温かいミルクで、気持ちを落ち着かせよう|『白い恐怖』《Spellbound》

ヒッチコックマラソンです。『白い恐怖』《Spellbound》の感想となる。

『断崖』の感想でも述べたが、ヒロインは学識のある女性で、ロマンスとは無縁の人生を過ごしてきました、というような設定で、ひとつの典型かな。また、近視であるようで資料を読むたびに眼鏡を探して掛ける動作が印象深い。

退屈な作品かなと思ったら、ググッと引き込まれる。新任の医院長として赴任してきた男は、記憶喪失の別人だった。果たして真相は…。リアリティとしてはムチャクチャなのだが、とっても気になる流石の演出術。だが、精神分析というテーマが現代的にはちょっとばかり白々しい。作中でも精神分析を腐す人物やシーンはあり、当時でも半信半疑だったのかねぇ。扱いがよくわからないが、まぁいい。

男女の逃避行という観点としては『三十九夜』を連想させられた。共通点としては、巻き込まれ型の事件であること、主人公とヒロインが各地を転々と移動することなどが挙げられる。パートナーを連れまわす立場が男女で逆転している点は、本作の面白いところではあった。頼りにならない男というのは、『断崖』と同じか。

本作を観ていて、キスシーンやロマンス色が過去作よりもたっぷりだなとあらためて感じたが、『断崖』や『救命艇』などでも似たような印象はあったので、徐々にそういった描写を増やしたかった、それが叶うようになってきた時代ということなのだろうな。続く監督作の『汚名』では、キスシーンをごまかして長くしたということなので、よくやったもんだ。

劇伴がとてもいいように思うのだが、どうだろうか。クレジットされているのはミクロス・ロージャという人物で、私はいままで知らなかったが、ハンガリー作家の音楽家ということで映画音楽、芸術音楽でも実績を残している人物であった。そうだろう、この作品は劇伴がとてもいい。

記憶喪失の男の記憶を辿る夢の世界の描写がおもしろい。まるっきりダリの世界だなと思ったが、そのまんまで、実際にダリが協力しているらしい。このような舞台美術は、あまり詳しくないが、ホドロフスキーを連想させられた(影響があるとすれば当然のこと順は逆だが)。

結末、サスペンスとしては結末を決定づける証拠があいまいなのだが、本作はそんなことどうでもいいくらい素晴らしいラストであった。確信はあるが決定性に欠ける状況のまま、ヒロインが真犯人に詰め寄る。「おいおい、他の助けも呼ばずに乗り込んでいって大丈夫か?」と誰しも思うと考えるが、ヒロインは、圧倒的にクールに真犯人を論破するんですね。かっこいい。真犯人の浅はかで矮小な心理を彼女は決定的に叩き潰す。いや、すばらしかった。

というわけで、本作は割と好きです。原題の “Spellbound” は「魔法で縛られた」というニュアンスだが、「魅了された」という意味も含むようだ。男の記憶喪失を指しているのか、ロマンス成分の意味合いも含むのか、どうだろう。しかし、この作品の男の記憶喪失にも戦争体験が絡んでいる。他の作品でもそうだが、戦争の傷というのが現前とある(あった)ことがよく分かるね。

なお、設定的には背後に追いやられているが、記憶喪失の男のもともとの先生というのが学会界隈で嫌われていたというか、少し風変わりな人間として扱われていたというような設定が潜んでいるようで、このあたりの匙加減の巧さというか、奥行きも気になったね。