても根本にあるのは、コストをかけて作られたコンテンツをもっと効率的・効果的に流通させるための共同体と、それを実現するデジタルインフラをパブリッシャー自身が主導して創り上げていくという考え方です。
https://digiday.jp/platforms/nordot-nakase-ryutaro/
いやぁ、おもしろいや。コンテンツの作成から配信まで経験したうえでのアイディアと理念、システム作りが結実したということがよく分かる。カッコいい。
ところで、記事作成元との契約に従うのだろうが、すべての記事が公開されたままということも少なそうで、読者が “this.kiji.is” から提供された URL をアーカイブのリンクとして位置づけるのは難しそうだなという印象も持った(詳しく調べたわけではないので、実際にどういう動きを取っているのか存ぜぬ)。
追記:20200109
同日中に追記かますなと自分でも思うが、山本さんの以下の記事は目を通しておきたいなぁとなった。「配信戦争勃発」と「独り勝ち」が併記されている煽り力の強いタイトルだ。
ついでにメモしておくと上記の記事で言及されている年末の Newsweek 日本版による「進撃のYahoo!」なる特集がある。私は目を通していないが、HUFFPOST に概要版みたいな記事もあがっている。
何だかんだで日経新聞が強いなぁという身も蓋もない感想に落ち着いたりする。
新国立競技場が稼働し始めたということで、年末くらいから同施設関連の情報が勝手に入ってくる状態になった。天皇杯決勝の映像であったり、メディアの報道であったり、上空のヘリコプターから撮影された映像もあれば、Twitter 経由で訪問者が投稿した現地の写真なども目にした。で、まぁ、お世辞にもカッコいい施設とは思えず、特に上空からの図がダサい。
一方、年末から路線を停止して実施された地下鉄銀座線の渋谷駅の移設新設だが、こちらもホームの写真などが回ってくるようになった。ホームの写真はなんとなくカッコいいように見えるが、M 字型の白いアーチは肋骨にみえる。 Twitter で検索してみると、近代的だとか近未来的だとかいった形容があり、それぞれだなという感じだが、あくまで現代的ではないようで、そのへんが面白い。現代的な鉄道のホームのデザインとはどんなもんだろうか。導線がエグくなってしまったというツイートもちらほらと見かけたが、私はユーザーではないので分からない。
以下のようなニュースもあった。イメージデザインなども載っているが、どれくらい魅力的に見えるだろうか。よくわからない。
もうひとつ、CES の記者会見とやらでトヨタが発表したというスマートシティ構想だが、ようやく世界標準の規模とスケールをもった建築やら都市開発プランに見える。豊田さん、流石っす。
巷で予言されているように、日本社会が縮小していくことが必定であるとしたら、建築物を含めたデザインもそれを織り込んだものにはなるのだろうね。
令和元年が 7 カ月ほどで無事に終わり、令和 2 年となった。いわゆる西暦は 2020 年だ。昨年の日記に目を通すとダラダラと生きていることが判明するばかりだが、ところどころに抵抗の痕跡が見受けられた。頑張って生きているんだ。
今年だが、とりあえず読書のペースを戻したい。月に2本を最低限とするところから目標としたい。年末年始に『ジョン・ロック―神と人間との間』(岩波新書 2018)を読んでいたが、これも終わったのでメモを残すこともしておきたい。
赤の他人に救われるということは、人生で数えるほどしかないのではないか。「社会はすべての人で成り立っている」とかいう話ではなくてもっと直接的な事例の話としたい。
具体的な例をあげれば「電車のホームで落ちたところを助けられた」とか、あるいは抽象的な例としては「あの人の作品に感銘を受けて人生が一変した」などをイメージする。
なんなら「道端ですれ違いざまに落としたハンカチを拾ってもらった」などもカテゴライズされうるが、落とし物を拾ってくれた相手の顔を覚えていられるのも何時までだろうか。
