昔からたまに疑問として頭に浮かんでは消えていって、そうしては思い出してきたが、嫉妬が炎に譬えられるのはなぜだろうか。嫉妬というのはある種の苛立ちや焦りが処理できないくらい大きくなったものだろうから、私はこれを漏水の類に譬えたい。炎はそれだけで美しさを喚起してしまうが、漏水は完全に管理責任や不備を問われるものでしょう。
嫉妬ってそういうもんじゃない?
コミック(全8巻)である。本日発売された8巻をもって完結した。目次を読んでいて完結に気がつく。寂しい。
原作は七月鏡一、作画が杉山鉄兵となっているが、どちらも存じませんでした。発行元が小学館とは知っていたが、週刊少年サンデーということも知らなかった。ウェブ系だと思っていた。
推理もののコミックを読みたいなと思っている時期にちょうど1巻が発売され、これはおもしろいぞと思ってフォローしていた。おもしろかったよ。というか、サンデーは推理ものを並行して連載していたのか。
記憶喪失の少年探偵、ゼノが謎を解く。タイトルにある殺人密室、建築家かつ天才的な犯罪者である甲斐七楼の製作した7つの殺人密室を巡り、ゼノの生い立ちから甲斐七楼の秘密、国家レベルのうんちゃらかんちゃらなど、なにからなにまで明らかになっていく。
物語がスピーディーですばらしく、飽きない。基本的に件の密室が関係しない話はほぼなく(いくつあったろうか)、最終回までミチミチとした密度で話が進む。密室のギミックも「そうはならんやろ」という設定とリアリティのバランスが巧く、楽しい。
探偵の助手にD坂エイラという女子がいる。突拍子もない設定で、彼女は殺し屋組織のエリート候補でもあった。ところで、ゼノには人間の感情が読み取れないという欠点があり、それをエイラが補助するという仕組みがある。感動こそしないがなるほどなぁとなる。
全体的にピーキーな設定が多いが、それを変に目立たせない勢いと世界観にフィットした画風がよい。特には瞳の描写がよくて、表情をよく表している。キーパーソンのひとりに甲斐羽美という女性がいるが、彼女の表情は本作で1番好きだ。
最後の話で、記憶の断片をいくらか取り戻したゼノの瞳に光が灯っていたことに、うれしいような寂しいような感触を得る。心残りと言えば、最後の密室の設定や利用のされ方などに中途半端さを感じた。この結末までの流れは作者側のほぼ想定内だとは思うが、多少は急いだのかもしれない。なお、ちょいとばかり、浦沢直樹の『MONSTER』が思い出される設定や描写があった。まぁよくあるやつだ。
ところで少年探偵というジャンルの根本的な魅力ってなんだろうね。
春の終わりから夏頃にかけて、アニメ映画をよく見た。感想をあまり残せていないが、適当にあげていきたい。というわけで《きみと、波に乗れたら》のメモを残しておこう。
監督は湯浅政明で、TVアニメの『四畳半神話大系』(2010)と《夜明け告げるルーのうた》(2017)は観た。脚本は吉田玲子で、《夜明け告げるルーのうた》で同監督と仕事をしている。彼女の脚本は直近だと《リズと青い鳥》(2018)、《若おかみは小学生!》(2018)で観ている。
さて、予告を見ただけで恋人が亡くなる話だと分かる。が、私は予告を見たときは、サーファーの彼女(向水ひな子)が亡くなるのかと思っていたが、逆だった。消防士である彼氏(雛罌粟港:ひなしげみなと)が亡くなる。
彼の死のショックから立ち直れないひな子だが、ふとしたキッカケでミナトの残留思念的な何かと遭遇できた彼女は、それなりに元気を取り戻す。さて、そんな仮初の幸せがいつまでも続くはずはなく、必然的に彼らには別れが待っているのだが、どのような結末へと繋がるのか。
本作の主役は誰なのだろうか
ミナトとひな子のほかに登場人物として重要なのは、ミナトの妹の雛罌粟洋子と消防士の後輩の川村山葵(ワサビ)だ。ひな子を中心に話が進んでいくのは当然なのだが、洋子とワサビの存在と役割もなかなか大きくて無視できない。
というよりもだね、言ってしまうと、ひな子はミナトが亡くなったことでマイナスになり、結末でやっとそれがゼロ、新たな人生のスタート地点まで恢復したというくらいで、実はなんともやるせないストーリーである。
一方で、洋子とワサビはそれぞれが作中でプラスプラスの成長をみせており、なんなら彼らの成長物語とも読める。有体に言って共感しやすい。
冒頭からみていると、ワサビに充てられる描写が最後まで案外少なくない。彼の無力さ、未熟さが描かれ、結末にかけて、それが少しずつ克服されていく。洋子についても同様で、本作の中盤から後半にかけてとてもよい人間らしさが演じられている。オタクの視聴者は洋子に惹かれるみたいなことが、当時 Twitter で言われていた。まぁ、そういう感じだ。
本作でのヒーローとその役割
実はミナトにとっては幼い頃から、ひな子がヒーローとして在り、そのことがミナト自身の人生に活力を与えていた。一方で、ひな子もミナトにエネルギーをもらっていたという構造があり(そりゃ恋人同士だからね)、話の構造を上手にややこしくさせている。
落ち込んだひな子が取り戻す彼女らしさ、ヒーロー性はあくまでも映像作品らしく、ミナトの死後も続く現実に起きるアレやコレやの顛末で復活しつつあることが描写されるが、それでも儚い。どうしてこんな仕打ちを!
