2025年初頭、ドナルド・トランプが再選を果たし、就任演説にてアメリカ合衆国を強くすると発言した。すでに聞き飽きたメッセージではあったが、「あ、いまなら『共同幻想論』が読めるな」とピーンときた。

なお、過去に1回、挫折している。20年ほど経つのかしらんが、ブロガーのfinalventさんが吉本隆明についてたびたび言及していたし、自身としても興味があったので、古本屋で古びた文庫版を手に取ったのであった。序盤でチカラが尽きたのではなかったかな。

今回、電子書籍としたがよかったか、年を経た結果か、この本の独特の記述方法がわかった気がした。というか、つまり、大げさに言うと『存在と時間』っぽいのなと認識した。語りたいことを事実的な傍証を持って突き詰めて浮かび上がらせるタイプの理路というか。『存在と時間』の読書体験も、もはや曖昧な記憶だが、さもすると関係のなさそうな事実や記述が、彼(ら)の迫ろうとしている問題を浮かび上がらせる方法になっている、と覚える。

各章のなかで「禁制論」「憑人論」「巫顕論」「巫女論」「他界論」は、主に『遠野物語』を引いている。以降の「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」は主に『古事記』に依っている。後者は別になんでもよかったようだが(抽象度の高い水準では同じような議論に帰着するという意味)、まぁ、これを選ぶのが無難だろくらいのことらしい。

これら各章の副題に、どう繋がりがあるのかわかりづらいよな。古い論述の文章ほどありがちで。現代的には下手くそかよって話ではある。読み進めてみると、えっー、くっそ凄いやんけ、なんだこれ、議論の射程にビビるじゃん、となった。

もちろん、本書の論理を理解しきったとは言わないし、なんなら「共同幻想論」というテーマについては、前書き部分だけで大枠はつかめるのでは? とすら思う。が、上述のように、はじめて読んだときは意味不明にすら思えた章立てが、今回は明白に、細いつながりで連なっているように読めた。

ということでメモである。

ざっくり共同幻想論とは

人間、自他を客体としてしか語りえない、および語るしかない。このことを前提とするとき、自分、他者(1名)、その他多数というような次元で捉えるとよかろう。特に、多数を「共同幻想」と位置づけよう。こうやって、目の前に立ち現れる思考の対象を見立てると、あれまスッキリいくんじゃないですか、フロイトもヘーゲルもなんのその、といったことと思われる。そして、たしかにそうだなぁ、となる。

序文では、西洋とアジア(特に日本)の国家観の相違を根底(問題提起の源泉)に話を始めているが、これは私としては大差ないのではないかと思う。いわゆる(悪い)ナショナリズムとして論じられることが多いと思われるそれは、吉本が問題としたかった思われる袋のような国家観念だろう。ジョージ・オーウェルなんかは、読む機会はなかったのかな? などと思った。後知恵であるが。

対して、対幻想については謎というか曖昧さが大きく思われた。あるいは、かなり際どい立て付けになっているか。

「禁制論」

法以前の「禁制」が社会には根源的にあるという話だろう。「未開の社会」とも言っている。当然、それはフィジカルな共同体の中で成り立つ。「禁制」と「黙契」がどのように違うのか? 日本社会(?)の根源では、そこにあんまり差がないと言っているようだが、これも別に日本に限らんのではないか。黙契は習俗的だが、禁制は権威化する、というような話は納得的だ。”Do not” は明文化される。

『遠野物語』を引いては、共同体の外側になにかしら危険な状況が想起させられるところには、共同体が自分ら自体を正当化するようなルール(禁制)が成立しうる、というところなんだろうか。それは個人の体験として語られるが、決してそうではない(個人の体験ではない)という点がポイントかな。

「憑人論」

入眠体験だか朦朧とした意識だか、柳田國男を介して吉本は注目する。「始原的なもの」「他なるもの」「自同的なもの」がそれぞれフワッと感覚、体験され、逆立(独特の用語に思われる)して共同幻想に還元されていくというような話で、つまり共同体における人間の体験として共同幻想が成り立つ。

