センター試験のようなテストを受験している夢を見た。だが、試験の運営は異様におおざっぱでカンニングも私語も自由なようだった。そうではあるものの、私はひとつの解答もできずにいた。設問を見つけることができなかったのだ。周りのひとたちは一通り解答を終えたようで、のんびりとしている。見たところ私の仲間はいない。
このテストで良点を獲得しないとヤバいという感覚があるなか、無情にも試験時間の終了が告げられ、白紙の解答が回収される。そこで目が覚めた。
専用のスマートフォンアプリで配信されたシン・エヴァンゲリオンの特報を見た。2019年7月6日に各地で上映されたスクリーンを映したライブ映像だ。最初に上海版をみて、新宿版をチラリと見た。撮影した環境の次第もあるだろうが、上海版のほうが観客の反応に抑揚があって素直におもしろかった。臨場感である。その他の地域の版は見ていないので場所によってはもっと盛り上がりをみせていたかもしれない。
10分くらいの映像だったと記憶している。話に内容があるかないかも分からない状態の内容だったが映像のハッタリが上手い。ここでいうハッタリというのは、なんだかんだで魅せられたという話だ。最初は10分は長いな、飽きるかな? と不安半分に眺めていたが、終盤に差し掛かるともう終わってしまうのかと残念な気持ちになる。そして、これがエヴァンゲリオンらしいところなのだが、その見ているものがおもしろかったか? と振り返ると、よく分からないといんだよね。「Q」の物語終盤でも劇場の座席で似た感覚に陥っていた。なんだか凄いものを見ているが「いったいこれは何だ?」となるのだ。思えばシリーズ全体もそんな感じだったねぇと感慨に浸っている。
これだけネガティブさを前面にした作品も珍しいワケで、それこそが熱狂的な愛憎を生み出した理由のひとつだが、完結編と言われる本作はどのようなゴールを見せてくれるのか。 見るか分からないけど、楽しみではある。まぁ、ほぼ確実に観るんだけど。
あと、シリーズを通してこれまで見てきて、本シリーズにあまりガンダムっぽさを感じたことはなかったのだが、特報で描写されていた浮遊戦艦の連携によるシールドみたいな防御には近年のガンダム味を見た。少し寂しい。
「特報」って言葉、今日日あまり目にしないなと思いググってみたけど、やはりあまり使われていない言葉だなという印象が強まった。
6月の半ばくらいか、ウェブ版のPocketのUIが刷新された。どこかにドキュメントが転がっているのかもしれないが、探していないので詳細は知らぬ。少なくとも日本語圏で話題にしているひとを発見もしていない。Pocketというサービスの立ち位置はまことに絶妙で、そもそも「あとで読む」サービスとしては登場当初は、Instapaperのほうが人気があった。いや、いまでもInstapaperのほうが人気なのかもしれないが、Pocketは読者数の指標やブログパーツなどとしてもある程度まで定番化しているようだし、そこそこの日本語対応もなされている。断言したい、Pocketのほうが定番化しているハズだ。
そもそも、この記事を書くにあたってザクッと調べてたら思い出した。PocketはもともとFirefoxのアドイン「Read It Later」だったんだ。なつかしい。2007年ということらしいのでChrome登場前夜であり、言うなればFirefox最盛期ではないか。そういえば、Firefoxの何バージョン前から連携があらためて強化されたが、これも2017年にFirefoxの一部門として買収された結果なんだろう(Wikipedia調べ、あしからず)。
で、ウェブ版のUIの変更だが、おそらくスマートフォンでウェブ版を見たときの挙動を安定させようとしたことが伺われるデザインだ。分かりやすい変更点のひとつとして、トップ画面における記事へのリアクションに必要な動作がひとつ増えた。マウスオーバーすればいいだけなのだが、少し違和感がある。一方で、個別の記事表示はこなれた印象があり、こちらは好感触だ。だが、記事ページを直接開き直すとバックボタンを押下してもトップ画面に戻らないことがある(ような気がする)。
このあいだ、Pocketを指して「ソーシャル・ブックマーク」サービスとしている文言をどこかで見かけた。そういった機能も確かに実装されているのだが、英語対応のみなので使い勝手の実感がわからず(日本語記事がサジェストされたこともあったような気もする)、いくらか腑に落ちない。
ついでのメモだが、堀正岳さんが最近のEvernoteへの檄文だったか、最近のウェブでのリーディングリストのフローについてのメモか何かでPocketに頼りきりみたいなことを書いていたが、どの文章だったか忘れた。探しても見つからない。半年以内くらいに目にしたと思う。
先日、「検索できないのは弱さか」という雑記を書いた。デジタルで日記を入力するのに何を使えばいいのかという話題だった。Notionを諦めてScrapboxにしようか試すというところで話を終えた。
いろいろな事ができる多機能なツールというのは、基本的に玄人向けであろう。素人は、まず、ツール内にたくさん用意された機能から適切なものを選択する必要に迫られる。これは怠い。