お互いがお互いにとってヒーローだというペアが居て、その片方が失われたときの喪失を、どうやって工面していくのか、描いていくのか。残されたほうはどのように復活していくのか。そういうことを考える必要があるのか。
よく分からないままだが、そこが本作の味だろうか? ただ本来、一般論として「相互に支える関係」の構築が人間同士という存在、社会にとって、本作で描かれる喪失というのは、ある意味では誰にでも必然で共通の問題でもあるハズ、と言ってしまっていいのか。
湯浅監督の描く水は何なのか
《夜明け告げるルーのうた》(2017)でも水は重要な要素だったが、本作でもそれは変わりない。本作の水は、もっと親しみやすく、ひとびとの生活を助け、彩りを与えるためにあるものだ。ネガティブな要素が浮き上がるのはミナトにまつわる部分だけで、それも設定上、うやむやにならざるをえない。
いずれにせよ、本来は考えられないような動きをする水は、ファンタジックだ。ひな子が好きだった水、ミナトが克服した水、彼らを救った水、ひな子が泣いた水など、まぁたくさんの水が作中で描かれる。
本作での私の最も好みだった水は、河口の水と、海岸で洋子が淹れたコーヒーかな。事件の浜辺の描写も、湯浅監督らしさがめちゃくちゃ出ていておもしろかったんだけどね。
ついでに、奇しくもというか、同時期に《海獣の子供》が上映されていたのもおもしろい。あの作品の海は、未知が過ぎる。あと、《The Shape of Water》(2017)みたいな描写があるところは笑った、どれだけ意図的かはわからないけど。
追記(20220307)
ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。インタビュアーが食事に触れていたのは、なるほどねと。「ルーのうた」が子供向けで、そこからさらに視聴者層を増やそうとしたという旨があったが、自分が子供なら観る順番は、本作、「ルーのうた」のほうがいいかなぁ。
角川シネマ有楽町で《よこがお》を観た。
この劇場では、その回が最終だったらしく、クレジット後に監督の深田晃司が挨拶に登場した。メチャクチャよさそうな人だった。話題作《淵に立つ》(2016)を私は観ていないが、前作の《海を駆ける》(2018)は劇場で見てそこそこ楽しんだ。《よこがお》だが、以前に予告で楽しそうだなと思ったまま忘却していたが、ひさびさの映画熱にタイミングよく鑑賞しただけのことで監督のことは意識していなかった。
まだ上映している、これから上映する映画館もあるようだが、深田監督がなんでもいいから拡げてとおっしゃっていたので、役にも立たないだろうが、感想をアップしておこう。直接のネタバレはしないが、描写などについては踏み込むので、気になるひとは気をつけてほしい。
あらすじを述べる。訪問看護師の市子は近々結婚を控えている。同僚のシングルファザー医師との結婚である。市子は、非常に面倒見がよい人物で、訪問看護先のひとつである家庭の長女である基子、次女であるサキとも親密にしており、3人で勉強することもよくあった。物語は、ある事件をきっかけに一転した市子の生活の顛末と、彼女の泥臭い抵抗を描く。
本作をどういった面から感想するとクリアになるか、難しいが、そうだなぁ、市子の移動手段なんかどうだろうか。
自転車、タクシー、自動車が動いていく
訪問看護には自転車で向かう。件の家庭にも自転車で訪れ、自転車で事務所まで帰る。自宅から事務所までは徒歩で向かっているようだが、その距離感はよく分からない。事件の経緯とともに自転車を駐める位置にわずかな違いが生じる。自転車を扱う足取りも違う。冒頭では健やかに軽やかに運転していた自転車だが、事件が起きたあとには重たい枷のようになっていた。ははぁ、おもしろい。
市子がタクシーに乗るシーンがある。本作では、自転車に次いで登場する移動手段だ。カメラの方向などはあまり覚えていないが、そこそこの大きさの幹道を通っていた。路面沿いのレストランの看板が首都圏郊外の地域の田舎臭さを感じさせる。物語的にも、この時点での市子は、事態に翻弄されはじめている段階なのだが、このタクシーも結局は目的を果たさないままフラフラと動いていくのみであった。わはぁ、おもしろい。
婚約相手の自動車に乗るシーンはおそらく2つあった。片方は停車している車中での会話、もう片方は引越し先の内見へ向かうための乗車、この車で移動しているシーンはハッキリとは描かれない。ひゃぁ、おもしろい。
