『ハンチバック』を読む。2023年は第169回、芥川賞を受賞した作品だ。作者の市川沙央はいわゆる重度障害者だそうだ。「だそう」と述べるに留めるのは、この種の病状の重みづけの程度を知らないからだ。そのうち彼女は「筋疾患先天性ミオパチー」という病と付き合っているらしい。伝聞系であるのは、Wikipedia からの情報だからだ。

受賞が公表されて 2か月も経っていない頃か、知り合いの読書好き(図書館通い系)は「未だ読んでいない」と言っており、そもそも当人はこの手の作品に興味の無さそうな類であったが、おそらく借りようにも借りれなかったろうな。図書館ヘビーユーザーたちのムーブメントや気持ちは、私にはわからないが、なんだかねえ。

そののち、2023年の11月頃だろうか、ひさびさに大型書店に出向いて散歩していた。本作は文藝の棚に面陳されており、何かしら成果物をと思っていたので、他に目ぼしいパッケージもなく、持って帰ったのだった。分量としてはボリュームもほどほどの本作だが、どのタイミングで読もうかなと普段使いのカバンのメイン収納に入れたまま時は流れて、年末に実家で読むことにした。いはやはである。

ちなみに、本日現在、Amazon でタイトル「ハンチバック」を検索すると問答無用で「ハンチョウ」がサジェストされ、いうまでもなく「1日外出録ハンチョウ」シリーズが並ぶ。この落差よ。著者の市川沙央は、あるいは文藝春秋はこの事実を把握しているのかね。私は別に文藝ファンではないが、どうにかならんか Amazon。

どうしても周辺の話が増える、が、まぁ、そういう作品だよな。時節を捕らえた話題作というのはな。

『ハンチバック』の記述が半ば(という半端な指摘が許されるなら)作者のナマ寄りの叫びであるとすれば、読者はこのフィクションをどう受け止めて何をすべきか、という沼に足を踏みこむ権利があるはずだ、という論調でいく。作家はインターネットのどこかにいるらしく、出逢う可能性は欠片でもあるのだろうし、感想を残す限りは自分に真摯さがほしい。言葉が通じる範囲においては、僕らは自由であるはずだ。

と言っておいてなんだが、あんまり選者評みたいなのや、他の感想は読まなかった。

読書、ひいては書籍というフィジカルがいかに不自由であるかは、私なりにも体験はあって、つまるところ蔵書というのは土地のあるものの権利に過ぎず、だからその類の愛書家を私は憎んでいるし、この憎悪はちょっと表に出したくないくらい汚いので、これくらいにしておくけれど、薄い紙を捲ることにも難儀する主人公の読書一般への憎悪は、なんとなく表現されている、と私がそれとなく読み取った程度の5000兆倍は大きいんだろうな、表されるべきものは。大変だな。

一方で奇妙な接点、といっていいんだろうけど、があった。Evernote(のような手軽な文献管理システム:本書でも登場してたね、サービス名どんぴしゃりで)と、ドキュメントスキャナーの普及や発展には大いに助けられた面が強いよね。仲間じゃないの。自炊(もう「ふつうの」読書家界隈では半ば死語のようにすら思えるが)についての記述には熱くなったよね。

ちょっと話を戻すと、主人公は少なくともフィジカルの本を管理でき、高価な書籍を購入してばらし、電子機器で取り込んで読むことができるほどには愛書家のゾーンに安住しているわけであって、幸せなんだなぁとは思うよ。マチズモだねぇ。作者の方の実生活における蔵書管理がどういうことになってるのかは知らんけども、この辺は塩梅だわね。

あるいは、WordPress や Twitter(タイミングの問題含みでもXでなかったのが逆におもしろいか?)、掲示板のような存在や、未だそこまでメジャーとは言えない(?)だろう Moodle が登場するあたり、本作は苦肉(という表現が適切かはさておき)にも現代の最先端的であり、平らく言えば、これらの知識からちょっとでもズレた読者には伝わりづらい面もあろうなという感触を抱いた。そうです、読書という体験は内容についてすら平等ではないのです。

文藝なり読書なり、あるいはその書き手なりが形成する文化ってのは、インナー志向が強いというのは否めないだろう。そのインナー志向が弱者のためにあるのか、あるいは弱者だった強者のためにあるのかもわからん時代だが、あるいはシンプルにして研ぎ澄ませれば、もっとも歯切れのよいエンターテインメントになることも確かだろうけれど。

たとえば、本作では「エロ」が目立つポイントのひとつとなっているが、ざっくり言うとここには、インターネットに氾濫するエロ(虚実問わず)、文芸誌のエロ、主人公が切に実現を願うエロ的なもの(とその先にあるとされる何か)などが読者の目の前にはあるが、そこに大きな差があるのか、無いのか。いや人間を介しているんだから、どこかしら地続きな面はあるんだよな。

しかし、繰り返すが、こんなエロがある、ということを知らぬと、気味が悪いだけやろなともなるのである。こんなエロを知らないひと、そんなひとは、ストイックさが足りないと怒られるかもしれない。

あるいは、時節柄 COVID-19 が登場する。これは面白いなと思うというか、性格の悪い話というか、笑いごとではないのだが、喉痛や肺炎が重度になった読者諸氏においては少しばかりは他人事とは思えない状況というのが想像できたんじゃないのかなとは思った。私は多少ばかり気管が弱い程度でそれなりの喉風邪には遭遇したことはあるが、大して同調はできなかかった、すまん。

とはいえ、命を賭したあの展開に足を踏み入れる瞬間、まさしく魔が差したんだろう、あるいは知恵がないので、知らぬうちに危険に立ち向かってしまったというピュアネスがあって、そこは非常におもしろかった。似たような状況だったとして、結果が想像できる私は、絶対にやりたくないですね、そこにワンチャン、愛があっても。

物語を通して主人公はケア担当の或る登場人物を「弱者男性」と定義し、彼とのユーモアのあるやり取りを通して、新しい体験を実現させる。彼女の体験は、おそらくは虚ろなものではなくて、少なくとも彼女が生き続ける限りは反面教師的であろうとも、実のある体験となっていくんだろうなと期待する。

特に気になったのは、へぇ「弱者男性」というワードを使ってくるかという感じで、ナウくていいですね。

私はこの言葉をうまく相対化できないので普段から使いたくないのだが、ルサンチマンだっけ(このワードも同様に、または無敵な言葉なのであまり使わないのだが)、これらの表現にはちいぽけな社会への恨みがある存在、という性向を見出した、という理解でよいのだろうか? 誰が誰を弱者と呼ぼうが勝手だけども。

ということは、本作は弱者人間のエロ(あるいはその先)を描いてみたフィクション、なのかもしれない。しかし翻って、自分の欲のグロテスクさに向き合わないと人間は成長しないなと反省させられた。そして読み切ってみると、文藝には、やっぱり夢があるなと思った。私は文藝ファンではないし、愛書家が憎いけど。

で、本作を読んでわたしは如何にリアクションすべきかという問題についてだけど、とりあえずは次回作を読む、というのが最初にやりたいことですね。市川沙央さん、今後は何を書くのかしらんけど、私はジュブナイルが読みたい。普段はジュブナイル小説なんて読まんけども。私達はいつだって強者人間になれる!

あとプロとなった作家さんに言うのもなんだけど、本作を読んでいて小松左京のあの短編を読んでほしいなぁと思ったんだけど、タイトルを忘れちゃった。あと最近見た映画で引用されていた上野千鶴子なんかも連想しちゃったな。

いずれも、なんだったっけな、だけど。

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