『AIの遺電子 』および『AIの遺電子 RED QUEEN』(山田胡瓜)のシリーズが完結していた。なんとなく読んでいなかった最終の 2 巻を読んだ。その感想は別に書いておきたい気もするのだが、ネタバレと言うか、ゲーム世界の扱いについて気になることがあったので、それについてのメモを残す。
言うてしまうと『ゲームの王国』(小川哲)や『三体』(劉慈欣)などで似たようなギミックを見たからなのだが、つまるところゲーム世界が現実の問題を解決させる糸口になっているというところで、昔から用いられた設定ではあると思うが、扱われ方にちょっと差が出てきたようなという違和感があるということだ。あくまで「ソードアートオンライン」シリーズなどとは異なる感覚だということは明らかにしておきたい。
VR 機器が発達したからこその影響とも思えるのだが、それだけで済ませていいのかもよく分からない。この感覚がそれなりに妥当であるかも実はあまり自信がない。
突然だが、スマートフォンで公に公開する文章を書くと明言しているのをネットで見かけたのは、SF 作家の藤井太陽や、いろいろな人である山本一郎がいる。もしくは、今日の大学生はレポートばかりでなく卒論までスマートフォンで記述し、それを Word なりにコピー&ペーストして出力するというが、もはや極端な例とも言いがたいようだ。あるいは別の話だが、脳波による文字入力が実現したというニュースもちらほらと目に入るようになってきた。一般に実用化される日が来てもおかしくなさそうだ。
で、私はスマートフォンで長文を入力する気にならない。ここ数年、個人的にも世の趨勢的にも Chromebook ブームが来ており、いくつかの端末を試していた。ちょっと、ババッと、デジタルにメモしたいときに役立つし、ネットサーフィンだけなら十分な性能を持つ。何より安価である。Chrome OS も搭載されているアプリも悪くない。ではあるのだが、ハードウェアに総じて不満が大きい。市場が拡大するにつれて徐々に進歩しているが、ここ最近は手を出す気分が小さくなっている。
また、そもそも持ち運ぶことを前提にしたいので 13 inch 以下で 11 inch 前後を前提にしているのだが、そういったなかで久々に iPad に戻ればいいんじゃないのという意識が芽生えた。 Smart Keyboard Folio を装備するという思い切りが必要になるが、ひさびさに縁遠いデバイスに触りたいという欲求もある。
実現するとしたら年明けだろうな。どうしようかな。
積極的に無視したほうが本人のためになるという状況はあると思うが、それはどのような条件によって正当となるだろうか。あるいは、当該の人物が常時において無視すべき状態なっているとしたら対処方法は「無視すべきではない」というステータスになるだろうか。
いくつかの周期で思い出したようにソーシャルブックマークを懐かしがる。過去にもどこかに雑文を散らしたが手元には残っていない。今回は寡聞にして知らなかった「Diigo」とういサービスを知ったので、また思い返した。
Delicious が嚆矢となったと思っているが、Web 2.0 がもてはやされたときにソーシャルブックマークという概念とサービスが広まった。みんながブックマークするサービスこそが良いものだという考えのもとに情報を収集、活用する目的がある。 Delicious のその後は不調となりアメリカの Yahoo! に買収されたりといろいろあったが、2017 年に消滅した。
少し調べようとしたら、詳しく説明してくれている記事があったので、以下にリンクを置いておく。そして、この事実は知らなかったが、Delicious を最後に買収したのは Pinboard だったのか。マジか。
Pinboard 個人志向のソーシャルブックマーク