とうとう市子は自分の自動車を運転する(婚約相手との車のシーンがもしかしたら前後しているかもしらん)。軽自動車だったかな。洗車機で車を洗うシーンがあるんだけど、本作で1番好き。洗車機のなかにいるときって少なからず非日常感があって、いいんだよね。フロントガラスの水滴が囂々と鳴るドライヤーで吹き飛ばされていく。美しい。
で、せっかく洗車した車だが、諸般の事情で乗り捨てなければならなくなる。このシーンもまたいい。このあたりは個人的に緊張のピークかな。そもそもこのとき、どこに向かっているんだか鑑賞者には明かされないし、市子もよくわかってないと思われる。そんななかの顛末なので、言ってしまえばとても分かりやすい情況なのだ。おっほっほ、おもしろい。
最後、エンディング付近だが、車を乗り換えている。いろいろなことが終わったあとであり、ハンドルを握る彼女もある種の逞しさを備えている。事件は終わったものの、最後の最後まで異常の極みが連続して描かれる。運命の交差点、鳴り響くクラクション。もうすべてが終わったと思っていた彼女に残された可能なかぎりの最期の悲鳴。やるせなさが、おもしろい。そののち、加速した自動車は、サイドミラーに映る市子の虚ろな表情を執拗に見せるが、ここまでの重なりを経たあとだと不安しかない。最後まで、おもしろいなぁ。
といった感じで、移動手段についてまとめたが、この作品のテーマ的な部分についてはぜんぜん触れたつもりはなく、基子、和道との関係などにも触れたいのだが、扱いづらくて困っている。書き足せることがまとまれば、また書く。
そういえば監督による原作小説も刊行されており、映画とは結末が異なるとのことなので気にはなっている(が、今のところはあまり手に取る気はない)。日本の映画は監督の作家性に頼りすぎているとしばしば話題になるが、こうして小説をしたためる方もいるのはどういう傾向なんだろうか。
《薄暮》をテアトル新宿で観た。だいぶ前の話だ。なんとなく文章に起こしていなかったことに気がついた。それでいいような気もするが、気がついてしまったからにはメモとしておきたい。
福島県はいわき市の高校生、 バイオリンを弾く小山佐智は音楽部に所属している。学校にはブラスバンド部もあるが、こじんまりとした音楽部のほうが性に合ったらしい。現在彼女は次回の文化祭で弦楽四重奏会を披露するべく練習に勤しんでいる。
小山佐智はひとりの時間を大切にしたいタイプの人間で、放課後の帰り道を友達と別れ、遠回りして別のバス停まで歩くことも屡々で、「薄暮」は、まずここで提示される。歩きながら語られるモノローグが、思春期の若者らしく、こそばゆくても一方で真実味があり、夕暮れの田舎の描写とともに流される。悪くはない。
ある日、ある時期から遠回りのバスで乗り合わせることが度々あった高校生 雉子波祐介 と知り合う。祐介は風景画を描くらしいが、よいスポットがあったら教えてほしいと佐智に頼むという流れだ。すがすがしい、いっそのこと潔いくらいナンパな声のかけ方だ。アニメ的誇張も含めて、祐介はちょっとヤバい感じのコミュニケーションを駆使し、少しコミカルで、単純な、でも誠実な男子で、最後までクスクスと笑わせてくれる。
エンディングは、文化祭の終わり、キャンプファイヤーがはじまる直前くらいだったと記憶しているが、日が暮れている。高校生くらいの年代の子たちにとって、まさしくこの時間帯というのは、少しドキドキするときではないか。運動部、文化部を問わず、バリバリの部活動者を除けば、夏から秋にかけて空が暗くなるまで学校に残っているということは少ない。お祭りが終わりに近づき、けれどまだ興奮は冷めず、そこにはいつもの放課後、日暮れを越えたワクワクがあった(言うまでもなく、個人差があります)。
エンディングも捨てがたいが、喫茶店でだべる少女たちも捨てがたいが、やはり家庭でのシーンが好きだったかな(好きと言いつつ、あんまり覚えていないのだが)。震災をめぐる被害をあとにした佐智の変化をそれとなく観客に提示する表現や、彼女をさりげなく支える家族の描写にはかけがえのないものがあった、ような気がする。
さて、初恋を描いている、夕暮れ時を描いている、となると直近では《君の名は。》を連想せざるを得ないが、一歩だけ踏み込んでおくと、そこはやはり日常感、それを支えるもの、日常的とは言えないもの、それらの相克、あるいは並存、融和といったテーマがアンサーとなっているのではないか。運命めいたものなど必要ない。