先ほどの話もそうだが、逆立が起きないと、そもそも3つの幻想のフェイズは交わらないので(個別には1対1か)、これは大切だという話だ。特に、『遠野物語』においては何かしらが憑いた状態の人間の存在と、その物語が、ある共同体とそこに属する個人の意識をつないだり、切ったりする。再確認である。

また言い換えると、この憑人は、普通の人としては扱われない状態でありつつ、共同体の利益、損得の代弁者でもありうるという。

「巫覡論」

問題は引き続き「憑き」にあり、狐憑きの話題になる。なるほど、先ほどまでは忘我のような状態、そのような人間一般が共同体(の幻想)との接続点であったが、「忘我」の代わりに「狐」が登場する。抽象的で、状態としてあったものが、アイデアルではあるが具体的な対象にはなったワケだ。

で、もうひとつ『遠野物語』における視点で重要なのは、根源的な共同体における家の原型、つまり男女の対幻想がどう絡んでくるのかという点で、どうもこのアイデアルな存在が女を、女に引き寄せされるような事態があるのでは? という、そういう話と読んだ。前半の部分で少し対幻想について語られるが、十分には思われないというか、よくわからない。

「巫女論」

其のような存在が女性であった点について、なんで女性であったかは、なんかの利害がそうさせただけでしょ、と吉本は言う。不必要な理由づけをする必要はないという程度の意味と思われる。それはわかる。が、その利害は、割と限定的なんじゃないのという気もする。が、ここでは別にそれについては触れない(が、実は本書全体の後半は、半分くらいはその話をしている気がする)。

いずれにせよ女性が、共同体をそれたらしめる幻想の根源のアイデアルな存在となって機能するとき、その本人は対幻想をどう処理すんの? みたいな疑問が呈される。よくわからん。あるいは『遠野物語』では、実は巫女は主役にならないんやで、という種明かしがある。おいおいお。

少し論が進むと、「シャーマンが男であれ女であれ、〈性〉が問題なのではなく〈異常〉な言動ができる人間が問題なのだ。」という。そりゃそうだろ。吉本さん自ら最初に、利害がそうさせただけと言ったじゃん。女性性にこだわる理由は、それをフィックスして考える限りにおいては機能するだろうけど、そこから何が開けるのかはかなり疑問である、とは読者的には言える。ずーっと通底するテーマだが。

疑問をそのままに、話がまたひっくり返るが、とはいえ同時に、フィジカルに女性がそういった役割を背負った事例があり(男性が似たような役割を背負った事例もあろう)、そのような共同体でどのような立ち回りが起きたのか、共同体が運営されたのかは考察の対象足り得る、というのは、それはそれで事実なんでしょう、という具合である。

「他界論」

ところで、自己幻想が自らを他者化したときに起こることとし、対幻想が他者をまさしく他者化したときに起こることし、果ては我々が共同幻想を他としたとき、これは共同幻想の外側を措定できるのか? という話が、「他界」として語られる、と読んだ。

これは「禁制論」あたりの議論とオーバーラップするところがあるのか? 共同体の外がに出ること自体がタブーあるいは未知、危険の象徴そのものである(あった)こと、究極的にはそれは体験不可能な死であることに議論は帰着するようだが。

雑な視点を持ち込むと、共同体にとって人の生死はそれだけで利害そのものといえることに異論はないだろう。議論では他界の時間制や空間性が云々と理屈がこねくり回されるが、特に意味を感じない。いわゆる姥捨て(とりあえず爺でも構わん)山と呼ばれるような風習がそれなりに存在したことも事実のようだし、それ以上でも以下でもないよな、と。