誰かが使っていたので私も登録してみたのは何時だったか。Pinboard というサービスがある。ソーシャル要素は限りなく薄められている体裁を取っている。登録料に 11 $かかる(2019年12月現在)。いずれはサブスクリプションになるのではと噂されていたような気もするが、そうはなっていない。たまに思い出したように利用するのだが、基本的に使わなくなっている。昨年 3 件ブックマークした記録があった。
これはブックマークそのものに言えることだが、よく訪問するページなどはもはや URL などをタイプして表示したほうが速い。なので、ソーシャルブックマークなどは本当に記録用になってしまう。その記録をどのように、何のために残すのかという段になったとき、ブックマークの面倒くさい作業は忘れられてしまう。
Pinboard について言えば、シンプルなのはよいがシンプルすぎてワクワク感は小さい。またブックマークのためのツールがこなれていないので怠い。
イナゴの群れとなるブックマーク
そうではないブックマークサービスが「はてなブックマーク」や「Reddit」の部類だろう。リンクに対してコメントを投げていくやつだ。これらのサービスがどれくらいユーザーの生産性や情報収集に役立っているのかは分からないが、どちらかというと時間と感情の消費に使われる面のほうが多いのではないかと私は思っている。
別にソーシャルブックマークに崇高な目的など必要ないと言えばそうなのだが、Web 2.0 などでワイワイと盛り上がっていた頃に比べたとき着地点は 2ch と大して変わらないではないかという味の悪い気持ちにもなるのだ。2ch の良し悪しとは別だ。
「あとで読む」はブックマークか
私も愛用している Pocket だが、あるところの説明によればこれもソーシャルブックマークだ。そういった機能もある。このサービスについては以前も記事を書いたが、私はこれをブックマークとはあまり思っていないので、完全に「読むためのページの保存」「読んだ記事はアーカイブ」のアクションのみだ。日本語検索には最近ちょっと強くなったような気がするが(詳しく調べていない)、かつてはダメダメだったのであまりアテにもしていない。
何かと言えば、ソーシャルブックマークで「あとで読む」というタグを付けている人は、本当にその作業を実行しているのかを知りたい。私は、ソーシャルブックマークは、すでに読んだ記事の保存用として位置づけているので、仮にそのような運用を試そうとしてもすぐに忘れるだろう。ボタン 1 つのことだが。
Pocket について更に言えば、日本語のリーディングモードが読みづらいのと、結局 URL しかまともに読みとれないケースがあり、元サイトに行った方が結局早いことがしばしばある。設定できそうなものだが、そうでもない。
ハイライトとキャッシュこそが要か
単純なソーシャルブックマークの問題点としては、元ページが消えてしまう場合を考慮する必要があって、そんなことならローカルに保存しろとか、Evernote に取り込めとか、そういう歴史があった。もっと情報の取捨選択にシビアになれという話でもある気はする。この点は、幾つかのサービスは主に有料プランで対応しているのではないか。
あるいは、ハイライトを保存しておくことこそがソーシャルブックマークでの本来の目的なのではないだろうか。それを生かしているひとはどれくらいいるのか。たまに見るけど。ということで「Diigo」を今さら知った。
このサービスはハイライト機能がかなり軽快だそうだ。またそれを自分のコンテンツとして転用しやすいらしい。ははぁ。こういうのでいいのではないか。以下の記事が参考になったので、リンクを張っておく。
タイトルが長い。
中国語の原題が「江湖儿女」、英題が「Ash Is Purest White」となっている。原題の意味がわからず、幾つかのウェブ翻訳にかけた結果「世の中の子供たち」というようなニュアンスに訳出された。どういうことなのか。追記(20220113):DeeplL に翻訳をかけたら「ヤクザの娘」と訳出されたが、これが正しそうだ。
