やって参りました、これが 2024年の風景ですか。いまさら感がありますか?

思えば遠くへ来たもんだ。北陸を中心とした地震、伴うように発生した羽田空港の事故、秋葉原は山手線での刃傷沙汰、西新宿のマンション火災、追うようにニュースが続くなかで、乾燥に喉をやられてしまい、ようやくそれも回復に向かってきたかなという1月5日は金曜日の午後です。被災され、混乱や苦労のさなかにある多くの方々については、できることも少ないながら、応援し続けたいと思います。

本年の目標、いくつか立ててやっていく。個人的には下記のリンク先の記事を読んで24のささいなリストを立ててみた。これは別にこの雑記には明記しない。

厳しい誓いを1つか2つ立てるのではなく、それよりずっと楽しくて創造的な「2021年の21項目」のリスト、つまり今後12カ月に取り組むことをまとめるのだ(年が変わるごとに、リストの項目は1つずつ増えていく)。

上記の引用部分が肝要ということだそうで、はい。なお、引用文は2021年スタートだから21項目だったというだけのこと。

今年をどうやっていくか

とりあえず、今年の目標でも前年最後の反省に沿って書いていく。一応、ここ数年は下記の占いなども参考にしている。占いを信頼どうこうよりも気楽だからという面が大きいが、少なくとも書き手の筆力は信頼している。参考になれば。

どうやって自分なりに社会的に生きる

2023年までのことはすっかり忘れようと思う。もちろん、既存の人間関係は最低限の礼節をもって守りたい。人間は社会的な動物であると言ったのはアリストテレスであるが、これを現代的に問い直したのはアーレントだっけか? アーレントは通しでちゃんと読んだことが無い。古代ギリシアにおける社会的であること(政治性)というのはさておき、利害の調整こそが人間の醍醐味だとしても、だからこそ、そこに立ち返って、それを忘れていきたい。

くそ抽象的に書いたけど、そういう生き方をしたい。周囲に得をさせない、もちろん損を招くようなこともしない。とまで書くと、私本来通りの生き方であった気もしてくる。「期待させない」とまで言っていいかは悩ましい。

インプットのスタイルを大人っぽくする

年をとったということに尽きるのだが、逆説的に他人のいろいろに接して世界の有限性を感じることが増えた。精神と時の部屋でもあれば籠って百科事典でも捲っていればよかろうが、そうもいかない。しょうもないことを中心に据えた人生を送りたいという不真面目な自意識を変革する欲望もないが、摂取する情報や学習スタイルはちょっと変えていきたい。

ただあれだね、人文的なインプットが多めになっているので、アウトプットも含めてもう少し理数寄りなインプットもできれば強めたいな。

インターネットと距離を取る

皆のことは好きだし、これといって具体的に行動を変える目標も意図もないけど、あえて宣言だけしておく。なお、スマートフォンからの通知は日々減らすつもりではある。インターネットって何かというと、昨今はもうすでに之は SNS と同義でしょ。既存のマスメディアは別枠としても、代替的なメディアでよっぽど参考になるものも少ない。

YouTube、その他の動画を観る機会は増えているが、これらのコンテンツも CM も Web ページや TVCM に流れてくる広告よりはマシだなという現状がある。拒絶の手段が明確である点からしてなおさらだ。

お前ができる気候変動対策はなんだ

身近な範囲において、通年で何ができるかというと、無駄な電気利用を減らす。電気に限らず、不用意な資源の消費にはなるべく関与しない。啓蒙、啓発に少しでも役立てることをするなどだろうか。『FACTFULNESS』は読んだことはないが、内容の個別な指摘は正しいとしても、結局のところ、人間の生活環境が脅かされる時代においてその対策にコミットできない社会、人間じゃアカンとは思うのよね。

捕捉でもないが、私は気候変動懐疑論者ではないが(そのような姿勢も必要とは思う)、気候変動は確かであって、そこに人間活動がどれくらい寄与しているかは未だによくわかっていない部分があるものの、上記の主張については変わるところはない。

健康的に生きよう

昨年末だったかな、週に2回以上の筋トレは必要みたいなのが報道されていたので、それくらいは無酸素運動やろうかなという気分なので、とりあえずそれを目標とする。昨年は秋ごろの一時期はちょっと習慣化してた。ウォーキングの類は、2000歩でもいいとか出てたけど、つまるところ10,000歩は歩きすぎとしても8,000歩前後とあとはニーズによってってところでしょ。摂取量が多いと、2,000歩程度じゃ増量への直線には間違いないし。

アルコールは減らしたいですね。

日本社会をどう見据える

日本社会を構成する成人として、大多数に影響を与える目的や目標、手段も特にないので、小市民的に生きるのみ、ではあるが、それなりの良識や倫理観、道徳心があるとすればそれを維持したいのは当然ではある。ここまで書いたことと関連させるとすれば、インターネットかな。インターネットで交わっている多数の人間らのメッセージというのはほとんど愚昧で、とはいえそこから社会の方向性は定まっていくのだろう。が、このバランスが私にはよくわからん。

岸田政権がよいとは思わないが、結果的に2年ちょっと続いている事実については「ようやっとる」というべきとは思う。明日には終わってもいいのだろうけれど。追認というのが適当かはしらぬが。都道府県政や市町村議会はどんなもんなんすかね、なかなか気が回らないが。

仕事についての姿勢を正す

生きるに足る。仕事、社会に尽くすに足る分だけは正しく動く。

アウトプットを問い直す

インプットに関連するが、伴ったアウトプットは必要で、これは個人的な目標とリンクするはずなパーティションで、そのへんについての自分なりのビジョンは、2023年でそれなりに変容やフィックスがあったなという自覚はある。

ツールに限った話ではないが、まぁそのように切り取ったほうが言語化しやすいのは確かで、まぁこれは、この記事のように何かしらの形をもって垂れ流されていくでしょう。誰かの眼に留まって、小さいながらも反応があるなら幸いなことであるね。

ノマド、あるいは自由に考える、動く

ノマドワーカーが流行ったのは2013年頃らしい。別にバックパッカー的な生活への憧憬や優雅なワーケーションみたいなことを言いたいわけでも無い。どちらかというとリバタリアニズム的な自意識の拡張というか、人間はもともと移動できる、そういう動物として地球に広がったということを再認識する機会があり、そういえば自分の立場もどちらかといえばそうであるなという自覚があった。良しあしを問わずである。

であれば、それに即した思考からはじめないといけない。それが本年の原点だ。今後の人生をどうしたいかは別として、お前はいま、良くも悪くも、望むにせよ望まぬにせよ、ノマドだ。ChatGPTに問うたところ、ノマドの逆として考えうる言葉は「セデンタリー(Sedentary)」だそうだ。知らぬ英単語である。セデンタリーは、主に同じ場所で定期的な生活を営む、定住的な生活様式を指すとのことで、いうまでもなく現代社会は、この様式に沿って生きるのが常道だ。

ここでは、だからなんだという話に帰着させないが、人間はもっと自由でいい。そういう意識をもって、正月を終えたい。

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