問題は、そういった利害のなかで観念的な共同体の外という概念が、やはり具体化され(そりゃ実際にあるワケだし)、あるいは禁制なり黙契なり宗教なり法なりのパーツにもなったのだろうし、それが共同幻想の強度を上げる、というあたりなんでしょうかね。そういう意味でも「死」は、個人のものではなく、共同体ひいては共同幻想に属する。当然のように思えるが、要するに、実はテーマは死であった。

「祭儀論」

メモを読み返すと、このセクションの前半部分が、実は本書の核心という気もする。ライプニッツのモナド論みたいな狡さというか、何でもあり感がある気がしてきた。理屈の展開としてはありなんだろうか。

再度、逆立である。自己幻想と共同幻想の重なり合いはどんな感じなんじゃろかという話だけど、そりゃ無限(可能性としては如何にでもなる)という話である。そりゃそうだわね。ただし、共同体(共同幻想)のなかに自分がいるという自覚(自己幻想)が形成されるには、共同幻想が先にあるという意識が先ずは生じるやろな、という話になる。

メタ的には死の話題で前章までをいったん締めくくり、生(誕生)の話題に移っていく。

さて、そこで、家族(対幻想)の出番ですよ。ということなんだが、どうなんだろう。対幻想という幻想が幻想な気がする(ベタなトートロジーだけど)。まぁいい。この疑問はそれはそれだ。

なんでもいいけど、人間の人格(自己幻想、および其のひとの共同幻想)の形成には、時間がかかるよね。そんななか、個人と共同体は、対幻想を介して、特に根源的には〈受胎〉〈生誕〉〈成年〉〈婚姻〉〈死〉を繰り返した。そしてそれは古くは、「〈死〉と〈復活〉の交替であった」と述べる。

で、ま、『古事記』を引きながら、いうてその現場にかかわるのは女性じゃんという話になる。はい。「巫女論」の前半と矛盾的というか、それこそが利害そのものの根源じゃんという気もするが、これもこれで、とりあえずはそういうものとして話は進む。

が、まぁなんというか、ここ(この手の議論が繰り返されるところ)はそんなに面白くない。大和政権なり天皇制なりの萌芽が農作という技術、そのうえで安定した共同体、社会を拡げていったなかで、豊作なりを祈る儀式を形式化、抽象化していったとか、その祭りの形態が対幻想的であったり、変化の過程で共同幻想(抽象化そのもの)に昇華されていったといった話だ。

さて、なんの話をしてるんだっけ。

「母制論」

根源的な社会には、あくまで「制度」として「母系制」や「母権制」があったことは認めざるを得ないようだ、という前提がある。いろいろと前置きはあるんだけど、「 〈母系〉制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の〈対なる幻想〉が共同幻想と同致しえたときにだけ成立するといえるだけである」と言う。

で、次に問題となるのは、男女の兄妹・姉弟における対幻想こそが、いずれの状態においても「無傷」で対幻想であり得るという主張だ。なるほど、それはそうかもしれない。これは私の想像だが、家族という共同体とそれを含む社会という共同体の利害を調停する役割が兄妹・姉弟という存在に、原理的に組み込まれているのでは、ということみたい。

家族で血のつながりがあるのは兄弟姉妹だけだからね、というのは一般によく言うが、極端にはそのことだよな、とはなる。

「対幻想論」

再び、引用から入るが、「〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した」という文言がある。これも別に(論の理念的には)男でも女でも構わないんだろうけど、「母制論」の議論に従えば、男性のほうがそういう役割を担いやすいということにはなるだろう。そして、引用元とされる『古事記』としてもだ。

さらに、引用する。「男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想) のなかに個人の心(自己幻想) の問題がおおきく登場するようになった」と述べる。なんのこっちゃ。

ここで漱石の事例が登場して勘違いしそうになるが、上述の事態はおよそ人類的な共同体が成立しはじめたときから起きたことなんだろう、決して近現代的な問題ではなく。また、この意識の発現が脳の進化やらなんやらを発端とするかはしらんけど、雑に括ればメタ認知ってのの問題であるような気もする。