2019年12月20日追記
以下の記事を読んだ。以下の引用のあたりがおもしろい。
山本:ああいう描写をあえて入れていて、生っぽいというのかなあ……。「どうだエロいだろう」「リアルだろう」と言いたいというよりも、作品全体に対するフックというか刺激を与えていかないと、あっさりしすぎて具なしのお吸い物みたいな感じになるとヤバイなと思ったんですよね。じゃあ具にはアサリを入れておくか、出汁をちゃんととるか、みたいな。そういうことですね。
https://anime.eiga.com/news/109613/3/
台風だった。直撃する台風に見舞われるのは久しくなかったのではないかと思うが、過去を調べる気にもならないので事実関係はよくわからない。たまたま、前日に《台風家族》を観た。感想をアップするかもしれないし、しないかもしれない。そこまで面白くはなかった。
台風、静岡あたりを中心に上陸すると首都圏あたりが勢力図の東端に位置することになり被害が甚大にならん。ということだったが、どうやら東京あたりを中心に上陸したようで、千葉あたりの被害が一番多きということになったようだった。我が寝床の近辺は、やはり2時から4時ころが風雨共にピークだったのではないか。まったく眠れなかった。 Twitter をみると、やはり似たように眠れない人々がいた。
強風にあおられて倒れ、それが原因で亡くなった方がいるらしい。現時点で私が確認できた安否情報はそれくらいだが、残念なことだ。
このブログで以前「Massigura」を紹介した(アプリ:Massigura)。Windows のフリーウェアはほとんどエネルギーを失ってしまったように思える。寂しいものだ。というわけで「Mery」を紹介する。
現行で開発が続いているフリーのテキストエディタだ。フリーのエディタ界隈は割と元気が残っているように思えるが、それはツールの特性故だろうか。私の知る限りだと「さくらエディタ」もちゃんと更新されている。フリーではないが「秀丸」「EmEditor」なども現役だ。Mac に比べてもこういったタイプのエディタの種類だけはいまだに Windows のほうが勝っているのではないか。
で、「Mery」だが、テキストエディタ界隈では割と新参者だと思う。少し調べると、2008年に窓の杜で編集部賞を受賞している(受賞時のアプリ名は「mEditor」だった)。
私はそれほど凝った使い方はしておらず、テーマを「iPlastic」、標準フォントを「Ricty Diminished」にして表示色を反転させているくらいだ。なので、別にこれといったハック的な活用方法の提案はできないが、まぁなんとなく書きたくなったので、こうしてメモとして残している。
ちなみに、開発者の方の Twitter は @haijinboys だ。
アプリの Wiki は以下だ。いや、とにかく Windows ユーザーなら入れておいた方がいい。
竹宮恵子の『地球へ』を読んだ。恥ずかしながらというか、竹宮恵子をちゃんと読んだのは初めてで、本作も圧倒的に支持されていると認識していたが、なんとなく摂取する機会がなかった。ところで先日、たまたま Kindle 版が超安価で販売されていたのですかさず購入し、その晩に読んだ。
トォニィがよい。人類、ミュウ、そして完全なミュウとしての第三極として誕生したナスカ生まれの純粋なミュウだ。何がよいというと十分に理性的でかつ情をもった人間として育ったことが描写されていることがよくわかるところが好い。幼少のトォニィがキースを敵視し、爆発的な成長を見せた際、ジョミーは戸惑いを見せていた。精神年齢が若い一方であまりにも強大な力に振り回されるというところだが、危ういキャラのまま終わることがなかった。そのバランスが見事ではないか。
大人になり(身体的に)人格を持ったトォニィが物語の前面に出てきたとき、わちゃわちゃとやってジョミーを困らせる役だろうかと少し不安だったが、あまりそうではなかった。トォニィは後続の仲間たちのリーダーでありつつ、ジョミーの葛藤にも理解を示そうともする。いくつかの状況で思い余った行動をするが、決定的な悪手としては描かれない。思慮が足らない人物ではない。それでこその新人類である。人類やミュウを放って宇宙に飛び出したっていいのだが、彼はそうしない。
