人は足りないものを補い合って生きる|《大いなる幻影/La Grande Illusion》

《大いなる幻影/La Grande Illusion》を観た。1937 年の作品だ。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 5 作目となる。監督は、ジャン・ルノワールで、ここからは 1930 年代のフランス映画となる。

導入はあっさりしていて、展開にしても起伏が掴みづらいので丁寧に楽しまないと味わいを損ねかねない作品ではないか。なお、自分が丁寧に楽しめたとは思わない。

第 1 次大戦中のドイツ領域内での捕虜を扱っている。

冒頭、フランス軍の大尉ポワルデュが気になる地点があるので戦闘機を飛ばせと指示する。「手配します」と空軍兵士が返答したのち、画面は切り替わる。ドイツ軍の前線基地で、フランス軍の偵察機を撃墜したと騒いでいる。この時点で、ポワルデュと空軍の中尉マレシャルは捕虜となっていた。

三幕構成といっていいのかな。最初の捕虜収容所での脱走計画を中心にしたやり取り、次の収容所でマレシャルと同じく中尉のユダヤ人:ローゼンタールが脱走を実行するまで、最後にマレシャルとローゼンタールがスイス国境で戦争未亡人に救われた顛末まで、となる。

階級かあるいは連帯か

ふたつ目の幕の収容所の所長であるラウフェンシュタイン大尉はポワルデュ大尉に好意的、というか同族意識を持っている。彼らは元来が貴族階級で、戦前から間接的には縁がある。ラウフェンシュタイン大尉は、時代の移り変わりとともに無くなっていく貴族階級への郷愁をポワルデュと共有したい。

一方、マレシャル中尉は捕虜期間中をポワルデュとずっと共に過ごしてきた。別の捕虜仲間に愚痴をこぼすには、ポワルデュはそもそも身分が違う。どこかで壁がある。いい人間だとは思うが、疲れてしまうときがある。というような旨を述べる。

ポワルデュが軸になっている。

マレシャルもポワルデュも脱走する気は満々なのだが、どういう次第か、ついにポワルデュは自分が囮になることを決意する。「私は逃げない」とは伝えるが、そのことはマレシャルには伝えない。

マレシャルは「なんであんたはいつも一定の壁を作るんだ」とポワルデュに食って掛かるが、彼は「これが私だ。母に対しても妻に対してもこうだ」のように返答する。

私は本作のハイライトはここだと思うんだよね。屈折的には収容所所長がポワルデュに仲間意識を抱いており、そこに注目しやすい。しかし、当たり前のことだが、身分や階位の差こそあれど、ポワルデュはマレシャルやローゼンタールの同胞なのだ。さらに所属こそ違えど、ポワルデュのほうが階位が高く、少なくともそこに、ポワルデュは何らかの責任感を抱えているのでは。

ポワルデュ本人の描写だが、登場当初こそいけ好かない人物かと思わせておいて、他の階級の兵士たちとも差しさわりのない範囲でフランクに接するし、めちゃくちゃ情と責任感に厚い人間だったのだ。ポワルデュは彼を気にかける所長からの友情、脱走して故郷に帰りたい気持ち、マレシャルたちとの連帯のなかで彼なりに悩みぬいて出した答えがアレだったんだよ…。ポワルデュ最高!

実際、ポワルデュが笛でおどけながら収容所内を逃走して時間稼ぎするシーンは見ごたえがある。

大いなる幻影とはいったい

Wikiepdia の記載をみると、本作のタイトルはかなり難産の末に苦し紛れに決定したらしい。「幻影」のニュアンスについては、クライマックス直前でマルシャンとローゼンタールの会話で少しばかり明かされる。とはいえ、分かりやすいものではない。

幻影が何を指すのかは分かりづらいが、少なくとも本作で扱われているのは、戦争を背景にして交じり合う身分や階級、国境や人種、戦士と市民、男と女…。言おうと思えばなんでも言えるのでは? とも思うが、実際にそういう作品なのだから仕方がない。

個別の人間の関係のなかにこそ、人間の普遍性やその美しさ、矜持を見出せる。

ところで最初の幕で、骨折して自分の世話もままならないマレシャルの足を拭いてくれる仲間がいたのだが、その仲間の男はもともと測量士として働いていたらしい。それに対するマレシャルの返答もなかなかおもしろくて-演出の意図は掴みかねているのだが、だけどやっぱり本作に通底する部分だと思うんだよな。