英題は「灰こそが純白」といった感じか。いやー、各国で表現がまったく異なるタイトルとなる作品か。日本での公開は 2019 年の 9 月だったか。しばらくはどこかのミニシアターなどでも上映されているかもしれない。
本作、物語は2001年からはじまって、結末は2017年で着地する。15年以上ほどの長いスパンを扱っている。ざっくり言うと、田舎ヤクザのカップルが紆余曲折の末に別々になって、それでもなんだか寄り添って、でもやっぱり道は繋がらなかったという切ないやら何とやらの物語だ。主役はヒロインのチャオ、恋人のヤクザはビンという。
どうしたって中国社会の変遷が背後に描かれるわけだが、三峡ダムの開発で環境が激変した奉節が全体のキーポイントになる。奉節、山奥の谷側に挟まれた土地に町がポツンと存在するのは秘密基地みたいでおもしろい。
ビンを追ってチャオは奉節までやってくる。ビンは彼女を避けて何とか会わないようにと工夫するのだが、後のないチャオは力技で再会を果たす。といっても元鞘に収まらないことは 2 人とも分かっている。チャオの宿でのお互いのやり取りが最高にクールだった、と記憶している。
端的には、別れ話をビンがはっきりと切り出せずに、チャオが問いつめて凝り固まった関係を解していくのだが、最後に厄払いのような儀式をしようとビンが言い出す。盥に新聞紙、火をつけて煙をチャオが越すという日本にもあるような方法だ。ピリッとした表情を崩さないチャオを映したカメラが非常に美しかった。
変化する中国は山峡ダムに終わらず、本作では発展した内モンゴルも描かれる。主人公 2 人の出身地、山西省の大同は内モンゴル自治区の隣接地なんだなぁ。やたらと立派なターミナル駅だが、そこは閑散としており、冷たい風が吹きすさぶなかに夢が破れたビンは到着する。そこでチャオと二度目の再会を果たすのであった。
また、終盤に登場人物が使うスマートフォンにも何らかのメッセージが込められているように思うが、どの機種だったか忘れてしまった。iPhone か Xiaomi の類の中華スマートフォンだったか、どちらも使われていた気もする。
ビンは大成せずに帰京し、もっとまともな人生を選択できたであろうチャオも故郷の場末の雀荘を切り盛りするに至る。チャオからも、監視カメラからも逃れるように消えたビンに託されたのはどういうニュアンスだったか。新しい社会に違え、そこに何とか居場所を確保した古く懐かしい者達とも違えた草臥れた存在が、どこへともなく消えていく。
以下は読んだ関連記事のリンクだ。
賈樟柯(ジャ・ジャンク―)監督の作品は見たことがなかったが、《長江哀歌》《山河ノスタルジア》には興味があった。主演の趙濤(チャオ・タオ)は監督と夫婦なんだってね。ファンなら基本知識なんだろうけど知らなかった。監督の出身地が山西省なのね。
同じく朝日の記事だ。監督の主張と中国の検閲の状況などが本人の口から語られるのが貴重ではないかしら。香港映画の凋落については、検閲の問題も語られるが、アジア各国独自の映画文化の勃興も一因と考えているらしい。へぇ。
タイトルが長い。これはコアな中国映画ファンでないと気がつかないだろうが、色々な監督がカメオ出演していたとのこと。各監督の演技を思い出すと、なるほど面白い。
公開時は迷った末に行きそびれたが、ようよう鑑賞した。序盤は物語が退屈で、これを 2 時間も耐えられるかと不安だったが、徐々に面白くなってくる。最後にはそこそこに感動したし、結末は微笑ましかった。
解散を決めたバンド「ハルレオ」のメンバーはハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)、ローディ―であるシマ(成田凌)が最後の全国ツアーをギクシャクしつつもこなしていくという内容で、ロードムービーとしての面もある。ライブは、名古屋、四日市、大阪、新潟、酒田、弘前、函館を辿ったと記憶している(大阪と新潟はどこだったか覚えていない)。