夢のなかで何度か訪れたことのあるピザの名店があり、今日の夢で久々に訪問した。坂の多い海辺の町の、大きな坂の途中の、商店街の入り口の付近にある。隣にはガウデイ調の不可思議にデザインされたマンションが建っており、外からの観光客はこのマンションを撮影したがって、よく来訪してる。とはいえ、このマンション自体は非常に地元に馴染んでおり、人びとに愛されている。
ピザハウスには大学時代の友人と訪れた。入店間際、もう一人も参加し、二階へ案内される。いつも食べる定番は決まっており、若者3人であれば3、4枚ぺろりと食べられるだろうというところ、注文する前に目が覚めた。
まだ上映中の映画なので感想をあげてしまうか迷ったが、このタイミングであげないと多分止めてしまうのでアップした。
カナダの片田舎で起こる恐怖。設定のひとつに《Don’t Breathe》(2016)に似ているところがなくもない。ホラーの定番的な設定といえば、おそらくそうだろう(そこまで詳しくないけど)。というと、多少のネタバレになってしまうかもしれないが、まぁホラーの仕掛けとは別のところなので許してください。で、この設定は微妙というか、ちょっと社会批判みたいなところものあるのかなとは思うけど、どうなんだろう。これ以上は触れないけど、人を選ぶところは大きい(ホラーでそれを言うかというツッコミはあり得る)。
最低限のあらすじとしては、空き家になった伯母邸に越してきた母と姉妹(ヴェラとベス)がある事件に巻き込まれ…、という感じだ。
上記とは別に、トリック的な仕掛けがあり、まぁ巧いのだが、さまざまに想定されるパターンから遠く外れているとも言い難く、個人的なビックリ感は少なかった。難しいよなぁ、たとえば《カメラを止めるな!》(2017)だって人によってはビックリ感ないだろうけど、あれはあれで個人的には劇場で見たときに新鮮さを感じたものだ。といった感じで、驚き成分としてのトリックの作用はそこそこだ。だが、それを含めた演出および作中の没入感はよくできており、最後まで楽しめた。
なお、ラヴクラフトが作中で扱われているが、そこまで詳しくないのでどれくらいオマージュされていたりするのかは分からない。あと、「ゴーストランド」って地名っぽいんだけど、実在はしないようだし、本作はゴーストはあんまり関係なさそうだし、これもよく分からない。
姉妹はなぜホラーするのだろうか
ホラーと姉妹というのは、《The Shining》(1980)を連想してしまうが、こちらは驚かす側の人物たちだ。双子のような気もするが、彼女らは姉妹という設定らしい(以下の記事で確認した限りではあるが)。
私の知る限り、直近だと《ゆれる人魚》The Lure(2015)は、ホラーというよりはアダルトなファンタジーといった感触があるが、人魚の姉妹が主人公となっている。これも別に人魚の姉妹がホラーに巻き込まれるというわけでもないな。
2016年の《RAW〜少女のめざめ〜》RAW でも姉妹が主人公となっている。こちらはベジタリアンの娘が無理やり肉を食べさせられた結果…、というあらすじだが、これも別に…、まぁいいや。
とにかく、ホラーと姉妹というのは相性がよさそうだというメモを残しておきたいのさ。なんなんだろうねぇ。たとえば、そもそもホラー映画の主役に女性が多いとすれば(そうなのかは知らない)、なるほど親子よりも友だちよりも兄弟・姉妹を選び、そのなかでも姉妹関係を描くのがおさまりがよい、という理屈は成り立ちそうだ。
本作の惨劇とその時間経過について
本作、時間の経過がよく分からない部分がある。終盤に少々ヒントが提示されるが、明確な判断はできなかった。
そもそもヴェラとベスの姉妹には若いタイミングと大人に近づいたタイミングとで、それぞれに2人ずつ配役されている。で、オープニングから惨劇発生までと、惨劇の途中から結末までで役者が切り替わるのだが、最終的にはどれほどの時間が経過しているのか割と微妙だ。ではあるのだが、上述のヒントについての私の解釈が正しければ、おそらくそこまで時間は経っていない。
そこでおもしろいのは、惨劇の途中からは大人の役者が演じている点で、そのまま結末するのだ。これは上述のトリック的な仕掛けも関連しているのだが、撮影上の意図や物語的な意味づけはもう少しはされているだろう。これ以上は書かないが、その辺りもそこそこおもしろい。