《DUNE/デューン 砂の惑星》を観た。

観測範囲の Twitter の映画好きたちの評価は、そこそこくらいだったので、やたらと称賛するメディアとのギャップにやや警戒して臨んだが、杞憂だった。というか、これは期待感の大きさゆえの揺り戻しだろうなと。

大袈裟、または大胆に言って、こんな映画を撮れる監督が今日現在、他にいれば教えてほしい。それくらいの異様な構図とスケール感が、あらゆるシーンを占めている。

スターウォーズの第 1 作を劇場で鑑賞した当時の人間は、この感覚を受けたのだろうと座席で何度となく思った。影響の関係としては順序が逆なワケだが。

異様な画面があった。原作は SF 作品として古典だが、描くビジョンの新鮮さは逆説的に古びない。これこそがイマジネーションの産物だという謎の感動。

しかし、同じスクリーンに入っていたのは割と若者世代が多く、それぞれがどういう感想を抱いたかは別にしても、それなりの期待感をもって来場したことは事実だろうから、なんかいいなぁと思った。

お話としては、まぁよくあるというか、偉そうなことを言っておいて、原作を読んでいないのだが。皇帝とその貴族たちの争いと、その背後でパワーバランスを操る宗教的な集団などがある。その宗教的な集団は、超常的な人間の能力とその秘術みたいなのを継承しているっぽい。

で、まぁ惑星 DUNE の現地人たちを巻き込んで、主人公ポールの巻き返しが始まるのだろう。

既読組のひとたちは「予習してから見に行け」とおっしゃるが、それほど複雑でもないだろうというのが本音ではある。

こまごまとしたことなど

サンドワーム

サンドワームが登場するのは知っていたが、どのくらいのスケール感なのか不明だった。そしたらいろいろな大きさの子がいるみたいですね。冷静に考えれば、そりゃそうか。バカバカしいくらい大きくて、大きな機械がスルっと飲み込まれるサイズの大きな口には笑ってしまった。

砂漠の逃亡劇が始まるときの、現地の調査員だかの女性が試みたことはすぐにわかったのだが、これをクライマックスでチラ見せしてくるあたりは、シリーズ物を感じさせる流れであった。

ポール

貴族の公子っぽいフワッと軽くて未だやや不安定な雰囲気がピタッとしていた。本作で面白いなと思ったのは-もちろん原作由来だろう、DUNE の自室でホログラム映像を見ながら、現地の植生とネズミを観察しつつ、フレメンの歩き方をちゃんと学んでいるところだ。

このシーンで、侵入してきた暗殺用の小さなロボットを避けるためにホログラムに混じって息をひそめるところは最高に好きだ。なんだろうね。

母と砂漠に投げ出されたのち、この映像で学んだことが生かされるのだが、この場面転換でもネズミが登場する。うひひひ。

戦闘描写など

割ともっさりした描写が多かったと記憶しているが、これもどちらかといえば好き。あんまり派手な殺陣って、「これホンマに?」ってなりませんか。プロレスならまだしも。シールド兵器の性質込みで、本作の戦闘って重々しいというか、スローみたいになるというか、そういうところがある。

居合みたいな緊張感というと、それには及ばない気がするので、そういう意味では中途半端ではあるのかもしれない。

ハルコンネンあるいは弐瓶勉

ハルコンネン男爵も異能の使い手という点では間違いないのだろうが、彼の軍隊が出国するにあたっての妙な儀式とか、わたしは『BLAME!』などの特に初期の弐瓶勉作品を連想せざるを得なかった。これももちろん原作からイメージがあるわけだろうが。

となると、ヴィルヌーブ監督の描くスケール感と弐瓶勉のそれとのイメージの類似も気になってくるわけで、そんなことばかり考えていた。直近で完結したが『人形の国』も割と砂漠然とした風景ばかりであった、そういえば。

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続編、または完結までの制作は現時点でほぼ決定の方針らしいので、ちゃんと楽しめるように生きていきたい。

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