で、日記だが、Scrapboxは合わなかった。1日の行動ログ、記録庫とするならいいのかもしれないが、 ダラダラとした雑文は合わない。思考を文章化したり、それを深化させたりするのには合うので、そういう意味で、やっぱりScrapboxはよくできているなとは、思った。機能のごまかしがきかないという点で。
6月の末からしばらく日記を残していない。そろそろ気持ちが悪くなってきたのでどうにかしたい。
同じ人物の書いた文章ばかり読んでいると、気が滅入ってくることがある。偉大な小説家の大きな作品や冗長な作品など、もう要点を羅列しとけやと思うこともある。
それでも読まなければいけないケースもあり、ついては対処法が求められるわけだが、特定の文章を忘れるしかない。記憶を無くすか、上書きするか、どちらを選ぶか。おそらく後者の方が最終的なパフォーマンスに繋がるだろう。だって記憶なんて消えないもんだからね。
週末においしいぬか漬けを食べた。きゅうりだ。おいしかった(大事なことなので2回言う)。ぬか漬けというのは江戸時代に普及した発酵食品の製造法らしい。
おいしいきゅうりのぬか漬けを食べたんだ。
Spotifyでクラシックを聴くとか、Amazon Prime Videoでハリウッドの古典映画を観るとか、そういうことが思い立ったときにできることは素晴らしいことだ。
というかそういう機会があった。図書館に行くとかレンタルショップに行くとか、そういうことをする必要がない。
Twitterを眺めていたら、新海誠をあげて「東京タワーやスカイツリーが登場しない作品が~」という話があった。探せばすぐに見つかると思う。元となったツイートの説得力は微妙だが、なるほどとは思った。
東京タワー
ゴジラやモスラ、ガメラ(ギャオス?)などが破壊した対象という印象が強いが、そもそも特撮はあまり知らないのでなんとも言えない。戦隊ヒーローものではあまり登場している印象もない。
小説で思い浮かんだのは、『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』(2005)だ。これはリリー・フランキーの半ば自伝ということらしいが、私はオダギリ・ジョー主演の映画(2007)で知った気がする。本作はその他、ドラマ化2回、舞台化1回もあるらしい。もう10年以上前か。ひぇ。
マンガ『魔法騎士レイアース』(1993-1995)の最初のキーポイントになったのも東京タワーだったか。この作品はアニメをボーっと眺めていた記憶しかないが、その点だけは思い出せる。というか、全3巻とは今日の感覚からすると短いな。この作品では物語の起点だったが、決戦の舞台に東京タワーが選ばれた作品って結構あるんじゃないかな。いくつか思い出せるような気がするが、まぁいい。
もっと古い作品などにもたくさん登場するだろうし、一覧のようなものがほしくなってきた。
スカイツリー
逆に、こちらは一覧を作りやすいのではないか。
アニメ『さらざんまい』(2019)は浅草が舞台なので、登場せざるをえなかった。そこに特に深い意味は読み取りづらいが、モニュメントとして登場していた。テーマのキーワードやモチーフも相まって、円形のパターンがよく採用されていたので、そういったうえでも扱いやすかっただろうか。
映画『万引き家族』(2018)では、川沿い(隅田川だろう)を歩く子供の向こう側にスカイツリーが聳えていた。「あぁ、これは現代の物語なんだな」というのが1番よく分かるシーンで印象に残っている。
パッと思いつくのは、上記の2作品くらいだ。当然、もっとあるだろう。
モニュメント的な建造物
新海誠が新宿ばかりを映すのは新宿が好きだからだろうし、なんなら新宿駅を中心としたエリアはもうそれだけでモニュメントと言ってしまっても修辞的には成立しそう。
『シン・ゴジラ』でゴジラが破壊した目玉は大手町を中心としたビル街とラストの東京駅か。ビル街をモニュメントとしてしまってよいかは悩ましいが、東京駅はまぎれもなくモニュメントだろう。
こういった視線からフィクションなりを読み解く作業、集中してやっていくと割とおもしろそうなまとめ方はできそうだな。
『Horizon Zero Dawn』というゲームをプレイしていた。一応、クリアしたのでメモを残しておこう。2017年のゲームで、『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』と同じ時期の作品だ。当時はどちらがおもしろいかという話題がいくらかあった。友人らにプレイしろと薦められ、昨年のどこかで手にして少しずつプレイしていた。
機械を狩らんとす
このゲーム、世界観をひとことで説明しようとすると、つまり「機械の獣を狩る」ことにある。オープンワールド、至るところに機械獣が息づいている。一方で、ふつうのイノシシやキツネ、ウサギや七面鳥などもいる。そういう環境下で主人公は、自らの出生の秘密を探る旅に出る。機械を狩りつつ動物も狩り、場合によっては山賊などの敵対勢力を処分していく。アンドロイド型の機械は居らんかったなぁ、そういえば。