私は劇中の運転シーンがどうにも苦手で、交通事故がいつか起こるのではと不安になる。本作も同様だった。作中ではローディーであるシマがほとんど運転する。冒頭と最後だけ車中のフロントから外を映した画面が流れる。iPhone で撮影しているのかなと思うが詳細はわからない。あとはほとんど車中の人物の表情や行動などを映していたが、車を正面から映したカットがいくつか、後方から映したカットもいくつかあり、それぞれが効果的に使われていた。
移動中、外部の情報はあまりなく、高速道路の標識だったり、街の風景だったり、延々と続く田圃だったりするわけだが、それぞれに味がある。
冒頭で「全国を 7 箇所回る」かつ「最後は函館」という情報が提示されるので最初に走っているのは東名道だろうなぁ、などと楽しむ。愛知から三重、大阪までは移動がメインに扱われることはない。このあとは更に西へ行くのか U ターンでもするのかワクワクとしていたが、日本海側に出る。どこか山中の湖と森のシーンがあったが、これが美しかった。新潟から酒田あたりを走ってあいだは田園風景が広がる。よい。函館はすっかり都会の港町でちょっとドッキリする。エンディングに相応しい舞台だ。
帰りは掲示板に提示された仙台の表示で東北道と察せられ(それはそうなのだが)、ゴール直前で羽田の案内が出るのは首都高だろう。こうして東京へ戻ってくることで、本作は終わる。東北道ですべてをやり終えたあとのシマの倦怠、疲労感とハルのやり切った感がまたよい。交通事故が起きそうな運転シーンはやめてくれ、こわい。
バンド解散の原因だが、言うまでもなく人間関係の縺れだ。色恋沙汰といってもいいが、そう片付けては面白くない。人物のうち、もっともフラットでマトモな人間はシマであって、バンド継続のためにシマが身体を張った結果として諸々のややこしさが臨界を突破した。ハルは独特の悩みを抱えているが、それ以外の環境についてはよくわからない。ぶっちゃけ、音楽がなくても生きていけそうな冷静さはあり、才覚もありそう。ただし、自分の悩みの強さと才能に比例するように仲間の感覚にはやや疎い。レオは迷い猫のような存在で、バンド解散後は工場で働かないと賃貸から追い出されると笑っており、またロクでもない男に捕まる未来がみえる。そう考えると、むしろ 1 番に音楽を必須としていそうなのはレオなのだが、この辺がまた上手い。全体の構図はハルが中心、シマとレオを錘にしたやじろべえのような体裁だろうか。
ハルレオ、作詞作曲はハルが担当しており、レオにギターを教えたのもハルなので、バンドの支柱は間違いなく彼女だ。一方、ライブ会場ではレオへの歓声のほうがやや多くなっている。そういう演出がなされている。トークも基本的にレオから始まるようになっており、外向けの体裁としてはレオが顔役みたいになっているところもある。この関係性の問題も扱われており、バンドによくありそうだなと笑いながら見られる(笑えないけど)。
作中で披露される曲は 3 曲あるようで、秦基博とあいみょんが提供している。歌詞が絶妙でよい。作品に合っているともいえるが、よい意味で個性がなくギリギリの抽象性が紡がれている。Spotify で何度か聴いたが、どこのサブスクリプションサービスにもあるのではないか。
門脇麦、個性が強いし、表情がいろいろとある。バレエをやっていたからだろうか、首筋のフォルムが美しすぎる。他の作品を 2 つくらい見ただけだが、もっと追ってみたい。
小松菜奈、初めてみた。キャストでは先頭なのでメイン人物は彼女という企てはあったのかもしれないし、実際のところ、そのように考えるのが自然な気もする。前述のように、レオが音楽をやる理由こそが本作のひとつの答えにもなりそうだからだ。彼女は Wikipedia によるとダンスとフルートが得意だそうだ。門脇麦よりも 8 cm も背が高いらしい。どちらも、へぇと思う。
成田凌、《愛がなんだ》では役柄のせいもあってよくわからんなと見ていたが、本作では好感触だった。本作でも半分くらい何だかよくわからない人間なのだが、こっちのほうが現実と虚構のさじ加減が私の好みだ。大人っぽいことを言えば、ロマンチズムに浸ったセリフも吐く。尊い。
総じて満足だった。