で、神話が持ち出されるには、「独神」や「男神」「女神」などが居るが、要するに反復的で、神に性という具象が付与されたとき、そこには時空的なリアリティのある抽象が生じ、「共同幻想と〈対〉幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされた」らしい。逆立したと言ってもいいのではないか。このとき、世代という概念と親子の交わりが正しくタブーになったのだろうと予測されている。

いままでの議論であれば、このタブーも単なる共同体の利害に一致しない故に生じたというだけだったと思うが、ここはおそらく次の「罪責論」との接続として抽象化して述べられたのだろうか、何とも言えない部分を含んでいる。

「罪責論」

「〈神話〉はその種族の〈共同幻想〉の構成を語る」らしい。ここまでの説明を聞いてくる限りでは、そこには異論はない。共同幻想を何と見るか、という疑問はありそうだが、それはそれとしておく。

で、この「罪責」というのは、この文章では具体的にはスサノオの振る舞い、役割にあてられている。吉本の言うには、根源的な社会が農耕社会そのものの成り立ちと寄り添っている限り、そこにおける倫理的な問題も、同じように農耕にかかる問題だったんじゃないのというワケだ。はぁ。

もっというと、アマテラスの神権とスサノオの政権(この辺は「祭儀論」で与えられた前提)がなんらかの形でバッティングしたんじゃないの、と言う。同時にこれは、姉弟(兄妹)における対幻想であるため、夫婦などのそれよりも強固である(これも反復だね)。

また、アマテラス-スサノオ的な共同幻想は、少し時代が下ると、主役からは引き下げられるという。例えば、ヤマトタケルのような例は、父制っぽいということだ。たしかに。話題はここからエディプスコンプレックスと似たような話となっており、意図的であって「対幻想論」での論調と地続きなのか、ステップアップ(飛躍)を意識してるのかは、私の読解力からは判然としない。前者であれば、単なる段階の差の問題とも言えそうではあるけれど。

想像するには、農耕社会においては土地の所有が生じ、その段階においては次第に限度が生じる。共同体(あるいは家族的な対幻想)における利害の発生は、おそらくまずそこに根差すのではないか、というような気はするが、証明のしようもないだろうし、事実らしいと思われても、そこを深掘りする価値はあまりなさそうだが、どうでしょうね。

まぁ、ただ、ここでは要するに権力の問題に移行したいようだ。

「規範論」

冒頭の「禁制論」から始まり、いくつかの論を跨いでから前セクションの「罪責論」に至り、とうとう「規範論」に及んだ。一方、宗教はもともと「憑人論」あたりでその萌芽的な概念は論じられていたが、「対幻想論」「罪責論」でよりハッキリし、そしてここで「法」を引き合いに出して語られる。また、政権に引き続いて「国家」が登場してくる。思えば遠くへ来たもんだ。

ここでは、宗教が法、ひいては国家へという順で論じられるが、その前提がどんだけ正しいのかはよくわからない。神話における規範(なんなら禁制でもいいと思うんだけど)が法の形をとるとき、その主体となる人は、共同幻想の象徴と言える、とある。これも当然のことで、それこそがルールだからだ。

また、『古事記』においてなぜスサノオが罪を負わさせられたのかと問う。〈天つ罪〉〈国つ罪〉だのと述べられるが、本書全体の視点からは脇道に思われ、要するには、根源的な共同体における利害の矢面に立つのは男だったから、じゃないのか? ここまで論じられてきたことにも拠るだろうし、雑に言えば古代ギリシャでもローマでもいいけど、法を立てるところには、残念ながら、男しか出てこない。

雑にまとめると、そういう話に思われる。

「起源論」

最終セクションだ。が、もうここの内容には触れない。感想をまとめる。

「後記」にあるが、もともとこの論考は、前半部分が連載で、後半は2段階ほどに別れて追記されたらしい。なるほどね。いや、このセクションにも無理があるんだよなぁ。前半への反応が必要とさせた文章である気もするし、時代が求めた文章だったのかなという気もするが、深入りはしない。