以下の写真は、Photo Mode で撮影した画像だ。最近のゲームにはこういう機能がつきもので『スーパーマリオ オデッセイ』にも実装されていた。ゲームの終盤になってよく撮影するようになった。主人公の表情もいくつかのパターンがセットされているのだが、あまりかっこよくならない。笑顔がないのがひどい。
終末後の世界を生きよ
ポストアポカリプスというジャンルになる。文明人類の世界はなんらかの理由によって滅びた。人間たちは機械獣におびえながら、共存しながら日々を生きている。そういった人々の生活がある。
メインクエストは、良くも悪くも予想の範疇を越えなかった。順々に進めていくのは楽しかったし、それなりにヘタクソでもどうにかこうにかクリアできる難易度が設定されており(ノーマル)、ともなって達成感も大きい。
サブクエスト、サイドクエストは、世界に暮らす人々に起きた問題や悩みを解決するに充てられる。このクエスト類がおもしろかった。以下のスクリーンショットは、家出した娘とそれを迎える父の図である。このエピソードは主人公に重ねられる部分も大きく、非常に印象深い。
フォトリアルといわれるグラフィックだからか、情感に訴えるイベントのインパクトは強いなぁ。
終末だって人は悩む
どのサブ、サイドクエストも魅力的というのは、それだけゲームの基盤となる世界観がしっかりしているということだ。まぁどうでもいいんだけど、さらに印象深い人物を2人フューチャーしたい。
ニル
もともとは兵士だったような人物だが、作中では山賊ハンターになっている。勇者ではあるが、山賊ハンターを勤しむ自分について何となく悩み、アイデンティティが少し揺らいでいる。
本ゲーム、主人公のアーロイ自身が出自に悩みを抱えるが、クエストの対象もさまざまな悩みを抱えている(そりゃそうだけど)。この山賊ハンターのニルは、直接の救済対象ではないが、彼の心理面の深層を想像すると、救いを求めている類の人物であることが察せられる。なかなか悩ましい。
以下の写真は、主人公と2人のツーショットである。仲よくしてほしい。こうやってみると、ニルの防御力は低そうだな。
ペトラ
技術者としてのアイデンティティを持つ一族の女性技術者である。よくわからんけど、おそらく作中のふつーの住民のなかでは1番の技術力を有しており、よくわからんけどカッコいい。なにもわからん。
いま思いついたのだが、このゲームの登場人物は衰退した文明のなかにあって、知性があまりよろしくない。それは仕方ない。そして知性の伴わない強さとは、より歪なものになってしまう。たとえばニルがそうだ-いや、ニルは知性を持ちあわせているから悩んでいるのだが。
作中では、そういった不安定さがうまくバランスされていて、表現されていて、主人公もそのような課題を持ちあわせつつ、どうにかこうにか成長していく。だが、彼らのなかにも2つのバランスをうまく持った人間がいる。 ペトラは知性も強さも持ちあわせ人間なのだ。いやぁ、美しいですね。
束の間の休息をくれ
本作、めちゃくちゃおもしろくて、不満はほとんどないのだが、ひとつだけ要望がある。主人公を休ませてやってほしい、それだけだ。以下のシーンはネタバレ気味になってしまうが、数少ない主人公の休憩シーンである。
あー、楽しかったなぁ。
オマケ
エンディングのクレジット、日本人の名前ないかしらと思いつつ、作業半ばにダラダラと流していたら、ありました。小島秀夫をはじめとした日本人チームの名前リストがありました。Special Thanks ということです。
小島さんのスタジオの新作『DEATH STRANDING』も本作と同じエンジンを積んでいるという話も目にしたので、まぁそういうところでつながりがあるんですかね。
なお、この記事を書いている最中に「PlayStation Hits」に登録されることが発表された。 2019年6月27日からダウンロードコンテンツを含めた廉価版が購入できるとのことだ。 いいですね、もっとたくさんの人たちにプレイしてほしい。
タイトルに深い意味は無くて、昔から遮光カーテンを使って生活しているのだが、現行で就寝している部屋はカーテンを用意できない(していないだけとも言える)小窓がある。そこから朝の明かりが入ってくるので、ちゃんと目覚められる。そんなら遮光カーテン自体が要らないのではということになるのだが、そこは気持ちの問題なのだ。
モロー展での照明、特に明記されていなかったと思うが、パナソニックミュージアムだということなので、パナソニック製の照明機器が使われていることだろうと思う。見上げてみると、円筒状のライトだった。はて、これはいつか東京国立近代美術館の山田正亮展でも使用されていたのではなかったかと思ったが、どうにも確かめようがない。
といったところで、以下のリンクを見つけた。
山田正亮展のライティングは、 株式会社灯工舎の藤原工さんの仕事だったらしい。へぇ。この展覧会でのライティングはとても高く評価されていた。 たしかに美しかった。だからこそ照明器具も印象に残っている。あの展覧会では、機器についてもフィーチャーしていたような気がするが、やはりもはや情報は出てこない。
美術館でのライティングについて詳しいわけではないが、ライティングを意識するというのは割と便利な面があって、つまるところ鑑賞する対象との適切な(と思われる)距離と角度の目安になる。
ということで、引き続き、読書灯が欲しい。