本書は、共同幻想論であって、それは国家論とはまるっきり一致することはないと、読者である私は思っている。もちろん国家も共同幻想論を介して論ずることはできるが、それは具体的なフェイズにおいては、冒頭あたりでも述べられていたように抽象度が変わるので、すべてがうまくフィットするとは限らない。あるいは、対幻想、自己幻想のフェイズに逆立するだろう。

この感想の冒頭でも言ったように、そもそも問い立ての部分が、(悪い)ナショナリズムに引っ張られているところがあるだろう。それが古来より日本的なものなのか、はたまた中世、近代、現代の日本で特に強く熟成されたものか、それを考えるのは別の問題だろうとも思う。つまり、私は(大方は)古来よりの性質とは思わないと考えるワケだけだが。

幻想の領域とは

後記にて「本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想の在りかたからはじまって、〈国家〉の起源の形態となった共同の幻想にまでたどりついたところで考察はおわっている」とあるけれど、平たく言えば、人間の社会はここから変わっていないのではないか。ごく雑に言えば、テクノロジーが進歩し、ヒトやモノが増えただけ、法が複雑化しただけではないか。

あるいは近代から現代の国家とそれ以前を比べるということにも意味はありそうだけど(当然そういう専門の研究は無限にあるよね)、共同幻想という観点からは本書と同じような証拠の並べ方、論調の変奏になりそうなので、あんまり意味が無さそうだ。

話は変わる。吉本隆明の経緯や時代背景から、ヘーゲル思想に寄せて語られるシーンも多いように思われる。実際、ヘーゲルを引用している個所も多い。が、私が読んだ限りのヘーゲルとはあんまり似ていないというか、ここには、いわゆる西洋哲学の伝統的な統一理論への志向はないように思う。

図像のようにイメージすることが許されるなら、それぞれの幻想はどちらが大きいケースもありうると考える(肥大化した自己幻想は病気だよねみたいな話は序盤にあったけど)。また、諸形態(あるいは3分類以外の)が少なくとも想像しうる限り、その外部との接点は確実にある(もちろん究極的には其れを空想と呼んでもいいと思う)。こうなってくると、個人的に、この感覚と視点は、現象学に近いような印象がある。うまく言語化できないけど。

また、利害という考えがたびたび登場し、これは非常に便利だし、考えるべきことなんだけど、功利主義的な観点なのか、それともマルクス・エンゲルスあたりが前提なのかね。後者なんだろうけど、個人的にあんまり興味対象としてこなかったので、あんまり勘所がわからない。

神。多神論とかアニミズムって、原始的な宗教形態であるというイメージがあったが、本論を読むとそれはちょっと違う気もしてくる。神というイメージがまず具体的になったあと、さまざまな利害のシーンで更に具体的な神が生じるとする。

この抽象性の操作は、原初の神というイメージよりも手順的にはのちに生じるワケだろうから、そもそも一神論みたいなのは根源的ではあるけど、だからこそ古臭いシステムなんじゃないの。逆説的に、その抽象差が便利だから、これ以上でも以下でもないのだろう。殊、権威と結びついたときの威力は担保される、そういう仕組みというだけだろう。

あるいは論。科学万能でも象徴主義でも陰謀論でも、なんでもいいけど、私たちは信じられる器によって生きているわけで、吉本隆明の具象化しようとしたそれが共同幻想を指すとしたら、これは非常にシンプルな感想に過ぎないが、やはり説明としては非常に上手い。スゴイ!!

しかし、幻想ってどういう意味なんだろうな、彼の指す意味にしても、一般的な意味も含めても。さらには、やはり問題は対幻想にあるのではと最後に述べておく。というか、現代的なシーンにおける対幻想ってなんだろうな、あるいはそこに立ち向かうにあたっての自己幻想の在り方が、更なる問題なんでしょうかね。

このあたりで終わりにします。

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